2024年5月8日水曜日

PonさんによるXでのポスト 女優

ギルダ - Wikipedia 1946

ギルダ - Wikipedia

ギルダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ギルダ』(Gilda)は、1946年に公開された白黒映画チャールズ・ヴィダーが監督したこのフィルム・ノワールには、グレン・フォードリタ・ヘイワースが出演した。 撮影はルドルフ・マテ。また、アニタ・エリスが歌う "Put the Blame on Mame"と "Amado Mío"の振付はジャック・コールが担当した[1]。ギルダが"Put the Blame on Mame"を歌いながら控えめなストリップティーズを披露する場面では、リタ・ヘイワースがジャン・ルイが制作した黒いドレスを着用し、このドレスは後に映画史上有名なファッションとして記憶されるようになった。

あらすじ

人生に嫌気がさしたアメリカ人青年ジョニー・ファレル は、南米のとある賭場でイカサマを繰り返していたが、ついに露見して殺されかける。幸い、ベイリン・マンスンという別のカジノの経営者に雇われる形で命拾いする。ジョニーはマンスンの右腕へと成長した一方、ポーターのアンクル・ピオや店に出入りするモーリス・オブレゴンと親しくなる。 ある日、マンスンは旅に出るといってジョニーに店を預け、ジョニーの元カノ・ギルダを嫁に迎えて帰国する。ギルダはジョニーとよりを戻したいと考えはじめたが相手にされず、彼の気を引き付けるために客たちと戯れ合うこともあった。 興味がないそぶりをしていたジョニーだったが、心の中ではギルダを忘れることがなかったため、複雑な思いでいた。 やがて、ジョニーはこのカジノがナチスのスパイの拠点の一つであることに気づく。ある日、ドイツ人がそのカジノで殺され、恐怖を感じたジョニーはギルダの家へ逃げ込む。気持ちが一つになった二人は抱き合う。その様子を見ていたマンソンは、後日自殺を装い消息を絶つ。マンソンが死んだと思ったジョニーは敵討ちという名目でギルダと結婚する。 その後、ギルダはウルグアイのモンテヴィデオへ渡り、カフェの歌手となった。また、オブレゴンが政府のスパイであることが判明し、ギルダに罪はないとジョニーに説明する。 そして、ジョニーとギルダが和解したところを、マンソンが殺そうとするが、ピオに刺殺される。その後、オブレゴンは「マンソンが政府の記録上では自殺している」と告げ、ピオを放免する。 かくして、ギルダとジョニーはアメリカへと帰国した。

キャスト

役名 俳優 日本語吹き替え
ソフト版 日本テレビ版
ギルダ・マンスン・ファレル リタ・ヘイワース(歌唱:アニタ・エリス) 坪井木の実 北浜晴子
ジョニー・ファレル / ナレーター グレン・フォード 大滝寛 村越伊知郎
ベイリン・マンスン ジョージ・マクレディ英語版 大塚芳忠 家弓家正
モーリス・オブレゴン刑事 ジョゼフ・カレイア 沢木郁也
アンクル・ピオ スティーヴン・ジェレイ英語版 塚田正昭
ケイシー ジョー・ソーヤー英語版
翻訳:桜井裕子

脚注

  1. Gilda - IMDb(英語)

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ギルダに関連するカテゴリがあります。
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この項目は、映画に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:映画/PJ映画)。

Scott WarmuthさんによるXでのポスト

 
 
Scott Warmuth
⁦‪@scottwarmuth1‬⁩
HBD to Gary Snyder (born May 8, 1930). Dig how Bob Dylan quotes one of Snyder's poems in this interview with Bill Flanagan to promote Together Through Life. Dylan's interviews from this period are loaded with this sort of thing. pic.twitter.com/sfEkLLgUJt
 
2024/05/08 21:40
 
 
ゲイリー・スナイダー (1930 年 5 月 8 日生まれ) の誕生日。ボブ・ディランがビル・フラナガンとのこのインタビューで、Together Through Life のプロモーション中にスナイダーの詩を引用しているのが面白い。この時期のディランのインタビューには、このような内容が満載だ。

25年ぶりに映画『スター・ウォーズ ファントム・メナス』を劇場で見たらジェダイがムカついてきた話 【ジャガモンド斉藤のヨケイなお世話】

2024年5月7日火曜日

【名探偵コナン】ロンドン編は何巻何話?ネタバレと告白シーンはみどころ|名探偵コナンのネタバレ・動画・口コミ・感想などのファンブログ

【名探偵コナン】ロンドン編は何巻何話?ネタバレと告白シーンはみどころ|名探偵コナンのネタバレ・動画・口コミ・感想などのファンブログ
#621

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【名探偵コナン】ロンドン編は何巻何話?ネタバレと告白シーンはみどころ

『名探偵コナン』の長編ストーリーであるロンドン編は、新一が蘭に告白するという伝説的ストーリーとして、コナンファンなら見逃せない要チェックストーリーとなっています!

名探偵コナンのロンドン編は何巻?何話?についてや、ネタバレはこちら。

また、ロンドン編では、新一と蘭の告白シーンの他にも、謎解きのもかなり面白いものになっています。

舞台がロンドンということもあり、世界的に有名なイギリスの名所が数多く登場するので、見ているだけでもロンドンを観光しているような気分になれる豪華な構成となっています。

今回は、『名探偵コナン』のロンドン編について詳しく解説していきたいと思います!

『名探偵コナン』ロンドン編は何巻?何話?

単行本 71巻~72巻
  • 第71巻File.3 「名探偵の弟子」
  • 第71巻File.4 「黙示録」
  • 第71巻File.5 「ラブは0」
  • 第71巻File.6 「ホームズに聞け」
  • 第71巻File.7 「ホームズの暗号」
  • 第71巻File.8 「もう1つのA」
  • 第71巻File.9 「女王からのメッセージ」
  • 第71巻File.10「真の標的」
  • 第71巻File.11「女王の真価」
  • 第72巻File.1「厄介な難事件」
アニメ 616話~621話
サブタイトル
  • 第616話 ホームズの黙示録(名探偵の弟子)
  • 第617話 ホームズの黙示録(Love is 0)
  • 第618話 ホームズの黙示録(サタン)
  • 第619話 ホームズの黙示録(Code break)
  • 第620話 ホームズの黙示録(芝の女王)
  • 第621話 ホームズの黙示録(0 is Start)
動画配信 シーズン16

『名探偵コナン』のロンドン編は、

単行本では71巻72巻、アニメでは第616話~第621話に『ホームズの黙示録』シリーズとして放送されました。

  • 第616話 ホームズの黙示録(名探偵の弟子)
  • 第617話 ホームズの黙示録(Love is 0)
  • 第618話 ホームズの黙示録(サタン)
  • 第619話 ホームズの黙示録(Code break)
  • 第620話 ホームズの黙示録(芝の女王)
  • 第621話 ホームズの黙示録(0 is Start)

6週連続で、コナンの中でもかなりの長編ストーリーであると言えますよね!

舞台が新一も初めて行くロンドンということで、かなり豪華な構成になっているということがわかります。

『名探偵コナン』ロンドン編の声優・登場人物

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ホームズの黙示録のゲスト声優

  • ダイアナ・キングストン…レイチェルワルザー
  • ミネルバ・グラス…ルミコバーンズ
  • アポロ・グラス…くまいもとこ
  • ジュノ・グラス…クリステルチアリ
  • アレス・アシュレイ…細井治
  • ハーデス・サバラ…菅原正志
  • バウアー…まるたまり
  • 審判…レイチェルワルザー
  • 刑事/警備員…マークチネリー
  • 男/解説者…田中隼人

名探偵コナン声優一覧!映画や本編出演の女優/芸人/サッカー選手まで出演!この記事では名探偵コナンの声優さんを1人ずつ列挙していきます。 名探偵コナンはかなり20年以上放送されていることもあり、たくさんの...

『名探偵コナン』ロンドン編のネタバレ

『名探偵コナン』ロンドン編のネタバレを紹介します。

第616話 ホームズの黙示録(名探偵の弟子)

コナン見てて思ったけどやっぱり第616話~第621話がシリーズ的には一番好きですね。ぜひ色んな人に見てもらいたいものです(*^^*)とりあえずこのシリーズで大活躍だったミネルバ好き。

コナンと小五郎が喫茶店ポアロにいると、猫が入ってきました。

そして飼い主のダイアナが現れ、小五郎たちに猫を見つけてくれたことにとっても感謝してきます。

ダイアナは大のミステリー好き。

小五郎のことを探偵だと知って、なんとロンドンの自宅に招待してくれたのです。

コナンは、初めてのロンドン、ホームズの聖地に行けると大喜びしますが、コナンは本来は実在しない人物であるためパスポートがないということに気づきます。

そこで、灰原に解毒剤をもらって、一時的に新一の姿に戻り、小五郎や蘭たちとは別行動で阿笠博士と一緒に飛行機に乗ってロンドンで合流することにしました。

コナンは、ロンドンでアポロという少年に出会います。

アポロは、ホームズに会わせろ!とシャーロック・ホームズ博物館の近くで係員に詰め寄っていました。

アポロは、「はやくしないと事件が置きて人が殺される!」と訴えていたのです。

コナンはその話が気になって、アポロに事情を尋ねます。

コナンは、自分の洞察力を披露し、アポロがテニスの世界ランク1位のミネルバ・グラスの家族であるということを言い当てました。

そしてコナンは、自分はホームズの弟子だからといって事件について聞き出すことに成功したのです。

アポロは、変な男に話しかけられ、「ロンドンのどこかで人が死ぬ、君の目の前で」と言い、それをロンドン警視庁に伝えろと言って、謎の暗号文が書かれた紙切れをアポロに渡して去っていったのです。

さらに、アポロと同じことを伝えられ、紙切れを渡された子供たちがたくさんいるということが判明し、大量殺人が計画されているのではないか・・・と推理するのでした。

第617話 ホームズの黙示録(Love is 0)

小五郎とは人が集まりそうなところを謎解きのために回りますが、なかなか手がかりを見つけることができません。

蘭は新一に助けを求めようと電話をしますが、新一にロンドンにいることを伝えてもそっけない態度だったので二人は喧嘩をしてしまい、なかなか相談することができません。

悩んでいるところに、ミネルバ・グラスが声をかけてきたのでした。

コナンと阿笠博士が謎解きのためにロンドンの街を駆け巡っていると、新一の携帯に蘭から電話がかかってきました。

蘭との電話の最中、ちょうどビックベンの鐘が鳴り、新一もロンドンに来ているということが蘭にバレてしまいます。

蘭は新一を見つけるために、ビックベンへ向かいます。

電話ボックスに逃げ込んだ新一は蘭に追い詰められ、コナン=新一であるということをバレないようにするために、帰国用の解毒剤を飲んでしまうのでした・・・!

そうして、新一の姿で蘭の前に現れましたが、どうしてロンドンにいることを教えてくれなかったのかと言って蘭は泣いて逃げ出します。

それを新一は追いかけるのでした。

第618話 ホームズの黙示録(サタン)

翌日、コナンが風邪を引いたということで、小五郎と蘭は二人でロンドンの街を謎解きに外出します。

コナンは風邪ではなく、解毒剤のせいで新一の姿に戻っていたから一緒に行動できなかっただけなんですが・・・。

新一の姿に戻っているコナンは、いつコナンの姿に戻ってしまうかわからないので、迂闊に外出することができません。

新一は、新聞で、暗号の紙から検出された指紋により、容疑者がハーデス・サバラという男だということが割り出されたということを知りました。

蘭と小五郎はロンドンの街を駆け巡り、新一の助言を得ながら、暗号を次々に解いていきます。

暗号はロンドンの街の建物などを表していて、その場所に行くと暗号を解くヒントになる文字がちりばめられているのでした。

そして、その文字をつなぎあわせると、事件のヒントが浮かび上がってくるのでした。

第619話 ホームズの黙示録(Code break)

新一は解毒剤の効果が切れ、コナンの姿に戻ってしまっています。

変成器を使って蘭たちと協力して暗号を解読していくと、「SATURN」というひとつの単語が導き出されました。

それは土星という意味で、土曜日に何か起きるのでは?!とコナンは推理します。

土曜日というのは、すでに翌日に迫っていました。

犯人のハーデスは、過去に病院を狙ったとき、暗号文を解読し、爆発処理班が突入した直後に病院を爆破させました。

ハーデスの犯行を阻止するには、ハーデスに、暗号が解読したことをバラさずに予告の場所に行き、捕獲しなければならないのです。

さらに、小五郎は「SATURN」の文字の表す場所を地図上に順番につないでいくと、ある形が現れるということを発見しました。

その形はまるでテニスのラケットのよう。

土曜には、アポロの姉であるミネルバ・グラスが出場するウィンブルドンの女子シングルスの決勝が行われる日だったのです。

たくさんの観客が集まるこの場所で、ハーデスは犯行に及ぶのではないかと推理します。

第620話 ホームズの黙示録(芝の女王)

ウィンブルドンの決勝の会場に向かいますが、コナンたちはセンターコートに入ることができません。

試合では、芝の女王と呼ばれるミネルバが、なぜかサーブミス連発で第一セットを0-6で取られてしまいます。

それを不思議に思うコナン。

そして、コナンはミネルバがハーデスに狙われているのではと推理します。

ミネルバは、サーブの位置でそのことを伝えようとしていたのです。

それに気づいたコナンは、アポロのチケットで会場に入り、「僕が助けてあげるよ。僕はホームズの弟子だからさ」と大声で叫んでミネルバに伝えました。

そのメッセージに応えたミネルバは、またサーブでコナンにメッセージを伝えます。

そのメッセージには、試合が終わると母親が死ぬというものでした。

ハーデスは、過去にミネルバが負けた全仏オープンテニスでミネルバの優勝に大金を賭けていたのですが、ミネルバの母親が応援に行かなかったことで負けたと考え母親に逆恨みしていたのでした。

コナンはなんとかして観客1万5千人の中から変装したハーデスを見つけようとします。

第621話 ホームズの黙示録(0 is Start)

ミネルバの母親は、カメラに映される家族席ではなく、いつも一般席に座って観戦しているといいます。

それでもミネルバは必ず母親の位置を探し出します。

それは、ミネルバはギリギリ外れる高いロブを打って、観客の顔の動きと、盲目の母親の動きを見分けて発見するというものでした。

それと同じ方法を用いて、コナンはハーデスの位置を見つけ出そうとします。

ミネルバはラリーを続け、観客はその動きを追います。

しかし、ハーデスだけはミネルバの母親から目を離さないので、他の観客とは違う動きをしているので、コナンはハーデスの位置を見つけ出すことができました。

しかし、コナンのチケットではハーデスのいるスタンドには入れず困っていると、女が突然ハーデスのいるスタンドに入れるチケットを差し出してきました。

それはなんと新一の母親の有希子だったのです!

有希子は、灰原に頼まれて帰国用の解毒剤を持ってきてくれていました。

コナンは有希子のチケットのおかげでハーデスのいるスタンドに入ることができ、ミネルバの協力もあり見事ハーデスを確保することに成功!

そして帰国の日、蘭はミネルバに新一とのことを報告します。

なんと、新一が蘭を追いかけていった日、新一は蘭に告白していたのです!

あの日以来、なんだか二人の様子がおかしかったのはそのせいだったんですね!

新一が蘭に告白したのは何巻何話?ビッグベンで言ったセリフは?名探偵コナンで、新一が蘭に告白したのは何巻何話?新一が蘭にビッグベンの下で告白したセリフは?について詳しく解説しています。...

帰国して、に告白したことを灰原に釘を刺されるコナン。

それでも、新一はあのときどうしても蘭に伝えたかったようです。

やっと自分の気持を伝えることができましたね。

名探偵コナン第99巻の考察や伏線とネタバレ!2021年4月14日水曜日に名探偵コナンの新刊第99巻が発売! 第99巻についての考察やネタバレ、感想などを紹介。次回は100巻と...

↑ロンドン編からの伏線回収があった!

『名探偵コナン』ロンドン編は告白シーンがみどころ

ロンドン編のみどころと言えばなんと言っても新一の告白シーンですよね!

告白シーンがあるって楽しみに見ていたけど、結局告白シーンは最後の最後に回想で語られました(笑)

二人の様子がおかしかったので、「あ、このタイミングで告白したんだろうな」と予測はしていましたが、まさか最後に持ってくるとは~^^;

新一の告白のセリフも、探偵っぽくてかっこよかったですね!

新一みたいな名探偵でも、好きな女のことは難しくて推理できないみたいです(*´ω`*)

また、このシリーズは、告白シーン以外にも、暗号の謎解きが秀逸でしたよね!

ロンドンの有名観光地を辿っていくことで謎が解けるというもの。

しかも、ホームズのことを詳しく知っていないと解けないというもの!

新一、ホームズのこと詳しすぎないですか?!

新一のための暗号だったといっても過言ではないですよね~!

告白に謎解きにドキドキ・ワクワクしっぱなしの長編シリーズでした!

長い間新一と蘭を見守ってきた読者にとっては、ビッグイベントのひとつですので見逃せませんね!

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https://conanfan.xyz/muryou/romantikku/

この回、この記事も胸キュン↑

2024年5月6日月曜日

「マルクス思想を知っていても知らなくても退屈極まりない駄作」マルクス・エンゲルス 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com

「マルクス思想を知っていても知らなくても退屈極まりない駄作」マルクス・エンゲルス 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com

1.0マルクス思想を知っていても知らなくても退屈極まりない駄作

1)映画の概要~ライン新聞時代から『共産党宣言』執筆まで
映画の冒頭、山林で枯れ木や枯れ枝を拾う貧しい農民が官憲に追われる姿が描かれる。ドイツ・ライン州が1843年木材窃盗取締法を施行し、従来は慣行として認められていた枯れ木拾いを違法としたためだ。ライン新聞編集長であるマルクスは、州議会での法案審議を厳しく批判した。
つまり、これはライン新聞時代のマルクスを紹介する導入部分なのだが、本作は説明不足のところが多いので、ここで彼の履歴を補足しながら映画を概観しておこう。

ライン新聞はライン州新興ブルジョアジーの政治的代弁のために42年に創刊されたもので、当時の青年ヘーゲル派の牙城となった。ルーテンベルク、ブルーノ・バウアー、マイエン等が鼻息の荒い論説を執筆した結果、43年にあっけなく発禁処分を食らってしまう。映画では編集者たちが逮捕されたことになっているが、それは創作だろう。

辞職したマルクスは、言論統制を避けるためパリに引っ越しして、ルーゲの出資する雑誌『独仏年誌』の発刊に携わり、有名な論文『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』を掲載。同じ号に『国民経済学批判大綱』を寄稿したエンゲルスと知り合い、経済学研究にのめり込んでいく。

ところがマルクスはその後、『前進』誌にプロイセンの織工暴動を賞賛する記事などを書いたために、プロイセンの圧力でパリから追放され、ブリュッセルに逃げのびることになる。1845年のことだ。エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』発表もこの年だった。

映画は主にこのパリ~ブリュッセル時代のマルクスの活動を、48年の『共産党宣言』執筆まで辿っていく。
例えば『独仏年誌』の資金問題、プルードンとの交流、エンゲルスとの共同執筆や彼からの経済支援、生活の窮迫、正義者同盟への加入と内部論争等々――邦題は『マルクス・エンゲルス』だが、原題は『若きカール・マルクス』で、あくまでマルクスの伝記映画である。

内容は虚実取り交ぜているようで、例えばロンドン正義者同盟の大会にマルクスとエンゲルスが出席し、自分たちで組織名を「共産主義者同盟」に変更させたように描いている。しかし、向坂逸郎『マルクス伝』によると「マルクスはこれには出席しなかった。金がなかったからである」というのだ。個々のエピソードを真に受けないほうがよろしい。

2)作品の評価
本作ははっきり言って退屈極まりない。セリフはマルクスの著作をいくらかでも読んでいなければ、チンプンカンプンだろう。小生は少々読んでいるが、それでもつまらなかった。

一例を挙げよう。青年ヘーゲル派等を批判した『聖家族』(エンゲルスとの共著)の発表前にタイトルをどうするかという話になり、「批判的批判の批判はどうか」という会話が出てくる。
『聖家族』の副題は「批判的批判の批判~ブルーノ・バウワーとその伴侶を駁す」となっており、そこから来たセリフなのだが、マルクスが観念論者ブルーノ、エドガーのバウアー兄弟を「聖なる家族」と、彼らのマルクス批判を「批判的批判」と呼び、嫌みを言っていたことを知らない限り、面白くもおかしくもないはずだ。

また、「財産、それは盗みだ」と結論づけた改良主義者プルードンとの論争、彼の『貧困の哲学』に対する皮肉を交えたマルクス『哲学の貧困』などを紹介しているものの、上っ面にとどまるから、何やら意見が合わないらしいwくらいにしか伝わってこないのである。
マルクスは『共産党宣言』において、プルードンは現行体制下での労働者の生活改善を訴えるだけで、労働者階級にあらゆる革命運動を忌避させ、ブルジョア支配を強化するだけの保守的・ブルジョア的社会主義者だと否定している。要は革命の是非に関する姿勢の違いがあるわけで、それくらいは説明すべきだったろう。

映画はこうした同時代の思想家の言動や、マルクス、エンゲルスとの論争等のエピソードを中心に描いているが、なにより思想家マルクスの伝記なのに、その思想がきちんと紹介されていない。弁証法的唯物論も唯物史観も階級闘争の歴史も剰余価値説も疎外論も私有財産制の廃棄もプロレタリア革命も、まともに説明されないのである。
だから論争も中途半端で意味不明になってしまう。だからつまらない。さらに全く必要のないマルクス夫妻のベッドシーンを挿入するに至っては、何をか言わんや。

そして、最後にはあの『共産党宣言』のきらびやかな聖句が厳かに響き渡るw ま、嫌いじゃないからいいけどね。今さらそんなこと描いてどうすんの?? 普通ならそう思うだろう。
理由は、恐らく製作者たちのマルクスへのオマージュであり、その背後には新自由主義で格差の拡大した欧米社会の矛盾があるのだろうと想像する。

ちなみにエンドロールのBGMにディラン『ライク・ア・ローリング・ストーン』が流れたのにも笑った。まるでプロレタリア革命後のブルジョアジーの落魄を予言するかのような使われ方だが…残念ながら現在、革命にそんな幻想を抱く人々がどれだけ存在するかは、おおいに疑問である。少なくとも若くて高慢な女性が現実の厳しさを知るという曲の歌詞からは、だいぶイメージが隔たっているような気がする。

slowslow2772さんによるXでのポスト サクリファイス

DepressedBergmanさんによるXでのポスト キルケゴール


2024年5月5日日曜日

指物と白馬の議論

指物と白馬の議論

指物と白馬の議論
(2011.03.21)
(2011.09.19追記)

参考図書
前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫
福永光司:荘子;朝日新聞社
諸橋轍次:荘子物語;講談社学術文庫
森三樹三郎『荘子』中公クラシックス
金谷治:荘子;岩波文庫
池田知久 『荘子上』学習研究社
岸陽子:荘子;徳間書店
池田知久『老荘思想』日本放送出版協会
蜂屋邦夫「老子・荘子」をよむ;NHK出版協会

 

名家の公孫竜子の「白馬論」「指物論」に因んだ文章を見てみましょう。

 指をもって指の指にあらざるを喩(さと)さんより、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんにはしかざるなり。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんより、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんにはしかざるなり。
  天地は一指なり。万物は一馬なり。(「岸陽子:荘子」による読下し文より)

参考書の中には、原文に忠実に翻訳するものと、解説文による解釈コメント中心のもの
そして、両方を含むものが見られます。それぞれ興味深く味わうことができます。

前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫

 実体性の問題、つまり、実体と属性の関係については、当時種々の詭弁論が行なわれていたらしい。その中に、公孫竜子の白馬論がある。この白馬論とは、「白馬は馬に非ず」ということを主張するものである。一言にしてその論旨を尽くせば、;馬とは形即ち実体に命名されたものであり、白とは色即ち属性に命名されたものであって、形に命名されたものではない。馬と言えば、黄黒馬もみなその中に入るが、白馬といえば、黄黒馬の如きは否定される。故に、白馬は馬でない;というのである。・・・重要な点は、当時既に実体と属性の関係が論じられていたことと、「形」ということが実体と同一視せられて、更にその強調が属性よりもむしろ実体に置かれていたということである。・・・・・ 
 朝三暮四も、朝四暮三も、結局、同一不二であるように、是非・美醜(いずれ)も同時存在の権利と義務をもつ同類にすぎない。それにもかかわらず、一を執って他を否定しようとするのは、己の指を以て、他人の指が、指でないというのと同じことに帰着する。 
 「指をもって指の指にあらざることを喩(さと)さんよりは、若(し)かず、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんには。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんよりは、若かず、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんには。天地は一指なり。万物は一馬なり。」 
 結局荘子は、この天地一指、万物一馬、という高みから一切の矛盾対立する現実の諸相を止揚して見るのである。「ここを以て聖人は由らずしてこれを天に照らす」というのが、荘子究極の立場である。そして、この立場は同時に、(えいねい)(まつわりて安し)の立場に外ならない。この虚にして物に随う境地を、道枢ともいっている。・・・そしてこの最後の立場から万物を遍照するところに、実在の矛盾対立の相がさながらに肯定されて、「物として然らざるなく、物として可ならざるなく」、総ての対立矛盾が両(ふた)つながら行なわれていく。この立場を荘子はまた「両行」とも呼んでいる。 

福永光司:荘子;朝日新聞社

 ・・・。指とか馬とかいう個々の事物にとらわれている限り、いかに精密な論理と分析を以てしても、実在の真相は把握されようがないのである。実在の真相が正しく把握されるためには、指が指であるとともに指でない立場、馬が馬であるとともに馬でない立場に立たなければならない。そして、指が指であるとともに指でなく、馬が馬であるとともに馬でない道枢の立場、すなわち真実在の世界においては、一がそのまま多であり、小がそのまま大であるから天地の大も指一本と同じであり、万物の多も馬一匹と斉しいのである。「指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩らかにする」「馬に非ざるを以て馬の馬に非ざるを喩らかにする」とは、このような「天地も一指、万物も一馬」の万物斉同の境地に立つことにほかならない。 

諸橋轍次:荘子物語;講談社学術文庫

 変な言葉でありますが、自分の指というものを標準にして、他人の指を批評する場合、お前の指は正しい指でないぞと、こう説明するよりは、そのときにはすでに、自分というものの標準がありますから、その標準をとり除いて、今度指にあらざるもの、すなわち自分の指でないところの「標準の指」を元として、それで他人の指が「標準の指」に適合しないということを説明する方がよい、と説くのであります。同様に、『馬をもって馬の馬にあらざるを喩さんよりは、馬にあらざるものをもって、馬の馬にあらざるを喩すに如かず』ともいっています。かく論じますと、結局『天地は一指なり、万物は一馬なり』、世の中のことはすべて、可不可を一貫となすという議論に落ちつくのであります。 

森三樹三郎『荘子』中公クラシックスより

 「詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から指という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのに及ばない。また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から馬という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのに及ばない。 先に述べた、無差別の道枢の立場からみれば、天地は一本の指であるともいえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである。」

金谷治:荘子;岩波文庫

 「現実の指によって、その指が真の指(概念としての指;指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬;馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。(現実の指や馬にとらわれていたのでは、現実を超えたものは明らかにできない。道枢の立場からは)天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。」 

池田知久 『荘子上』学習研究社
(2011.09.19追記)

 (ところで、ある物が「指である」「馬である」と個別的に事実判断される道枢学説の根拠は、その物を全他の物から区別する論理である。この論理は、指という判断と非指という判断が矛盾し、馬と非馬が矛盾すると見る矛盾律であるが、これが破壊されねばならぬ。もっともこれは、不徹底ながら道枢学説によってすでに行われていた、指・馬という物を用いて。しかし)
  指・馬という物に己れの立場をとる時、この物を指・馬とする判断と、この物を非指・非馬とする判断の直接的同一性を証明するのは困難だ。それであるから、より徹底した方法を用いてこれを止揚しなければならないが、その方法とは、非指・非馬中の一つの物に己れの立場をとることである。その結果、天地・万物の世界は、その中に一切の個別的な事実を含まない、ただ一つの何かある物(斉同)として認識されることになった。 

岸陽子:荘子;徳間書店

 「指という概念を分析して、指ということばが存在としての指に一致せぬことを論じる者がいる。馬という概念を分析して、馬ということばが存在としての馬に一致せぬことを論じる者がいる。 もしも、これら詭弁論者が、これによってわれわれの認識能力の不完全さを明らかにしようと意図するなら、その方法は誤りである。なぜならば、指という存在は指であってしかも指でなく、馬という存在は馬であってしかも馬ではないからだ。換言すれば、一本の指すなわち天地であり、一頭の馬すなわち万物なのである。」 

池田知久『老荘思想』日本放送出版協会
(2011.09.19追記)

 指によって指が指でないことを証明するのは、指でないものによって指が指でないことを証明するのに及ばない。馬によって馬が馬でないことを証明するのは、馬でないものによって馬が馬でないことを証明するのに及ばない。天地はその全体が一本の指であり、万物はその全体が一頭の馬である。

蜂屋邦夫「老子・荘子」をよむ;NHK出版協会

 ・・・・・。その普通概念から見れば、馬Aとか馬Bとか言いましても、それらの独自性は、個物であることの中に消えてしまうのです。そこで、天地や万物という枠組みから個物を見た場合、その個物全部を馬だとか指だとか、そのほか何と呼んだところで変わりはない、ということになります。個物として存在していることには変わりはないからです。万物は斉同であるという理論でした。個物という概念のもとに、一切合切の差はなくなるのです。・・・・・。
 では、一指とか、一馬とかは、どのような気分で言われているのでしょうか。すべてが指、すべてが馬とは、天地と個物の間に立ちはだかるさまざまな束縛もなく、あらゆる個物は個物として平等ですから、個物の間に対立も闘争も支配もなく、それぞれの個物は個物としての存在を十分に享受しています。風に吹かれた木々が発する万籟の声のように、万籟の声を発する個物の饗宴、荘子の頭に描かれた世界は、そんなものではなかったかと思われます。

私の感想

総じて

 どの翻訳も学者の方々の工夫の跡を味わうことができます。翻訳内容もそれぞれに難解です。荘子が生きていたら、どの翻訳が彼の感覚に近いのか聞きたいところです。しかし、斉同的立場、両行的立場からは、それぞれすべて然りと、荘子に言われそうです。

 白馬論や指物論は、名家の公孫竜が唱えた主張の一つ。 詭弁論などといわれていますが、内容の等価性・不等価性、意味する領域の範囲や範疇のレベルの相違性、「名と物」、「名と実」など「概念と実体」の課題として興味深い内容だと思います。また、言語の表現形式の問題(例えば、日本語、中国語、英語などの言い方・表し方)と他言語への変換・翻訳過程の問題という観点からも興味の持てる課題でもあります。 

 なお、荘子の「天下篇」に、恵子についての記述、つまり、「歴物十事」「弁者二十一事」があります。 無限大と無限小を弄ぶ「空間と時間にある一切の差別」を否定する奇妙な世界の論述が見られます。 恵子の「歴物十事」については、「恵子と荘子の問答」のページをご参照下さい。

 これらの話から、帰納、演繹、三段論法、形式論理学、記号論理学などが連想されます。論理学のテキストにあった「格式覚え歌」を紹介します。学生時代、授業にあまり出なかったために、試験の前の日にあわてて下記の覚え歌をお経のように丸暗記して、あとは直観で勝負と、論理学の試験に臨み、「可」を得たことがなつかしく思い出されます。

Barbara, Celarent, Darii, Ferioqueprioris:
Cesare, Camestres, Festino, Baroco, secundae:
Tertia, Darapti, Disamis, Datisi, Felapton, 
Bocardo, Ferison, habet:quarta insuper addit
Bramantip, Camenes, Dimaris, Fesapo, Fresison.

 なお、この白馬非馬論についての説話が、韓非子の外儲説の中に見られます。

 「白馬非馬論によって、学者達を煙に巻いていた雄弁家の児説(げいえつ)が、白馬に乗って関所を通る時、白馬非馬論により、通行税をケチろうとしたが、馬としての通行税もとりたてられてしまった。学者はだませても、関所の役人さえだますことができなかった」という話です。


指物と白馬の議論

 指をもって指の指にあらざるを喩(さと)さんより、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんにはしかざるなり。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんより、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんにはしかざるなり。
  天地は一指なり。万物は一馬なり。(「岸陽子:荘子」による読下し文より)

指物と白馬の議論

前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫

 実体性の問題、つまり、実体と属性の関係については、当時種々の詭弁論が行なわれていたらしい。その中に、公孫竜子の白馬論がある。この白馬論とは、「白馬は馬に非ず」ということを主張するものである。一言にしてその論旨を尽くせば、;馬とは形即ち実体に命名されたものであり、白とは色即ち属性に命名されたものであって、形に命名されたものではない。馬と言えば、黄黒馬もみなその中に入るが、白馬といえば、黄黒馬の如きは否定される。故に、白馬は馬でない;というのである。・・・重要な点は、当時既に実体と属性の関係が論じられていたことと、「形」ということが実体と同一視せられて、更にその強調が属性よりもむしろ実体に置かれていたということである。・・・・・
 朝三暮四も、朝四暮三も、結局、同一不二であるように、是非・美醜(いずれ)も同時存在の権利と義務をもつ同類にすぎない。それにもかかわらず、一を執って他を否定しようとするのは、己の指を以て、他人の指が、指でないというのと同じことに帰着する。
 「指をもって指の指にあらざることを喩(さと)さんよりは、若(し)かず、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんには。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんよりは、若かず、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんには。天地は一指なり。万物は一馬なり。」
 結局荘子は、この天地一指、万物一馬、という高みから一切の矛盾対立する現実の諸相を止揚して見るのである。「ここを以て聖人は由らずしてこれを天に照らす」というのが、荘子究極の立場である。そして、この立場は同時に、(えいねい)(まつわりて安し)の立場に外ならない。この虚にして物に随う境地を、道枢ともいっている。・・・そしてこの最後の立場から万物を遍照するところに、実在の矛盾対立の相がさながらに肯定されて、「物として然らざるなく、物として可ならざるなく」、総ての対立矛盾が両(ふた)つながら行なわれていく。この立場を荘子はまた「両行」とも呼んでいる。

福永光司:荘子;朝日新聞社

 ・・・。指とか馬とかいう個々の事物にとらわれている限り、いかに精密な論理と分析を以てしても、実在の真相は把握されようがないのである。実在の真相が正しく把握されるためには、指が指であるとともに指でない立場、馬が馬であるとともに馬でない立場に立たなければならない。そして、指が指であるとともに指でなく、馬が馬であるとともに馬でない道枢の立場、すなわち真実在の世界においては、一がそのまま多であり、小がそのまま大であるから天地の大も指一本と同じであり、万物の多も馬一匹と斉しいのである。「指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩らかにする」「馬に非ざるを以て馬の馬に非ざるを喩らかにする」とは、このような「天地も一指、万物も一馬」の万物斉同の境地に立つことにほかならない。

諸橋轍次:荘子物語;講談社学術文庫

 変な言葉でありますが、自分の指というものを標準にして、他人の指を批評する場合、お前の指は正しい指でないぞと、こう説明するよりは、そのときにはすでに、自分というものの標準がありますから、その標準をとり除いて、今度指にあらざるもの、すなわち自分の指でないところの「標準の指」を元として、それで他人の指が「標準の指」に適合しないということを説明する方がよい、と説くのであります。同様に、『馬をもって馬の馬にあらざるを喩さんよりは、馬にあらざるものをもって、馬の馬にあらざるを喩すに如かず』ともいっています。かく論じますと、結局『天地は一指なり、万物は一馬なり』、世の中のことはすべて、可不可を一貫となすという議論に落ちつくのであります。

森三樹三郎『荘子』中公クラシックスより

 「詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から指という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのに及ばない。また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から馬という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのに及ばない。 先に述べた、無差別の道枢の立場からみれば、天地は一本の指であるともいえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである。」

金谷治:荘子;岩波文庫

 「現実の指によって、その指が真の指(概念としての指;指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬;馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。(現実の指や馬にとらわれていたのでは、現実を超えたものは明らかにできない。道枢の立場からは)天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。」

池田知久 『荘子上』学習研究社
(2011.09.19追記)

 (ところで、ある物が「指である」「馬である」と個別的に事実判断される道枢学説の根拠は、その物を全他の物から区別する論理である。この論理は、指という判断と非指という判断が矛盾し、馬と非馬が矛盾すると見る矛盾律であるが、これが破壊されねばならぬ。もっともこれは、不徹底ながら道枢学説によってすでに行われていた、指・馬という物を用いて。しかし)
  指・馬という物に己れの立場をとる時、この物を指・馬とする判断と、この物を非指・非馬とする判断の直接的同一性を証明するのは困難だ。それであるから、より徹底した方法を用いてこれを止揚しなければならないが、その方法とは、非指・非馬中の一つの物に己れの立場をとることである。その結果、天地・万物の世界は、その中に一切の個別的な事実を含まない、ただ一つの何かある物(斉同)として認識されることになった。

岸陽子:荘子;徳間書店

 「指という概念を分析して、指ということばが存在としての指に一致せぬことを論じる者がいる。馬という概念を分析して、馬ということばが存在としての馬に一致せぬことを論じる者がいる。 もしも、これら詭弁論者が、これによってわれわれの認識能力の不完全さを明らかにしようと意図するなら、その方法は誤りである。なぜならば、指という存在は指であってしかも指でなく、馬という存在は馬であってしかも馬ではないからだ。換言すれば、一本の指すなわち天地であり、一頭の馬すなわち万物なのである。」

池田知久『老荘思想』日本放送出版協会
(2011.09.19追記)

 指によって指が指でないことを証明するのは、指でないものによって指が指でないことを証明するのに及ばない。馬によって馬が馬でないことを証明するのは、馬でないものによって馬が馬でないことを証明するのに及ばない。天地はその全体が一本の指であり、万物はその全体が一頭の馬である。

蜂屋邦夫「老子・荘子」をよむ;NHK出版協会

 ・・・・・。その普通概念から見れば、馬Aとか馬Bとか言いましても、それらの独自性は、個物であることの中に消えてしまうのです。そこで、天地や万物という枠組みから個物を見た場合、その個物全部を馬だとか指だとか、そのほか何と呼んだところで変わりはない、ということになります。個物として存在していることには変わりはないからです。万物は斉同であるという理論でした。個物という概念のもとに、一切合切の差はなくなるのです。・・・・・。
 では、一指とか、一馬とかは、どのような気分で言われているのでしょうか。すべてが指、すべてが馬とは、天地と個物の間に立ちはだかるさまざまな束縛もなく、あらゆる個物は個物として平等ですから、個物の間に対立も闘争も支配もなく、それぞれの個物は個物としての存在を十分に享受しています。風に吹かれた木々が発する万籟の声のように、万籟の声を発する個物の饗宴、荘子の頭に描かれた世界は、そんなものではなかったかと思われます。

壁抜随筆: "サルトルがヴォルスの頭陀袋から取り出した格言に対応する『荘子』原文と訳例。いずれも金谷治訳注『荘子…" - Fedibird


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サルトルがヴォルスの頭陀袋から取り出した格言に対応する『荘子』原文と訳例。いずれも金谷治訳注『荘子』第一巻(岩波文庫)から。
原文については諸版で相違はなさそうだが、訳文については、「一応分かりやすい解釈にしておいた」と金谷。

[原文]
以指喩指之非指、不若以非指喩指之非指也、以馬喩馬之非馬、不若以非馬喩馬之非馬也、天地一指也、萬物一馬也

[訳例]
現実の指によって、その指が真の指(概念としての指――指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない〔それを超えた一般〕者によってそのことを説明するのに及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬――馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない〔それを超えた一般〕者によってそのことを説明するのに及ばない。天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。

PonさんによるXでのポスト 女優

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