https://x.com/films7/status/2065116025402564718?s=61
ニーチェ / リヒャルト・ワーグナー / プルースト:詩人の仕事とは、その夢を翻訳することである。
フリードリヒ・ニーチェ:「さて、芸術的感性を持つ人間は、夢の現実に対して、哲学者が存在の現実に対して振る舞うのと同じように振る舞う。彼はそれを細かく、喜んで観察する。なぜなら、これらの絵画の中に、彼は人生の解釈を発見するからだ。これらの例によって、彼は人生のために鍛錬する。
マイスタージンガー中のハンス・ザックスが言うように:
「友よ、詩人の真の仕事とは
その夢を書き留め、翻訳することだ。
信じてくれ、人間にとって最も確かな幻想は、
夢の中で彼のために花開く:
すべての韻律と詩人の芸術は、
夢の真実の表現にすぎない。」
そして、もしかすると何人かは私のように、夢の危険と恐怖の中にあって安心し、「これは夢だ! 終わらせたくない! もっと夢に見続けたい!」と叫んだことを思い出すかもしれない。
また、ある人々は、同じ夢の因果関係を三晩連続して、さらにはそれ以上も延長する能力を持っていると聞いたことがある。これらの事実は、私たちのもっとも親密な本性、私たち全員に共通する奥底が、夢の中に深い喜びと必要不可欠な歓びを見出すことを、明瞭に証明している。」
ニーチェ:『悲劇の誕生』
マルセル・プルースト:「私は気づいた。この本質的な書物、この唯一真正の書物、偉大な作家は、通俗的な意味で発明する必要はない。なぜなら、それはすでに私たち一人ひとりの内に存在するからだ。彼の仕事は、それを翻訳することにある。作家の義務と任務は、翻訳者のそれである。」
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
演出:バリー・コスキー
バイロイト 2017 - リヒャルト・ワーグナー
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie、DBE、旧姓:ミラー(Miller)、1890年9月15日[1]- 1976年1月12日[2])は、イギリスの推理作家。66冊の探偵小説と14冊の短編集で知られ、発表された小説の多くは世界的なベストセラーとなり「ミステリーの女王」と呼ばれた[3][4][5]。特に架空の探偵エルキュール・ポアロと ミス・マープルを主人公とする小説で有名である。メアリ・ウェストマコット(Mary Westmacott)名義の小説が6作品ある。
1971年、大英勲章第2位(DBE)に叙され「デイム・アガサ」となる。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。
ユネスコのインデックス・トランスラチオヌムによると、最も翻訳された作家である。小説『そして誰もいなくなった』は、約1億部を売り上げ[6]、史上最も売れた本の一つである。戯曲『ねずみとり』は、演劇史上最長のロングラン記録を持っている[注釈 1]。
日本語表記は「クリスティ」と「クリスティー」がある[注釈 2]。
アガサ以外の人間が書いてる??
ドラマにして欲しい作品
https://ameblo.jp/kaedemarple/entry-12217822870.html
読書週間日記ラスト/Aクリスティー「フランクフルトへの乗客」
読書週間ということでつづけてきた今回の日記だけれども、今日が最終日ということで取り上げるのは自分がファンであるアガサ・クリスティーの作品である。
ただ今回取り上げるのはクリスティー作品としてはマイナーで、どちらかといえば評判のよくない単発作品の「フランクフルトへの乗客」である。
本作品は当時クリスティー80歳80作品目として大々的に宣伝されたそうだけれども、物語はそれまでのクリスティーの作風とは大きく異なりミステリーではなく、作者が前書きで書いているところによるとコミック・オペラ、本質はファンタジーだそうである。
自分はアガサ・クリスティーのファンだけれども、正直言って作品の出来としては決していいとは言えないのだけれども、それでも今回取り上げるのは妙に印象に残っていることとある意味で時代を先取りをしていると少しは再評価されてよいのではないかということで、最終日にこの本を選んだのである。
さすがのクリスティーといえども80歳だっただけに物語として全体的にゆるい印象で(ただ自分が一番好きなのはこのあとに発表された「復讐の女神」だけれども)読んでいて「全盛期のクリスティーならもっと上手い具合に物語を扱えたのだろうな~」と終始感じた。とはいえところどころいかにもクリスティーらしい部分があり、たとえば冒頭…人生に退屈した外交官が自分に瓜二つの美女にある提案を受け、睡眠薬入りの飲み物を自ら飲むことになる。それが本当に睡眠薬なのかそれとも毒物なのか一切わからない状態にも関わらず飲む干すのである!その理由はあまりにも人生に退屈していたために…
第一章はいつものクリスティーらしくテンポよく、さらにドキドキわくわくする展開で「あれ、評判が悪いけれども、実はこれ面白いんじゃないのか?」と思いながらページを進めたのである。
結果からいうと面白い場面と退屈な場面が入り混じっていて正直クリスティー作品としてはあまり出来がよくない…ただし80歳にして挑戦したものは世界に広がる暴力、テロに対抗する物語なのである!
世界中で起きるテロと暴力に人生に退屈した外交官と謎の美女、それに主人公のおばが中心となるパートをはさんで世界的な陰謀に立ち向かうというスケールのでかい物語なのである。
そして第二部の締めくくりで、第三部へといたる以下の文章…
「狂ってる、狂ってる、みんな狂ってる—だがせいぜい楽しくやろう。ぼくらは長生きできるかな、メアリ・アン?」
「たぶんできないでしょうね」
(略)
「ぼくらの努力の結果、よりよい世界が生まれるかな?」
「そうは思わないわ、でももっと思いやりのある世界になるんじゃないかしら?いまの世界は信条ばかりあって思いやりが皆無でしょう」
「それだけで充分さ(略)いざ進まん!」
自分はなぜかこの会話にクリスティーらしい楽しさと、作者の声が聞こえてくるように感じた。
そもそもいつもと違う作風になったのはまえがきにあるように社会に対する不安からなのである…
一ヶ月間新聞の第一面を毎日眺め、ノートをとり、考察し、分類してみるのです。
毎日殺人事件がおこっています。
若い娘が絞殺される事件。
老婦人が襲われ、わずかな蓄えを強奪される事件。
青年たちや少年たちが—襲ったり襲われたり。
建物や電話ボックスの破壊。
麻薬の密輸。
強盗および暴行事件。
子供が行方不明になり、家からさほど遠くない場所で死体となって発見される事件。
これがイギリスなのかしら?イギリスはほんとにこんなふうなのかしら?人びとは感じますーまさかーまだそれほどではと。でもそれはありうることなのです。
(略)
無政府状態ーそれも激化する一方の。
すべては破壊の崇拝と残虐趣味を志向するかに思われます。
(略)
それでも人々は知っているのですーわたしたちのこの世界はいかに多くの善にー善行、親切心、慈善行為、隣人同士の親切、少年少女の有益な奉仕にみちあふれているかということを。
なのにどうして、現実の世相をあらわす日々のニュースには、世の中の出来事には、このような現実ばなれした雰囲気がつきまとうのでしょうか?
この文章は1970年に書かれたものだけれども、まさに現代の社会そのものだと思うのである。たしかに作品としては出来が悪いのだけれども、80歳にしてこれまで描いてこなかったものに挑戦したクリスティーはやっぱりすごい方なのだと思う。そのあたり年代を重ねてもやっぱり好奇心旺盛だったのだと思うし、ミス・マープルシリーズの「バートラム・ホテルにて」で変わり行く時代に悲しみを抱きながらもそれでも前に進まなければならないと語った作者らしいのだと思う。
当時ある批評家は挑戦を評価しながらも、これまでどおりの村で起こるお決まりの殺人事件を描き続けるべきではなかったのかと評したそうだけれども、新たなことに挑戦するのがクリスティーだと思うし、何よりも後年のハロウィーン・パーティーもこれまた出来はよいとはいえないのだけれども、その途中で交わされる昔はこんな風ではなかったのに、という台詞やこの物語では小さな子どもが被害者となるのである。そして計画のためには大切なものすらも除外しようとする恐るべき犯人で「これって、まさに現代じゃないか!」と思ったのである。そして今時の若者をコミカルに描いたかと思えば、彼らに大きな役割りをふりわけるクリスティーは見た目ではなく本質で物事を見ていたのかなと思うし、それは年齢を重ねたからこそ描けたものだと思う。たとえば中期の「愛国殺人」では最後、若い世代にむけてかなり辛辣な台詞をポワロに語らせるし(ちなみにこの作品である人物が殺人の濡れ衣を着せられて、その人物をポワロは人間の屑として処刑されたほうが社会のためにいいとまで言うのだけれども、最終的に犯人に語る信念のた
めに助ける…その信念は実際に読んでもらいたいので伏せる)作者もまた変わり続けていたのだなと思う。まあ、カリブ海の秘密ではいわゆる現代小説にミス・マープルは挑戦してそこで描かれる性的なものに対して皮肉的、最初驚いたのだけれどもそのなかでミス・マープルのセックス観が語られるし笑ってしまうと同時にセント・メアリ・ミード村は本当にすごいなと思うそういった性的なものは大々的ではなかったと辛辣に描いてはいるけれども…
ただし、フランクフルトへの乗客の最後に、まえがきいわく科学による救済が描かれるのだけれどもそれが今となっては唖然とするもの…多分これは今では否定されている考えだったと思う(記憶が間違いがなければ手塚治虫氏のブラックジャックに似たような題材を扱ったものがあり今ではそれは単行本未収録で読めなくなっていたはずである)もので、そこで時代を感じてしまった…
個人的に自分が特に印象に残っているのは、エピローグ冒頭のしゃれてはいるけれども味も素っ気も、それこそロマンチックさの欠片もない事務的なプロポーズとそれに対する事務的な返答でこのあたりのやりとりに「あぁ、やっぱりクリスティーだ」と楽しくなった。そこがおしゃれだったので、いつか自分の描く物語で引用したいと思うくらいでこのあたりはクリスティー的な面白さを含んだものだと思う。そのあたりの詳細は伏せるけれども、最初に読んだときはおしゃれだけれども思わず笑ってしまった。
アガサ・クリスティーファンだけれども正直作品としては勧めづらいし、出来もよくないのだけれどもただ今改めて再評価されていい物語なのではないかと自分は思うのである。
80歳、1970年という時代にこの物語を描いたと言うのだから…
余談だけれども実はクリスティーの作品はゆるやかなリンクが貼られていて、トミーとタペンスものの「運命の裏木戸」ではフランクフルトへの乗客に関する言及があるし、本書に登場するミスター・ロビンスンはポワロやトミーとタペンスあとちょっと記憶があいまいだけれどもミス・マープルものにも登場していた記憶があるし、他にもポワロとミス・マープルをつなぐ人物がいたりそれこそ後年ポワロの秘書となるミス・レモンはもともと作者の初期に描いていた探偵パーカー・パインの秘書だった人物である。他にもちょこちょことリンクがあるそうなので、それを見つけるのもまた楽しいけれども…悲しいことに記憶力が悪い人物はそのあたりをかなり見落としていたり、キャラクターを忘れていてあとから色々な本でそのつながりを知ることが多いのだけれども…
コメント:
まったくその通りです。この作品をちゃんと評価している文章をはじめて読みました。自分としてはクリスティによる「世界支配をもくろむ連合の略図」はとてもよく出来ていると思います。
まえがき
作者は語る、
直接面と向かってであれ、郵便によってであれ、作者に向けられる最初の質問は、
「あなたはどこでアイディアを仕入れるのですか?」という質問です。
そんなとき、「わたしはいつもハロッズへ行くことにしてますよ」とか、「仕入れ先はたいてい陸海軍ストアですね」とか、あるいはそっけなく、「マークス・アンド・スペンサーへ行ってごらんなさい」などと答えたい誘惑たるや相当なものです。
世間の人々は、どこかにアイディアの魔法の泉があって、小説家というのはその泉の水を汲む方法を発見した人たちのことであると、堅く信じこんでいるふしがあります。まさかシェークスピアの例の、
浮気の心はどこに生まれた。 胸の底にか頭にか、 どうして生まれ、どうして育った? さあさ、答を聞かせておくれ。 (『ヴェニスの商人』第三幕第二場)
を持ちだして、質問者をエリザベス朝へ送り返してしまうわけにもいきません。だから、「自分の頭で考えたんですよ」と、きっぱり答えるだけなのです。
もちろん、こんな答はだれにもなんの役にも立ちません。そこで、質問者の顔つきが気に入ったら、親切気を出してもう少し説明を補足します。「あるアイディアがとりわけ気に入って、どうやら物になりそうだという気がしたら、それをさまざまにひねくりまわし、あれこれと細工を加え、しだいに発展させ、あるいは調子を加減して徐々に形をととのえてゆきます。それから、もちろん、そのアイディアを書きはじめなければなりません。これは楽しいどころではない――とても困難な仕事になります。これとは別に、アイディアを大切にしまいこんでおいて、一年か二年たってからとりだして使うということも可能です」
第二の質問――というより所信の表明は、おそらくこういうことだろうと思います。
「作中人物の大部分は現実から借りてきたものでしょうね?」
こんなばかげた思いつきは、怒りをこめて否定します。「いいえ、そんなことはありませんよ。わたしが作中人物を考えだすのです。彼らはわたしのものですよ。わたしの作中人物たち――わたしが望むとおりに行動し、わたしが望むとおりの人物になってくれなければ困るのです。彼らはわたしのために生きはじめ、時には自分自身の考えを持つこともありますけど、それというのもわたしが彼らを現実の人間らしく作りあげたからなのです」
かくて作者はアイディアと作中人物を生みだしました――しかしつぎに必要なのは三つめの要素――すなわち背景です。はじめの二つは内部のソースから出てきますが、三つめのは外部から――つまり、もともとそこに存在していて、作者を待っているものでなければならないのです。これは作者が考えだすのではなく――もともとそこにあるもの――現実なのです。
あなたはおそらくナイル川の遊覧船に乗ったことがあるでしょう――そしてそのときのことを何もかもおぼえている――それこそあなたの物語におあつらえむきの背景なのです。あなたはチェルシーのあるカフェで食事をしたことがある。つかみ合いがおこなわれていた――一人の女がもう一人の女の髪の毛をひとつかみごっそり抜きとった。あなたのつぎの書きだしにはもってこいの場面です。あなたはオリエント急行で旅行をする。いま構想中のプロットにオリエント急行を舞台として使うのは、どれほどか楽しいことでしょう。あなたはお友だちと一緒にティー・パーティへでかける。あなたが到着すると、彼女の弟が読みかけの本を閉じて、横に投げだし、こう呟く。「まあまあ悪くない、しかしなんだってエヴァンズに頼まなかったのかな?」
そこであなたは近々書く予定になっている本の題名を、その場で『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』に決めます。
しかし、あなたはまだエヴァンズがどういう人物になるかを知りません。でも心配ご無用。エヴァンズのことはあとまわしにして――とにかく題名は決まりました。
といったようなわけで、いわば背景はあなたが考えだすものではありません。それはあなたの外側、あなたの周囲に存在している――あなたはただ手をのばして選りどり見どり好きなのをとるだけでよいのです。列車、病院、ロンドンのホテル、カリブ海の浜辺、田舎の村、カクテル・パーティ、女学校……
ただひとつだけ肝心なことがあります――それは実在するものでなければなりません。現実の人間、現実の場所。時間と空間の中で明確な位置を占める場所。もしいまこの場でということになったら――あなた自身の目で見、耳で聞くものは別として――どんな方法で完全な情報を入手するか。その答は驚くほど簡単なのです。
それは新聞社が朝刊ニュースの見出し一覧という形で、毎日あなたのもとへ届けてくるものなのです。朝刊の第一面からそれを拾い集めなさい。今日の世界では何がおこっているか? 世間の人々は何を言い、考え、おこなっているか? イギリスの一九七〇年を鏡にうつしてみるのです。
一カ月間新聞の第一面を毎日眺め、ノートをとり、考察し、分類してみるのです。
毎日殺人事件がおこっています。
若い娘が絞殺される事件。
老婦人が襲われ、わずかな蓄えを強奪される事件。
青年たちや少年たちが――襲ったり襲われたり。
建物や電話ボックスの破壊。
麻薬の密輸。
強盗および暴行事件。
子供が行方不明になり、家からさほど遠くない場所で死体となって発見される事件。
これがイギリスなのかしら? イギリスはほんとにこんなふうなのかしら? 人々は感じます――まさか――まだそれほどではと、でもそれはありうることなのです。
不安が芽生えつつあります――もしかしたらという不安が。実際の事件よりは、その背後に潜んでいるかもしれない原因への不安なのです。原因のあるものはわかっており、あるものはまだわかっていないながら、うすうす察しがつきます。しかもこれはわが国だけの問題ではありません。ほかのページには、ヨーロッパや、アジアや、南北アメリカからの――全世界のニュースを伝える小さな記事が目につきます。
旅客機のハイ・ジャック。
誘拐。
暴行。
暴動。 憎悪。
無政府状態――それも激化する一方の。
すべては破壊の崇拝と残虐趣味を志向するかに思われます。
これはいったい何を意味するのでしょうか? 人生を語ったエリザベス朝の警句が過去からこだましてきます。
……それは、 阿呆のおしゃべり、がやがやわめくばかりで、 なんの意味もなさぬ。 (『マクベス』第五幕第五場)
それでも人々は知っているのです――わたしたちのこの世界はいかに多くの善に――善行、親切心、慈善行為、隣人同士の親切、少年少女の有益な奉仕にみちあふれているかということを。
なのにどうして、現実の世相をあらわす日々のニュースには、世の中の出来事には、このような現実ばなれした雰囲気がつきまとうのでしょうか?
この一九七〇年という年にひとつの物語を書くためには、あなたは自分の住む社会的背景と妥協しなければなりません。もし背景が現実ばなれしたものであれば、物語もその背景を受け入れなければならないのです。従って物語自体もまた、ファンタジー、あるいはコミック・オペラの形式をとらざるをえません。舞台装置に日常生活の現実ばなれした諸相をとりこむ必要があるのです。
人は現実ばなれした運動などというものを思い描くことができるでしょうか? たとえば秘密の権力闘争を? 狂気の破壊欲が新しい世界を創造することは可能でしょうか? さらに一歩進んで、空想的な、不可能とも思える方法による救済を示唆することは考えられるでしょうか?
何事も不可能ではない、と科学はわたしたちに教えております。
この物語の本質はファンタジーです。それ以上のものだなどというつもりはありません。
しかし、その中でおこる大部分のことは、今日の世界でおこりつつあること、あるいはおこる兆しのあることばかりです。
これはありえない話ではありません――ただファンタスティックな物語だというにすぎないのです。
2:12
「それにしても世界十字軍の騎士というのはやっぱりぼくの役柄じゃないな」
「それは大昔からある役柄だから、だれもが理解し、評価するわよ。あなたに向いているわ。過去のあなたの評価は低かった、でも若きジークフリートと彼の世界は、あなたに報酬にありつくチャンスをさしだすと思うわ。なぜならあなたは、彼が望んでいるあなたの国の内部情報を提供するからよ。彼はいずれその国で、あなたを権力の座につけてくれるわ」
「きみはこれが世界的な運動だといいたいらしいが、それはほんとうなのかね?」
「もちろんそうよ。ほら、女性の名前のついたハリケーン、あれみたいなもんだわ。フローラとかリトル・アニーとか。ハリケーンは東西南北どこからでも発生するけど、どこからともなくやってきてすべてを破壊してしまう。それがみんなの望んでいることなのよ。ヨーロッパでも、アジアでも、アメリカでも。それからたぶんアフリカでも。もっともアフリカは、まだ権力やら汚職やらが珍しい段階だから、運動はそれほど盛りあがらないだろうけど。ええ、これはまちがいなく世界的な運動なのよ。若者たちと彼らのヴァイタリティによって進められる運動。彼らには知識も経験もないけど、ヴィジョンとヴァイタリティがあるし、資金の援助がある。川の水が注ぐように金が流れこんでいるわ。唯物論があまりにもはびこったために、わたしたちはほかのなにかを求め、それを手に入れた。でもそのなにかは憎しみに基盤をおいているから、結局は行き詰まるわ。それはいつまでたっても離陸できない。一九一九年にはだれもが有頂天になって、コミュニズムこそすべての問題への答だといっていたことをおぼえているでしょう。マルクス学説が新しい地上に新しい天国を出現させるだろうといいあったことを。多くのすばらしいアイディアが生みだされたわ。でも、それらのアイディアを実践する人間はどうだったかしら? 結局あいもかわらぬ同じ人類でしょう。いよいよ第三の世界を創りだすことができる、とだれもが考えるけれど、そこに住む人間は第一の世界、あるいは第二の世界の人間とぜんぜん変わりばえがしないのよ。その同じ人類のやることなんだから、どうせやること自体も変わりばえしないに決まってるわ。歴史を見ればすぐにわかることよ」
「いまどき歴史を眺めてみようなんて人間がいるだろうか?」
「いいえ。それよりも予測できない未来を眺めようとする人間ばかりよ。かつては科学がすべての問題を解決するかに見えた。フロイト学説と解放されたセックスが人類を不幸から救うつぎの答えとなった。精神障害に悩む人間はもういなくなるだろうというわけよ。抑圧を閉めだした結果、精神病院はいま以上に満員になるだろうという人がいても、だれも信じなかったと思うわ」
いスタフォード・ナイが彼女をさえぎった。
「ひとつ訊きたいことがあるんだ」
「どんなこと?」
「ぼくたちはこれからどこへ行くんだ?」
「南米よ。途中パキスタンかインドへ寄るかもしれないわ。それからきっとアメリカ合衆国へも行かなければならないわ。あの国ではとても興味深いことがたくさんおこっているの。とくにカリフォルニアでは!」
「大学かい?」サー・スタフォードは溜息をついた。
「大学問題にはうんざりするね。いつまでたっても同じことの繰りかえしだ」 彼らは数分間無言で坐っていた。あたりは暗くなりはじめたが、山頂は柔らかい赤に染まっていた。
スタフォード・ナイがしみじみとした口調でいった。
「いま、この瞬間、また音楽を聴くとしたら、ぼくがどんな曲をリクエストすると思う?」
「やっぱりワグナーかしら? それともワグナーはもう卒業した?」
「いや――ご名答だ――またワグナーをリクエストするだろう。ハンス・ザックスがニワトコの木の下に坐って、『狂ってる、狂ってる、みんな狂ってる』と世の中を慨嘆する場面が聴きたいね」
「そうね――ぴったりだわ。それに美しい曲だし。でもわたしたちは狂っていないわ。わたしたちは正気よ」
「これ以上の正気はないくらいさ」と、スタフォード・ナイはいった。「それがかえって邪魔になるだろう。もうひとつ訊きたいことがある」 「どうぞ」 「たぶんきみは答えてくれないだろう。だがどうしても知る必要がある。ぼくらがこれからやろうとしているこの無謀な仕事から、なにかしら楽しみが得られるのかい?」
「もちろんよ。楽しんではいけない理由があるかしら?」
「狂ってる、狂ってる、みんな狂ってる――だがせいぜい楽しくやろう。ぼくらは長生きできるかな、メアリ・アン?」
「たぶんできないでしょうね」と、レナータが答えた。
「それでこそ元気も出ようというもんだ。ぼくはどこまでもきみと一緒に行くよ、わが同志、わがガイド君。ぼくらの努力の結果、よりよい世界が生まれるかな?」
「そうは思わないわ、でももっと思いやりのある世界になるんじゃないかしら。いまの世界は信条ばかりあって思いやりが皆無でしょう」
「それだけで充分さ」と、スタフォード・ナイはいった。
「いざ進まん!」
In Memoriam: Suitners Meistersinger 1987 Fliedermonologue (スイトナー マイスタージンガー) https://youtu.be/Drp0d6AB6HM?si=x9L-bP1JGU3JEXue @YouTubeより
Die Meistersinger von Nurnberg m2-2(にわとこのモノローグ) https://youtu.be/d-m--i4xl6k?si=MhTqyym-sUYMj0VO @YouTubeより
https://youtu.be/d-m--i4xl6k?si=pKTxCZR57iGlWGuh
In Memoriam: Suitners Meistersinger 1987 Fliedermonologue (スイトナー マイスタージンガー) https://youtu.be/Drp0d6AB6HM?si=jd6qI94mY6JjUoxO @YouTubeより
https://youtu.be/Drp0d6AB6HM?si=CA2DIhd2bPjzYvzA
ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》全曲 カイルベルト指揮/バイエルン歌劇場 https://youtu.be/smBGOz6xl9k?si=Sds9KPRkWJuK9q73 @YouTubeより
https://youtu.be/smBGOz6xl9k?si=CS0bGHdJX63Eh6d4
https://wagnerianchan.hatenadiary.org/entry/20130303/1362318274
『マイスタージンガー』(2)〜第2幕「ニワトコのモノローグ」に見るハンス・ザックスの気持ち〜
ヨハン)今日は「マイスタージンガー」の中から、第2幕のハンス・ザックスのモノローグですね。
トマス)その部分の翻訳をアップしました。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/139.html#Flieder
音源もリンクしてみました。Youtubeからハンス・ホッターとトマス・スチュアートの歌唱を。http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=UA5YaxFPJKk#t=6s
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=iGlY2-0GpEQ
アンナ)最初のクラリネットのモチーフが、この曲の中で何度も繰り返されますね。勝手なハ長調読みで「ファ〜♯ド・レ〜・ミ・ファ・ラ〜・ミ・ファ〜」。ただ、それだけの2小節のモチーフなんですが、なんか胸騒ぎがするのはナゼでしょうか?「♯ド」に秘密があるような気がします。ピアノで弾いてみると、「なんでこれだけなのに、こんなにいいんだろう?」と思います。
トマス)そうですね。和声的には、すごく曖昧な感じがします。ワーグナーは、こういう「ワンフレーズモチーフ」を聴かせるのが、すごくうまいと思います。これを繰り返してるだけなのに、なんか憧れに胸を満たされて切なくなる感じがします。それが、ザックスの気持ちを何よりもよく表現します。
ヨハン)そのあとのホルンの音もすごく印象的ですね。「ニワトコのいい香り」が、音楽となって、こちらまで香りを放つような感じです。
トマス)ここの最初に4度下りて5度上昇して・・・という動きは、なんとなく『ジークフリート』第3幕の「愛の挨拶」の動機(『ジークフリート牧歌』でも出てくる動機)を思い出させます。このホルンの合奏が好きかどうかで、ドイツオペラ、特にワーグナーが好きかどうかが左右されるような気もします。良くも悪しくも、イタリア、フランスのオペラに、こんな音楽は絶対ないでしょう。もちろん私は大好きです(笑)
ヨハン)ワーグナーはホルンの歌わせ方がうまいですね。
トマス)これはヴァルブホルンだから可能になった音楽のようにも思います。この箇所ではないので、まったくの余談ですが、バイエルン王立歌劇場のホルン奏者だったリヒャルト・シュトラウスのお父さんが、ワーグナー本人に「こんなクラリネットみたいなメロディーが吹けるか!」と噛みついたが、本番では誰よりもきちんと吹くので、ワーグナーも文句が言えなかったという話がありますよね。これは確か「トリスタン」の話だったような気がしますが、いかにもその頃の雰囲気があって面白い話です。
アンナ)そのホルンの暖かい音色に乗せて、ハンス・ザックスが歌い出しますが、実にいい感じですね。
Was duftet doch der Flieder ニワトコのなんともいい香りがする。
so mild, so stark und voll! やさしくも、強く、ふくよかな香りだ!
Mir löst es weich die Glieder, この香りに、体の疲れはほどけ、
will, dass ich was sagen soll. 言うべきことを、言う気が出てくる。
Was gilt's, was ich dir sagen kann? だが、私ごときが何を言えるというのだ?
Bin gar ein arm einfältig Mann! 貧しく無学な私ごとき者が!
Soll mir die Arbeit nicht schmecken, 友よ・・・私が仕事に身が入らないときは、
gäbst, Freund, lieber mich frei; どうか好きなようにさせてくれ。
tät' besser, das Leder zu strecken, 皮をなめしていたほうがよっぽどいいのだから!
und liess alle Poeterei. 詩作などほったらかして。
アンナ)靴屋の仕事に取りかかろうとするのですが、「ニワトコ」の香りに誘われて、第1幕のヴァルターの歌を思い出すという寸法です。
トマス)このFliederは、普通に訳すと「リラ」なのですが、聖ヨハネの祝日(6月24日)の頃には、この花は咲いていないので、「ニワトコ」だろうと、ベルント・ヴァイクル氏は新国立劇場の公演(私はこの公演に行けなかったのですが)の解説で書かれています。なので私もそれに従います。
ヨハン)ということは、最初に「ニワトコ」と訳した日本の翻訳者は、それが分かっていたということですよね?
トマス)それがすごいですね。「リラ」と「ニワトコ」は、学名が異なる全く別の花なのですが、どうもワーグナーの言葉遣いが厳密じゃないような・・・。そうでなくても、こういう「植物」とか「動物」の訳は、けっこう難しいですね。
アンナ)さて、ザックスは、だんだん興奮してきます。「詩作などほったらかしにしたい!」という「グチ」はいいですね。この音楽を聴いていると、ザックスは、本当はけっこう短気で怒りっぽいキャラのような気もします(笑)
ヨハン)どうして、こんなにイライラしちゃってるんですか?僕は、まだよく筋書きを理解していないものですから。
トマス)そこがポイントかも知れません。これは私の解釈ですが、ハンス・ザックスは、靴屋という「職人」であるかたわら「詩人=歌手」でもあるという、いわば「二足のわらじ」を履いているわけです。彼に限らず、他の「マイスタージンガーたち」も、みんな「プロの歌手」ではなく、「本業」を持っていることが大事だと思います。しかし、その「二足のわらじ」は、ハンス・ザックスの「アイデンティティ」であり「プライド」なのではないでしょうか?これは典型的な「プロテスタント的倫理」な感じもします。史実のハンス・ザックスは熱心なルター派のプロテスタントです。ちょうどルターが宗教改革の口火を切った時代ですし、領主に所属しない自由都市ニュルンベルクは都市としてもルターを熱烈に支持しています。
アンナ)宗教的な面はともかく、「職人」を尊敬する気風は、日本人には理解しやすいですね。ザックスは、「職人」であり「芸術家」でもあることが誇りでもありますが、そこに一筋縄ではない苦労があることを愚痴っているわけですかね。
トマス)ちょっと私の解釈が入っていますが、おおむねそうだと思います。
ヨハン)「マイスタージンガー」というのは「プロの歌手」ではないんですかね。
トマス)かと言って単なる「アマチュア」でもないような感じです。ついでの話ですが、タイトルのDie Meistersingerは複数形なので、正確な訳は「ニュルンベルクのマイスタージンガーたち」です。「名歌手達」とか様々な訳がありますが、それだと先述のような「マイスタージンガー」の意味が出てこないので、なかなか難しいですね。翻訳は難しいですが、おかげさまで、この場面のハンス・ザックスの苦労が少々分かる気がします(苦笑)。もっとも私の場合は単なる趣味ですが、ザックスの詩作は、それ自体がニュルンベルクの発展につながるのだという市民としての責任感があります。たとえば「貧しく無学な私ごとき者が」という歌詞に、逆に強い自負心が顔をのぞかせているようにも思えます。
アンナ)そう思って聴くと面白いですね。ワーグナー自身の思いも入っているのでは?
トマス)そのとおりだと思います。もっとも作者自身はそういう謙遜はしませんが(笑)。一方、毀誉褒貶にさらされた人なので「私の芸術が気に入らないのなら、いっそ全部やめさせてくれ!」というセリフはワーグナーの愚痴そのものでしょう。もっとも、全然「詩作」をやめる気はないのですがね(笑)
アンナ)最後の4行の原文の意味が分かりにくいです。
トマス)この作品のリブレットは、そういう箇所が多くてホントに苦戦しますよ・・・。私もザックスに合わせて、「ポエテラ〜イ」と叫びたくなってしまいます。この「ポエテライ」(詩作)という言葉自体に、ちょっと自嘲的な響きがありますね。ちなみに、ドイツ語では「高貴な詩=文学」は通常「ディヒトゥング」です。
アンナ)そこでは、このあと出てくる「靴屋の歌」のメロディーが先取りされていますね。でも、ザックスは、すぐに心を落ち着かせます。基本的に気分転換というか感情のコントロールがうまい人のような気がします。「年の功」でしょうか?
ヨハン)ここから先の音楽は、例のモチーフが何度も繰り返されて、文句なくいいですね。
Und doch, ‘s will halt nicht geh'n. ふうむ・・・どうも今日はうまくいかぬようだ。
Ich fühl's - und kann's nicht versteh'n - 心では感じているのに・・・頭では分からない・・・
kann's nicht behalten - doch auch nicht vergessen; 捉えることができないのに・・・忘れることもできない。
und fass ich es ganz - kann ich's nicht messen! ついに捉え切ったぞと思えば・・・こんどは測ることができない!
Doch wie wollt' ich auch messen, だが、測れるはずがあろうか?
was unermesslich mir schien? そもそも測りがたきものに思えるのだから。
Kein' Regel wollte da passen 全く規則には沿っていないのに、
und war doch kein Fehler drin. それでいて間違いなど一つもなかった。
Es klang so alt und war doch so neu 昔なじみの響きなのに、それでいて新鮮だった。
wie Vogelsang im süssen Mai! まるで五月の鳥の歌声のようだった!
Wer ihn hört だとすれば、鳥の声に耳を傾け、
und wahnbetört 我を失って狂ったように
sänge dem Vogel nach, 鳥のまねをして歌う者は、
dem brächt' es Spott und Schmach. - 嘲られ、屈辱を味わうというのか・・・。
Lenzes Gebot, die süsse Not, あれは春の命令・・・甘美な衝動・・・
die legt' es ihm in die Brust: それが、あの若者の胸を突き動かしていた。
nun sang er, wie er musst'! しかし、歌わざるを得ないことを、歌っただけではないか!
Und wie er musst' - so konnt' er's; しかも、そのとおりに歌えたのだ。
das merkt' ich ganz besonders. 私はそれに気づき、稀有のことだと感じ入ったのだ。
Dem Vogel, der heut' sang, 今日歌った鳥のくちばしは、
dem war der Schnabel hold gewachsen: 実に愛らしかった。
macht' er den Meistern bang, あの鳥は、他の名人たちを不安にさせたようだが、
gar wohl gefiel' er doch Hans Sachsen. このハンス・ザックスには大いに気に入った。
アンナ)あまり解説は不要かも知れませんね。いろいろなモチーフが出てくるところが、とても楽しいです。
トマス)そうですね。ここの歌詞は『マイスタージンガー』という作品自体の解説にもなっています。
アンナ)それは「一見古典的な音楽に新しい技法を盛り込む」ということですかね?
トマス)まさにその意味で、このモノローグは、この長大な作品の「取っ掛かり」として、すごくいいと思うんですよ。「第1幕前奏曲」で聞き覚えのあるモチーフや、第1幕後半のヴァルターの歌のモチーフなど、いろんなモチーフが現れて、クライマックスではザックスが例のモチーフ「ファ〜♯ド・レ〜・ミ・ファ・ラ〜・ミ・ファ〜」を「春の命令、甘美な衝動」というセリフで歌います。分かりやすいですね。
ヨハン)なるほど・・・。何度か聴いていると、「古いようだが、それでいて新しい」というのは、この音楽そのものを指しているような気がしてきました。
アンナ)ちょっと「自己言及的」なところがありますね。
トマス)その「自己言及的」な側面は、この作品の魅力の一つでもありますが、なんとなく「つぎはぎ細工」的な感じもします。
ヨハン)おやおや。ずいぶん批判的ですね。
トマス)いや、特に「批判的」な意味ではないんです。これも私のごく私的な意見ですが、ワーグナーはこの作品では、いい意味で「気楽」に作っていますね。
アンナ)それも「批判的」な気が(笑)
トマス)「トリスタン」「神々の黄昏」「パルジファル」のような、一瞬も気を抜けないような息詰まる緊張感というのは、この作品には感じられません。でも、だからと言って、それが悪いわけではないのです。「職人技」を駆使しつつも、あえて「自由」に作っている。だから「自己言及的」なんでしょう。
ヨハン)その意味で「喜劇」なんですかね?
トマス)アドルノは、この作品(たしか第3幕の前奏曲)で「コラール」が、ある意味すごく通俗的に処理されているとの批判をしています。しかし、それこそがワーグナーの意図なのですから、ちょっと的外れな批判なのでは?と私は思います。ただ、書いてあることは、まったくその通りだと思うので、本当に慧眼な批評だと思います。もっと分かりやすく書いてくれれば、さらにいいのですが(笑)。古い素材を前に、どれだけ自由な創造力を発揮できるか、ということでしょう。
ヨハン)しかし、ワーグナーは、ここで本当にそれに成功したのかな・・・?口はばったい言い方ですが、それは芸術の永遠の課題だと思います。
トマス)たしかにそうですね。たとえばブラームスは、その全作品を通して、まさにそれをやっているような気がします。彼が「マイスタージンガー」を観て、いっとき熱狂したけど、すぐ醒めてしまったというのは、本質的な芸術観の違いもさることながら、ワーグナーが「パロディー」に踏み込んでいる点が大きいような気が。でも「黄昏」には高い評価をしています。その意味では、アドルノのコメントも分かりますね。でも私は、この作品は本質的には「エンターテイメント」なんだと思います。そう思って楽しめばいいのですが、「きまじめさ」が払拭できないので、いまいち完全な娯楽作品になっていないような気もします。
アンナ)でも、ハンス・ザックスが、若者の心情を思いやって歌うのがいいんですよね。そのまじめさに魅かれるものがあります。
トマス)やはりザックスの歌を中心に攻めていくといいと思います。次回は、第3幕の「迷い(狂気)のモノローグ」を取り上げましょう。すでにアップはしていますが、解説はたぶん来週に。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/143.html#Wahn
3:14
D麻薬
S科学
F財政
J ?
「まだ正確ではないですが、おおよその感じはこれでつかめると思います」と、パイカウェイ大佐がいった。 「これはいったいなにかね?」 「あぶくか」と、サー・ジョージが呟いた。ふと、彼の心にある考えがうかんだ。「そうか、これはガスかね? 新しいガスかね?」 「きみから説明してもらうほうがよさそうだな、ホーシャム」と、パイカウェイがいった。「きみは全体像を把握しているからな」 「いや、わたしも話に聞いたことしか知りません。これは世界支配をもくろむ連合の略図です」
「だれによる世界支配かね?」
「権力の源――権力の原料を所有し、または管理するいくつかのグループです」
「で、アルファベットは?」
「ある人間、または特定グループの暗号名を表わしています。これらはいまや全世界をおおう興味ある輪なのです。
Aの輪は兵器を表わしています。ある人物またはグループが兵器を管理しているのです。あらゆる種類の兵器、爆薬、大砲、ライフルなど。世界じゅういたるところで計画に従って兵器が生産され、表面上は低開発国、後進国、戦争をしている国などに向けて送りだされております。しかしこれらの武器は送りつけられた先にとどまらず、ほとんどすぐに別のルートでほかへ送られています。南米大陸のゲリラ戦のさなかヘ――アメリカ合衆国の暴動や闘争へ――ブラック・パワーの武器庫へ――ヨーロッパのさまざまな国へ。
Dの輪は麻薬を表わしています――供給者のネットワークが、各地の集積所から麻薬を管理しています。比較的無害なものから命にかかわるものまで、あらゆる種類の麻薬を扱っています。本部はレヴァント地方(シリア、レバノン、パレスチナなどを含む東部地中海沿岸諸国)にあって、トルコ、パキスタン、インド、中央アジア経由で品物が流れだしていると思われます」 「組織はそれで金を稼いでいるのかね?」
「組織はそれで金を稼いでいるのかね?」 「巨額の利益をあげております。しかしこれは単なる密売人連合の域にとどまらず、もっと悪質な一面を持っております。いわば若者たちを完全に奴隷化するために、弱い者を淘汰する目的を持っているのです。麻薬がなければ生きていけないし、雇主のために働くこともできないような奴隷を作ることが彼らの狙いなのです」
ケンウッドがひゅうと口笛を吹いた。 「恐るべきことだ。きみはこの麻薬密売人たちがどんな連中か知らないのかね?」 「何人かは知っております。しかしほんの下っ端にすぎません。大物の正体はわからないのです。麻薬本部は、われわれの推測では、中央アジアとレヴァント地方にあります。そこから自動車のタイヤや、セメントや、コンクリートや、各種の機械および工業製品の中に隠して運びだされ、世界じゅうに運ばれて、ありきたりの輸出品と見せかけて、予定した相手に引き渡されているのです。
Fの輪は財政を表わしています。つまり金です! 鬼蜘蛛の巣が全体の中心をなしているのです。金のことならミスター・ロビンスンが教えてくれるでしょう。手もとのメモによれば、金は主としてアメリカから流れてきているのですが、バイエルンにも本部があります。南アフリカには金とダイヤモンドによる莫大な準備金があります。そして金の大部分は南米へ流れこんでおります。主だった財政管理者の一人は、ひじょうに有力で才能のある婦人です。彼女はもう老齢で、恐らく死期が近いはずで近いはずです。しかしいまだに元気で活動しています。名はシャルロッテ・クラップといいます。彼女の父親はドイツでクラップの大工場を所有していました。彼女自身が財政の天才で、ウォール・ストリートの株を操作していました。世界じゅうに投資して、巨万の富をたくわえてきました。輸送事業や機械工業など、数多くの事業を所有しております。彼女はバイエルンの広大な城に住んで、そこから世界各地への金の流れを指図しているのです。
Sの輪は科学を意味しています。すなわち化学兵器戦争と生物兵器戦争の新知識です。多くの若い科学者たちが現社会体制に背を向けた――アメリカ合衆国にはアナーキズムに献身する誓いをたてた科学者たちの核ができているものと思われます」 「アナーキズムのための戦いかね? それは言葉の矛盾というものだよ。そんなものがありうるのかね?」 「若いうちならアナーキズムも信奉しますよ。新しい世界を創りだそうとするときは、まず古い世界をぶちこわさなければなりません――ちょうど新しい家を建てるには古い家をこわさなければならないのと同じことです。しかし自分がどこへ行こうとしているか、どこへ誘導され、あるいは力ずくで連れていかれようとしているかということを知らなければ、新しい世界はどうなるでしょうか、そして新しい世界に辿りついた信奉者たちの立場はどうなるでしょうか? ある者は奴隷と化し、ある者は憎しみで盲目となり、ある者は繰りかえし頭に吹きこまれ、習慣となった暴力とサディズムによって盲目になります。またある者は――気の毒に――依然として理想を追いつづけ、フランス革命当時のフランス人のように、革命が人民に繁栄と平和と幸福と満足をもたらすものと信じつづけるでしょう」
「で、われわれはそれに対してどうすればよいのかね?」こう質問したのはブラント提督だった。 「われわれはどうすればよいのか? できるかぎり努力をします。いいですか、われわれここにいる人間は、自分にできるあらゆることをやるのです。われわれのために働いている人々が各国にいます。情報部員、調査員、情報を集める人々、その情報をここへ持ち帰る人々――」 「それは大いに必要なことです」と、パイカウェイ大佐がいった。「まずわれわれは知らなければならない――だれがだれなのか、だれが味方でだれが敵なのかを知る必要があります。どんな手を打つべきかということは、それからさきの問題ですよ」 「われわれはこの図表をザ・リングと名付けました。ここにザ・リングの指導者たちに関してこれまでにわかっていることの一覧表があります。疑問符がついているのは、通称しかわかっていない――あるいはわれわれの求める人物かどうか確証がないことを示しています」
ザ・リング
F ビッグ・シャルロッテ ――バイエルン
A エリック・オラーフソン ――スウェーデン、実業家、兵器担当
D 通称デメトリオス ――スミルナ、麻薬担当
S サロレンスキー博士 ――アメリカ合衆国コロラド州、物理、化学者。疑惑のみ
J ――女性。暗号名ジュアニータ。危険人物の噂。本名不詳
AI:
この図は、アガサ・クリスティーの小説『フランクフルトへの乗客』(ハヤカワ文庫版など)に登場する、世界を支配しようとする秘密組織の構造を示しています。
それぞれのアルファベットは、以下の要素や人物を象徴しているとされています。
- F:フランクフルト (Frankfurt) - 組織の中心地。
- A:アリストテレス (Aristotle) - 資金源(大富豪)。
- S:ジークフリート (Siegfried) - 若者の象徴・指導者。
- D:ドラッヘンフェルス (Drachenfels) - 狂信的な思想。
- J:ジャンヌ・ダルク (Joan of Arc) - 精神的な象徴。
物語の中では、これらが組み合わさることで巨大な陰謀が進行していく様子が描かれています。
「アガサ・クリスティー ミス・マープル シーズン2」をU-NEXTで視聴 https://video-share.unext.jp/video/title/SID0240576?utm_source=com.apple.UIKit.activity.CopyToPasteboard&utm_medium=social&utm_campaign=nonad-sns&rid=CM037618346
親指のうずき
https://yamasari.com/by-the-pricking-of-my-thumbs/#toc9
ネタバレ
Aランカスター夫人は生きており、夫人こそが事件の黒幕です。夫人はフィリップ・スタークの妻で、リリーを誘拐し殺した人物でした。トミーのおばであるエイダを殺害したのもランカスター夫人で、手紙に書かれていた「ランカスター夫人は安全ではない」という文章はランカスター夫人は危険人物であるということを意味していました。
ムリリー誘拐事件は村の男性(自動車整備士の)に罪がなすりつけられており、ランカスター夫人が犯人であるという真相を隠すために、村人達は協力していました。隠蔽を主導したのは夫であるスタークで、最も協力的な共犯者は牧師の妻であるネリー・ブライでした。しかし、ネリーもランカスター夫人によって殺害されています。なお、ランカスター夫人の本名はジュリア・スタークスです。
Aその他、村人が隠していたことは次の通りです。魔女らしき女性が登場していますが、彼女は特に何の変哲もない村人でした。
- 牧師のセプティマスは宿屋のハンナ・ベレスフォードと不倫をしていた
- 牧師は誘拐犯だと疑われていた男性に助けを求められたが、冷たく対応した。その直後、男性は首つり自殺してしまった
- クリス・マーフィーが受け取った手紙は母親からだった。恋人のローズに隠した理由は恥ずかしかったから。なお、ローズは妊娠している
- 村の巡査であるイーサンが恋敵を貶めるため、車の中に帽子を置き、証拠を捏造していた
結末
A牧師の鳴らす鐘によって集められた村人達はトミーやミス・マープルと共に、牧師の告白を聞くことになります。一方、教会へ向かわなかったタペンスは怪しい赤ずきんの人物をみつけ、その人物追って、ついに絵に描かれた家をみつけます。赤ずきんの人物はランカスター夫人で、そこで、夫人が犯人であることを知ります。夫人に襲われてしまうタペンスでしたが、助けが入り、危機を脱します。
https://realsound.jp/book/2025/09/post-2169433.html
三谷幸喜 × 山崎怜奈が語り合う、アガサ・クリスティー作品の魅力 ドラマ「古畑任三郎」脚本への影響とは?

早川書房の創立80周年を記念するイベント「ハヤカワまつり」が、9月14日と15日に東京・神保町の出版クラブビルで開かれた。同イベントでは、早川書房の歴史を彩る貴重な品の展示や、80周年フェアの本を題材にしたビブリオバトルといった催しのほか、ハヤカワの新人賞出身者である小川哲と逢坂冬馬の対談など、さまざまなトークイベントも行われた。本稿では、9月14日に行われた劇作家の三谷幸喜とタレントの山崎怜奈がアガサ・クリスティーについて語った対談の模様をお届けする。(編集部)
参考:小川哲 × 逢坂冬馬が語り合う、早川書房の魅力 創立80周年記念イベント「ハヤカワまつり」レポ
図書委員の受付をしていた時にクリスティーと出会った―山崎怜奈

山崎:小学校と中学校の時に図書委員だったのですが、受付の担当をしている最中、図書室にある気になった本を片っ端から読んでいったんですね。その中の1つにアガサ・クリスティーの作品がありました。
三谷:読書好きの図書委員、というイメージそのものですね。その時に読んだクリスティー作品はハヤカワ文庫だったんですか?
山崎:確か早川書房から出ているクリスティー文庫で読んだと思います。図書館の本棚にずらりと並んでいた記憶があるので。それこそ『オリエント急行殺人事件』や『そして誰もいなくなった』のような有名作から、『終わりなき夜に生まれつく』のようにタイトルに惹かれて手に取った作品もありました。

山崎:そうです。クリスティー作品は特に後期へなるにつれてトリックより人間の心理描写に重点を置くようになるんですけれど、『終わりなき夜に生まれつく』については共感が難しいというか、いきなり突き放されたような感覚に陥るんですよね。そこが非常に印象的でした。
三谷:ほかにクリスティーで好きな作品や印象に残っている作品を挙げるとすれば?
山崎:『親指のうずき』ですかね。これはおしどり探偵のトミーとタペンスが活躍するシリーズの長編作品です。前半は少し冗長に感じられるところもあるんですが、後半になるとそれまで書かれていた出来事が綺麗に合わさって収斂していく。あと犯人が少し変わっているというか、怖いだけではなくどこか哀愁が漂うところもあるのが心に残りました。前半と後半で物語のトーンがちょっと違うんですよね。
三谷:おっしゃる通りクリスティー作品では稀に「少々かったるい描写だな」と思う時があるのですが、実はそのかったるい描写にもしっかりと意味があったのだと驚かされることが多いです。
山崎:あ、あと好きなのはポアロが登場する『葬儀を終えて』ですね。この作品の中に出てくる「だってリチャードは殺されたんでしょう?」という一文がいつまでも頭の中に残っていて。アガサ・クリスティー作品を読んでいると、絶対に忘れられないような台詞の一文に出会うことが多いです。
「古畑任三郎」の“堂々たる犯人”の原点は『愛国殺人』――三谷幸喜

三谷:子供向けにリライトされた作品は小さい頃に読んではいたのですが、大人向けの翻訳でしっかりと読んだのは中学生に入ってから手に取った創元推理文庫です。早川書房のイベントなのに東京創元社の話をしてしまい、すみません(笑)。ただ、創元推理文庫には有名作である『そして誰もいなくなった』は入っていなかったんですよね。どうしても『そして~』が読みたくて探していたところ、早川書房の『世界ミステリ全集』第1巻に『愛国殺人』『フランクフルトへの乗客』とともに『そして~』が入っているのを見つけたんです。これがその『世界ミステリ全集』第1巻ですが。

三谷:ちなみにこの中に収録されている『愛国殺人』は、ドラマ「古畑任三郎」の脚本を書く上で非常に大きな影響を受けています。終盤、エルキュール・ポアロが犯人と対峙する場面があるんですが、犯人が堂々たる振る舞いでポアロと話すんですよね。それは「古畑任三郎」において犯人が古畑と相対する時の姿に通ずるものがあります。
山崎:ドラマといえば、三谷さんはエルキュール・ポアロが登場する作品を3作ドラマ化していますよね。第1作は『オリエント急行の殺人』。誰もが知っている超有名作品です。
三谷:『オリエント急行の殺人』はシドニー・ルメット監督による「オリエント急行殺人事件」(1974年公開)を始め、幾度も映像化されている作品です。私も原作は大好きですが、私が小説で気に入っている場面がルメット版ではカットされているなど、個人的には映像化に物足りなさを感じる時も少なくありません。私はオリエント急行の車内に集った登場人物達が大好きで、もう少し彼らの姿をクローズアップして欲しいという思いがあるんです。だからこそ自分が脚本を務めた「オリエント急行殺人事件」(2015年フジテレビ系列)では他の映像化作品には無い構成で工夫してみたんです。
山崎:なるほど。でも、クリスティー作品って映像化が極めて難しいものも多いですよね。三谷さんが手掛けた第2作「黒井戸殺し」(2018年放映)の原作は『アクロイド殺し』ですが、「この作品はどうやったら映像化できるのだろう」と驚いた方も多かったのではないでしょうか。
三谷:確かに私も映像化を行う上でたいへんに悩んだのですが、原作を再読して「ミステリとしてのポイントのうち、ある1つのポイントに着目する形で物語を再構成すれば可能なのではないか」と思い当たり、脚本を書いてみたのが「黒井戸殺し」でした。
山崎:ドラマ化3作目が「死との約束」です。こちら、三谷さんは早川書房創立80周年記念企画の「ハヤカワ文庫の80冊」に同作を挙げてコメントを寄せているとのことですが。
三谷:『死との約束』は何が好きかというと、謎解きの場面が非常にスマートなところです。犯行が可能か否かを容疑者1人ずつ検討して犯人を暴き出すという推理の道程がとても美しいんですよね。それでいて登場人物たちがそれぞれ背負うドラマがしっかりと書かれている。
山崎:登場人物ではボイントン夫人の印象が強烈。何というか、とにかく途轍もなく嫌な人物です(笑)。
三谷:登場人物の誰もが「早く死んでくれないかな、このばあさん」って思っているという(笑)。ただ、やっぱりクリスティーが凄いな、と感じるのは、その「このばあさん、嫌だな」という話だけで小説の半分くらいを読ませてしまうことです。肝心の事件はだいぶ物語が進んでから起こるのだけれど、退屈させず読ませるのはやはり筆力のなせる業だと思います。
山崎:こうやって三谷さんとクリスティー作品について語ってみると、クリスティーが試さなかったミステリの趣向は無いんじゃないのか、と思うくらい様々なアイディアを生み出しているんだなということに気付きます。
三谷:クリスティーが偉大だな、と思うのは山崎さんのおっしゃる通りアイディアは豊富なんだけれど、決してトリックだけを集めたようには見えない点ですね。クリスティー自身もトリックに拘りがあったのではなく、小説としての面白さを追究するためにミステリの技法を当てはめて書いたのではないかと思います。
山崎:クリスティー作品の“小説としての面白さ”とは、どのようなところに宿っていると思いますか?
三谷:演劇的な場面が多いことです。クリスティー作品の映像化を行って感じたのですが、クリスティー自身の頭の中で演劇的な形でシーンが浮かんでいるんじゃないかと思う場面が多いんです。だからこそ、映像化作品が数多く作られているのではないかと。ここにエラリー・クイーンやジョン・ディクスン・カーといった、他の英米探偵小説黄金期の作家たちと異なる点があると私は思っています。
※記事初出時、内容に誤りがございました。訂正してお詫びいたします。
■関連リンク
ハヤカワまつり公式HP:https://www.hayakawa-online.co.jp/special/80th/matsuri/
若林踏
書評家。1986年生まれ。『小説現代』『小説すばる』『週刊新潮』などで書評連載を持つ。著書に『新世代ミステリ作家探訪』『新世代ミステリ作家探訪 旋風編』(光文社)がある。

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