2026年8月19日水曜日

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成瀬映画に登場する風景(2)

成瀬映画に登場する風景(2)

成瀬映画に登場する風景


『鰯雲』(1958年)⑥ NEW 2019.12.20


今回のロケ地情報は、神奈川県厚木市で生まれ育ったSさんからメールで情報提供いただいたものをベースに作成した。
Sさんに感謝したい。文中のロケ場所関連内容はすべてSさんからの情報による。Sさんから提供された写真も使用させていただいた。


映画の中で何度も登場する農作業に従事する八重(淡島千景)の姿。場所は現在の「厚木市長谷753」付近。
後ろに映っている山は、落語の「大山詣り」でも有名な神奈川県の丹沢大山国定公園にある大山(おおやま)。標高1252m。
管理者も中学生の頃遠足で行ったことがある。画面写真正面の山の形、左右のこんもりした山から言ってもこの付近でのロケは間違いないだろう。
写真は左下のグーグル地図以外はSさんからの提供。

  



   

     


映画の後半、牛を使って人の田圃の手入れをする賃鋤(チンスキ)をしている初治(小林桂樹)とみち子(司葉子)。
休憩して二人で会話しているところに、自転車に乗った八重(淡島千景)が来てしばらく会話を行う。
ロマンスカーが走る。

ロケ場所は、厚木市船子322-1付近。
同じく写真は左下のグーグル地図以外はSさんからの提供。

 

   

・映画冒頭から何度も登場する八重(淡島千景)の家だが、これは本作の助監督の故・石田勝心監督のメモによると
 厚木ロケではなく、当時「西生田のオープン」と呼ばれていた場所(現:川崎市多摩区菅馬場2丁目付近)
 に建てたオープンセット(美術監督・中古智)とのこと。
 グーグル地図のストリートビューで検索して見てみたが、住宅街になっていて当時の面影はない。


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鰯雲 (映画) - Wikipedia

『急に具合が悪くなる』(soudain)~アソシエーションの予感~

 https://x.com/fukuko2025/status/2089976910164206026?s=61




『急に具合が悪くなる』。対話主義的な知性に満ちた傑作。鳥のフンを寓話的に使うところなどはさすが。ラストの足裏マッサージのシーンが突出して素晴らしい。逆に言うとそこだけしか記憶に残らない。『生きる』みたいに主人公を早めに殺して追悼公演にした方が良かったと思うが散骨シーンは良い。

ワイズ漫画みたいな導入。

‪細かいが、フリッツ・ラング譲りのホワイトボードシーンでの「失われた30年は次世代へのツケ」とかは意味不明。デモクラシー、キャピタリズム、ネイチャーという断面図において『生きる』が批判した官僚制はデモクラシーに対応し、「失われた30年」は官僚制に起因する。

絶対的剰余価値の絶対化は不毛。‬

資本主義の本質は労働者の集合力の余剰が搾取されることだ。

中庭における集団足裏マッサージシーン(砂連尾理じゃれおおさむ監修)はクオリティオブライフに直結し集合力つまり相対的剰余価値を象徴する。

中庭は共有地ではあるがあくまで城壁に囲まれた私有地であり、日本の縁側の方が優れている。

時空図みたいな認知症解説図が優れているが二回も必要ない。

患者同士の相互治療=P2P[Peer to Peer 患者同士の交流]は構造としてはツリーではなくセミラティスであり柄谷行人の言葉で言えばアソシエーション。市場経済を通過した後にようやく辿り着くネーションの高次の回復。ただし劇中の演劇はツリー状なので最後は無理やりP2Pを組み込んでいる。

もう少し『生きる』との比較を考えてみる。
『生きる』の通夜のシーンが素晴らしいアソシエーションの予感を感じさせるのは、中心となる主人公が死んで不在だからだ。
セミラティスは複数の中心と記述されるが、結局強い中心は相互的な様々な線をかき消してしまう。
太陽の光が夜の星を隠すようなものだ。アマテラスが隠れてはじめて下々は宴会が開ける。


参考:
ツリー構造とセミラティス構造
https://note.com/shosho2020/n/ndc93aa5bdc58



主人公がホワイトボードで説明しなければならないのはこの図だ。
権力は人々の横のつながりの分断が本質だからだ。

『急に』のラスト、民間企業という設定にも関わらず官僚の評価を仰ぐシーンで終わる。
これは作劇上の綾のようなものだが、日本もフランスも官僚国家であることは追記しておきたい。
(プロセスを重視した)方法論の開示を信条としている監督のインタビューを読むとそうした問題は織り込み済みだと思うが、『生きる』を見ている観客には自明である。
『悪は存在しない』は『デルスウザーラ』につながるし、今作の自閉症役の見事な演技は『七人の侍』の菊千代を思い出させる。


。。。。。


それは主人公の不在、空虚な中心こそが可能にするものだった。『生きる』の通夜のシーン。一時の交換様式X。

。。。。

アソシエーションの視覚化は難しい。

サッカーにごく稀に現れる。


https://t.co/IHw60XpHaK


https://x.com/fukuko2025/status/2071626672252797332?s=61


« 共産主義は、ウェンブリー・スタジアムで、ハンガリーのホンヴェード・ブダペストがハンガリーを6-3(原文ママ)で破った時、二度、45分間存在した。イギリス人は個人プレーし、ハンガリー人はチームプレーした » ゴダール


cf.

1953  England v Hungary digest

https://youtu.be/7wdW5p3jd2Y


自分はかつてNPOで地域通貨体験ワークショップをよく開催していた。これはアソシエーションの体感を目的とするものだ。

(古代イスラエル人が広めた信用経済においては無産者同士が相互に口座を持つことが出来る。)

。。


 『生きる』に触れているのは流石ですね。あの映画は官僚制を冒頭で批判しますが、本当はここ30年の日本を停滞させたのは官僚制だと思います(だからこの映画で民間企業なのに官僚の審査みたいなものに結論を集約させたのは限界を示していると思います)。それは実はフランスも同じです。脱線しますが消費税はフランスの官僚が輸出大企業支援として編み出したものでこれが日本に入って日本を停滞させたのです。国家資本主義とも言えるので資本主義批判が間違いというわけではないのですが。ラストの演劇でのハプニングは一時的にでもそうした構造を揺るがせるいい描写でした。ただ『生きる』みたいに主人公を早めに殺して追悼公演にしたらどうだったかというシナリオも考えてしまいます。中心のない自由で平等な理想的な構造は主人公という中心の不在が逆に可能にすると思うからです。あと最近有名人のがんによる死亡が多いので抗がん剤を極力使わない治療法の方を描いたもう一人の主人公が発端の映画を見てみたかった。こちらは製薬会社を批判することになるでしょうし楽しくなりようがないですが。




細かいことだがフリッツ・ラング譲りのホワイトボードシーンでの「失われた30年は次世代へのツケ」とか意味不明。

デモクラシー、キャピタリズム、ネイチャーという構想図において『生きる』が批判した官僚制はデモクラシーに対応する。

「失われた30年」は官僚制に起因する。

マルクスの絶対的剰余価値の絶対化不毛だ。


ワイズマンみたいな導入部。

資本主義の本質は労働者の集合力の余剰が搾取されることだ。

中庭における集団足裏マッサージシーンはクオリティオブライフに直結し集合力つまり相対的剰余価値を象徴する。

中庭は共有地ではあるがあくまで城壁に囲まれた私有地であり、日本の縁側の方が優れている。



2026年8月16日日曜日

「再起不能だと思った」細田守が語る“完成しなかった幻の『ハウルの動く城』”…バイト生活を経て、『時をかける少女』で再起するまで | 集英社オンライン

「再起不能だと思った」細田守が語る“完成しなかった幻の『ハウルの動く城』”…バイト生活を経て、『時をかける少女』で再起するまで | 集英社オンライン

東映で培った女性キャラクターの描き方とジレンマ

──細田監督は東映時代に『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』(2002~2003年放送)『ひみつのアッコちゃん(第3作)』(1998~1999年放送)など、女の子向けの作品にも携わっていますよね。そうした経験は、女性キャラクターの描き方にも影響していますか?

細田守(以下同) そうですね。東映アニメーションは特徴的な女の子の描き方をしているような気がします。

人は成長する中で、社会性を帯びていく。抑圧されることもあるし、自分から縛られていってしまうこともある。でも、東映の女の子向け作品は、その手前にいる子どもたちに向けて作られているんです。

──社会から「女の子らしさ」を求められる前、ということでしょうか。

みんなではしゃいだり、けんかしたり、一歩踏み出したり。社会的な規定に組み込まれる前の子どもたちに、もっと自由な姿を見てもらいたい。その精神は、歴史的に培われているものだと思います。

『果てしなきスカーレット』『竜とそばかすの姫』と近作では女性主人公を描いてきた
『果てしなきスカーレット』『竜とそばかすの姫』と近作では女性主人公を描いてきた
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──細田監督はワシントン・ポストのインタビューで「日本のアニメーションは見る側の欲望に寄せて描かれてきた」といったことを話されていました。女の子向け作品を作ってきたことへの矜持もあるのでしょうか。

多少色がついている部分はありますが、基本はそうだと思います。

女性を色っぽく描くことを批判したいわけではない。表現にはいろいろな形がありますから。ただ、それが女性の尊厳や主体性を奪うことにつながっていくのは問題だと思っていて。

そのうえで、自分にはそういう描き方ができない。それは僕の限界でもあるんです。

──限界?

あの記事は、自己批判的な側面がありますね。自分は手法としてそれができないから、人間の成熟を別の形で描こうとしている。でも、やっぱりジレンマはある。