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連載第37回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『関の彌太ッぺ』
(1963年/原作:長谷川伸/脚色:成沢昌茂/監督:山下耕作/制作:東映京都撮影所)
「悲しいことや辛ぇことがたくさんある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れれば明日になる。ああ、明日も天気か」
長谷川伸の戯曲『関の弥太ッぺ』は、これまで数多くの舞台や映像作品で使われてきた。今回はその中で、現時点では最後の映画化作品となっている1963年の東映版(『関の彌太ッぺ』)について解説してみたい。
そもそもの長谷川伸の戯曲は3幕6場で構成されており、それは以下の通りである。
序幕
一場:桂川の河原。
幼い娘・お小夜を連れて甲州・吉野宿へ向かう和吉は、その道中で渡世人・弥太郎から五十両を盗んでしまう。和吉を追った弥太郎は桂川の河原で追いつく。和吉はお小夜を吉野宿の旅籠・沢井屋へ向かわせる。実はお小夜は十数年前に誘拐された沢井屋の娘「おすゑ」と和吉の間にできた娘で、和吉はお小夜を沢井屋に届けようとしていた。お小夜のいない間、和吉と弥太郎の間で悶着が起き、その果てに和吉は命を落とす。和吉はお小夜を弥太郎に託し、弥太郎は戻って来たお小夜を沢井屋へ連れていく。
二場:吉野宿沢井屋
弥太郎はお小夜を連れて沢井屋へ。だが、お小夜の出生を示す証はない。沢井屋の一家はおすゑに面影の重なるお小夜に親しみを覚え始めるも、引き取ることはできない。弥太郎は自身の五十両をお小夜の食い扶持として沢井屋に渡して引き取らせ、自らは去っていった。お小夜が母親の名を明かしたことで、沢井屋一家は真実を知る。だが、弥太郎の姿は既になく、その名前も聞き忘れていた。
二幕目
一場:下総菰敷の原
一幕から七年後。飯岡の助五郎と笹川の繁蔵という二大侠客勢力が争う中、飯岡に草鞋を脱いでいた弥太郎は笹川にいる森介と因縁が生まれ、二人は果し合いをすることに。そこに繁蔵が現われ、仲裁する。二人はこれまでのことを水に流すことにした。
二場:銚子大網楼
意気投合した弥太郎と森介。老侠客の才兵衛を交えて三人で飲む。才兵衛はお小夜が美しく成長したこと、かつて助けてくれた名も知らぬ渡世人を想い縁談を断っていることを話す。弥太郎は知らない顔をする。
大詰
一場:吉野宿沢井屋
沢井屋に森介がやって来て、自分がその恩人だと騙る。森介が堅気になってお小夜との結婚を申し出てきたことで、沢井屋もお小夜も困り果てる。そこに弥太郎がやって来る。
二場:同く裏手
弥太郎はお小夜から手を引くよう森介に諭し、両者は対峙する──。
以上が、長谷川伸の戯曲の構成だ。映画も、基本的にはこの構成に則っている。だが、その中での展開や人物描写は大きく異なる点がある。
まずは、弥太郎と父娘との関係性だ。原作は父娘を追って弥太郎が河原で追いつくところから始まる。だが、映画は溺れているお小夜を弥太郎(中村錦之助)が助ける場面が冒頭に加わる。弥太郎には生き別れの妹がいて、お小夜が幼い頃の妹に似ていること、五十両は妹と再会した時の婚礼費用のために貯めていることが告げられる。それが、和吉(大坂志郎)の盗んだ五十両だった。
原作では博打で得た金のため、弥太郎にとってお小夜に託すことに躊躇はなかった。が、映画はそうではない。後に妹が死んだことを知ってから沢井屋に託す展開になっており、冒頭の場面と合わせて弥太郎にとってお小夜が妹代わりというニュアンスが強くなっている。そのため、「弥太郎の気風が良いから」というだけではない、強い想いが背景にある行動原理になっているのだ。
そして、和吉の死をお小夜に告げられない弥太郎が、彼女をそれとなく励ますために言ったのが、冒頭のセリフだ。これが終盤に大きく効いてくる。
また、この場面では森介との関係性も大きく脚色が加えられている。原作での森介は二幕目からの登場になるが、映画では冒頭から出番がある。森介は弥太郎と同じく和吉に金を盗まれており、弥太郎とは別にこれを追う。そして和吉を斬り、弥太郎の五十両ごと奪っているのだ。弥太郎に見つかって五十両は返しているものの、原作の森介が弥太郎と同様の雰囲気の良い渡世人というキャラクター設定なのに対して、映画ではサイコパス的な面が強調されている。
また、その後の展開に重要な違いをもたらしているのが、才兵衛との関係性だ。原作では銚子の料亭で森介を含めて三人で飲む場面で初登場、それまで弥太郎とは関係がない設定になっている。一方、映画では妹の行方を弥太郎に教えてくれた「恩人」が才兵衛(月形龍之介)なのだ。
そして、笹川と飯岡との果し合いに弥太郎は飯岡方で参戦。才兵衛は笹川方におり、斬ることができない。そのために弥太郎は飯岡を裏切ってしまう。そこに森介も合流して、銚子の料亭の場面になっていく。ここで飯岡から恨みを買い、弥太郎は一党から命を狙われるという展開が、映画オリジナルのクライマックスへと繋がることに。
弥太郎の設定でも、大きく変わった点がある。原作では、序幕でも七年後(映画は十年後に変更)でも、基本的に人物像に変化はない。一方、映画では妹の死を知った弥太郎は生き甲斐を失い、人斬り稼業で各地を渡り歩く荒んだ生活を送り続けたことで、人相も兇悪になっていた。そのため、お小夜(十朱幸代)や沢井屋一家と再会した際、原作では最終的にその顔を見て「あの時の渡世人」と気づいてもらえるのだが、映画では顔を見られても全く気づかれない。
そして、これらの脚色が全て巧みに絡み合い、終盤は大きく異なる展開になっていく。
原作は、弥太郎と森介が対峙するところにお小夜がやって来て、森介をかばう。ここで弥太郎は自分が七年前の渡世人だと明かし、お小夜も弥太郎の顔を見てその時の記憶が蘇る。真実を知った森介は改心し、弥太郎と二人で宿場を去っていく──というところでエンディングを迎えた。
が、映画はそうではない。弥太郎は森介に真相を明かし、お小夜から手を引いて去るよう諭すも、恋に血迷った森介は聞く耳を持たない。それどころか、弥太郎に刃を向けた。仕方なく、弥太郎は森介を斬る。原作では森介は最後に弥太郎を「兄ィ」と呼んでいるが、映画では五十両を返す時に呼んでいる。これは、心から弥太郎に心服した原作に対して、その場しのぎのためにそう呼んだに過ぎない映画──と森介のキャラクター性の違いが大きく現れた描写ではあるが、それだけではない。弥太郎からすると「兄ィ」と慕っている相手を斬ることになるため、心に課せられるものはさらに重くなっていた。
その後の展開もドラマチックだ。森介を斬った弥太郎の前に飯岡一党が立ちはだかり、両者は刻限を決めて果し合いをすることに。弥太郎は森介の心配をする必要はないことと別れを告げるため、お小夜に会いに沢井屋へ。そして別れ際に弥太郎が再び、冒頭のセリフを告げる。ここで初めて、お小夜は彼こそあの時の渡世人だったと気づく。
人相が変わった──という脚色は、まさにここへ向けての伏線でもあったのだ。
「あたしの兄さんになってください」「ずっとこの家にいてください」そんなお小夜の申し出に背を向け、飯岡一党が待ち受ける死地へ向かう弥太郎の後ろ姿とともに、映画はエンディングとなる。
長谷川伸は、義理と人情の狭間で葛藤し、その後ろ暗さのために人並な幸福に背を向けて生きるアウトローたちの姿を描き続けてきた。この脚色は、そうした原作者のイズムをより色濃く浮き彫りにした内容になっている。優れた原作に対する向き合い方として、理想的なスタンスといえるだろう。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。
