2026年6月2日火曜日

梅原猛 河勝 戯曲部分  

 https://ameblo.jp/1994199820022006/entry-12626590832.html

新作能 『河勝 』― かわかつ ―


【原作】 梅原猛
【脚本】 大槻文藏
【節附】 大槻文藏 
【狂言部分】 茂山千之丞

【演出】 大槻文藏
     梅若玄祥
     茂山千之丞

【作調】 藤田六郎兵衛
     大倉源次郎
     山本哲也
     三島元太郎

【場所】 兵庫県赤穂市坂越
【季節】 初秋
【時】  平成時代

【演能時間】 約 1時間半






【登場人物】

前シテ・・・老杜官(実は河勝の亡霊)

面:小牛尉

装束:尉髪、翁烏帽子、小格子、白大口 、
縷狩衣、腰帯、ひょんの木



後シテ・・・秦河勝の怨霊

面:鼻瘤悪尉 又は 鷲鼻悪尉

装束:山姥鬘、無紅厚枝、法被、腰帯、打杖

物着:皺尉、冠、白垂、単狩衣、腰帯、神扇



別シテ・・・聖徳太子

創作面:中大兄皇子

装束:神冠、黒垂、紅地着附 装束:指貫、
込大口、単狩衣、腰帯、笏、中啓



子方・・・稚児三人

装束:長鬘(無シニモ)着附、水衣、腰帯、
又八、縫箔腰巻、腰帯ニモ



ワキ・・・大避神社社官

アイ・・・平成の世の人

作り物
飾舟三艘




【あらすじ】

河勝は哲学者梅原猛の画期的新作で、
時代は現代・平成の世で、
拗ねものは原作者 ” 梅原猛 ″ 自身。


怨霊に興味を持つ彼は、
世阿弥の伝書に書かれていた、聖徳太子の重臣、秦河勝が『うつぼ舟』に乗せられ、
『坂越』に流れ着き、怨霊と化したという記載に心惹かれ、新幹線にて
『坂越』への旅へ出る処から始まる。

河勝が祀られている『坂越』の「大避神社」で社官に会い、河勝のことを深く教えて貰うが、その社官は実は河勝その人の亡霊であった。
日も落ちてくる頃、本物の社官に出会い、
河勝を慰める祭りなどを見ている最中、
雲行きが怪しくなり、神鳴りする内に、
河勝の怨霊が荒れ狂って登場。

社官の祈りに応じて、
光明と共に聖徳太子が現れ、河勝を諭す。
「和を以って貴しとは。
憤りを忘れ去ること非ず。
憤りを基に和の世界へと導くこそ。
民に慈悲をば照らすべし」と教えられ、
河勝も憤りを鎮め、共に御代を守る約束をし、共に『能楽』を奏でる。

太子は『黒駒』に乗り『飛鳥の里』へ、
河勝『赤穂の地』に留まり守り神となる。


本足跡

河勝


播州坂越・大避神社 〈河勝〉


 5月9日、忠臣蔵で名高い播州赤穂において、梅原猛氏原作の新作能『河勝』が上演されました。この能が最初に演じられたのは、2008年8月27日の「大阪城薪能」であったと思います。今回はこの能にゆかりの地赤穂市にて、大阪城薪能とほとんど同じメンバーが出演して開催されることとなりました(梅若玄祥師は2008年12月に六郎から2代目玄祥を襲名されました)。

 謡友であるM氏の発案で、この「赤穂能」観能ツアーが計画されました。終了後は当地の銀波荘で“夕陽を眺めながら観能の余情を楽しむ食事会”がセットになった誠に楽しそうな企画です。これは見逃すわけには参らぬと、ご一緒させていただくこととしました。
 朝大阪を発ち、昼前に赤穂に到着、開演までの時間を赤穂城址の散策で過ごして、会場である赤穂市文化会館のハーモニーホールへと参ります。1000人は収容できるであろうと思われるホールは満席の状態、地元の方々の熱気が伝わってくるようでした。
 演能に先だって、梅原猛氏の講演があり、続いて東儀俊美氏による舞楽『採桑老』、そして新作能『河勝』が上演されました。
 食事会終了後当地で1泊し、翌日『河勝』ゆかりの大避神社を探訪すればこれに越したことはなかったのですが、なんとここで大ミステーク、日ごろ愛用しているデジカメを忘れておりました。やむなくその日は帰阪、2日後の13日に改めて大避神社を訪れた次第です。(一部の写真については楠田美樹氏よりご提供いただきました。また謡の詞章は当日のパンフレットからの引用です。)



 以下は赤穂公演の番組です。


 秦河勝は長男には武を、次男には伶人を、三男には申楽を伝えたといわれているそうです。伶人を伝えた子孫は秦氏天王寺方で、舞楽の祖と伝えられ、申楽は秦氏安より円満井座(えんまいざ)金春大夫へと伝承されたということです。


 『採桑老(さいしょうろう)』は、舞うと歳を経ずして必ず死ぬとの言い伝えがあり、滅多に舞うことのない舞楽で、宮内庁楽部に管弦譜、面などはあるが、舞方を示した舞譜はないそうです。秦河勝の末裔であり、大避神社の氏子でもある東儀俊美(とうぎとしはる)氏が、約20分ほどに復元構成されたそうです。氏によってこの秘曲が舞われたのですが、なにやら死人の舞のような、不気味な感を禁じ得ませんでした。(写真は公演パンフレットより)


舞楽『採桑老』

『採桑老』の面


 能『河勝』は、当初原作者である梅原猛氏をモデルとした「怨霊を尋ねることを趣味とする奇人哲学者」をワキとしたそうですが、大槻文蔵師から、この役を演じるとこができるのは茂山千之丞師しかないと推され、急遽ワキの役割をアイに変更し、大避神社の神主をワキとしたそうです。したがってこの能は、狂言口開に始まり、最後までアイの茂山千之丞師が大活躍をされています。
 前シテが退場しアイとワキの大避神社の神主の問答の後、橋掛に飾船が三艘出され、大避神社の秋祭の「船渡御」を擬して、狂言方による猿田彦の舞や獅子舞などが演じられるという、華やかな演出となっています。

 そして聖徳太子が別シテとして登場するのですが、この「別シテ」という表現に初めて接しました。役柄としては、『蝉丸』のような両シテと同じ扱いではないかと思います。そして最後に、梅若玄祥師演ずる聖徳太子の別シテと、太子に諭されて和魂(にぎみたま)となった河勝の大槻文蔵師、アイの茂山千之丞師の三人で「三人舞」が舞われます。


三人舞(公演パンフレットより)

 初演が大阪薪能であったためでしょうか、フェスティバル能の絢爛豪華さが至る所に見受けられる、楽しい1時間半の観能でありました。


  新作能「河勝」梗概

 怨霊に興味を持つアイは、世阿弥の伝書に書かれていた、聖徳太子の重臣、秦河勝がうつぼ舟に乗せられ、坂越に流れ着き、怨霊と化したという記載に心惹かれ、新幹線にて坂越への旅へ出かける。
 河勝が祀られている坂越の大避神社で神官に会い、河勝のことを深く教えて貰うが、その神官は実は河勝その人の亡霊であった。日も落ちてくる頃、本物の神官に出会い、河勝を慰める祭りなどを見ている最中、雲行きが怪しくなり、神鳴りする内に、河勝の怨霊が荒れ狂って登場する。
 神官の祈りに応じて、光明と共に聖徳太子が現れ、河勝を諭す。「和を以って貴しとなすとは。憤りを忘れ去ること非ず。憤りを基に和の世界へと導くこそ。民に慈悲をば照らすべし」と教えられ、河勝も憤りを鎮め、共に御代を守る約束をし、共に能楽を奏でる。太子は黒駒に乗り飛鳥の里へ、河勝は赤穂の地に留まり守り神となる。
                  (大槻能楽堂のホームページ「曲目解説」を参照)


番号3-264
漢字本文(題詞)柿本朝臣人麻呂従近江國上来時、至宇治河邊作歌歌一首
漢字本文物乃部能八十氏河乃阿白木尒不知代經浪乃去邊白不母
読み下し文(題詞)柿本朝臣人麻呂の近江国より上り来し時に、宇治川の辺に至りて作れる歌一首
読み下し文もののふの八十氏河の網代木にいさよふ波の行く方知らずも
訓みもののふのやそうぢがはのあじろきにいさよふなみのゆくへしらずも
現代語訳もののふの多くの人、その氏――宇治川の網代の木に漂いつづける波のように、行く末のわからないことよ。
歌人柿本朝臣人麻呂 / かきのもとのあそみひとまろ
歌人別名人麻呂
歌体短歌
時代区分第2期
部立雑歌
季節なし


「もののふの。八十氏河の網代木に。いざよふ波の。行く方はいづくぞ。その生島は如何なる島ぞ。かゝる人なき。孤島の果てに。押し込め遂には。憤死と至り。今また大荒の名の如く。この世に怨みを。晴らさんとて。即ち現れ。出でたるなり

後シテ「いかに人々。我の恨みは海より深し。汝これまで来たれるも。我が想ひを知らん為ならずや。いで人々に報復せん  

ワキ「いやいや早まり給ふなよ。御身はすでに神となり斎れ給ひ人々を。守る神にてましまさずや  

後シテ「いいやいかに言ふとも。恨みは我に限るまじ。今現し世に起こりし科の数々。民は憤りに震へしなり。我が代はりて成敗せん

アイ「いや申し申し。なう神主殿。身共はこれまでいろいろ怨霊に逢つてござるが。この樣に憤り狂ふ怨霊は初めてでござる。某は恐ろしうてなりませぬ。何とかして下され 

 ワキ「誠に凄まじい事にて候。某は摂社へ参り太子に祈誓をかけ申さうずるにて候  

アイ「と、と、ともかく早うして下され

別シテ「いかにやいかに秦河勝。何とて神には納まらぬぞおろかにてあるぞ河勝河勝 

「憤りの焰。黒煙となり。雷しきりに轟く中に。一条の光明さし下り。あらたに太子。現れ給ふ

別シテ「いかに河勝。河勝この地に流されし事。誠に哀れなりさりながら。御身の功臣勲功は世に響き。情け深き人々により。大荒れすれども大明神と。崇め奉られし神ぞとよ。憤りを鎮め和に導かずは。我が忠臣にあるまじきぞや  

後シテ「帝は左様に仰せあれど。逆賊の徒は我等が創りし礎を乗つ取り。代々を重ねて企み事をめぐらし。政を永く掌中に納めんとて。策略をなししは不逞ならずや 

 別シテ「申すは理なり我もまた。皇子一族滅ぼされ。恨みは瞋恚の炎の如く。天をも突くばかりなれども。怯え恐るる者共は。法隆の寺を建立し我を鎮魂せし上は。憤りは永久に残れども。和らかなる心に立ち帰り。太平の御代を寿ぐべしや  

後シテ「今現し世の有様は。無法を極むるばかりなり。これを政とは申すべきか。今一度逆鱗の姿を現して。真の道を人々に。教えずとては叶ふまじ  

別シテ「御身の申すところは正き道さりながら。和を以つて貴しとは。憤りを忘れ捨て去ることに非ず。憤りを基に和の世界へと導くこそ。民に慈悲をば照らすべし。然れば経にも書きし如く  

「釈迦は慈悲の徳。忍辱の徳を説き給ひと。非道無心の輩ありとも。慈悲の心を勧むるならば。必ず和の世に至るべし。心得給へ河勝と。かきくどきかきくどき宣へば。

後シテ「今こそは。恨みを捨てて世の為の。誠の道に赴かん  

別シテ「今こそは。共に守りの神ならん。開けし世をば。守るべし


 大阪から赤穂へは新快速列車で1時間半ほどの旅、昔を思えば随分と速くなったものです。私は10代の後半まで兵庫県の西端の上郡に住んでおり、小学生のころ赤穂へ行くには、現在のように相生からではなく、相生と上郡の中間にある有年(うね)という駅から、通称マッチ箱と呼ばれた汽車を利用していた記憶があります。
 さて、JR赤穂線の終点である播州赤穂より一つ手前の坂越で下車、千種川を渡り、昔ながらの景観を残す坂越の街並みを抜けると坂越の港、目の前には秦河勝の墓がある生島が浮かんでおり、その山の手に大避神社は鎮座しています。


大避神社の随神門を望む

 大避神社の祭神は、大避大明神(秦河勝公)と天照皇大神、春日大神。秦河勝の名前だけはよく耳にしたことがあるのですが、その実体についてはほとんど何も知らない状態です。拙速ながら Wikipediaの力を借りることといたしました。以下その引用です。


秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。
没したのは赤穂の坂越である。一説には流罪に遭ったためという。坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。
本拠地とした京都市右京区太秦や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。さらに右京区西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた。秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、戦国大名で知られる土佐国の長宗我部氏が有名。幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。猿楽などに従事した芸能の民にも河勝の裔を名乗る者は多く、代表的なものとしては金春流が挙げられる。彼らの伝承では河勝は猿楽の祖でもある。能楽の観阿弥、世阿弥親子も河勝の子孫を称した。また、現在楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるという。
佐伯好郎は明治41年(1908))、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。秦一族が渡来する6世紀以前にすでに唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。ただしこれは学会の通説とはなっていない。

 秦氏とキリスト教の関連については、能『河勝』にも見られ、梅原猛氏もその公演で触れており、大変興味深いものがあります。
 これに関して、司馬遼太郎の初期の作品である『兜率天の巡礼』において、ここ大避神社が登場し、神主がその先祖を語るのですが…、

「秦ノ始皇帝です」
「からかわれては困る」
「からかってはいない。秦ノ始皇帝ということに、私の先祖は一応なっている。これは、日本書紀に明記されている。始皇帝の裔功満王の子弓月(ゆづき)ノ君が、山東百二十県の民を率いて日本に帰化した。その移民団が、どこに上陸したか。それはあなたが今いるこの岬に上陸した。そしてこの神社近辺に定着し、まず井戸を掘った。その井戸から汲んだ水が、いまあなたが喫んでいるその茶です」
「………」
「ということに日本書紀ではなっているが、私は秦ノ始皇帝とは思わない。むかし、田村卓政やゴルドン女史が、説をたてた。その説に私は従っている。つまり、ユダヤ人だったんだ」

 そして、祭神について興味深い物語が続きます…。

「一体、祭神はどういう……」
「三柱が在します。まず、天照大神。ついで春日大神。天照大神は大和朝廷の氏神であるし、春日大神は藤原氏である。秦一族は、自ら異民族であることを愧じ、かつ当時の二大勢力への気兼ねから、先ず両柱を奉った。三番目の神こそ、これが秦氏が信奉する唯一無二の神だ」
「それは──」
「大避大神だよ。この神名、古事記にもない。申せば、つまり異教の神だ」
「仏教の神かな。たとえば本地垂迹した八幡大菩薩や、また金比羅権現のような──」
「秦の一族が渡来した頃は、人皇十五代応神天皇の頃だから、仏教はまだこの国には入っていない。それから約三百年欽明朝に至って、漸く入った」
「支那や朝鮮の土俗神だろうか」
「ちがうね」
「すると、……」
「キリスト教の神だよ。宇宙の唯一神ゴッドだ。なぜかと云えば……」
「……」
「この神社は延喜式以後大避神社と書くがそれ以前は、大闢(だいびゃく)とも書いたと古記録にある。大闢、だいびゃくとは、──漢訳聖書を見たことがあるか」
「ない」
「ダビデの漢訳語だ。この神社は、ダビデの礼拝堂であった。秦一族は、古代キリスト教の一派景教を信じていたというのが私の説である」

 小説のこととて真偽のほどは定かではありませんが、想像をたくましくして古代史に遊ぶには絶好のテーマかも知れません。能『河勝』においても、このキリスト教との関連について、アイとワキ(神主)との間で聖なる数「12」をめぐる掛け合いがあります。

「いやこれは感激致いた。ご祝儀を差し上げねばならぬ。いかほど致さうか 

「当社は十二といふ数に深き因縁をもつて候 

「ホホウ、十二とは 「河勝この地に流れ着きしも十二日なれば。祭りも十二日に行ひ候。その祭りの舟は十二艘。司る家が十二軒。社段の数も十二段。河勝使ひし古井戸の柱は十二本。されば供へ物すべて十二にて候よ 

「これは驚いた。すべて十二じゃ。さもあらば若しや奉納金は十二円 

「それはあまりに少なう候 

「はゝあ御尤も。百二十円、千二百円、いや一万二千円は多いかな 

「ユダヤの部族は十二の部族。キリストの弟子も十二人」

「ユダヤの教えは三が聖数。や、若しや河勝にキリストのにほひが

 「確かとは申さず候へども。当社本宮の鳥居は三柱にて候ふよ 

 この「奉納金は十二円」「それはあまりに少なう候」の件りでは、場内大爆笑。貴公子然たる福王和幸が生真面目に応えるところに何とも云えぬおかしみがあります。場内が一瞬なごやかな空気に包まれました。
 さて「社段の数も十二段」ということですので、拝殿の前の石段を数えてみましたところ、確かに12段ありました。ただ、ネストリウス派のキリスト教と「12」の関連について調べてみたのですが、残念ながら確かなことは何も分かりませんでした。

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