清心庵
一
米と塩とは尼君が
市に出で
行きたまうとて、
庵に残したまいたれば、
摩耶も予も
餓うることなかるべし。もとより山中の
孤家なり。甘きものも酢きものも摩耶は欲しからずという、予もまた同じきなり。
柄長く
椎の葉ばかりなる、
小き鎌を腰にしつ。
籠をば糸つけて肩に懸け、
袷短に草履
穿きたり。かくてわれ庵を出でしは、
午の時過ぐる
比なりき。
麓に遠き
市人は
東雲よりするもあり。まだ夜明けざるに
来るあり。
芝茸、松茸、しめじ、松露など、
小笹の蔭、芝の中、雑木の奥、
谷間に、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。
昨日一昨日雨降りて、山の
地湿りたれば、
茸の獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりたらむ。五七人、三五人、出盛りたるが断続して、群れては坂を帰りゆくに、いかにわれ山の庵に
馴れて、あたりの地味にくわしとて、何ほどのものか獲らるべき。
米と塩とは貯えたり。
筧の水はいと清ければ、たとい木の実
一個獲ずもあれ、摩耶も予も餓うることなかるべく、甘きものも酢きものも
渠はたえて欲しからずという。
されば予が
茸狩らむとして
来りしも、毒なき
味の甘きを獲て、煮て
食わむとするにはあらず。姿のおもしろき、色のうつくしきを取りて帰りて、見せて
楽ませむと思いしのみ。
「
爺や、この茸は毒なんか。」
「え、お前様、そいつあ、うっかりしようもんなら
殺られますぜ。
紅茸といってね、見ると
綺麗でさ。それ、表は紅を流したようで、裏はハア
真白で、
茸の中じゃあ一番うつくしいんだけんど、食べられましねえ。あぶれた手合が欲しそうに見ちゃあ指をくわえるやつでね、そいつばッかりゃ塩を浴びせたって
埒明きませぬじゃ、おッぽり出してしまわっせえよ。はい、」
といいかけて、
行かむとしたる、山番の
爺はわれらが庵を五六町隔てたる山寺の下に、小屋かけてただ一人住みたるなり。
風吹けば倒れ、
雨露に朽ちて、
卒堵婆は絶えてあらざれど、傾きたるまま
苔蒸すままに、共有地の墓いまなお残りて、松の蔭の処々に数多く、春夏冬は人もこそ
訪わね、
盂蘭盆にはさすがに
詣で来る縁者もあるを、いやが上に荒れ果てさして、霊地の跡を空しゅうせじとて、心ある
市の者より、田畑少し附属して養いおく、山番の爺は顔
丸く、色
煤びて、
眼は
窪み、鼻
円く、眉は白くなりて針金のごときが五六本短く
生いたり。継はぎの
股引膝までして、
毛脛細く
瘠せたれども、健かに。谷を
攀じ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、
杖をもつかで、見めぐるにぞ、
盗人の来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も
頼母しく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。
「食べやしないんだよ。爺や、ただ
玩弄にするんだから。」
「それならば
可うごすが。」
爺は
手桶を
提げいたり。
「何でもこうその水ン中へうつして見るとの、はっきりと影の映るやつは食べられますで、
茸の影がぼんやりするのは毒がありますじゃ。覚えておかっしゃい。」
まめだちていう。
頷きながら、
「一杯呑ましておくれな。
咽喉が渇いて、しようがないんだから。」
「さあさあ、いまお寺から
汲んで来たお初穂だ、あがんなさい。」
掬ばむとして
猶予らいぬ。
「
柄杓がないな、爺や、お前ン
処まで一所に
行こう。」
「何が、仏様へお茶を煮てあげるんだけんど、お前様のきれいなお手だ、ようごす、つッこんで呑まっしゃいさ。」
俯向きざま
掌に
掬いてのみぬ。清涼
掬すべし、この水の味はわれ心得たり。
遊山の折々かの山寺の井戸の水試みたるに、わが家のそれと
異らずよく似たり。
実によき水ぞ、
市中にはまた
類あらじと亡き母のたまいき。いまこれをはじめならず、われもまたしばしばくらべ見つ。摩耶と二人いま住まえる尼君の庵なる筧の水もその
味これと異るなし。悪熱のあらむ時三ツの水のいずれをか
掬ばんに、わが心地いかならむ。忘るるばかりのみはてたり。
「うんや遠慮さっしゃるな、水だ。ほい、強いるにも当らぬかの。おお、それからいまのさき、
私が
田圃から帰りがけに、うつくしい女衆が、二人づれ、
丁稚が一人、若い衆が三人で、
駕籠を
舁いてぞろぞろとやって来おった。や、それが空駕籠じゃったわ。もしもし、清心様とおっしゃる尼様のお寺はどちらへ、と問いくさる。はあ、それならと手を取るように教えてやっけが、お前様用でもないかの。いい加減に遊ばっしゃったら、
迷児にならずに
帰らっしゃいよ、奥様が待ってござろうに。」
と語りもあえず歩み去りぬ。摩耶が身に事なきか。
二
まい
茸はその形細き
珊瑚の枝に似たり。軸白くして
薄紅の色さしたると、
樺色なると、また黄なると、三ツ五ツはあらむ、芝茸はわれ取って捨てぬ。最も数多く獲たるは紅茸なり。
こは山蔭の土の色鼠に、朽葉黒かりし
小暗きなかに、まわり一
抱もありたらむ
榎の株を取巻きて濡色の
紅したたるばかり
塵も留めず
地に敷きて
生いたるなりき。一ツずつそのなかばを取りしに思いがけず真黒なる蛇の小さきが紫の
蜘蛛追い
駈けて、
縦横に走りたれば、見るからに毒々しく、あまれるは残して
留みぬ。
松の根に
踞いて、籠のなかさしのぞく。この
茸の数も、
誰がためにか獲たる、あわれ摩耶は市に帰るべし。
山番の爺がいいたるごとく駕籠は来て、われよりさきに庵の
枝折戸にひたと立てられたり。
壮佼居て一人は棒に
頤つき、他は下に居て
煙草のみつ。内にはうらわかきと、冴えたると、しめやかなる女の声して、摩耶のものいうは聞えざりしが、いかでわれ入らるべき。人に顔見するがもの憂ければこそ、摩耶も予もこの庵には
籠りたれ。
面合すに
憚りたれば、ソと物の蔭になりつ。ことさらに隔りたれば
窃み聴かむよしもあらざれど、
渠等空駕籠は持て来たり、大方は家よりして
迎に
来りしものならむを、手を空しゅうして帰るべしや。
一同が庵を去らむ時、摩耶もまた去らでやある、もの食わでもわれは餓えまじきを、かかるもの何かせむ。
打こぼし投げ払いし籠の底に残りたる、ただ一ツありし
初茸の、手の触れしあとの
錆つきて
斑らに
緑晶の色染みしさえあじきなく、手に取りて見つつわれ
俯向きぬ。
顔の色も沈みけむ、日もハヤたそがれたり。濃かりし
蒼空も淡くなりぬ。山の
端に白き雲起りて、
練衣のごとき
艶かなる月の影さし
初めしが、
刷いたるよう広がりて、墨の色せる
巓と
連りたり。山はいまだ暮ならず。夕日の
余波あるあたり、薄紫の雲も見ゆ。そよとばかり風立つままに、むら
薄の穂
打靡きて、肩のあたりに秋ぞ染むなる。さきには汗出でて
咽喉渇くに、爺にもとめて山の井の水飲みたりし、その
冷かさおもい出でつ。さる時の我といまの我と、月を隔つる思いあり。青き
袷に黒き帯して
瘠せたるわが姿つくづくと
しながら
寂しき山に腰掛けたる、
何人もかかる
状は、やがて皆
孤児になるべき
兆なり。
小笹ざわざわと音したれば、ふと
頭を
擡げて見ぬ。
やや光の増し
来れる半輪の月を背に、黒き姿して
薪をば小脇にかかえ、
崖よりぬッくと出でて、
薄原に
顕れしは、まためぐりあいたるよ、かの山番の爺なりき。
「まだ帰らっしゃらねえの。おお、薄ら寒くなりおった。」
と
呟くがごとくにいいて、かかる時、かかる出会の度々なれば、わざとには近寄らで離れたるままに横ぎりて爺は去りたり。
「千ちゃん。」
「え。」
予は驚きて
顧りぬ。振返れば女居たり。
「こんな処に一人で居るの。」
といいかけてまず
微笑みぬ。
年紀は
三十に近かるべし、色白く
妍き女の、目の働き
活々して
風采の
侠なるが、
扱帯きりりと
裳を深く、
凜々しげなる
扮装しつ。中ざしキラキラとさし込みつつ、
円髷の
艶かなる、
旧わが居たる町に住みて、亡き母上とも
往来しき。
年紀少くて
孀になりしが、摩耶の家に奉公するよし、予もかねて見知りたり。
目を見合せてさしむかいつ。予は何事もなく
頷きぬ。
女はじっと予を
瞻りしが、急にまた打笑えり。
「どうもこれじゃあ
密通をしようという顔じゃあないね。」
「何をいうんだ。」
「何をもないもんですよ。千ちゃん! お
前様は。」
いいかけて
渠はやや真顔になりぬ。
「一体お前様まあ、どうしたというんですね、驚いたじゃアありませんか。」
「何をいうんだ。」
「あれ、また何をじゃアありませんよ。
盗人を捕えて見ればわが
児なりか、内の
御新造様のいい人は、お目に
懸るとお前様だもの。驚くじゃアありませんか。え、千ちゃん、まあ何でも
可いから、お前様ひとつ何とかいって、内の御新造様を返して下さい。
裏店の
媽々が飛出したって、お附合五六軒は、おや、とばかりで騒ぐわねえ。千ちゃん、何だってお前様、殿様のお城か、内のお
邸かという家の若御新造が、この間の御遊山から、直ぐにどこへいらっしゃったかお帰りがない、お行方が知れないというのじゃアありませんか。
ぱッとしたら国中の騒動になりますわ。お
出入が八方に飛出すばかりでも、二千や三千の
提灯は
駈けまわろうというもんです。まあ察しても御覧なさい。
これが
下々のものならばさ、
片膚脱の出刃庖丁の向う
顧巻か何かで、
阿魔! とばかりで飛出す訳じゃアあるんだけれど、何しろねえ、御身分が御身分だから、実は大きな声を出すことも出来ないで、
旦那様は、
蒼くなっていらっしゃるんだわ。
今朝のこッたね、不断
一八に茶の湯のお合手にいらっしゃった、山のお前様、尼様の、清心様がね、あの方はね、
平時はお前様、八十にもなっていてさ、山から
下駄穿でしゃんしゃんと下りていらっしゃるのに、不思議と
草鞋穿で、
饅頭笠か何かで
遣って見えてさ、まあ、こうだわ。
(御宅の御新造
様は、
私ン
処に居ますで案じさっしゃるな、したがな、また
旧なりにお前の処へは来ないからそう思わっしゃいよ。)
と
好なことをいって、草鞋も脱がないで、さっさっ
去っておしまいなすったじゃないか。
さあ騒ぐまいか。あっちこち聞きあわせると、あの尼様はこの
四五日前から方々の
帰依者ン
家をずっと廻って、一々、
(
私はちっと思い立つことがあって
行脚に出ます。しばらく逢わぬでお
暇乞じゃ。そして言っておくが、皆の衆決して
私が留守へ行って、戸をあけることはなりませぬぞ。)
と、そういっておあるきなすッたそうさね、そして肝心のお邸を、一番あとまわしだろうじゃあないかえ、これも
酷いわね。」
三
「うっちゃっちゃあおかれない、いえ、おかれないどころじゃあない。直ぐお迎いをというので、お
前様、旦那に伺うとまあどうだろう。
御遊山を遊ばした時のお伴のなかに、内々
清心庵にいらっしゃることを突留めて、知ったものがあって、
先にもう旦那様に申しあげて、あら立ててはお家の
瑕瑾というので、そっとこれまでにお
使が何遍も立ったというじゃアありませんか。
御新造様は何といっても平気でお帰り遊ばさないというんだもの。ええ! 飛んでもない。何とおっしゃったって
引張ってお連れ申しましょうとさ、私とお仲さんというのが二人で、男衆を連れてお駕籠を持ってさ、えッちらおッちらお山へ来たというもんです。
尋ねあてて、
尼様の
家へ行って、お頼み申します、とやると、お前様。
(
誰方、)
とおっしゃって、あの薄暗いなかにさ、胸の処から少し上をお出し遊ばして、
真白な細いお手の指が五本
衝立の縁へかかったのが、はッきり見えたわ、御新造様だあね。
お
髪がちいっと乱れてさ、藤色の
袷で、ありゃしかも千ちゃん、この間お出かけになる時に私が
後からお懸け申したお
召だろうじゃアありませんか。
凄かったわ。おやといって
皆後じさりをしましたよ。
驚きましたね、そりゃ
旧のことをいえば、何だけれど、第一お前様、うちの御新造様とおっしゃる方がさ、頼みます、誰方ということを、この五六年じゃあ、もう忘れておしまい遊ばしただろうと思ったもの。
誰だじゃあございません。さて、あなたは、と開き直っていうことになると、
(また、
迎かい。)
といって、笑っていらっしゃるというもんです。いえまたも何も、滅相な。
(
皆御苦労ね。だけれど私あまだ帰らないから、かまわないでおくれ。ちっとやすんだらお帰りだといい。お
湯でもあげるんだけれど、それよりか庭のね、
筧の水が大層々々おいしいよ。)
なんて
澄していらっしゃるんだもの。何だか私たちああんまりな御様子に
呆れッちまって、ぼんやりしたの、こりゃあまあ
魅まれてでもいないかしらと思った位だわ。
いきなり
後からお
背を推して、お手を
引張ってというわけにもゆかないのでね、まあ、
御挨拶半分に、お邸はアノ通り、御身分は申すまでもございません。お
実家には親御様お
両方ともお達者なり、
姑御と申すはなし、小姑一
人ございますか。旦那様は御存じでもございましょう。そうかといって御気分がお悪いでもなく、何が御不足で、尼になんぞなろうと思し召すのでございますと、お仲さんと二人両方から申しますとね。御新造様が、
(いいえ、私は尼になんぞなりはしないから。)
(へえ、それではまたどう遊ばしてこんな処に、)
(ちっと用があって、)
とおっしゃるから、どういう御用でッて、まあ聞きました。
(そんなこといわれるのがうるさいからここに居るんだもの。
可いから、お帰り。)
とこんな御様子なの。だって、それじゃあ困るわね。帰るも帰らないもありゃあしないわ。
じゃあまあそれはたってお聞き申しませんまでも、一体
此家にはお一人でございますかって聞くと、
(二人。)とこうおっしゃった。
さあ、黙っちゃあいられやしない。
こうこういうわけですから、尼様と御一所ではなかろうし、誰方とお二人でというとね、
(可愛い
児とさ、)とお笑いなすった。
うむ、こりゃ
仔細のないこった。華族様の
御台様を世話でお暮し遊ばすという御身分で、考えてみりゃお名も
まや様で、夫人というのが奥様のことだといってみれば、何のことはない、
大倭文庫の、御台様さね。つまり苦労のない
摩耶夫人様だから、大方
洒落に、ちょいと
雪山のという処をやって、御覧遊ばすのであろう。凝ったお道楽だ。
とまあ思っちゃあ見たものの、千ちゃん、常々の御気象が、そんなんじゃあおあんなさらない……でしょう。
可愛い児とおっしゃるから、何ぞ尼寺でお気に入った、かなりやでもお見付け遊ばしたのかしらなんと思ってさ、うかがって驚いたのは、千ちゃんお
前様のことじゃあないかね。
(いつでもうわさをしていたからお前たちも知っておいでだろう。
蘭や、お前が御存じの。)
とおっしゃったのが、何と十八になる男だもの、お仲さんが
吃驚しようじゃあないか。千ちゃん、私も久しく逢わないで、きのうきょうのお前様は知らないから――千ちゃん、――むむ、お
妙さんの児の千ちゃん、なるほど可愛い児だと実をいえば、はじめは私もそれならばと思ったがね、考えて見ると、お前様、いつまで、九ツや十で居るものか。もう十八だとそう思って驚いたよ。
何の事はない、
密通だね。
いくら思案をしたって御新造様は人の女房さ。そりゃいくら邸の御新造様だって、何だってやっぱり女房だもの。女房がさ、千ちゃん、たとい千ちゃんだって何だって、男と二人で隠れていりゃ、何のことはない、怒っちゃあいけませんよ、やっぱり何さ。
途方もない、乱暴な
小僧ッ
児の癖に、失礼な、末恐しい、見下げ果てた、何の生意気なことをいったって私が
家に今でもある、アノ
籐で編んだ茶台はどうだい、
嬰児が
這ってあるいて
玩弄にして、チュッチュッ
噛んで吸った歯形がついて残ッてら。叱り倒してと、まあ、怒っちゃあ嫌よ。」
四
「それが何も、御新造様さえ素直に帰るといって下さりゃ、何でもないことだけれど、どうしても帰らないとおっしゃるんだもの。
お帰り遊ばさないたって、それで済むわけのものじゃあございません。一体どう遊ばす
思召でございます。
(あの
児と一所に暮そうと思って、)
とばかりじゃあ、困ります。どんなになさいました処で、千ちゃんと御一所においで遊ばすわけにはまいりません。
(だから、
此家に居るんじゃあないか。)
その
此家は山ン中の尼寺じゃアありませんか。こんな処にあの児と二人おいで遊ばしては、世間で何と申しましょう。
(何といわれたって
可いんだから、)
それでは、あなた、旦那様に済みますまい。第一親御様なり、また、
(いいえ、それだからもう一生人づきあいをしないつもりで居る。私が分ってるから、
可いから、お前たちは帰っておしまい、可いから、分っているのだから、)
とそんな分らないことがありますか。ね、千ちゃん、いくら私たちが家来だからって、ものの理は理さ、あんまりな御無理だから
種々言うと、しまいにゃあただ、
(だって
不可いから、不可いから、)
とばかりおっしゃって
果しがないの。もうこうなりゃどうしたってかまやしない。どんなことをしてなりと、お
詫はあとですることと、無理やりにも力ずくで、こっちは五人、何の! あんな御新造様、腕ずくならこの蘭一人で沢山だわ。さあというと、
屹と遊ばして、
(何をおしだ、お前達、私を何だと思うのだい、)
とおっしゃるから、はあ、そりゃお邸の御新造様だと、そう申し上げると、
(女中たちが、そんな乱暴なことをして済みますか。
良人なら知らぬこと、
両親にだって、指一本ささしはしない。)
あれで威勢がおあんなさるから、どうして、
屹と、おからだがすわると、すくんじまわあね。でもさ、そんな分らないことをおっしゃれば、もう御新造様でも何でもない。
(他人ならばうっちゃっておいておくれ。)
とこうでしょう。何てったって、とてもいうことをお
肯き遊ばさないお気なんだから仕ようがない。がそれで世の中が済むのじゃあないんだもの。
じゃあ、旦那様がお
迎にお出で遊ばしたら、
(それでも帰らないよ。)
無理にも連れようと遊ばしたら、
(そうすりゃ御身分にかかわるばかりだもの。)
もうどう遊ばしたというのだろう。それじゃあ、旦那様と千ちゃんと、どちらが大事でございますって、この上のいいようがないから聞いたの。そうするとお
前様、
(ええ、旦那様は私が居なくっても
可いけれど、千ちゃんは一所に居てあげないと死んでおしまいだから
可哀相だもの。)
とこれじゃあもう何にもいうことはありませんわ。ここなの、ここなんだがね、千ちゃん、一体こりゃ、ま、お前さんどうしたというのだね。」
女はいいかけてまた予が顔を
瞻りぬ。予はほと一
呼吸ついたり。
「摩耶さんが知っておいでだよ、私は何にも分らないんだ。」
「え、分らない。お前さん、まあ、だって御自分のことが御自分に。」
予は何とかいうべき。
「お前、それが分る位なら、何もこんなにゃなりやしない。」
「ああれ、またここでもこうだもの。」
五
女はまたあらためて、
「一体詮じ詰めた処が千ちゃん、御新造様と一所に居てどうしようというのだね。」
さることはわれも知らず。
「別にどうってことはないんだ。」
「まあ。」
「別に、」
「まあさ、御飯をたいて。」
「
詰らないことを。」
「まあさ、御飯をたいて、食べて、それから、」
「話をしてるよ。」
「話をして、それから。」
「知らない。」
「まあ、それから。」
「寝っちまうさ。」
「
串戯じゃあないよ。そしてお
前様、いつまでそうしているつもりなの。」
「死ぬまで。」
「え、死ぬまで。もう大抵じゃあないのね。まあ、そんならそうとして、話は早い方が
可いが、千ちゃん、お聞き。私だって何も
彼家へは御譜代というわけじゃあなしさ、早い話が、お前さんの
母様とも私あ知合だったし、そりゃ内の旦那より、お前さんの方が私ゃまったくの所、可愛いよ。可いかね。
ところでいくらお前さんが可愛い顔をしてるたって、
情婦を
拵えたって、何もこの
年紀をしてものの道理がさ、私がやっかむにも当らずか、打明けた所、お前さん、御新造様と出来たのかね。え、千ちゃん、出来たのならそのつもりさ。お
楽み! てなことで
引退ろうじゃあないか。不思議で
堪らないから聞くんだが、どうだねえ、出来たわけかね。」
「何がさ。」
「何がじゃあないよ、お前さん出来たのなら出来たで可いじゃあないか、いっておしまいよ。」
「だって、出来たって分らないもの。」
「むむ、どうもこれじゃあ拵えようという
柄じゃあないのね。いえね、何も忠義だてをするんじゃないが、御新造様があんまりだからツイ私だってむっとしたわね。
行がかりだもの、お前さん、この様子じゃあ
皆こりゃアノ
児のせいだ。
小児の癖にいきすぎな、いつのまにませたろう、取っつかまえてあやまらせてやろう。私ならぐうの
音も出させやしないと、まあ、そう思ったもんだから、ちっとも言分は立たないし、
跋も悪しで、あっちゃアお仲さんにまかしておいて、お前さんを探して来たんだがね。
逢って見ると、どうして、やっぱり千ちゃんだ、だってこの様子で
密通も何もあったもんじゃあないやね。何だかちっとも分らないが、さて、内の御新造様と、お前様とはどうしたというのだね。」
知らず、これをもまた何とかいわむ。
「摩耶さんは、何とおいいだったえ。」
「御新造さんは、なかよしの
朋達だって。」
かくてこそ。
「まったくそうなんだ。」
渠は
肯する色あらざりき。
「だってさ、何だってまた、たかがなかの可いお朋達ぐらいで、お前様、五年ぶりで逢ったって、六年ぶりで逢ったって、顔を見ると気が遠くなって、気絶するなんて、人がありますか。千ちゃん、何だってそういうじゃアありませんか。御新造様のお話しでは、このあいだ尼寺でお前さんとお逢いなすった時、お前さんは
気絶ッちまったというじゃアありませんか。それでさ、御新造様は、あの児がそんなに思ってくれるんだもの、どうして置いて
行かれるものか、なんて
好なことをおっしやったがね、どうしたというのだね。」
げにさることもありしよし、あとにてわれ摩耶に聞きて知りぬ。
「だって、何も自分じゃあ気がつかなかったんだから、どういうわけだか知りやしないよ。」
「知らないたって、どうもおかしいじゃアありませんか。」
「摩耶さんに聞くさ。」
「御新造様に聞きゃ、やっぱり千ちゃんにお聞き、とそうおっしゃるんだもの。何が何だか私たちにゃあちっとも訳がわかりやしない。」
しかり、さることのくわしくは、世に尼君ならで知りたまわじ。
「お前、私達だって、口じゃあ分るようにいえないよ。
皆尼様が御存じだから、聞きたきゃあの方に聞くが可いんだ。」
「そらそら、その尼様だね、その尼様が全体分らないんだよ。
名僧の、智識の、僧正の、何のッても、今時の御出家に、女でこそあれ、山の清心さんくらいの方はありやしない。
もう八十にもなっておいでだのに、法華経二十八巻を
立読に遊ばして、お茶一ツあがらない御修行だと、他宗の人でも、何でも、あの尼様といやア拝むのさ。
それにどうだろう。お互の
情を通じあって、恋の
橋渡をおしじゃあないか。何の事はない、こりゃ万事人の悪い
髪結の役だあね。おまけにお前様、あの薄暗い尼寺を若いもの同士にあけ渡して、御機嫌よう、か何かで、ふいとどこかへ
遁げた日になって見りゃ、
破戒無慙というのだね。乱暴じゃあないか。千ちゃん、尼さんだって七十八十まで行い
澄していながら、お前さんのために、ありゃまあどうしたというのだろう。何か、千ちゃん
処は尼さんのお
主筋でもあるのかい。そうでなきゃ分らないわ。どんな因縁だね。」
と心
籠めて問う
状なり。尼君のためなれば、われ少しく語るべし。
「お前も知っておいでだね、
母上は身を投げてお亡くなんなすったのを。」
「ああ。」
「ありゃね、尼様が殺したんだ。」
「何ですと。」
女は驚きて目を
りぬ。
六
「いいえ、手を懸けたというんじゃあない。私はまだ
九歳時分のことだから、どんなだか、くわしい訳は知らないけれど、
母様は、お前、何か心配なことがあって、それで世の中が嫌におなりで、くよくよしていらっしゃったんだが、名高い
尼様だから、話をしたら、慰めて下さるだろうって、私の手を引いて、しかも、冬の事だね。
ちらちら雪の降るなかを山へのぼって、尼寺をおたずねなすッて、
炉の中へ何だか書いたり、消したりなぞして、しんみり話をしておいでだったが、やがてね、二時間ばかり
経ってお帰りだった。ちょうど晩方で、ぴゅうぴゅう風が吹いてたんだ。
尼様が
上框まで送って来て、分れて出ると、戸を閉めたの。少し
行懸ると、内で、
(おお、
寒、寒。)と不作法な大きな声で、アノ尼様がいったのが聞えると、母様が
立停って、なぜだか顔の色をおかえなすったのを、私は
小児心にも覚えている。それから、しおしおとして山をお下りなすった時は、もうとっぷり暮れて、雪が……
霙になったろう。
麓の川の橋へかかると、鼠色の水が一杯で、ひだをうって
大蜿りに
蜒っちゃあ、どうどうッて聞えてさ。
真黒な
線のようになって、横ぶりにびしゃびしゃと
頬辺を打っちゃあ霙が消えるんだ。一
山々々になってる柳の枯れたのが、渦を巻いて、それで
森として、あかり一ツ見えなかったんだ。母様が、
(尼になっても、やっぱり寒いんだもの。)
と
独言のようにおっしゃったが、それっきりどこかへいらっしゃったの。私は目が
眩んじまって、ちっとも知らなかった。
ええ! それで、もうそれっきりお顔が見られずじまい。年も月もうろ覚え。その癖、嫁入をおしの時はちゃんと知ってるけれど、はじめて逢い出した時は覚えちゃあいないが、何でも摩耶さんとはその年から知合ったんだとそう思う。
私はね、母様がお亡くなんなすったって、それを承知は出来ないんだ。
そりゃものも分ったし、お
亡なんなすったことは知ってるが、どうしてもあきらめられない。
何の
詰らない、学校へ行ったって、人とつきあったって、母様が
活きてお帰りじゃあなし、何にするものか。
トそう思うほど、お顔が見たくッて、
堪らないから、どうしましょうどうしましょう、どうかしておくれな。どうでもして下さいなッて、摩耶さんが嫁入をして、逢えなくなってからは、なおの事、行っちゃあ
尼様を
強請ったんだ。私あ、だだを
捏ねたんだ。
見ても、何でも分ったような、すべて承知をしているような、何でも出来るような、
神通でもあるような、尼様だもの。どうにかしてくれないことはなかろうと思って、そのかわり、自分の思ってることは
皆打あけて、いって、そうしちゃあ目を
瞑って尼様に暴れたんだね。
「そういうわけさ。」
他に理窟もなんにもない。この間も、尼さまン
処へ行って、例のをやってる時に、すっと入っておいでなのが、摩耶さんだった。
私は何とも知らなかったけれど、気が着いたら、尼様が、頭を
撫でて、
(千坊や、これで
可いのじゃ。米も塩も納屋にあるから、出してたべさしてもらわっしゃいよ。
私はちょっと町まで
托鉢に出懸けます。大人しくして留守をするのじゃぞ。)
とそうおっしゃったきり、お前、
草鞋を
穿いてお
出懸で、戻っておいでのようすもないもの。
摩耶さんは一所に居ておくれだし、私はまた摩耶さんと一所に居りゃ、母様のこと、どうにか堪忍が出来るのだから、もう何もかもうっちゃっちまったんさ。
お前、私にだって、理窟は分りやしない。摩耶さんも一所に居りゃ、何にも食べたくも何ともない、とそうおいいだもの。気が合ったんだから、なかがいいお
朋達だろうよ。」
かくいいし
間にいろいろのことこそ思いたれ。胸痛くなりたれば
俯向きぬ。女が
傍に在るも予はうるさくなりたり。
「だから、もう
他に何ともいいようは無いのだから、あれがああだから済まないの、義理だの、済まないじゃあないかなんて、もう聞いちゃあいけない。人とさ、ものをいってるのがうるさいから、それだから、こうしてるんだから、どうでも可いから、もう帰っておくれな。摩耶さんが帰るとおいいなら連れてお帰り。大方、お前たちがいうことはお
肯きじゃあるまいよ。」
予はわが襟を
掻き合せぬ。さきより
踞いたる
頭次第に垂れて、芝生に片手つかんずまで、打沈みたりし女の、この時ようよう顔をばあげ、いま更にまた瞳を定めて、他のこと思いいる、わが顔、
瞻るよと覚えしが、しめやかなるものいいしたり。
「
可うござんす。千ちゃん、私たちの心とは何かまるで変ってるようで、お言葉は
腑に落ちないけれど、さっきもあんなにゃア言ったものの、いまここへ、尼様がおいで遊ばせば、やっぱりつむりが下るんです。尼様は尊く思いますから、何でも分った
仔細があって、あの方の遊ばす事だ。まあ、あとでどうなろうと、世間の人がどうであろうと、こんな処はとても私たちの出る幕じゃあない。尼様のお計らいだ、どうにか
形のつくことでござんしょうと、そうまあねえ、千ちゃん、そう思って帰ります。
何だか私もぼんやりしたようで、気が変になったようで、分らないけれど、どうもこうした御様子じゃあ、千ちゃん、お
前様と、
御新造様と一ツお床でおよったからって、別に仔細はないように、ま私は思います。見りゃお前様もお浮きでなし、あっちの事が気にかかりますから、それじゃあお分れといたしましょう。あのね、用があったら、そッと私ンとこまでおっしゃいよ。」
とばかりに
渠は立ちあがりぬ。予が見送ると目を見合せ、
「小憎らしいねえ。」
と小戻りして、顔を
斜にすかしけるが、
「どれ、あのくらいな御新造様を迷わしたは、どんな顔だ、よく見よう。」
といいかけて
莞爾としつ。つと
行く、むかいに
跫音して、一行四人の人影見ゆ。すかせば空駕籠釣らせたり。渠等は空しく帰るにこそ。摩耶われを見棄てざりしと、いそいそと立ったりし、肩に手をかけ、下に
居らせて、女は前に
立塞がりぬ。やがて近づく渠等の眼より、うたてきわれをば
庇いしなりけり。
熊笹のびて、
薄の穂、影さすばかり
生いたれば、ここに人ありと知らざる
状にて、道を折れ、坂にかかり、松の葉のこぼるるあたり、目の下近く
過りゆく。女はその後を追いたりしを、忍びやかにぞ見たりける。駕籠のなかにものこそありけれ。
設の
蒲団敷重ねしに、摩耶はあらで、その藤色の小袖のみ
薫床しく乗せられたり。
記念にとて送りけむ。
家土産にしたるなるべし。その小袖の上に菊の枝置き添えつ。黒き人影あとさきに、駕籠ゆらゆらと釣持ちたる、
可惜その露をこぼさずや、
大輪の菊の雪なすに、月の光照り添いて、山路に白くちらちらと、見る目
遥に下り
行きぬ。
見送り果てず引返して、
駈け戻りて
枝折戸入りたる、庵のなかは暗かりき。
「
唯今!」
と
勢よく
框に踏懸け呼びたるに、
答はなく、
衣の
気勢して、白き手をつき、肩のあたり、
衣紋のあたり、
乳のあたり、
衝立の蔭に、つと立ちて、
烏羽玉の髪のひまに、
微笑みむかえし摩耶が顔。
筧の音して、
叢に、虫鳴く一ツ聞えしが、われは思わず身の毛よだちぬ。
この虫の声、筧の音、框に片足かけたる、その時、衝立の蔭に人見えたる、われはかつてかかる時、かかることに
出会いぬ。母上か、摩耶なりしか、われ覚えておらず。夢なりしか、知らず、
前の世のことなりけむ。
明治三十(一八九七)年七月
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