のたうちまわりながら前を向く。映画「果てしなきスカーレット」
ここ数年、年末年始の定例行事がある。
大晦日か元旦に、映画館に行くこと。
それまでに、年末の大掃除とか年賀状とかをやっつけて、いい感じに空いてる快適空間で、お疲れ自分、と映画を観ることが至福の時間だ。
なんだったら1年間お疲れ、俺、みたいな。
2025年お疲れ俺、の一本は「果てしなきスカーレット」を選んだ。
<あらすじ>
「竜とそばかすの姫」「未来のミライ」などで国内外から高く評価されてきたアニメーション映画監督・細田守監督が手がける、オリジナルの長編アニメーション。復讐にとらわれて死者の国をさまよう王女が、現代日本からやってきた看護師の青年と出会い、ともに旅をする中で変化していく姿を描き、「生きるとは何か」を問いかける。
父を殺して王位を奪った叔父クローディアスへの復讐に失敗した王女スカーレットは、「死者の国」で目を覚ます。そこは、略奪と暴力がはびこり、力のなき者や傷ついた者は「虚無」となって存在が消えてしまう世界だった。この地にクローディアスもいることを知ったスカーレットは、改めて復讐を胸に誓う。そんな中、彼女は現代日本からやってきた看護師・聖と出会う。戦いを望まず、敵味方の区別なく誰にでも優しく接する聖の人柄に触れ、スカーレットの心は徐々に和らいでいく。一方で、クローディアスは死者の国で誰もが夢見る「見果てぬ場所」を見つけ出し、我がものにしようともくろんでいた。
(映画.com)
※若干のネタバレがあります。
口コミを見ると、賛否両論あるみたいだ。
確かに、今までの細田作品とは違ったテイストだ。
「ハムレット」へのオマージュ作品で、根底に流れているものは、「復讐」と「許し」
復讐に燃えるスカーレットは、終わりのない世界を延々と彷徨う。
その世界がグロテスクでおどろおどろしいのだ。
溶岩のような灼熱の地、どろどろの湿地、砂漠の殺伐とした世界。
過酷な環境の中を、復讐相手の叔父を探して、ひたすら彷徨う。
ここは「死者の国」で、生の法は通用しない。
死ぬときは「虚無」となり、存在が消滅するという。
復讐心を持ち続ける限り、苦痛と苦悩は続いていく。生き地獄だ。
観ていて胸が押しつぶされそうな場面に圧倒された。
この気持ちは、自分の中にも持っているものだからなのだろう。
憎しみと怒りは、美しくない。醜くグロテスクなもの。
今までの細田守作品が、色彩鮮やかで煌びやかなものだったから、なおさら「果てしなきスカーレット」の陰鬱な画面が際立ったように思う。
スカーレットの心情の変化が、舞台と呼応しているようで、面白かった。
復讐心に凝り固まった序盤は、溶岩のようなどろどろでいびつな地面、吹きすさぶ砂漠。
スカーレットが心を取り戻すかのように、穏やかに丸くなると、キャラバンや集落や街が表れる。
でも、復讐心は根強くて、多少の愛や優しさでは消えない。無くならない。
揺り戻しのように、何度も復讐心が蘇ってくると、世界も廃墟や砂漠と陰鬱な場面に変わる。
幼いころに大好きな父を目の前で殺されて、叔父を憎み復讐することだけを原動力に、強く生きてきたのだ。
こびり付いた感情は、そう簡単に溶かすことはできない。
そして、自分にとって大切な人が損なわれた時ほど、人は憎しみと怒りを強くするような気がする。
自分が傷つけられることより、許せない気持ちが強くなる。どす黒い感情が湧いてくるのではないだろうか。
憎しみと悲しみを凝縮した「復讐」の感情と、どう向き合い「許し」へと浄化していくのか。
復讐心は周りをも傷つけてしまう、破壊的な感情。
だから自分も周りも許すことで、前を向いて生きていける。
それがいかに困難なことで、何度も葛藤するのだということを、映像美で丁寧に訴えかけてくる作品だった。
終盤、スカーレットは叔父を「許そう」とする。
直接「許します」と叔父に伝える。でも彼は和解をする気は全くなくて、逆にスカーレットの気持ちを踏みにじり、侮辱する。
より憎悪に憑りつかれたスカーレットは暴走しそうになる。
そのシーンがとても悲しかった。
でも、人が人を許そうと考えることが、そもそもおこがましいのかもしれない。
神様でないのに。それを対象の相手に「許します」ということは、傲慢ではないだろうか。何様だ、と新たな火種勃発だろう。
じゃあ、憎しみから離れるには、どうしたらいいんだろう。許せないと思ってしまった相手は、どうしたら許せるのだろう。
私は「離れる」ことなんじゃないかと思ったのだ。
これが正解かはわからない。でも「離れる」ことも一つの方法なのではないかと思うのだ。
自分の立場や安全を守るために、出来る限りの対策を講じる。
その後は、対象者と出来事から一旦「離れる」
対象者のことを考えると、煮えくり返りそうになる。だから考えないように、その人を頭の中から「離す」
出来ることなら、物理的に距離を取って「離れる」。接触しない。
そうは言っても何度も考えてしまうし、距離を取ることが難しい相手もいるだろう。それはしょうがない、としばらく感情に身を委ねる。
少しずつ努力して「離れる」のだ。
離れることは負けとか逃げとか、そんなことは考えない。そもそもどちらが正しいか勝ち負けを言い出したら憎しみは終わらない。
ともかく対象者から自分を「離す」
何度も揺り戻されながら悔しさに身悶えすると思う。なぜ私がこんな目に、と再燃することもあるだろう。
でも、その感情を繰り返していくうちに、憎い気持ちが小さくなるかもしれない。
努力しなくても「離れられる」日が、いつかは来ると思うのだ。
忘れなさいって言われたって、そんなことは多分無理。
だから、忘れるのではなく、離れる。そしたら、気づいたら勝手に忘れられている。
私自身、今、弟とうまくいっていない。
揉めているというか、盛大に誤解されて聞く耳を持ってくれないのだ。
そのうち、踏み込んだところまで干渉し始めて、家人のことを悪く言い始めた。
私だけならともかく、家人への態度は失礼!とイライラしながらも説明を試みたのだけれど、平行線となった。
双方和解、とはもうならないだろう。
こうなりたくないから、長年気を使って対応していたのに、ものすごくショックだった。
悲しみと怒りで目の前が暗くなった。「許せない」という感情だ。
この「許せない」気持ちと弟との関係性で、家のことを考えていかなければならないのか。
そう思うと、大げさかもしれないけれど、途方もない絶望感と焦燥感に襲われた。
これをずっと抱えていかなければならないのか、と。
だから、「果てしなきスカーレット」は、ずっしり刺さったのだ。
「許せない」気持ちを「許す」に変えていくことは、途方もなく難しいな、と。
大げさではなく、全人類の長年の課題だぞ、と。
これだけ難しいのだから、すぐに解決は出来ない。
だったら、今は「離れよう」と思えたのだ。
しばらく塞がった気持ちで悶々としていたのだけれど、調べたり相談したり、考えたり推測したり、今できることをやったら、一旦頭の中から離してみよう。
そう思ったら、少し気持ちが楽になった。
時間薬の効果かもしれない。
けれど、「離す」ことを意識したことで、少しだけ冷静に考えられるようになった。
今後のことは、これから考えよう。また対峙するときに少しでもクリアで冷静な頭でいられるように。
幸い、物理的にも弟とは距離が「離れている」から、日常生活に支障なし。と、割り切るようにしている。
あとは、復讐心ではないけれど、「思春期の娘たちに、盛大に嫌われろ」「常に口内炎に悩まされろ」と、スケールの小さい怨念を送ることで、憂さを晴らしている。
「許し」を目指すことは、簡単なことではないし、身もだえするほど辛いこと。
でもそうなりたいと努力することは価値あることで、見える景色が変わってくる。
そう、スカーレットが教えてくれた。
この映画を、大晦日に観たことも良かったのだと思う。
年末の清々しい空気感で、より沁みた気がする。
受け取ったものから、じわじわマイナスイオンが出てくるような、浄化のような、気づいたら禊となっていたかのような、そんな映画だった。
2025年お疲れ、俺、な良き映画だった。