2024年5月14日火曜日

泉鏡花 第二菎蒻本 1914

泉鏡花 第二菎蒻本

泉鏡花は『法華経』をいくつかの作品内で引用しているが、それは引用された『法華経』の章番号と引用している泉鏡花作品の全体の章の数とを合わせるという興味深い方法で行われている。


高野聖』(1900)は全26章→『法華経』第26品の陀羅尼が引用される。

葛飾砂子』(1900)は全16章→第16品の如来寿量品が引用される。

(『葛飾砂子』は正確には全15章だが最後の第16品の引用を独立した第16章と読むことが可能だ。)

薬草取』(1903)は全5章→第5品の薬草諭品が引用される。


『清心庵』(1897)実質全6章の女性の話は、第6品授記品の比丘尼の話と繋がる。

『歌行燈』(1910)全23章における火、供養、女人成仏の主題は、薬王23品を連想させる。


『第二菎蒻本』(1914年)は全11章だが第16品の自我偈が引用されている。

法華経の影響から脱した時期だろう。


明治後期から昭和初期に活躍した小説家、泉鏡花の短編小説。初出は「新日本」[1914(大正3)年]。「菎蒻本」とは趣が異なる。女は最後に自分は生霊だと明かし、数年 ... 評価:  4.4 - 12件のレビュー
#11に自我偈16品

南無妙法蓮華経。……広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔輭。……

大正三(一九一四)年一月





底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日発行
※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。

第二菎蒻本



       一

 雪の夜路よみちの、人影もない真白まっしろな中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机のわきなる置炬燵おきごたつに、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来たおんな一重々々ひとえひとえ、燃立つような長襦袢ながじゅばんばかりだった姿は、思い懸けずもまたたぐいなく美しいものであった。
 はだおおうにくれないのみで、人の家に澄ましふり。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。
 世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別にあやしまなかった。それは、懐しい、恋しい情があがって、路々の雪礫ゆきつぶてに目がくらんだ次第ではない。
 ――逢いに来た――と報知しらせを聞いて、同じ牛込、北町の友達のうちから、番傘を傾け傾け、雪をしのいで帰る途中も、そのおんなを思うと、とざした町家まちやの隙間る、ほのか燈火あかりよりもさっと濃いの色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のようにたのであるから。
 当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己ちかづきが集って、袋廻しの運座があった。雪を当込あてこんだもよおしではなかったけれども、黄昏たそがれが白くなって、さて小留こやみもなく降頻ふりしきる。戸外おもて寂寞さみしいほどともしびの興はいて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚ふぐも鉄砲も、持って来い。……いきおいはさりながら、ものすごいくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破すわや、かかれと、木戸を開いて切ってづべき矢種はないので、逸雄はやりおの面々歯噛はがみをしながら、ひたすら籠城ろうじょうの軍議一決。
 そのつもりで、――千破矢ちはや雨滴あまだれという用意は無い――水の手の燗徳利かんどくりも宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自てんでが、すききらい、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、ひとつ……何某なにがし……すきなものは、美人。
「遠慮は要らないよ。」
 にくむものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。
 箇条の中に、最好、としたのがあり。
「この最好というのは。」
「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事をひっくるめてちょっと金麩羅きんぷらにして頬張るんだ。」
 その標目みだしの下へ、何よりも先に==待人きたる==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。
 ふすまをすうと開けて、当家の女中が、
「吉岡さん、お宅からお使つかいでございます。」
「内から……」
「へい、女中さんがお見えなさいました。」
「何てって?」
「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」
「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。
 お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人としよりを持つ胸にこたえた。
「敵の間諜まわしものじゃないか。」と座の右に居て、猪口ちょくを持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向うつむいたままで云った。
「まさか。」
 と※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、あかりの色がさっと白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。

       二

「ちょっと、失礼する。」
 で、引返してく女中のあとへついて、出しなに、真中まんなかふすまを閉める、と降積ふりつもる雪のは、一重ひとえへだても音が沈んで、酒の座は摺退すりのいたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴きなれたうちで戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。
 取次いだ女中は、もう台所へ出て、なべを上る湯気の影。
 そこから彗星ほうきぼしのようなあかりの末が、半ば開けかけた襖越、ほのかに玄関の畳へさす、と見ると、沓脱くつぬぎ三和土たたきあいに、暗い格子戸にぴたりと附着くッついて、横向きに立って[#「立って」は底本では「立つて」]いたのは、俊吉の世帯に年増としまの女中で。
 二月ばかり給金のかりのあるのが、同じく三月ほどとどこおった、差配で借りた屋号の黒い提灯ちょうちんを袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立たなだてをくわせもしまい。
「おい、……何だ、何だ。」とかまちまで。
「あ、旦那様。」
 と小腰をかがめたが、向直って、
「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。
 余り要ありそうなのに、き心に声が苛立いらだって、
「入れよ、こっちへ。」
「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿はきものが、」
 成程、暴風雨あらしの舟が遁込にげこんださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。
「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」
「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所からあかりの透く、その正面の襖を閉めた。
 真暗まっくらになる土間の其方そなたに、雪の袖なる提灯一つ、夜をはるかおもいがする。
 ねぎらい心で、
「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。
「もう、貴方あなた足駄あしだが沈みますほどでございます。」
 聞きも果てずに格子に着いて、
「何だ。」
「お客様でございまして。」と少し顔を退けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸いきづかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。
「誰だ。」
「あの、宮本様とおっしゃいます。」
「宮本……どんな男だ。」
 時に、からかさを横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒をくぐった。
「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」
おんなが?」
「はい。」
「婦だ……待ってるのか。」
「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」
「はてな、……」
 とのみで、俊吉はちょっと黙った。
 女中は、その太ったからだみこなすように、も一つ腰をかがめながら、
「それに、あの、お出先へお迎いにくのなら、御朋輩ごほうばいの方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証ないしょでと、くれぐれも、おことづけでございましたものですから。」
「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」
「ええ、御遠方。」
「遠い処か。」
「深川からとおっしゃいました。」
「ああ、襟巻なんか取らんでもい。……お帰り。」
 女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、
「どういたしましょう。」
「……し、直ぐ帰る。」
 座敷に引返ひっかえそうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、
「どんな風采ふうをしている。」と声をひそめると。
「あの真紅まっかなお襦袢じゅばんで、お跣足はだしで。」

       三

「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」
 俊吉は、外套がいとうしに、番傘で、帰途かえりを急ぐうちに、雪で足許あしもと辿々たどたどしいに附けても、心も空も真白まっしろ跣足はだしというのが身に染みる。
 ――しかし可訝おかしい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損しそこないで、あの、おそめの、あのからだに、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――
 ※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわせば、我が袖も、ひとの垣根も雪である。
 ――去年の夏、たしか八月の末と思う、――
 その事のあった時、お染は白地明石あかしあい子持縞こもちじまうすものを着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋げいしゃやに丸抱えという、可哀あわれながれにしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、あかるいのも、そこいら、……御神燈なみに、なり、おめしなり単衣ひとえもの衣更きかえるはず。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染なじみは無いらしく、連立ってく先を、内証で、抱主かかえぬし蔦家つたやの女房とひそひそとささやいて、その指図に任かせた始末。
 披露ひろめの日は、目もくらむように暑かったと云った。
 主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣ほろを掛けて護謨輪ゴムわきしらせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘こうもりをさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。
「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児あかんぼに生れかわった気になったんですけれど、なさけないッてなかったわ。
 その洋傘かさだって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行あるいた、黄色い汚点しみだらけなんじゃありませんか。
 そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」
 と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩おもやせた、が、色の白いおとがいおさえて云う。
 その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、はだえを包んだくれないであった。
「……この土地じゃ、これでないと不可いけないんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。
 それで、白足袋でおねりでしょう。もう五にもなって真白まっしろでしょう、顔はむらになる……奥山相当で、すすけた行燈あんどんの影へ横向きに手をいて、肩で挨拶あいさつをして出るんならいけれど、それだってすごいわね。
 真昼間まっぴるまでしょう、遣切やりきれたもんじゃありゃしない。
 冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘かさを持った手がすべるんですもの、てのひらから、」
 と二の腕がと白く、且つ白麻の手巾ハンケチで、ト肩をおさえて、じっと見たまぶたの白露。
 ――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々しらじらおもかげつ。

       四

「この、お前さん手巾ハンケチでさ、洋傘かさの柄を、しっかりと握って歩行あるきましたんですよ。
 あとへいて来る女房おかみさんの風俗ふうッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長すそながか何かで、びんをべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、うりますの口上言いだわね。
 察して下さいな。」
 と遣瀬やるせなげに、眉をせめて俯目ふしめになったと思うと、まだその上に――気障きざじゃありませんか、駈出かけだしの女形がハイカラ娘のるように――と洋傘かさを持った風采なりを自らあざわらった、その手巾ハンケチを顔に当てて、水髪やしのぶしずく、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓げいこ島田を俯向うつむけに膝に突伏つっぷした。
 その時、待合の女房が、襖越ふすまごしに、長火鉢のとこで、声を掛けた。
「染ちゃん、お出ばなが。」
 俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀としではない。遊女つとめあがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、あなどり、かろんじ、冷評ひやかされたような気がして、悚然ぞっとして五体を取って引緊ひきしめられたまで、きまりの悪い思いをしたのであった。
 いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。
 思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。
 はじめ、無理をしてくるわを出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓げいしゃになった。
 その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質かたぎかッ逆上のぼせた深嵌ふかはまりで、家も店もつぶしたはてが、女房子を四辻へ打棄うっちゃって、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れてげると、旅籠住居はたごずまいの気を換える見物の一夜。洲崎すさきくるわへ入った時、ここの大籬おおまがきの女を俺が、と手折たおった枝に根をはやす、返咲かえりざきの色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。
 まず引掛ひっかけの昼夜帯が一つ鳴ってしまった姿。わざと短い煙管きせるで、真新しい銅壺どうこに並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、くるわをちらつく影法師を見て思出したか。
 ――勘定つけをかく、かけすずりに袖でかくして参らせ候、――
 二年ぶり、打絶えた女の音信たよりを受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、ぬしあるものに、あえて返事もしなかったのである。
 しめの形や、かりの翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋はるあきの空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居すまいに届いたけれども、うたがい嫉妬しっとも無い、かえって、卑怯ひきょうだ、と自分をののしりながらも逢わずに過した。
 朧々おぼろおぼろも過ぎず、廓は八重桜のさかりというのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻くしまきつましろく土手の暗がりを忍んで出たろう。
 引手茶屋は、ものの半年とも持堪もちこたえず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身をさかさまに浅草へ流着ながれついた。……手切てぎれかもじも中にめて、芸妓髷げいしゃまげった私、千葉の人とは、きれいにわけをつけ参らせそろ
 そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥ほととぎす。奥山の青葉頃。……
 雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。

       五

 八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島むこうじま[#ルビの「むこうじま」は底本では「むかうじま」]の百花園に行った帰途かえるさ三囲みめぐりのあたりから土手へさっと雲がかかって、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車くるまで来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓ざっとう。急な雨の混雑はまたおびただしい。江戸中の人を箱詰はこづめにする体裁ていたらく。不見識なのはもちでっちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着くッつく。
 電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうにきしんで出る。それをもいとわない浅間しさで、を抱いた洋服がやっと手をすがっって乗掛のっかけた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児こどもがぎゃっと悲鳴を揚げた。
 この発奮はずみに、
「乗るものか。」
 濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出かけだしたが。
 仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞ひっそりとしたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂みどうの石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、ひさし頼母たのもしさを親船のみよしのように仰いで、しぶきけつつ、ほつと息。
 濡れた帽子を階段擬宝珠ぎぼしに預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然ぼうぜんとしてしばらくたたずむ。……
 風が出て、雨は冷々ひやひやとして小留おやむらしい。
 しずくで、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合かきあわす。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。
 早や暮れかかって、ちらちらとともれる、灯の数ほど、ばらばら誰彼たそがれの人通り。
 話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠こうもりのように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立こだちも見えて、濃く淡く墨になり行く。
 朝から内を出て、随分遠路とおみちを掛けた男は、不思議に遥々はるばると旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。
「訪ねてみようか、この近処だ。」
 既に、駈込かけこんで、一呼吸ひといきいた頃から、降籠ふりこめられた出前でさきの雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢はかない顔を出して格子にすがって、此方こなた差覗さしのぞくような気がして、筋骨すじぼねも、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいやまさる。……
 ここで逢うのは、旅路はるかな他国のくるわで、夜更けて寝乱れた従妹いとこにめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬ひぢりめんは心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。
 抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。
し。」
 肩をゆすって、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向うつむけにして、御堂のひさしを出た。……
 軽い雨で、もうおもてを打つほどではないが、引緊ひきしめたたもと重たく、しょんぼりとして、九十九折つづらおりなる抜裏、横町。谷のドン底のどぶづたい、次第に暗き奥山路おくやまみち

       六

 時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀あわれに、心悲うらがなしい、とびにとらるると聞く果敢はかない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、※々ぱっぱっ[#「火+發」、269-9]おもてを照らす狐火きつねびの御神燈に、幾たびか驚いて目をふさいだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水がうるしを流した溝端どぶばたに、いばらのごとき格子さき、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋つたや)とある。
「これだ。」
 そっと、下へかがむようにしてその御神燈を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすと、ほか小草おぐさの影は無い、染次、と記した一葉ひとはのみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓げいしゃの上へ貼紙はりがみをしたのに記してあった。看板をかきかえるひまもない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾かみぶすまの可哀さが見えた。
 とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。
 が、筋向うの格子戸の鼠鳴ねずみなきに、ハッと、むささびがえたほど驚いて引返ひっかえして、蔦屋の門を逆に戻る。
 俯向うつむいてたたずんでまた御神燈をのぞいた。が、前刻さっきの雨が降込んで閉めたのか、かまちの障子は引いてある。……そこに切張きりばりの紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。
 トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。
 俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五たびした。
 いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼のおいに国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染なじみに逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降ってくような事があろう、と取越苦労の胸騒むなさわぎがしたのであった。
「御免。」
 と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子をおさえて、そして片足遁構にげがまえで立っていた。
「今晩は。」
「はい、今晩は。」
 と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家ひとつや婆々ばばあかと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀としには似ないで、くびを塗った、浴衣の模様も大年増。
 これが女房とすぐに知れた。
 俊吉は、ト御神燈の灯をけて、路地の暗い方へつッと身を引く。
 白粉おしろいのその頸を、ぬいと出額おでこの下の、小慧こざかしげに、世智辛く光る金壺眼かなつぼまなこで、じろりと見越して、
「今晩は。誰方様どなたさまで?」
「お宅に染次ってのはりますか。」
「はい居りますでございますが。」
 と立塞たちふさがるように、しかも、にがすまいとするように、かまち一杯にはだかるのである。
「ちょっとお呼び下さいませんか。」
 ああ、来なければかった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘ぬかるみへ落ちた気がする。
唯今ただいまお湯へ参ってますがね、……まあ、貴方あなた。」と金壺眼はいよいよ光った。
「それじゃまた来ましょう。」
「まあ、貴方。」
 風体を見定めたか、あわただしく土間へ片足を下ろして、
きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」
「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」
「あら、貴方、串戯じょうだんじゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」

       七

「相合傘でいらっしゃいまし、染ちゃん、嬉しいでしょう、えへへへへ、貴方、御機嫌よう。」
 と送出した。……
 からかさは、染次がつまを取ってさしかける。
可厭いや媽々かかあだな。」
「まだ聞えますよ。」
 と下へ、たもとの先をそっと引く。
 それなり四五間、黙って小雨の路地を歩行あるく、……俊吉は少しずつ、…やがて傘の下を離れて出た。
「濡れますよ、貴方。」
 男は黙然だんまりの腕組してく。
「ちょっと、濡れるわ、お前さん。」
 やっぱり暗い方を、男は、ひそひそ。
「濡れると云うのに、」
 手は届く、羽織の袖をぐっと引いて突附けて、からかさを傾けて、
邪慳じゃけんだねえ。」
「泣いてるのか、何だな、おおきな姉さんが。」
「……お前さん、可懐なつかしい、恋しいに、年齢としに加減はありませんわね。」
「何しろ、お前、……こんな路地端ろじばたに立ってちゃ、しょうがない。」
「ああ、早く行きましょう。」
 と目をうていた袖口をはらりと落すと、瓦斯がす遠灯とおあかりにちらりとかえる。
わかづくりできまりが悪いわね。」
 と褄をさばいて取直して、
きまりが悪いと云えば、私は今、毛筋立を突張つっぱらして、薄化粧はいけれども、のぼせて湯から帰って来ると、染ちゃんお客様が、ッて女房おかみさんが言ったでしょう。
 内へ来るような馴染なじみはなし、どこの素見ひやかしだろうと思って、おやそうか何か気の無い返事をして、手拭てぬぐいを掛けながら台所口だいどころぐちから、ひょいと見ると、まあ、お前さんなんだもの。真赤まっかになったわ。きまりが悪くって。」
「なぜだい。」
「悟られやしないかと思ってさ。」
「何を?……」
「だって、何をッて、お前さん、どこか、お茶屋か、待合からかけてくれれば可いじゃありませんか、唐突だしぬけに内へなんぞ来るんだもの。」
「三年ごしだよ、手紙一本があてなんだ。大事な落しものを捜すような気がするからね、どこかにあるには違いないが、居るか居ないか、逢えるかどうか分りやしない。おまけに一向土地不案内で、東西分らずだもの。茶屋の広間にたった一つぜんを控えて、待っていて、そんなりません。……居ますが遠出だなんぞと来てみたが可い。御存じの融通ゆずうが利かないんだから、よし、ついでにお銚子ちょうしのおかわりが、と知らない女を呼ぶわけにゃ行かずさ、瀬ぶみをするつもりで、行ったんだ。
 もっともね、居ると分ったら、門口かどぐちから引返ひっかえ[#ルビの「ひっかえ」は底本では「ひつかへ」]して、どこかで呼ぶんだっけ。媽々かかあ追掛おっかけるじゃないか。仕方なし奥へ入ったんだ。一間ひとましかありやしない。すぐの長火鉢の前に媽々は控えた、顔の遣場やりばもなしに、しょびたれておりましたよ、はあ。
 光った旦那じゃなし、飛んだお前の外聞だっけね、済まなかったよ。」
「あれ、お前さんも性悪しょうわるをすると見えて、ひがむ事を覚えたね。誰が外聞だと申しました、俊さん、」
 取った袂に力が入って、
女房おかみさんに、悟られると、……だと悟られると、これから逢うのに、一々、勘定が要るじゃありませんか。おまいりだわ、お稽古だわッて内証ないしょで逢うのに出憎いわ。
 はじめの事は知ってるから私の年が年ですからね。主人の方じゃ目くじらを立てていますもの、――顔を見られてしまってさ……しょびたれていましたよ、はあ。――お前の外聞だっけね、済まなかった。……誰が教えたの。」
 とフフンと笑って、
「素人だね。」

       八

「……わざと口数も利かないで、一生懸命に我慢をしていた、御免なさいよ。」
 声がまたしおれて沈んで、
「何にも言わないで、いきなりかじりつきたかったんだけれど、澄し返って、悠々と髪を撫着なでつけたりなんかして。」
行場ゆきばがないから、熟々しみじみ拝見をしましたよ、……まぶしい事でございました。」
「雪のようでしょう、ちょっと片膝立てた処なんざ、千年ものだわね、……染ちゃん大分御念入だねなんて、いつもはもっと塗れ、もっとたぼを出せと云う女房おかみさんが云うんだもの。どう思ったか知らないけれど、大抵こんがらかったろうと私は思うの。
 そりゃ成りたけ、よくは見せたいが弱身だって、その人の見る前じゃあねえ、……察して頂戴。私はお前さんに恥かしかったわ、お乳なんか。」
 とめられるように胸をおさえた、肩がほっそりとして重そうなので、俊吉が傘を取る、と忘れたように黙って放す。
「いいえ、結構でございました、湯あがりの水髪で、薄化粧をさっと直したのに、別してはまた緋縮緬ひぢりめんのお襦袢じゅばんを召した処と来た日にゃ。」
「あれさ、して頂戴……火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。」
「だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。」
「ねえ……ほほほ。……」
 笑ってちょっと口籠くちごもって、
「ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……」
「お前は学者だよ。」
「似てさ、お前さんに。」
「大きにお世話だ、学者に帯をめさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。」
「人、……芸者の方が、ああするんだわ。」
「勝手にしやがれ。」
「あれ。」
「ちっとやけらあねえ。」
どぶへ落っこちるわねえ。」
「えへん!」
 と怒鳴って擦違いに人が通った。早や、もと来た瓦斯がす頬冠ほおかむりした薄青い肩の処が。
「どこだ。」
一直いちなおの塀の処だわ。」
 きその近所であった。
「座敷はこれだけかね。」
 と俊吉は小さな声で。
「もう、一間ありますよ。」
 と染次が云う。……通された八畳は、あかりあかるし、ぱっとして畳も青い。床には花もいかって。山家を出たような俊吉の目には、博覧会の茶座敷を見るがごとく感じられた。が、入る時見た、襖一重ふすまひとえが直ぐ上框あがりかまち兼帯の茶の室で、そこに、まげった娑婆気しゃばきなのが、と膝を占めて構えていたから。
 話に雀ほどの声も出せない。
 で、もう一間と※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすと、小庭の縁が折曲りに突当りが板戸になる。……そこが細目にあいた中に、月影かと見えたのは、ひさしに釣った箱燈寵はこどうろうの薄明りで、植込を濃く、むこうへぼかしてうっすりと青い蚊帳かや
 ト顔を見合せた。
 急に二人はあらたまったのである。
 男が真中まんなか卓子台ちゃぶだいに、ひじいて、
「そののちは。どうしたい。」
「お話にならないの。」
 と自棄やけに、おくれ毛をゆすったが、……心配はさせない、と云う姉のような呑込んだやさし微笑ほほえみ

       九

「失礼な、どうも奥様をお呼立て申しまして済みません。でも、お差向いの処へ、他人が出ましてはかえってお妨げ、と存じまして、ねえ、旦那。」
 と襖越に待合の女房が云った。
 ぴたりと後手うしろでにその後を閉めたあとを、もの言わぬ応答うけこたえにちょっと振返って見て、そのまま片手に茶道具を盆ごと据えて立直って、すらりと蹴出けだしのくれないに、明石の裾をいた姿は、しとしとと雨垂れが、子持縞こもちじまの浅黄に通って、露にきたように美しかった。
「いや。」
 とただ間拍子まびょうしもなく、女房の言いぐさに返事をする、俊吉の膝へ、と膝をのっかかるようにして盆ごと茶碗を出したのである。
 茶を充満いっぱい吸子きびしょが一所に乗っていた。
 これは卓子台ちゃぶだいせるとかった。でなくば、もう少しなかいてすわれば仔細しさいなかった。もとから芸妓げいしゃだと離れたろう。さき遊女おいらんは、身を寄せるのにれた。しかも披露目ひろめの日の冷汗を恥じて、俊吉の膝に俯伏うっぷした処を、(出ばな。)と呼ばれて立ったのである。……
 お染はもとの座へそうして近々と来て盆ごと出しながら、も一度襖越しに見返った。名ある女を、こうはいかに、あしらうまい、――奥様と云ったな――膝にすがった透見すきみをしたか、恥とうらみを籠めた瞳は、遊里さと二十はたちはりこもって、じっと襖に注がれた。
 ト見つつ夢のようにうっかりして、なみなみと茶をくんだ朝顔なりの茶碗に俊吉が手を掛ける、とコトリと響いたのが胸に通って、女は盆ごと男が受取ったと思ったらしい。ドンと落ちると、盆は、ハッと持直そうとする手に引かれて、俊吉の分もさらった茶碗が対。吸子きびしょも共に発奮はずみを打ってお染は肩から胸、両膝かけて、ざっと、ありたけの茶を浴びたのである。
 むらむらと立つ白い湯気が、崩るるつまくれない陽炎かげろうのごとく包んで伏せた。
 うなじを細く、おもてを背けて、島田をななめに、
「あっ。」と云う。
火傷やけどはしないか。」と倒れようとするその肩を抱いた。
「どうなさいました。」と女房飛込み、このていを一目見るや、
「雑巾々々。」と宙に躍って、蹴返けかえもすそねた脚は、ここにした魔の使つかいが、鴨居かもいを抜けて出るように見えた。
 女の袖つけから膝へたまって、落葉がうずんだような茶殻をすくって、仰向あおむけた盆の上へ、俊吉がその手のしずくを切った時。
ござんすよ、可ござんすよ、そうしてお置きなさいまし、今わたくしが、」
 と言いながら白に浅黄をへりとりの手巾ハンケチで、脇をおさえると、脇。膝をずぶずぶと圧えると、膝を、濡れたのが襦袢をとおして、明石のしまにじんでは、手巾にひたひたと桃色の雫を染めた。――

「ええ、私あの時の事を思出したの、短刀で、ここを切られた時、」……
 と、一年おいて如月きさらぎの雪の夜更けにお染は、俊吉の矢来の奥の二階の置炬燵おきごたつに弱々ともたれて語った。

 さてその夜は、取って返して、両手に雑巾を持って、待合の女房があらわれたのに、染次はしおれながら、うすものの袖を開いて見せて、
汚点しみになりましょうねえ。」
「まあ、ねえ、どうも。」
 と伸上ったり、縮んだり。
「何しろ、脱がなくッちゃお前さん、直き乾くだけは乾きますからね……あちらへ来て。さあ――旦那、奥様のおはだを見ますよ、済みませんけれど、貴下あなた邪慳じゃけんだから仕方が無い。……」
 俊吉は黙って横を向いた。
「浴衣と、さあ、お前さん、」
 と引立てるようにされて、染次は悄々しおしおと次に出た。……組合の気脉きみゃくかよって、待合の女房も、抱主かかえぬし一張羅いっちょうらを着飾らせた、損を知って、そんなに手荒にするのであろう、ああ。

       十

「大丈夫よ……大丈夫よ。」
「飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。」
「まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。」
 と莞爾にっこりした、顔は蒼白あおじろかったが、しかしそれは蚊帳の萌黄もえぎが映ったのであった。
 帰る時は、効々かいがいしくざっと干したのを端折はしょって着ていて、男に傘を持たせておいて、止せと云うに、小雨の中をちょこちょこ走りに自分でくるまを雇って乗せた。
 蛇目傘じゃのめを泥に引傾ひっかたげ、楫棒かじぼうおさえぬばかり、泥除どろよけすがって小造こづくりな女が仰向あおむけに母衣ほろのぞく顔の色白々と、
「お近い内に。」
「…………」
「きっと?」
「むむ。」
「きっとですよ。」
 俊吉は黙ってうなずいた。
 暗くて見えなかったろう。
「きっとよ。」
「分ったよ。」
ござんすか。」
うるさい。」と心にもなく、車夫の手前、宵から心遣いに疲れ果てて、ぐったりして、夏の雨も寒いまでに身体からだもぞくぞくする癇癪かんしゃくまぎれに云ったのを、気にも掛けず、ほっと安心したように立直ったと思うと、
車夫わかいしゅさん、はい――……あの車賃は払いましたよ。」
「有るよ。」
「威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。」
「大丈夫でございますよ、姉さん。」とかじ[#ルビの「かじ」は底本では「かぢ」]を取った片手に祝儀を頂きながら。
「でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。」
承合うけあいましたよ。」
「それじゃ、お近いうち。」
 影を引切ひっきるようにと過ぎる車のうしろを、トンとたたいたと思うと夜の潮に引残されて染次は残ってしょんぼりと立つ。
 車が路を離れた時、母衣の中とて人目も恥じず、俊吉は、ツト両掌りょうておもておおうて、はらはらと涙を落した。……
「でも、遠いんですもの、路は悪し、それに暗いでしょう。」
 行方も知らず、分れるように思ったのであった。
 そのまま等閑なおざりにすべき義理ではないのに、主人にも、女にも、あのうすものつぐないをする用意なしには、忍んでも逢ってはならないと思うのに、あせって※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがいても、半月や一月でその金子かねは出来なかった。
 のみならず、追縋おいすがって染次が呼出しの手紙の端に、――明石のしみは、しみ抜屋にても引受け申さず、この上は、くくみ洗いをして、人肌にて暖め乾かし候よりせむ方なしとて、毎日少しずつふくみ洗いいたし候ては、おかみさんと私とにて毎夜添臥そいぶし[#「参候」のくずし字、284-1]。夜ごとにかわる何とかより針のむしろに候えども、お前さまにお目もうじのなごりと思い候えば、それさえうつつ心に嬉しく懐しく存じ※[#「参候」のくずし字、284-3]……
 ふくみ洗いで毎晩抱く、あの明石のしみを。行かれるものか、素手で、どうして。
 秋の半ばに、すみかえた、と云って、ただそれだけ、上州伊香保から音信たよりがあった。
 やがてくわしく、と云うのが、そのままになった――今夜なのである。
 俊吉は捗取はかどらぬ雪をふみしめ踏しめ、くるまを見送られた時を思出すと、傘も忘れて、降る雪に、つむりを打たせて俯向うつむきながら、義理と不義理と、人目と世間と、言訳なさと可懐なつかしさ、とそこに、見える女の姿に、心はやみの目は※(「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2-12-81)ぼうとして白い雪、睫毛まつげに解けるかしずくが落ちた。

       十一

「……そういったわけだもの、ね、……そんなに怨むもんじゃない。」
 襦袢一重の女のせなへ、自分が脱いだかすりの綿入羽織を着せて、その肩に手を置きながら、俊吉は向い合いもせず、置炬燵おきごたつの同じ隅にもたれていた。
 内へ帰ると、一つつまずきながら、かまちへ上って、奥に仏壇のある、ふすまを開けて、そこに行火あんかをして、もう、すやすやとた、なでつけの可愛らしい白髪しらがと、すそに解きもののある、女中の夜延よなべとを見て、そっとまた閉めて、ずかずかと階子はしごあがると、障子が閉って、張合の無さは、あかりにその人の影が見えない。
 で、嘘だと思った。
 ここで、トボンと夢が覚めるのであろう、と途中の雪の幻さえ、一斉に消えるような、げっそり気の抜けた思いで、思切って障子を開けると、更紗さらさを掛けた置炬燵の、しかも机に遠い、縁に向いた暗い中から、と黒髪がゆらめいて、やつれたが、白い顔。するりと緋縮緬ひぢりめんの肩をいたのは夢ではなかったのである。
「どうした。」
 と顔を見た。
「こんな、うまいなりをして、驚いたでしょう。」
 と莞爾にっこりする。
「驚いた。」
 とほっと呼吸いきして、どっか、と俊吉は、はじめて瀬戸ものの火鉢のへりに坐ったのである。
「ああ、座蒲団ざぶとんはこっち。」
 と云う、背中に当てて寝ていたのを、ずらして取ろうとしたのを見て、
「敷いておいで、そっちへ行こう、半分ずつ、」
 と俊吉はじめて笑った。……
 お染は、上野の停車場から。――深川の親の内へもかずに――じかづけに車でここへ来たのだと云う。……神楽坂は引上げたが、見る間に深くなる雪に、もう郵便局の急な勾配で呼吸いきついて、我慢にも動いてくれない。仕方なしに、あれからみちの無い雪を分けて、矢来の中をそっちこっち、窓明りさえ見れば気兼きがねをしいしい、一時ひとときばかり尋ね廻った。持ってた洋傘こうもりも雪に折れたから途中で落したと云う。それは洲崎を出る時に買ったままの。きもののようだ、と寂しく笑った。
 俊吉は、まんじの中を雪にただよう、黒髪のみだれを思った。
 女中が、何よりか、と火を入れて炬燵に導いてから、出先へ迎いに出たあとで、冷いとだけ思った袖もすそ衣類きものが濡れたから不気味で脱いだ、そして蒲団の下へ掛けたと云う。
「何より不気味だね、衣類きものの濡れるのは。……私、聞いても悚然ぞっとする。……済まなかった。お染さん。」
 女はそこで怨んだ。
 帰るみちすがらも、真実の涙を流した言訳を聞いて、暖い炬燵のはだのぬくもりに、とけた雪は、ひとしく女の瞳に宿った。その時のお染の目は、おおき※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはられて美しかった。
女中ねえさんは。」
「女中か、私はね、雪でひとりでに涙が出ると、っと何だか赤いじゃないか。引擦ひっこすってみるとお前、つい先へ提灯ちょうちんが一つ行くんだ。やっと、はじめて雪の上に、こぼこぼ下駄のあとのいたのが見えたっけ。風は出たし……歩行あるき悩んだろう。先へ出た女中がまだそこを、うしろの人足ひとあしも聞きつけないで、ふらふらして歩行あるいているんだ。追着おッついてね、使つかいがこの使だ、手をくようにして力をつけて、とぼとぼりながら炬燵の事も聞いたよ。
 しんせつついでだ、酒屋へ寄ってくれ、と云うと、二つ返事で快く引受けたから、図に乗ってもう一つ狐蕎麦きつねそば[#「狐蕎麦」は底本では「孤蕎麦」]あつらえた。」
「上州のお客にはちょうど可いわね。」
「嫌味を云うなよ。……でも、お前はせんから麺類めんるいってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」
「まあ、嬉しい。」
 と膝でしっかりと手を取って、
「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」
 とじっと顔を見つつ、
ねがいかなったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜くやしい。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活かけはないけを取って頂戴。」
「何にする。」
「お銚子を持つ稽古するの。」
狂人染きちがいじみた、何だな、お前。」
「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」
「はいはい、今夜のとこは御意次第。」
 そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、って、あやうく落ちそうにすがったのを、そっと取ると、羽織の肩をなまめかしく脱掛けながら、受取ったと思うと留める間もなく、ぐ、ぐ、と咽喉のどを通して一息に仰いで呑んだ。
「まあ、お染。」
「だって、ここが苦しいんですもの、」
 と白い指で、わなわなと胸をさすった。
「ああ、おいしかった。さあ、お酌。いいえ、毒なものは上げはしません、ちょっと、ただ口をつけて頂戴。花にでも。」
「ままよ。」……構わず呑もうとするとしずくも無かった。
 花を唇につけた時である。
「お酒が来たら、何にも思わないで、嬉しく飲みたい。……私、ほんとに伊香保では、ひどい、なさけない目に逢ったの。
 お前さんに逢って、みんな忘れたいと思うんだから、聞いて頂戴。……伊香保でね――すぐに一人旦那が出来たの。土地の請負師うけおいしだって云うのよ、頼みもしないのに無理に引かしてさ、石段の下に景ぶつを出す、射的しゃてきの店をこしらえてさ、そこに円髷まるまげが居たんですよ。
 この寒いのに、単衣ひとえ一つでぶるぶる震えて、あの……千葉の。せんの呉服屋が来たんでしょう。可哀相でね、お金子かねを遣って旅籠屋はたごやを世話するとね、逗留とうりゅうをして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人きちがいのような嫉妬やきもちやきだし、相場師と云うのが博徒ばくちうちでね、命知らずの破落戸ならずものの子分は多し、知れると面倒だから、次の宿しゅくまで、おいでなさいって因果を含めて、……その時せば可かったのに、湯に入ったのが悪かった。……帯を解いたのを見られたでしょう。
 ――染や、今日はいい天気だ、裏の山から隅田川がかすかに見えるのが、雪晴れの名所なんだ。一所に見ないかって誘うんですもの。
 余り可懐なつかしさに、うっかり雪路ゆきみちのぼったわ。峠の原で、たぶさを取って引倒して、覚えがあろうと、ずるずると引摺ひきずられて、積った雪がれる枝の、さいかちに手足が裂けて、あの、実の真赤まっかなのを見た時は、針の山に追上げられる雪の峠の亡者か、と思ったんですがね。それから……立樹にゆわえられて、……」
「お染。」
「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体からだ一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きのとまるほど嬉しかった。莞爾莞爾にこにこしたわ。何とも言えないい心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。られたのは、ここだの、ここだの、」
 と俊吉のみはる目に、胸を開くと、手巾ハンケチを当てた。見ると、顔の色が真蒼まっさおになるとともに、垂々ぽたぽたと血に染まるのが、あふれて、わななく指をれる。
 俊吉は突伏つっぷした。
 血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴ってまぬ。
 カーンと仏壇のりんが響いた。
「旦那様、旦那様。」
「あ。」
 と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活はないけの水が点滴したたる。
 俊吉は、駈下かけおりた。
 遠慮して段の下に立った女中が驚きながら、
「あれ、まあ、お銚子がつきましてございますが。」
 俊吉は呼吸いきがはずんで、
「せ、せ、折角だっけ、……客は帰ったよ。」
 と見ると、仏壇にあかりいて、老人としよりが殊勝に坐って、御法みのりの声。
「……我常住於此がじょうじゅうおし 以諸神通力いしょじんつうりき 令顛倒衆生りょうてんどうしゅじょう 雖近而不見すいごんにふけん 衆見我滅度しゅけんがめつど 広供養舎利こうくようしゃり 咸皆懐恋慕げんかいえれんぼ 而生渇仰心にしょうかつごうしん……」
 白髪しらがに尊き燈火ともしびの星、観音、そこにおはします。……駈寄かけよって、はっと肩を抱いた。
「お祖母ばあさん、どうして今頃御経をむの。」
 慌てた孫に、従容しょうようとして見向いて、珠数を片手に、
「あのう、今しがたわしが夢にの、美しい女の人がござっての、回向えこうを頼むと言わしった故にの、……くわしい事は明日話そう。南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう。……広供養舎利こうくようしゃり 咸皆懐恋慕げんかいえれんぼ 而生渇仰心にしょうかつごうしん 衆生既信伏しゅじょうきしんぷく 質直意柔※(「車+(而/大)」、第3水準1-92-46)しちじきいにゅうなん。……」
 新聞の電報と、続いて掲げられた上州の記事は、ここには言うまい。俊吉は年紀とし二十七。

いかほ野やいかほの沼のいかにして
      恋しき人をいま一見見む

大正三(一九一四)年一月

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Every Film For ItselfさんによるXでのポスト

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