2024年5月13日月曜日

葛飾砂子 谷崎潤一郎の映画製作④ | 『ちか』の趣味趣向私利私欲私感なブログ

谷崎潤一郎の映画製作④ | 『ちか』の趣味趣向私利私欲私感なブログ

谷崎潤一郎の映画製作④




まだまだ続く谷崎潤一郎の映画製作


今日は、谷崎潤一郎が関わった映画を何作かご紹介♪


 
  ◆ 「葛飾砂子」  
 










「葛飾砂子」1920年大活

中尾鉄郎(奥)と上山珊瑚

 

 
 

 
 
「アマチュア倶楽部」に続く大活の第二回作品は、

上山珊瑚を主演とした「月の囁き」が予定されており、

谷崎の原作も出来上がっていたんですが

結局延期され、なんと(*゜Q゜*)

泉鏡花の小説を原作に仰いだ

「葛飾砂子」が1920年12月28日に公開されたんですよー



この作品はフィルム自体が関東大震災により焼失((T_T))


谷崎が書いたとされる脚本も残っていないし…


なぁーんも無い(`Δ´)



なお、谷崎自身は後になってこの脚本を執筆していないことを

告白しているんですがね(笑)




前述の「栗原トーマス君のこと」において

「私が単に原作を読ませ、

ざつとした注文を出しただけで、

始めから(栗原)君が脚色した。」とあるのがそうらしい…



谷崎は1917年の「活動写真の現在と将来」の中で、

「泉鏡花氏の『高野聖』『風流線』の類は

きつと面白い写真になると思ふ」と、☆①


エドガー・アラン・ポー(1809~49)の

作品と同様に鏡花の作品は映画化に適していると

早くから述べています。流石先見の明があるかた(^з^)-☆




また、

「自分が若し映画の製作に関係するやうな時があつたら、

是非泉鏡花氏のものを手がけて見たいといつもさう思つて居た。

然るに図らずも其の機会が来たのであるから、

こんな喜ばしいことはないのである」☆②とも語っているように、

「葛飾砂子」の映画化は谷崎の念願であったらしい…




鏡花の書いた原作☆③によって粗筋を紹介してみよ。



深川富岡門前の三味線屋・待乳屋の16になる娘菊枝は、

先年25歳に満たずに亡くなった尾上橘之助という役者に

熱をあげていたが、

ある秋の末に縁日に行くと言って出て行ったまま

11時近くになっても戻ってこない。

待乳屋の小僧・弥七は、菊枝の友人で橘之助を看取った

看護婦・お縫の家へ菊枝を探しに行くが、

菊枝は小町下駄を残したまま忽然と姿を消している…

その頃洲の崎の乗合船の船頭・七兵衛は、

隅田川に身を投げた菊枝を救い上げていた。



淡い悲恋と人情、

そしてサスペンスとを織り交ぜた鏡花の原作は、

ものの情景を詳細に語り、

映像のイメージを連想させる作りになっています。



   

室の内を眴すと、ぼんぼん時計、花瓶の菊、置床の上の雑誌、

貸本が二三冊、それから自分の身体が箪笥の前にあるばかり。

はじめて怪訝な顔をした。    


 
また、千葉伸夫は「映画と谷崎」1989年12月青蛙社で、

鏡花のこの小説の持つ映画的な効果を以下のように指摘しています。





お縫は額さきに洋燈を捧げ、

血が騒ぐか細おもての顔を赤うしながら、

お太鼓の帯を巾つたげに、後姿で、すつと台所に入つた。


と思ふと、湿ッ気のする冷たい風が、

颯と入り、洋燈の炎尖が下伏になつて、

ちらりと蒼く消えやうとする。



はつと袖で囲つてお縫は屋根裏を仰ぐと、

引窓が開いて居たので煤で真黒な壁へ二条引いた白い縄を、

ぐいと手繰ると、かたり。

引窓の締る拍子に、物音もせず、

五分ばかりの丸い灯は、

口金から根こそぎ取つたやうに火屋の外へふッとなくなる。


 「厭だ、消しちまつた。」     
 








「葛飾砂子」

岡田時彦(左)と上山珊瑚


 

 
 
千葉によれば小説のこの箇所には

「映画でいう、全身、半身、大写しを交錯させながら、

音響効果まで入れて、サスペンスの濃度を 高くしていく。」☆④

とのことでした。




谷崎が脚本を書かなかったそもそもの理由とは、

鏡花の小説がそれだけで映画的であり、

それ以上に付け加える必要がなかったからではないかな?




映画評論家の淀川長治は、

この作品について次のように語っています。
     


すべての大正活映作品の中では「蛇性の婬」「雛祭の夜」

などよりも私は第二作の「葛飾砂子」を最高と思う。

これはこんにち映写してもその美しさは高く評価されると確信する。

このフィルムがすでに無しとは何たることか。

このフィルムがもしいまアメリカで映写されると

聞けば私はそれを見るだけにアメリカに駆けつけるだろう。

三巻という小品ゆえか私はこの作品のタイトルから

ラスト・シーンまでを今にあざやかに記憶の自信がある。

その映画の流れの美しさはただごとでない。☆⑤     
 









「葛飾砂子」

 
 
その一方でも、

「谷崎氏の脚花は最善をつくして気分を出すことに努めたが、

映画劇としては失敗である。

栗原氏もあまりに冗長な転換を見せた。」との評価が

「キネマ旬報」☆⑥に載ってます。



谷崎自身はこの映画について

「或る傑れた小説を完全に映画化したからと云つて、

それが必ず優秀な物になるとは断言出来ない。

しかし鏡花氏の場合に於ては、

その多くの作品は、最初から小説にすべきではなく

映画にすべきではなかつたかと思はれるほど、

それほど映画に適して居るやうに感ぜられる。

『葛飾砂子』はいろいろ不出来な箇所もあつたが、

少くとも私に此の事を教へてくれた。

それだけでも意義のある仕事であつた。」☆⑦と語っています。



  
☆①番谷崎潤一郎「活動写真の現在と将来」

☆②谷崎潤一郎「映画雑感」「谷崎潤一郎全集第22巻」所収

初出は「新小説」1921年3月号

☆③「新小説」(1900年11月)所収 


以下引用も同様


☆④千葉伸夫「映画と谷崎」

☆⑤ 淀川長治「大正活映の作品」

橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」所収



☆⑥橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」


☆⑦「映画雑感」




つきの作品


   
◆「雛祭の夜」  
 









「雛祭の夜」1921年大活

「映画と谷崎」
 


 
 
明けて1921年3月30日、谷崎の第3作目の映画

「雛祭の夜」が浅草・千代田館で公開されました。

これは「アマチュア倶楽部」と同様に


谷崎のオリジナル作品らしい。

この「雛祭の夜」のシナリオは大正13年9月の「新演芸」に

採録されているが、なぜか後半部分を欠いているんですよー


「雛祭の夜」の主人公は3歳の少女愛子であり、

谷崎の娘鮎子(当時6歳)が扮しています。


愛子は西洋人形のメリーさんや、

2匹の兎を可愛がっているが、

雛祭の日に母に飾ってもらった雛人形にすっかり夢中になって

しまう。その夜、愛子の枕下で雛人形達が動き出す。

メリーさんと兎も、

雛人形を脅してやろうと彼女の寝ているお座敷に向かうが…。



シナリオはここで終わっているので、

のちのシナリオ作家野田高梧 が「緑の星」というペンネームで

書いた「活動倶楽部」1921年3月号に収められた

あらすじと批評からその後の部分を抜き出すと。



   
その夜、愛子ちやんは兎とお人形とにつれられて

綺麗なお山を越えて、山奥に、面白い遊戯をして遊んだ夢をみた。

そしてその翌朝、愛子ちやんはすぐにお人形も雛段に飾つてやり、

兎もお座敷に入れてやつた☆①。     
 








「雛祭の夜」

劇中劇で雛人形を操る栗原トーマス、尾崎庄太郎、谷崎潤一郎

「谷崎潤一郎/新潮日本文学アルバム」
 

 
 
シナリオには「お伽劇」とあるように、

極めてファンタジー色の強い作品であったようで

野田の批評によれば、

玩具の自動車が段々と本物の自動車に

変わるというショットもあったよう 。

谷崎のこの作品への力の入れようは、

彼が部分的に監督したばかりか、

雛人形の操作をも自身が行なうというという点からも現れています。

作品の評価は割れたようで、

「キネマ旬報」 が

「眞に萬人向きの好映画たる価値を有している」☆②と

この映画を褒め称える評も載せた一方、

野田は前出の批評において

「プロットは如何にも童話的で美しいものではあつたが、

映画劇として、随分不要な場面もあつたり、

冗長に亙りすぎたうらみもあつた。」☆③と語り、

谷崎の人形操作に関しても「不満がある」とのことであった。

しかしながら愛子を演じた谷崎鮎子の演技に関しては

「ヴァージニア・コービン嬢をほめる様に称賛する。」☆④

としているのが特徴的でありました。




☆①橘弘一郎編「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」


☆② 同 採録

☆③ 同 採録 

以下の引用も同様 


☆④ ヴァージニア・リー・コービンは1910・20年代に

活躍したアメリカの子役女優。
   



続きまして…



◆「蛇性の婬」  
 








「蛇性の婬」

岡田時彦、岩田松枝、紅沢葉子

「映画と谷崎」
 

 
 
谷崎は1921年3月の「日本の活動写真」において日本映画の

「未発達」ぶりを嘆いた後、最後にこう結んでいます。


   
日本の活動写真の未来は要するに努力さへすれば決して

悲観すべきではなくて、

偉大なる民衆芸術として西洋人に示し得るに至るのである。

それには日本在来の文学では不可はないが、

只米国のそれを真似る事は禁物で、

何処までも個有なのが望ましい。☆①   
 



谷崎はこうした「米国の真似」を回避するために、

次作として日本の古典文学を映画の題材として選んだらしい

それが谷崎にとって最後の映画となる「蛇性の婬」です。



原作に選ばれたのは谷崎が幼い頃より親しんできた

上田秋成の「雨月物語」の世界。


この「蛇性の婬」の脚本は全集に収められているので

簡単に読むことが出来ます☆②が、

本格的なコンティニュイティとして完成しています。


谷崎がこうしたコンティニュイティを書くようになった

経緯は1920年12月の

「其の歓びを感謝せざるを得ない」に次のように述べられてます





自己の芸術を何処迄も自己の物として完全に映画劇に

仕上げんが為めには、

単に原作を提供するばかりでなく、

自分自ら脚色するに越した事はない。

もつと適切に云へば、物語を書くよりはいきなりシナリオに

書き下すべきものである。

事件が話としてでなく、

活動写真の場面として頭に浮かぶやうになつて来なければ

駄目である。シナリオ・ライターとしての私は、

俳優諸氏と共に、

目下栗原君を先生にして、稽古中であるが、

近き将来には自分で書きおろす事が出来るやうにならうと

思つて居る。さうならなければ、

私が映画劇に関係したことは結局無意義に終つてしまふ。  


 
 








「蛇性の婬」

岩田松枝、岡田時彦、紅沢葉子

「映画と谷崎」
 

 
    
また、翌1921年10月に発表された

「映画のテクニック」では、☆③

映画撮影の技法について詳細な解説を行なってます。




「蛇性の婬」は、このように谷崎が映画の脚本について、

映画の技法について深く考えをめぐらせていた時期の

1921年9月6日に遊楽座で公開されました、



谷崎の言を借りれば

「日本に於いて最初の試みである純映画劇としての古典物」☆④

だった模様…



「蛇性の婬」の時代設定は王朝時代ですが、

シナリオには「必ずしも明確なるを要せず」とあります。






紀伊国三輪が崎、漁師大宅竹助の息子豊雄は、

漁師になることを嫌い 、

新宮の神主の許で学問を学んでいた。

ある日のこと、豪雨で海辺の漁師の家に雨宿りをする豊雄は、

縣の眞女兒という女と知り合い傘を貸す。

翌日、傘を受け取りに彼女の家を訪ねた豊雄は、

彼女から一つの太刀を譲り受ける。だが、

その太刀は熊野権現の神宝であった。

嫌疑をかけられた豊雄は、衛士と共に眞女兒の家を訪ねるが、

その時眞女兒は「電光閃き、どこからともなく激しき風起り

(略)たちまち屋根を突きぬけて消え失せ」たのであった。



その後豊雄は、大和国の長谷寺の近くの姉の家に身を寄せていた。

そこにやってきた眞女兒。豊雄は最初拒絶するものの、

彼女の情にほだされて「幾千代かけての契」を結ぶのであった。

春の吉野に花見に出かけた二人であったが、

そこに現れた当麻酒人を見た眞女兒は、

滝壷へ飛び込む。眞女兒の正体は年を取った大蛇であったのだ。

故郷の紀伊国へ戻った豊雄は、

庄司の娘の富子と夫婦となっていた。

ある夜、豊雄と語らっていた富子は、

突然

「妾こそは、そなたの妻に取り憑いた縣の眞女兒でござります」と

その正体を明らかにする。

富子に取り憑いた蛇を退治するため、

鞍馬山の法師が呼ばれるが、彼は蛇の毒にやられて死んでしまう。

次に呼ばれた小松原の道成寺の法師・法海は、一計を案じ、

芥子の香を炊き込めた袈裟を豊雄に渡す。

豊雄によって袈裟を頭より被せられた眞女兒は、

ついに退治されるが、

同時に富子も命を落とすのであった。

ラストシーンは蛇となった

眞女兒を収めた壷が地中に埋められる場面で終わる。




谷崎の手による脚本は、秋成の原作にほぼ忠実なばかりか、

原作の持つ妖美な雰囲気さえも継承しているし。

蛇の化身である眞女兒が、

豊雄の体に絡みつく次の場面(第200場)などは、

極めて官能的な雰囲気を醸し出してます。


     
豊雄は恰もメスメリズムにかけられた

如く全くその体を女の為すまゝに任す。

女は哀れなる餌食を捕へて、淫欲いよいよ起りたる様子。

一層強く豊雄の体をゆすぶりながら身を悶える。

やがて片手を豊雄の肩にかけ、

片手を脇の下に挿し入れてシツカと抱きしめ、

仰向きに抱き起し、その頬に頬擦りしながら、更に激しく揺す振る。    
 









「蛇性の婬」

紅沢葉子、高橋英一

「日本映画発達史」
 

 
 
撮影は1921年4月に開始し、

以来4ヶ月に渡ったらしい、


ロケは京都、奈良、初瀬、箱根において敢行されたが、

谷崎もスタッフと行動を共にしたが、

「少からぬ経験と愉快を得た」☆④と回想してます。


室内場面は横浜のスタジオで撮影されたが、

平安朝の衣装・舞台装置に こだわったため、

制作費は予想以上に莫大なものとなった。



「キネマ旬報」の評には

「懸命な演技、鮮麗な画面、カメラポジションの巧妙さ等、

称賛すべき長所も多い」ものの、

「原作に忠実すぎた脚色とカッティングが足りないために、

冗漫に流れ、印象を弱めた。漁夫の家の風俗、建物、

小道具の細部に真実性が欠けていること、

女優の容貌や表情の現代化したこと」などが、☆⑤

欠点としてあげられてます。

古典劇としての雰囲気を出している点では好評であったが、

「所々に見苦しい破綻」「チグハグな感じ」☆⑥の

見られる作品であったようでしたが




しかしながら、谷崎自身はこの作品に対して、


「日本に於いて最初の試みである純映画劇としての古典物を、

これだけに纏め得た事に自分は云ふ可からざる喜びを

感じて居る。」のであったらしい☆⑦


結局、この作品が谷崎にとって最後の映画製作となりました、




☆①「谷崎潤一郎全集第22巻」所収

初出は「社会及国家」


☆②「谷崎潤一郎全集第8巻」所収 


以下引用も同様

初出は「鈴の音」1922年2月-4月


☆③「谷崎潤一郎全集第22巻」所収

初出は「社会及国家」1921年10月


☆④谷崎潤一郎「蛇性の婬」

「谷崎潤一郎全集第8巻」所収


☆同上

☆⑤前出「谷崎潤一郎先生著書総目録別巻 演劇 映画篇」


☆⑥中純一郎「日本映画発達史Ⅰ/活動写真時代」


☆⑦前出「蛇性の婬」    

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