2025年4月1日火曜日

「エクソシスト」/疑問点整理&DC版・劇場公開版・原作の比較 - どうながの映画読書ブログ

「エクソシスト」/疑問点整理&DC版・劇場公開版・原作の比較 - どうながの映画読書ブログ

「エクソシスト」/疑問点整理&DC版・劇場公開版・原作の比較

久々に観た「エクソシスト」がとても面白かったので、原作本を再読、DVDのオーディオコメンタリーを倍速で視聴してみました。

改めてみて色々気付くところもあり、ストーリー上分かりにくいと思った疑問点と、73年の劇場公開版とディレクターズカット版の違いについてなど、思ったところを箇条書きであげていきたいと思います。

◆バークを殺したのはリーガン?
クリスの友人・映画監督のバークを殺したのは悪魔が取り憑いたリーガンでした。

途中カールという執事がバークと口論している場面があり、自分はこの人をかなり怪しいと思ってみてしまいました。

f:id:dounagadachs:20210212133417j:plain

原作を読むとカールには麻薬中毒の娘がいて、妻にその生存を隠しながら密かに面会していたということが発覚、事件時のアリバイが立証されているので全くの無罪です。

◆リーガンの枕元に十字架を置いたのは誰?
信仰のないクリスはリーガンの枕元に十字架が置いてあるのを発見し皆を問い詰めますが、全員否定。

ここも原作から補完するかたちになりますが、若い女性秘書・シャロンは仏教にハマっているらしいので彼女とは考えにくいです。 

麻薬中毒に苦しむ自分の娘と重ねて心配に思ったカールが置いたと考えるのが妥当ではないかと思いました。

フリードキンもオーコメで「カールかその妻のウィリーだろう」と語っています。

良くなりますようにって思っての行動で悪気があってしたわけじゃなさそうです。

◆マリア像を汚したのは誰だったのか?
同時進行で教会でマリア像が汚される事件が起き、警察はこちらも調査していました。 

この事件は「町から信仰が失われている」ことを象徴的に描きたかっただけで特に犯人とか粗筋に関係ないのかなと思っていたのですが、マリア像に付けられた粘土はリーガンが使っていたものと同じだそうです。(※フリードキン発言)

f:id:dounagadachs:20210212133354j:plain

同様に原作でも「リーガンが工作で使っていたのと同じ塗料がついてる」とありました。

近所の教会とはいえ子供のリーガンが夜中に忍び込んで一仕事やるのはかなり難しそうですが、出来てしまうのが悪魔の所業なのでしょうか。

◆クリスはバークと本当に付き合ってた?
小説を読んでも明確に男女の仲という描写はなく、友達以上恋人未満な関係に思えました。

しかしこういう事には子供の方がずっと敏感で、実際にそういう関係でなくてもリーガンの中で「行く行くそうなる」と思わせる何かがあったのかもしれません。

娘を愛するクリスも決して完璧な親ではなく、「もう少し子供の気持ちを省みていれば悪魔は取り憑かなかったのか?」などと思わせるところがこのドラマの怖いところだと思います。

◆なぜバークはリーガンの部屋に行ったのか?
シャロンが薬局に行かねばならず偶然家に立ち寄ったバークに家を任せたということでしたが、リーガンの部屋にまで行く必要があったのか??

小説を読むとバークの霊(のフリをした悪魔)が「助けを呼ぶ声がしたので部屋に行った」と語っていました。

しかし映画の方のバークはどうにも嫌な奴にみえて「業界人が娘に変ないたずらしに行ったんじゃないだろうか」「本当に自分で窓から落ちたんじゃないんだろうか」などと疑心暗鬼にさせられ、こういう不確かで曖昧なところが映画版の怖い(凄い)ところだと思います。

◆最後のカラス神父は自殺?
ラストシーン、カラス神父が窓から飛び降りる場面は「悪魔がカラス神父に取り憑いて自殺に追い込んだ」と解釈した人が公開当時かなりいたそうです。

確かにカラス神父の表情が、悪魔の取り憑いた顔→本人の顔に戻る。そして本人の顔のまま窓にダイブするので、「悪魔は逃げて神父だけ殺されてしまった」と思う人が多かったのかもしれません。

f:id:dounagadachs:20210212133510j:plain

制作陣の意図としては「悪魔に支配されリーガンを殺しそうになったのを自ら犠牲にすることで打ち勝ってみせた」ということらしく、自分も身を賭して少女の命を救ったのだと思ってみました。

◆73年公開版とディレクターズカット版のラストの違いは?
73年劇場公開版のラストでは、メリン神父が拾いそのあとカラス神父に渡ったメダルをダイアー神父がクリスに渡そうとします。しかしクリスがそれを「あなたが持っていて」と言って受け取らずに車が発車。1人残ったダイアー神父がカラス神父の亡くなった階段をみつめ思いに浸るところで終わります。

メダルはカラス神父の心、信仰心を象徴するものだと思うので、助けてもらったのにこれを返してしまうクリスが冷たく映ります。

親しい人が持っているべきと良かれと思っての行動だったとも受け取れますが…

f:id:dounagadachs:20210212133859j:plain

対してディレクターズカット版のラストは、クリスがメダルを返そうとするもダイアー神父がそれをクリスの手に戻して車が発車。

「記憶を失ったはずのリーガンが神父の襟元をみてダイアーを抱きしめる」という先のシーンも生きて、カラス神父の思い、善なる心が引き継がれた…という感じがします。

加えてカラス神父を思っていたダイアー神父の下にキンダーマン警部が現れ、2人の友情が始まりそうなエンディング。ここも一段と明るくなっていて、原作に忠実です。

f:id:dounagadachs:20210212133431j:plain

73年公開版の方は冷たく突き放した感じがフリードキンらしい。寂寞感があってこちらも素晴らしいですが、一筋希望を残したようなディレクターズカット版のエンディングの方が個人的には好きでした。

◆ラスト以外でディレクターズカット版に追加されてる点は?

その他ディレクターズカット版には、冒頭ジョージタウンの景色が追加され、リーガンの診察場面/医者とのやり取りのシーンが増えています。

テンポの良さは損なわれるものの、得体の知れない病に冒されているようなリアリティがさらに高められた面もあったように思います。

また所々に「悪霊の顔がサブリミナルのようにあちこちにチラッと映る」というエフェクトも加えられていました。

f:id:dounagadachs:20210212133402j:plain

「一連の出来事は悪魔の仕業」と明快にしたかったのかもしれませんが、これが返って陳腐になっているように思われます。

リーガンが階段をブリッジして降りてくる有名な「スパイダーウォーク」もディレクターズカット版のみの場面。

f:id:dounagadachs:20210212133409j:plain

自分はディレクターズカット版が劇場公開されたときに映画館に観に行ったのですが、この場面で笑いに近いどよめきが起こったのを憶えています。

怖さを強調しすぎて滑稽になってしまったような節があり、オリジナルの「悪魔の仕業なのかギリギリまで分からないリアルさ」が損なわれて、悪霊エフェクト含めここはなかった方が良かったのではないかと思いました。

◆原作はより宗教色が濃い
映画の脚本も原作者ブラッティが担当していて映画はほぼ原作に忠実な作りでした。

あえて言うなら原作はよりメリン神父のキャラクターが掘り下げられていて、信仰のテーマが強調されているように思われます。

「つまり悪霊の目標は、取り憑く犠牲者にあるのではなく、われわれ…われわれ観察者が狙いなんだと。」
「やつの狙いは、われわれを絶望させ、われわれのヒューマニティを打破することにある。」

こうした部分を読むと何となく旧約聖書ヨブ記が思い出されます。

ヨブ記では…
信仰に厚い人ヨブについて悪魔が「そういられるのは恵まれてるからだ」と評し、それを聞いた神は「ヨブの持ち物を好きにしていい」と悪魔に許可を出します。

そうしてヨブは財産も家族も失い大病を患って…と地獄のような目に遭いながら信仰を試されていきます。

「この世には苦難もあるがそれと対峙してなお善を保てる人間の存在、人間の善性こそ神の作られたもの」というのが信仰ある人の受け止め方なのかなと思いました。(どうしても神様鬼畜すぎるよ!と思ってしまいますが)

◆鬼畜フリードキンだから撮れた傑作
ブラッティはフリードキンのことを「信仰心がない」「だけど正直な人」と評していて、エンディングなど不服に思うところもあったものの映画の出来は認めているようでした。

そしてフリードキンは過去に自ら行った鬼畜エピソードを語る、語る…

イラクでの撮影では106歳の老婆に6回NGを出してヘトヘトにさせた
・悪魔の声を演じる声優さんをイスに縛り付け、タバコ3箱吸わせて生卵飲ませて演技させた  

そんな人が「これは信仰心の映画です」と語っているのが何だか可笑しくて笑ってしまったのですが、そんな情容赦ない徹底したリアル追求主義が超絶真面目な信仰心探求のテーマと上手く溶け合って、「エクソシスト」をただならぬホラーにしたのではないかと思いました。

個人的には信仰悪魔うんぬんよりカラス神父のキャラクターと身内が病気になった辛さを克明に描くドラマの方に心揺さぶられます。

dounagadachs.hatenablog.comnormal

エクソシスト」の考察は昔読んだ「映画秘宝」の特集が読み応えがあってすごく面白かった記憶があるのですが、部屋を探しても雑誌がどうにも見当たらず、もし見つけたら照らし合わせたいところです。

あとブラッティが監督したという「エクソシスト3」を観てないので、こちらも改めてみたい!と思いました。

賈島「尋隠者不遇、度桑乾」、       李賀1「蘇小小墓」 | 山中しげひろのブログ

李賀3[夢天、秋来、将進酒]、李賀の詩の特徴、漢詩の散文訳と自由詩的訳 | 山中しげひろのブログ

李賀3[夢天、秋来、将進酒]、李賀の詩の特徴、漢詩の散文訳と自由詩的訳

中唐—21

参照文献

一 松枝茂夫編 中国名詩選(下)(岩波文庫)
二 黒川洋一編 李賀詩選(岩波文庫)

  松枝茂夫(1905—1995)元東京都立大学教授
  黒川洋一(1925—2004)元大阪大学教授

文献一は全巻で600余りの詩の解説と訳が記されている。
散文訳と註には門下生と思われる方たちが協力している。

詩題、どんな詩であるかの簡単な説明、漢詩と訓読文、
散文訳、比較的簡単な語釈の順に読みやすくまとめ
られている。

但し、類書と同じく、それから詩の香りまで感じられる
散文訳は多くない。
一般には、訳詩(人により訓読文を含む)にするか、
エッセイ風の散文にしない限り、詩情を伝えるのは
難しいと思う。


文献二では訳を最初に記し、その後に漢詩と訓読文を
記し、ついで詳しい語釈を記している。
訳は自由詩的で新鮮に感じた。
この書はごく最近見たもの。


    夢天(天を夢む)  李賀   

  老兎寒蟾泣天色  老兎 寒蟾(かんせん) 天色に泣き
  雲楼半開壁斜白  雲楼(うんろう)半ば開き 壁斜めに白し
  玉輪軋露湿団光  玉輪露に軋(きし)って団光(だんこう)湿い
  鸞珮相逢桂香陌  鸞珮(らんぱい) 相逢う 桂香の陌(みち)
  黄塵清水三山下  黄塵 清水 三山の下(もと)
  更変千年如走馬  更変(こうへん)すること千年 走馬の如し
  遥望斉州九点煙  遥かに望めば斉州(せいしゅう) 九点の煙り
  一オウ海水杯中瀉 一オウの海水 杯中に瀉(そそ)

   オウはさんずいへんに弘。

     「漢詩の和訳文」

  老兎と寒そうな蝦蟇(がま)が天空で泣いている

  雲の楼が半ば開いて、壁は斜めに白い

  玉輪が露にきしって、月の光を湿らせている

  桂の香る道で佩玉を持った仙女たちが行きかっている

  眼下の三山の麓には黄塵の陸地と青い海があるが、

  その千年の変化も、走る馬のように瞬く間に変わってゆく

  遥かに中国全土を望めば、九点の煙りにしか見えない

  一面の海水も一個の杯に注いだほどのものだ


     天を夢む     

  月に住む老いし兎と寒き蝦蟇(がま)が天に向かひて
  涙流せば、
  雲作る楼の扉が半ば開きその壁見れば斜に白し 

  露の中わだちきしらせ動きゆく玉輪の月の光が湿る

  木犀の香る道にて佩玉を帯びたる仙女たちが行きかふ

  眼下には黄色き陸と青き海が三神山の下に広がる

  その陸と広き海とは千年の間(ま)に速やかに
  入れ替はりたり 
  はるかなる中国見ればその陸地はただ九つの煙りの
  ごとし
  一面の海の水も杯にそそぎし水のごとくに見ゆる

    
   「老兎寒蟾」月の中に棲むという兎と蝦蟇。

   「桂香」木犀の香り。
       月には桂(木犀)の大木が生えているという。

   「雲楼」雲の峰を月宮にたとえたもの。

   「三山」海上に蓬莱•方丈•瀛州という三つの神山
       (神仙の住む島)があるという。

   「千年如走馬」歳月の過ぎやすいことのたとえ。

   「九点の煙」九つの点のような煙り。
         古代、中国は九つの州に分けられていたという。
   
   「一オウ海水」一たまりの海水。  
   「オウ」水が広く深いさま。


  参考 黒川洋一の訳(文献二)

      天を夢む

  月に棲む老いたる兎と寒げなる蟇(ひき)とほの白き
  天に向かいて悲しみ泣けば

  雲の高殿は半ばその扉を開きそそり立つ壁は斜めに
  白く輝けり

  玉の車輪の露にきしり円き光の塊のしとどに
  濡れそぼつなか

  鸞珮を帯びるたる仙女たちは木犀のにおう道に
  行きかう

  下界なる三神山のほとり黄色き砂塵はたちまちに
  清き水となり

  その移り変わりの速やかなるは千年も走る馬にも似

  遥かに見やれば中つ国は靄のうちに蠢(うごめ)く小さき
  九つの点にして

  ひとたまりの海原はさながらに杯に注がれし水の
  ごとくなり



    秋来(秋来(きた)る)  李賀  


     「漢詩の和訳文」

  桐の葉を吹く風は心を驚かし壮士が苦しむ

  灯火が弱くなり、月光のもとキリギスが
  泣いている
  私のこの一巻の書を誰が見るであろうか

  紙魚(しみ)にむしばまれて空しく粉々に
  なるのではないか

  そうした思いに引かれていると、私の腸はまっすぐに
  なり死にそうになる
 
  雨は冷たく古(いにしえ)のすぐれた詩人がこの書生を
  弔ってくれるであろう

  秋の墓では死者たちが鮑照の詩を唄ってくれるであろう

  私の恨みをこめた血は千年後には土中の碧玉となって
  いるであろう

  
     秋の訪れ  

  桐の葉を吹く秋風に驚きて心の中は苦しきばかり

  灯火(ともしび)は暗く虫らは一面の月の光りに
  か細く鳴き居り 

  わが書簡は紙虫(しみ)に粉々にむしばまれそれを空しく
  見る人やある 

  今宵われ冷たき雨の降る中で死せば香魂われを弔はん

  亡者らが墓の周りで鮑照の詩を唱ひつつわれを迎へん 

  恨(うらみ)こめし血が固まれば千年後土の中にて
  碧玉とならん

   
   「香魂」古人の香ぐわしい魂。
       文献二では不遇な人生を送った過去の文人たちを
       さすと見る。

   「鮑照」南北朝時代、宋の詩人。
    官位は低かったが、詩人として優れていた。
    参軍であった時、反乱軍に殺された。
    その生涯と詩が李賀の共感を呼んだのであろう。

   「鮑照の詩」文献一、二によれば「代コウ里行」や
        「代挽歌」をさす。
              コウはくさかんむりに高。
   「コウ里」墓地。

   「挽歌」葬式の時に歌う、死者を弔う悲しみの歌。

   「代挽歌の代」なぞらえるの意味。

   「月光のもと」文献一では「寒素」は冷たそうな白絹。
          月の光の形容。


          文献二では貧乏ぐらしと訳している。
          李賀の「傷心行」にある
         「病骨幽素を傷む」の幽素と
          同意とする説に従ったもの。


 
    将進酒(しょうしんしゅ)  李賀   


     「漢詩の和訳文」

  瑠璃の杯は濃い琥珀色

  小さな桶から酒が滴って、紅の真珠のようだ

  竜を烹て、鳳をつつみ焼きして玉脂を泣かせれば

  薄絹の屏風と刺繍をした幕が香りを囲む

  竜の笛を吹き、わに皮の鼓を打てば

  白い歯と腰の細い美女たちが舞う

  まして今は春、日はまさに暮れようとしている

  桃の花が紅い雨のように乱れ散る

  君に勧める、終日酩酊して酔い給え

  酒はあの酒飲みの劉伶の墓まではやって来ないのだから
  
  
     まさに酒を進めん

  琥珀色のグラスを取れば小桶より紅の真珠の酒が滴る 

  竜を煮て鳳(おおとり)つつみ焼きをれば脂が哀れな
  泣き声はなつ 

  うす絹の屏風と刺繍のたれ幕が香ばしき風を囲みたり

  竜笛に鰐皮の鼓合はせれば皓歯細腰の美女が舞ひけり

  春の日も暮れんとすれば桃の花は紅雨のごとく
  乱れ散るなり

  いざ君よ酩酊したまへ酒飲みの劉伶墓(りゅうれいぼ)にも
  酒は届かず


    
   「劉伶」竹林七賢人の一人。
       大酒のみで自分が死んだら酒瓶(さかがめ)
       一緒に埋めてくれと言ったという。


  参考 「蘇小小歌」黒川洋一訳(文献二)

  「蘇小小墓」の詩題は底本の違いにより「蘇小小歌」と
   なっている。

     蘇小小の歌

  幽蘭に置く露は
  啼ける眼に宿る涙か
  契りを結ぶ人の無ければ
  春がすみ裁つによしなし
  草を茵(しとね)とし
  松を蓋(かさ)となす
  風は裳(もすそ)と乱れ
  水は珮玉(おびだま)と鳴る

  油壁の車して
  日の暮れに人を待つ
  青白き鬼火の提灯(あかり)
  ゆらゆらと侘しく燃ゆる
  西陵のほとり
  雨風のともども黒し
 (漢詩が風雨晦(くら)しとなっている。)

  
  「蘇小小歌」の訳の後半は佐藤春夫の訳を
  「ややことばを変えながら引き継いだ」と
   本の「まえがき」に記している。

  「無物結同心」を契りを結ぶ人無し、
  「煙花」を春がすみし
としていることが
   この訳の特徴と思う。

  「煙花」には「春がすみ」の意味がある。
   しかし、「無物結同心」を恋人と「同心を結ぶ物が無い」
   ではなく、「契りを結ぶ人が無い」となぜ訳すのか分から
   ない。


  余談 李賀の詩の特徴と訳の難しさ

  「示弟」•「出城寄権キョ楊敬之」のような事実に基づく詩は
   別として、「李憑箜篌引」•「夢天」•「蘇小小墓」•
  「秋来」のような想像(幻想)に基づく詩は、想像をまじえて
   訳す
ことになり、従って種々の訳が存在しうる。

   それは詩人の憶いが言葉として明確に表されていない
   ためである。

   それがかえって李賀を特異な詩人として印象づけ、
   不幸な夭逝の詩人であることも合わせて、魅力を感じる
   人が多いように思われる。

   李白にも「蜀道難」のような想像に基づく傑作があるが、
   あいまいな表現はないと思う。

李賀3[夢天、秋来、将進酒]、李賀の詩の特徴、漢詩の散文訳と自由詩的訳 | 山中しげひろのブログ

李賀3[夢天、秋来、将進酒]、李賀の詩の特徴、漢詩の散文訳と自由詩的訳 | 山中しげひろのブログ

李賀3[夢天、秋来、将進酒]、李賀の詩の特徴、漢詩の散文訳と自由詩的訳

中唐—21

参照文献

一 松枝茂夫編 中国名詩選(下)(岩波文庫)
二 黒川洋一編 李賀詩選(岩波文庫)

  松枝茂夫(1905—1995)元東京都立大学教授
  黒川洋一(1925—2004)元大阪大学教授

文献一は全巻で600余りの詩の解説と訳が記されている。
散文訳と註には門下生と思われる方たちが協力している。

詩題、どんな詩であるかの簡単な説明、漢詩と訓読文、
散文訳、比較的簡単な語釈の順に読みやすくまとめ
られている。

但し、類書と同じく、それから詩の香りまで感じられる
散文訳は多くない。
一般には、訳詩(人により訓読文を含む)にするか、
エッセイ風の散文にしない限り、詩情を伝えるのは
難しいと思う。


文献二では訳を最初に記し、その後に漢詩と訓読文を
記し、ついで詳しい語釈を記している。
訳は自由詩的で新鮮に感じた。
この書はごく最近見たもの。


    夢天(天を夢む)  李賀   

  老兎寒蟾泣天色  老兎 寒蟾(かんせん) 天色に泣き
  雲楼半開壁斜白  雲楼(うんろう)半ば開き 壁斜めに白し
  玉輪軋露湿団光  玉輪露に軋(きし)って団光(だんこう)湿い
  鸞珮相逢桂香陌  鸞珮(らんぱい) 相逢う 桂香の陌(みち)
  黄塵清水三山下  黄塵 清水 三山の下(もと)
  更変千年如走馬  更変(こうへん)すること千年 走馬の如し
  遥望斉州九点煙  遥かに望めば斉州(せいしゅう) 九点の煙り
  一オウ海水杯中瀉 一オウの海水 杯中に瀉(そそ)

   オウはさんずいへんに弘。

     「漢詩の和訳文」

  老兎と寒そうな蝦蟇(がま)が天空で泣いている

  雲の楼が半ば開いて、壁は斜めに白い

  玉輪が露にきしって、月の光を湿らせている

  桂の香る道で佩玉を持った仙女たちが行きかっている

  眼下の三山の麓には黄塵の陸地と青い海があるが、

  その千年の変化も、走る馬のように瞬く間に変わってゆく

  遥かに中国全土を望めば、九点の煙りにしか見えない

  一面の海水も一個の杯に注いだほどのものだ


     天を夢む     

  月に住む老いし兎と寒き蝦蟇(がま)が天に向かひて
  涙流せば、
  雲作る楼の扉が半ば開きその壁見れば斜に白し 

  露の中わだちきしらせ動きゆく玉輪の月の光が湿る

  木犀の香る道にて佩玉を帯びたる仙女たちが行きかふ

  眼下には黄色き陸と青き海が三神山の下に広がる

  その陸と広き海とは千年の間(ま)に速やかに
  入れ替はりたり 
  はるかなる中国見ればその陸地はただ九つの煙りの
  ごとし
  一面の海の水も杯にそそぎし水のごとくに見ゆる

    
   「老兎寒蟾」月の中に棲むという兎と蝦蟇。

   「桂香」木犀の香り。
       月には桂(木犀)の大木が生えているという。

   「雲楼」雲の峰を月宮にたとえたもの。

   「三山」海上に蓬莱•方丈•瀛州という三つの神山
       (神仙の住む島)があるという。

   「千年如走馬」歳月の過ぎやすいことのたとえ。

   「九点の煙」九つの点のような煙り。
         古代、中国は九つの州に分けられていたという。
   
   「一オウ海水」一たまりの海水。  
   「オウ」水が広く深いさま。


  参考 黒川洋一の訳(文献二)

      天を夢む

  月に棲む老いたる兎と寒げなる蟇(ひき)とほの白き
  天に向かいて悲しみ泣けば

  雲の高殿は半ばその扉を開きそそり立つ壁は斜めに
  白く輝けり

  玉の車輪の露にきしり円き光の塊のしとどに
  濡れそぼつなか

  鸞珮を帯びるたる仙女たちは木犀のにおう道に
  行きかう

  下界なる三神山のほとり黄色き砂塵はたちまちに
  清き水となり

  その移り変わりの速やかなるは千年も走る馬にも似

  遥かに見やれば中つ国は靄のうちに蠢(うごめ)く小さき
  九つの点にして

  ひとたまりの海原はさながらに杯に注がれし水の
  ごとくなり



    秋来(秋来(きた)る)  李賀  


     「漢詩の和訳文」

  桐の葉を吹く風は心を驚かし壮士が苦しむ

  灯火が弱くなり、月光のもとキリギスが
  泣いている
  私のこの一巻の書を誰が見るであろうか

  紙魚(しみ)にむしばまれて空しく粉々に
  なるのではないか

  そうした思いに引かれていると、私の腸はまっすぐに
  なり死にそうになる
 
  雨は冷たく古(いにしえ)のすぐれた詩人がこの書生を
  弔ってくれるであろう

  秋の墓では死者たちが鮑照の詩を唄ってくれるであろう

  私の恨みをこめた血は千年後には土中の碧玉となって
  いるであろう

  
     秋の訪れ  

  桐の葉を吹く秋風に驚きて心の中は苦しきばかり

  灯火(ともしび)は暗く虫らは一面の月の光りに
  か細く鳴き居り 

  わが書簡は紙虫(しみ)に粉々にむしばまれそれを空しく
  見る人やある 

  今宵われ冷たき雨の降る中で死せば香魂われを弔はん

  亡者らが墓の周りで鮑照の詩を唱ひつつわれを迎へん 

  恨(うらみ)こめし血が固まれば千年後土の中にて
  碧玉とならん

   
   「香魂」古人の香ぐわしい魂。
       文献二では不遇な人生を送った過去の文人たちを
       さすと見る。

   「鮑照」南北朝時代、宋の詩人。
    官位は低かったが、詩人として優れていた。
    参軍であった時、反乱軍に殺された。
    その生涯と詩が李賀の共感を呼んだのであろう。

   「鮑照の詩」文献一、二によれば「代コウ里行」や
        「代挽歌」をさす。
              コウはくさかんむりに高。
   「コウ里」墓地。

   「挽歌」葬式の時に歌う、死者を弔う悲しみの歌。

   「代挽歌の代」なぞらえるの意味。

   「月光のもと」文献一では「寒素」は冷たそうな白絹。
          月の光の形容。


          文献二では貧乏ぐらしと訳している。
          李賀の「傷心行」にある
         「病骨幽素を傷む」の幽素と
          同意とする説に従ったもの。


 
    将進酒(しょうしんしゅ)  李賀   


     「漢詩の和訳文」

  瑠璃の杯は濃い琥珀色

  小さな桶から酒が滴って、紅の真珠のようだ

  竜を烹て、鳳をつつみ焼きして玉脂を泣かせれば

  薄絹の屏風と刺繍をした幕が香りを囲む

  竜の笛を吹き、わに皮の鼓を打てば

  白い歯と腰の細い美女たちが舞う

  まして今は春、日はまさに暮れようとしている

  桃の花が紅い雨のように乱れ散る

  君に勧める、終日酩酊して酔い給え

  酒はあの酒飲みの劉伶の墓まではやって来ないのだから
  
  
     まさに酒を進めん

  琥珀色のグラスを取れば小桶より紅の真珠の酒が滴る 

  竜を煮て鳳(おおとり)つつみ焼きをれば脂が哀れな
  泣き声はなつ 

  うす絹の屏風と刺繍のたれ幕が香ばしき風を囲みたり

  竜笛に鰐皮の鼓合はせれば皓歯細腰の美女が舞ひけり

  春の日も暮れんとすれば桃の花は紅雨のごとく
  乱れ散るなり

  いざ君よ酩酊したまへ酒飲みの劉伶墓(りゅうれいぼ)にも
  酒は届かず


    
   「劉伶」竹林七賢人の一人。
       大酒のみで自分が死んだら酒瓶(さかがめ)
       一緒に埋めてくれと言ったという。


  参考 「蘇小小歌」黒川洋一訳(文献二)

  「蘇小小墓」の詩題は底本の違いにより「蘇小小歌」と
   なっている。

     蘇小小の歌

  幽蘭に置く露は
  啼ける眼に宿る涙か
  契りを結ぶ人の無ければ
  春がすみ裁つによしなし
  草を茵(しとね)とし
  松を蓋(かさ)となす
  風は裳(もすそ)と乱れ
  水は珮玉(おびだま)と鳴る

  油壁の車して
  日の暮れに人を待つ
  青白き鬼火の提灯(あかり)
  ゆらゆらと侘しく燃ゆる
  西陵のほとり
  雨風のともども黒し
 (漢詩が風雨晦(くら)しとなっている。)

  
  「蘇小小歌」の訳の後半は佐藤春夫の訳を
  「ややことばを変えながら引き継いだ」と
   本の「まえがき」に記している。

  「無物結同心」を契りを結ぶ人無し、
  「煙花」を春がすみし
としていることが
   この訳の特徴と思う。

  「煙花」には「春がすみ」の意味がある。
   しかし、「無物結同心」を恋人と「同心を結ぶ物が無い」
   ではなく、「契りを結ぶ人が無い」となぜ訳すのか分から
   ない。


  余談 李賀の詩の特徴と訳の難しさ

  「示弟」•「出城寄権キョ楊敬之」のような事実に基づく詩は
   別として、「李憑箜篌引」•「夢天」•「蘇小小墓」•
  「秋来」のような想像(幻想)に基づく詩は、想像をまじえて
   訳す
ことになり、従って種々の訳が存在しうる。

   それは詩人の憶いが言葉として明確に表されていない
   ためである。

   それがかえって李賀を特異な詩人として印象づけ、
   不幸な夭逝の詩人であることも合わせて、魅力を感じる
   人が多いように思われる。

   李白にも「蜀道難」のような想像に基づく傑作があるが、
   あいまいな表現はないと思う。

李賀2「李憑箜篌引、出城寄権キョ楊敬之、示弟」 | 山中しげひろのブログ

李賀2「李憑箜篌引、出城寄権キョ楊敬之、示弟」 | 山中しげひろのブログ

李賀2「李憑箜篌引、出城寄権キョ楊敬之、示弟」

中唐—20

    李憑箜篌引(李憑(りひょう)の箜篌(くご)の引(うた)) 李賀  

  呉の弦と蜀の桐とで作りたるハープを秋の
  空のもと弾けば、
 
  白雲はくずれて流れず竹に江娥 (こうが) 、涙を注ぎ
  素女(そじょ)は愁へん 

  竪琴の名手の李憑が弾きし音(ね)はそは崑崙(こんろん)
  玉砕く音(おと)か、 

  鳳凰の叫びし声か蓮花(はすはな)の露に泣く音か
  蘭の笑ひ声 

  十二門の凍えし光も融けゆるみハープの調べは
  天子も動かす 

  石を煉り女(じょかし)が天を繕(つくろ)へば石は破れて
  秋雨漏れん
       は禍のしめすへんを女へんに変えた字。
  夢の中もしも李憑が神山(しんざん)に入りて仙女に
  曲教ふれば、

  老いし魚(うお)いたく驚き波に跳ね痩せし蛟(みずち)
  海にて舞はん

  かの呉質月にて眠らず聞きほれて桂の露は
  兎を濡らす

   
     これは李憑という箜篌の名人をたたえた詩

    「箜篌」は今のハープに似た二十三絃の竪琴。

    「江娥」湘江の二女神。
        尭帝の娘で、舜の后となったが、
        舜が巡幸先で死んだのを悲しみ、
        竹に涙を注いだ。

    「崑崙」山の名。

    「女カ氏」中国古代の伝説上の女帝で五色の
         石を練って天の割れた所を補修した。

    「素女」昔の仙女の名で琴をひくのが巧みであった。

    「蛟」蛇に似てからだがよじれ四つ足を持つという
       想像上の動物(竜の一種)。

    「呉質」呉剛の誤記と考えられている。

    「呉剛」仙術を学んで罪を犯し、
        月世界に流されて、
        高い桂の木を切らされたが、
        いくら切っても
        木の傷はすぐに元に服した。  





    出城寄権キョ楊敬之 李賀
       (城を出でて権キョ・楊敬之(ようけいし)に寄す)

          キョは據のてへんを王へんに変えた字。

            訓読文
  草暖雲昏萬里春  草は暖かく雲は昏し 萬里の春
  宮花払面送行人  宮花(きゅうか) 面を払って行人を送る
  自言漢剣当飛去  自ら言う 漢剣当(まさ)に飛び去るべしと
  何事還車載病身  何事ぞ 還車(かんしゃ)に病身を載せんとは

            和訳文
  草暖雲昏萬里春  草は暖かく、雲はくらく、万里が春だ
  宮花払面送行人  宮城の花が顔にふれ、去り行く人を送る
  自言漢剣当飛去  自ら漢剣はまさに飛び去るべしと言っていたが  
  何事還車載病身  何たる事か、病身を車に乗せんとは。

     二人の友に寄せて

  草も木も暖かくして雲くらく万里に渡り
  春は来にけり

  宮城の花飛び来 (きた) り帰り行く人の顔なで
  慰めにけり   

  かの漢の高祖の剣の如くして空へと我も
  飛ばんとせしに、

  何ごとぞ車の上に病身を乗せて郷里に
  帰り行くとは


   
    これは志をとげぬまま、長安を去り故郷に
    帰る際に、二人の友に与えた詩。

   「漢剣」晋代、宮中の宝庫が焼けたとき、漢の
       高祖の用いた剣が、屋根をつき破って
       飛び去ったという。




    示弟(弟に示す)  李賀   


  別弟三年後    弟と別れて三年後
  還家十日餘    家に帰って十日余り
  リョクレイ今夕酒 リョクレイが今晩の酒
  ショウ帙去事書  持ちかえった書物はあさぎ色の帙に
           納められている
  病骨独能在    病骨の身で一人帰りよくここに居る
  人間底事無    世間に何事か無かろうか
  何須問牛馬    牛馬かと問われようとも構はない
  抛擲任梟盧    さいころは投げられ、その目にまかすのみだ


     弟に与える

  弟と別れて三年帰宅して既に十日の日は過ぎにけり

  今宵飲む酒はリョクレイ去事の書をおさめし帙(ちつ)
  あさぎ色なり  

  病身で生きながらへて帰りたり、この世の中に何事かなからん 

  牛馬(うしうま)と呼ばれやうとも投げられし采(さい)の目にただ
  身をまかすのみ

     リョクは緑のいとへんを酉へんに変えた字。
     レイは儒のにんべんを酉へんに変えた字。
     ショウは糸へんに相。

   
    この詩は三年前、長安に出たが不合理な理由で
    進士になる道がとざされ、低い官職についたものの、
    やがて病気になり帰郷した時の作。
    作者二十三歳。

   「リョクレイ」湖南省衡陽付近に産する緑酒。

   「ショウ」あさぎ色。またあさぎ色した絹の布。

   「帙」和とじの本を包むおおい(カバー)。
   
   「人間底事無」訓読みは、人間(じんかん)底事(なにごと)か無からん。
          世間には何事(きれいでない事、
          不合理な事)がなかろうか。
         (進士の受験が許されず、前途が閉ざされた事に
          対する不満•憤りの意が込められている。)

   「人間(じんかん)」人が住む世。世間。

   「底」疑問詞。唐代•宋代の俗語。
      何と同じ。なんぞ•なにと訓読する。
  
   「梟盧(きょうろ)」サイコロの目で、梟は一、盧は六をいう。

楽天の田草川|固定費削減と言ったら楽天モバイルさんによるXでのポスト

luminous_slowさんによるXでのポスト 蜘蛛巣城

DepressedBergmanさんによるXでのポスト 黒澤明 用心棒

【解説】映画『バッドランズ』少女が夢見た“ベッドルーム・ストーリー”|CINEMORE(シネモア)

【解説】映画『バッドランズ』少女が夢見た"ベッドルーム・ストーリー"|CINEMORE(シネモア)

『バッドランズ』少女が夢見た"ベッドルーム・ストーリー"

『バッドランズ』少女が夢見た

『バッドランズ』あらすじ

1959年、サウスダコタ州の小さな町。15才のホリー(シシー・スペイセク)は、学校ではあまり目立たないが、バトントワリングが得意な女の子。ある日、ゴミ収集作業員の青年キット(マーティン・シーン)と出会い、恋に落ちるが、交際を許さないホリーの父(ウォーレン・オーツ)をキットが射殺した日から、ふたりの逃避行が始まった。ある時はツリーハウスで気ままに暮らし、またある時は大邸宅に押し入り、魔法の杖のように銃を振るっては次々と人を殺していくキットの姿を、ホリーはただ見つめていた―。

Index

少女が夢見た"ベッドルーム・ストーリー"


 サウスダコタ州の郊外。15歳の少女ホリー(シシー・スペイセク)がバトンの練習をしている。郊外の平凡な、いかにもアメリカ中産階級的なホリーの家。ゴミ収集作業員の"流れ者"キット(マーティン・シーン)がホリーに忍び寄ってくるタイミングで、この映画のタイトルクレジットが入る。"バッドランズ(悪の土地)"。これ以上は望めないと思えるほど完璧なタイミングである。何かが始まろうとしている。不吉な旅の始まり。すべてはこの家から始まる。

 恋人たちの逃亡劇。『バッドランズ』(73)はネブラスカ州で起きた19歳のチャールズ・スタークウェザーによる連続殺人事件にインスピレーションを受けている。しかしテレンス・マリック監督は本作を、テキサス州に生まれた、憧ればかりを思い描いている少女の映画として構想している。ファーストシーンがホリーのベッドルームから始まっているのは象徴的だ。ベッドで愛犬と戯れるホリー。ビクトリア朝の美しい壁紙。ベッドルームから始まるストーリー。

『バッドランズ』©2025 WBEI.

 ホリーの断続的なナレーション=回想は、彼女が"作家"であることを表わしている。"作家"であるがゆえに、ホリーのナレーションはときに妄想を爆発させる。たとえばゴミ収集業をクビになり、牛舎に勤めることになったキットの心の中をホリーは代弁する。「汚い牛舎で彼が思うのは私の姿だった」。ここにはホリーのときめきがある。恋する少女の高揚感がある。その気持ちを誰にも責めることができない。しかしキットの気持ちが本当にそうだったかどうかは分からない。つまりホリーのナレーションが必ずしも真実を語っているとは限らないのだ。ここに本作の独特のファンタジー性が生まれている。

 ソフィア・コッポラ監督は『ヴァージン・スーサイズ』(99)を撮る際に、『バッドランズ』を視覚的に参照している。本作の捉える木漏れ日や木々の感覚にインパクトを受けたことをよく覚えているという。ベッドルーム・ストーリーとしての『バッドランズ』。少女映画としての『バッドランズ』。伝説的な本作の影響は本当に枚挙にいとまがない。『トゥルー・ロマンス』(93)のような犯罪ロマンス映画の傑作から、本作をフェイバリットに挙げるハーモニー・コリンのような映画作家まで。たとえば『ボーンズ アンド オール』(22)でティモシー・シャラメとテイラー・ラッセルが歩んだアメリカの風景は、"バッドランズ・スタイル"で撮られたといえる。またウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』(12)には、あきらかに『バッドランズ』のイメージが書き換えられている。ツリーハウス、少女のアイメイク、ダンスシーン、アレクサンドル・デスプラの音楽は本作へのオマージュといえる。『バッドランズ』という映画のどこにフォーカスするか、どこを抽出して書き換えるかによって、その映画作家の作家性が見えてくるところが面白い。

luminous_slowさんによるXでのポスト two for tango

    luminous_slow ⁦‪@slow_luminous‬⁩ ⁦‪@SVG__Collection‬⁩ Two to Tango - Ray Charles Aretha Franklin | The Midnight Special youtu.be/cKs4Ej...