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ゴダール監督の死 自殺ほう助は誰でもできるわけではない
ジャンリュック・ゴダール監督が選んだ自殺ほう助。だが、誰でもできるわけではない。
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「ARMS」とは異なります。 |
ASMR(英: autonomous sensory meridian response)は、人が聴覚や視覚への刺激によって感じる、心地よい、脳がゾワゾワするといった反応・感覚[1]。正式、または一般的な日本語訳は今のところ存在しないが、自律感覚絶頂反応(じりつかんかくぜっちょうはんのう)という意味である。一般的な読み方は「エー・エス・エム・アール」だが、「アスマー(エイスマー)」や「アズマー(エイズマー)」と呼ぶ傾向もある[2]。
ASMRの意味は主体に対する反応を示す用語であるが、後述の「ASMR動画」など感覚を引き起こす手段を示す場合もある。
ASMRを感じるきっかけや感じ方には個人差があるが、視聴することによってそのきっかけを作り出そうとするASMR動画が動画共有サイトに多数投稿されている[1]。ASMR動画の制作・投稿者は「ASMRtist(エー・エス・エム・アーティスト)」[3]、「ASMRIST(アスマーリスト)」[2]などと呼ばれる。
医学的な効果はim不明であるが、慢性疼痛が軽減されたという研究もある[1]。
2015年の研究では、7割から8割が睡眠導入の補助とストレス解消のために利用しており、性的興奮目的のものは5%程度であった[4]。
2017年にイケアが広告の演出に採用した[5]。
2018年6月に中国の反ポルノ当局(全国"扫黄打非"工作小组办公室)はASMR動画を「低俗なポルノコンテンツ」とみなしてYouku・bilibili・Tudou・網易雲音楽・蜻蜓FM(中国語版)など中国内の動画音声配信サイトから該当するコンテンツを削除した[4][6]。
2020年にYouTubeはポリシーを改定し、未成年が出演するASMR動画をYouTubeに投稿することを禁止とした[7]。
Autonomous Sensory Meridian Responseの名称は、Webサイト「ASMR UNIVERSITY」の設立者でもあるアメリカ人女性,ジェニファー・アレンが命名したものである[8]。アレンの説明によれば、"autonomous"はきっかけとなる刺激に個人差がある様子を指したもので、"meridian"(頂点)はオーガズムの婉曲表現であるという。この名称に落ち着くまではYahoo!上のグループ「Society of Sensationalists」やAndrew MacMuirisが開設したブログ「The Unnamed Feeling」といった場所で名称についても議論が行われており、"attention induced head orgasm"(AIHO)、"attention induced euphoria"(AIE)、"attention induced observant euphoria"(AIOEU)といった名称も提案されていた[9]。
ほかにこの現象を示す表現としては、「brain orgasm(脳のオーガズム)」「brain massage(脳のマッサージ)」「head tingle(頭のうずき)」「brain tingles(脳のうずき)」「head orgasm(頭のオーガズム)」「spine tingle(脊椎のうずき)」「braingasm(brain 脳+orgasm オーガズム)」といったものがある[10][11][12][13][14]。
ASMRが実在する生理現象であるのか、科学的な実証はなされていない。こうした効果がある、といった主張はすべて報告者個人の知覚に基づくものにとどまっているのが実情であるが[15][16][17]、一般紙やブログといった場では専門家がASMRに言及した事例も見られる[18]。
神経学が専門で科学的懐疑主義の立場からの発言も多いイェール大学のスティーヴン・ノヴェラ(英語版)は、神経科学を扱う自身のブログでASMRを取り上げ、ASMRは脳内の電気活動に軽い異常(seizure)が起き、それが快感として捉えられているのではないか、と推測した上で、実際に何が起きているのかについてはfMRIやTMSを用いた調査が必要だと述べた[19]。シェフィールド大学で心理学と認知科学の講義を担当するトム・スタッフォードは『インデペンデント』紙において、ASMRは実在すると主張する層に一定の理解を示しながらも、1990年代に入ってから検証が進んだ共感覚を例に挙げ、ASMRのような誰もに一様に起こるわけではない内的反応の解明は困難だろう、と見通しを示した[20]。神経科医のエドワード・J・オコーナーもサンタモニカカレッジの学生新聞『コルセア』で、どのような刺激が有効か、人によって異なっていることが科学的な解明の障害になっている、と指摘した[21]。精神科医のマイケル・ヤシンスキーは、瞑想のように、何かに集中し、リラックスすれば、ストレスや不安を司る脳のほかの部分は働かなくなるものだ、として、ASMRのような現象もあり得ることだとした[22]。
またサター神経科学研究所で睡眠に関する問題を専門にしているAmer Khanは、ASMRビデオが寝つきをよくする手段として用いられている問題に触れ、こうした行為は良質の睡眠が得られないうえ、ホワイトノイズ発生器や、赤ん坊ならおしゃぶりを使用するのと同様、常用癖がついてしまうおそれがあると指摘している[23]。
2015年に日本のインターネットメディアで言及された[24]。
2018年2月15日放送の『アウト×デラックス』で黒木渚がASMRを紹介したり[25]、2019年3月17日放送の『EXD44』で「究極のASMR」動画を制作する企画が行われるなど[26]、テレビ番組でも扱われるようになった。
2019年3月、オトバンクとquantumがASMRを扱うオーディオレーベル「SOUNDS GOOD」を設立した[27]。
2019年、ASMRが「2019年上半期JC・JK流行語大賞」のコトバ部門で1位に入賞[28]、日経トレンディ発表の「2020年ヒット予測」でも8位にランクインした[29]。『週刊朝日』編集部の選出による2019年の流行語30選にも入賞した[30]。「楽天・ヒット商品番付」ではASMRを含むサウンドジェニック(音ジェニック)が西大関に登場した[31]。ASMR動画でもはとむぎやまことのようなカリスマ投稿者が出現した[32]。
2019年秋以降、日曜深夜(月曜早朝)の休止枠で、長崎放送ラジオが村山仁志アナウンサー(当時制作部長)の自宅の庭に集まる虫の声を収録した『秋の夜長…眠れない夜に、長崎市の高台の住宅地で鳴く秋の虫の音を聴きながら、安らかな気持ちでお休みください』を朝まで放送したり、唐揚げを揚げる音や女性アナウンサーが揚げたてを頬張る音を朝まで放送して評判を得たほか、文化放送でも焚き火やチャーハンの調理音などを収録したASMR特番を定期的に放送している[33]。
2021年10月から12月にかけて、ASMRをテーマとしたショートアニメ『180秒で君の耳を幸せにできるか?』が放送された。
典拠管理データベース: 国立図書館 |
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ゴダール監督が「Scénarios」(完成版は複数形のsが付いた)のファイナルカットを見ることはなかった。「(死去の)5日前、月曜日に、ゴダールから作品の第1部について指示を受けました。それから亡くなる前日に、第2部の指示をもらいました。そしてその日、ゴダールが最後にしたのは、映画のラストシーンを自ら撮影することでした」。
師から最終の編集指示を受けた記憶を語るアラーニョ氏の目に、哀しみの色が浮かぶ。「いずれにせよ、ゴダールの最後の指示は極めて精緻な内容でした。頭の中では編集済みの映像が流れていたのでしょう。15年間、ゴダールの映画をカンヌに届けてきましたが、これが最後になりました。私がゴダールの新作を持ち込むのはもう終わり。プント・フィナーレ(終着点)です」
それにしても、何という結末だろうか。「私は、ゴダールが死の直前に考えていたことをこの映画が伝えていることに驚異を覚えます」と、先回りして作品を守るようにアラーニョ氏は説明する。ゴダール最後の下絵で、ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(Roma città aperta)(1945年)から、アンナ・マニャーニが路上でドイツ兵に銃撃されるシーンを引用するよう指示されていた。
「(ゴダールの指示による)編集中は何も思いませんでした。でも後になって、ゴダールの母親も路上で命を落としたと知りました。1954年、ジュネーブでのことです。ゴダールはパリにいて、母親のもとに行けなかった。葬式にも出なかった。しかしゴダールは自分が世を去る間際に、そのイメージを、最後のイメージとしてそこに入れたのです。路上で死にゆく女性と、『ママ』と泣きながら駆け寄る子の姿を。それが彼の最後の意思表明なのです」
「あわせて、(ゴダール監督作品)『はなればなれに』(Bande à part)(1964年)のカットも指示通りにタイムラインに入れました。ジャンリュック・ゴダールの声、若き日のゴダールの声が流れます。『オディールが最後に思ったのは……』。後に、気づきました。ゴダールの母の名はオディールだったと。この最後のモンタージュは、ゴダールが作りながら一度も見ることはありませんでしたが、自分の映画と人生、犯した失敗について語った自叙伝だったのです。私たちのもとを離れる3日前、ゴダールはいたって穏やかに、青ボールペンを手に取ってA4の紙の上に1つひとつのイメージを描き、それぞれについて指示を記すと、静かに私に手渡しました」
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E6%96%87%E5%8C%96/%E3%82%B4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E7%94%A3%E3%82%92%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%AB%E5%8F%97%E3%81%91%E7%B6%99%E3%81%90/88095850ジャンリュック・ゴダール監督のそばで20年間一緒に映画を作ってきたファブリス・アラーニョ氏。巨匠が最後の作品にどんな思いを込めたのか、監督亡き後の映画制作をどう進めているかを語る。
12 分
Christopher Small
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ジャンリュック・ゴダール監督が2022年9月に自殺ほう助で亡くなる1年以上前、フランスの高級ファッションブランド、サンローランはこの映画の巨匠に短編作品の制作を依頼した。フランス・ヌーベルバーグ(新しい波)で最も名高い監督の新作となればブランドの信用も大いに高まると考えてのことだった。
監督が長年温めてきた構想に基づいて制作したのは、謎めいた短編映画「ジャン=リュック・ゴダール/遺言 奇妙な戦争」(Drôles de guerres)。2021年春に納品されたが、公開はさらに2年経ってからだった。
「ゴダールが亡くなるまで待てばさらに価値が出るだろうと、マーケティング面から公開を見合わせていたとは思いたくありませんが」と、20年間ゴダール監督の右腕だったファブリス・アラーニョ氏(54)は語る。ウィーン国際映画祭(Viennale)での上映に先立ち、SWI swissinfoのビデオ取材に応じた。
ブランドの思惑はわからないが、実際、ゴダール監督はその後間もなく死去する。長きにわたり病状の悪化に苦しんだ末、スイス西部ロールにある自殺ほう助クリニックに自ら入院した。この20分間の短編映画は2023年5月のカンヌ国際映画祭でプレミア上映された。
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スクリーンでは、本作品は「映画の予告編」と表されている。監督が将来作ろうと考えていた長編映画の予告編、という位置づけだ。
この話題に触れると、アラーニョ氏は顔を曇らせた。この見出しにサンローランが文言を加えたせいだ。「映画の予告編」でなく「決して存在しない映画の予告編」と。「それは誤っています。この作品が映画であり、実際に存在するものです。私には理解できません」
このように緻密で、何かとかばい立て、ことによると教師のように明快な発言はいかにもアラーニョ氏らしい。最初はロケーションマネージャーとして、続いて技術面のブレーンとして、さらには深く創作に関わる共同制作者として、20年間にわたってゴダール監督とともに仕事をし、いろいろな面から「擁護」してきた。
撮影に関する知見や向上心が旺盛なアラーニョ氏は監督に欠かせない存在となり、時を経るごとに制作での絆はますます強まった。「ゴダール・ソシアリスム」(Film socialisme)(2010年)では監督の立ち合いなしに多くのシーンの撮影を任され、「さらば、愛の言葉よ」(Adieu au langage)(2014年)では2台のカメラで3次元撮影する革新的な手法で3D作品を実現した。
もともと人形劇を手がけていたアラーニョ氏は、なぜ映画に、それも技術面にひかれるようになったのか。「言葉なしに自分を表現したかったのだと思います。映画はその最適な手段です。スイスの(美術大学の)映画学科で学んだことですが、映画の技術は実にシンプルです。基本は2日間で習得できます。でも当時、私が言われたのはルールを学びそれに従うようにというだけですが、明らかにそれが理解できていませんでした」
ゴダール監督は生前、長編映画「Scénario」(仮題:シナリオ)の制作に着手した。元にしたのは、静止画と動画を対比させるという「映画の予告編」でアラーニョ氏と一緒に考案したアイデアだ。「『映画の予告編』をサンローランに納めると、ゴダールは急に別のことをしたいと思いました。『奇妙な戦争』から離れたかったのです。2022年の5月か6月には、『Scénario』の構想について議論を始めました。2部構成で、第1部はDNA、第2部は磁気共鳴画像装置(MRI)をテーマとする別の作品です。ゴダールはイメージを集め始め、イメージについて語り、どのような見せ方をするか話し合いました」。
何カ月かはそのように作業が続いた。「ですが、夏は大変でした。私はゴダールを何度か病院に連れて行き、大抵はそのつど5日ほど入院しました。結局ゴダールは……ここから去ることにしたのです」。アラーニョ氏は、無意識のうちに婉曲な言い回しを選び、ため息をついた。「そのときでさえ、『Scénario』の制作を続けるよう私たちに言い含めていました。契約通りに作品を届けられず(プロデューサーのミトラ・ファラハニ氏に)迷惑をかけることはしたくないと」。
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ゴダール監督が「Scénarios」(完成版は複数形のsが付いた)のファイナルカットを見ることはなかった。「(死去の)5日前、月曜日に、ゴダールから作品の第1部について指示を受けました。それから亡くなる前日に、第2部の指示をもらいました。そしてその日、ゴダールが最後にしたのは、映画のラストシーンを自ら撮影することでした」。
師から最終の編集指示を受けた記憶を語るアラーニョ氏の目に、哀しみの色が浮かぶ。「いずれにせよ、ゴダールの最後の指示は極めて精緻な内容でした。頭の中では編集済みの映像が流れていたのでしょう。15年間、ゴダールの映画をカンヌに届けてきましたが、これが最後になりました。私がゴダールの新作を持ち込むのはもう終わり。プント・フィナーレ(終着点)です」
それにしても、何という結末だろうか。「私は、ゴダールが死の直前に考えていたことをこの映画が伝えていることに驚異を覚えます」と、先回りして作品を守るようにアラーニョ氏は説明する。ゴダール最後の下絵で、ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(Roma città aperta)(1945年)から、アンナ・マニャーニが路上でドイツ兵に銃撃されるシーンを引用するよう指示されていた。
「(ゴダールの指示による)編集中は何も思いませんでした。でも後になって、ゴダールの母親も路上で命を落としたと知りました。1954年、ジュネーブでのことです。ゴダールはパリにいて、母親のもとに行けなかった。葬式にも出なかった。しかしゴダールは自分が世を去る間際に、そのイメージを、最後のイメージとしてそこに入れたのです。路上で死にゆく女性と、『ママ』と泣きながら駆け寄る子の姿を。それが彼の最後の意思表明なのです」
「あわせて、(ゴダール監督作品)『はなればなれに』(Bande à part)(1964年)のカットも指示通りにタイムラインに入れました。ジャンリュック・ゴダールの声、若き日のゴダールの声が流れます。『オディールが最後に思ったのは……』。後に、気づきました。ゴダールの母の名はオディールだったと。この最後のモンタージュは、ゴダールが作りながら一度も見ることはありませんでしたが、自分の映画と人生、犯した失敗について語った自叙伝だったのです。私たちのもとを離れる3日前、ゴダールはいたって穏やかに、青ボールペンを手に取ってA4の紙の上に1つひとつのイメージを描き、それぞれについて指示を記すと、静かに私に手渡しました」
アラーニョ氏が一通り語り終えたので、最後に「Le Lac」(仮題:湖)について尋ねた。自身が長く温めてきたプロジェクトで、ここ数年取り組んでいるという。「私たちのチーム(Casa Azul Films)が制作した『イメージの本』が成功したおかげです。これで制作費が調達できました。この作品をゴダールに捧げます。この準備のために私が作った短編映画(『Lakeside Suite』仮題:レイクサイド・スイート)をゴダールはたいへん気に入ってくれていました。また、私を後押ししてくれたフレディ・ビュアシュ(シネマテーク・スイス理事長を務めた映画評論家)にも。この映画を作るのはその2人のためです」
ゴダール監督亡き今、アラーニョ氏は別種の映画を共同制作することにも力を入れる。今年のロカルノ国際映画祭コンペティションでマルタ・マテウス監督のポルトガル映画「ファイヤ―・オブ・ウィンド」(Fogo do Vento)が上映され、意外にも、そのプロデューサーとしてアラーニョ氏の名が画面に表示されていた。「あるとき、私たちがゴダールと作った本を(マテウス氏が)いくつか買ってくれました。その後、映画サイトMUBIの配信で見た短編映画(『棘と荒地』Farpões, baldios、2017年)がいいと思って、クレジットを見たところ……。マルタ・マテウス、マルタ・マテウス……。それで思い出しました。あの注文をした女性じゃないか、と」。ここから2人の交流が始まった。
マテウス氏は、ポルトガルで映画制作の資金を集めるのがいかに困難かについて話していた。「長編映画を準備していると言われたので、『それなら一緒に制作しよう』ということになりました。共同制作はすばらしいものです。スイスだけで映画を作っていると、瑣末で、偏狭で、馬鹿馬鹿しいもののせいでうまく進まない」とアラーニョ氏は冗談交じりに言った。
「共同制作は、世界を理解し、他のものに対する感受性を高めるきっかけになります。それなのに、『ファイヤ―・オブ・ウィンド』はスイス政府から助成金が出ませんでした。文化局はこの種の共同制作に乗り気でなく、評価するのはスイスに関係するものだけです。そこで私たちはシネフォーラム(Cinéforom)とスイス・フランス語圏のテレビ局を頼りました。それと自分たちが持っているものですね。できるときに映画を撮るようにと、私は好んで人に働きかけています。『今すぐやりましょう。何をためらっているんです。ここにカメラがあるじゃないですか』とね」。
再び自身のプロジェクトに取り組むのは、どんな気分だろうか。「たしかに今は時間に余裕ができました。20年間、私はゴダールを最優先にしていました。今は自分が最優先です。でも実は、他に優先すべきことがあるのもいいものですよ」
ゴダール監督の晩年の作品はニューヨーク映画祭で上映後、小規模な北米ツアーを続け、モントリオールとバンクーバーのシネマテークで上映される。「その間、何日間か『Le Lac』をノートパソコンで編集し、ウィーンで『さらば、愛の言葉よ』と合わせて映像をお見せできるかもしれません」。映画作りはこれからも続く。
編集:Virginie Mangin/ds、英語からの翻訳:宮岡晃洋、校正:ムートゥ朋子
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19日に幕を閉じた第71回カンヌ国際映画祭で、スイス・フランスのジャン・リュック・ゴダール監督(87)が特別賞「スペシャル・パルムドール」を受賞した。同映画祭に出品された監督の最新作「Le Livre d'Image(原題)」と、長年の映画界への功績をたたえられた。
ジャンリュック・ゴダールとアラン・タネールがわずか3日の間に相次いで亡くなった。スイス映画界が失ったものは計り知れない。二人は新時代の旗手として大きな足跡を残し、その作品でスイスの文化圏を押し広げた。
Bob Dylan @bobdylan Saw Nick Cave in Paris recently at the Accor Arena and I was really struck by that song Joy where he sings "...