シネマンションの皆様、いつも楽しい配信ありがとうございます。
オデュッセイアには賛否両論
自分は7割肯定。
cinemanshon.radiomail@gmail.com
シネマンションの皆様、いつも楽しい配信ありがとうございます。
一映画ファンの関本と申します。
以下オデュッセイア感想です。
戦争におけるPTSDを描くのは今日とても意義深い思います。
だが本作は必要以上に暗くなりすぎたし、ラストの立ち回りもそこへいきつくまでのPTSDの扱いからしたらスッキリしないし、爽快感もありません。
海の民という青銅器時代を終わらせた謎の勢力について歴史的知識がないとラストは何のことかわからないでしょう。
ゼウスの法以上に海の民についての歴史学的な前知識が必要でした。
スペクタクルや画質へのこだわりも肝心な描写がクローズアップに頼った心理主義なのでIMAXはそこまで重要ではないと考えます。
と、ここまでマイナス面を述べましたが神話の現代性をここまで話題性のあるエンタメとして展開したのは見事です。役者も皆いい。エンタメと作家性の維持との両立は称賛に値します。
『急に具合が悪くなる』が100点満点で99点だとすると、本作は200点満点で100点。
欠点はあるが色々な楽しみ方が出来ます。
自分はロケ地に興味があリます。
さらにアイスキュロスのアガメムノン(妻の裏切りはここから)、ヴェルギリウスのアエネーイス(シノンはここから)といったホメロス以外の要素を精査したい。
シネマンションの人にはカーク・ダグラス主演の1954年版『ユリシーズ』をアマプラで観てくらべて欲しい。本作では割愛されたナウシカが必要以上にメルヘンチックに描写されています。正直本作を観てカーク・ダグラスの株が上がりました。
戦争におけるPTSDを描くのは今日とても意義深い。
だが本作は必要以上に暗くなりすぎたし、ラストの立ち回りもそこへいきつくまでのPTSDの扱いからしたらスッキリしない。爽快感がない。
海の民という青銅器時代を終わらせた謎の勢力について歴史的知識がないとラストは何のことかわからないだろう。
ゼウスの法以上に海の民についての前知識が必要だった。
スペクタクルや画質へのこだわりも肝心な描写がクローズアップに頼った心理主義なのでIMAXはそこまで重要ではない。
ここまでマイナス面を述べたが神話の現代性をここまで話題性のあるエンタメとして展開したのは見事。役者もいい。作家性の維持と両立は称賛したい。
『急に具合が悪くなる』が、100点満点で99点だとすると、本作は200点満点で100点。
欠点はあるが色々な楽しみ方が出来る。
自分はロケ地に興味がある。
さらにアイスキュロスのアガメムノン(妻の裏切りはここから)、ヴェルギリウスのアエネーイス(シノンはここから)といったホメロス以外の要素を精査したい。
シネマンションの人にはカーク・ダグラス主演の1954年版ユリシーズをアマプラで観てくらべて欲しい。正直本作を観てカーク・ダグラスの株が上がった。
『オデュッセイア』を観た――最先端の伝承としての「映画」|KAGASE NOTE
https://note.com/kagaseknowte/n/n448aad7ce506
「これは『ダンケルク』だ」
「今のショットは『バットマン ビギンズ』だ」
「『プレステージ』じゃないか」
「『インセプション』だ」
「『インターステラー』のあれだ」
「『TENET』そっくりだ」
「『ダークナイト』と『ライジング』の合わせ技じゃないか」
「『インソムニア』まで繋がってくるのか」
と、こちらの映画記憶が勝手に呼び起こされていく。
…
ノーランはずっと「時間」を撮ってきた。
『メメント』では記憶によって時間が壊れた。
『インソムニア』では眠れない男の時間感覚が壊れた。
『プレステージ』では現在と過去が互いを騙し合った。
『インセプション』では夢の階層によって時間が伸縮した。
『インターステラー』では相対論によって時間そのものが人間の距離になった。
『ダンケルク』では時間そのものを三つの異なる尺度に分解した。
『TENET』では時間の方向を反転させた。
『オッペンハイマー』では一人の人間の記憶と歴史そのものを混線させた。
そして『オデュッセイア』では、その時間論が「伝承」という概念に接続する。
本作における「斧と弓」のシークエンスはもっとも重要だ。その場面のために3時間があるといっても良い。
にもかかわらず回想シーンにおけるオデュッセウスが斧の間に矢を射通す場面は、ただ引きで一連のアクションを撮っただけで、
矢が果たして斧の間を通ったのかがわかりにくい。
https://www.instagram.com/p/Dc1lgLEDJzF/?img_index=6&stkn=ZDZ1YnZqbmFidG5t
「これは『ダンケルク』だ」
「今のショットは『バットマン ビギンズ』だ」
「『プレステージ』じゃないか」
「『インセプション』だ」
「『インターステラー』のあれだ」
「『TENET』そっくりだ」
「『ダークナイト』と『ライジング』の合わせ技じゃないか」
「『インソムニア』まで繋がってくるのか」
と、こちらの映画記憶が勝手に呼び起こされていく。
https://note.com/kagaseknowte/n/n448aad7ce506『オデュッセイア』を観た――最先端の伝承としての「映画」

※具体的なネタバレはしてませんが中核には触れております。
『オデュッセイア』を観終えた直後、まず思ったのは「とんでもなかった」という、あまりにも批評性のない言葉だった。
今年ベスト、というだけでは足りない。2020年代を振り返ったときに、その10年間のベスト10に入っていても何ら不思議ではない。少なくとも自分にとっては、そういう特別枠に置かざるを得ない映画だった。
そして、観終わってしばらく経った今、ようやく少しだけ言葉にできるようになった。
これは「集大成」ではない。まるで完結編なのだ。
クリストファー・ノーランが1998年の『フォロウィング』から積み重ねてきた映画監督としての歩み、そのすべてが一本の映画に収束している。そんな錯覚すら覚える。
もちろん、各作品を知らなければ理解できない映画ではない。過去作の答え合わせをしながら観る必要もない。それでも、『オデュッセイア』を観ていると、
「これは『ダンケルク』だ」
「今のショットは『バットマン ビギンズ』だ」
「『プレステージ』じゃないか」
「『インセプション』だ」
「『インターステラー』のあれだ」
「『TENET』そっくりだ」
「『ダークナイト』と『ライジング』の合わせ技じゃないか」
「『インソムニア』まで繋がってくるのか」
と、こちらの映画記憶が勝手に呼び起こされていく。
これはオマージュの答え合わせとは少し違う。
ノーランが過去作を引用しているというより、ノーランの映画を観てきた時間そのものが、この映画の中で一つの記憶として立ち上がってくる。
だから「エンドゲーム」という言葉がしっくりくる。
ただし、ここでいうエンドゲームとは、単に過去キャラクターや設定が集合するという意味ではない。ノーラン自身がこれまで映画から受け取ってきたものを、一本の映画の中で総動員し、自分自身もまた映画史の一部になろうとしている。その覚悟が、画面の隅々から伝わってくるのだ。
『オデュッセイア』には、明らかに「映画を背負って立つ」という気概がある。
「こういう映画もあっていいよね」ではない。
「映画って、こういうものだろう」そこまで踏み込んでしまっている。
しかも、それを低予算の実験映画ではなく、世界規模の超大作としてやってしまう。
普通、大予算映画には様々な制約が生まれる。投資額が大きくなればなるほど、より多くの観客に届くことが求められ、「万人に分かりやすい映画」へと収斂していくのが自然だ。
ノーランもまた、そうしたハリウッドの大作映画そのものに憧れを持っているのだと思う。
しかし、自分が大作を撮るならば、自分のやり方でやる。
その結果として生まれたのが、「そんな映画、誰も作らないだろ」という代物なのに、なぜか世界規模の興行映画として成立してしまう。
そこにノーランという映画作家の異様な唯一無二性がある。
しかも『インターステラー』(2014)、『ダンケルク』(2017)、『TENET』(2020)、『オッペンハイマー』(2023)、そして『オデュッセイア』(2026)と、ほぼ三年周期で作品を作り続けている。
企画、脚本、準備、撮影、ポストプロダクション、宣伝まで含めれば、超大作をこのペースで作り続けること自体が尋常ではない。
『オデュッセイア』は、その28年間の映画監督人生が、一度すべて振り返られた上で、次の地点へ踏み出した映画に見える。
だから「完結編」なのだ。
「在る」のに、「今」がない
この映画を観ていて最も強く感じたのは、ノーランが長年こだわってきた二つの方法論が、今回初めて完全に同じ方向を向いたことだった。
一つは、IMAXフィルムによる撮影。
もう一つは、時制を自在に飛び越える編集。
一見すると、この二つは矛盾している。
IMAXフィルムは、とにかく「そこに在ったもの」を強烈に物質化する。
人物がそこにいる。
風景がそこにある。
光がそこにある。
その瞬間に存在した光をフィルムという物質に焼き付ける。
ところがノーランは、その圧倒的な「存在の確かさ」を持った映像を、時系列通りには並べない。
いつの出来事なのか分からない。
今起きていることなのか、過去なのか、未来なのか。
場面そのものは明確に「在る」のに、その場面がいつ在ったものなのかが分からなくなる。
『オッペンハイマー』以降、特に顕著になったノーランの編集は、単なる時間操作ではない。
映画の中から「現在」を消してしまう。
そして『オデュッセイア』では、この方法論が作品の題材そのものと完全に結びついている。
なぜなら、これは2800年前の物語だからだ。
現代人は、「今」というものをあまりにも当然のように共有している。
東京にいる人間とニューヨークにいる人間が、同じ出来事をほぼ同時に認識できる。
電気通信が発達し、遠く離れた場所にある情報を瞬時に共有できるようになったことで、人類は初めて「場所は違うが同時に起きている」という感覚を獲得した。
しかし、古代世界にはそれがない。
遠く離れた人間同士が情報を共有するには、必ず時間が必要だった。
つまり「同時性」は、私たちが思っているほど普遍的な感覚ではない。
むしろ、比較的新しい。
さらに相対性理論まで考えれば、宇宙全体に共通する絶対的な「同時」など存在しない。
そう考えると、ノーランがこれまで繰り返してきた「時制を混ぜる編集」は、単に観客を混乱させるための技巧ではなくなる。
「今」とは何なのか。
『オデュッセイア』という、映画が生まれる遥か以前の物語を映画化することで、その問いが初めて真正面から姿を現す。
そもそも映画とは写真だ。
写真とは、その瞬間の光を固定したものだ。
そして写真を見るとき、その瞬間はすでに過去になっている。
映画も同じだ。
スクリーンに「今」映っているように見えるものは、実際にはすべて過去に撮影された光である。
それなのに映画は、観客に「今、ここで起きている」と錯覚させる。
映画は常に現在を演じる。
しかしフィルムは、過去しか記録できない。
この矛盾を、ノーランは『オデュッセイア』という「伝承」の物語によって極端なところまで押し広げた。
「在る」ことは確かだ。しかし「今」だったのかは分からない。
この映画の映像と編集は、その奇妙なねじれを体現している。
そして、それこそが「伝承」というものの本質なのではないか。
映画が生まれる前の映画
試写会のトークショーで、ルドウィグ・ゴランソンの音楽について「2800年前にはオーケストラなんてなかった」という話が出ていた。
なるほど、と思いながら映画を観ていた。
しかし途中で、もっと単純なことに気づいた。
2800年前には、映画そのものがなかった。
これはノーランにとって初めての「映画が生まれる前の時代」を舞台にした作品でもある。
そのことを意識すると、『オデュッセイア』という映画の形式そのものが、非常に奇妙に見えてくる。
映画の存在しなかった時代の物語を、映画という最も近代的な映像メディアによって再構築する。
しかも、その映画は極限まで高解像度のIMAXフィルムで撮影される。
しかし、その映像を時系列から解放する。
「これはいつの映像なのか」という感覚を曖昧にする。
つまりノーランは、
最も「記録」に近い映像を撮りながら、最も「伝承」に近い形で編集している。
ここに『オデュッセイア』という映画の核心があるように思う。
だからルドウィグ・ゴランソンの音楽も重要なのだ。
超大作の古代叙事詩なら、普通は巨大なオーケストラによる壮大なスコアを想像する。
しかし本作の音楽は、もっと素朴で、シンプルで、どこか古代の楽器によるものを思わせる。
実験的でありながら、詩情がある。
そして『TENET』で主題歌を担当したトラヴィス・スコットが、本作では吟遊詩人として「歌」を披露する。
その「歌」が、映画そのものの形式と重なっていく。
ここでいう歌とは、現代的なポップソングという意味ではない。
口伝であり、伝承であり、人から人へ語り継がれていく物語としての歌だ。
『オデュッセイア』という映画そのものが、映像による口伝になっていく。
映画が生まれる以前の物語を、映画というメディアによって再び「伝承」へ戻している。
この構造に気づいたとき、ノーランがなぜIMAXフィルムにこだわり、なぜ時間を切り刻むのかが、一気に繋がって見えた。
「ゼウスの掟」という文明のルール
本作を観る上で、原作の細かい予備知識は必須ではないと思う。
むしろ、観る前に一つだけ知っておくと非常に分かりやすいのが「ゼウスの掟」だ。
旅人、つまり外からやってきた客人を、身分や敵味方にかかわらず手厚くもてなさなければならない。
一見すると理不尽なルールでもある。
当然、それを悪用する者もいる。
しかしこの掟は、単なる古代ギリシャのマナーではない。
戦争が絶えず、身分差も激しい世界の中で、人間社会を辛うじて「文明」に留めている倫理的な約束として機能している。
オデュッセウスは「もてなされる側」だ。
一方、故郷で夫の帰りを待つ妻と息子は「もてなす側」になる。
そこへ求婚者たちが押しかけてくる。
彼らを排除したい。
しかし「客人をもてなせ」という掟がある。
ここでルールそのものがドラマを生む。
そして、その「了解されたルール」が破られるとき、物語は一気に動き出す。
だから本作における「トロイの木馬」もまた重要になる。
信じること。
受け入れること。
ルールを共有すること。
その「了解」を逆手に取ること。
「ゼウスの掟」と「トロイの木馬」。
この二つを見ているだけで、『オデュッセイア』が何を描いているのかがかなり明確になる。
そしてこれは、ノーランがずっと描いてきたものでもある。
人間は何らかのルールを共有することで社会を作る。
しかし、そのルールは絶対ではない。
誰かがそれを悪用することもできる。
「我々は同じルールを共有している」という了解そのものが、裏切りの入口にもなる。
これは『ダークナイト』にまで繋がっていく。
『ダークナイト』の18年後に
自分にとって、この映画を特別なものにしている最大の理由はここだ。
『ダークナイト』が公開されたのは2008年。
自分が「カガセナイト」と名乗るようになった理由の一つにもなっている映画であり、18年間、毎年のように語り続けてきた。
『ダークナイト』は、自分にとって単なる好きな映画ではない。
映画をどう見るか。
ヒーローとは何なのか。
物語を現実にどう持ち出すのか。
そういうことを考えるきっかけになった映画だった。
その『ダークナイト』を、前日にIMAXリバイバルで観てから『オデュッセイア』を観た。
結果的に、これ以上ない順番だったと思う。
なぜなら『オデュッセイア』は、古典としての『オデュッセイア』を現代映画にするだけでなく、ノーラン自身にとっての古典となった『ダークナイト』を、さらに古典的な英雄譚の中へ戻しているように見えるからだ。
『ダークナイト』で描かれたのは、英雄と犯罪者、秩序と混沌、自由意志と倫理の衝突だった。
そしてノーランは、その後も一貫して「有能な男が罪を背負う」という物語を描いてきた。
ものすごく雑に言ってしまえば、
「俺はめちゃくちゃ有能なんだけど、実は後ろめたさを抱えている」
という主人公たちだ。
しかし、それは単純なナルシシズムではない。
むしろ面白いのは、彼らのナルシシズムがしばしば利他的であることだ。
自分のためではなく、誰かのために行動する。
世界を救う。
家族を守る。
人類を進歩させる。
しかし、その利他的な行動そのものが、取り返しのつかない罪を生む。
英雄であることと罪人であることが、表裏一体になっている。
だからノーランにおいて、英雄譚と犯罪劇はかなり近い。
『ダークナイト』が「ヒーロー映画」であると同時に「クライムスリラー」だったことも、今なら腑に落ちる。
そして『オッペンハイマー』では、それが核兵器という人類史上最大級の罪にまで拡張された。
『オッペンハイマー』で到達したと思ったものを、『オデュッセイア』はさらに古い場所へ遡ってしまう。
核兵器よりもさらに古い、人間が「英雄」という概念を発明した場所へ。
その意味で『オデュッセイア』は、ノーランの英雄論の最果てにある。
「デス!オア!エグザイル!」
だから終盤で『ダークナイト ライジング』の「DEATH! OR! EXILE!」を思わせる言葉が出てきた瞬間には、思わず笑ってしまった。
あの言葉がここで繋がるのか、と。
『ライジング』ではある意味でギャグめいた印象すらあったものが、ここでは別の文脈の中に置かれる。
過去作を知っているからこそ生まれる感慨ではある。
しかし、これは単なるファンサービスではない。
『オデュッセイア』そのものが、「人間はどういうルールによって社会を維持するのか」「そのルールを破った者をどうするのか」という問題を描いているからこそ、『ダークナイト』や『ライジング』でノーランが扱ってきた倫理と自然に重なる。
過去作の台詞が帰ってくる。
過去作の構図が帰ってくる。
過去作の人物像が別の俳優によって再演される。
しかし、それらは単なる引用ではない。
ノーラン自身が28年間かけて繰り返し考えてきた問題が、形を変えて戻ってきている。
だから「セルフオマージュ」という言葉だけでは足りない。
むしろこれは、本歌取りだ。
古代の『オデュッセイア』が本歌であり、ノーラン自身の映画史もまた別の意味で本歌になっている。
スター・ウォーズと肩を並べる
そして何より、この映画には「スター・ウォーズと本気で肩を並べてやろう」という気概がある。
自分はスター・ウォーズが好きなので、こういう映画には弱い。
マット・デイモン演じるオデュッセウスが、ある瞬間にマーク・ハミルとアレック・ギネスに重なって見える。
アガメムノンが全身フルアーマーになった瞬間には、完全にダース・ベイダーを連想した。
しかも、単にベイダーっぽいというだけではない。
これまでのスター・ウォーズ映画が積み上げてきた「映画的記憶」そのものが呼び起こされる。
そしてシークェル三部作を思わせるような場所が出てきたときには、思わず泣いてしまった。
旧三部作、新三部作に対するノーランのリスペクトは、これまでの映画にも感じられた。
しかし今回は、ついにシークェルにまで到達した。
あの背景がどうしても『最後のジェダイ』のオク=トーに見えてしまう。
ここには、「どの作品が好きか」「どの作品を評価しているか」という話を超えて、かつて自分が観客として受け取った映画が、いま別の映画を作るための記憶として使われているという感慨がある。
スター・ウォーズもまた、映画史の一部になった。
そしてノーランは、その映画史を自分の映画の中へ取り込もうとしている。
だから『オデュッセイア』は、ノーラン作品のエンドゲームであると同時に、2000年代以降のハリウッド映画そのもののエンドゲームにも見える。
ダークナイト・トリロジー。
MCU。
スター・ウォーズのシークェル。
『ボーン』シリーズ。
『ジョン・ウィック』。
それぞれ異なる映画なのに、本作の中では「2000年代以降の映画観客が共有してきた記憶」の一部として繋がっていく。
マット・デイモンには、演技派俳優としてだけではなく、00年代を代表したアクションスターとしての記憶がある。
トム・ホランドには「次世代のスター」という現代的なイメージがある。
ジョン・レグイザモには、別の映画シリーズでの顔がある。
本作のオールスターキャストは、「豪華だから凄い」のではない。
俳優そのものが、映画観客にとっての記憶媒体になっている。
古代ギリシャの人物名を覚える必要がない。
観客は顔を知っている。
その俳優が何をしてきたのかを知っている。
だから短い登場時間でも、その人物に意味が宿る。
映画において、人間を認識するために必ずしも名前は必要ない。
『TENET』の主人公には固有名詞すらない。
『ダークナイト』ではゴードンがラミレス刑事の名前をほとんど呼ばない。
それでも観客は人物を認識する。
『オデュッセイア』は、その映画的認知をオールスターキャストによって極限まで利用している。
怪物は「悪」ではない
もう一つ、本作で意外なほど感心したのがキュクロプスだった。
もっと単純に、怪獣映画的な迫力で押してくるものだと思っていた。
ところが、強い。
怖い。
それなのに、ものすごく不憫なのだ。
よく考えてみれば、住処に勝手に人間が侵入して、食料を奪い、仲間を殺し、騒ぎを起こしている。
「いや、お前らが勝手にやってきたんだろ」
という話でもある。
怪獣映画において、怪物には「強大さ」と同時に「不憫さ」があると嬉しい。
ただの破壊装置ではなく、そこに存在しているだけの生き物として見えてくるからだ。
ノーランがこんなに可哀想なモンスターを撮れる監督だったとは思わなかった。
むしろ、ここにも本作の倫理観がある。
「敵だから悪い」のではない。
それぞれの側に、それぞれの事情がある。
そして、その境界を超えてしまったのは誰なのか。
そう考えると、キュクロプスすら「英雄譚」の裏側から見た被害者になり得る。
ノーラン、怪獣映画もそのうち撮ってほしい。
『ウォッチメン』まで帰ってくる
さらに面白いのが、『ウォッチメン』まで本作の射程に入ってくることだ。
2008年、『ダークナイト』が公開された。
その半年後にザック・スナイダーの『ウォッチメン』が公開された。
当時、『ダークナイト』周辺の批評では『ウォッチメン』が引き合いに出されることも多かった。
そしてノーランは後にスナイダーと『マン・オブ・スティール』を作る。
そんな2008年から2009年にかけての、ヒーロー映画を巡るあの熱気まで、『オデュッセイア』を観ていると蘇ってくる。
ただし、ここで重要なのは「ノーランが『ウォッチメン』をオマージュした」という話ではない。
むしろ逆だ。
『ウォッチメン』そのものが、原典としての『オデュッセイア』から影響を受けた物語でもある。
こうして見ていくと、『オデュッセイア』は自分が知っている映画の遥か後ろにある原典として姿を現す。
そして、その原典を辿っていくと、現在の映画まで全部繋がってしまう。
予習する必要がない映画
だから本作は、原作を知らなくてもいいと思う。
むしろ、知らない方が面白い部分すらある。
『オデュッセイア』は古典中の古典なので、物語そのものを知らなくても、既に何かしら知っている。
怪物。
帰還する英雄。
家で待つ家族。
漁夫の利を狙う求婚者。
旅。
策略。
木馬。
どこかで見たことがある。
聞いたことがある。
別の映画で観たことがある。
それは当然で、これほど長い時間をかけて無数の物語の原型になってきた作品だからだ。
つまり観客は、既に『オデュッセイア』の断片を持っている。
だから映画を観ながら、
「あ、これ知ってる」
という感覚が自然に発生する。
これは非常に映画的な体験だと思う。
そしてノーランは、観客が「何を知っているか」よりも、「どういうノリでこの映画を観るか」の方が重要だということを分かっている。
冒頭に提示される一文によって、「ああ、この映画はそういうルールで進むのね」と理解させる。
細かい設定資料集を頭に叩き込ませるのではない。
映画そのものに入っていくための「了解」を作る。
その意味でも、『ゼウスの掟』は作品内のルールであると同時に、観客と映画の間に結ばれるルールでもある。
「今」を失うことで、物語は永遠になる
ここまで考えると、『オデュッセイア』という映画がなぜこれほどまでにノーランの総決算に見えたのかが、少し分かってくる。
ノーランはずっと「時間」を撮ってきた。
『メメント』では記憶によって時間が壊れた。
『インソムニア』では眠れない男の時間感覚が壊れた。
『プレステージ』では現在と過去が互いを騙し合った。
『インセプション』では夢の階層によって時間が伸縮した。
『インターステラー』では相対論によって時間そのものが人間の距離になった。
『ダンケルク』では時間そのものを三つの異なる尺度に分解した。
『TENET』では時間の方向を反転させた。
『オッペンハイマー』では一人の人間の記憶と歴史そのものを混線させた。
そして『オデュッセイア』では、その時間論が「伝承」という概念に接続する。
2800年前に語られた物語。それを2026年に映画として観る。
しかし、その間にある2800年という時間を、映画は飛び越えてしまう。
オデュッセウスはいつの人間なのか。この物語はいつ起きたのか。
その問いは重要ではなくなっていく。
なぜなら伝承とは、本来「いつ起きたか」よりも「語り継がれた」という事実によって成立するものだからだ。
そこでは「今」は消える。しかし、物語は残る。
「在る」ことだけが残る。
映画もまたそうなのではないか。
スクリーンに映っているものは、撮影された瞬間には確かに「今」だった。
しかし観客が観るとき、それはすでに過去だ。それでも映画は残る。
誰かがまた観る。誰かがまた語る。
別の映画がそれを引用する。その映画を観た人間が、また別の映画を作る。
そうして映画は伝承になっていく。
『オデュッセイア』という作品が2800年間生き残ったように。
ノーランが映画史へ帰還する
『オデュッセイア』には、もう一つの「帰還」がある。
それはオデュッセウスの帰還だけではない。ノーラン自身の帰還だ。
『フォロウィング』から始まり、『メメント』、『インソムニア』、『バットマン ビギンズ』、『プレステージ』、『ダークナイト』、『インセプション』、『ダークナイト ライジング』、『インターステラー』、『ダンケルク』、『TENET』、『オッペンハイマー』と続いてきた。
それらが全部、一本の映画の中にいる。そして、その先に『オデュッセイア』がある。
自分が映画ファンになった時間も、そこに重なってしまった。
自分がスター・ウォーズ、ジュラシック・パーク、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を初めて観たのが1997年。
ノーランの『フォロウィング』が公開されたのが1998年。
つまり、ノーランの映画監督としての歴史と、自分が「映画ファンとして生きてきた」と自覚している時間が、奇妙なほど重なっている。
だから今回の映画は、単に「ノーランの新作」ではなかった。
自分がこれまで観てきた映画そのものが、どこかで一つの巨大な物語になっていたように感じた。
そして、映画史をノーラン自身が背負おうとしている。
トム・クルーズがある意味で「映画そのもの」を背負おうとしているのと同じように、ノーランもまた「映画」というものを背負おうとしている。
もちろん、そんなものを一人の監督が背負えるわけがない。
しかし、
「俺は映画史にいたぞ」
という覚悟だけは、はっきりと感じる。
2026年の「オデュッセイア」
試写会で観た映画として、これほど面白かった作品はなかった。
今回は招待ではなく、自分で応募して、熱意を込めた文章を書いて、当てに行った。
本当ならグランドシネマサンシャイン池袋のIMAX GTで観たかった。
それでも、2026年8月25日、109シネマズ二子玉川ライズで観たこの一回は、自分にとって間違いなく特別な鑑賞になった。
何なら、この映画を観るために神奈川県央の自宅から二子玉川まで歩いて行こうとした。
オデュッセウスの過酷な旅路を少しでも体感しようと思ったからだ。
結果、炎天下で25キロほど歩いたところで本当に目眩がしてきて、途中で諦めて電車に乗った。
全身汗だくになり、二子玉川でズボンもパンツも買った。
映画のためにそこまでする必要はない。
ただ、その日に駅そばを二杯食べるほど腹が減っていて、劇中で疲弊した兵士が一心不乱に飯を食う場面を観たときには、妙なところで映画と現実が重なった。
自分が体験した疲労によって、映画の中の「旅」が少しだけ身体に入ってきた。それが映画鑑賞として正しいかどうかは分からない。
しかし、『オデュッセイア』という映画は、観客自身の時間や身体や記憶まで巻き込みながら成立する映画なのだと思う。
これは2026年の映画なのか
だから、今すぐ「2026年ベスト」と順位をつけるのも、少し違う気がしている。
むしろ特別枠に置いておきたい。2029年の年末くらいに、2020年代を振り返るとき。
そのとき初めて、この映画が自分にとってどれほど大きなものだったのかが分かる気がする。
『オデュッセイア』は、2026年に公開された一本の映画でありながら、2020年代という時代そのものを総括しているように見える。
そして、もっと長い時間を見れば、2000年代以降のハリウッド映画の記憶まで遡っていく。
さらに遡れば、『ダークナイト』へ。
さらに遡ればスター・ウォーズへ。
さらに遡れば、映画そのものへ。
そして映画より遥か前の神話や伝承へ。
映画が生まれる前から存在していた物語を、映画という最新の巨大メディアによって描く。
その映画が、過去の映画を記憶しながら未来へ進んでいく。
ノーランは『オデュッセイア』で、ついに自分自身のフィルモグラフィだけではなく、自分が愛してきた映画そのものを「伝承」の側へ送り出そうとしている。
だからこれは「集大成」ではない。
集大成なら、そこには終着点という意味がある。
しかし『オデュッセイア』が描いているのは、終着ではなく帰還だ。
帰還した者は、そこで終わるわけではない。
帰還した者の物語は、誰かによって語られる。
そして語られた物語は、また別の誰かの物語になる。
ノーランの映画も同じなのだろう。
『フォロウィング』から始まった旅が、ここで一度「帰還」する。
しかし、その映画を観た我々が語ることで、また次の旅が始まる。
映画は「今」を失う。
フィルムに焼き付いた瞬間は、観客に届いた時点ですでに過去になっている。それでも、映画は残る。
語られる。
引用される。
記憶される。
そしていつか、それを観た誰かが別の映画を作る。
「在る」のは確かだ。「今」だったかどうかは分からない。
だからこそ、映画は伝承になれる。
『オデュッセイア』を観て、ようやく少しだけ分かった気がする。
なぜノーランが、これほどまでにフィルムにこだわるのか。
なぜ時間を壊し続けてきたのか。
なぜ古典を撮るのか。
なぜスター・ウォーズと肩を並べようとするのか。
なぜ28年間、映画を撮り続けてきたのか。
そしてなぜ、この映画が「完結編」に見えるのか。
ノーランはオデュッセウスを撮った。
しかし同時に、自分自身の映画史から帰還する物語を撮ったのではないか。
その旅の果てにあったのは、「映画とは何か」という、あまりにも原始的で、あまりにも巨大な問いだった。
そして彼は、その問いに対して答えを出す代わりに、
「これが映画だ」
と、一本の巨大な映画そのものを置いてみせた。
確かであり、不確かな積み重ねと断絶の果てに、今この瞬間の我々の現実があるという圧倒的な余韻が心に残る。
『オデュッセイア』、とんでもない映画だった。
『オデュッセイア』レビュー


クリストファー・ノーランの映画について書くのはやっかいだ。
というのも、ある世代にとってのスタンリー・キューブリックのように、クリストファー・ノーランは現在の映画ファンたちの間で神格化されているからだ。
スティーブン・スピルバーグやクリント・イーストウッドが監督の名前で集客ができなくなった昨今(もしかしたらクエンティン・タランティーノも含まれるかもしれない)、ノーランは世界で唯一、名前で客を呼べる監督なのは間違いない。
私はいわゆる映画秘宝的な評論家文化、蓮實重彦的な評論家文化(ただし蓮實重彦は『ダンケルク』を評価している)に”映画の見方”を育てられたため、ノーランに否定的な立場を取るのは容易だ。
彼らはノーランの映画に対して否定的な立場で批評を行ってきたからだ。
しかし映画秘宝も蓮實重彦も旧世代の評論文化である点は否めない。
今のアメリカの映画市場をGenZが支えているように、彼らがノーランを称揚しているのであれば、私は旧世代的な価値観に毒されているとも認識することができる。
リドリー・スコットの『ラスト・サバイバー』のレビューで書いてきたように、私が【これが映画だ】と信じ、人生をかけて築いてきた価値観はもう葬り去られる運命なのかもしれない。
そして、残念なことに本作『オデュッセイア』(原題:The Odyssey)も、私にとっては非常に退屈でつまらない作品であった。
アクションがわかりにくすぎる上に鈍重なのは否めない。
本作における「斧と弓」のシークエンスはもっとも重要だ。その場面のために3時間があるといっても良い。
にもかかわらず回想シーンにおけるオデュッセウスが斧の間に矢を射通す場面は、ただ引きで一連のアクションを撮っただけで、
矢が果たして斧の間を通ったのかがわかりにくい。
わかりにくい場面をすべては列挙しないが、ここにはノーランの映画に一貫している【極端な客観性】が背景にある。
ここを受け入れられるかが、ノーランの映画を楽しめるか否かの分水嶺なのかもしれない。
クリストファー・ノーランは巨大なIMAXカメラを用いて極力実写で撮影することに、異常なこだわりを持っている。
特に本作は映画史上初めて全編IMAXフィルムカメラで撮影された作品だ。特定の劇場においては全編を1:1.43の正方形に近い、巨大な画角で鑑賞することができる。
ノーランのフィルム主義的な保守的な映画人としての立場が、そうさせているのは間違いないが、
それによって、あまりにも多くの制約を受けてしまっている。(IMAXフィルムカメラは巨大なため容易に動かせない、一度に3分間しか撮影できないなど。劇映画ではなく、自然や大規模な記録映像を撮るためのカメラである。)
きっと「斧と弓」のシークエンスを、あの引きの構図で撮るしかなかった背景には、このような技術的な制約がある。
確かに巨大なIMAXフィルムならばデジタルカメラにはできない、圧倒的な情報を捉えることができる。VFXのようなデジタル情報が介在しなければしないほど、そのフィルムの価値は担保されるのだ。
だからノーランの映画はマイケル・ベイの『トランスフォーマー』シリーズのような作品とは対極的な位置にあるだろう。
【スクリーンに本物が映る】、そこにこだわりを持てば持つほど、映画は客観性、観察者の視点が顕在化していくのだ。
【ただ男が複数の斧の間に矢を射た】という客観的な情報をフィルムが記録する。
確かにこれはリュミエール兄弟が映画を発明した時から存在する映画の特性だ。目の前で起きた現実を捉える、それがプリミティブな映画体験だ。
この場面を見て「おお、男が実際に弓矢を射っている」という、客観性、実物性に感動する観客は本作を楽しめるかもしれない。
しかし私はそこには感動しない。
正確に言えば観察者としての映画の快楽は、ノーランが信じている事物とは異なるからだ。
かつて濱口竜介が書いた映画論『他なる映画と』の中で、リュミエール兄弟の『消防隊 火事Ⅱ』について下記のように論じている。
それは火事の現場に向けて出動する消防隊を撮った短いフィルムだが、そこに映る群衆が画面の左側をみて気圧されているのだ。しかし、何に気圧されているかが、画面の外側の出来事のため観客にはわからない。
これについて濱口は、当時はカメラをパンすることができなかったからだと説明している。
さらに濱口は、そこに「撮りきれなかった」「撮るべきものがフレームの外に行ってしまった」感覚があると評している。
つまり映画はカメラが捉えた完璧な記録でありながら、同時にカメラが捉えることができなかったものの存在を示すことになる。
ここに映画のショットの快楽があると私は信じている。
むしろノーランであれば、すぐにカメラを動かして群衆が気圧された事物の正体を記録して、観客に見せつけるだろう。
つまりノーランはリュミエール兄弟の【完璧な記録としての映画】を信じているのに対して、私は【完璧でありながら完璧でない両義性をもつ映画】を信じている。
この決定的な違いが、私をノーランの映画から遠ざけているのだ。
ややノーランの認識は単純すぎる気もするが、まあ、そこは人それぞれだ。
これは映画における信仰の違いとして片づけてしまえば、それまでだが、昨今のスマートフォンという非常に機動力のあるカメラを持った現代の観客には、私や濱口が論じてきた映画の魅力は伝わりにくいかもしれない。
もちろん先ほど述べた本作における技術的な制約にノーランが縛られているだけとも捉えられる。
だが、その制約はノーランが押しつけられた不運ではない。〈スクリーンに本物が映る〉ことへの信仰ゆえに、彼が自ら選び取った不自由なのだ。
しかし、クライマックスのオデュッセウスが繰り広げる活劇の迫力の欠如たるや。
私が山中貞雄の『丹下左膳余話 百萬両の壺』や内田吐夢の『血槍富士』の1人が複数人と闘う活劇を見て感じる、それらと比べると、あまりにも味気ないため、まったく楽しむことができないのだ。
本当に映画はただ目の前の事象を客観的に記録するだけなのだろうか。
編集においてもそうだ。
本作においても相変わらずノーランはセリフが事象や人物に触れると、すかさずその対象のカットを差し込んでくる。
映画における編集の意味合いは、ただセリフを補足するためだけのものだろうか。
例えばトニー・スコットの映画はどうだろうか。
複雑に動き続ける大量のカメラの映像が矢継ぎ早に編集で繋がっていく。
しかし、そこには確実に異なる映像の断片が編集で繋がることで効果を生み出していく。
例えばトニー・スコットの『デジャヴ』の冒頭は後に起きる事件の犠牲者を、大量にかつ複雑に繋いでいく。しかし、後に事件が起きて命を落とした際に、犠牲者の総体の中に、個別の悲劇を感じることができるのだ。
ここで『デジャヴ』について深堀りしないが、後に同様のショットが反復されることで、さらに強固な意味づけが行われるのが巧みだ。
またトニー・スコットの『エネミー・オブ・アメリカ』も、主人公が街中の監視カメラで監視されているということを、大量の客観的な映像で捉えていく。
そのため映画的な俯瞰ショット自体に「監視」という意味を持たせてしまったために、安易に俯瞰ショットが使えないという制約を自身で設けてしまうのも、トニー・スコットにしかできない困難な作業である。
トニー・スコットが本作の「斧と弓」を手掛けたら、きっとあらゆる人の顔(弓を射る際と射った後のオデュッセウス、見守る群衆の前後の顔)という【停止】と、飛んでいく矢という【運動】を巧みに動くカメラワークと編集でつないで、シークエンス全体でひとつの巨大な運動を作り出したことだろう。
ノーランの客観性にはこのような編集の快楽が存在しないのだ。
ただセリフを補足するだけ、伏線のように観客にヒントを与える時にしか編集は使われない。
たぶん私がつまらない、退屈と感じた点はノーランが映画を撮るのが下手だから発生している問題ではない。
むしろ「ノーランはそこに興味がない」というのが一番の理由だろう。
仮にノーランが下手かどうかを証明するには、ノーランが他人の脚本、なおかつ時系列が複雑ではない、シンプルな活劇を撮る必要がある。
きっとそんなことはノーランはやらないだろう。
なぜなら『メメント』、もっといえば『フォロウィング』の時からすべての作品において、一貫している姿勢なので、ノーランは私の中では「変わったスタイルのまま出世してしまった」というところかもしれない。
最初に述べたように、
自分はいわゆる旧態依然の映画評論、映画研究に染まっているため、
これは老害の戯言として受け取られるかもしれない。
ただ、マンスプレイニングにもならず、上から目線にもならず(スノビズムに走ったことはもう撤回できないが)、ノーランを楽しんでいる世界中の観客に伝えるならば、
ノーランという監督はこれまでの映画史からは、かなりの異端児であり、評価が困難で、とてもやっかいなのだ。
・作品情報
オデュッセイア
英題:The Odyssey
監督:クリストファー・ノーラン
脚本:クリストファー・ノーラン
日本公開:2026年9月11日
※先行公開:2026年9月4日
配給:ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
・参考文献
・関連ポスト
オデュッセイア とても退屈した
— 半羊/ナカバ・ヨウ/YoNakaba (@half_sheep_1138) September 4, 2026
まず弓と斧の回想シーンで、矢がどのように飛んだのか視覚的にわかりづらい。
相変わらずノーラン特有のただ事象を客観的にカメラで撮っただけだからだ。
名前が1回でも言及されたらフラッシュバック的に回想シーンに切り替わる落ち着きのなさも健在。
つまらない。 pic.twitter.com/7Sv4qViaMa












