2026年4月17日金曜日

パララックス・ビュー (映画) - Wikipedia

パララックス・ビュー (映画) - Wikipedia

パララックス・ビュー』(原題:The Parallax View)は、1974年制作のアメリカ合衆国スリラー映画

ローレン・シンガー英語版原作のポリティカル・スリラー小説をアラン・J・パクラ監督、ウォーレン・ベイティ主演で映画化。タイトルの意味は「視差」。

あらすじ

次期大統領候補と目されるキャロル上院議員がシアトルスペースニードルで演説中に凶弾に倒れた。事件の調査委員会は狂信的愛国者の単独犯行であると発表し、そのまま事件は忘れ去られた。

3年後、ロサンゼルスの地方紙で記者ジョー・フレイディの自宅に、女性ジャーナリストでかつての恋人でもあったリー・カーターがやってきた。彼女はキャロル上院議員暗殺事件の20人近い目撃者の1人だったが、3年間にそのうちの6人が不慮の事故で死亡し、やがて自分も殺されるのではないかとジョーに打ち明け、ひどく怯える。ジョーはその話を一笑に付したが、数日後、リーは死体となって発見される。死因は睡眠薬の過剰摂取とされた。

この事件に疑惑を抱いたジョーは、やはり現場にいた判事が事故死したことを知り、暗殺事件の再調査を始める。その結果、彼は“パララックス・コーポレーション”という会社の就職願書と適性テスト用紙を発見する。さらに調査を進めたジョーは、その願書が巧妙に反社会的な性格をもつ人間を選びだすことを目的としたものであると知る。

ジョーはキャロル上院議員の選挙参謀だったオースティン・タッカーを探し出したが、タッカーも爆殺されてしまう。ジョーは最後の手段としてパララックス社に潜入、そこでキャロル上院議員の暗殺現場に給仕として雇われていた男を目撃した。やはり暗殺事件はパララックス社の仕業であった。

ジョーはパララックス社が次のターゲットとして、やはり次期大統領候補であるハモンド上院議員をマークしていることを知り、その選挙演説会場に潜入する。

キャスト

役名 俳優 日本語吹替[1]
フジテレビ
ジョー・フラディ ウォーレン・ベイティ 柴田侊彦
ビル・リンテルズ ヒューム・クローニン 千葉順二
オースティン・タッカー ウィリアム・ダニエルズ 西村知道
リー・カーター ポーラ・プレンティス 弥永和子
ネルソン・シュワルツコフ教授 アンソニー・ザーブ[2]
不明
その他
徳丸完
村越伊知郎
塩見竜介
藤城裕士
竹口安芸子
緑川稔
筈見純
馬場はるみ
広瀬正志
鈴木れい子
鎗田順吉
黒部鉄
小出和明
演出 中野寛次
翻訳 飯嶋永昭
効果 遠藤堯雄
桜井俊哉
調整 遠矢征男
制作 東北新社
解説 高島忠夫
初回放送 1979年11月2日
ゴールデン洋画劇場[3]
DVD収録

脚注

  1.  パララックス・ビュー”. 洋画専門チャンネル ザ・シネマ. 2023年2月1日閲覧。
  2.  ノンクレジット
  3.  allcinema『【DVD】パララックス・ビュー 映画データベース - allcinema』。2023年2月1日閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

パララックス・ビュー (映画)

あらすじ

次期大統領候補と目されるキャロル上院議員がシアトルスペースニードルで演説中に凶弾に倒れた。事件の調査委員会は狂信的愛国者の単独犯行であると発表し、そのまま事件は忘れ去られた。

3年後、ロサンゼルスの地方紙で記者ジョー・フレイディの自宅に、女性ジャーナリストでかつての恋人でもあったリー・カーターがやってきた。彼女はキャロル上院議員暗殺事件の20人近い目撃者の1人だったが、3年間にそのうちの6人が不慮の事故で死亡し、やがて自分も殺されるのではないかとジョーに打ち明け、ひどく怯える。ジョーはその話を一笑に付したが、数日後、リーは死体となって発見される。死因は睡眠薬の過剰摂取とされた。

この事件に疑惑を抱いたジョーは、やはり現場にいた判事が事故死したことを知り、暗殺事件の再調査を始める。その結果、彼は“パララックス・コーポレーション”という会社の就職願書と適性テスト用紙を発見する。さらに調査を進めたジョーは、その願書が巧妙に反社会的な性格をもつ人間を選びだすことを目的としたものであると知る。

ジョーはキャロル上院議員の選挙参謀だったオースティン・タッカーを探し出したが、タッカーも爆殺されてしまう。ジョーは最後の手段としてパララックス社に潜入、そこでキャロル上院議員の暗殺現場に給仕として雇われていた男を目撃した。やはり暗殺事件はパララックス社の仕業であった。

ジョーはパララックス社が次のターゲットとして、やはり次期大統領候補であるハモンド上院議員をマークしていることを知り、その選挙演説会場に潜入する。

NEMPさんによるXでのポスト 世界の音楽

中島敦 悟浄出世

中島敦 悟浄出世

底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫 角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/2521_14527.html

悟浄出世

寒蝉敗柳 かんせんはいりゅうに鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも 三蔵 さんぞうは二人の弟子にいざなわれ 嶮難 けんなん しのぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波 湧返 わきかえりて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に 流沙河 りゅうさがの三字を 篆字 てんじにて彫付け、表に四行の小 楷字 かいじあり。

  八百流沙界 はちひゃくりゅうさのかい
  三千弱水深 さんぜんじゃくすいふかし
  鵞毛飄不起 がもうただよいうかばず
  蘆花定底沈 ろかそこによどみてしずむ

――西遊記――



 そのころ 流沙河 りゅうさがの河底に んでおった 妖怪 ばけものの総数およそ一万三千、なかで、 かればかり心弱きはなかった。 かれに言わせると、自分は今までに九人の 僧侶 そうりょ った罰で、それら九人の 骸顱 しゃれこうべが自分の くび 周囲 まわりについて離れないのだそうだが、他の 妖怪 ばけものらには誰にもそんな 骸顱 しゃれこうべは見えなかった。「見えない。それは ※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45) おまえの気の迷いだ」と言うと、 かれは信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の 妖怪 ばけものらは互いに言合うた。「 あいつは、 僧侶 そうりょどころか、ろくに人間さえ ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。 ふなざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らは かれ 綽名 あだなして、 独言悟浄 どくげんごじょうと呼んだ。 かれが常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に さいなまれ、心の中で 反芻 はんすうされるその かなしい自己 苛責 かしゃくが、つい ひとり言となって れるがゆえである。遠方から見ると小さな あわ かれの口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が かすかな声で つぶやいているのである。「 おれはばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は 堕天使 だてんしだ」とか。
 当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。悟浄がかつて 天上界 てんじょうかい 霊霄殿 りょうしょうでん 捲簾 けんれん大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての 妖怪 ばけものの中で かれ一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。 身体 からだが同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問を かれ らすと、 妖怪 ばけものどもは「また、始まった」といって わらうのである。あるものは 嘲弄 ちょうろうするように、あるものは 憐愍 れんびんの面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。

 事実、 かれは病気だった。
 いつのころから、また、何が もとでこんな病気になったか、 悟浄 ごじょうはそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このような いとわしいものが、周囲に重々しく 立罩 たちこめておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分が いとわしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日も 洞穴 ほらあな こもって、食を らず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。不意に立上がってその辺を歩き まわり、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。それさえ渠には わからなんだ。ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで まとまった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
 医者でもあり・ 占星師 せんせいしでもあり・ 祈祷者 きとうしゃでもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。 因果 いんがな病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは みじめな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・ 正真正銘 しょうしんしょうめいの・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ おれは俺を俺と思うのか?  ほかの者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い 徴候 ちょうこうじゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で なおすよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」


 文字の発明は くに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を 軽蔑 けいべつする習慣があった。生きておる 智慧 ちえが、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも けようが。)それは、煙をその形のままに手で らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の 徴候 しるしとして しりぞけられた。悟浄が日ごろ 憂鬱 ゆううつなのも、 畢竟 ひっきょう かれが文字を解するために違いないと、 妖怪 ばけものどもの間では思われておった。
 文字は とうとばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの 語彙 ごいははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは 流沙河 りゅうさがの河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について 瞑想 めいそうしておった。ある高貴な魚族は、美しい しまのある鮮緑の かげで、 竪琴 たてごとをかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を たたえておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない 悟浄 ごじょうは、こうした知的な 妖怪 ばけものどもの間で、いい なぶりものになった。一人の 聡明 そうめいそうな怪物が、悟浄に向かい、 真面目 まじめくさって言うた。「真理とはなんぞや?」そして かれの返辞をも待たず、 嘲笑 ちょうしょうを口辺に浮かべて 大胯 おおまたに歩み去った。また、一人の妖怪――これは ※魚 ふぐ[#「魚+台」、U+9B90、135-7]の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ たずねて来た。悟浄の病因が「死への恐怖」にあると察して、これを わらおうがためにやって来たのである。「生ある間は死なし。死 いたれば、すでに我なし。また、何をか おそれん。」というのがこの男の論法であった。悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。というのは、 かれ自身けっして死を おそれていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。 わらおうとしてやって来た※[#「魚+台」、U+9B90、135-12]魚の精は失望して帰って行った。

  妖怪 ばけものの世界にあっては、 身体 からだと心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちに はげしい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。堪えがたくなった かれは、ついに意を決した。「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で 愚弄 ぐろうされ わらわれようと、とにかく一応、この河の底に むあらゆる 賢人 けんじん、あらゆる医者、あらゆる 占星師 せんせいしに親しく会って、自分に 納得 なっとくのいくまで、教えを おう」と。
  かれは粗末な 直綴 じきとつ まとうて、出発した。

 なぜ、 妖怪 ばけものは妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との 均衡 つりあいを絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に 貪食 どんしょくで、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に 淫蕩 いんとうで、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に 固執 こしゅうしていて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。他人の考えの筋道を 辿 たどるにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。それゆえ、 流沙河 りゅうさがの水底では、何百かの世界観や 形而上 けいじじょう学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは 願望 ねがいはあれど 希望 のぞみなき 溜息 ためいきをもって、 揺動 ゆれうごく無数の 藻草 もぐさのようにゆらゆらとたゆとうておった。


 最初に 悟浄 ごじょうが訪ねたのは、 黒卵道人 こくらんどうじんとて、そのころ最も高名な 幻術 げんじゅつ 大家 たいかであった。あまり深くない水底に 累々 るいるいと岩石を積重ねて 洞窟 どうくつを作り、入口には 斜月三星洞 しゃげつさんせいどうの額が掛かっておった。 庵主 あんじゅは、 魚面人身 ぎょめんじんしん、よく幻術を行のうて、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、 飛者 とりを走らしめ、 走者 けものを飛ばしめるという うわさである。悟浄はこの道人に 月仕えた。幻術などどうでもいいのだが、幻術を くするくらいなら 真人 しんじんであろうし、真人なら宇宙の大道を 会得 えとくしていて、 かれの病を いやすべき 智慧 ちえをも知っていようと思われたからだ。しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。 ほらの奥で 巨鼇 きょごうの背に座った 黒卵道人 こくらんどうじんも、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて 神変不可思議 しんぺんふかしぎの法術のことばかり。また、その術を用いて敵を あざむこうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。結局、ばかにされ わらいものになった 揚句 あげく、悟浄は三星洞を追出された。

 次に悟浄が行ったのは、 沙虹隠士 しゃこういんしのところだった。これは、年を経た えびの精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。悟浄はまた、 月の間、この老隠士に侍して、身の まわりの世話を焼きながら、その 深奥 しんおうな哲学に触れることができた。老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はなべて むなしい。この世に何か一つでも きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい 理窟 りくつを考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、 懊悩 おうのう、恐怖、幻滅、闘争、 倦怠 けんたい。まさに 昏々昧々 こんこんまいまい 紛々若々 ふんぷんじゃくじゃくとして するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。 まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。 果敢 はかない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
 悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように 隠士 いんしは付加えた。
「だが、若い者よ。そう おそれることはない。 なみにさらわれる者は おぼれるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この 有為転変 ういてんぺんをのり超えて 不壊不動 ふえふどうの境地に到ることもできぬではない。 いにしえ 真人 しんじんは、 く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、 不死不生 ふしふしょうの域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの つ楽しみもない。無味、無色。 まこと 味気 あじけないこと ろうのごとく砂のごとしじゃ。」
 悟浄は控えめに口を はさんだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、 不動心 ふどうしんの確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は 目脂 めやに たまった眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を ほかにして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した まぼろしじゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい 謬見 びゅうけんじゃ。世界が消えても、正体の わからぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
 悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と 下痢 げりののちに、この老 隠者 いんじゃは、ついに たおれた。かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって 抹殺 まっさつできることを喜びながら……。
 悟浄は ねんごろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。

  うわさによれば、 坐忘 ざぼう先生は常に 坐禅 ざぜんを組んだまま眠り続け、五十日に一度目を まされるだけだという。そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は ねむっておられた。なにしろ 流沙河 りゅうさがで最も深い谷底で、上からの光もほとんど して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に 結跏趺坐 けっかふざしたまま睡っている 僧形 そうぎょうがぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に すわって眼を つぶってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
 悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、 礼拝 らいはいをするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度 まばたきをした。しばらく無言の 対坐 たいざを続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「 とつ!  秦時 しんじ ※轢鑚 たくらくさん[#「車+度」、U+2834F、139-16]!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を くらった。 かれはよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒が りて来なかった。厚い くちびるを開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが ※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45) おまえじゃ。冬になって寒さを感ずるものが※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)じゃ。」さて、それで厚い くちびるを閉じ、しばらく 悟浄 ごじょうのほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。そうして、五十日間それを開かなかった。悟浄は 辛抱強 しんぼうづよく待った。五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に すわっている悟浄を見て言った。「まだいたのか?」悟浄は つつしんで五十日待った旨を答えた。「五十日?」と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を くことじゃろう。 大椿 たいちん 寿 じゅも、 朝菌 ちょうきん ようも、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの 装置 しかけじゃわい」
 そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって 恭々 うやうやしく頭を下げてから、立去った。

「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
 と、 流沙河 りゅうさがの最も繁華な四つ つじに立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い 生涯 しょうがいが、その前とあととに続く無限の 大永劫 だいえいごうの中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の 大広袤 だいこうぼうの中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に つながれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己 欺瞞 ぎまん 酩酊 めいていとに過ごそうとするのか?  のろわれた 卑怯者 ひきょうものめ! その間を なんじ みじめな理性を たのんで 自惚 うぬぼれ返っているつもりか?  傲慢 ごうまんな身の ほど知らずめ!  噴嚏 くしゃみ一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
  白皙 はくせきの青年は ほおを紅潮させ、声を らして 叱咤 しったした。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい ひとみに見入った。 かれは青年の言葉から火のような きよい矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々の しうるのは、ただ神を愛し おのれを憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと 自惚 うぬぼれてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
 確かにこれは きよ すぐれた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今 えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。 訓言 おしえは薬のようなもので、 ※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)おこりを病む者の前に ※(「やまいだれ+重」、第4水準2-81-58)はれものの薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。

 その四つ つじから程遠からぬ 路傍 ろぼうで、悟浄は醜い 乞食 こじきを見た。恐ろしい 佝僂 せむしで、高く盛上がった背骨に られて 五臓 ごぞうはすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、 おとがい へそを隠すばかり。おまけに肩から背中にかけて一面に赤く ただれた 腫物 はれものが崩れている有様に、悟浄は思わず足を めて 溜息 ためいき らした。すると、 うずくまっているその 乞食 こじきは、 くびが自由にならぬままに、赤く濁った 眼玉 めだまじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。それから、上に 吊上 つりあがった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、 かれを見上げて言った。
僭越 せんえつじゃな、わし あわれみなさるとは。若いかたよ。わし 可哀想 かわいそうなやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい 恰好 かっこうになるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左 ひじが鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が はじき弓になったら、それで ※(「号+鳥」、第3水準1-94-57) ふくろうでもとって あぶり肉をこしらえようし、わし しりが車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、 重宝 ちょうほうじゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、 子輿 しよというてな、 子祀 しし 子犁 しれい 子来 しらいという三人の 莫逆 ばくぎゃくの友がありますじゃ。みんな 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、142-16]氏の弟子での、ものの形を超えて 不生不死 ふしょうふし きょうに入ったれば、水にも れず火にも けず、寝て夢見ず、覚めて うれいなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって かしらとし、生をもって背とし、死をもって しりとしとるわけじゃとな。アハハハ……。」
 気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは 真人 しんじんというものかもしれんと思うた。この言葉が 本物 ほんものだとすればたいしたものだ。しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと うみ くささとが悟浄に生理的な 反撥 はんぱつを与えた。 かれはだいぶ心を かれながらも、ここで 乞食 こじきに仕えることだけは思い止まった。ただ先刻の話の中にあった女※[#「にんべん+禹」、U+504A、144-7]氏とやらについて教えを いたく思うたので、そのことを らした。
「ああ、 師父 しふか。師父はな、これより北の かた、二千八百里、この 流沙河 りゅうさが 赤水 せきすい 墨水 ぼくすいと落合うあたりに、 いおりを結んでおられる。お前さんの 道心 どうしんさえ堅固なら、ずいぶんと、 教訓 おしえも垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」と、みじめな 佝僂 せむしは、 とがった肩を精一杯いからせて 横柄 おうへいに言うた。


 流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、 悟浄 ごじょうは北へ旅をした。夜は 葦間 あしま 仮寝 かりねの夢を結び、朝になれば、また、 はて知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。楽しげに 銀鱗 ぎんりん ひるがえす 魚族 いろくずどもを見ては、 何故 なにゆえに我一人かくは心 たのしまぬぞと思い びつつ、 かれは毎日歩いた。途中でも、目ぼしい 道人 どうじん 修験者 しゅげんしゃの類は、 あまさずその門を たたくことにしていた。

  貪食 どんしょくと強力とをもって聞こえる ※(「虫+(収-又)」、第4水準2-87-27)髯鮎子 きゅうぜんねんしを訪ねたとき、色あくまで黒く、 たくましげな、この なまず 妖怪 ばけものは、 長髯 ちょうぜんをしごきながら「遠き おもんばかりのみすれば、必ず近き うれいあり。 達人 たつじんは大観せぬものじゃ。」と教えた。「たとえばこの魚じゃ。」と、 鮎子 ねんしは眼前を泳ぎ過ぎる一尾の こい つかみ取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。「この魚だが、この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わし とならねばならぬ 因縁 いんねんをもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも 仙哲 せんてつにふさわしき振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は 何故 なにゆえに鯉なりや、鯉と ふなとの相異についての 形而上 けいじじょう学的考察、等々の、ばかばかしく 高尚 こうしょうな問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お まえは。おまえの 物憂 ものうげな の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお 貪婪 どんらんそうな眼つきを悟浄のうなだれた 頸筋 くびすじ そそいでおったが、急に、その眼が光り、 咽喉 のどがゴクリと鳴った。ふと首を上げた悟浄は、 咄嗟 とっさに、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭い つめが、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた 貪食 どんしょく的な顔が大きく迫ってきた。悟浄は強く水を って、泥煙を立てるとともに、 愴惶 そうこうと洞穴を逃れ出た。 苛刻 かこくな現実精神をかの 獰猛 どうもうな妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は ふるえながら考えた。

 隣人愛の教説者として有名な 無腸公子 むちょうこうし 講筵 こうえんに列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然 えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は かに 妖精 ようせいゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ べてしまったのを見て、 仰天 ぎょうてんした。
  慈悲忍辱 じひにんにくを説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。そして、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。忘れたのではなくて、先刻の飢えを たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。ここにこそ おれの学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、 悟浄 ごじょうへん 理窟 りくつをつけて考えた。俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。 かれは、 とうと おしえを得たと思い、 ひざまずいて拝んだ。いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。教訓を、 罐詰 かんづめにしないで なまのままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、 はいをしてから、うやうやしく立去った。

  蒲衣子 ほいし 庵室 あんしつは、変わった道場である。 わずか四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに なろうて、自然の 秘鑰 ひやくを探究する者どもであった。探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。彼らの勤めるのは、ただ、自然を て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く 洗煉 せんれんすることです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」と弟子の一人が言った。
「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす あおい氷、 紅藻 べにもの揺れ、夜水中でこまかくきらめく 珪藻 けいそう類の光、 鸚鵡貝 おうむがい 螺旋 らせん 紫水晶 むらさきすいしょうの結晶、 柘榴石 ざくろいしの紅、 螢石 ほたるいしの青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」と、また、別の弟子が続けた。「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが 創造 つくることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
 その間も、師の 蒲衣子 ほいしは一言も口をきかず、鮮緑の 孔雀石 くじゃくいしを一つ てのひらにのせて、深い よろこびを たたえた穏やかな 眼差 まなざしで、じっとそれを見つめていた。
 悟浄は、この庵室に ひと月ばかり滞在した。その間、 かれも彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を たたえ、その 最奥 さいおうの生命に同化することを願うた。自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に かれたためである。
 弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。 はだは白魚のように きとおり、 黒瞳 こくとうは夢見るように大きく見開かれ、額にかかる 捲毛 まきげ はとの胸毛のように柔らかであった。心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの かすかな 陰翳 かげが美しい顔にかかり、 よろこびのあるときは静かに澄んだ ひとみの奥が夜の宝石のように輝いた。師も 朋輩 ほうばいもこの少年を愛した。素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。少年は、ひまさえあれば、白い石の上に 淡飴色 うすあめいろ 蜂蜜 はちみつを垂らして、それでひるがおの花を いていた。
  悟浄 ごじょうがこの 庵室 あんしつを去る四、五日前のこと、少年は朝、 いおりを出たっきりでもどって来なかった。彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の 蒲衣子 ほいしはまじめにそれをうべなった。そうかもしれぬ、あの ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
 悟浄は、自分を取って おうとした なまず 妖怪 ばけもの たくましさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。

 蒲衣子の次に、 かれ 斑衣※婆 はんいけつば[#「魚+厥」、U+9C56、148-15]の所へ行った。すでに五百余歳を経ている 女怪 じょかいだったが、 はだのしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、 婀娜 あだたるその姿態は 鉄石 てっせきの心をも とろかすといわれていた。肉の楽しみを きわめることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿 端正 たんせいな若者を集めて、この中に たし、その楽しみに けるにあたっては、 親昵 しんじつをも しりぞけ、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、 月に一度しか外に顔を出さないのである。悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。道を求める者と聞いて、 ※婆 けつば[#「魚+厥」、U+9C56、149-3]は悟浄に説き聞かせた。ものうい つかれの かげを、 嬋娟 せんけんたる容姿のどこかに見せながら。
「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも 仙哲 せんてつの修業も、つまりはこうした 無上法悦 むじょうほうえつの瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を けるということは、実に、百千万億 恒河沙 ごうがしゃ 劫無限 こうむげんの時間の中でも まこと いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は あきれるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの しびれるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」と女怪は酔ったように ※(「艷のへん+盍」、第4水準2-88-94)妖淫靡 えんよういんびな眼を細くして叫んだ。
貴方 あなたはお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに とどまっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が 困憊 つかれのために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを うらんで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
 悟浄の醜さを あわれむような つきをしながら、最後に ※婆 けつば[#「魚+厥」、U+9C56、149-18]はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
 醜いがゆえに、毎年死んでいく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。

  賢人 けんじんたちの説くところはあまりにもまちまちで、 かれはまったく何を信じていいやら解らなかった。
「我とはなんですか?」という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。「まず えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら 鵝鳥 がちょうじゃ」と。他の賢者はこう教えた。「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」と。また、 いわく「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは 所詮 しょせん、我の知る あたわざるものだ」と。
 別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が ほろびたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」と。
 次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の 堆積 たいせきだよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、 おれたちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの わずか一部の、 おぼろげな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。

 さて、五年に近い 遍歴 へんれきの間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、 悟浄 ごじょうは結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を っていたように思う。それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。 そとからいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。思索による意味の探索以外に、もっと直接的な 解答 こたえがあるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした おのれの愚かさ。そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、 かれは目指す 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、151-17]氏のもとに着いた。

  女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、152-1]氏は一見きわめて平凡な 仙人 せんにんで、むしろ 迂愚 うぐとさえ見えた。悟浄が来ても別に かれを使うでもなく、教えるでもなかった。 堅彊 けんきょうは死の 柔弱 にゅうじゃくは生の徒なれば、「学ぼう。学ぼう」というコチコチの態度を忌まれたもののようである。ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何か つぶやいておられることがある。そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。 月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。「 賢者 けんじゃが他人について知るよりも、 愚者 ぐしゃ おのれについて知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女※[#「にんべん+禹」、U+504A、152-7]氏から聞きえた唯一の言葉だった。 月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、 暇乞 いとまごいに師のもとへ行った。するとそのとき、珍しくも女※[#「にんべん+禹」、U+504A、152-9]氏は 縷々 るるとして悟浄に教えを垂れた。「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」「 つめや髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」「酔うている者は車から ちても傷つかないことについて」「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
 女※[#「にんべん+禹」、U+504A、152-14]氏は、自分のかつて っていた、ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は 星辰 せいしんの運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、 深甚微妙 しんじんみみょうな計算によって、既往のあらゆる出来事を さかのぼって知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、 何故 なにゆえに(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに さがし出せないことを見いだしたからである。何故 向日葵 ひまわりは黄色いか。何故草は緑か。何故すべてがかく るか。この疑問が、この 神通力 じんずうりき広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに みじめな死にまで導いたのであった。
  女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、153-5]氏はまた、別の 妖精 ようせいのことを話した。これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、 小妖精 しょうようせいは熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女※[#「にんべん+禹」、U+504A、153-9]氏は語った。かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は わざわいじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の 毒汁 どくじゅうの中に浸さずにはいられぬ あわれな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
  悟浄 ごじょうは謹しんで師に答えた。師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます 泥沼 どろぬまに陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。それを聞いて 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、154-3]氏は言った。
「渓流が流れて来て 断崖 だんがいの近くまで来ると、一度 渦巻 うずまきをまき、さて、それから 瀑布 ばくふとなって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、 那落 ならくまでは一息。その途中に思索や反省や 低徊 ていかいのひまはない。 臆病 おくびょうな悟浄よ。お前は 渦巻 うずまきつつ落ちて行く者どもを恐れと あわれみとをもって ながめながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと 躊躇 ちゅうちょしているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。 渦巻 うずまきにまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に 恋々 れんれんとして離れられないのか。 物凄 ものすごい生の渦巻の中で あえいでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
 師の教えのありがたさは 骨髄 こつずいに徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
 もはや誰にも道を聞くまいぞと、 かれは思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ わかってやしないんだな」と悟浄は 独言 ひとりごとを言いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の かない困りものだろう。まったく。」


 のろま 愚図 ぐず 悟浄 ごじょうのことゆえ、 翻然大悟 ほんぜんたいごとか、 大活現前 だいかつげんぜんとかいった あざやかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化が かれの上に働いてきたようである。
 はじめ、それは けをするような気持であった。一つの選択が許される場合、一つの みちが永遠の 泥濘 でいねいであり、他の途が けわしくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。それだのになぜ 躊躇 ちゅうちょしていたのか。そこで かれははじめて、自分の考え方の中にあった いやしい功利的なものに気づいた。 けわしい みちを選んで苦しみ抜いた 揚句 あげくに、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、 不精 ぶしょうで愚かで卑しい おれの気持だったのだ。 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、155-15]氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に わかりかけてきた。自分は、そんな世界の意味を 云々 うんぬんするほどたいした生きものでないことを、 かれは、 卑下 ひげ感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。 躊躇 ちゅうちょする前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。決定的な失敗に したっていいのだ。今までいつも、失敗への 危惧 きぐから努力を 抛棄 ほうきしていた渠が、骨折り損を いとわないところにまで 昇華 しょうかされてきたのである。


  悟浄 ごじょうの肉体はもはや疲れ切っていた。
 ある日、 かれは、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深い ねむりに落ちてしまった。まったく、何もかも忘れ果てた 昏睡 こんすいであった。渠は 昏々 こんこんとして幾日か睡り続けた。空腹も忘れ、夢も見なかった。
 ふと、 を覚ましたとき、何か 四辺 あたりが、青白く明るいことに気がついた。夜であった。明るい月夜であった。大きな まるい春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。とたんに空腹に気づいた。渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾 手掴 てづかみにしてむしゃむしゃ 頬張 ほおばり、さて、腰に げた ふくべの酒を 喇叭 らっぱ飲みにした。 うまかった。ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。 ふくべの底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
 底の 真砂 まさごの一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。水草に沿うて、絶えず小さな 水泡 みなわの列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。ときどき かれの姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては 青水藻 あおみどろの影に消える。悟浄はしだいに陶然としてきた。 がらにもなく歌が うたいたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。渠は 立停 たちどまって耳をすました。その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。低いけれども 澄透 すみとおった声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、

江国春風吹不起 こうこくのしゅんぷうふきたたず
鷓鴣啼在深花裏 しゃこないてしんかのうちにあり
三級浪高魚化竜 さんきゅうなみたこうしてうおりゅうにかす
痴人 ちじん 猶※ なおくむ[#「尸+斗」、U+21C37、158-13] 夜塘水 やとうのみず


 どうやら、そんな文句のようでもある。 悟浄 ごじょうはその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
  たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。悟浄は、魂が甘く うずくような気持で 茫然 ぼうぜんと永い間そこに うずくまっていた。そのうちに、 かれは奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。水草も魚の影も 卒然 そつぜんと渠の視界から消え去り、急に、 もいわれぬ 蘭麝 らんじゃ においが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
 前なるは手に 錫杖 しゃくじょうをついた 一癖 ひとくせありげな 偉丈夫 いじょうふ。後ろなるは、頭に 宝珠瓔珞 ほうじゅようらく まとい、頂に 肉髻 にくけいあり、 妙相端厳 みょうそうたんげん ほのかに 円光 えんこうを負うておられるは、何さま 尋常人 ただびとならずと見えた。さて前なるが近づいて言った。
「我は 托塔 たくとう天王の二太子、 木叉恵岸 もくしゃえがん。これにいますはすなわち、わが 師父 しふ、南海の 観世音菩薩 かんぜおんぼさつ 摩訶薩 まかさつじゃ。 天竜 てんりゅう 夜叉 やしゃ 乾闥婆 けんだつばより、 阿脩羅 あしゅら 迦楼羅 かるら 緊那羅 きんなら ※(「目+侯」、第3水準1-88-88)羅伽 まごらか・人・非人に至るまで等しく あわれみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、 なんじ、悟浄が 苦悩 くるしみをみそなわして、特にここに くだって 得度 とくどしたもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
 覚えず こうべを垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声―― 妙音 みょうおんというか、 梵音 ぼんおんというか、 海潮音 かいちょうおんというか、――が響いてきた。
悟浄 ごじょうよ、 あきらかに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の ほど知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ あかしせざるを証せりと言うのをさえ、 世尊 せそんはこれを 増上慢 ぞうじょうまんとて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた なんじのごときは、これを 至極 しごくの増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、 阿羅漢 あらかん 辟支仏 びゃくしぶつもいまだ求むる あたわず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば 浄業 じょうごうたちどころに成るべきに、爾、 心相羸劣 しんそうるいれつにして 邪観 じゃかんに陥り、今この 三途無量 さんずむりょうの苦悩に う。 おもうに、 なんじ 観想 かんそうによって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の 作用 はたらき いいじゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、 向後 こうご一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この 流沙河 りゅうさがを東から西へと横切る三人の僧があろう。西方 金蝉 きんせん長老の 転生 うまれかわり 玄奘法師 げんじょうほうしと、その二人の弟子どもじゃ。 とう 太宗皇帝 たいそうこうてい 綸命 りんめいを受け、 天竺国 てんじくこく 大雷音寺 だいらいおんじ 大乗三蔵 だいじょうさんぞう 真経 しんぎょうをとらんとて おもむくものじゃ。悟浄よ、 なんじも玄奘に従うて西方に おもむけ。これ爾にふさわしき 位置 ところにして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。 みちは苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に 悟空 ごくうなるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
 悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。 かれ 茫然 ぼうぜんと水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の おれだったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の 菩薩 ぼさつの言葉だって、考えてみりゃ、 女※ じょう[#「にんべん+禹」、U+504A、160-18]氏や ※(「虫+(収-又)」、第4水準2-87-27)髯鮎子 きゅうぜんねんしの言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが 救済 すくいになるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの 唐僧 とうそうとやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
 渠はそう思って久しぶりに微笑した。


 その年の秋、 悟浄 ごじょうは、はたして、 大唐 だいとう 玄奘法師 げんじょうほうし 値遇 ちぐうし奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。そうして、勇敢にして 天真爛漫 てんしんらんまん 聖天大聖 せいてんたいせい 孫悟空 そんごくうや、 怠惰 たいだな楽天家、 天蓬元帥 てんぽうげんすい 猪悟能 ちょごのうとともに、新しい 遍歴 へんれきの途に上ることとなった。しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病の け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖を めなかった。 かれ つぶやいた。
「どうもへんだな。どうも に落ちない。分からないことを いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも 曖昧 あいまいだな! あまりみごとな 脱皮 だっぴではないな! フン、フン、どうも、うまく 納得 なっとくがいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」

――「わが西遊記」の中――

パララックス・ビュー (映画) - Wikipedia

パララックス・ビュー (映画) - Wikipedia 『 パララックス・ビュー 』(原題: The Parallax View )は、 1974年 制作の アメリカ合衆国 の スリラー映画 。 ローレン・シンガー ( 英語版 ) 原作のポリ...