2026年4月15日水曜日

【鳥肌確定】名局賞特別賞に輝いた対局の終盤戦が神すぎた!【藤井 聡太 竜王・名人×増田 康宏 八段】2025

SCARLET ( 2025 Mana Ashida ) aka 果てしなきスカーレット Hateshinaki Sukâretto Anime...

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②|影山レオ(Thursar)

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②|影山レオ(Thursar)

【サブアーカイブ】
本作と直接関係しているという言及はないが、アムレット王の描写について一つ私見を加えておきたい。

シェイクスピアの戯曲に『リチャード二世』という作品がある。その中で、リチャード王が、後に自らの王位を奪うことになるヘンリー・ボリングブルックについてこのように描写する場面がある。

リチャード王
「彼(ヘンリー・ボリングブルック)はまるで民衆の心に飛び込むかのように、謙虚で親しげに振る舞っていた。
奴隷のような者にも惜しげなく敬意を示し、職人たちに笑顔で心を寄せ、運命に耐えながらも、まるで彼らの思いを自分のものとして受け止め、慰めるかのようだった。
牡蠣売りの娘に帽子を脱ぎ、荷馬車の男たちには膝を柔らかく曲げて礼を尽くす。
『ありがとう、わが同胞よ、愛する友よ』と言いながら、あたかもイングランドは彼のものであり、彼こそ臣民たちに期待される次の君主であるかのように振る舞っていたのだ」

『リチャード二世』第1幕第4場

『リチャード二世』におけるヘンリー・ボリングブルックとは、節度ある態度と善良さによって民衆からの共感と信頼を集め、その支持を背景に「王位を継承する正統性」を獲得していく人物だ。
しかし、述べたように、王族とは民衆の上に立って支配する存在であり、本来は民衆と親しく打ち解けるようなものではない。そうした行為は、上流階級の人間からは身分秩序を崩しかねない異様なものとして捉えられていた。
リチャード2世も、ヘンリーの振る舞いを「計算された人気取りであり、王の威厳を損なう卑しい行為」として警戒しつつ、軽蔑の気持ちを持って見ているのである。

そして、『果てしなきスカーレット』のアムレット王も、城下町に出て民衆と肩を並べ、対等な者同士のように親しく交流する場面が描かれている。
こうした人物像は実に当時の王族らしくない。
しかし、このイメージ自体は『リチャード二世』におけるヘンリーのイメージとかなり一致するものがあるのだ。
クローディアスも、アムレットを「善人を気取っているだけの腰抜け」と呼んで、本心からの善良な人間ではないと考えている節がある。これもリチャード王がヘンリー・ボリングブルックを見る心情と重なる部分がありそうだ。
これらのことを考えると、細田監督が本作の登場人物の設定を『リチャード二世』『ヘンリー四世』からも敢えて引用している、ということは可能性としてはあり得るかもしれない。

https://note.com/thursar/n/n221f0d9a8f69

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②

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※本記事は、映画『果てしなきスカーレット』の完全なるネタバレを扱っており、その内容について一部批判的な意見を含みます。
原作小説や公式の資料等を参照する性質上、どうしても制作者の意図に触れる内容となります。十分にご注意の上ご参照ください。
作品に対するご自身の解釈はぜひ大切にしていただきたいと思います。

《ひとつ前の章》
原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く①

地の文で明かされる設定

王妃ガートルード

この作品には小説の地の文でのみ明かされる設定が多数存在するが、代表的なものは王妃ガートルードの設定だろう。

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原典の『ハムレット』では、ガートルードはハムレットを溺愛する母であり、クローディアスと再婚したばかりの王妃として登場する。ハムレット前王が亡くなって2ヶ月で、喪も明けないうちにクローディアスと再婚したために、ハムレットからそのことを激しく罵倒される場面がある。

一方、『果てしなきスカーレット』では、スカーレットに対し一貫して冷淡な態度を取り続け、アムレット王を陥れようとするクローディアスの謀略に最初から加担している悪女として描かれている。
映画だけ見ると、なぜ彼女が王である自らの夫を裏切ったかは明確にされていないが、小説ではきちんと設定が明かされている。ガートルードはアムレット王の後妻であり、スカーレットの実母ではないのだ。

ガートルードは王家の跡継ぎとなる男子を産むことを期待されて王家に嫁いだが、アムレット王との仲は冷め切ってしまい、王の後継者を産むことは見込めなくなってしまった。アムレット王の血を引くスカーレットは王位継承権を持っており、このままスカーレットが王位を継ぐことになれば、ガートルードは権力の環から外されてしまう。そのことをガートルードは恐れていた。
そのため、同じく王位継承権を持つクローディアスを焚き付けてアムレット王を排除し、王となったクローディアスの妻として権力を掴むことを目論んだのである。

小説の記述で興味深いのは、クローディアスが反乱を起こして王を殺害したのは実際にはガートルードの企みであったことを明確にしていることと、ガートルードの視点でアムレット王とスカーレットの仲を「父と娘の半ば異常ともいえる親密さ」と形容していることだ。

物語の終盤、クローディアスが落雷を受けて虚無になっていく時も、彼がひたすらに呼んでいたのはガートルードの名前であった。
このことと小説の記述を合わせてみると、クローディアスという人物の内面がわずかに垣間見える。彼にとっては、ガートルードはどんな立場・状況であれ自分の心を動かすほど重要な存在であったということだ。
クローディアスが子供の頃からアムレットを憎んでいたことは本人が口にしているが、実際には『ハムレット』のように耳に毒を流し込んではいない。しかし、ガートルードの甘言には彼は耳を傾けてしまった。そして、ガートルードがアムレットの妻である以上、彼女を手に入れるためにはアムレットを殺害するしかないのだ。
つまり、クローディアスは権力のみを欲してアムレットを殺害したわけではないということになる。
僕はここにもまた、一つの面白いドラマがあると感じるのである。

王族にあるまじきアムレット王とスカーレット

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アムレット王とスカーレットの仲についても触れよう。
映画でも小説でも二人は“仲睦まじい親子”として描かれているが、ガートルードは、二人のその親密さゆえにアムレットの愛情が全てスカーレットに向いてしまったと考えている。「夫は娘を愛しすぎる」という台詞にはそういう意味が込められている。

僕自身、最初に映画を見た時に若干の違和感を覚えたところでもある。
城から駆け出してきたスカーレットが帰還したアムレット王に抱き着く場面や、アムレット王の似顔絵を描くスカーレットが「わたくしは父さまの望む王女になります」と口にする場面がそうだ。
僕は、キャラクターデザインとその言動から、この時のスカーレットを8~9歳程度だと思っていた。しかし、設定上スカーレットは13歳なのだ。
現代でいえば中学1年生ほどの女の子である。近代的な視点で見ても、この場面のスカーレットの言動はかなり幼く見えるのだが、16世紀の王室における13歳という年齢に期待されるものは、現代のそれとは比べ物にならない。

16世紀の王室では礼儀作法が徹底されていた。
宮廷は貴族や使節、官僚など多くの人々が出入りする政治の場であり、そこでの王族の振る舞いは単なる個人の作法ではなく、王権の威厳や国家の品位を体現するものであった。
そのため必然的に、王子や王女は幼少の頃から身分にふさわしい礼儀作法を学ぶ宮廷教育を受けて育てられていた。
およそ5歳ほどの年齢で、王子には学問や統治に関する教育が、王女には信仰や教養、宮廷礼儀を中心とした教育が本格的に始められる。そして10代に入る頃には、王族の一員として公の場で求められる礼儀作法がしっかりと身についていることが期待された。
とりわけ王女の場合、13歳にもなれば、将来の結婚を見据えた宮廷の淑女としての振る舞いが求められた。それは、王女が王族の血統を受け継ぐ“王朝の資産”と見なされており、結婚によって他国との同盟関係を築くという重要な役割を担っていたからである。

現実として、16世紀のデンマーク王女 クリスティーナ・オブ・デンマークはおよそ13歳でミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しているし、まさしく16世紀末のデンマーク王女 アンナ・オブ・デンマークも14歳でスコットランド王 ジェームズ6世(イングランド王 ジェームズ1世)と結婚している。

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アンナ・オブ・デンマーク
(スコットランド王妃在位 1589年 - 1619年)

そして、この当時の宮廷教育を受けた王女であれば、その日常の動きや態度にも当然細かい注意が払われており、身のこなしや公の場での振る舞い、感情の表現に至るまで、強い自制が求められた。
これは、当時の王女教育がキリスト教(デンマークでは主にルター派プロテスタント)の道徳観念に根ざしたものだったからである。

16世紀の教育書に、スペインの人文学者フアン・ルイス・ビベスの『キリスト教女性の教育』がある。

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『キリスト教女性の教育(De institutione foeminae Christianae)』(1532年)

これはもともと、後のイングランド女王 メアリー1世の教育のために書かれたものだが、16~17世紀のヨーロッパ全域において広く読まれ、カトリック・プロテスタントを問わず、王女や貴族の少女教育のモデルとして強い影響を与えた。

ここに記された教育方針では、女性の振る舞いについて
「幼い頃から外見や態度の慎みを教える」
「騒がず、落ち着いた動作を心がける」
「遊びや社交も礼儀正しく慎重に行う」
ということが示されており、慎み深さ・礼儀正しさ・感情の制御が幼少期の教育の核心とされていた。
スカーレットのモデルの一人とされるイングランド女王 エリザベス1世の教育を担当したロジャー・アスカムも、幼少期からの慎み深い態度や礼儀正しい振る舞いの重要性について、著書『学校教師』でビベスとほぼ同一の方針を示している。

つまり、王女という高貴な立場であるはずのスカーレットが、宮廷という公の場において無邪気に駆け出したり、父とはいえ国王に人前で抱きついてベタベタ触れ合うなどということは、かなり異常な光景と言わざるを得ないのだ。
(ご丁寧なことに、本作には13歳のスカーレットがアムレット王に抱き着くシーンが2回もある)

アムレット王も、間違いなく当時のルター派プロテスタントの価値観の中で生きていたはずであり、スカーレットのこうした振る舞いが淑女らしくない“はしたないもの”であることは重々承知していたはずである。
そして、デンマーク国王とは、父である前に何よりも王室の権威と秩序を守らなければならない立場にある。
スカーレットが王女にあるまじき振る舞いを見せていたら、王としてはその態度を咎め、改めさせなければならない。こうした養育状況を放置している彼女の養育係も、宮廷から追放しなければならないだろう。
本来は「王女の前に君はひとりの女の子だ。気にせずのびのび生きなさい」などとは、口が裂けても言えないはずなのだ。
彼女が「愚かな王女」と見なされてしまったら、それは王室全体の威信に大きな傷をつけることになり、彼女の将来にも大きく影響してしまうからだ。
しかし、劇中のアムレット王がスカーレットの振る舞いを気にかける様子は全く見受けられない。ただ穏やかにスカーレットの自由奔放さを見守っているだけだ。
現代的な目線で見れば良き父なのだろうが、こと16世紀のデンマーク王室という特殊な場においては、外交面だけでなく内政・宮廷秩序の維持の面でも大きな隙を見せているということに他ならず、弟から「愚かな王」と評価されるような行動を取ってしまっていることは、残念ながら事実なのだ。

と、ここまでは現実のデンマーク王室の視点に立った場合の批判である。

ここで、小説におけるガートルードの視点が差し込まれると、若干見え方は変わってくる。
ガートルードが嫉妬の感情を抱いているにしても、彼女からの視点で、親子の仲を「半ば異常な親密さ」と描写していることはかなり大きい。
つまり、先述のスカーレットのある種の幼稚さや愚昧さ、アムレット王の王族らしくない態度というものも、細田監督はある程度自覚的に描いていたということになる。

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劇中、絵を見せてきたスカーレットに対し、ガートルードが「汚い手」と言って絵を引き裂いてしまう象徴的なシーンがあるが、これもよくよく考えればガートルードが冷たいのではない。むしろ、手や顔を汚したまま宮廷内を平然と歩くスカーレットの振る舞いがそもそも王女としてあるまじきものであり、それが公然と容認されていることの方がおかしいのだ。
叱責としてはやさしいくらいであろう。

僕はこうした、些細ではあるが重要な描写が、ガートルードの感情に十分なリアリティを持たせていると感じる。
それはすなわち、王家の血を継承する“役目”を背負って生きてきたガートルードからすれば、「王としての威厳も示さず、自分をのけ者にするアムレット王」と「王女としての役目も課されず自由に生きることを許されるスカーレット」の、見せつけるような異常な親密さこそが「王の殺害」という大罪を犯すことを決断させるほどの嫌悪の感情を湧き上がらせた、というリアリティである。


【サブアーカイブ】
本作と直接関係しているという言及はないが、アムレット王の描写について一つ私見を加えておきたい。

シェイクスピアの戯曲に『リチャード二世』という作品がある。その中で、リチャード王が、後に自らの王位を奪うことになるヘンリー・ボリングブルックについてこのように描写する場面がある。

リチャード王
「彼(ヘンリー・ボリングブルック)はまるで民衆の心に飛び込むかのように、謙虚で親しげに振る舞っていた。
奴隷のような者にも惜しげなく敬意を示し、職人たちに笑顔で心を寄せ、運命に耐えながらも、まるで彼らの思いを自分のものとして受け止め、慰めるかのようだった。
牡蠣売りの娘に帽子を脱ぎ、荷馬車の男たちには膝を柔らかく曲げて礼を尽くす。
『ありがとう、わが同胞よ、愛する友よ』と言いながら、あたかもイングランドは彼のものであり、彼こそ臣民たちに期待される次の君主であるかのように振る舞っていたのだ」

『リチャード二世』第1幕第4場

『リチャード二世』におけるヘンリー・ボリングブルックとは、節度ある態度と善良さによって民衆からの共感と信頼を集め、その支持を背景に「王位を継承する正統性」を獲得していく人物だ。
しかし、述べたように、王族とは民衆の上に立って支配する存在であり、本来は民衆と親しく打ち解けるようなものではない。そうした行為は、上流階級の人間からは身分秩序を崩しかねない異様なものとして捉えられていた。
リチャード2世も、ヘンリーの振る舞いを「計算された人気取りであり、王の威厳を損なう卑しい行為」として警戒しつつ、軽蔑の気持ちを持って見ているのである。

そして、『果てしなきスカーレット』のアムレット王も、城下町に出て民衆と肩を並べ、対等な者同士のように親しく交流する場面が描かれている。
こうした人物像は実に当時の王族らしくない。
しかし、このイメージ自体は『リチャード二世』におけるヘンリーのイメージとかなり一致するものがあるのだ。
クローディアスも、アムレットを「善人を気取っているだけの腰抜け」と呼んで、本心からの善良な人間ではないと考えている節がある。これもリチャード王がヘンリー・ボリングブルックを見る心情と重なる部分がありそうだ。
これらのことを考えると、細田監督が本作の登場人物の設定を『リチャード二世』『ヘンリー四世』からも敢えて引用している、ということは可能性としてはあり得るかもしれない。


映画には存在しない物語

さて、ここまで原作に描かれたデンマーク宮廷に関連する事柄について、あれこれ言及してきた。これだけでも実に語り甲斐があるものだと思う。

では、なぜこうした背景は映画では伝わらないのだろうか。
簡単だ。そもそも描かれていないからである。

実際に完成した映画を思い出していただきたいが、映画の冒頭で提示された情報だけで「デンマーク王国と対立しているのはスウェーデンだ」とわかった人はいただろうか。少なくとも本編には「スウェーデン」という言葉はなく、かたくなに「隣国」と言い続けていたはずだ。
もしかしたら、世界史をご存じの方なら「16世紀末のデンマークなのだから、スウェーデンと対立していたのは常識だ」とおっしゃるかもしれない。
だが、これは『ハムレット』をベースとした物語だ。
だとすれば、原典に照らしても「対立しているのはノルウェーであろう」と考えるのが自然である。
しかし、映画だけの情報では、ここが『ハムレット』的空想世界の設定なのか、あるいは現実の世界に近い設定なのか、はっきりと判別はできない。
小説では、スカーレットの住んでいた城が『ハムレット』にも登場する「エルシノア城」であることも、かなり序盤に地の文で詳細に説明されている。しかし、映画では「エルシノア」の名前が出てくるのは《死者の国》で兵士を尋問する時が最初であり、それ以前にそれを判断できる場面はないし、エルシノア城があるということはつまりここが『ハムレット』の世界だということを示唆することにもなってしまう。
ようするに、考えれば考えるほど混乱を招く作りになっているのである。
(実際、細田監督の意図に沿うのなら「現実の世界の設定に近い」と見るのが“正解”である。正解があるとすればだが)

もちろん、冒頭と最後にしか出てこないデンマークの設定がどうなっているかなど大筋の物語には大して影響していないだろう、と考えるかもしれない。

だが、「ガートルードがスカーレットの実母か否か」というのは、実際のところ、この物語の根幹においてかなり大きなポイントになっているようである。

本作の感想をさまざま読んで廻った際、「ガートルードの結末がどうにもすっきりしない」という意見を少なからず拝見した。
映画のガートルードは、クローディアスが死に、スカーレットが生き延びたということに絶望し、叫び声を上げて退場する、という結末を迎える。小説では、スカーレットの視点で「継母はこれから死ぬまで狂い続けるのだろう」という救いのない記述が加えられている。
確かに、素直に映画だけの設定でストーリーを見ると、彼女が実母であれ継母であれ、序盤から登場していた悪役の末路としては肩透かしの結末と言えなくもない。
命を失うわけでも悪事を暴露されて追放されるわけでもなく、「悪事に加担したが、失敗して絶望する」というだけで、何のカタルシスもないところに収まってしまう。実に小物臭さが出てしまうのだ。

だが、本作の悪役であるクローディアスの反逆もアムレット王の処刑も、全てガートルードの企みに起因しており、彼女が「王位継承者を産む」という自身に課せられた“役割”を全うするためにアムレット王を殺害させた、という背景が明らかになると、そこで一気にストーリー全体が重みを増す。
『果てしなきスカーレット』とは、スカーレットとガートルードの戦いの物語なのである。

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ガートルードは、クローディアスを王に仕立て上げ、その王妃の座を得た上で王位継承者を産むことを計画した。そして、全ては彼女の目論見もくろみ通りに進んだのだ。ガートルードが子供を産めなかったこと以外は。
スカーレットがクローディアスの暗殺を実行しようとするまでに、6年の時間が経過している。この間に、王妃となったガートルードはクローディアスとの間に子をもうけることを考えただろう。しかし、それは叶わなかった。子供を授かることができなかったのか。あるいは身籠った子を亡くしてしまったという可能性もある(16世紀当時の王室では流産や死産はかなり頻繁に起きていた)。
「王を殺す」という罪を犯してまで手に入れた道だというのに、手に入れてもなお自分自身では思い通りにできない現実に、ガートルードは絶望を味わっただろう。そして、最後にはその道に必要なクローディアスをも失い、王位継承権は完全にスカーレットの手に渡ってしまうのだ。
人生を懸けて“王子”を産むことを期待されたガートルードにとって、女であるスカーレットが王座に就く姿を一生見続けていくことは、人生最大の苦しみとなるだろうことは想像に難くない。
これまでに起こった全ての悪事の報いがあの結末には込められているのだ。

だが、こうした背景は映画の中では決して語られない。
そこが提示されないがゆえに、映画のガートルードの姿を見て「実の娘を愛せない母親」という在らぬ方向へ話を広げてしまい、「なぜそれほどまで実の娘を憎むようになったのか」と頭を悩ませる人が出てしまうことになる。実際にはそんな人物は描かれていないというのに。

演出面のことを言うのであれば、スカーレットの言葉遣いやガートルードの台詞だけでも、こうした母子関係の背景を窺わせることはできたのではないだろうか。
これは一つの例に過ぎないが、例えばスカーレットがガートルードを「母上様」ではなく「ガートルード様」と呼んでいたらどうだっただろうか。
あるいは、ガートルードに「あの子はまだ私に懐かない」だとか「あの子は実の母親そっくり」などと一言言わせるだけでもかなり違ったのではないだろうか。
少なくとも、映像として見せる作品である以上、こうしたことを伝える演出はもっと考える余地があったように思える。

君はわかるか、聖の弓道経験

別のシーンの話になるが、スカーレットの相棒の聖が弓を使うことができるということについても、原作では彼が「弓道経験者」であることが地の文でさらっと触れられている。
ここは演出の匙加減が難しいところだと思う。「聖の弓の構え方で経験者であることはわかる」という人もいる。
本作は、中央大学と法政大学の弓道部にも協力してもらっていることから、聖の所作で経験者であることを表現しようとしていたのは確かだ。

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そもそも、軽々と弓を使えることにしっかりとした説明がされずとも気にしないかもしれない。実際に弓に触れたことがない人には、弓を引くことがどのくらい困難なのか、ということはなかなか把握しづらいこともある。
だが、同程度には「なぜ簡単に弓が使えるのか」と首を傾げる人がいるのも理解できる。

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#果てしなきスカーレット
  プロダクションノート
   <3Dモデル編>
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実は、聖の手には“弓道部のたこ”が描かれています。… pic.twitter.com/tkXHoaXjYL

— スタジオ地図 (@studio_chizu) December 11, 2025

スタジオ地図の公式Xのポストで言及されたとおり、聖には弓道のタコがあるため、一応、映画の中の表現でもかろうじて弓道経験者だとわかるようにはしているようだ。
だが、公式があわせて「気づいた方は、かなりの観察力です」と記していることからも、このタコが多くの観客に気づかれることはあまり想定していないことは推察できる。
第一、これもやはり「弓道や剣道を(しっかりと)やっていると手にタコができる」という前提の知識が要る。決してわかりやすい演出ではない。

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面白いもので、僕はこうした弓のことはほとんど気にしておらず、小説で読んで「なるほどなぁ」と思う程度であった。
しかし、中盤のボルティマンド戦に対する「なぜ聖は軽々と馬に乗れるのか」というコメントを読んだ時に「確かに」と唸ってしまった。
弓が使えることについて、これほど意図を持って説明が付されているのなら、弓よりも難しい乗馬ができることについても理由があってよさそうなものである。
しかし、聖がひょいと馬に飛び乗って停戦を促すことには「なぜ馬に乗れるのか」という説明はなく、小説にも一切の記述はないのだ。本作のクレジットにも乗馬クラブの名前はない。
聖はお金持ちの家の子だったのだろうか。
せめて、スカーレットとの会話の中で、現代での聖のそうした生活実態が窺える言葉が話されていれば、こうした些細なことで引っかかってしまうこともなかったかもしれない。
今のところ、たまたま乗ったら上手く乗れてしまった“なろう系主人公”だと思っておくしかないだろう。

(続く)

画像引用:『果てしなきスカーレット』(C) 2025 スタジオ地図
イラスト:日下部ヨミ

SCARLET ( 2025 Mana Ashida ) aka 果てしなきスカーレット Hateshinaki Sukâretto Anime... https://youtu.be/hR_ua2S7DKg?si=K1oMHkv1MVk7H1lz @YouTubeより

 SCARLET ( 2025 Mana Ashida ) aka 果てしなきスカーレット Hateshinaki Sukâretto Anime... https://youtu.be/hR_ua2S7DKg?si=K1oMHkv1MVk7H1lz @YouTubeより

https://youtu.be/hR_ua2S7DKg?si=K1oMHkv1MVk7H1lz


https://vimeo.com/1183324008/97ae9d0177


格闘シーンにしか興味のない人のレビューだが、まだ良心的な方だろう。

仕込み杖は座頭市の影響だとコメントに書いておこうか?


https://x.com/fukuko2025/status/2044357295170261339?s=61


2026年4月14日火曜日

Studio CHIZU → “Scarlet” Coming Soon WorldwideさんによるXでのポスト 果てしなきスカーレット

 https://x.com/studiochizu/status/2044113452180893835?s=61

#Scarlet - 原画 🖌️の舞台裏


1本の映画の最終シーンは、山下隆昭が原画を担当しました。


ここで、スカーレットは父親の思い出が結びついた場所に立ち、オザーワールドでの旅を静かに振り返っています。


映画 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 : 陽気なホラ吹き男の「孤影」|年間読書人 https://note.com/nenkandokusyojin/n/ne981640bfd54 映画 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 : 陽気なホラ吹き男の「孤影」 2024年3月6日 19:18 見出し画像 映画評:オーソン・ウェルズ監督『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』(1965年、スペイン・スイス合作映画) オーソン・ウェルズによる「フォルスタッフ」である。 なんで邦題が『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』なのかと言えば、西欧では「フォルスタッフ」はあまりにも有名なキャラクターなので、タイトルだけでは、誰のどの作品を指しているのかわからにくいからであろう。同様の事例としては『ゴダールのリア王』もある。「リア王」が、あまりにも有名であるために、かえって日本では「ゴダールの」と付けているのだ。 もちろん、『リア王』は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(戯曲)であり、「フォルスタッフ」も「リア王」と同様、シャイクスピアの創造したキャラクターなのだが、「リア王」の方は主人公であり、その名がタイトルになっているので、舞台を観たり、本で読んだりしたことがなくても、そのタイトルくらいなら聞いたことのある人も多いだろう。 だが、シェイクスピアに「フォルスタッフ」というタイトルの作品はない。彼、フォルスタッフはあくまでも「脇役」だからだ。 フォルスタッフは、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』で初登場する脇役キャラなのだが、そのあまりにも魅力的な人物造形に人気が高まり、のちには、シェイクスピア自身が、フォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書くことにもなる。 このあたりの事情については、「Wikipedia」の次の説明が簡明なものであろう。 『サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(ヘンリアド)に登場する架空の人物。言語によっては「ファルスタッフ」とも。 大兵肥満の老騎士。臆病者で「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。  フォルスタッフ「名誉だと? そんなもので腹がふくれるか?」 シェイクスピアの生み出した数多くの劇中人物の中でも、「劇を飛び出して生きた」息子は二人だけだと言われている(フォルスタッフとシャイロック)。 『ヘンリー四世』(2部作)ではハル王子(後のヘンリー5世)の放蕩仲間として登場するが、第2部の最後に即位してヘンリー5世となった王子に追放されてしまう。続編の『ヘンリー五世』では、追放後まもなく失意の中で、(フランスで汗かき病のため)死んだことが仲間(ピストール、バードルフ)の口から語られるという形で紹介される。  ピストール「地獄ででもいいから、ヤツと一緒にいたいよ…」 もっとも、このようなフォルスタッフの「殺害」については、当時から人気の高かったフォルスタッフを勝手に登場させた戯曲などがまかり通っており、シェイクスピアはそのような事態を防ぐために、自らの「息子」を死んだことにして守らなければならなかったといわれている。 イングランド女王エリザベス1世がフォルスタッフをたいそう気に入り「彼の恋物語が見たい」と所望したため、シェイクスピアはフォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書いたと言う説もある。同作では勝手な思い込みから2人の夫人に恋を仕掛ける愉快な好色漢として描かれている。』 このように、フォルスタッフは、いわゆる「ヒーロー(英雄)」ではないし、かといって「ヒール(悪役)」でもない。 いわゆる悪漢ではあるのだけれども、単純な悪党ではなく、人間的な魅力と愛嬌を兼ね備えた、その肥え太った巨体に相応しい「幅のある」キャラクターであり、そこが多くの人から愛されることにもなったのである。 画像 さて、私がなぜこの映画を観たのかというと、それはもちろん、敬愛するオーソン・ウェルズの作品だということと、昔からフォルスタッフというキャラクターには惹かれるものがあったからだ。したがって、この両者が交差するところに、興味を持たないわけにはいかなかったのである。 私が観たDVDには、小型パンフレットが付属していて、そこには映画評論家・吉田広明の「作品解説」と、英文学者・高山宏の寄稿文「フォルスタッフみたいなオーソン・ウェルズ」が収録されている。この高山文の中には、次のような部分がある。 『 神や名誉をキーワードにいわばどんどん精神化し始めていく時代(「近代」)に、これは未来永劫まったく変わることない人間の自然である「肉体」をまともにぶつけるとそれがそのまま、近代批判になるのだと言いだしたのも一九六〇年代の有力批評だった。ヤン・コットもその一人だったが、なにしろロシア人批評家ミハイル・バフチンによるラブレー研究や『ドストエフスキーの詩学』だった。バフチンが英訳されたのは『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』完成の後にはなるが、ヤン・コットやバフチンによる、近代文明が人間の肉体的部分をいかに「追放」してきたか論じる仕事は時代全体の大きな潮流となっていた。肉体を通じての近代批判を実行したとされた道化たちへの研究が一九六〇年代に爆発的に流行した事情は、今なお世界に誇ってよい人類学者、山口昌男の道化研究がまさしく一九六〇年代に突発したこと一点を思いだせば明らかだろう。ヤン・コットの盟友であり、バフチンの最強力推せん者だった故・山口氏にこそ見せたかった今回のリマスター版である。一九六五年完成版の方について氏がきっと何か面白いことを書いているはずだ。著作量が多すぎて、今は確認できていないが、多分。』 私に「フォルスタッフ」の存在とその魅力を教えてくれたのが、ここで紹介されている文化人類学者・山口昌男である。私は若い頃に山口の著作を読んでおり、多大な影響を受けた。 今、昔つけていた読書ノートを確認してみると、山口の著作を7冊ほど読んでいるのだが、それらの目次の中には「フォルスタッフ」の名は見当たらない。だが、これは「フォルスタッフ」の名を冠したエッセイが無いというだけで、山口は何度も「フォルスタッフ」に言及していたはずで、私はその影響を受けて、「フォルスタッフ○○の研究」といったタイトルの、無名の友人を扱った人物論を書いたこともある(○○の部分に、友人の苗字が入る)。 山口昌男の主著は、やはり『道化の民俗学』ということになるだろうが、山口がこの「道化(道化師、ピエロ、アルレッキーノ)」といったものをどのように捉えていたのかというと、別のエッセイ集のタイトル『笑いと逸脱』という表現が、一番わかりやすいのではないかと思う。 (表紙イラストは山口昌男による「ヘルメス神」) つまり、道化は「笑っている」「ふざけている」存在であり、その意味で「真面目」の対極にある。また、「ふざけている」というのは、「王道」「正統」といったものから「逸脱」した存在であることを意味する。 つまり、道化というのは「正統派」でも「正義の味方」でもなければ、バットマンのような「ダークヒーロー」でもなく、むしろ「ジョーカー」的な存在であり、その意味で「悪漢」であり「悪魔」なのだが、しかし「暗く」はないのだ。いつも「ふざけている」し「笑っている」悪漢であり、その意味で、アメコミヒーローの一人、バットマンの宿敵であるジョーカーこそが、「道化」のイメージに近いし、事実、『バットマン』に登場するジョーカーは、「道化師=ピエロ」と「悪魔」の合成されたイメージなのだと言えるだろう。 画像 (ジョーカーを演じた俳優たち。左から『ジョーカー』のホアキン・フェニックス、『ダークナイト』のヒース・レジャー、『バットマン』のジャック・ニコルソン) しかし、それに比べれば、フェルスタッフは、そこまでの「悪魔性」は持っていないし、もっと「庶民的」であり「人間的」で、そんな「愛嬌のある」キャラクターだからこそ、多くの人に愛されたのだと言えるだろう。 言い換えれば、フォルスタッフの「道化性」とは、ジョーカーのような「(神性に対する)悪魔性」ではなく、「(神性に対する)人間性」なのだ。 例えば、アカデミー賞をとった、トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』のジョーカーが、世間の「きれいごと」に対する怒りと絶望から「闇堕ち」して「悪魔」になったのは、言うなれば「きれいごと」という「神性」を信じる「真面目さ」があったれればこそである。真面目に「きれいごと」を信じていたからこそ、その信頼を無惨に裏切られた「反動」から「笑うしかない」という「悲しい悪魔」としてのジューカーになったのだと言えるだろう。 だが、フォルスタッフの場合には、もとからそうした「真面目さ」などを信じてはいない。つまり「神」などという「絵空事」を笑い飛ばしてしまう、そんな良い意味での「不真面目さ」であり「庶民性」を持った存在なのだ。 彼は決して「頭が悪い」のではなく、「真面目一辺倒」の人間こそが「頭が悪い」と考えており、だからこそ彼は『時として深遠な警句を吐く』こともできるのである。 また、そんな彼だからこそ、ジョーカーのように「頭の悪い」闇堕ちなどしないのだ。単細胞にも「きれいごと」を真に受けているからこそ、それが裏切られたといって傷つき、その結果、真逆の「悪魔」に堕ちてしまうのであり、言い換えれば「人間、そんな単純なものではない。人間とは、神と悪魔の〝あいの子〟なんだよ」という「リアルな人間認識」さえ持っていれば、悪魔にまで堕ちることもなく、人間に止まっていることもできたはずなのだ。 つまり、フォルスタッフは、決して「真面目な知識人」でも「正義の人」でもないけれども、きわめて「人間的な賢い人」なのである。 そして、その賢さを、ことさらに見せつけるようなタイプの人ではなく、「悪徳もまた人間ゆえのものである」と考える、庶民的に「人間的な存在」だと言えるのだ。  ○ ○ ○ さて、ここでやっと、『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』に移ろう。 本作の「あらすじ」は、次のようなものである。 『ボリングブルック公(ジョン・ギールグッド)がヘンリー四世として即位した1400年はじめの冬。皇太子ハル(キース・バクスター)は、下町のいかがわしい居酒屋“猪首亭”で、悪名高いフォルスタッフ(オーソン・ウェルズ)と放蕩無頼の生活を送っていた。その頃、ヴォークワスの居城では、先王の世継ぎの婚姻であるパーシー一族の勇敢な若武者ホットスパー(ノーマン・ロッドウェイ)が、妻のケイト(マリナ・ヴラディ)に送られて出陣していた。ホットスパーに比べて無茶苦茶な生活を送るハルに頭を悩ませるヘンリー四世。従臣ポインズ(トニー・ベックリー)が仕組んだギャズヒルの森での追いはぎ事件の首尾を豪語するフォルスタッフ。彼の武勇談は猪首亭の名物だ。娼婦ドル(ジャンヌ・モロー)をまじえて、夜は果てることなく、騒ぎは続く。名誉と大義をかけたシュルーズベリーの合戦でハルは、見事にホットスパーを討ち倒した。やがてヘンリー四世が、たび重なる叛乱鎮圧に疲れ果て病床についた。ついにハルは王宮に戻ることになった。固い絆で結ばれていたハルとフォルスタッフは、お互いに別れを告げた。真夜中の鐘をなつかしむシャロー(アラン・ウェッブ)の城に、王の死の知らせが伝わる。わが子のことのように勇んでハルの戴冠式に馳せ参じたフォルスタッフに、しかし、国王ヘンリー五世となったハルの言葉は冷酷だった。フォルスタッフに対する追放、投獄の命だった。彼は心に深い傷を受けてやがて死んでゆくのだった。』 (「映画.com」の「ストーリー」より) 若い読者のために書いておくと、舞台は、今のイギリスである「イングランド」だ。今のフランスと、ヨーロッパの覇権を賭けての長年の戦争を繰り広げていた、戦乱の時代の話である。 つまり、イングランド王リチャード二世の下の「諸侯」の一人であったボリングブルック公が、先王のリチャード二世を倒して廃位させ、ヘンリー四世となってわけで、言うなればヘンリー四世は「先王を裏切った」人物である。 戦乱の世だから仕方がないとはいえ、そのためにヘンリー四世に対して敵意を持つ諸侯も多かった。当然、『先王の世継ぎの婚姻であるパーシー一族の勇敢な若武者ホットスパー』もヘンリー四世を敵視しており、ヘンリー四世の嫡男であるハルのことも認めていない。 ところが、その皇太子ハルは、父親のヘンリー四世が、相次ぐ反乱に苦慮している最中に、巷の悪漢どもと遊び呆けていたのであり、その親友がフォルスタッフであったということになる。 画像 画像 画像 (王様ごっこをしてふざけ合う、フォルスタッフとハル) やがて、ヘンリー四世が病いの床に伏すと、息子のハルは王城に呼び戻されることになり、フォルスタッフも自分の遊び仲間であったハルが王位に就けば、これで自分の身分も保証されて安泰だと喜び、喜んでハルを王城へと送り返す。だが、ハルは、イングランドの安寧を求める父王の苦悩を目の当たりにして心を入れ替え、父王の死に伴ってヘンリー五世となる。 画像 (ハルのもとに、父王が倒れたので城に戻れとの連絡が。) その戴冠式に喜んで馳せ参じたフォルスタッフは、立場も弁えずに、大勢の臣下たちの前で、親友の王位継承に賛嘆の言葉を投げるのだが、その時のハルの表情は、まさに「一国の王」に相応しく「威厳に満ちて」いっそ冷たくさえあり、フォルスタッフを見下すようにして、その行いを難じ、追放を言い渡す。そして、それに従わなければ投獄するとまで言うのである。 画像 (戴冠式で声をかけたフォルスタッフを、冷たい目で見るヘンリー五世となったハル) この時の、フォルスタッフの表情が実に素晴らしい。もちろん、名優オーソン・ウェルズの演技が素晴らしいのだ。 あっけに取られつつも、決してそこには「裏切られた怒りや悲しみ」ではなく、むしろ「そうか。お前は本物の王になっちまったんだな」という、まるで「かわいい息子が、偉くなって、父の元を巣立ちする姿を見るような」、そんな寂しさと嬉しさが同居したような、なんともやるせない表情を見せるのである。 画像 (オーソン・ウェルズの名演) だが、そのあと、王城を去っていくフォルスタッフは「あんなことを言ったけれど、あれはみんなの前だったから、体裁を取り繕っただけのことさ。そのうち、お召しがあるに違いない」と独りごちる。 そして、実際、ヘンリー五世となったハルは、フォルスタッフを罰する必要はないと臣下に指示し、臣下から「それでは示しがつきません」と反対されるのだが、彼は「人間、厳しいばかりではいけない。大目に見ることも必要なのだ」と、年長の臣下を諭すのであった。 だが、そんなヘンリー五世のもとに「フォルスタッフの訃報」が届けられる。フォルスタッフは、口では「新王は俺を召し抱えてくれるに違いない」などと、自分に言い聞かせるように言っていたけれど、しかし彼は、心の底では「自分は、役目を終えた存在なのだ」という自覚を持っていたということなのだろう。だからこそ、気落ちして死んでしまったのである。 この映画を見ていて、感心させられるシーンの一つに、ハルの父親ヘンリー四世を演じた、シェイクスピア劇の名優として知られるジョン・ギールグッドの、王としての苦悩を語る独白シーンでの演技の素晴らしさだ。 そのシーンは、いわゆる映画的なリアリズムではなく、舞台演劇的な独白を、ギールグッドが滔々と語るのだが、その迫力が素晴らしく、映画であることを忘れさせて、違和感などまったく与えない、見事なものなのである。また、ギールグッドのこうした名演があってこそのヘンリー四世であったから、皇太子ハルの改心も説得力を持ったのだ。 画像 (名優ジョン・ギールグッド演ずる、ヘンリー四世) だが、しかし、ここでひとつ言えるのは、DVD付属のミニパンフで、映画評論家の吉田広明も指摘していたとおり、ハルの実父であるヘンリー四世の「重厚さ」とか「王たる者の責任感」とかいった「真面目さ」とは、フォルスタッフの「軽さ」「無責任さ」の対極にあるものだ、という点である。 たしかにヘンリー四世は、「真面目な権力者」ではあっただろうが、そのために多くの者に血を流させることにもなった。その点、不真面目な悪漢であるフォルスタッフの犯罪とは、せいぜい追い剥ぎ程度であり、彼の語る「何人を殺した」とかいった自慢話は、所詮はホラでしかない。 つまり、ヘンリー四世とフォルスタッフは、「両極的」な存在であり、双方には「一長一短」があって、どちらか一方が正しいとは言えない、言うなれば「相補的」な存在なのである。 そして、皇太子ハルは、言うなれば、そんな二人を「父」として成長し、やがて「王」になったのである。 この物語の最後は、「ヘンリー五世」が、勇敢かつ情理を弁えた名君となったと語られて幕が閉じられるのだが、つまりヘンリー五世が、父王を超えた名君になれたのは、フォルスタッフという存在がいたからに他ならない。 無論、フォルスタッフの「子」のままでは、彼は堕落したチンピラのままで終わったけれども、フォルスタッフから学ぶべきことを学んだ後、フォルスタッフ的な限界を切って捨てたからこそ、彼は「名君」になれたのである。 だが、言い換えれば、フィルスタッフは、「名君を生むための捨て石」だったとも言え、その意味で、フォルスタッフには、その「陽気さ」にもかかわらず、「哀切感」がつきまとう。 だが、だからこそ、彼は多くの人に愛されたのであろう。単に陽気なだけではなく、この世を照らしたあと、やがてその役目を終えて沈んでいく夕日のような存在である彼に、人々は「人生」というものを見たのではないだろうか。 山口昌男の、あまりにも有名な「中心と周縁」理論も、言うなれば「王と道化」の、こうした弁証法的な関係を語ったものである。 どちらか一方だけが大切なのではなく、周縁は、中心を刺激し挑発することで「生気返し」をする必要不可欠な存在なのだ。決して、「神に対する悪魔」のような、単純に「中心に敵対する存在」などではない。そもそも周縁なくして、中心など存在し得ないのだ。 だが、それでも、そうした「周縁」の役目は、やはり「脇役」的であり、世間的には「不遇」なものとなりがちで、どこか「物悲しい陰」を帯ざるを得ない。 私がオーソン・ウェルズに惹かれるのも、彼にはそうした「陰」があるからだ。 「天才」だと謳われなからも、絶大な権力を揶揄ったために、今では「オールタイムベストワン映画」とも呼ばれる『市民ケーン』は、アカデミー賞を受賞することができなかったし、結果として、彼はハリウッドを追われることにもなる。 彼が作りたい映画は、ハリウッドが求めるような「明るく能天気」なものではなく、いつも独特の陰が差していた。 「破れ去るもの」「悪漢」「ペテン師」など、彼は、決して、人々が単純に憧れるような人物像のドラマを撮ることはせす、むしろ、そうしたものを「疑問に付す」ようなものばかりを撮りたがったがために、生涯、映画を撮るための予算を求めて、国々を渡り歩かなければならなかったのだ。 そして本作が、シェイクスピアの祖国「イギリス」の映画ではなく、「スペイン・スイス合作映画」の合作映画だというのも、そういう事情からなのだ。 スペインは、愚かにして聖なる騎士「ドン・キホーテ」を生んだ国であり、スイスは「どちらでもない国(中立国)」だというのは、いかにも象徴的なことではないだろうか。 したがって、オーソン・ウェルズが「フォルスタッフ」を演じたというのは、いかにも「そのまま」なのだ。 彼は「正統派の王」にはなれない「陰の王」なのであろう。私は、そんな彼の「孤影」に、どうしようもなく惹かれてしまうのである。 画像 (2024年3月6日)  

 ORSON WELLES: LO MEJOR DE FALSTAFF, 1965 (SUBTITULADO EN ESPAÑOL) https://youtu.be/UlZsyXmPb1s?si=8aCaexuyo3Vu9jNG @YouTubeより

オーソン・ウェルズのフォルスタッフ ダイジェスト

https://youtu.be/UlZsyXmPb1s?si=p-icjVVFB_oJWGTq


Orson Welles   Falstaff   Dean Martin Show https://youtu.be/VJ6v7GHYDbM?si=3u4LkuDP3eGCsj_j @YouTubeより



Chimes At Midnight (1965) - Orson Welles, Jeanne Moreau, Margaret Rutherford, John Gielgud


https://m.ok.ru/video/7142394694306


https://x.com/colebrax/status/2043724076091322412?s=61


映画 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 : 陽気なホラ吹き男の「孤影」|年間読書人

映画 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 : 陽気なホラ吹き男の「孤影」

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映画評:オーソン・ウェルズ監督『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』(1965年、スペイン・スイス合作映画)

オーソン・ウェルズによる「フォルスタッフ」である。
なんで邦題が『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』なのかと言えば、西欧では「フォルスタッフ」はあまりにも有名なキャラクターなので、タイトルだけでは、誰のどの作品を指しているのかわからにくいからであろう。同様の事例としては『ゴダールのリア王』もある。「リア王」が、あまりにも有名であるために、かえって日本では「ゴダールの」と付けているのだ。

もちろん、『リア王』は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(戯曲)であり、「フォルスタッフ」も「リア王」と同様、シャイクスピアの創造したキャラクターなのだが、「リア王」の方は主人公であり、その名がタイトルになっているので、舞台を観たり、本で読んだりしたことがなくても、そのタイトルくらいなら聞いたことのある人も多いだろう。

だが、シェイクスピアに「フォルスタッフ」というタイトルの作品はない。彼、フォルスタッフはあくまでも「脇役」だからだ。
フォルスタッフは、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』で初登場する脇役キャラなのだが、そのあまりにも魅力的な人物造形に人気が高まり、のちには、シェイクスピア自身が、フォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書くことにもなる。

このあたりの事情については、「Wikipedia」の次の説明が簡明なものであろう。

サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(ヘンリアド)に登場する架空の人物。言語によっては「ファルスタッフ」とも。

大兵肥満の老騎士。臆病者で「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。

 フォルスタッフ「名誉だと? そんなもので腹がふくれるか?」

シェイクスピアの生み出した数多くの劇中人物の中でも、「劇を飛び出して生きた」息子は二人だけだと言われている(フォルスタッフとシャイロック)。

『ヘンリー四世』(2部作)ではハル王子(後のヘンリー5世)の放蕩仲間として登場するが、第2部の最後に即位してヘンリー5世となった王子に追放されてしまう。続編の『ヘンリー五世』では、追放後まもなく失意の中で、(フランスで汗かき病のため)死んだことが仲間(ピストール、バードルフ)の口から語られるという形で紹介される。

 ピストール「地獄ででもいいから、ヤツと一緒にいたいよ…」

もっとも、このようなフォルスタッフの「殺害」については、当時から人気の高かったフォルスタッフを勝手に登場させた戯曲などがまかり通っており、シェイクスピアはそのような事態を防ぐために、自らの「息子」を死んだことにして守らなければならなかったといわれている。

イングランド女王エリザベス1世がフォルスタッフをたいそう気に入り「彼の恋物語が見たい」と所望したため、シェイクスピアはフォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書いたと言う説もある。同作では勝手な思い込みから2人の夫人に恋を仕掛ける愉快な好色漢として描かれている。』

このように、フォルスタッフは、いわゆる「ヒーロー(英雄)」ではないし、かといって「ヒール(悪役)」でもない。
いわゆる悪漢ではあるのだけれども、単純な悪党ではなく、人間的な魅力と愛嬌を兼ね備えた、その肥え太った巨体に相応しい「幅のある」キャラクターであり、そこが多くの人から愛されることにもなったのである。

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さて、私がなぜこの映画を観たのかというと、それはもちろん、敬愛するオーソン・ウェルズの作品だということと、昔からフォルスタッフというキャラクターには惹かれるものがあったからだ。したがって、この両者が交差するところに、興味を持たないわけにはいかなかったのである。

私が観たDVDには、小型パンフレットが付属していて、そこには映画評論家・吉田広明の「作品解説」と、英文学者・高山宏の寄稿文「フォルスタッフみたいなオーソン・ウェルズ」が収録されている。この高山文の中には、次のような部分がある。

『 神や名誉をキーワードにいわばどんどん精神化し始めていく時代(「近代」)に、これは未来永劫まったく変わることない人間の自然である「肉体」をまともにぶつけるとそれがそのまま、近代批判になるのだと言いだしたのも一九六〇年代の有力批評だった。ヤン・コットもその一人だったが、なにしろロシア人批評家ミハイル・バフチンによるラブレー研究や『ドストエフスキーの詩学』だった。バフチンが英訳されたのは『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』完成の後にはなるが、ヤン・コットやバフチンによる、近代文明が人間の肉体的部分をいかに「追放」してきたか論じる仕事は時代全体の大きな潮流となっていた。肉体を通じての近代批判を実行したとされた道化たちへの研究が一九六〇年代に爆発的に流行した事情は、今なお世界に誇ってよい人類学者、山口昌男の道化研究がまさしく一九六〇年代に突発したこと一点を思いだせば明らかだろう。ヤン・コットの盟友であり、バフチンの最強力推せん者だった故・山口氏にこそ見せたかった今回のリマスター版である。一九六五年完成版の方について氏がきっと何か面白いことを書いているはずだ。著作量が多すぎて、今は確認できていないが、多分。』

私に「フォルスタッフ」の存在とその魅力を教えてくれたのが、ここで紹介されている文化人類学者・山口昌男である。私は若い頃に山口の著作を読んでおり、多大な影響を受けた。

今、昔つけていた読書ノートを確認してみると、山口の著作を7冊ほど読んでいるのだが、それらの目次の中には「フォルスタッフ」の名は見当たらない。だが、これは「フォルスタッフ」の名を冠したエッセイが無いというだけで、山口は何度も「フォルスタッフ」に言及していたはずで、私はその影響を受けて、「フォルスタッフ○○の研究」といったタイトルの、無名の友人を扱った人物論を書いたこともある(○○の部分に、友人の苗字が入る)。

山口昌男の主著は、やはり『道化の民俗学』ということになるだろうが、山口がこの「道化道化師、ピエロ、アルレッキーノ)」といったものをどのように捉えていたのかというと、別のエッセイ集のタイトル『笑いと逸脱』という表現が、一番わかりやすいのではないかと思う。

(表紙イラストは山口昌男による「ヘルメス神」)

つまり、道化は「笑っている」「ふざけている」存在であり、その意味で「真面目」の対極にある。また、「ふざけている」というのは、「王道」「正統」といったものから「逸脱」した存在であることを意味する。
つまり、道化というのは「正統派」でも「正義の味方」でもなければ、バットマンのような「ダークヒーロー」でもなく、むしろ「ジョーカー」的な存在であり、その意味で「悪漢」であり「悪魔」なのだが、しかし「暗く」はないのだ。いつも「ふざけている」し「笑っている」悪漢であり、その意味で、アメコミヒーローの一人、バットマンの宿敵であるジョーカーこそが、「道化」のイメージに近いし、事実、『バットマン』に登場するジョーカーは、「道化師=ピエロ」と「悪魔」の合成されたイメージなのだと言えるだろう。

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ジョーカーを演じた俳優たち。左から『ジョーカー』ホアキン・フェニックス『ダークナイト』ヒース・レジャー『バットマン』ジャック・ニコルソン

しかし、それに比べれば、フェルスタッフは、そこまでの「悪魔性」は持っていないし、もっと「庶民的」であり「人間的」で、そんな「愛嬌のある」キャラクターだからこそ、多くの人に愛されたのだと言えるだろう。

言い換えれば、フォルスタッフの「道化性」とは、ジョーカーのような「(神性に対する)悪魔性」ではなく、「(神性に対する)人間性」なのだ。

例えば、アカデミー賞をとった、トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』のジョーカーが、世間の「きれいごと」に対する怒りと絶望から「闇堕ち」して「悪魔」になったのは、言うなれば「きれいごと」という「神性」を信じる「真面目さ」があったれればこそである。真面目に「きれいごと」を信じていたからこそ、その信頼を無惨に裏切られた「反動」から「笑うしかない」という「悲しい悪魔」としてのジューカーになったのだと言えるだろう。

だが、フォルスタッフの場合には、もとからそうした「真面目さ」などを信じてはいない。つまり「神」などという「絵空事」を笑い飛ばしてしまう、そんな良い意味での「不真面目さ」であり「庶民性」を持った存在なのだ。

彼は決して「頭が悪い」のではなく、「真面目一辺倒」の人間こそが「頭が悪い」と考えており、だからこそ彼は『時として深遠な警句を吐く』こともできるのである。
また、そんな彼だからこそ、ジョーカーのように「頭の悪い」闇堕ちなどしないのだ。単細胞にも「きれいごと」を真に受けているからこそ、それが裏切られたといって傷つき、その結果、真逆の「悪魔」に堕ちてしまうのであり、言い換えれば「人間、そんな単純なものではない。人間とは、神と悪魔の〝あいの子〟なんだよ」という「リアルな人間認識」さえ持っていれば、悪魔にまで堕ちることもなく、人間に止まっていることもできたはずなのだ。

つまり、フォルスタッフは、決して「真面目な知識人」でも「正義の人」でもないけれども、きわめて「人間的な賢い人」なのである。
そして、その賢さを、ことさらに見せつけるようなタイプの人ではなく、「悪徳もまた人間ゆえのものである」と考える、庶民的に「人間的な存在」だと言えるのだ。

 ○ ○ ○

さて、ここでやっと、『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』に移ろう。

本作の「あらすじ」は、次のようなものである。

『ボリングブルック公(ジョン・ギールグッド)がヘンリー四世として即位した1400年はじめの冬。皇太子ハル(キース・バクスター)は、下町のいかがわしい居酒屋“猪首亭”で、悪名高いフォルスタッフ(オーソン・ウェルズ)と放蕩無頼の生活を送っていた。その頃、ヴォークワスの居城では、先王の世継ぎの婚姻であるパーシー一族の勇敢な若武者ホットスパー(ノーマン・ロッドウェイ)が、妻のケイト(マリナ・ヴラディ)に送られて出陣していた。ホットスパーに比べて無茶苦茶な生活を送るハルに頭を悩ませるヘンリー四世。従臣ポインズ(トニー・ベックリー)が仕組んだギャズヒルの森での追いはぎ事件の首尾を豪語するフォルスタッフ。彼の武勇談は猪首亭の名物だ。娼婦ドル(ジャンヌ・モロー)をまじえて、夜は果てることなく、騒ぎは続く。名誉と大義をかけたシュルーズベリーの合戦でハルは、見事にホットスパーを討ち倒した。やがてヘンリー四世が、たび重なる叛乱鎮圧に疲れ果て病床についた。ついにハルは王宮に戻ることになった。固い絆で結ばれていたハルとフォルスタッフは、お互いに別れを告げた。真夜中の鐘をなつかしむシャロー(アラン・ウェッブ)の城に、王の死の知らせが伝わる。わが子のことのように勇んでハルの戴冠式に馳せ参じたフォルスタッフに、しかし、国王ヘンリー五世となったハルの言葉は冷酷だった。フォルスタッフに対する追放、投獄の命だった。彼は心に深い傷を受けてやがて死んでゆくのだった。』

「映画.com」の「ストーリー」より)

若い読者のために書いておくと、舞台は、今のイギリスである「イングランド」だ。今のフランスと、ヨーロッパの覇権を賭けての長年の戦争を繰り広げていた、戦乱の時代の話である。

つまり、イングランド王リチャード二世の下の「諸侯」の一人であったボリングブルック公が、先王のリチャード二世を倒して廃位させ、ヘンリー四世となってわけで、言うなればヘンリー四世は「先王を裏切った」人物である。
戦乱の世だから仕方がないとはいえ、そのためにヘンリー四世に対して敵意を持つ諸侯も多かった。当然、『先王の世継ぎの婚姻であるパーシー一族の勇敢な若武者ホットスパー』もヘンリー四世を敵視しており、ヘンリー四世の嫡男であるハルのことも認めていない。

ところが、その皇太子ハルは、父親のヘンリー四世が、相次ぐ反乱に苦慮している最中に、巷の悪漢どもと遊び呆けていたのであり、その親友がフォルスタッフであったということになる。

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(王様ごっこをしてふざけ合う、フォルスタッフとハル)

やがて、ヘンリー四世が病いの床に伏すと、息子のハルは王城に呼び戻されることになり、フォルスタッフも自分の遊び仲間であったハルが王位に就けば、これで自分の身分も保証されて安泰だと喜び、喜んでハルを王城へと送り返す。だが、ハルは、イングランドの安寧を求める父王の苦悩を目の当たりにして心を入れ替え、父王の死に伴ってヘンリー五世となる。

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(ハルのもとに、父王が倒れたので城に戻れとの連絡が。)

その戴冠式に喜んで馳せ参じたフォルスタッフは、立場も弁えずに、大勢の臣下たちの前で、親友の王位継承に賛嘆の言葉を投げるのだが、その時のハルの表情は、まさに「一国の王」に相応しく「威厳に満ちて」いっそ冷たくさえあり、フォルスタッフを見下すようにして、その行いを難じ、追放を言い渡す。そして、それに従わなければ投獄するとまで言うのである。

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(戴冠式で声をかけたフォルスタッフを、冷たい目で見るヘンリー五世となったハル)

この時の、フォルスタッフの表情が実に素晴らしい。もちろん、名優オーソン・ウェルズの演技が素晴らしいのだ。

あっけに取られつつも、決してそこには「裏切られた怒りや悲しみ」ではなく、むしろ「そうか。お前は本物の王になっちまったんだな」という、まるで「かわいい息子が、偉くなって、父の元を巣立ちする姿を見るような」、そんな寂しさと嬉しさが同居したような、なんともやるせない表情を見せるのである。

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(オーソン・ウェルズの名演)

だが、そのあと、王城を去っていくフォルスタッフは「あんなことを言ったけれど、あれはみんなの前だったから、体裁を取り繕っただけのことさ。そのうち、お召しがあるに違いない」と独りごちる。

そして、実際、ヘンリー五世となったハルは、フォルスタッフを罰する必要はないと臣下に指示し、臣下から「それでは示しがつきません」と反対されるのだが、彼は「人間、厳しいばかりではいけない。大目に見ることも必要なのだ」と、年長の臣下を諭すのであった。

だが、そんなヘンリー五世のもとに「フォルスタッフの訃報」が届けられる。フォルスタッフは、口では「新王は俺を召し抱えてくれるに違いない」などと、自分に言い聞かせるように言っていたけれど、しかし彼は、心の底では「自分は、役目を終えた存在なのだ」という自覚を持っていたということなのだろう。だからこそ、気落ちして死んでしまったのである。

この映画を見ていて、感心させられるシーンの一つに、ハルの父親ヘンリー四世を演じた、シェイクスピア劇の名優として知られるジョン・ギールグッドの、王としての苦悩を語る独白シーンでの演技の素晴らしさだ。
そのシーンは、いわゆる映画的なリアリズムではなく、舞台演劇的な独白を、ギールグッドが滔々と語るのだが、その迫力が素晴らしく、映画であることを忘れさせて、違和感などまったく与えない、見事なものなのである。また、ギールグッドのこうした名演があってこそのヘンリー四世であったから、皇太子ハルの改心も説得力を持ったのだ。

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(名優ジョン・ギールグッド演ずる、ヘンリー四世)

だが、しかし、ここでひとつ言えるのは、DVD付属のミニパンフで、映画評論家の吉田広明も指摘していたとおり、ハルの実父であるヘンリー四世の「重厚さ」とか「王たる者の責任感」とかいった「真面目さ」とは、フォルスタッフの「軽さ」「無責任さ」の対極にあるものだ、という点である。

たしかにヘンリー四世は、「真面目な権力者」ではあっただろうが、そのために多くの者に血を流させることにもなった。その点、不真面目な悪漢であるフォルスタッフの犯罪とは、せいぜい追い剥ぎ程度であり、彼の語る「何人を殺した」とかいった自慢話は、所詮はホラでしかない。

つまり、ヘンリー四世とフォルスタッフは、「両極的」な存在であり、双方には「一長一短」があって、どちらか一方が正しいとは言えない、言うなれば「相補的」な存在なのである。
そして、皇太子ハルは、言うなれば、そんな二人を「父」として成長し、やがて「王」になったのである。

この物語の最後は、「ヘンリー五世」が、勇敢かつ情理を弁えた名君となったと語られて幕が閉じられるのだが、つまりヘンリー五世が、父王を超えた名君になれたのは、フォルスタッフという存在がいたからに他ならない。
無論、フォルスタッフの「子」のままでは、彼は堕落したチンピラのままで終わったけれども、フォルスタッフから学ぶべきことを学んだ後、フォルスタッフ的な限界を切って捨てたからこそ、彼は「名君」になれたのである。

だが、言い換えれば、フィルスタッフは、「名君を生むための捨て石」だったとも言え、その意味で、フォルスタッフには、その「陽気さ」にもかかわらず、「哀切感」がつきまとう。
だが、だからこそ、彼は多くの人に愛されたのであろう。単に陽気なだけではなく、この世を照らしたあと、やがてその役目を終えて沈んでいく夕日のような存在である彼に、人々は「人生」というものを見たのではないだろうか。

山口昌男の、あまりにも有名な「中心と周縁」理論も、言うなれば「王と道化」の、こうした弁証法的な関係を語ったものである。
どちらか一方だけが大切なのではなく、周縁は、中心を刺激し挑発することで「生気返し」をする必要不可欠な存在なのだ。決して、「神に対する悪魔」のような、単純に「中心に敵対する存在」などではない。そもそも周縁なくして、中心など存在し得ないのだ。

だが、それでも、そうした「周縁」の役目は、やはり「脇役」的であり、世間的には「不遇」なものとなりがちで、どこか「物悲しい陰」を帯ざるを得ない。

私がオーソン・ウェルズに惹かれるのも、彼にはそうした「陰」があるからだ。
「天才」だと謳われなからも、絶大な権力を揶揄ったために、今では「オールタイムベストワン映画」とも呼ばれる『市民ケーン』は、アカデミー賞を受賞することができなかったし、結果として、彼はハリウッドを追われることにもなる。
彼が作りたい映画は、ハリウッドが求めるような「明るく能天気」なものではなく、いつも独特の陰が差していた。
「破れ去るもの」「悪漢」「ペテン師」など、彼は、決して、人々が単純に憧れるような人物像のドラマを撮ることはせす、むしろ、そうしたものを「疑問に付す」ようなものばかりを撮りたがった
がために、生涯、映画を撮るための予算を求めて、国々を渡り歩かなければならなかったのだ。

そして本作が、シェイクスピアの祖国「イギリス」の映画ではなく、「スペイン・スイス合作映画」の合作映画だというのも、そういう事情からなのだ。
スペインは、愚かにして聖なる騎士「ドン・キホーテ」を生んだ国であり、スイスは「どちらでもない国(中立国)」だというのは、いかにも象徴的なことではないだろうか。

したがって、オーソン・ウェルズが「フォルスタッフ」を演じたというのは、いかにも「そのまま」なのだ。
彼は「正統派の王」にはなれない「陰の王」なのであろう。私は、そんな彼の「孤影」に、どうしようもなく惹かれてしまうのである。

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(2024年3月6日)

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2026年4月13日月曜日

東京国立博物館で重要文化財が常設展示されない理由【山田五郎 公認切り抜き】 https://youtu.be/w6ZpqMvDiyQ?si=4TVg41uWtoMaGTMA @YouTubeより

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日本の美術品を見るために・・・!日本は名品が常設され無い理由 https://youtu.be/o0fH8S2a-iw?si=-_TaFodYF6XbZ-Rv @YouTubeより