三島由紀夫とハイデッガー:ノート
三島由紀夫は『絹と明察』*(1964)ラストでハイデッガー(理想社創文社以外はハイデガー表記だが、三島はハイデッガーと表記)の『存在と時間』(桑木務訳岩波文庫1961の語尾をかえたものと思われる)を引用、参照している。
「終ってゆくことは、自分のうちに、その都度の現存在にとって全く代理できない、存在の様態を含んでいる」(三島由紀夫『絹と明察』講談社文庫297頁より孫引き)
「自分の死を回避しながら、終りへの日常的存在もまた、……死を確信しているのである。」(同)
以下は『存在と時間』の上記に該当する箇所の別訳(中公クラシックスより)。
第48節
《これまで死について論究されてきたことは、次のような三つのテーゼとして定式化される。すなわち、1 現存在には、現存在が存在しているかぎり、現存在がそれになるであろう或る未了──つまり不断の未済が、属している。2 そのつどまだ終わりに達していない未了の存在者がおのれの終わりに到達すること(未済を存在上除去すること)は、もはや現存在しないという性格をもつ。3 終わりに到達することは、そのときどきの現存在にとって絶対的に代理不可能な或る存在様態を、それ自身のうちに包含している。》
(三島が引用したのは最後のテーゼ(提言)の部分のみである)
第52節
《おのれの死から回避しながらも、それでも終わりへとかかわる日常的な存在でさえ、純粋に理論的な省察においてそれ自身が承認しようとしているのとは別様に、死を確実だとさとっている。》
このあと『ヘルダーリン詩の解明』(手塚富雄訳理想社1962、34~5頁)からも引用している。
「宝、故郷のもっとも固有なもの。『ドイツ的なもの』は、貯えられているのである。……詩人が、貯えられたものを 宝(発見物)と呼ぶのは、それが通常の悟性にとって近付き難いものであることを知っているからだ」(三島由紀夫『絹と明察』講談社文庫297頁より孫引き)
また、『絹と明察』冒頭ではハイデッガーの哲学の要約**に続いてハイデッガー思想と和泉式部の歌とを比較している。保田与重郎も同じ和泉式部の歌***を絶賛し、何度か論考している。影響があるかも知れない。
三島のハイデッガー解釈はバタイユを連想させて正確ではないかも知れない。ただ、西欧合理主義を内側から崩すものとしてうまく活用している。
*
新潮文庫、講談社文庫等で入手可能。なお創作ノートは残っていないが、制作意図を語ったインタビューがあり、新潮文庫あとがきで少し引用されている。
**
《ハイデッガーのいはゆる「実存(エクジステンツ)」の本質は時間性にあり、それは本来
「脱自的」であつて、実存は時間性の「脱自(エクスターゼ)」の中にある、と説かれてゐるが、
エクスターゼは本来、ギリシア語のエクスタテイコン(自己から外へ出てゐる)に発し、
この概念こそ、実存の概念と見合ふものである。つまり実存は、自己から外へ漂ひ出して、
世界へひらかれて現実化され、そこの根源的時間性と一体化するのである。 》(三島由紀夫「絹と明察」より)
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1287085245/l50
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「脱自的」であつて、実存は時間性の「脱自(エクスターゼ)」の中にある、と説かれてゐるが、
エクスターゼは本来、ギリシア語のエクスタテイコン(自己から外へ出てゐる)に発し、
この概念こそ、実存の概念と見合ふものである。つまり実存は、自己から外へ漂ひ出して、
世界へひらかれて現実化され、そこの根源的時間性と一体化するのである。 》(三島由紀夫「絹と明察」より)
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1287085245/l50
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和泉式部「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞみる」
(『保田與重郎全集』http://binder.gozaru.jp/yasuda.htm 目次
第14巻「和泉式部私抄」第17巻「日本語録」他参照)
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