2025年8月31日日曜日

Alexander Nevsky | DRAMA | FULL MOVIE | by Sergei Eisenstein

歌舞伎の見得~クローズ・アップの技法

歌舞伎の見得~クローズ・アップの技法

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歌舞伎の見得~クローズ・アップの技法


昭和3年(1928)8月に二代目左団次を座頭にした一行がモスクワ・第二芸術座において幕を上げました。演目は「仮名手本忠臣蔵」・「娘道成寺」・「鳴神」の三作品で、大成功を収めました。これが歌舞伎の初めての海外公演でした。

「歌舞伎の見得は、映画の技法で言えばクローズ・アップだね」と言ったのは、ロシア(当時はソ連)映画界の巨匠セルゲイ・エイゼンシュタインだそうです。エイゼンシュタインの監督作品 としては「戦艦ポチョムキン」(1925)や「イワン雷帝」(1944)などの 傑作が よく知られています。下の写真は「忠臣蔵」の口上人形を前にして・大星由良助に扮した左団次と談笑するエイゼンシュタインです。

エイゼンシュタインがさすが映画監督だけあって炯眼であるなあと思うのは、普通なら「見得はストップ・モーションだね」と単純に考えそうなところを、「クローズ・アップ」であると・歌舞伎の見得のその演劇的心理効果をズバリ指摘していることです。映画で 画面・動作を止めるだけでもある程度似たインパクトはあるでしょうが・その効果はまだ十分ではないのです。歌舞伎の見得はその瞬間にぐうっと息を詰めて 演者の感情が形象化され、さらにツケの音響効果で舞台の空気を瞬時に引き締め・観客の視線を演者に集中させます。その心理的劇効果は・映画ならばカメラをググッと被写体に近づけていかなければ決して得られないものです。

クローズ・アップの手法については、プルーストが小説「失われた時を求めて」の第3篇「ゲルマントの方」のなかで次のような分析をしています。「私」は恋人アルベルチーヌの頬に口づけをするのですが、『その頬にまず私の口が近づき始めた時、その接近につれて・私の視線は移動しながら次々に新しい頬を目にすることになった。そして 、ぐっと間近に・拡大鏡で見るように知覚された首筋は、その皮膚の粗いきめのなかに一種のたくましさを見せ、そのたくましさが顔の性格を一変した』と言うのです。そして 、「私」はこのことを写真のクローズアップに例えるのです。

『私が見るところでは、口づけの機能に匹敵するものは写真のそういう最新の(クローズアップの)技術しかないのであって、口づけというものは、われわれにとって限定された視覚にしか存在しないとわれわれが信じていたひとつのものから、そのものが同時にそうでもあり得る百の他のものをふいに出現させることが出来るのである。と言うのも、出現するひとつひとつのものは同じパースぺクティヴに相対的につながっているからであり、そのパースぺクティヴは当然ひとつなのであるから。』(マルセル・プルースト:「失われた時を求めて」の第3篇「ゲルマントの方」・Ⅱ)

プルーストの時代にはこのカメラのクローズアップという開発されたばかりの最新技術によって・花や樹木の局部拡大写真が盛んに発表されていました。小説ではプルーストは「写真」と書いているのですが・たぶん「映画」と書いた方がもっと 適切であったかも知れません。なぜならばパースぺクティヴ(見通し・あるいは展望)が相対的につながっていることは、連続した数枚の写真よりは・映画の画面の連続的な変化の方がより実感を以ってくるであろうからです。このような映画のクローズアップ手法が開発されたのは、恐らく1910年あたりのことのようです。

クローズアップとは「我々がそのようであると信じていたものの有様(ありさま)が視点を近づけることで違う様相を呈してくる・しかもそのすべての様相は断ち切られているようでいて・実は相対的につながっていてひとつなのだ ・そしてひとつであるようでいてやはり断ち切られているのだ」と言うことを表現する技法なのです。つまり、視点が対象に連続的に近寄っていくことによって物の有様は歪 (ゆが)んで見えてくると言うことです。このことはこの二十世紀初頭の西欧の芸術作品を読み解く時に非常に重要な用件です。

エイゼンシュタインが指摘したように、歌舞伎の見得にもまた、演者の感情の歪んだ・引き裂かれた様相を視覚的に見せる効果があります。エイゼンシュタインが歌舞伎のこの場面はクローズアップだと感じた 瞬間は、恐らく「四段目・門外」において主人判官の九寸五分を胸にして慟哭する由良助の姿であったでしょうか。 あるいは「鳴神」で鳴神上人が雲絶間姫に裏切られて怒り狂う柱巻きの見得であったでしょうか。客席に座った観客が役者に近づいて行くわけでもないのに・歌舞伎の見得にはそのようなクローズアップ効果があります。それは知らず知らずの内に 観客の気持ちが演者の息のなかに没入してしまっているからでもありますが、それだけではありません。その見得の形象のなかに・演者の引き裂かれたアンビバレントな感情が象徴されているからに他なりません。つまり、見得とは暗喩であるのです。

だから「見得」とはそこに在る暗喩なのであって・演技というような動いた状態のひとコマではないのです。連続した演技のなかの感情表現の最高に高揚した瞬間が固定したのが見得なのではなく て、その瞬間において・まさに別の様相に変化したところの感情・その引き裂かれた状況が形象化されたものが見得なのです。その瞬間に歪(ひず)みがありありと見えて来なければなりません。

「見得を切る」という言い方がよくされますが・これは歌舞伎の用語として間違いで、実は「見得をする」という言い方が正しいのです。この言い表し方に見得の技法の正しい意味が込められています。

(H18・6・25)


 
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エイゼンシュテインの映画の弁証法とは。簡単に分かりやすく解説、要約する。 | ページ 2 | コテンto名著

エイゼンシュテインの映画の弁証法とは。簡単に分かりやすく解説、要約する。 | ページ 2 | コテンto名著

エイゼンシュテインの映画の弁証法

歌舞伎における弁証法

このエイゼンシュテインの弁証法の発想の原泉となったものとして、歌舞伎(忠臣蔵)のある場面が挙げられます。
以下、少し長いですが引用します。

忠臣蔵
一例。由良之助が開け渡した城を去る。そして舞台の奥から前景の一番前まで歩いてくる。すると、突然、城門を実物の大きさ(クローズ・アップ)に描いてある背景の幕が折りたたまれ、これにかわって、城門をちいさく描いた(ロング・ショット) 第二の背景が現われる。これは、由良之助がさらに遠く歩いてきたことを意味する。由良之助が歩きつづける。背景に茶と緑と黒の幕が引かれるが、これは城がもう由良之助の視界から隠れていることを示すものである。さらに、歩きつづける。由良之助はこんどは舞台を歩ききって「花道」にさしかかる。ここの道行きは、三味線によって、すなわち音によって、強調される。
第一の移動…歩行、すなわち俳優自身による空間的移動。
第二の移動…平面的な絵画、すなわち背景の変化による移動。
第三の移動…知的に説明される指示、すなわち、その幕がわれわれの眼に訴えるものを「消し去っている」。
第四の移動は…音で!
(佐々木能理男訳編『エイゼンシュテイン 映画の弁証法』角川書店より)

ここでは、同じひとつの動作が視覚と概念と聴覚において表現されています。
これは、どういうことでしょうか。
具体的に考察してみます。

私たちは一般的に知覚や感覚を、それぞれの感覚器官から上納されるデータを、脳という中枢によって支配的に管理する君主制モデルで捉えています。
しかし、これは理性によって構築したひとつのモデルに過ぎず、実際の感覚というものは五感それぞれが混然一体となったものでしかありません。
幼子の時には未分化であった感覚(目で聴き、耳で見るような)を、ただ勝手に君主制モデルで弁別し構成しなおし、目は見るもの、耳は聞くもの、と限定しているだけです。

例えば、私は目の前のコップを撫でツルツルした触感、綿のTシャツを撫でザラザラした触感と知覚しますが、実際ここで機能しているのは大半が聴覚です。
コップを撫でてもほとんど音は鳴らず強めに撫でるとキュッと鳴り、シャツを撫でるとサラサラと鳴る、その音によって触感(質感)を判断しています。
触覚の表現に音(ツルツル、ザラザラ)が使われるのはその所以です。
音声や視覚の情報のない純粋な触覚のみで、物の質感を区別することは極めて困難です。

味の場合は、はほとんど視覚と嗅覚が決定しており、舌ではありません。
目隠しして鼻腔を閉じた被験者にリンゴと生のジャガイモと玉ねぎを食べさせても、その違いが分からないという実験があります。
テレビで目隠しをした芸能人が、豚肉と牛肉と鶏肉の味の違いを判断できないのは、舌というよりは嗅覚の良し悪しの問題です。
例えば、風味というものは、風と味、いわば嗅覚と味覚が混然一体となって働くことによって感じられるものです。

人間は空間把握の多くを視覚だけではなく聴覚に頼っており、音の反射や響きや動きから、かなり正確に空間を把握しています。

聴覚も単にある周波数成分を聞くだけで音を判断しているのではなく、主に視覚に頼っています("何の音か"という知覚が聴覚情報の内容を決定します)。
また、音というものは空気の振動であり、それは鼓膜だけに限らず肌(触覚)でも感じうるものです。
ライブに行くと"身体全体で聴いている"ように感覚されるのは、比喩表現ではなく、現に身体の触覚が音の振動を感じて(聴いて)いるからです。

歌舞伎が複数の感覚の共演、弁証法によって飛躍的に開示しようとする異次元の表現とは、私たちが分別ある大人になる際に失ってしまった、五感が一体となっていた時の"感覚の完全性"です。
これを先の例でいえば、部分の共演によって全体が生じる民主制モデルです。

別の例として、市川猿之助が切腹する場面では、両手の動き(視覚)と、周囲のすすり泣き(聴覚)のトーンの変化が、いわば視覚と聴覚が等価物として共演的に一体となり、泣き声(悲しみ)は手の動きによって表現され、手の動き(絶命)は泣き声によって表現され、えも言われぬ感動を生じさせるのです。

日本文化の未分化性(完全性)

この相容れないはずの対立物が一元的に結びつく完全性(あるいは未分化性)は、日本文化の特色です。
日本人は、ひらがな(日本)と漢字(中国)とカタカナ(西洋-音声化したアルファベット-)が入り乱れ、表意文字と表音文字が共演的に意味を表現する特異な言語を巧みにあやつります。
日本人は、写実的三次元と平面的二次元を同等のものとして知覚、あるいは表現します(例えば浮世絵)。
歌舞伎のある場面、紐で引っ張られくねくね泳ぐ鯉の模造が、抽象的な垂直線の滝をのぼる姿は、二次元と三次元を同時にひとつの知覚として見事に成立させています。

この日本人の知覚の未分化性(完全性の萌芽)は、西洋的な理性による分化作用や資本主義への移行による経済的分化体制によって破られていきます。
そんな中、日本映画は、そういう自文化の優れた遺産から何も学ばず捨て去り、欧米のくだらない手本を模倣することに躍起になり、悲惨な状況に陥っています。
この未分化性は、決して分化によって亡き者とされるのではなく、むしろモンタージュという方法論によって、弁証法的に完全な形で復興されうるのです。

リアルはリアルではない

私たち現代(文明)人は、あまりにも君主制モデルによって物事を知覚することに慣れすぎているため、例えば、消失点を頂点(君主)とするピラミッドの内に事物が配置された、石のような統制と秩序あるパース(遠近法)の正確な絵をリアルだと思い込んでいます。
しかし、実際の知覚ははるかに複雑で、もっと豊かな表現として世界は現前しているはずであるのに、抽象的な釣り合い(秩序)を無視するそれら元来の知覚や表現の可能性は、君主によって抹殺されます。

結局、私たちの言うリアル、リアリズムとは、ある社会文化的なひとつの形式、ひとつのイデオロギーに外ならず、アカデミックな形式、論理に従う秩序への服従によってのみ成立するような部類のリアルでしかないのです。

[分かりにくい箇所なので、線の知覚を具体例として挙げてみます。
例えば、私たち大人が子供にまじって学校の校舎を写生をするとしたら、普通にまっすぐな直線の箱としてその建物を描きます。
しかし、実際に校舎(ビル)が真直ぐな線の箱として私の目に知覚されることは、校庭という近距離にいる限りほぼありません。
むしろ子供がよく描く"膨らんだ牛乳パック"のような曲線のビルの絵の方が知覚としては正確であり、大人は抽象的な図形による空間把握によってその元来の知覚を補正し、直線で構成されたビルを描いているのです。
要は目ではなく頭で描いているわけです(部分的な直線の知覚を幾何学空間に配置し、頭の中で統一的にまとめることによって直線のビルは成立します)。
勿論、その大人は、見えたままリアルに描いていると本気で思っています。
古代ギリシャの建築家たちがあえて建物を湾曲させて造ったのは、この事実を知っており、元来のリアルな知覚を、抽象的な本質(直線らしさ)に合わせるための作業をしたわけです。
しかし、現代人は無意識に頭の中で行っているこの作業の存在を完全に忘却してしまっているため、本当(元来)のリアルな知覚というものの存在をも同時に失ってしまっているのです。]

芸術とは弁証法的衝突

君主制モデルのように隷属的な部分による摩擦のないスムーズな稼働は技術に属するものであり、芸術ではありません。
芸術の本質は、それぞれ自立した活きた部分が衝突することによって生じる弁証法的な飛躍によって成り立っています。

その衝突は、その芸術を構成する要素間すべてにおいて存在し、例えば映画であれば、ショット内における各構成要素(形態、量、照明、速度、素材、等)の衝突、ショット間の衝突、シーン間の衝突、映像と音声の衝突、主題と美術の衝突、役と演技の衝突など、無数に挙げられます。

ひとつのメロディーを知覚(理解)することはできても、二つのメロディーが同時に鳴る時、それは知覚(理解)できず、ただ"感じる"ことしかできません。
この技術以上の何かへの飛躍が芸術を芸術たらしめるものであり、理解するレベルから、感じることしかできないレベルの知覚(感性と知性の止揚)へと作品を引き上げることこそが、芸術家の仕事なのです。

現代芸術の使命

最後はエイゼンシュテイン自身の言葉でまとめます。

観衆の知性にはたらきかけることは、映画によってはじめてなしとげられるものであると、ぼくは信じる。そして、このようなはたらきかけは、おそらく、現代の芸術にたいして歴史的にあたえられている使命であろう。というのは~われわれは、これまで、思想と感情とのあいだに成立する、純粋の哲学的思索と情緒とのあいだに成立する~陰鬱な二元論に、なやまされつづけてきているからである。

原始的な、魔術と宗教の、時代には、科学は知識であると同時に、感情でもあった。そして、これは、一種の一元論的な形をとって、おこなわれていた。われわれは、こんにち、一方においては、純粋の感情を、他方においては、思弁的哲学をもっている。
といって、われわれは、いまさら、昔の素朴な宗教的な段階へ、立ちもどろうとするわけではない。われわれが努力しなければならないのは、これと同じような、二つの要素の綜合を作りあげることである。

この偉大な綜合を作ることのできるのは~すなわち、知性を、その現実の源泉である形象と情緒とに、還元することのできるのは~ただ映画だけであると、ぼくは信じる。
(同上)

おわりに

エイゼンシュテインのいうモンタージュというものは、グリフィスやクレショフのように、現実を心理主観的な観念連合の"作られたリアル"へと論理的に再構築する作業ではありません。
むしろそういう構築物を、部分の衝突によって破壊することで、より高次の世界へと飛躍することを目指します。
今風の言葉でいえば、合理主義的なモダニズムを否定するポスト-脱-モダニズム的な可能性を開こうとすることです。

それは部分的な事実の集積を編集し、強引につながりのないものを因果的につなげ捏造することで紡ぎ出される"ストーリー(ヒストリー)"という構築物とは相性が悪いため(ストーリーにおいて衝突は物語という虚構への移入を妨げるノイズになる)、多くの場合、物語よりも表現重視のアート寄りの作家、実験映画の監督やミュージックビデオのディレクターなどに利用されることが多いようです。

おわり

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fukuko2025さんによるXでのポスト 映画国宝

2025年8月30日土曜日

【ギターコード】めぐりあい / 井上 大輔 提供:JOYSOUND | 楽譜@ELISE

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めぐりあい 井上 大輔   ギター・コード譜 / 提供:JOYSOUND

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作詞
井荻 麟、売野 雅勇    
作曲
井上 大輔    
編曲・アレンジ
   
楽譜の種類
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楽譜提供元
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この曲・楽譜について

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イントロ

F#m F#m
A Bm D/D//C#m F#m
A Bm/E7//E D E
F#m F#m

Aメロ

F#m F#m E E
D D C# C#
F#m F#m E E
D D C#/D E/Faug

Bメロ

Bm ×3 C#m ×3 Dm Dm
Bm/C#m D/E F#m/E7 F#m/E

サビ

A E F#m A
D C#m Bm E
A E F#m A
D E Dm A Gm/Eb

間奏

Bb Bb Gm Gm
Cm Cm Eb DM7 E
F#m/Faug F#m F#m

Aメロ

F#m F#m E E
D D C# C#
F#m F#m E E
D D C#/D E/Faug

Bメロ

Bm ×3 C#m ×3 Dm Dm
Bm/C#m D/E F#m/E7 F#m/E

サビ

A E F#m A
D C#m Bm E
A E F#m A
D C#m Bm E
A E F#m A
D E Dm A
G F#m Faug Esus4
E D/Bm A

■歌詞
■みくれれ

2025年8月28日木曜日

DONT FENCE ME IN CHORDS by Willie Nelson @ Ultimate-Guitar.Com

DONT FENCE ME IN CHORDS by Willie Nelson @ Ultimate-Guitar.Com

DONT FENCE ME IN CHORDS by Willie Nelson @ Ultimate-Guitar.Com

Don't Fence Me In - Willie Nelson and Leon Russell
 
[Verse 1]
            D
Oh, give me land, lots of land
      D
under starry skies above
               A7
Don't fence me in
       A7
Let me ride through the wide open
A7
country that I love
               D
Don't fence me in
       D                   D7
Let me be by myself in the evening breeze,
G
listen to the murmur of the cottonwood trees,
D                         B7
send me off forever but I ask you please
E7    A7       D
Don't fence me in
 
[Verse 2]
             G
Just turn me loose, let me straddle my old saddle
                       D
underneath the western skies
      G
On my cayuse let me wander over yonder
                        D        A7
till I see the mountain rise
          D                           D7
I want to ride to the ridge where the west commences,
G
gaze at the moon until I lose my senses,
  D                          B7
I can't look at hobbles and I can't stand fences
E7    A7       D
Don't fence me in

シェリル・クロウ、曲が書けなくなるスランプ状態に陥っていた時 ボブ・ディランにアドバイスを求めたことを回想 - amass

シェリル・クロウ、曲が書けなくなるスランプ状態に陥っていた時 ボブ・ディランにアドバイスを求めたことを回想 https://amass.jp/192285/ シェリル・クロウ、曲が書けなくなるスランプ状態に陥っていた時 ボブ・ディランに...