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『#キルケーの魔女 』が公開された。予想通りの高品質な絵作り・声・音響だった。しかし #閃光のハサウェイ とはそもそもどういう作品なのか? ネタバレを避け、1mmもガンダム知らないミリしら勢にもわかるよう、書いておこう。
当初ガンダムとは、男たちが女と武器(象徴としてモビルスーツと呼ばれる人型兵器)を奪い合い殺し合う、SFなのに、古代そのものの物語だった。
そこに近代的な倫理の物語、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を組み込んで
・女に「男たちの矛盾する欲望を露呈させる鏡」を持たせ、男たちを操作する姿を
・男たちに、自分の主義主張と矛盾する欲望を発見させ、葛藤する姿を
それぞれ与え「暴力が最終的な勝利をもたらさない結末」を示したのが #富野由悠季 による小説『#閃光のハサウェイ (1989)』。富野の小説では最もすぐれた作品だが、Gジェネでドラマ化されるまで、広く知られてはいなかった。
「男たちが女と武器を奪い合い殺し合う物語」を終わらせる『カラマーゾフの兄弟』をなぞることで、
『閃ハサ』は、ガンダムが始まった宇宙世紀という世界を終わらせようとした。
これはIPとしての自殺行為であり、エンターテインメントから最も遠いガンダムだ。『逆襲のシャア』の大団円で終わらせてもらえなかった抑鬱が、ぶちまけられている。
でも、『キルケーの魔女』を観にいくガンダムオタクのほとんどは「宇宙世紀ガンダムが、女と武器の奪い合いが続くこと」に快感を得てしまう。原作のバッドエンド回避を願ってしまう。
富野が怒り、怒る富野を見てまたガノタが喜ぶ、この循環が40年続き、宇宙世紀は現実の経済活動そしてIPとして、大きくなり続けてきた。
ハサウェイ・ノアが、そして富野が最も憎んだ構造。それが最も成功するという、完全にカラマーゾフ的な因果逆転が、メタ構造にまで起きた。何とも皮肉なことだ。
小説、そして映画の三部作は『カラマーゾフの兄弟』と同じく、人間は武器(暴力・理性・権威)なしで生きられるのか、を問うている。
あなたもこの物語の一部だ。
快楽に溺れるのか、問いを背負う観客になるのか、それもあなたの自由だ。
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