(3ページ目)「クソミソです。ケチョンケチョンです」原節子が小津映画の「紀子役」に抱いていた“ある不満”とは〈小津安二郎生誕120年〉 | 文春オンライン
「クソミソです。ケチョンケチョンです」原節子が小津映画の「紀子役」に抱いていた“ある不満”とは〈小津安二郎生誕120年〉
『原節子の真実』より#1
黒澤、吉村、今井…3人の監督たちが語っていた原節子への不満
黒澤明は『わが青春に悔なし』で、吉村公三郎は『安城家の舞踏会』で、今井正は『青い山脈』で、それぞれ原節子をヒロインに得て評判を取った。けれど、この3人の監督は、節子に主演してもらい成功を収めながら、彼女を褒めるのではなく、期待や不満を公に語っていた。
〈正直に云って、まだ原君の演技力は持て囃す程立派なものではないし、第一原君には、まだ俳優の性根みたいなものが出来て居ない。(中略)この人が適当なトレイニングに堪えるならば今の美しさの三倍位の美しさで輝くのは訳のない事だと〉(『映画ファン』昭和21年12月号/黒澤)
〈出来上った原さんの演技はわり合いに評判もよく、無難であったと思いますが、真実のところ私には、まだまだ愛せない〉(『映画ファン』昭和23年2月号/吉村)
〈与えられた役の人物に完全になりきって演技しているのでなく、その役の人物として生きているのではなく、スクリーンに現れて来るものはやはり原節子が役の人物らしく振舞っているに過ぎない――という感じを受けるのです〉(『近代映画』昭和23年8月号/今井)
黒澤へのライバル心
この3人の中で特に小津が意識していたのは、黒澤明だった。後年、小津は黒澤を高く評価するが、自分がスランプにあった当時はことあるごとにこき下ろしていた。新東宝でフリーの美術助手をしていた永井健児の著作には、うっかり「黒澤のファンだ」と小津の前で洩らして執拗に絡まれる様子が詳しく書かれている。
なぜ、それほど黒澤を意識したのか。自分がスランプに陥るなかで、一作ごとに評価を上げる若い才能に嫉妬と怖れを抱いたからか。あるいは作風に共感できず、それでいて世評が高いことに、いらだちを覚えたからなのか。
理由は諸々考えられるが、やはりここにも亡くなった山中貞雄が影を落としているように思われる。黒澤と山中は、ほぼ同年齢であった。山中は戦場に駆り出されて命を落としたが、なぜか黒澤は一度も戦地へ送られなかった。戦場で地獄を味わった小津は、兵役につかなかった人間を冷ややかに見下すところがあった。山中が生きていれば、間違いなく黒澤のライバルになっていたはずだ、という声が映画界のなかにはあった。
小津は後に、はっきりと黒澤の名前を出して公にも批判するようになる。
「誰にも気づかれぬように消えていきたい」伝説となった女優・原節子が引退するまで
『原節子の真実』より#2
ひとしきり泣くと、踵を返して立ち去った
小津組のキャメラマンだった厚田雄春は、こう回想している。
〈誰も涙を流してしんみりしてた奴なんかいない。ところが原節子さんが来られたというんで、玄関に迎えに出て、入ってこられる原さんの顔みたとたんに急に涙があふれてきて、自然と抱き合って泣き出してしまった。しゃくりあげて、こらえきれなくなったんです〉(『小津安二郎物語』平成元年)
節子は玄関で皆に囲まれてひとしきり泣くと、踵を返して立ち去った。その場にいた記者が後を追いかけ、彼女の短いコメントを取った。
小津の死から5年後、昭和43年(1968)には小津映画を支えてきた脚本家の野田高梧が亡くなった。節子はやはり弔問客が途絶えた深夜、ひっそりと野田家を訪れている。
小津の通夜に姿を見せてから3ヶ月後の昭和39年(1964)3月、節子は東京の狛江の自宅から荷物をすべて運び出すと、鎌倉の義兄夫婦の家に完全に居を移した。狛江の家は、この数年後に家屋だけ取り壊し、そのまま更地として持ち続けた。
「やっと映画に出なくてもすむようになった」
鎌倉に越して後、彼女は友人たちに電話を入れると弾む声でこういったという。
「何も言わずに引っ越ししてごめんなさいね。お金が貯まったから、もう、やっと映画に出なくてもすむようになったのよ」
「贅沢をしなければ、一生食べていけると思う」
東京オリンピックと新幹線の開通に沸き立ち、節子の動向に関心を払う人は少なかった。テレビをつければ古関裕而が作曲した「東京オリンピック・マーチ」が流れてきた。戦争中は軍国歌謡のヒットメーカーであった、あの古関である。
狛江の家は敷地が800坪もあったが、義兄の家は鎌倉郊外の古刹の一角にある借家だった。300坪ほどの敷地内に母屋があり、義兄夫婦と息子の久昭が暮らしていた。節子の部屋は、もともと物置小屋だったところを改装した庭先の小さな離れだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿