2024年5月5日日曜日

指物と白馬の議論

指物と白馬の議論

指物と白馬の議論
(2011.03.21)
(2011.09.19追記)

参考図書
前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫
福永光司:荘子;朝日新聞社
諸橋轍次:荘子物語;講談社学術文庫
森三樹三郎『荘子』中公クラシックス
金谷治:荘子;岩波文庫
池田知久 『荘子上』学習研究社
岸陽子:荘子;徳間書店
池田知久『老荘思想』日本放送出版協会
蜂屋邦夫「老子・荘子」をよむ;NHK出版協会

 

名家の公孫竜子の「白馬論」「指物論」に因んだ文章を見てみましょう。

 指をもって指の指にあらざるを喩(さと)さんより、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんにはしかざるなり。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんより、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんにはしかざるなり。
  天地は一指なり。万物は一馬なり。(「岸陽子:荘子」による読下し文より)

参考書の中には、原文に忠実に翻訳するものと、解説文による解釈コメント中心のもの
そして、両方を含むものが見られます。それぞれ興味深く味わうことができます。

前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫

 実体性の問題、つまり、実体と属性の関係については、当時種々の詭弁論が行なわれていたらしい。その中に、公孫竜子の白馬論がある。この白馬論とは、「白馬は馬に非ず」ということを主張するものである。一言にしてその論旨を尽くせば、;馬とは形即ち実体に命名されたものであり、白とは色即ち属性に命名されたものであって、形に命名されたものではない。馬と言えば、黄黒馬もみなその中に入るが、白馬といえば、黄黒馬の如きは否定される。故に、白馬は馬でない;というのである。・・・重要な点は、当時既に実体と属性の関係が論じられていたことと、「形」ということが実体と同一視せられて、更にその強調が属性よりもむしろ実体に置かれていたということである。・・・・・ 
 朝三暮四も、朝四暮三も、結局、同一不二であるように、是非・美醜(いずれ)も同時存在の権利と義務をもつ同類にすぎない。それにもかかわらず、一を執って他を否定しようとするのは、己の指を以て、他人の指が、指でないというのと同じことに帰着する。 
 「指をもって指の指にあらざることを喩(さと)さんよりは、若(し)かず、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんには。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんよりは、若かず、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんには。天地は一指なり。万物は一馬なり。」 
 結局荘子は、この天地一指、万物一馬、という高みから一切の矛盾対立する現実の諸相を止揚して見るのである。「ここを以て聖人は由らずしてこれを天に照らす」というのが、荘子究極の立場である。そして、この立場は同時に、(えいねい)(まつわりて安し)の立場に外ならない。この虚にして物に随う境地を、道枢ともいっている。・・・そしてこの最後の立場から万物を遍照するところに、実在の矛盾対立の相がさながらに肯定されて、「物として然らざるなく、物として可ならざるなく」、総ての対立矛盾が両(ふた)つながら行なわれていく。この立場を荘子はまた「両行」とも呼んでいる。 

福永光司:荘子;朝日新聞社

 ・・・。指とか馬とかいう個々の事物にとらわれている限り、いかに精密な論理と分析を以てしても、実在の真相は把握されようがないのである。実在の真相が正しく把握されるためには、指が指であるとともに指でない立場、馬が馬であるとともに馬でない立場に立たなければならない。そして、指が指であるとともに指でなく、馬が馬であるとともに馬でない道枢の立場、すなわち真実在の世界においては、一がそのまま多であり、小がそのまま大であるから天地の大も指一本と同じであり、万物の多も馬一匹と斉しいのである。「指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩らかにする」「馬に非ざるを以て馬の馬に非ざるを喩らかにする」とは、このような「天地も一指、万物も一馬」の万物斉同の境地に立つことにほかならない。 

諸橋轍次:荘子物語;講談社学術文庫

 変な言葉でありますが、自分の指というものを標準にして、他人の指を批評する場合、お前の指は正しい指でないぞと、こう説明するよりは、そのときにはすでに、自分というものの標準がありますから、その標準をとり除いて、今度指にあらざるもの、すなわち自分の指でないところの「標準の指」を元として、それで他人の指が「標準の指」に適合しないということを説明する方がよい、と説くのであります。同様に、『馬をもって馬の馬にあらざるを喩さんよりは、馬にあらざるものをもって、馬の馬にあらざるを喩すに如かず』ともいっています。かく論じますと、結局『天地は一指なり、万物は一馬なり』、世の中のことはすべて、可不可を一貫となすという議論に落ちつくのであります。 

森三樹三郎『荘子』中公クラシックスより

 「詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から指という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのに及ばない。また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から馬という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのに及ばない。 先に述べた、無差別の道枢の立場からみれば、天地は一本の指であるともいえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである。」

金谷治:荘子;岩波文庫

 「現実の指によって、その指が真の指(概念としての指;指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬;馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。(現実の指や馬にとらわれていたのでは、現実を超えたものは明らかにできない。道枢の立場からは)天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。」 

池田知久 『荘子上』学習研究社
(2011.09.19追記)

 (ところで、ある物が「指である」「馬である」と個別的に事実判断される道枢学説の根拠は、その物を全他の物から区別する論理である。この論理は、指という判断と非指という判断が矛盾し、馬と非馬が矛盾すると見る矛盾律であるが、これが破壊されねばならぬ。もっともこれは、不徹底ながら道枢学説によってすでに行われていた、指・馬という物を用いて。しかし)
  指・馬という物に己れの立場をとる時、この物を指・馬とする判断と、この物を非指・非馬とする判断の直接的同一性を証明するのは困難だ。それであるから、より徹底した方法を用いてこれを止揚しなければならないが、その方法とは、非指・非馬中の一つの物に己れの立場をとることである。その結果、天地・万物の世界は、その中に一切の個別的な事実を含まない、ただ一つの何かある物(斉同)として認識されることになった。 

岸陽子:荘子;徳間書店

 「指という概念を分析して、指ということばが存在としての指に一致せぬことを論じる者がいる。馬という概念を分析して、馬ということばが存在としての馬に一致せぬことを論じる者がいる。 もしも、これら詭弁論者が、これによってわれわれの認識能力の不完全さを明らかにしようと意図するなら、その方法は誤りである。なぜならば、指という存在は指であってしかも指でなく、馬という存在は馬であってしかも馬ではないからだ。換言すれば、一本の指すなわち天地であり、一頭の馬すなわち万物なのである。」 

池田知久『老荘思想』日本放送出版協会
(2011.09.19追記)

 指によって指が指でないことを証明するのは、指でないものによって指が指でないことを証明するのに及ばない。馬によって馬が馬でないことを証明するのは、馬でないものによって馬が馬でないことを証明するのに及ばない。天地はその全体が一本の指であり、万物はその全体が一頭の馬である。

蜂屋邦夫「老子・荘子」をよむ;NHK出版協会

 ・・・・・。その普通概念から見れば、馬Aとか馬Bとか言いましても、それらの独自性は、個物であることの中に消えてしまうのです。そこで、天地や万物という枠組みから個物を見た場合、その個物全部を馬だとか指だとか、そのほか何と呼んだところで変わりはない、ということになります。個物として存在していることには変わりはないからです。万物は斉同であるという理論でした。個物という概念のもとに、一切合切の差はなくなるのです。・・・・・。
 では、一指とか、一馬とかは、どのような気分で言われているのでしょうか。すべてが指、すべてが馬とは、天地と個物の間に立ちはだかるさまざまな束縛もなく、あらゆる個物は個物として平等ですから、個物の間に対立も闘争も支配もなく、それぞれの個物は個物としての存在を十分に享受しています。風に吹かれた木々が発する万籟の声のように、万籟の声を発する個物の饗宴、荘子の頭に描かれた世界は、そんなものではなかったかと思われます。

私の感想

総じて

 どの翻訳も学者の方々の工夫の跡を味わうことができます。翻訳内容もそれぞれに難解です。荘子が生きていたら、どの翻訳が彼の感覚に近いのか聞きたいところです。しかし、斉同的立場、両行的立場からは、それぞれすべて然りと、荘子に言われそうです。

 白馬論や指物論は、名家の公孫竜が唱えた主張の一つ。 詭弁論などといわれていますが、内容の等価性・不等価性、意味する領域の範囲や範疇のレベルの相違性、「名と物」、「名と実」など「概念と実体」の課題として興味深い内容だと思います。また、言語の表現形式の問題(例えば、日本語、中国語、英語などの言い方・表し方)と他言語への変換・翻訳過程の問題という観点からも興味の持てる課題でもあります。 

 なお、荘子の「天下篇」に、恵子についての記述、つまり、「歴物十事」「弁者二十一事」があります。 無限大と無限小を弄ぶ「空間と時間にある一切の差別」を否定する奇妙な世界の論述が見られます。 恵子の「歴物十事」については、「恵子と荘子の問答」のページをご参照下さい。

 これらの話から、帰納、演繹、三段論法、形式論理学、記号論理学などが連想されます。論理学のテキストにあった「格式覚え歌」を紹介します。学生時代、授業にあまり出なかったために、試験の前の日にあわてて下記の覚え歌をお経のように丸暗記して、あとは直観で勝負と、論理学の試験に臨み、「可」を得たことがなつかしく思い出されます。

Barbara, Celarent, Darii, Ferioqueprioris:
Cesare, Camestres, Festino, Baroco, secundae:
Tertia, Darapti, Disamis, Datisi, Felapton, 
Bocardo, Ferison, habet:quarta insuper addit
Bramantip, Camenes, Dimaris, Fesapo, Fresison.

 なお、この白馬非馬論についての説話が、韓非子の外儲説の中に見られます。

 「白馬非馬論によって、学者達を煙に巻いていた雄弁家の児説(げいえつ)が、白馬に乗って関所を通る時、白馬非馬論により、通行税をケチろうとしたが、馬としての通行税もとりたてられてしまった。学者はだませても、関所の役人さえだますことができなかった」という話です。


指物と白馬の議論

 指をもって指の指にあらざるを喩(さと)さんより、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんにはしかざるなり。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんより、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんにはしかざるなり。
  天地は一指なり。万物は一馬なり。(「岸陽子:荘子」による読下し文より)

指物と白馬の議論

前田利鎌「臨済・荘子」岩波文庫

 実体性の問題、つまり、実体と属性の関係については、当時種々の詭弁論が行なわれていたらしい。その中に、公孫竜子の白馬論がある。この白馬論とは、「白馬は馬に非ず」ということを主張するものである。一言にしてその論旨を尽くせば、;馬とは形即ち実体に命名されたものであり、白とは色即ち属性に命名されたものであって、形に命名されたものではない。馬と言えば、黄黒馬もみなその中に入るが、白馬といえば、黄黒馬の如きは否定される。故に、白馬は馬でない;というのである。・・・重要な点は、当時既に実体と属性の関係が論じられていたことと、「形」ということが実体と同一視せられて、更にその強調が属性よりもむしろ実体に置かれていたということである。・・・・・
 朝三暮四も、朝四暮三も、結局、同一不二であるように、是非・美醜(いずれ)も同時存在の権利と義務をもつ同類にすぎない。それにもかかわらず、一を執って他を否定しようとするのは、己の指を以て、他人の指が、指でないというのと同じことに帰着する。
 「指をもって指の指にあらざることを喩(さと)さんよりは、若(し)かず、指にあらざるをもって指の指にあらざるを喩さんには。馬をもって馬の馬にあらざることを喩さんよりは、若かず、馬にあらざるをもって馬の馬にあらざるを喩さんには。天地は一指なり。万物は一馬なり。」
 結局荘子は、この天地一指、万物一馬、という高みから一切の矛盾対立する現実の諸相を止揚して見るのである。「ここを以て聖人は由らずしてこれを天に照らす」というのが、荘子究極の立場である。そして、この立場は同時に、(えいねい)(まつわりて安し)の立場に外ならない。この虚にして物に随う境地を、道枢ともいっている。・・・そしてこの最後の立場から万物を遍照するところに、実在の矛盾対立の相がさながらに肯定されて、「物として然らざるなく、物として可ならざるなく」、総ての対立矛盾が両(ふた)つながら行なわれていく。この立場を荘子はまた「両行」とも呼んでいる。

福永光司:荘子;朝日新聞社

 ・・・。指とか馬とかいう個々の事物にとらわれている限り、いかに精密な論理と分析を以てしても、実在の真相は把握されようがないのである。実在の真相が正しく把握されるためには、指が指であるとともに指でない立場、馬が馬であるとともに馬でない立場に立たなければならない。そして、指が指であるとともに指でなく、馬が馬であるとともに馬でない道枢の立場、すなわち真実在の世界においては、一がそのまま多であり、小がそのまま大であるから天地の大も指一本と同じであり、万物の多も馬一匹と斉しいのである。「指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩らかにする」「馬に非ざるを以て馬の馬に非ざるを喩らかにする」とは、このような「天地も一指、万物も一馬」の万物斉同の境地に立つことにほかならない。

諸橋轍次:荘子物語;講談社学術文庫

 変な言葉でありますが、自分の指というものを標準にして、他人の指を批評する場合、お前の指は正しい指でないぞと、こう説明するよりは、そのときにはすでに、自分というものの標準がありますから、その標準をとり除いて、今度指にあらざるもの、すなわち自分の指でないところの「標準の指」を元として、それで他人の指が「標準の指」に適合しないということを説明する方がよい、と説くのであります。同様に、『馬をもって馬の馬にあらざるを喩さんよりは、馬にあらざるものをもって、馬の馬にあらざるを喩すに如かず』ともいっています。かく論じますと、結局『天地は一指なり、万物は一馬なり』、世の中のことはすべて、可不可を一貫となすという議論に落ちつくのであります。

森三樹三郎『荘子』中公クラシックスより

 「詭弁学派のうちには、まず指という個物の存在を認めたあとで、指が指でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から指という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで指が指でないことを論証するのに及ばない。また、まず馬という個物の存在を認めたあとで、馬が馬でないことを論証しようとするものがある。しかしそれは、最初から馬という個物を超えた一般者から出発して、そのあとで馬が馬でないことを論証するのに及ばない。 先に述べた、無差別の道枢の立場からみれば、天地は一本の指であるともいえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである。」

金谷治:荘子;岩波文庫

 「現実の指によって、その指が真の指(概念としての指;指一般)ではないことを説明するのは、現実の指ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。現実の馬によって、その馬が真の馬(概念としての馬;馬一般)ではないことを説明するのは、現実の馬ではない(それを超えた一般)者によってそのことを説明するのには及ばない。(現実の指や馬にとらわれていたのでは、現実を超えたものは明らかにできない。道枢の立場からは)天地も一本の指である。万物も一頭の馬である。」

池田知久 『荘子上』学習研究社
(2011.09.19追記)

 (ところで、ある物が「指である」「馬である」と個別的に事実判断される道枢学説の根拠は、その物を全他の物から区別する論理である。この論理は、指という判断と非指という判断が矛盾し、馬と非馬が矛盾すると見る矛盾律であるが、これが破壊されねばならぬ。もっともこれは、不徹底ながら道枢学説によってすでに行われていた、指・馬という物を用いて。しかし)
  指・馬という物に己れの立場をとる時、この物を指・馬とする判断と、この物を非指・非馬とする判断の直接的同一性を証明するのは困難だ。それであるから、より徹底した方法を用いてこれを止揚しなければならないが、その方法とは、非指・非馬中の一つの物に己れの立場をとることである。その結果、天地・万物の世界は、その中に一切の個別的な事実を含まない、ただ一つの何かある物(斉同)として認識されることになった。

岸陽子:荘子;徳間書店

 「指という概念を分析して、指ということばが存在としての指に一致せぬことを論じる者がいる。馬という概念を分析して、馬ということばが存在としての馬に一致せぬことを論じる者がいる。 もしも、これら詭弁論者が、これによってわれわれの認識能力の不完全さを明らかにしようと意図するなら、その方法は誤りである。なぜならば、指という存在は指であってしかも指でなく、馬という存在は馬であってしかも馬ではないからだ。換言すれば、一本の指すなわち天地であり、一頭の馬すなわち万物なのである。」

池田知久『老荘思想』日本放送出版協会
(2011.09.19追記)

 指によって指が指でないことを証明するのは、指でないものによって指が指でないことを証明するのに及ばない。馬によって馬が馬でないことを証明するのは、馬でないものによって馬が馬でないことを証明するのに及ばない。天地はその全体が一本の指であり、万物はその全体が一頭の馬である。

蜂屋邦夫「老子・荘子」をよむ;NHK出版協会

 ・・・・・。その普通概念から見れば、馬Aとか馬Bとか言いましても、それらの独自性は、個物であることの中に消えてしまうのです。そこで、天地や万物という枠組みから個物を見た場合、その個物全部を馬だとか指だとか、そのほか何と呼んだところで変わりはない、ということになります。個物として存在していることには変わりはないからです。万物は斉同であるという理論でした。個物という概念のもとに、一切合切の差はなくなるのです。・・・・・。
 では、一指とか、一馬とかは、どのような気分で言われているのでしょうか。すべてが指、すべてが馬とは、天地と個物の間に立ちはだかるさまざまな束縛もなく、あらゆる個物は個物として平等ですから、個物の間に対立も闘争も支配もなく、それぞれの個物は個物としての存在を十分に享受しています。風に吹かれた木々が発する万籟の声のように、万籟の声を発する個物の饗宴、荘子の頭に描かれた世界は、そんなものではなかったかと思われます。

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