2026年8月3日月曜日

細田守の「原点」。アニメ業界に対する思いから女性像の描き方までを語る | CINRA

細田守の「原点」。アニメ業界に対する思いから女性像の描き方までを語る | CINRA

細田守の「原点」。アニメ業界に対する思いから女性像の描き方までを語る

細田守監督の代表作『時をかける少女』公開から今年でちょうど20年。「細田守の原点/展」と銘打たれた展覧会がスタートした。

『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』という監督作品初期3作で構成される本展。300点以上の原画や映像、さらには美大時代の作品までをとおして、細田監督がこれまで生み出してきた作品たちの「原点」を知ることができる。

今回は展示を巡りながら細田監督にインタビューを実施。家族、青春、女性の描き方、そして最新作『果てしなきスカーレット』で正面から描かれた「生と死」や戦争まで。20年の歳月のなかで細田守監督が変わらず見つめ続けてきたものと、変化してきたものについて、じっくりと話を聞いた。

若い人たちの生命力を描きたい。初期から変わらない作品テーマ

ー今回の展覧会では『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』で構成されていますが、この3作品が細田さんにとって「原点」と位置づけられているということでしょうか?

細田守(以下、細田):いままで自分の原点について考えたことがなくて。新しい作品を作るのに忙しくて振り返っている暇がなかった。むしろ作り終えたらすぐに忘れるようにしていたくらいなんです。

でも、「原点」というテーマで展覧会をやりましょうとお声がけをいただいたとき、やっぱりそれは『時をかける少女』からの3作品になるなと思いました。

ー今回、ご自身の振り返ってみて3作品に共通する、もしくはそれ以降の作品においても持ち続けているテーマや軸はあると感じましたか?

細田:あるかもしれませんね。展示を機に振り返ってみたら、意外と一貫してるなぁと。自分で言うのも変なんですけど。

共通することの一つは、学生とか子どもとか、若い人たちを応援したいなと思って描いているというところです。『時をかける少女』も、公開当時は「監督はタイムリープに興味があるんだ」とか「胸キュンの恋愛ものに興味があるんだ」なんて言われちゃいましたけど、そういうことではなく、青春時代のみずみずしい魂を描けたらという思いがありました。

細田:あと、よく言われるのは「家族」ですよね。いまだとわりと普通ですけど、昔はあんまりアニメーション映画で家族を描くことってなかった。特に『サマーウォーズ』のときなんか、家族を描いたオリジナル映画作品はほとんどなくて、「変わった映画を作っているなぁ」と自分で思っていたくらいですから(笑)。

たとえば宮崎(駿)さんの映画にも家族ってほぼでてこないですよね。家族を描いているのはどちらかと言えば高畑(勲)さんのほうで。高畑さんが描いてきたものの延長線上に、ひょっとしたら自分の作品もあるのかもしれないですね。

世界で起こっている戦争を、対岸の火事だと思いたくない

ーこれまでもインタビューで「家族」についてお話されていらっしゃいますよね。たとえば『未来のミライ』は娘さんの誕生がきっかけで描かれた物語とのことですが、ご自身の身近な出来事から物語のテーマや種を探すことが多いのですか?

細田:それはすごくあると思います。『サマーウォーズ』は、自分が結婚したのがきっかけです。結婚したら急に親戚が2倍以上になるという不思議さ、奇妙さが面白いなと思ったところからスタートしています。

『おおかみこどもの雨と雪』は、母が亡くなったことがきっかけで作ろうと思った作品なんです。母が危篤だと連絡を受けたとき、『サマーウォーズ』の仕上げ作業中で一睡もできないギリギリの状況だったので「とてもじゃないけど、こんな進行状況では(富山に)帰れない」と言ったら、叔父に「帰れないじゃないだろ、バカヤロー!」って怒られて。4日間だけ休みをもらって、喪主を務めるために富山に戻ってお葬式を出しました。そのときの気持ちや体験が、母についての映画を作るきっかけになったんです。

まさか自分の母についての映画を作るとは思ってもいなかった。でも、母が亡くなってしまうと、自分は母の幸せにどれだけ貢献できたかのか、何もできてないんじゃないか、とすごく後悔して。そういう思いから描きはじめました。

ー「家族」や「成長」といった身近なテーマを描いてこられたなかで、『果てしなきスカーレット』では戦争や生と死という、より大きなテーマに踏み込まれています。なぜこのタイミングでそうしたテーマに向き合われたのでしょうか?

細田:多分、戦争が多い時代だから、僕自身が反応したのかなと思います。

いま世界のいたるところで戦争が起きていますが、戦争って家族や友人など身近な人がいきなり亡くなってしまうことが当たり前に起きますよね。だから、「家族」や「青春」を描いてきた僕の作品と、いま世界で起きていることは全然無関係じゃない。ほかの国で起こっている戦争を、対岸の火事だとか、よその世界の話だというふうには思いたくなかった。

漫画やアニメってどうしてもエンターテインメント的に現実逃避な側面があって、現実の難しい問題から距離を置くべきだ、という考え方ももちろんあるのですが、だとしても距離を置きすぎなところもあって。

社会とのつながりをちゃんと持ったアニメーション映画があってほしいと思っているんです。現実逃避のための作品が別にあってもいいのだけど、それだけじゃなくて、「僕たちはこんな世界のなかで生きているんだ」という話を、アニメーションとしてどう表現するかということも大事なんじゃないかと思うんです。

テーマは変わっていますが、そういった思いは『時をかける少女』からずっと一貫しているかもしれませんね。

『時かけ』真琴は『ハウル』ソフィーから生まれた

ー細田監督が以前、インタビューで「『時をかける少女』は『ハウルの動く城』のリベンジマッチだった」(※)とお話されていました。細田監督がやりたかったことが、ジブリのスタッフにははまらなかったという記述もありましたが、どういったことをやりたかったのでしょうか? 『時をかける少女』でどう実現されたのですか?

細田:今回の展覧会のキャプションにも書いてあるんですけど、東映動画時代に演出を担当した『おジャ魔女どれみドッカ~ン!』第40話『どれみと魔女をやめた魔女』という作品を経て、『時をかける少女』ができたんです。

『どれみと魔女をやめた魔女』には『ハウルの動く城』でできなかったことが流れ込んでいるんですよね。『ハウル』のソフィーは、少女でありながら同時に老婆でもあるという二重性を持った人物です。それを面白く、興味深く描こうとしたけどできなかった。その後悔や不完全燃焼な思いが『どれみ』に流れ込んでいて。

※『ハウルの動く城』は宮崎駿が企画を立て、東映アニメーション所属だった細田守を監督に招聘し、東映からジブリへ出向というかたちで制作がスタート。しかし完成には至らず、最終的に監督・脚本は宮崎駿に交代し、2004年に公開された。

細田:その第40話というのは、魔女見習いの少女・どれみが、佐倉未来という「魔女をやめた魔女」と出会うという物語なんです。少女で魔女見習いのどれみと、長い時間を生きた魔女の未来、この2人のキャラクターが対話することによって、ソフィー1人で表現しようとしたことが、すごくうまく表現できたんです。

肉体と気持ちのずれ、少女であると同時に老婆であること、年をとること / とらないことの意味ーーそういったことの一部が、思っていたとおりに表現できた。この成功体験があってできたのが、『時をかける少女』です。

まわりの人からは、「細田は『時をかける少女』が作りたくてこの『どれみ』を作ったんじゃないの?」なんて言われましたし、実際『どれみ』があったから『時をかける少女』も生まれたのだけど、どちらの作品も『ハウルの動く城』のリベンジマッチをしたような気分だったんですよね。

ーということは、ソフィーと(『時をかける少女』の)真琴は地続きということですよね。細田監督の作品は女性主人公がいきいきと活躍しているのが印象的ですが、女性の描き方で大切にしていることはありますか?

細田:女性だからというよりは、僕自身がどう生きたいか、を結構反映していると思います。昔からアニメでよくある男性目線で描いている女性像が苦手だったんです。女性を差別的な目で見ているような気がして。僕自身、性別を問わず社会的な差別、無意識の差別っていうのが好きじゃないんですよね。

だから女性を描くときも、「女性として描く」というよりは、1人の人間として描きたいっていう思いがすごくあります。「自分がもしも女性だったら」と考えたときに、女性の生き方って想像した以上の抑圧を受けていると思ったし、自分だったらそういうものから解放されたいと思うだろう、という考えを映画のなかで表現しているのだと思います。

細田:これまで女性の描き方に関して、「表現が足りない」「艶が不足している」みたいなことを言われたりもしましたが心外でした。男性目線の表現にならないように丁寧に描いているのに。ある意味、アニメ界とか男性社会に対しての、「よくあるもので商売しよう」みたいなものへの反発があったんだと思いますね。

娘が生まれてから作った『未来のミライ』では、「男性社会に負けずに生きてほしい」「できるだけ抑圧されるようなことなく生きてほしい」という祈りみたいなものが加わりました。

描くべきことを描く。これまでも、これからも変わらないアニメーションとの向き合い方

ー最後になりますが、今回「原点」というテーマで20年を振り返ってみて、ご自身にとってアニメーションとは何だと思いますか。

細田:繰り返しになりますが、振り返ってみると描いてきたものは意外に一貫していて、その一つは若い人たちのみずみずしさとかバイタリティーを映画で表現したいなということですね。(『おおかみこどもの雨と雪』の展示を指差しながら)例えばこうやって、雪山を走っているだけのシーンでも、そこに一種の「生きることの喜び」が表現できたらいいなと思って描いているんです。

ただ、それを「生きることは喜びである」と言葉で言ってもつまらないわけです。映画のなかで、言葉を使わずにどう表現するか。この作品は僕の母への思いが出発点になっているわけだけど、母が「生きるのは喜びだ」なんて言っていたわけじゃない。言葉じゃないところで母から受け取った何かを、映画として伝えようとしたんじゃないかという気がします。

細田:今回、映像と一緒に原画も展示されていますけど、どのシーンも「生きてる、生きてる」って絵で言ってますよね。それがわかる展示になっているのが嬉しいです。アニメーションの画面だけだと伝わらないことも、こうやって原画と一緒に見ることで、いかにアニメーションが生命力や生命について描くことに向いているかがわかる。アニメーションの特性と、生きる力やみずみずしさを描くということは、すごく親和性があるんですね。

だから自分の描きたいものを描ける場所が、アニメーションなんだろうと思います。

これまでは、新作にとりかかるたびに、なるべく「違うことをやろう」「いままでに描いていないことを描こう」と気負っていましたけど、結局、同じところに繰り返し立ち戻っていますよね。孫悟空がどれだけ暴れ回っても、結局お釈迦様の手のひらの上だった、みたいな話で。なのでこれからも自分の描くべきことを描く、ということかなと思います。

プロフィール
細田守 (ほそだ・まもる)

1967年生まれ、富山県出身。91年に東映動画(現・東映アニメーション)へ入社。アニメーターおよび演出家として活躍。『時をかける少女』(06)、『サマーウォーズ』(09) を監督し、国内外で注目を集める。監督・脚本・原作を務めた『おおかみこどもの雨と雪』(12) 、『バケモノの子』(15)は大ヒットとなり、『未来のミライ』(18)ではアニー賞を受賞、米国アカデミー賞長編アニメーション作品賞にもノミネートされた。『竜とそばかすの姫』(21)では、カンヌ国際映画祭のオフィシャル・セレクション「カンヌ・プルミエール」部門に選出。『果てしなきスカーレット』(25) では第53回アニー賞長編アニメーション部門において、インディペンデント作品賞・監督賞・脚本賞の3部門に選出され、世界中で注目を集めている。



Boris Karloff in a Night of Terror - The Old Dark House (1932) 🎬 - Refur... https://youtu.be/e13gpLTt7To?si=WMr_2_Z3RLtYRyKu

one sided war

 


【期間限定】映画好き3人で「細田守の原点/展」に行ってきました!【シネマンション】 https://youtu.be/-JT-khPsZJo?si=UY0Jj7oHr5ig0inb @YouTubeより

楽しい動画ありがとうございました。自分も先日行ってきました。自分の一推しは『果てしなきスカーレット』なので少し寂しい気もしましたが。本当に見るべき展示は細田守監督が中学時代に作った一分間ほどのアニメ『one sided war』と大学時代に作った40分ほどの前衛映画『silent』だと思うのですが、そこまで辿り着けてないのかも…
大学時代のデッサン、油絵なども見応えがありました。

■中3の夏休みに初作品  紙への手描きによるラフな1分少々の作品、しかし、そこにものすごい衝動や勢い、熱量がギッシリ詰め込まれていることは伝わり、思わず脈拍があがる。  タイトルは『one sided war』、1982年、細田監督が中学3年生の夏休みに制作した「初の」8ミリアニメーション作品、真の意味での“原点”である。 「“原点”というタイトルであるからにはお見せしなきゃいけないと。中二病みたいな作品でお恥ずかしい限りですが」 

細田守監督の“原点”は中3の夏休み 900枚を一人で描いた初の8ミリアニメとは? 「中二病みたいな作品でお恥ずかしい限りです」

 アニメーション監督・細田守の展覧会が開催中だ。細田の名が広く世の中に知られることになった独立後最初の作品、『時をかける少女』20周年を記念しての開催だ。細田守の“原点”とは──。AERA 2026年7月20日号より。 【写真】「細田守の原点/展」の様子はこちら *  *  *  展覧会は、細田守監督が手がけた劇場版アニメーション作品の代表作『時をかける少女』(2006年)、『サマーウォーズ』(09年)、『おおかみこどもの雨と雪』(12年)の3作品を中心に、絵コンテや原画のほか、ダイジェスト映像やパネル、等身大フィギュアなどで細田ワールドに触れることができる。『サマーウォーズ』のアバター世界が、最初からCGで生み出されたものでなく、手描きの精細な原画をもとにしたものであることなど、大きな衝撃を感じる。  これら細田作品に共通するビジュアルイメージのひとつは、抜けるような青空と、そこにかかる真っ白な入道雲だ。これも、細田監督の思う「元気」につながる重要な要素であると明かす。 「青空のもと伸びる入道雲を見るときって、自然と頭が上がりますよね。いいことがないとうつむくのではなく、上を向いて雲を見上げて、嫌な気分から抜け出したい。そう若い人に思ってもらうためにこれらのアニメーション映画があったらいいなと思います」  舞台は「夏」が多い。 「夏っていうのはやっぱり『成長』の季節。草木が生い茂るように2学期になったら急に大人っぽくなってる奴がいたりね(笑)。子どもって夏に成長して、いつの間にか大人の手の届かないところまで成長する。夏の生命力のある強い日差しによってたくましく変化して、違う自分に出会えたらいいなという憧れを、みんな共通して持っているんじゃないかという思いがあるんです」  今回の展覧会に際し、スタッフから「まずはちょっと見てもらいたいんです」と言われた映像作品があった。

■中3の夏休みに初作品  紙への手描きによるラフな1分少々の作品、しかし、そこにものすごい衝動や勢い、熱量がギッシリ詰め込まれていることは伝わり、思わず脈拍があがる。  タイトルは『one sided war』、1982年、細田監督が中学3年生の夏休みに制作した「初の」8ミリアニメーション作品、真の意味での“原点”である。 「“原点”というタイトルであるからにはお見せしなきゃいけないと。中二病みたいな作品でお恥ずかしい限りですが」  と笑うが、これは、細田少年が雑誌「月刊アニメージュ」の自主アニメ制作のハウツー連載を参考に、セル画でなく紙だけでもアニメは作れるんだと、見よう見まねで2穴パンチでA4のコピー用紙に穴をあけ、木板とガラス、蛍光灯で作った自作の「トレース台」でひたすら描きつくりあげた短編作品だ。1秒間に12コマの計算、作画枚数は約900枚、これを一人で描き、カメラ店で1泊2日1500円でレンタルした8ミリカメラで1コマずつ撮影したという。 「映写機も持ってませんでしたからそれもお小遣いの範囲でレンタルして。だから自分自身、何回かしか見られてないんです。でも自分の部屋で映写して動いているものを見たときはむちゃくちゃ感動しました」  完成した作品は、その後中学校の文化祭で数回上映されたという。作品内に登場する巨大な竜やそれに立ち向かう戦闘機やミサイルの動き、爆発する炎や煙の躍動感は、のちのさまざまな細田作品の息吹、まさに“原点”がそこに詰め込まれている、そんな気がした。  この作品を、角川映画『少年ケニヤ』のアニメーター募集に応募し最終選考に通過したものの、作画打ち合わせ日が学校の中間テストと重なったため断念したというエピソードがあるが、『少年ケニヤ』の監督が大林宣彦氏だったこともまた、数奇な運命を感じる。 (ライター・太田サトル) 「細田守の原点/展」 会期|2026年8月31日(月)まで 会場|CREATIVE MUSEUM TOKYO[東京・京橋] 開館時間|10:00~18:00(最終入館 17:30まで) ※ただし毎週金・土曜日および祝前日、8月11日(火)~14日(金)は20:00まで開館(最終入館19:30) ※AERA 2026年7月20日号より抜粋

太田サトル

2026年8月2日日曜日

ゴールドフィンガーその他



【タワマン】壊す時は誰がお金を払う? https://youtube.com/shorts/yxRx872L6OE?si=G3PeiaeJDcfnkU4Z @YouTubeより

不動産投資の楽待の投稿動画を楽しみましょう!#TikTok https://vt.tiktok.com/ZS4AwSCnp/


@luminous woman: 元動画:https://www.instagram.com/reel/DbgndMAMCRZ/

紀元元年頃にはギリシア=インド間、インド=東アジア間の航路は既にあったといいます。
ですから文化的リレーで古代イスラエルの影響が日本に及んだ可能性はあり得るでしょう。
自分が海路を重視するのは台湾にも神輿のようなものを使った有名なお祭りがあるからです。
陸路にもレスリング、モンゴル相撲という文化の伝播が見られますが文献学的には残念ながら解明不可能です。
ちなみに神道の指導者を禰宜(ネギ)と言いますがこれはヘブル語を容易に連想させます。平安時代の日本にはペルシャ人もいたのですから文化的影響の可能性はやはり排除できません。


GOLDFINGER - EJECTOR SEAT https://youtu.be/PY8zxRjOuak

I am convinced that a car with a similar mechanism (in this case, a Ford) was used in the assassination of JFK in 1963, the year before *Goldfinger* was released. Lyndon Johnson had it sent to a repair shop in a great hurry without conducting a proper investigation.

ゴールドフィンガー公開の前年、1963年のJFK暗殺でも似たようなカラクリを持つ自動車(こちらはフォード社製)が使われたと確信している。リンドン・ジョンソンはろくに検証もせず大急ぎで修理工場送りにした。

I am convinced that a car with a similar mechanism (in this case, a Ford) was used in the assassination of JFK in 1963, the year before *Goldfinger* was released. Lyndon Johnson had it sent to a repair shop in a great hurry without conducting a proper investigation.

‪https://youtu.be/PY8zxRjOuak‬
‪I am convinced that a car with a similar mechanism (in this case, a Ford) was used in the assassination of JFK in 1963, the year before *Goldfinger* was released. Lyndon Johnson had it sent to a repair shop without conducting a proper investigation.‬

https://x.com/fukuko2025/status/2084120009685803052?s=61

ジャン=リュック・ゴダールは私の隣人。村、出会い、交流をエッセイ風に語ります。代表作「勝手にしやがれ」「軽蔑」「気狂いピエロ」他。フランソワ・ト... 自分自身にまで噛み付くような批評性がゴダール映画の魅力です。そうした記号論的操作はある時期限界を迎えましたが、自身が記号を体現しピエロ的に自作に出るようになってからもやはりその映画は魅了的でした。ご冥福をお祈りします。

2026年8月1日土曜日

ロイ・ウィリアム・ニール - Wikipedia

Roy William Neill - Wikipedia

ロイ・ウィリアム・ニール(本名ロランド・ド・ゴストリー、1887年9月4日生まれ、1946年12月14日没)は、アイルランド生まれのアメリカ人映画監督で、バジル・ラスボーンナイジェル・ブルースが主演するシャーロック・ホームズ映画のほぼすべてのプロデュースと監督を務めたことで最もよく知られ、これらは1942年から1946年にかけて制作され、ユニバーサル・ピクチャーズから公開されました。[1]彼はまた、人気のユニバーサル・モンスターズ・フランチャイズの作品である『フランケンシュタイン・ミーツ・ザ・ウルフ・マン』(1943年)を監督しました。

伝記

1919年の映画クルー(左から):トーマス・ウォルシュ(助監督)、ネッド・ヴァン・ブエン(カメラオペレーター)、エドワード・ジェームズ(助監督)、エドワード・ウィナード(カメラオペレーター)、ニール(監督、座っている)

父親が船長であるロイ・ウィリアム・ニールは、アイルランド沖の船で生まれました。ニールはキャリアの大半をアメリカ合衆国に住み、アメリカ市民でした。彼は1917年に無声映画の監督を始め、その後111本の映画を監督し、そのうち55本は無声映画でした。彼はまた、いくつかの作品でRとしてクレジットされました。ウィリアム・ニール、ロイ・W.ニール、そしてロイ・ニール。

ニールは、その印象的なビジュアルスタイルで知られていました。緻密に照明されたシーン、慎重な構図、そして層状の影が1940年代後半のフィルム・ノワールの基調となった(彼の最後の作品である『ブラック・エンジェル』(1946年)はフィルムノワールと見なされています)。ニールの想像力豊かな演出と構図は、当時低予算だったコロンビア・ピクチャーズに注目され、1928年に彼を雇用しました。

ロイ・ウィリアム・ニールはコロンビア大学の信頼できる取締役の一人となりました。彼の最もよく知られているコロンビアの長編は、ジャック・ホルトを題材とした映画『ウィルプール』で、コロンビアの主要スターの一人であるジーン・アーサーを登場させました。また、1935年の『ザ・ブラック・ルーム』という、ボリス・カーロフが二重の役で主演する衣装スリラーです。ニールは、フランク・キャプラ監督の1932年の長編映画『アメリカン・マッドネス』で、クレジットなしの追加シーンも監督しました。

1935年、ニールはコロンビアを離れ、ロンドンで5年間滞在しました。そのロンドンでは、アメリカ人監督にとってより良い機会がありました。イギリスの映画プロデューサー、エドワード・ブラックは、ニールを『レディ・ヴァニッシュズ』の監督に起用しました。しかし、制作の遅延により、ブラックはアルフレッド・ヒッチコックを監督に起用しました。[2]

1942年、ニールはユニバーサル・ピクチャーズのプロデューサー兼ディレクターに就任しました。スタジオ初のシャーロック・ホームズ・ミステリー(ハワード・ベネディクトがプロデュースし、ジョン・ロウリンズが監督)を制作した後、スタジオはロイ・ウィリアム・ニールにプロデューサー兼監督としてシリーズを引き継がすよう任命しました。ニールのユニバーサル映画の大半は雰囲気のあるスリラーですが、彼はミュージカル『リズム・オブ・ザ・アイランド』(1943年)を監督しました。彼の最も有名なユニバーサル作品で、シャーロック・ホームズ作品を除くと、フランケンシュタインが狼男に出会う(1943年)です。

1942年、ユニバーサルの主要作品『Flesh and Fantasy』がプレビューで4つのシークエンスから3つにカットされた際、グロリア・ジーンアラン・カーティスフランク・クレイヴンが出演する削除されたシークエンスは棚上げされました。1944年8月、スタジオはロイ・ウィリアム・ニールに、30分のシークエンスを『The Fugitive』という長編映画に拡大するよう委託しました。ニールは新しい素材を制作しましたが、監督は行いませんでした。グロリア・ジーンが利用できる間、プロジェクトは2週間未満で制作が急ぎで完了し、したがってニールはオリジナルの演出を準備する時間がありませんでした。フィーチャーバージョンは最終的に1944年12月に「Destiny」としてリリースされました。[3]

Destinyの後、ニールはシャーロック・ホームズシリーズをほぼ専ら監督し、1946年までユニバーサルに在籍し続けました。彼はイングランドのロンドン心臓発作により亡くなりました。

ジョー・ダンテ監督は、ニールを監督としてのお気に入りの一人として挙げました。[4]

フィルモグラフィー

参考文献

  1.  テッド・ストラウス(1943年10月8日)シャーロック・ホームズ、死に直面する(1943年)宮殿にてニューヨーク・タイムズ
  2.  Vagg, Stephen(2024年12月1日)忘れ去られたイギリス映画界の大物たち:テッド・ブラックフィルムインク2024年12月1日取得。
  3.  スコット・マクギリヴレイとジャン・マクギリヴレイ、グロリア・ジーン:小さな天国、pp. 163-164、iUniverse、2005年。ISBN 978-0-595-37080-1
  4.  https://www.filmcomment.com/article/guilty-pleasures-joe-dante/ [ベアURL]
https://en.wikipedia.org/wiki/Roy_William_Neill

Roy William Neill

Biography

With his father as the captain, Roy William Neill was born on a ship off the coast of Ireland. Neill lived in the United States for most of his career and was an American citizen. He began directing silent films in 1917 and went on to helm 111 films, 55 of them silent. He was also credited in some works as R. William Neill, Roy W. Neill, and Roy Neill.

Neill was known for his striking visual style: meticulously lit scenes, careful compositions, and layered shadows that would become the tone of film noir in the late 1940s (his last film, Black Angel (1946), is considered a film noir). Neill's imaginative direction and compositions were noticed by then-low-budget Columbia Pictures, which hired him in 1928.

Roy William Neill became one of Columbia's dependable directors. His best-known Columbia features are Whirlpool, a Jack Holt vehicle that introduced one of Columbia's major stars, Jean Arthur; and The Black Room (1935), a costume thriller starring Boris Karloff in a dual role. Neill also directed additional scenes, without screen credit, for Frank Capra's 1932 feature American Madness.

In 1935 Neill left Columbia for a five-year stay in London, where better opportunities existed for American directors. British film producer Edward Black hired Neill to direct The Lady Vanishes. However, due to delays in production, Black engaged Alfred Hitchcock to direct instead.[2]

In 1942 Neill became a producer-director for Universal Pictures. After the studio's first Sherlock Holmes mystery, produced by Howard Benedict and directed by John Rawlins, the studio assigned Roy William Neill to take over the series as both producer and director. Most of Neill's Universal films are atmospheric thrillers, although he did direct one musical, Rhythm of the Islands (1943). His best-known Universal feature, apart from the Sherlock Holmes pictures, is Frankenstein Meets the Wolf Man (1943).

In 1942, when Universal's major production Flesh and Fantasy was recut after its preview from four sequences to three, the deleted sequence starring Gloria Jean, Alan Curtis, and Frank Craven was shelved. In August 1944, the studio assigned Roy William Neill to expand the half-hour sequence into a full-length feature called The Fugitive. Neill produced the new material but did not direct; the project was rushed through production in less than two weeks while Gloria Jean was available, so Neill had no time to prepare any original direction. The feature version was ultimately released in December 1944 as Destiny.[3]

After Destiny, Neill supervised the Sherlock Holmes series almost exclusively; he remained with Universal through 1946. He died in London, England, from a heart attack.

Director Joe Dante cited Neill as one of his favorites as a director.[4]

細田守の「原点」。アニメ業界に対する思いから女性像の描き方までを語る | CINRA

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