2026年8月15日土曜日

アブサロム、アブサロム! - Wikipedia

アブサロム、アブサロム! - Wikipedia

アブサロム、アブサロム!

あらすじ

トマス・サトペンが、ミシシッピ州ジェファスンに到着する。サトペンは、何人かの奴隷といくらか強制的に働かされているフランス人大工を連れてきている。サトペンは、地元のインディアンから100平方マイルの土地を取得し、即座に「サトペン・ハンドレッド」と呼ぶ大規模なプランテーション建設に取りかかる。これには、人目を引く邸宅も含まれている。サトペンの計画を完成させるために必要なのは、何人かの子供(特に後継者としての息子)を産んでくれる妻であり、そのために地元商人コールドフィールドに取り入って、その娘エレン・コールドフィールドと結婚する。エレンは、トマスとの間にヘンリーと名付けた息子とジュディスと名付けた娘の2人を産むが、その2人共が悲劇を生むように運命付けられている。

長じたヘンリーは、ミシシッピ大学に入学し、10歳年上のチャールズ・ボンという学友と知り合う。ヘンリーは、クリスマス休暇にチャールズを連れて家に帰る。それがきっかけとなり、チャールズとジュディスは静かな交際を始め、婚約を想定するようになる。しかし、トマスは、チャールズが以前の結婚で生まれた自分の息子であることを悟り、婚約を阻止するように動く。

トマスが若いとき、監督者としてハイチのプランテーションで働き、奴隷の反乱を服従させた後で、プランテーション所有者の娘であるユラリア・ボンとの結婚を提案され、その間に生まれたのがチャールズ・ボンだったのである。トマスは、ユラリアと結婚しチャールズが生まれるまで、彼女が混血であることを知らなかった。欺されたと考えたトマスは、その結婚を無効とし、妻と息子を残して立ち去ったが、道義的責任として、自分の資産の一部を彼女たちに渡した。トマスは、子供時代に社会が人間の価値と物質の価値に基づいていることを悟っており、一大王国を築こうとしたトマスの計画を動機付けたのがこのエピソードになっている。

ヘンリーは、自分の妹に対して近親相姦に近い感情を抱き、またチャールズに対しても恋愛感情に近いものを持っている。そのため、ヘンリーは、妹とボンが結婚することに熱心であり、両者に対して介添人となる自身を想像している。トマスは、ヘンリーに対して、チャールズはヘンリーたちの異腹の兄であるため、ジュディスはチャールズと結婚できないことを伝える。ヘンリーは初めそれが信じられず、父の資産に対する相続権を放棄して、チャールズと共に家を出てチャールズの故郷ニューオーリンズに向かう。その後、二人はミシシッピ大学に戻って学生中隊に応募し、南北戦争を始めた南軍に加わる。戦中にヘンリーは、その自意識と戦い、異腹の兄と妹の結婚を許すという結論を出す。しかし、トマスがチャールズには黒人の血が混じっていると告げると、その決心は変わってしまう。南北戦争が終わったとき、ヘンリーは、チャールズとジュディスの結婚を禁じる父の意向を体現して、自邸の門前でチャールズを殺害した後、出奔し行方が分からなくなる。

トマスも、戦争から戻り、家の修繕を始める。しかし、そのサトペン・ハンドレッドは北部から来たカーペットバッガーや北部の制裁処置によって減らされている。トマスは、死んだ妻の妹であるローザ・コールドフィールドに結婚を申し込み、ローザもそれを受け入れる。しかし、トマスが結婚式を行う前にローザに息子を産んでくれるよう要求すると、ローザは侮辱されたと思い、プランテーションを出て自宅に帰ってしまう。その後、荘園内の無断居住者ウォッシュ・ジョーンズの15歳になる孫娘ミリーとの情事を始める。ミリーは妊娠し、娘を産むことになる。トマスは、その王国を修復する最後の望みが、ミリーに息子を産んでもらうことだっただけに大いに落胆する。そして、トマスは、ミリーの出産と同じ日に飼っていた雌馬が雄馬を産んだことになぞらえて、赤ん坊を横に置いたミリーに、厩戸で眠る価値もないという発言をする。これに怒ったウォッシュは、トマスを殺害し、続いて孫娘と生まれたばかりの曾孫も殺してしまう。また、ジョーンズ自身も、彼を逮捕するためにやって来た民警団によって殺される。

トマス・サトペンの物語は、クウェンティンがローザを連れて廃屋になっているサトペンの邸宅に戻り、そこでヘンリーとクライティを発見するところで終わる。クライティは、トマスが奴隷の女性に産ませた娘であり、長年サトペン家を支えてきていた。また、ヘンリーは、その荘園で死ぬために戻って来ていた。それから3か月後、ローザがヘンリーに医療を施すために荘園に戻ったときに、クライティがプランテーションの最後の名残である邸宅に火を付けてヘンリーと心中する。その結果、サトペン家で唯一生き残った者は、ジム・ボンドと呼ばれる重い知的障害のある若者ただ一人となってしまう。ジムは、チャールズの息子が黒人女性との間に産ませた子供で、トマスにとっては曾孫にあたる者だった。

サトペン家

  • トマス・サトペン(1807年 - 1869年) - 本作の主人公。バージニア州西部の山村で貧乏白人の子供として生まれる。10代で家出して、20歳の時にハイチでユーレリア・ボンと結婚する。1833年にヨクナパトーファ郡にサトペン荘園を造る。1838年、エレン・コールドフィールドと再婚する。南北戦争では大佐・連隊長を務めていた。1869年、サトペン荘園で殺される。
  • エレン・コールドフィールド・サトペン(1818年 - 1862年) - トマスの妻、ローザの姉、グッドヒュー・コールドフィールドの娘。チャールズ・ボンを見てジューディスと結婚させる気になり、郡内にも言いふらす。しかし、それが実現しないことがわかり、自身もその2年後の1862年に死去する。
  • ヘンリー・サトペン(1839年 - 1910年) - トマスの長男。ミシシッピ大学に入学し、そこでチャールズ・ボンと知り合う。チャールズを妹のジューディスと結婚させようとするが、チャールズが異腹の兄であることを知り、南北戦争が終わった1865年に、チャールズを殺害する。1910年にサトペン荘園に戻って死去する。
  • ジュディス・サトペン(1841年 - 1884年) - トマスの長女。チャールズ・ボンと婚約するはずだったが、兄が出奔してからチャールズに会えなくなり、1865年に兄の殺害したチャールズの遺体に再会する。1884年にサトペン荘園で死去する。
  • ユーレリア・ボン(?-?) - トマスの最初の妻、フランス系ハイチ人砂糖プランテーション所有者の一人娘。スペイン出身という触れ込みだったが、実際には4分の1だけ黒人の血が混じっていた。トマス・サトペンとの間にチャールズ・ボンを出産する。
  • チャールズ・ボン(1829年 - 1865年) - トマスとユーレリアの間の息子。ミッシッピ大学でヘンリー・サトペンと知り合い、ジューディスと婚約寸前までいく。南軍では学徒隊の士官になる。1865年に、サトペン荘園で、ヘンリー・サトペンに殺害される。
  • チャールズ・エティエンヌ・ド・サン=ヴァレリー・ボン(1859年 - 1884年) - チャールズ・ボンと混血の女の間に生まれた息子。放蕩生活を送り、黒人女性と結婚する。1884年、サトペン荘園で病没する。
  • ジム・ボンド(1882年 - ?) - チャールズ・エティエンヌ・ド・サン=ヴァレリー・ボンが黒人女性に産ませた男。知能障害者。
  • クライティ(クライテムネストラ)・サトペン(1834年 - 1910年) - トマス・サトペンが奴隷の女性に産ませた娘(クライテムネストラは、ギリシャ神話の王妃の名であり、神話では夫アガメムノン王を殺した後、息子オレステスに殺される)。1910年に、サトペン荘園に火を放って、ヘンリーと共に死去する。

フォークナー 「アブサロム、アブサロム!」|ヤマダヒフミ

フォークナー 「アブサロム、アブサロム!」|ヤマダヒフミ

フォークナー 「アブサロム、アブサロム!」

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Photo by taishibrian

 はじめに

 フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」を読みました。感想を書こうと思います。

 まず、作品全体を通読して感じたのは『オーソドックスな文学だな』という事です。話そのものは、トマス・サトペンという自らの野心に取り憑かれた人間が破滅していく物語で、主体の欲望に勝てなかった人間が社会的に破滅していくというのは、私の知っている範囲内で、『オーソドックスな文学作品』だと思います。

 なので、全体を通読して、(良かったな)と素直に思いました。作品そのものも良かったし、自分の観点が間違っていなかった証明になっているとも感じ、その点でも(良かった)と思いました。

 もっとも、この作品には明白な欠点があると思われますので、欠点の方を先に片付けてから、作品の本質について考えていきたいと思います。欠点は二つあります。

 欠点一 語りの複雑さ 

 一つは、語りが複雑すぎる事です。また、語りが間接的過ぎて、トマス・サトペンという主人物の姿が作品終盤になるまで見えてこない事です。

 通常、小説におけるキャラクターがその印象を読者に与えるのには二つの方法があります。一つはキャラクターの行為を描く事、もう一つはキャラクターが「」で喋る事です。

 この場合、特に二つ目の「」で喋る事が重要と思われます。あるキャラクターが「」で話す事は、そのキャラクターの印象をほとんど決定づけると言っていいでしょう。シェイクスピアの作品におけるキャラクターのセリフの重要性は言うまでもないと思います。シェイクスピアにおいては、キャラクターの行為は、キャラクターのセリフを裏付けるものであるように私は感じます。それほどに、言葉で自分を表現するというのは、読者に強い印象を与えます。

 この場合、()で内心を打ち明けるのも、私は「」で話すのと同じ事と捉えます。()で内心を打ち明けるとか、「」で会話するというのは、そのキャラクターの本質を読者に伝える重要な要素です。キャラクターの行為を描く事ももちろん重要ですが、それ以上に「」のセリフは、読者に、キャラクターに対する直接的な印象を与えます。

 ですが、「アブサロム、アブサロム!」では語りの技巧が複雑化しており、あまりに間接的になっているので、トマス・サトペンのセリフは作品終盤までほとんど見られません。その為に、読者は、トマス・サトペンというキャラクターに対する印象が遠回りすぎて、いまいちこの人物が把握しきれません。トマス・サトペンがわからないという事は、この作品全体がわからないという事とイコールと言っていいでしょう。トマス・サトペンはそれほど重要な人物です。

 作品の筋としては、トマス・サトペンの息子ヘンリーが腹違いの兄弟チャールズ・ボンを殺害するという事が重要となっています。解説すると、トマス・サトペンは、若い頃に、プランテーションの所有者の娘と結婚し、娘はチャールズ・ボンを産みます。しかし、娘が黒人との混血だと後から知らされ、サトペンは裏切られたと感じ、娘と離縁します。

 その後、サトペンはエレンという娘と結婚して、二人の子供が産まれます。一人がヘンリーでもう一人がジュディスです。ヘンリーは男で、ジュディスは女です。ヘンリーは長じて、運命の偶然か、大学でチャールズ・ボンと仲良くなります。

 ヘンリーは、妹のジュディスに近親相姦的な愛情を抱いています。また、親友のチャールズ・ボンに対しても親友として強い情愛を抱いています。ヘンリーはその感情を間接的に成就させる為に、チャールズ・ボンとジュディスを結婚させようとします。

 ですが、二人が結婚すると、チャールズとジュディスは腹違いの兄妹なので、近親相姦となってしまいます。サトペンは近親相姦を防ぐ為、また、黒人の血を持った子孫を回避する為に、チャールズに黒人の血が混じっている事実をヘンリーに伝えます。ヘンリーは、チャールズに黒人の血が混じっている事、ジュディスの腹違いの兄である事に耐えられず、チャールズを殺してしまいます。

 このエピソードは作品の中でも、特に重要な出来事として取り上げられています。このあらすじを見てもわかるように、ヘンリー、チャールズ、ジュディスという人物は全て、トマス・サトペンという人物が産んだ子供であり、また精神的にトマス・サトペンに支配されている人物です。チャールズ・ボンはサトペンを憎んでいますが、憎しみという形もまた、対象との一種の関係のあり方です。全ての発端はトマス・サトペンにあり、チャールズ、ヘンリー、ジュディスの三角関係はあくまでもトマス・サトペンの破滅を客体化する為に表された関係だと言えます。

 ですので、あくまでもこの作品ではトマス・サトペンというキャラクターが大切です。ヘンリーはトマス・サトペンの傀儡であり、チャールズ・ボンはトマス・サトペンに対する憎しみによって行動しており、トマス・サトペンに固執しています。ジュディスは無気力で、ほとんど印象がないのですが、彼女はヘンリーの言いなりで、自分以外の強い他者に隷属するタイプの女性なのでしょう。これらの関係の中心にはトマス・サトペンがいます。

 だからトマス・サトペンという主人物が読者に伝わるかどうかがこの作品の成否を決めると言ってもいいのですが、語りが間接的すぎて、複雑すぎて、わかりにくくなっています。私はこの語りは欠点だと捉えています。おそらく、フォークナー研究者や愛読者は『それこそがフォークナーの良いところだ』と言うと思いますが、私はそう感じませんでした。

 描こうとしている事そのものはオーソドックスな文学作品なので、語りの構造を、例えば三人称にするとか、あるいは事件を知っている一人の人物が聞き手に事件の全貌を語る、というようにすればもっとわかりやすくなったと思います。また、わかりやすくなるだけでなく、トマス・サトペンの人物像を直接的に表す事になり、作品が伝えようとしているイメージはより鮮明になったと思います。これが、私が感じた欠点の第一です。

 欠点二 比喩

 欠点の第二は、比喩が大袈裟すぎる事です。トマス・サトペンの事は作中でしばしば「悪魔」と呼ばれるのですが、読んでいて、悪魔というほどの悪漢に私は感じませんでした。

 また、その他にも聖書の言葉などを用いて、「悪魔」に類するような大袈裟な形容がよく使われるのですが、どう読んでもそこまでの巨大な話、巨大なキャラクターには私には見えませんでした。

 これは、第一の欠点とも関連した事柄で、語りが間接的過ぎて、キャラクター像がはっきりしないままに、大きな比喩が使われるので、比喩だけが大きく突出して、キャラクターを置き去りにしているように見えました。

 例えば、ドストエフスキー「悪霊」という作品の悪漢スタヴローギンというキャラクターは実によく描けています。スタヴローギンは、悪魔という形容が適切だと言ってもいいほどですが、別にそういう比喩を使わなくても、スタヴローギンの怪物性は十分伝わってきます。

 スタヴローギンとトマス・サトペンを比べると、トマス・サトペンはより卑小なキャラクターです。田舎の、野心に取り憑かれた人物という感じで、都市で自己意識の豊富さに呻吟するスタヴローギンとはだいぶ違います。どちらがより「悪魔的」かと言われると、私は迷う事なくスタヴローギンを取ります。スタヴローギンは巨大な悪ですが、同時に善悪を越えようとする存在でもあります。

 スタヴローギンの怪物性は、彼にまつわる様々なエピソードで十分に描けています。それと比べた時、トマス・サトペンの悪行は悪魔というには卑小なエピソードの集積に留まっています。このあたりも、キャラクターの実像とフォークナーとの語りの乖離があって、それが作品の欠点となっています。この大袈裟すぎる比喩が私の思う第二の欠点です。

 悲劇の発端 

 欠点についてはこれで片付いたので、ここからは作品の本質について私なりに考えていこうと思います。

 その前に、トマス・サトペンにまつわるもう一つのエピソードについて説明しておいた方がいいでしょう。それはサトペン自身が死ぬエピソードです。サトペンの破滅を表すのは、このエピソードと、上記のヘンリーのチャールズ殺害事件の二つ、この二つが特に大きいと思います。

 サトペンが初老の年齢に差し掛かった頃の話です。上記の殺人事件の為に、息子の一人は殺され、もう一人は殺人犯になってしまいました。サトペンは、巨大な邸宅を持ち、自分の王国を作るのが夢でした。この夢が生まれたのはある事柄が原因ですが、それは後で説明します。この王国は、サトペンの息子が継がなければならない。サトペンはそう考えていました。ですが、今言ったように息子二人はもう跡取りとして期待できません。

 そこでサトペンは自らの土地に住んでいたウォッシュ・ジョーンズの孫娘に目を付けます。娘はまだ15才ですが、彼女を誘惑したのか、言いくるめたのか、そのあたりはよくわかりませんが、彼女と関係を持ち、無理矢理に子供を生ませます。しかし生まれたのは娘だったので、サトペンは娘に侮辱的な言葉を浴びせかけます。

 孫娘と関係し、子供を生ませ、更には侮辱したサトペンに、祖父のウォッシュ・ジョーンズは怒り狂い、サトペンを殺害します。ジョーンズはその後に孫娘も殺してしまいます。二人を殺したジョーンズは、民警団に殺されます。これで、サトペンの夢は破れます。これがサトペンの破滅の重要なエピソードの第二です。

 このエピソードで強調しておきたいのは、サトペンを殺したウォッシュ・ジョーンズという人物も元々は、サトペンの言いなりだったという事です。ジョーンズがそういう独白をする場面があります。「わしはあんたの命令に背いた事がなかった」とかなんとか、そんな感じです。

 これらのエピソードを概観してわかるのは、サトペンの破滅は全て、サトペンに精神的に支配されていた人間が引き起こしたという事です。ヘンリーやチャールズ・ボン、ウォッシュ・ジョーンズ、ジュディス、ジョーンズの孫娘。これらのキャラクターの背後にあるのはサトペンその人であり、またそのようなサトペンを突き動かしていたのはサトペンの王国設立の夢です。この複雑な作品の中心に台風の目のように位置するのはトマス・サトペンであり、またサトペンの野心です。それらが渦を巻いて全体を構成しており、それはやがてサトペン自身を破滅に導きます。

 こうした事態は人間にとって普遍的な事とも言えます。わかりやすく言えば、人間が人工知能を生み出し、その人工知能によって人間が滅ぼされるというような事です。私が思い起こすのは西郷隆盛で、西郷隆盛は自らの精神的な末子と言っていい、弟子達に引きずられるように破滅していきました。自分の思想を完全にコピーした他の人間がいたとしても、それが「他者」である事によって、本人には思い寄らないドラマが引き起こされます。こうした事は過去、人間に普通に起こってきた事だと思います。

 さて、それではその台風の中心になっているトマス・サトペンとはどういう人物だったのでしょうか。いや、トマス・サトペンというより、トマス・サトペンという個人を動かしていた彼の野心、夢というのはそもそもどういうものだったのでしょうか。ここに私はこの作品を読み解く鍵があるように思います。

 サトペンが野心を持つようになったエピソードは作品の後半部に描かれています。サトペンがまだ子供の頃、用事を言いつけられて、ある金持ちの家に行きます。すると、用事を話す前に黒人の召使いが現れて、侮蔑的な言葉を投げつけられます。サトペンはショックを受けてすごすごと引き返し、その事について、繰り返し反芻して考えます。彼は、のっけから自分を汚いものでもあるかのように取り扱った召使いの態度にショックを受けたのです。サトペンの生涯に火をつけたエピソードとは、たったこれだけのものです。

 このエピソードには何があるのでしょうか。私は、それは、この時にこの少年がこの世界の真実を知った、という事だと思います。真実というのは、現実というのは理想的な、滑らかなものではなく、不合理で、でこぼことしていて、そして何よりも「力」が支配しているという事です。

 サトペンは、このエピソードに出会う前は「無垢」だったと作者は繰り返し注意しています。サトペンは用事を話す前から、黒人の召使いに見下され、人間扱いされませんでした。これは今にも通じる問題と言っていいでしょう。例えば、我々の社会においても「社員には挨拶するけど、バイトには挨拶しない」とった人はたしかに存在します。彼にとっては対象の「人間」は問題ではなく、人間が作り出した権威が問題なのです。こうした人は人類が文明化して以来ずっといたでしょうし、これからも居続けるでしょう。

 無垢な少年のサトペンは、黒人の召使いに出会うまでは、少なくとも自分は一人の人間であり、たとえどのような地位であろうと、立場であろうと、一人の人間として扱われると無意識的に期待していました。もちろん、彼には「どのような地位であろうと」というような社会的観念があったわけではないですが、少なくとも、彼は一人の人間として、他の人間と普通に関われると期待していたのです。

 それが、そういう甘い観念が通用しない世界があると彼は知ったのです。黒人の召使いにそのような態度を取らせたのはその主人の地位であり、更にその主人の存在を許しているこの世界そのものーーそれが一つの巨大な現実としてサトペンの眼に降り掛かってきたのでしょう。

 ここからサトペンの野心が始まりました。彼の黒人嫌悪もそこに端を発しているのでしょう。彼は、いわば怪物に打ち勝とうとして自身が怪物になってしまった人間に例えられます。彼は、彼を押し潰した現実に打ち勝とうとして、自らもその現実になってしまい、そうしてその自重によって自身も滅びてしまいました。彼は、彼を軽蔑した金持ちよりももっと大きな自分だけの世界を作ろうとし、その世界を維持する為に強引に子供を作り、その強引さ故に殺される事になりました。

 だから、サトペンの野心の発端は、アメリカの南部に限定されるものではないと私は思います。そうではなく、現代の我々にも通底するテーマではないかと思います。それはこの世界が、現実には力で支配されており、力がものを言う世界だという事です。そしてその事に徹底的に気づく瞬間というのがある種の個人にはあるのだと思います。例えば、学者の丸山真男は、左翼学生と見られて警察の取り調べを受けた時、随分ひどい扱いを受けたそうですが(殴られたりしたのでしょう)、取り調べを受けて外に出た時、警察の建物の裏でバナナの叩き売りをしているのに衝撃を受けたそうです。

 さっきまでは理不尽な血と暴力が支配していたにも関わらず、そこから一歩外に出ると、平和で日常的な「バナナの叩き売り」が展開されている。この光景のコントラストに丸山は衝撃を受けたそうです。丸山真男はその時、彼なりに世界の相貌を発見したのでしょう。彼は、この世界がそんな風に異なった風景を平気で同居させるような、矛盾に満ちたものだと知ったのでしょう。

 こうした精神的な衝撃が、丸山を単なる東大の優等生学者という立場から抜け出させ、一個の思想家に作り上げていったと私は思います。そうした経験を通じて人は何かに気づくのだと思います。 

 オーソドックスな文学作品

 トマス・サトペンの物語はそのようなものです。彼の精神的動機は、黒人の召使いに軽蔑的に扱われたという少年時のたった一つのエピソードでした。そんなエピソードは何でもないと人は言うかもしれませんが、人は、大抵他人にはくだらないと思われるような事柄に固執して生きるものです。また文学はそういうものを描くのだと思います。

 そうして発生したサトペンの野心は、彼自身を引きずって運動していきます。「人が理想を掴むのではない。理想が人を掴むのだ」という言葉がありますが、野心とか夢とかいったものも、それが成長していくと、それ自体がその本人を操り、動かしていくものとなります。私は、ナポレオンのような人は、彼自身が彼の夢の一兵卒だったと考えています。ナポレオンが理想を掴んだのではなく、理想がナポレオンを掴んだのです。

 ナポレオンは自らの理想の為の第一の奴隷となって働きました。彼は他人から見れば恐ろしいエゴイストに見えたでしょうが、本人からすると無私の人だったのでしょう。ナポレオンの野心は、ナポレオンその人を道具として酷使し、最後にナポレオンを殺すところまで行きました。ナポレオンが悲劇的な人生を生きたように見えるのは、彼が恣意ではないものに自らを委ねた為なのではないでしょうか。

 サトペンはナポレオンほどに巨大な人間ではないですが、自らの野心に取り憑かれたという意味ではよく似ています。もちろん、彼らの野心は結局は彼らが生み出したものなので、同情できるとはいえ「自己責任」なのは間違いないですが、もう少し考えると、これらの悲劇的な人生はそもそも「自己とは何か」という問いを孕んでいると思います。

 私はこの文章の最初で、「「アブサロム、アブサロム!」は文学としてオーソドックス」だという事を言いました。この作品がオーソドックスだと言ったのは、こうした人間の悲劇を的確に描いているからです。人間が自らの夢に捉えられ、それ故に破滅するという普遍的な悲劇を取り扱っているからです。

 「オイディプス王」のような作品においては、人間の運命を規定するのは神の託宣ですが、近代においては人間の意志=欲望が人間を決定していきます。人間という相対的な存在に対して、人間が勝てっこない神とか、自然、歴史とかいったものが人間の運命を規定する。それが古代の悲劇の主調音でしたが、近代においては人間の力がより自覚されてきた為に、人間が自らの力の強さ故に滅ぶという事がテーマになっています。

 そのテーマを偉大に展開したのがシェイクスピアだと私は思います。ただ、シェイクスピアにおいては人間の意志は、客体的なものとまだ融合して存在しています。「マクベス」において、マクベスは魔女の言葉に従って成功しますが、魔女の言葉に従って破滅します。魔女は、マクベス自身の秘められた欲望を語るものであり、同時にマクベス自身の運命を決定する客体的な存在です。シェイクスピアにおいては、人間の意志は完全に自立したものとして現れてはいません。

 シェイクスピアを越えた作家と言ってもいいドストエフスキーは、人間の意志の問題を更に強く展開しました。「罪と罰」のラスコーリニコフは、自らの肥大した野心に自らが耐えられず、最後には罪を自覚し、自首します。ここでは、人間が自らの意志を絶対視する危険性そのものが物語として展開されています。

 その他にも色々言えるでしょうが、そうした人間の悲劇を取り扱っているのが「文学」だと私は考えています。そういう意味において、「アブサロム、アブサロム!」はオーソドックスな文学作品であると思います。この作品はアメリカ南部の盛衰をトマス・サトペンという一人の人物に託して描いたものでしょうが、同時に、そうした個別的な物語を普遍的な人間の作品に仕上げる事が、作者フォークナーによって目指されています。

 だからこそ、私が大仰な比喩と呼んだ、抽象的な比喩を作品内にふんだんに散りばめたのでしょう。現実的、個別的な事柄を、その奥底にあるものを描く事によって、違う民族、違う時代の人々にも通じる普遍的なものに昇華しようという欲求もまた文学の基本と言えます。そういう意味でも「アブサロム、アブサロム!」はオーソドックスな文学作品であると感じました。

 「アブサロム、アブサロム!」がオーソドックスな文学作品だと感じた、というのは大体そういう意味です。この作品の中心に位置するのはあくまでもトマス・サトペンであり、その野心が紡ぎ出すドラマですが、彼よりも精神の弱い人は、彼の傀儡となりながらも、彼に歯向かっていきます。この世界の複雑性は強いものが弱いものを支配するという一方向に運動するだけではなく、弱いものが弱さ故に強いものを支配する事もあります。西郷隆盛と弟子の関係もそんな風だと思います。

 私にとっては「アブサロム、アブサロム!」はそういう作品でした。語りの複雑性と間接性によって多少薄れているものも、その奥にあるのはオーソドックスかつ本格的な文学作品としての相貌であると感じたので、私にとっては良い読書体験でした。この作品を通じて私はより、文学とは何を描くのか、その事に対するヒントが与えられたように思いました。  

Akira Kurosawa's 'Ran' is the Best King Lear Adaptation

I compagni (Mario Monicelli, 1963): Annie Girardot y Marcelo Mastroianni

イン・ティブロン https://vimeo.com/1218505560/707a11be23

2026年8月14日金曜日

ハンス・フォン・ビューロー - Wikipedia

ハンス・フォン・ビューロー - Wikipedia

ハンス・ギードー・フライヘア・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow [ˈbyːloˑ]1830年1月8日ドレスデン - 1894年2月12日カイロ)は、ドイツ男爵指揮者ピアニスト。現在の職業指揮者の先駆的存在で、ビューローが登場するまで、作曲家と演奏家の分業化は明確でなく、オーケストラの指揮は作曲家自身によることが多かった。

有名なドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンヨハネス・ブラームスを総称して「ドイツ3B」と名付けたことでも知られる[1][2]

略歴

9歳でフリードリヒ・ヴィーククララ・シューマンの父)にピアノを師事。両親が法律を勉強し重要な職業を選び、音楽は趣味にとどめておくことを強く希望したためライプツィヒ大学で法律を学びながら音楽の勉強を続ける。母親であるビューロー夫人あてにリヒャルト・ワーグナーフランツ・リストからの彼の音楽の才能についての手紙がよせられている。ピアノ演奏でリストに賞賛され、その知遇を得る。リストが庇護していたワーグナーにも心酔し、指揮を学ぶ。ワーグナーの楽劇トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を初演。当時、ドイツ・オーストリアの音楽界はワーグナー派、ブラームス派に二分され、両者の確執が激しかったが、ビューローは、当初はワーグナー派の代表的存在であった。

1857年、リストの娘であるコジマと結婚、2子を儲けるが、やがてコジマはワーグナーと恋愛関係に陥り、1866年にコジマはワーグナーと同棲に至る。1869年にビューローはコジマと離婚するが、コジマはその間にもワーグナーとの子を、1865年にイゾルデ、1867年にエーファ、1869年にジークフリートと3人生んでいる。この後、ビューローはワーグナーから離れてブラームスとの親交を深め、その作品を積極的に取り上げるようになる。ただし、ビューローはワーグナーへの信奉から、コジマの不倫を暗黙のうちに了承していたともいわれ、この間の経緯については諸説がある。

1880年マイニンゲン宮廷楽団の指揮者。このころ、リヒャルト・シュトラウスを見出し、助手としている。シュトラウスの手紙によれば、ブラームスの交響曲第4番の初演時には、ブラームスが指揮をし、ビューローが大太鼓、シュトラウスがトライアングルを担当したという。1882年に創立されたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。現在、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団には、ビューローの名を冠した栄誉賞がつくられている。

ビューローは、頸部神経根の腫瘍によって引き起こされる慢性の頭痛に苦しんでいた[3]。1890年ごろより、彼は心身ともに健康状態が悪くなり、回復のために暖かく乾燥した地方で過ごすようになった。1894年2月12日、滞在先のエジプトカイロのホテルで64歳で亡くなった。最後の公演のわずか10か月後だった。

近代的指揮法の創始

ビューロー以前の指揮は、単純に拍子をとって曲を進行させるというものが一般的だった。ワーグナーは、曲を解釈し、それに基づいた表現を重視する指揮法を提唱し、ビューローが受け継いでこれを広めた。

ビューローは、並外れた記憶力を持ち、1850年にジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニオペラセビリアの理髪師』の指揮でデビューしたときには、総譜をすべて覚えて練習に臨んだ。オーケストラの楽員にも暗譜で、しかも立ったまま演奏するように強要し、納得のいく演奏になるまでリハーサルを何度も繰り返したという。リストによると、『ファウスト交響曲』演奏の際にも総譜を完璧に暗譜しており、リハーサルの段階でも総譜を使わず、全て練習番号で正確にオーケストラへ指示を与えていたという。

ビューローの指揮は、録音が残っておらず(ボストン交響楽団を指揮してベートーヴェン交響曲第3番「英雄」を蝋管に録音したという説もある)、どのようなものであったか確認する術はないが、テンポが自在でニュアンス豊かなものだったらしい。批評家のエドゥアルト・ハンスリックは「ビューローは、まるで手の中の小さな鈴を振るかようにオーケストラを振った。ここぞというところで、まるでピアノを弾くようにニュアンスを添えていくのがわかる」と書いている。一方、ブラームスのピアノの弟子であり友人でもあったエリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクは、1881年にブラームスに宛てた手紙に「(ビューローの指揮は)わずかな休止、新しいフレーズの前、和声が変わるところで気取る」と批判的に書いている。

また、ビューローは、聴衆を啓発しなければならないという使命感を持っており、演奏前に聴衆に向かって講義するのが常だった。ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した際には、全曲をもう一度繰り返し、聴衆が途中で逃げ出せないように、会場の扉に鍵を掛けさせたという。この事をブラームスは「ベートーヴェンの第18」と揶揄し、ビューローの指揮を見て指揮者になろうと決意したブルーノ・ワルターも自伝の中で「疑問に思った」と綴っている。

ピアニストとして

ビューローはピアノの名手としても活躍し、リストのピアノソナタロ短調ハンガリー幻想曲ピョートル・チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番などを初演したほか、ブラームスのピアノ協奏曲の演奏でもソリストを務めている(指揮はブラームス本人)。リストのピアノソナタの評価をめぐっては、これを擁護する立場から、のちに同じ陣営となるハンスリックと新聞紙上で論争を繰り広げている。ビューローは多くのピアノ曲を残してもいるが、そのほとんどはリストほどの超絶技巧を用いていない。

なお、ビューローのピアノの仕上げの教育をしたのがリストであり、リストはカール・チェルニーの愛弟子で、チェルニーはベートーヴェンの直弟子であることから、ベートーヴェンの演奏法を受け継いでいると自負していたようである。

作曲した作品

ビューローが作曲家として認識されたことは皆無に等しいが、下記の大規模な作品を含む、いくつかの作品が残されている。

これらの他に、ピアノ曲が数曲ある。また、近年になって録音も発売されている。

ビューローの逸話

ハンス・フォン・ビューロー

ビューローは、作曲家や作品についての数々の逸話に名を残している。有名なものを以下に挙げる。

脚注・参考文献

脚注

  1.  ビューローの以前に、同じくドイツの作曲家であったペーター・コルネリウスが「ドイツ3B」を定めているが、これは「バッハ、ベートーヴェン、ベルリオーズ」のことであり(ベルリオーズはフランス人である)、現在最も浸透している「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス」に置き換えた人物がビューローであった。またリヒャルト・ワーグナーは一度「ドイツ3B」を「バッハ、ベートーヴェン、ブルックナー」(ブルックナーはオーストリア人である)と提案したとされるが定かではない。いずれにせよ現在浸透している「ドイツ3B」とは「バッハ、ベートーヴェン、ブラームス」のことを指す。
  2.  Slonimsky, p. 99
  3.  Wöhrle J, Haas F, "Hans von Bülow: Creativity and Neurological Disease in a Famous Pianist and Conductor", in Bogousslavsky J, Hennerici MG(eds): Neurological Disorders in Famous Artists – Part 2. Front Neurol Neurosci. Basel, Karger, 2007, vol. 22, pp. 193 - 205

参考文献


<オデュッセイア>特別映像「英雄の旅」公開 アン・ハサウェイらがクリストファー・ノーラン監督の手腕を絶賛 | WEBザテレビジョン

<オデュッセイア>特別映像「英雄の旅」公開 アン・ハサウェイらがクリストファー・ノーラン監督の手腕を絶賛 | WEBザテレビジョン

<オデュッセイア>特別映像「英雄の旅」公開 アン・ハサウェイらがクリストファー・ノーラン監督の手腕を絶賛

「オデュッセイア」
「オデュッセイア」photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

「ダークナイト」三部作や「オッペンハイマー」などで知られるクリストファー・ノーラン監督の最新作「オデュッセイア」(原題:The Odyssey)が9月11日(金)に日本公開される。この度、キャスト陣やノーラン監督のインタビューやメイキング、本編の見どころを集めた特別映像「英雄の旅」が公開された。

メイキング&インタビューを収録

同作は、全米映画ランキングで初登場1位を獲得し、2026年実写映画のスタートNo.1を樹立。さらに、8月9日には全世界興収が11億480万ドル(約1860億円)を記録し、同監督の作品『ダークナイト ライジング』を上回り、自身の作品中、史上1位となった(Box Office Mojo調べ)。

トロイア戦争の終結後、イタケの王・オデュッセウス(マット・デイモン)は、家族の待つ故郷へ帰還を目指す。しかし彼の前には、神々の介入、怪物、そして荒れ狂う海など容赦ない試練が立ちはだかる。主人公を演じたマット・デイモンは、「インターステラー」「オッペンハイマー」に続きノーラン組への参加だが、ノーラン監督から連絡を受けた際はタイトルを聞く前にオファーを即決したという。この度、解禁された特別映像「英雄の旅」では「これほど大規模の作品は僕自身も初めてだと思う。野望は間違いなく最大だ」と語り、作品の規格外なスケールを明かしている。

「英雄の旅」では、荒波が打ち寄せる海岸で巨大な「トロイの木馬」を曳(ひ)く人々の姿など、リアリティ溢れる映像が次々と映し出される。ノーラン監督は、「『オデュッセイア』は壮大な物語だ。物語も1つだけじゃない。帰還の話ではあるが多岐のジャンルにわたっていて、誰もが共感できるストーリーに仕上がっている。映画化において楽しみだったのは、壮大かつ常識を超えたアイデアの数々をいかに現実的に見せるかだった」と、古典を現代の超大作として蘇らせた手ごたえを語っている。

「オデュッセイア」
「オデュッセイア」(C) Universal Studios. All Rights Reserved.

アン・ハサウェイ「人類が生み出した傑作の1つだと思う」 キャスト陣が映画やノーラン監督の手腕を絶賛

また、オデュッセウスの帰還を信じ待ち続ける妻・ペネロペ役のアン・ハサウェイは、本作について「人類が生み出した傑作の1つだと思う」と力強くコメント。オデュッセウスの忠実な部下・エウマイオスを演じたジョン・レグイザモも、「『オデュッセイア』はすべての物語の原点だ。英雄譚はここから生まれた。家族のために苦難を乗り越えていく姿は、観ている人の心の奥底に響くはずだ」と映画やノーラン監督の手腕を絶賛している。

同作の重要キャラクターの一人である女神アテナを演じたゼンデイヤは、「想像を超える規模感だけど、深く生々しい感情も描いている。没入しつつも自分を投影できる」と、作品の圧倒的な臨場感と人間ドラマの奥深さについてコメント。

さらに、マット・デイモンは「今回の脚本は『オッペンハイマー』と共通する部分があります。あの作品も内容が非常に濃密な大著を原作としながら、ノーラン監督がその筋書きやテーマ、豊かさなどを損なうことなくエッセンスを抽出しているからです。ノーラン監督は原作の物語を一切の無駄なく芸術的に再構築しているだけでなく、特定のテーマを強調することで本作ならではのアイデンティティとメッセージを確立している。それでいてホメロス版『オデュッセイア』の姿はしっかりと保っているのです」とノーラン監督による脚本のクオリティの高さ、そして作品が持つテーマの身近さについても明かしている。

「オデュッセイア」
「オデュッセイア」photo by Melinda Sue Gordon (C) Universal Studios. All Rights Reserved.

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