2026年10月11日日曜日

空前&絶後の気候変動ムービー!?『DIGGER/ディガー』感想 - 沼の見える街

空前&絶後の気候変動ムービー!?『DIGGER/ディガー』感想

空前&絶後の気候変動ムービー!?『DIGGER/ディガー』感想

気候変動のエンタメ化は難しい。

これを解決できるか否かが、膨大な数の人の生死を左右するような、人類史上最大級の深刻な問題でありながら、気候変動(地球温暖化)をテーマに据えた映画は少ない。なぜだろう。サメ映画はこんなに沢山あるのに…(ちなみにサメが人間を殺している数は世間のイメージよりずっと少ない)。

その理由の一つは、気候変動が「問題としてデカすぎる」ことかもしれない。

同じく現実に存在する「怖いこと」でも、たとえばサメの襲撃や、テロの脅威や、飛行機の墜落といったことよりも、気候変動は格段に時間的/空間的スケールが大きい問題なので、映画の中で「問題発生→解決」までの起承転結も付けづらい。気候変動の問題を重視する身としても、映画ファンとしても、気候変動ムービーをあまり見かけないのは残念とはいえ、「まぁ仕方ないとこもあるな」という気持ちはあった。

なので、このたび10/9に日本で公開された、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督&トム・クルーズ主演の映画『DIGGER/ディガー』を観て驚いた。めちゃくちゃ気候変動ムービーだったからだ。より正確に言えば、気候変動やその主な原因である化石燃料について正面から扱ったエンタメ映画であり、だいぶ辛辣で笑える風刺コメディでもある。

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というわけで『DIGGER/ディガー』の面白さを(主に気候変動ムービーとしての側面から)語っていきたいが、本作の特徴として、けっこう大きな「びっくり」要素というか、大胆な仕掛けがある。しかも、その仕掛けを抜きにして作品を語るのが難しいタイプの映画なのだ。なので劇場で驚きたい人はもうSNSとかブログとか見ずにさっさと映画館に観に行ったほうがいいと思う。

この記事では後半、その仕掛けを「ネタバレ」する前に注意書きをするが、鑑賞前の方は気をつけてほしい。ただし「ネタバレ」を踏んだからといってつまらなくなるようなケチな作品ではない、とも言っておきたい。

  • 気候災害ムービーと気候変動ムービー、小さいけど大きな違い
  • 気候変動ムービーの新星『DIGGER/ディガー』
  • トム・クルーズ全力全開!ディガーの大演説
  • 【ネタバレ注意】驚愕!?『DIGGER/ディガー』のギミック

気候災害ムービーと気候変動ムービー、小さいけど大きな違い

『DIGGER/ディガー』を画期的な気候変動ムービーだと言ったが、念のため言い添えておくと、気候変動というより「気候災害」を扱った映画であれば、昔からそれなりに沢山あった。いわゆるディザスター・ムービー(災害映画)だ。有名どころだと『デイ・アフター・トゥモロー』とかは知っている人が多いかもしれない(実は個人的には観たことないが…すみません)。ポン・ジュノ監督の『スノーピアサー』も、温暖化ではなく逆方向の「寒冷化」だが、気候が暴走した世界観のSF映画だ。

荒れ狂う天気の脅威はスクリーン映えすることもあり、気候パニック映画もよく見かける。近年も『ツイスター』の続編の『ツイスターズ』が公開されたりして、なかなか楽しかった。

ごく最近でもNetflixの映画『猛襲』は、壮絶なハリケーンで水没した街の人々をサメが襲う!というコワたのしい「気候ディザスター(サメ)ムービー」といえよう。ここでもサメ映画かよ!って感じもするが…

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森林火災の恐怖を描いたAppleTVの映画『ロスト・バス』も(子どもを満載したバスで燃え盛る森林をサバイブするというシチュエーションは怖すぎるが)面白かった。

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かように、「気候」そのものを直接的/間接的に脅威として扱ったエンタメ映画は沢山ある。少ないのは、「気候変動」を扱ったエンタメ映画だ。つまり今まさに人類が直面している科学的・社会的な意味での「気候の変化」の問題、すなわち「化石燃料の燃焼を主要因とする温室効果ガスの排出によって、産業革命以降の地球の平均気温が激しく上がり続けていて、それが猛暑や環境破壊や災害の激甚化といった深刻な結果を引き起こしている」という現象そのもののことである。

上記の文章を一目見て「そりゃエンタメ化はムリだろ、なんか小難しいし説教くさいもん」と思ったかもしれない。まぁ、それもわかる。たしかに気候変動のメカニズム全体をフィクションやエンタメの中で表現するのは困難だろう。

でもそれにしたって、という話である。先述した『ツイスターズ』や『猛襲』や『ロスト・バス』のような、気候変動の影響以外の何なんだよ、という激しい災害に襲われる映画でさえ、私が見た限り、劇中で「気候変動」という言葉は出てこない…というより、「変化」自体にはほとんど言及がないのだ。もちろん「化石燃料」という言葉が出てくるはずもない。

多分こうした「気候変動という現象全体」や「その本当の原因」に作中で言及してしまうと、「政治的」なニュアンスが出てしまう(=気候変動に懐疑的だったり、化石燃料の関係を否定している保守派の観客を遠ざけてしまう)から、という商業的な事情もあるだろうが、やはり不自然ではある。気候変動の存在に触れずに気候災害の映画を作ることは、ゾンビウイルスの存在に言及せずにゾンビ映画を作るようなものだ。

…ゾンビのたとえが適切かはともかく、要点は、現実で私たちが直面するリアルな「気候変動」の構造に、もっと鋭く切り込んだエンタメ作品が増えたらいいな、ということだ。紛れもなく人類史上最大級の問題に、今まさに地球のみんなが直面しているのだから。

もちろん、善処している作品もある。

真っ先に思い浮かぶ近年の例はアダム・マッケイ監督の『ドント・ルック・アップ』だ。本作はモチーフとして気候変動そのものを扱っているわけではない(巨大隕石が地球に落ちてくる話)にもかかわらず、「これは気候変動の問題のメタファーだ」と多くの視聴者に気づかせる、という離れ技を成し遂げている。

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劇中で描かれる、人類の存亡がかかった危機をメディアが全力で否認する姿や、政府や大企業の信じがたいような対処の遅れを見て、さんざんリアルで苦労している気候科学者が「あ〜、まさにこんな感じ」と苦笑している光景も見た。コロナ禍のメタファーとして受け取った観客もいるかもしれないが、なんにせよ社会風刺劇として優れた一作なので未見なら観てほしい。

より直接的な気候変動フィクションとしては、 AppleTVのドラマ『エクストラポレーションズ:すぐそこにある未来』も、温暖化で激変する世界を壮大な視点でSF的に描いた、意欲的な内容だった。

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とりあえず2例あげてみたが、やはり(ドキュメンタリーならともかく)気候変動を正面から扱ったフィクションはまだまだ少数派と言える。あるにしてもweb配信のような比較的マイナーな領域に留まっていて、映画館で大々的に全世界公開したり、大スターが主演を務めるような「気候変動ムービー」はほぼ皆無だった。

気候変動ムービーの新星『DIGGER/ディガー』

そこに彗星の如く登場したのが『DIGGER/ディガー』だ。まさに映画館で大々的に全世界公開し、大スターが主演を務める、気候変動を正面から扱ったフィクションである。(予告からそのことは十分に伝わってこなかったが、まぁネタバレ上ある程度は仕方ないかもしれない。)

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『DIGGER/ディガー』の主人公は(…という言い方も例の「仕掛け」があるので微妙にそぐわないのだが、主人公的な立ち位置のキャラクターは)その名も「ディガー」という石油王である。本名はディガー・ロックウェルだが、石油王の名前がディガー(掘る者)という時点でそのまんますぎるし、外見もテキサスあたりの年老いた石油業者のイメージをそのまんま戯画化した感じだし、リアリティはあまり気にしてない映画なんだな、と思うことだろう。いや、そういう感想も例の「仕掛け」で回収されるのだが。(本当にネタバレ抜きで語りづらい映画だ。)

まず冒頭の30分が強烈だ。石油王ディガーの朝のルーティーンを、老け&太りメイクを全身に凝らしたトム・クルーズが全力で演じ切ってみせる。もう冒頭の時点で本作は「こいつ(ディガー)を好きになってほしいわけではない」ことがよく伝わってくるというか、とにかく一挙一動が不愉快で笑えてくる。それでも観客がどうしても目で追ってしまう求心力や不思議な愛嬌を同時に漂わせている、というのは、やはりトムのスター性あってのことなのだろう。

「あのトム・クルーズがこんな役を!」という方向の驚きの声は今回も広がりそうだが、そもそもトム・クルーズは『ミッション・インポッシブル』シリーズのイーサン・ハント役を強力なパブリックイメージとしつつ、他の単発の映画では、「善良」とは言い難いような影を感じさせたり(『コラテラル』『ナイト&デイ』)、女性蔑視的なよろしくない考え方を持っていたり(『マグノリア』)と、「あのトムが!」と観客に驚かれるようなキャラクターを意外にしょっちゅう演じてきたと言える。むしろハント以外の役ではそっちが多数派、まであるかもしれない。(トムの役柄選びの妙は劇場パンフレットのコラムで詳しく語られていて必読。)それでも今回の「怪演」っぷりは、やはりトムの演技ヒストリーの新たな1ページなのは間違いないだろう。

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トムの全力怪演シーンの不愉快さ(褒め言葉)を引き立たせるのが、衝撃的なほど可愛さとリアリズムに欠ける(褒め言葉)本作のマスコットキャラクター、ネコのマギーである。最大の特徴は、なんというべきか、明らかに作り物であることだ。8人のパペット操者がセットに隠れながら動きをつけた、という手間のかかりっぷりだが、だからといって偽のネコであることを隠そうともしていないのが笑える。最近は「劇中でネコが酷い目に遭わないか」「演技をするネコの扱いはちゃんとしているか」を気にする映画ファンも増えたと聞くが(良いことだ)、未だかつてこんなにどうなるか心配しないですむネコがいただろうか。

観客の目からは明らかに作り物のネコを「ネコかわいがり」する老いたディガーの姿は滑稽で無惨だが、それでも、限りなく自分勝手に生きてきたのであろう彼の孤独と、ネコにしか発揮されない一握りの愛情は確かに感じ取れる。

ただし、「ネコにだけ優しい悪人」は、しょせん悪人だ。とりわけ、彼が所有する石油掘削リグに務める調査チームとweb会議で話すシーンでの、ディガーの最低最悪っぷりは際立っている。自分で雇った研究者が「このままだとグリーンランドの氷床が破壊されて、氷河がヨーロッパに突き進み、文明滅亡級の大変な事態になります」などと恐ろしい事実を指摘しているのに、「だから掘削をやめろというのか?大金がかかってるんだぞ、お前の責任で金を捨てるのか?」と逆にガン詰めしていく。

こんな「お前が雇ったんだろ」と突っ込まざるを得ない態度は、一般人の目には不条理にしか映らないと思うが、これはある意味、石油(化石燃料)業界の悪癖を一人のキャラクターに凝集しているのだ。

業界のトップを突き動かしているのは利益であり、持続可能性ではない。「うるさい」規則や規制のために調査チームを雇って(いわゆるグリーンウォッシュとして)派遣するものの、本当にその科学的な事実を知りたいわけではないのだ。規制を回避するためにはなんでもするし、できればデータなど無視して金を稼ぎたい、と本気で思っている。たとえその結果、大勢の人が命を失うことになろうとも…。

科学の声を無視した結果として、氷河の崩壊を引き起こし、大勢の命を奪うことになったディガーの行動は、フィクショナルとはいえ、まさに石油業界の身勝手さ、無責任さのメタファーである。…と言えれば、まだよかったかもしれない。だが現実には、この映画の冒頭によく似た大惨事が現実世界で起きたばかりであり、もはやフィクションともメタファーとも呼びづらい。

たとえば、今年の気候災害を象徴する特大バッドニュース、実際に温暖化の影響でネパール/中国の氷河が崩壊し、それに伴う洪水が大量の死と破壊を引き起こした件だ。

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ついでに「天災だから仕方ない」では済まず、明らかに大きな責任を負っている人間(政治家や企業のトップなど)もいる、という話もした。

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こうした責任を負うべき人々の悪辣さと欺瞞っぷりを一身に凝縮したようなキャラクターが、ディガーだと言えるだろう。

その後に登場するジョン・グッドマン演じる大統領や閣僚や軍人たちとのやり取りも、誰一人として人命のことも地球のことも考えておらず、なかなか凄い。大統領の造形は当然トランプを想起させるものだが、レーガンやブッシュなど含め歴代の共和党大統領のイヤな部分を寄せ集めているという方が正確だろう。こうしたホモソーシャル的な集団に、当然のように女性蔑視が蔓延していることが、最低の劇中ギャグ(おい、女性の前だぞ!→…って女性なんかいないけどね笑)によって強調されていることも何気に重要だ。

さらに鮮烈なのは、実際にヨーロッパが津波に襲われる光景を、慌てふためき叫びながら、文字通りポップコーンを食べながら「鑑賞」する権力者たちの姿だ。彼らを慌てさせ、怯えさせているのは、人の死そのものではない。人が死ぬことで自分たちの責任が追求されるかもしれない、と慌てているのだ。 (このくだりで登場する津波や洪水の映像は、断片的とはいえ東日本大震災の被害も想起させるものなので、トラウマ等ある人は気をつけてほしい。)

大勢の命に責任を追っているはずの同質的な男性権力者たちが、いかに視野狭く自分のことしか考えていない愚者の集まりなのかを描く、ある種の古典的な風刺のはずが、あろうことが現実の権力者も同じくらいひどいので、かなりリアルな場面として成立してしまっている、というわけだ…。フィクション制作者の苦労が忍ばれる。

そんな最低人間フェスティバルみたいな映画に、初めて良識を持っていそうな主要キャラクターが登場する。リズ・アーメッド演じるガネシュ博士だ。彼は気候変動について正確な認識と理解を持ち合わせ、権力者に物怖じせずに真実を伝える度胸も持ち合わせた人物だ。飛行機の中でガネシュ博士がディガーに本音をぶつけるシーンは、リズ・アーメッドの知性と激情が共存した名場面だった。

しかしそんなガネシュ博士でさえ、ディガーという悪魔めいた存在と共に過ごす中で、少しずつ自分の正義や良心が(まるで溶ける氷河のように)突き崩されていくように見える、というのが恐ろしいし、この映画の複雑で面白いところでもある。

そんな恐ろしさと複雑さと面白さが最も激しく炸裂するシーンが、本作最大の見せ場といっていい、EU議会でのディガーの大演説だ。

トム・クルーズ全力全開!ディガーの大演説

『DIGGER/ディガー』上映前の舞台挨拶中継で、トム・クルーズが「10分の長回しで僕が喋り続けるシーンがあるけど、そこは絶対見てほしいな!」と語っていたので「へ〜、どこかな」と期待していたが、実際にその場面に到達して「なるほど、こりゃ凄い」と驚いた。トムが自信満々だったわけだ。

実際、その約10分間のスピーチ場面の悪魔的な熱量と完成度はとてつもない。

まるで古代の劇場のような風格がある(もちろん実際のEU議会の会場とはかけ離れている)議会のセットや、ディガーを取り囲む議員や観衆のシックな色合いの服装など、この場面の凄みは様々な要素によって成り立っている。だが凄さの核心はやはり、トム・クルーズの演技と、語っている内容そのものだろう。

化石燃料業界のボスという気候変動問題における最大の「加害者」による、いわば壮大な「言い訳」であり、なんなら不快なだけで終わってもおかしくないはずのスピーチだが、とにかく目が離せないし、その言葉に耳を傾けてしまう。

イニャリトゥ監督はあの大演説について「脚本を9年かけて執筆する中で、70種類ものバージョンを作成した」と語っているが、その甲斐あってというべきか、研ぎ澄まされた内容になっていたと思う。

10分にわたるディガーのスピーチをできる限り短く要約すると「ああそうだよ、俺が悪いんだよ、でも俺の"悪さ"を望んだのはお前達だろう?」ということになる。

もしこのスピーチに現実世界で出会っていたら、(驚くべき正直さだけは逆に評価してしまうかもしれないが)加害者側・既得権益サイドによる、都合のよい事実の捻じ曲げが目に余る、ひどい言い分だと感じることだろう。だが本作のようなフィクションの一場面として観る分には、気候変動の実態や化石燃料業界のヤバさが色濃く反映されながら、一握りの真実を感じさせる名スピーチだった、と感銘を受けるのはなかなか不思議だ。

演説の最重要ポイントのひとつは、ディガーは「化石燃料の掘削が人類に破滅的な事態を引き起こす」なんてことは、とっくの昔に知っていたということだ。この設定には現実の化石燃料業界の欺瞞がよく現れている。

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シェルやシェブロンやエクソンモービルといった大手石油会社は、なんと1950年代にはすでに、化石燃料が地球温暖化に及ぼす深刻な影響を認識していた、と報道されている。なんなら当時の一般人より、よほど正確に気候変動について認識していたと思われる。石油企業は全てを知った上で、気候科学への疑念を広めたり、気候対策や環境規制を封じ込めるロビー活動に大金を投じたりしてきたわけだ。タバコ業界のやり口ともよく比較されるが、本当にひどい話である。

ディガーはこうした業界の悪習を開き直るかのように、「はいはい、知ってました、地球がひどいことになったのは俺のせいだよ。でも石油を掘ることを望んだのは誰だ?お前達だろうが」と豪語する。まったくひどい言い草だし、「いや確かに石油は社会に必要だったかもしれないけど、それと(気候変動や科学を否定する)お前らの邪悪さは別問題だろ」としか思えない。なのでくれぐれもディガーの言う事を100%真に受けることはしないでほしい(ディガーは一貫してしょうもない悪人として描かれているので、その心配はないと信じるが…)。

それでも、非道で嘘つきなディガーの言葉の中には、同時に真実も含まれていることは認めざるをえない。この複雑さこそが、この大演説シーンにフィクションならではの豊かなニュアンスを与えていると思う。気候変動や化石燃料について語ったセリフという点でも、映画のスピーチ場面としても、前代未聞の名シーンと言っていいだろう。

このシーンの複雑さについてもう少し掘り下げたいが、『DIGGER/ディガー』全体の大胆な仕掛けに言及しないまま感想を書くのがそろそろ限界なので、以下はネタバレありに移行させてもらう。

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以下、『DIGGER/ディガー』の重大なネタバレ要素について言及します。映画の鑑賞後に読むことをオススメします。

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【ネタバレ注意】驚愕!?『DIGGER/ディガー』のギミック

『DIGGER/ディガー』を「なるほど、とんでもなく愚かで非道な石油王の億万長者が、自分のせいで引き起こされた大災害に直面する話なんだな」と素直に鑑賞していた観客は、映画の前半、とある大仕掛けが発動することで、驚くことになる。

ディガーと大統領が2人きりで話しながら、窓のむこうに広がる光景を眺めていると、いきなり大きな木が倒れる。そしてその木を、急に現れた巨大な手が掴んで、元に戻そうとするではないか。さらに謎の男性の顔が空を突き破って現れ、倒れた木についての会話を繰り広げる。中断の掛け声とともに、ディガーだったはずの男は突如「自分は本当にこんな大袈裟な演技でいいのか?」と心配し始める。

そう、なんとディガーも大統領も他の全員も、ある演劇(その名も「Fossil Fools=化石の愚者」)の登場人物であり、ここまで描かれてきた物語は全て演劇のシーンだった、とこの瞬間に判明するのだ。全体としてリアリティに欠ける戯画的な物語だったとはいえ、「ディガーは、氷山は、世界はどうなってしまうんだ?」とハラハラ見守っていた観客に、まさに「ハシゴ外し」をかましてみせるわけだ。

たしかに衝撃のメタ展開である。ただし、さんざんネタバレ注意しておいてなんだが、イニャリトゥ監督の過去作の傾向に注目すれば、そこまで「新しい」というわけではないかもしれない。

たとえばイニャリトゥ監督の最も有名な(アカデミー作品賞も取った)過去作『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』にしても、マイケル・キートンが演じる主人公リーガンの「現実」と、彼が演じるレイモンド・カーヴァーの「演劇」と、リーガンの空想のような「架空」の3つの世界を大胆に行き来する入れ子構造になっていた。video-share.unext.jp

イニャリトゥ監督の前作となるNetflixの長編『バルド、偽りの記録と一握りの真実』も、メキシコ人のドキュメンタリー監督が生きる「現実」と、彼が撮影した作品(これが「ドキュフィクション」という現実と虚構の中間を描くスタイルなのが複雑さを増しているが…)という「虚構」と、それすらも超越した魔術的な「超現実」の間を、果てしなく往復していく作品だった。

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なので、もはやイニャリトゥ監督が、物語や世界がひとつだけのシンプルな映画を撮るとしたらそっちのほうが驚き、というべきなのかもしれない。『DIGGER/ディガー』の作品世界が概ね「演劇」と「現実」の2つだけに限定されていると考えれば、むしろシンプルな方ですらある。

とはいえ、これほどの規模の大作としては、極めてハイリスクな賭けであることは確かだ。映画の中心となる物語を「ま、ぜんぶ嘘なんですけどね」と劇中でわざわざ強調してしまえば、映画全体が氷山にぶつかったタイタニック号のように、いやヨーロッパのように沈没しかねない。

しかし驚かされるのは、映画のわりと前半(開始30分くらい)でこのメタ構造が明かされるにもかかわらず、その後もディガーの物語…つまり「化石の愚者」のストーリーが、牽引力を維持し続けるということだ。劇中劇の演劇だとわかった後でも面白いのである。何を隠そう、先ほどネタバレ前に紹介したディガーの「大演説」シーンにしても、この時点ですでに「これは演劇ですよ」と観客に示されているのだから。

つまり私たち観客は、作り手に「これは大嘘ですよ」と正面から教えてもらっている状態でさえ、その物語が面白かった場合、興味を失ったり意味を無効化することはできず、なんなら一種の「現実」として認識し続けてしまう…という、なかなか恐ろしい事実を、『DIGGER/ディガー』は映画の形で体現しているのだ。

この「物語の力」は逆説的に、気候変動という問題の本質を浮き彫りにしているようにも思う。大量の科学的なデータや、「10月なのになんだか暑いなぁ」といった日常的な肌感覚など、あらゆるものが「気候変動は大きな問題である」という揺るぎない答えを示しているのに、その現象が「物語化」「エンタメ化」しづらいという性質ゆえに、私たち人類はまだ気候変動を本当の意味で「真に受ける」ことができていないのかもしれない。

かといって大衆にわかりやすいように工夫したところで、この演劇『化石の愚者』のように、かなり戯画化・単純化されたストーリーやキャラクターを描かざるをえない、それは芸術としてはどうなんだ、というジレンマも、映画の中でディガーを演じる(文章だとややこしい!)役者・カーティスの苦悩によって示される。

さらに事態を複雑化するのは、ジェシー・プレモンスが演じるケニーというキャラクターだ。ケニーは実は(演劇のモデルとなった実在する)ディガーの子孫で、その因縁に駆り立てられるようにして、この舞台の制作を務めている。ケニー自身はディガーのような悪徳業者ではないようだが、彼もまた億万長者であり、ディガーの莫大な遺産の恩恵を受けているだろう。しかしそんな彼が一種の「贖罪」のように、先祖を戯画化した『DIGGER/ディガー』のスポンサーとなっている、という点に、独特の善悪のねじれがある。

このねじれた状態は、今これから現実のハリウッドでより顕著になるかも…というか、もっとひどい状況になるかもしれない。というのも先日、パラマウントがワーナーを買収したことで、トランプにも近しい億万長者デヴィッド・エリソンが率いる会社スカイダンスが、映画産業の大部分を所有する状況になってしまったからだ。

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これによってハリウッド映画が急に右傾化するとか、極右プロパガンダのような作品が増える、とまでは個人的には思っていない。良くも悪くも政治と文化(映画などエンタメ含む)は単純な一致を見せないことが多いからだ。ただし、「語られる物語」と「語られない物語」の選別が、億万長者の思惑の影響をいっそう受けやすくなるのでは、という懸念は拭えない。まさに『DIGGER/ディガー』は、ケニーという億万長者が『化石の愚者』という物語自体の影にいるという展開を通じて、現実の「物語」が直面している状況を皮肉に俯瞰している、という見方もできる。

本作『DIGGER/ディガー』のシニカルな視点の切れ味は、ラストシーンにおいて頂点を迎える。演劇『化石の愚者』が喝采の中で幕を閉じた後、「レベル4です」というアナウンスが場内に響き渡り、観客は自前の小型ガスマスクを装着し、劇場の外へと向かう。そこは、すでに気候変動によって変わり果ててしまった、未来の街だった。

大気汚染か感染症かはわからないが市民にはマスクの着用が義務付けられ、暗澹たる空からは雨が降りしきり、海水面上昇によって道路は水没し、おそらくファシスト的な軍事政権が市民を弾圧している…といったディストピア的な景観が示され、そこにエンドロールが流れる。結局のところ、『DIGGER/ディガー』の世界では気候変動を止めることはできなかった…という、一見なかなか救いのないエンディングだ。

強調しておきたいのは、本作の終末的な光景は、特に突飛だったり非現実的なものではないということだ。つい先日『こうして、世界は終わる』という本を読んだのだが、『DIGGER/ディガー』の副読本としても推したい。

気候変動によって主要都市が水没し、社会の崩壊や大量死や人口大移動を経た未来の科学者が、「なぜ人々は全てを知りながら、気候変動を止められなかったのか?」を振り返って考察する。いっけんSF小説のような作りの本なのだが、恐ろしいのはガチの科学者がしっかりした考証によって書いた本ということ。

著者のエリック・M・コンウェイ&ナオミ・オレスケスは、気候変動否定論をバラまき続ける化石燃料業界とその追随者(まさに『DIGGER/ディガー』の悪役だ)を批判してきた科学者だ。個人的には日頃「人類は、世界はもう終わり」的な大げさな言説には与さないが、本書の警句には重みがある。

ただし、必ずしも絶望を語るだけの本ではない。原題は「The Collapse of Western Civilization: A View from the Future(西洋文明の崩壊:未来からの視点)」であり、気候変動を止められなかった西洋文明が衰退し、変わり果てた世界で多くの犠牲を出しながらも、人類はまだ生存しているのだ。

同じことは、『DIGGER/ディガー』の結末にも言える。暗澹たる光景が広がっていたとはいえ、ただ単に絶望的な未来をシニカルに描いただけのラストだとは捉えていない。これほど変わり果てた世界でも、まだ演劇のようなアートや物語を作る人たちは存在するし、それを求めて劇場に足を運ぶ人々も存在する、というラストに、本作のクリエイターたちの不屈の心を見出すこともできるだろう。その不屈っぷりは、何よりこの『DIGGER/ディガー』という映画そのものに深く刻まれていると感じる。

『DIGGER/ディガー』先行上映の舞台挨拶で、トム・クルーズが「僕は名声や興行収入のために映画を作ってるんじゃない。映画を作る純粋な喜びのために作っているんだ」と語っていた。こういう発言を「まぁ興収も批評ウケも良くなかった映画のコメントだし、そういうしかないよな…」とか冷笑するのは簡単なんだが、あらゆる意味でチャレンジングだった『ディガー』本編を観ると、なんかもう「本当にその言葉の通りなんだろうな」と素直に思えたのだった。金目当てで作れる映画ではない。金がほしければ、石油でも掘っていればいいのだ。

もちろん好き嫌いはあるだろうが、映画の神に人生を捧げし者たちの祭典だよな、これは…と映画館で心打たれた。本作のように、映画の力で現実社会と取っ組み合ってみせる、特異で勇敢な作品に出会いたくて映画館に通っているといっても過言ではない。

考えたくはないが、この規模の大作として気候変動ムービーがハリウッドから届けられるのは(業界の政変もあり)これが最後だったとしても驚きはしない。空前絶後っていうか、マジで絶後なのかもしれない。こうしたポリティカルで野心的な映画(たとえば『罪人たち』や『ワン・バトル・フロム・アナザー』のような作品)がハリウッドから消滅する時が、本当の意味で「映画が死ぬ」時なのかもしれない。しかしトム・クルーズならこう言うことだろう。その日は「今日じゃない」と。

2026年10月9日金曜日

黒いボール(映画) - Wikipedia、フリー百科事典

濱口竜介(映画監督):失敗を重ねた先には、深い快楽が待っている | WIRED.jp

失敗を重ねた先には、深い快楽が待っている:濱口竜介(映画監督)──WIRED Innovation Awards 2026 受賞者インタビュー

失敗を重ねた先には、深い快楽が待っている:濱口竜介(映画監督)──WIRED Innovation Awards 2026 受賞者インタビュー


世界的な評価を得てもなお、映画監督の濱口竜介は失敗することを恐れない。先人の試行錯誤に学び、人と場への信頼を育みながら、その先に訪れる「深い快楽」を追い求めて映画を撮り続けている。「WIRED Innovation Awards 2026」受賞者インタビュー。

2026年6月に全国公開された映画『急に具合が悪くなる』が、静かに熱い支持を広げている。介護施設の施設長として理想の介護を探求するマリー=ルーと、ステージⅣのがん患者であり演劇の演出家として活躍する真理。ふたりの偶然の出会いと、その先に紡がれる友情を描いた本作は、国内外で高い評価を得た。第79回カンヌ国際映画祭では、主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒のふたりが最優秀女優賞を共同受賞している。

監督の濱口竜介も、これまでに世界3大映画祭すべてにおいて主要な賞を獲得し、『ドライブ・マイ・カー』ではアカデミー賞国際長編映画賞に輝いた。本人は否定するだろうが、時代の寵児と言っていいだろう。しかし、彼は浮足立つようなことはまるでない。制作現場の環境づくりからクリエイティビティの未来まで、あくまで自身の足元から一つひとつ、トライ&エラーを重ねている。そのプロセスのなかでこそ、深い洞察に満ちた言葉の数々が紡がれるのだ。

濱口竜介|RYUSUKE HAMAGUCHI

Photograph: Ren Gomi

──『急に具合が悪くなる』が日本とフランスで上映され、いまもロングランが続いています。観客の皆さんの反応や感想などを、どのように受け止めていらっしゃいますか。

3時間16分という映画の長さから考えて、これだけ多くの方々にご覧いただいているのは大変ありがたいことです。9月中旬の時点で、すでに日本とフランスで合計60万人くらいの方々に劇場に足を運んでいただいています。それは本当にすごいことだな、と。この作品を観ながら、ご自身の生き方について思いをめぐらせる方もいらっしゃるようで、そうした深いところで反応いただけることは、とてもうれしいです。

──原作は、がんが転移するなかで生き抜き、思考を深めようとする哲学者・宮野真生子さんと、それに並走して問いを投げかける人類学者・磯野真穂さんとの往復書簡です。本作は企画の成立まで、針の穴に糸を通すような繊細な積み重ねで実現したように感じられます。そのプロセスを、ご自身ではどのように振り返りますか。

不思議なもので、出来上がった映画を後から観ると非常に堂々として感じられます。このようにできるべくしてできたのだ、という顔をして存在している。でも制作プロセスを振り返ってみると、薄氷を踏むような思いでつくったものでした。

そうした繊細さが要求されたのは、ひとつは、そもそも原作が非常に繊細に取り扱うべきものであったからです。それこそ原作自体が針に糸を通すようにして成立した往復書簡ですから、映画もまたそれと同質のものだと、脚本を見せたり話したりしながら磯野さんに思っていただける進め方でなければ、成立しませんでした。

もうひとつの側面は、取り扱っているテーマからして、ある程度まともな労働環境が用意されなくてはならない、ということです。具体的には、回復や休養に充てられる時間を、映画の質を落とさずいかに確保するか、ということですね。

──濱口さんはカンヌからの帰国会見で、同じ映画でも労働時間などの規定がしっかりしているフランスは日本の3倍の予算がかかると聞いた、それなら日本は同じ予算でスケールを3分の1にできるのではないか──と提案していました。

映画の撮影期間には、休憩の時間も考慮しながら相応の予算が十分に確保されていることが求められます。それが日本の映画製作ではないがしろにされる傾向がある。

もちろん、資金を出す側からしたら、ある程度の予算を緊縮しつつ、映画の質を高めなければならないのだから、そこに葛藤はあります。最終的には興行として回収していける内容でなくては、プロデューサーたちの人生に甚大な影響を与えてしまう。この映画が主に日本とフランスによる共同企画になったのも、原作の精神を尊重しながら、商業映画としての成立を可能にする術を考えてのことでした。

──映画化にあたっては、イタリアで精神病院を廃絶した後の地域精神保健の実践を描いた研究書『プシコ ナウティカ イタリア精神医療の人類学』をめぐる濱口さんの問題意識が加えられていました。映画というジャンルに限らない幅広い関心や探究は、ご自身のどのような志向に基づいているのでしょうか。

少し遠回りな話になりますが、10代で映画を好きになり、20代に入るにつれて観るだけでなくつくるというサイクルに入っていくなかで、ぶち当たる壁がありました。「あれっ、全然あの映画みたいにならないぞ」という壁です(笑)

この位置、この高さにカメラを置いて、このレンズを使えば、こういうフレームで人間を捉えることができるはずで、そうして撮ったものを編集すれば自分が好きなあの映画のように見えるだろう──。そんな目算で撮るわけですが、ほど遠いものにしかならない。なぜなんだろう、と考え始める。

そんな20代を過ごして30代になったとき、酒井耕と共同監督で制作したドキュメンタリー『東北記録映画三部作』が決定的な変化の契機になりました。

濱口竜介(映画監督):失敗を重ねた先には、深い快楽が待っている

信頼関係のなかでこそ聞けること

──東日本大震災の被災地や、東北で暮らす人々の「語り」と「聞き」を記録したドキュメンタリー映画のシリーズですね。

気付いたのは、写される世界の側の充実のようなものがない限り、どのようなかたちで撮ったとしても単に上っ面をなぞったものにしかならないということです。どう撮るかはもちろん重要ですが、カメラの向こうの世界をどういう状態で捉えるかも同等か、それ以上に考えなければならない。

この三部作では被災者の方々にインタビューし、非常につらい津波の経験なども話していただきました。それこそ、できる限り繊細な聞き方でなくてはならない。質問の仕方によって被災者がさらに傷ついてはいけないし、そもそもカメラの前で皆さんが質問に答えてもいいと思ったり、答えられる精神状態になったりするためにはリラックスした空気、簡単にいえば撮影する側との信頼関係が必要なわけです。

撮影・記録されてしまったら、それは世界中の人が見るかもしれないものになります。そういう映像の特質は、インターネットが登場して以降は更に強められています。その性質を意識する被写体は当然ながら、カメラを向けられれば萎縮をします。「できるだけ多くの人にとって問題のない自分」しか差し出せなくなってしまう。

ですから、とにかくまずはカメラを持たずに複数回お話しをしてから撮るようにしました。その会話を通じて、自分たちにある程度の信頼をもってもらう。例えば、少なくともジャーナリスティックな関心とは違う態度で質問しようとしている、というこちらの姿勢が伝わったり、何をしゃべってもこの人たちは聞いてくれるらしい、と信じてもらう。そのことで多少なりともリラックスした空気が流れたりするようになっていく。

そうした関係のなかでこそ新たに聞けることも、話せることもある。つまり発見があり、それがさらに会話を発展させる。カメラの前にいる人たちの魅力それだけで、映画を支える力になる。『東北記録映画三部作』は非常に簡素なフレーミングで撮ってつなげた映画ですが、築いた人間関係のうえで映される世界や人が充実しているのならば十分に、ずっと眺めていたい映像になるという確信を抱きました。

──俳優が感情や抑揚を排してせりふを繰り返し口にする「本読み」を、濱口さんが撮影前に出演者と時間をかけて実践していることにもつながっていると感じます。フラットな状態をつくったうえで、撮影現場では俳優の感情やニュアンスが自然に立ち上がる、というわけですね。

東北で体験したことは、きっと役者の皆さんにとっても同様なのではないか、と思うようになりました。自分が尊重されていると感じられる場において、どうやら本当に自分というものを表現してもよさそうだと感じる。そういう感覚を役者が抱くことができたとき、脚本に書いてある怒りや悲しみを記号的に表現するのとは違って、表現の瞬間にその人の人生や人格というものが流れ込んでくるようになる。カメラを通じてそうした被写体の方たちの姿を見て、声を聞くと、言葉では表現しがたい魅力が宿っていることがあります。

どうやってリラックスし、集中できる場をつくるかという話は、先ほどの労働環境というテーマにもつながります。例えば、俳優を尊重すること自体は、システム上はそれほど難しくないかもしれない。ただ、いくら自分が大事にされていても、仮に怒鳴られている若いスタッフが目に入ったならば──つまり、自分たち俳優に対して向けられる態度と、ほかのひとたちに対する態度が大きく異なる状況を目の当たりにしたならば──自分はヒエラルキーによって保護されているだけだと理解する。そのとき、この撮影現場が本当に感情的なものを尊重してくれている、と信頼することは難しくなってきますよね。

──場への信頼は、自分だけがケアされているだけでは築かれず、他の人も含めてケアされていないと成り立たない、と。

少なくとも、深いレベルで信頼関係が生じることは難しいでしょう。単純に自分の演出のために、リラックスしたり、集中できる場をどうつくるか。その試行錯誤のなかで、専門外であるケアの領域に似た問題を感じて、自然と興味を伸ばしていったわけなんです。

濱口竜介(映画監督):失敗を重ねた先には、深い快楽が待っている

えも言われぬ快楽

──そこまでの模索を濱口さんに繰り返させる“映画の魅力”とは、いったい何なのでしょうか。

シンプルに、えも言われぬ快楽があるってことですね。特に映画館でスクリーンを見つめているとき、数十人、数百人という人たちが数カ月にわたってつくったものを、2時間で体験するってことをしているわけです。当然ながら、日常生活ではおよそ体験しないような何かが自分の中に流れ込んでくる。「何だこれは」というもの。それは強烈な快楽なわけですけど、その快楽がいったいどうやって生じるのか、わからなくて、追いかけたくなるのだと思います。

自らつくり出そうとするときにはここまで述べてきたようなさまざまな困難があるんですけど、それもまた快楽の源という気はします。困難を切り抜けていく過程において、自分自身の感覚や身体が組み変わっていくような深い快楽が生じる。観客としても、つくり手としても、基本的にはこうした快楽を求めて映画と向き合っています。

──特に劇映画は多人数での集団制作になりますが、濱口さんにとってどんな意義があるのでしょうか。

多人数でつくるっていうのは、単純に大変なわけですよ。皆それぞれに技術を持ち寄ってつくるわけですが、それぞれがプライドや独自のプロセスをもっていて、葛藤を生じることも大いにあります。でも、多人数の制作の意義とは、自分がコントロールできないものがどんどん積み重なっていく、その点でしょうね。

そこには、いろいろな人の人生そのものが持ち寄られるようなところがあるわけです。できることなら、そこで皆が、自分自身を表現できたらいい。さっき言ったみたいに、人生の時間が流れ込んでくるとき、そこには記号的ではないような表現が生じます。そういうときは、各人が単に役割を果たす以上に、自発的に動き出しているような感覚があります。

とはいえ、皆が自発的になると、物事がバラバラに動き出して、崩壊してしまう危険性もある。そこにはトレードオフの関係があります。そうした“コントロールのできなさ”は、耐えるしかない。自分の場合は、役者というものをひとつの中心として、そういうことが起きやすいスペースをつくっていくということをしています。非常に難しいことですが、役者の感情という明確な旗印があると、多くの人々が自発的なままにあるひとつの方向性に揃う瞬間があります。このとき、画面を貫いてくる力の奔流のようなものが生まれることがある。それはさっき言ってた快楽ともつながっているでしょうね。

もちろん個人や少人数でも撮ることはできますが、機械を扱う映画というメディアの歴史は、それぞれの技術に熟練したスタッフたちの集団作業として始まったわけです。これは映画の本質であり伝統であって、例えば相米慎二はこうした根本的な映画の力を信じていたと思います。大人数で撮るからこそ何かが起きるのだ、と。

ただ、このストレスがひとりの人間に集中するような状況は、確実に命を削ります。わたしにとっては、よりコミュニケーションしやすい少人数の制作というのも、映画づくりの喜びと人生の喜びが重なる、とても大事なものであるとも言っておきたいと思います。

──集団制作の難しさについて引き続きお聞きします。濱口さんの『ドライブ・マイ・カー』(2021年)で作曲を担当し、『悪は存在しない』(2023年)で共作されたミュージシャンの石橋英子さんとの往復書簡(『新潮』2026年8月号)では、『急に具合が悪くなる』の現場では前もってカットが割れなくなった、と書いておられました。撮影を始める直前に即興的に割るしかなくなったとのことですが、これはなぜだったのでしょうか。

東北のドキュメンタリーにもつながる話ですが、場というものはカメラに先行して存在しているわけです。フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーが、例としてわかりやすいでしょう。彼は学校、病院、裁判所、動物園、図書館や市役所、ボクシング・ジムまで、さまざまな場所や施設、組織を撮った。これらの場に足を運べば、日常的な活動のルーティンが先に存在します。

今回の『急に具合が悪くなる』では、まず介護施設という場をできるだけ立ち上げてみよう、と考えました。取材も重ねつつ、現実に近いような時間の流れをフィクションとして立ち上げる、そこにカメラを置くという発想です。

──やはり、場はカメラに先だって現れる、というわけですね。

もちろん、カットを割れないといってもある程度は構想できます。とはいえ、決めきってしまうと望んでいるような時間の流れは生じなくなる。決められない、というより決めるのを本当にその瞬間まで待たなくてはならない、という感覚ですかね。

現場では「そろそろここで何かが起こりそうだから、ここにカメラを構えていよう」と即興的に準備する。何かが起きたら、その感覚が現場から消えないうちにすぐに反対側からも撮る。限られた時間と空間において、そうした動きを順次やっていくわけです。

濱口竜介|RYUSUKE HAMAGUCHI

Photograph: Ren Gomi

心震える一瞬を求めて

──ドキュメンタリーとフィクションがそのように接続するとは驚きです。そうした試行錯誤の先例、先人の実践的な歴史を、濱口さんはどう引き継ごうとされていますか。例えば、巨匠ビクトル・エリセの劇映画『ミツバチのささやき』に関するレクチャー(『群像』2024年10月号)では、主人公の少女役の俳優が映画『フランケンシュタイン』を本当に生まれて初めて見たときの反応、その感情の高まりをドキュメンタルにどう捉えたのかを論じていました。

何かを引き継ごうというよりは、20代のモチベーションのまま、あわよくば真似したい、というそれだけです。あれほどにいい映画、いい場面というものを撮ってみたい、ではどうすればいいんだろう、ということを繰り返しているだけです。

自分も映画を撮ってきてようやく実感したのは、「先人も苦労していたんだな」ということです(笑)。例えば小津安二郎が撮影日数からすると1日1〜2分しかOKテイクを撮っていないはずだ、と。いったいどうしてと思って見ていると、あるショットが成立するのにこれは時間がかかるだろうという撮り方をしている。人物の振り付けが異常に細かいわけです。そして、それは後期に行くほど、その精度が上がってくる。つまりは試行錯誤がある。

小津でもエリセでも、巨匠は最初から存在したわけではありません。フィルモグラフィ全体を見れば、試行錯誤から得た手がかりをもとに次作を撮っていっていることがわかる。わたしはそうした映画を何度も再見することで、「なるほどな、そんなうまくいくわけがないことをしているんだな」と勇気づけられます。

失敗しながら撮らなければならない。では、失敗する余裕をどうつくるのか。失敗が許されない現場の空気は、ハラスメントの温床にもなります。誰もが失敗できる環境を、予算の規模にかかわらずどう確保するのかが重要です。

──先ほどの現場全体のケアの話にもつながりますね。実際のところ、どうされているのでしょうか。

予算は自分の自由になるものではありません。ですから、常に「予算に対して企画そのものをちょっと小さめにしておく」しかない。一方で、じゃあ予算いらないですよね、とならないように、あの手この手で交渉したりしていく、ということも大事です。

ありがたいことに、『急に具合が悪くなる』はこれまでで最も予算をかけていただいている作品ではあります。それでも出来事の大半は介護施設で起きるようにしてあります。このことでシーンごとに撤収して人や機材を移動させる必要ができる限りないようにしている。「小さめに」というのは、例えばそういうことです。

ただ、空間そのものは限定されていても、そこに世界を立ち上げることはできるわけです。その見極めをしたうえで脚本を書き、失敗しながらどう撮っていけるかという環境を整えているわけなんです。

──なるほど。しかし先ほどの小津安二郎の“振り付け”と、濱口さんが目指す“偶然”は、一見すると正反対にも感じられます。

実のところ、そんなに変わらないと思います。小津の映像のようにあまりに人々の動きがピタリと揃っていて整っているような状況を、もし現実で見たら「こんな偶然もあるものだな」と思って眺めるものでしょう。セットで小津がしているのは、いわばそうした「偶然の再構築」です。ただ、人はいくら細かに決めたって、究極的には小津が望むように動いてくれるわけではないので、うまくいく瞬間っていうのは、結局は何らかの偶然が介在している。

わたしが求めているのも、そういう偶然のような気がします。みんなが自発的に動いている状況から、何かが連なったような瞬間を捉えること。人と人、場合によっては人とモノとの間で、カメラが捉えるひと連なりの偶然。「こんなものを見るなんて」と心震える一瞬は、何度も何度も失敗しながら取り組まなければ生じない。偶然を待たなきゃいけないんです。

濱口竜介(映画監督):失敗を重ねた先には、深い快楽が待っている

Photograph: Ren Gomi

──「WIRED Innovation Awards」はイノベーションにまつわるアワードです。イノベーションと聞いて、濱口さんはどのようなものをイメージされますか。

人生でイノベーションについて考えたことはほとんどないのですが、イノベーションを起こそうと思って起こしている人は、実はほとんどいないのではないでしょうか。いろんな技術の成果が合流した結果としてイノベート「されちゃった」世界を皆が生きている。そういう意味でそれはやはり、コントロールできないものです。

最近ではAI(人工知能)ですよね。もしかしたら開発者自身も、管理しきれないという点において「されちゃった」感覚を抱いているのではないか、とも感じます。生成AIは、あと数年で、少なくとも一般の観客の目には、人がつくる映画とほとんど見分けがつかない映像をつくるようになるでしょう。これは間違いない。そのとき、映画がどうなるかなんてことは、基本的にわかりません。

ただ、このうえフィジカルAIとかが出てくると、人間はおそらく地球上の唯一の知的存在であったというアイデンティティを失うわけです。そうなると、知的生命体としてのアイデンティティを失った、単なる「生命体」としての人間の特性として、おそらく相対的な「不器用さ」「愚かさ」「遅さ」といったものが強調されるようになる。

芸術の歴史を振り返ると、あるジャンルのアイデンティティを揺るがされるとき、芸術は、そのメディア特性は何かと探索する活動へと発展していきます。写真の誕生が、絵画を具象から抽象へと移行させたり、映画の誕生が演劇の、よりナマなパフォーマンス性を強調させたように。われわれの存在もAIによって“再照射”されることになるでしょう。

映画にできることは相変わらず、そうなった後の人間にカメラを向けてせいぜい記録することだろうと思います。「不器用さ」「愚かさ」「遅さ」という特性をより強調するような作業になるでしょう。それがおそらく「生命体」としての人類を捉えることにもなる。それがイノベーションになるかはわからない。むしろ、それってずっと映画がやってきたことではないか、という気もする。それでも、何がイノベーションになるかわからない以上、自分が価値があると思う活動に拘泥すること以外に、それを待ち受ける方法はないようにも思います。

──アワードでは「この革新は、未来のシアワセのために」をタグラインに掲げています。そこでお聞きしたいのですが、ご自身と社会の「シアワセ」について、どのように考えていらっしゃいますか。

幸福については、わたしなんぞには何もわからないというのが大前提ですが、しかし社会全体の幸せがどれほど設計・構想されるべきものかという問題はあると思います。幸せになるのは簡単なことじゃないですから、自分以外の誰かが自分の幸福をコントロールできてしまう状況はまずい。ですから、自分がつくる映画で誰かを幸せにするといったことは、あまり考えません。

わたしにとって、幸せとは「深い快楽」のことです。ただ、それは世界と接したときに、自分の身体に眠っている感覚が呼び起こされたり、組み合わさったりして起こるものです。それが生じるには、相応の時間がかかります。問題は、その深い快楽が生じるための時間や、注意力や集中力を、現代の社会がズタズタにしていることです。これは理性で抗える範囲を超えてきている。ある意味では社会設計が、かなり積極的に幸せを奪うようにできている。

であれば、快楽を先に知った人間ができることは、いまの社会状況に抗ってそうした快楽が起こりやすい状況を整えていくことでしょう。ただ、「ここに深い快楽があるよ」と指し示したって、短期的な快楽に夢中な人は容易に動きませんから、すべきことは、どちらかといえば“罠を仕掛ける”ことに近いかもしれません。

娯楽映画だと思って映画館に足を運んだら、まったくそれまでとは異なる映画を体験してしまった──。それが映画ファンとしての自分に起きてきたことなんですが、そんなことが起きてしまう状況を、わたしもできるだけ仕掛けていければと思っています。

濱口竜介|RYUSUKE HAMAGUCHI

濱口竜介|RYUSUKE HAMAGUCHI
映画監督。1978年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒業後、東京藝術大学大学院映像研究科修了。2021年、『偶然と想像』でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、『ドライブ・マイ・カー』でカンヌ国際映画祭脚本賞を受賞。22年、同作でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞。23年、『悪は存在しない』でヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞。26年、『急に具合が悪くなる』の主演ふたりがカンヌ国際映画祭最優秀女優賞を共同受賞。著書に『他なる映画と』(インスクリプト、2024年)など。


Photograph: Ren Gomi

(Edited by Daisuke Takimoto)


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