2025年10月31日金曜日

日本名歌20選 再改訂版

日本名歌20選 再改訂版


八重 スサノオ
ヤマトタケル
望月の歌 藤原道長
額田王
柿本人麻呂

空海
菅原道真 901
君が代 905
明智光秀
松尾芭蕉 

浅野内匠頭
本居宣長
式子内親王
狂歌
坂本龍馬

与謝野晶子
森鴎外
宮沢賢治
寺山修司
昭和天皇

俵万智(番外)

スサノオノミコト
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
https://sunagoya.com/tanka/?p=19782
「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」
「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。
「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。
『古事記』の最初に出てくる歌でもあり、のちの『古今和歌集』の「仮名序」には、
このスサノオの歌から歌の三十一文字が定まったと書かれていて、
つまり、この歌が、いちおう、日本最古の短歌であり、三十一文字の歌の原型ということになっている。
有名な八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)の件(くだり)に出て来る。

ヤマトタケル
「大和は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣山籠れる」
「やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる」。これに「やまとし うるはし」
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000106932
倭建命が故郷を思って歌ったとして、「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。
この歌の解釈としては「大和は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は、美しい」と記述がある。

額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
万葉集
https://manapedia.jp/text/2070#google_vignette
原文
(※1)あかねさす紫野行き(※2)標野行き (※3)野守は見ずや(※4)君が(※5)袖振る

ひらがなでの読み方
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

現代語訳
紫草の生えた野を行き、標野を行きながら(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。

柿本人麻呂
https://tankanokoto.com/2021/10/hitomaro2.html
しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞま幸さきくありこそ
読み:しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ
作者と出典
柿本人麻呂  巻13・3254
現代語訳
しきしまのやまとの国は言葉の霊力が物事をよい方向へ動かしてくれる国です、どうか私が言葉で申し上げることによって、どうぞその通り、無事でいて下さい。

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
読み:やくもさす いづものこらが くろかみは よしののかわの おきになづさう
作者と出典
柿本人麻呂  巻三・四三〇
現代語訳
八雲の湧く出雲の娘子の黒髪が、吉野の川の沖に揺らめいている

空海
https://jizoin.net/wisdom/生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、
死に死に死に死んで死の終りにくらし。
                『秘蔵法鑰』
自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、生まれるとは何か、死とは何かと言う一大事を、人はなおざりにして何も考えずに人生をおくっている。
とても有名な空海の言葉。密教の教え「輪廻転生」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を巡る迷いの再生である。人は迷いの世界を巡り、暗闇の中から抜け出せない学習能力の無き者。そろそろ自分の一生に、宇宙大の世界観を当てはめ、輪廻から離脱しようではないか。

藤原道長
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
(このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば)
は、寛仁2年10月16日(ユリウス暦1018年11月26日)に、太閤・藤原道長が詠んだとされる和歌。この日は道長の三女・藤原威子が後一条天皇の中宮として立后された日であり、摂関政治の絶頂を示した歌としてしばしば引用され、望月の歌と呼ばれることもある[1][2]。
  

菅原道真
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
百人一首11

https://note.com/infinity0105/n/n4fdbec406c4d

東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅(むめ)の花(はな)あるじなしとて春(はる)を忘(わす)るな
拾遺和歌集 雑春 1006番
訳:わが家の梅の花よ。東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ。主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。
My ume tree, could you please send your scent on the east wind? Don't forget to bloom in spring even if I'm not here.

道真は昌泰4(901)年、大宰権帥に左遷される。この歌は都を発つときの歌として、『大鏡』などに引用されて有名。なお、東風(こち)は、東から西に吹く風のことであり、大宰府においては都から吹いてくる風が東風である。
ほぼ同じシチュエーションでの「桜花ぬしを忘れぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ」(後撰和歌集・春・57番)も切ない。


「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
言わずと知れた日本国の国歌です。

https://wakadokoro.com/learn/%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%EF%BC%9F-%EF%BD%9E%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86%EF%BD%9E/

 「あなたが非常に長生きできることを願います。それは小さな砂利が悠久の年月を経て巌(いわ)となり、苔が生い茂るまで」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ccd908251752f018818e4bcbe313a2661950f6e1

デリケートな問題というのは、君が代の「起立斉唱問題」です。
君が代は「大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は国体護持の意味合いが強い」ということから、君が代の斉唱を反対する運動が起きています。
でも君が代の「君」は本当に天皇を指しているのでしょうか?
また歌の内容は国体護持なのでしょうか?
君が代の歌詞は、古今和歌集の「賀歌」が元になっています。
「賀部」の冒頭
343「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(よみ人しらず)
そもそも「賀歌」は、誰に向けた祝賀なのでしょう?
古今和歌集は「勅撰和歌集」ですから、天皇に向けた祝賀がほとんどだろうと思えます。
しかし!
賀歌二十二首の内容、詞書をみても、天皇に向けた祝賀であると特定できる歌は一切ないのです。なおかつ祝いの内容は末永い国体の繁栄などではなく誕生の賀が大半。
しかもその対象者が本康親王(仁明天皇の皇子)と尚侍の右大将(藤原定国)という奇妙なアンバランス。
つまり「賀歌」の本質は、親しい人へのバースデーソングなのです。
君が代の君は「天皇ではない」と言い切れないまでも、天皇である可能性は薄く、かつ国体護持というような内容を含んでいる可能性はほとんどない!
ということです。


式子内親王(1149〜1201)
「玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」
百人一首89番
https://evrica.me/liberal-arts/1131
我が命よ、絶えることなら早く絶えてしまえ。このまま生き永らえていると、恋心を耐え忍んでいる私の心が弱ってしまうと困るから。


明智光秀
「時は今 天が下しる 五月哉」
https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=494931
 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

松尾芭蕉?
「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か
回答
松尾芭蕉ではなく、相模(神奈川県)の田原坊の作と思われる。
『松島(嶋)図誌』(桜田周甫 文政三年)に田原坊の「松島や さて松島や 松島や」という吟が収められていたが、
風景のあまりの美しさに句を詠めなかったという松尾芭蕉の話も同時に掲載されたため、当句の詠み人=松尾芭蕉と混同して今に伝えられているのかもしれない。
なお、芭蕉は松島で「島々や千々にくだきて夏の海」という句を詠んでいる。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000204432&page=ref_view

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース
・『芭蕉全発句』(山本健吉/〔著〕、講談社)
 『芭蕉秀句』(山口誓子/著、春秋社)
 索引から調べるがいずれも該当句はなし。

・『ら・ら・ら「奥の細道」』(黛まどか/著、光文社)p.42
 「松島や~が芭蕉の句だと信じている人が意外と多いのだけれど、芭蕉の名誉のためにもこれは断じて彼の句ではありません!と念を押しておきますね」

・『おくのほそ道-解釈と研究-』(井上豊/著、古川書房)p.177
「芭蕉の作と伝えられる『松島や』の句については、木村架空の『新釈』(『新釈奥の細道』明治29年)に『俗書に伝へる松島や~の句は、桜田周甫の松島図誌に、相模の人、田原坊の吟として載せてあり、ああはさてとなって居る。『さての方大いに好し』とある」

・『芭蕉はどんな旅をしたのか』(金森敦子/著、晶文社)p.203
「芭蕉がこのような句を吟じた事実はなく、1821年(文政四年)に出された『松島図誌』には相模の田原坊の吟とあり、「ああ」は「さて」となっているという」

・『奥の細道行脚』(櫻井武次郎/著、岩波書店)p.73~
「ところで、芭蕉が松島で句を作れず、 ああ松島や松島やとつぶやいたという話がある。先に掲げたように松島で芭蕉は作句している(島々や千々にくだきて夏の海)のだが、『奥の細道』には記さないので、このような話が生まれたのだろうか。復本一郎氏の教示によれば、『松嶋図誌』(文政三年)という本に、松嶋や~さてまつしまや~(相模州田原坊)の句を収め、その後に来た芭蕉が、風景のあまりの美しさに句を読めなかったという話を載せる。直接かどうかは分からないが、この記事を混同して「ああ松島や」の話が生まれたのかもしれない」

2023.11.22追記
国立国会図書館デジタルコレクション収録の『松嶋図誌 再販』(桜田周輔/著、東沢/画 裳華房)37コマより、相模の田原坊の吟の左側に松尾芭蕉の話が掲載されていることが分かる。
(https://dl.ndl.go.jp/pid/991518/ )2023.11.22確認


浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」
https://tankanokoto.com/2020/12/akourousi.html
意味は、
風に舞い散る桜のよりもずっと、若くして断たれるこの命の心残りをどうしたらいいものか
というもの。
浅野内匠頭の年齢は、このとき33歳でした。
浅野内匠頭の、口惜しさが伝わる短歌なのです。
これを詠んだ家来たち四十七人は、主君の無念を察して仇討ちを決心したのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/itsukusima-m/e/450c544a1e7745dbf9e1827798364f6c
本居宣長
「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人とは(わ)ば 朝日に匂(にお)ふ 山桜花(やまざくらばな)」

「古事記伝(こじきでん)」で有名な国学者「本居宣長(もとおりのりなが)」の歌です。
「敷島の」は大和心にかかる枕詞、「匂う」は現在では「香りが匂う」という意味で使いますが、
当時は「花が美しく咲いている、映えている」という意味で使っています。
また「大和心」は「漢心(からごころ)」(中国かぶれの心)に対する「日本人としての昔ながらの柔軟な知恵」という意味です。
すなわち「大和心とはなにかと、尋ねられたら、朝日に照り輝く山桜の花であると答えよう。
日本人である私の心とは朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」

「泰平の眠りを覚ます上喜撰」

https://higashiyamatoarchive.net/ajimalibrary/01%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%88%A5%E3%83%BB%E8%91%97%E4%BD%9C/%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%8B%82%E6%AD%8C%E3%80%8C%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%80%8D%E3%80%81%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA%E7%9B%B4%E5%BE%8C%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E8%A3%8F%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9B%B8%E7%B0%A1%E7%99%BA%E8%A6%8B.html

上喜撰の碑
碑文
泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず

  江戸幕府は約二百年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていました。その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸しました。この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督でした。
  江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺しました。開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどのようなものだったでしょう。その驚きを端的に表現したのが、この落首です。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています。

交通:JR・京急久里浜駅~野比海岸間バス、ペリー記念碑下車・徒歩2分

https://mwl-store.com/2021/05/14/%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%9B%9B%E6%9D%AF%E3%81%A7%E5%A4%9C%E3%82%82%E5%AF%9D%E3%82%89/

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず。
「蒸気船と上喜撰」「上喜撰」とは当時人気のお茶のこと、湯呑みの杯と「蒸気船」の船の杯を掛け合わせ、さらにお茶の効能の目が覚めることにも掛けた、江戸人ならではの洒落っ気。黒船来航として1853年に浦賀沖に突然現れた(となっているが実際は薩摩藩などに事前に告知があったともの諸説あり)アメリカの船団四隻(実際には蒸気船は二隻だったという、残りの二隻は蒸気船でない船のこと)神奈川県浦賀の当時の人にとってはさすがに驚きで、どこかが攻めてきたと大騒ぎだったろう、自分たちが使う船とのあまりの大きさの違いに。。。


坂本龍馬
世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

https://oidon5.hatenablog.com/entry/2021/05/02/190000

坂本龍馬 『詠草二 和歌』
現代語訳
世の中の人は俺のことをどうとでも言いたけりゃ言え。俺のやることは俺にしかわからんだ。

与謝野晶子
https://news.mynavi.jp/article/20240301-2896065/
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
1904年


森鴎外
我百首
http://sybrma.sakura.ne.jp/347ougai.wagahyakusyu.html

我は唯この菴沒羅菓(あんむらくわ)に於いてのみ自在を得ると丸呑にする

我詩皆けしき臟物(ざうもつ)ならざるはなしと人云ふ或は然らむ
1909年

宮沢賢治

[ 名言 ]
詩は裸身にて、理論の至り得ぬ境を探り来る。
そのこと決死のわざなり。

https://meigennavi.net/word/16/160918.htm

[ 出典 ]
宮沢賢治[みやざわ・けんじ]
(明治~昭和初期の詩人・童話作家、1896~1933)
【 宮沢賢治の名言 】


寺山修司
マッチ擦するつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(『寺山修司全歌集』)
https://note.com/yojiroo/n/n7bd50680f1db
おそらく寺山修司のもっとも有名な歌だ。多くの教科書にも取り上げられた。僕が寺山修司の歌で唯一知っていたのがこれだ。
1958年


  • 〈マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや〉は、三句切れ。2023/04/19
  • 1 09 国語の勉強法③ - 行人塾―こうじんじゅくhttps://kojin-juku.net>goroku

    マッチ擦るは何句切れですか?


マッチ擦るつかのま海に霧深し… - ユリイカ学習塾

  1. https://eureka.aosoraya.com>マッチ擦るつかのま海に霧...
2021/4/28 -青森出身の詩人、寺山修司(1935-1983)の若い頃の短歌で、まだ私の印象に残るものがある。「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つる程の 祖国はあり ...

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  1. https://tapanulifever.hatenablog.com>entry>2015/05/02
2015/5/2 -マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや寺山修司 富沢赤黄男の俳句、 一本のマッチをすれば湖は霧の本歌取り、というか、パクリ。

この国などどうでもよいが首ばかり丹念に洗う湯屋にて洗う

  1. https://sunagoya.com>tanka
2024/3/9 -これを読んでとっさに思い浮かべるのが、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(『空には本』、1958)。寺山の下 ...

マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  1. https://mediajuku.com>article
寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)日本の歌人、詩人、劇作家、映画監督と様々なジャンルで前衛的な活動をした。演劇実験室「天井桟敷」を主宰。



昭和天皇
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
昭和61,62年の終戦記念日に陛下が詠まれたとする
1986年
https://note.com/saito_syse/n/ncb2216bc23ce


俵万智
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念
https://www.amazon.co.jp/サラダ記念日-俵-万智/dp/4309024882

日本名歌20選 改訂版

日本名歌20選 改訂版


八重 スサノオ
ヤマトタケル
望月の歌 藤原道長
額田王
柿本人麻呂

空海
菅原道真 901
君が代 905
明智光秀
松尾芭蕉 

浅野内匠頭
本居宣長
式子内親王
狂歌
坂本龍馬

与謝野晶子
森鴎外
宮沢賢治
寺山修司
昭和天皇

俵万智

スサノオノミコト
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」
「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。
「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。
 
『古事記』の最初に出てくる歌でもあり、のちの『古今和歌集』の「仮名序」には、
このスサノオの歌から歌の三十一文字が定まったと書かれていて、
つまり、この歌が、いちおう、日本最古の短歌であり、三十一文字の歌の原型ということになっている。
 
有名な八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)の件(くだり)に出て来る。

https://sunagoya.com/tanka/?p=19782

ヤマトタケル
「大和は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣山籠れる」
「やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる」。これに「やまとし うるはし」

倭建命が故郷を思って歌ったとして、「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。
この歌の解釈としては「大和は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は、美しい」と記述がある。

額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
万葉集
https://manapedia.jp/text/2070#google_vignette
原文
(※1)あかねさす紫野行き(※2)標野行き (※3)野守は見ずや(※4)君が(※5)袖振る

ひらがなでの読み方
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

現代語訳
紫草の生えた野を行き、標野を行きながら(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。

柿本人麻呂
https://tankanokoto.com/2021/10/hitomaro2.html
しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞま幸さきくありこそ
読み:しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ
作者と出典
柿本人麻呂  巻13・3254
現代語訳
しきしまのやまとの国は言葉の霊力が物事をよい方向へ動かしてくれる国です、どうか私が言葉で申し上げることによって、どうぞその通り、無事でいて下さい。

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
読み:やくもさす いづものこらが くろかみは よしののかわの おきになづさう
作者と出典
柿本人麻呂  巻三・四三〇
現代語訳
八雲の湧く出雲の娘子の黒髪が、吉野の川の沖に揺らめいている

空海
https://jizoin.net/wisdom/生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、
死に死に死に死んで死の終りにくらし。
                『秘蔵法鑰』
自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、生まれるとは何か、死とは何かと言う一大事を、人はなおざりにして何も考えずに人生をおくっている。
とても有名な空海の言葉。密教の教え「輪廻転生」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を巡る迷いの再生である。人は迷いの世界を巡り、暗闇の中から抜け出せない学習能力の無き者。そろそろ自分の一生に、宇宙大の世界観を当てはめ、輪廻から離脱しようではないか。

藤原道長
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
(このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば)
は、寛仁2年10月16日(ユリウス暦1018年11月26日)に、太閤・藤原道長が詠んだとされる和歌。この日は道長の三女・藤原威子が後一条天皇の中宮として立后された日であり、摂関政治の絶頂を示した歌としてしばしば引用され、望月の歌と呼ばれることもある[1][2]。
  

菅原道真
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
百人一首11

https://note.com/infinity0105/n/n4fdbec406c4d

東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅(むめ)の花(はな)あるじなしとて春(はる)を忘(わす)るな
拾遺和歌集 雑春 1006番
訳:わが家の梅の花よ。東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ。主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。
My ume tree, could you please send your scent on the east wind? Don't forget to bloom in spring even if I'm not here.

道真は昌泰4(901)年、大宰権帥に左遷される。この歌は都を発つときの歌として、『大鏡』などに引用されて有名。なお、東風(こち)は、東から西に吹く風のことであり、大宰府においては都から吹いてくる風が東風である。
ほぼ同じシチュエーションでの「桜花ぬしを忘れぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ」(後撰和歌集・春・57番)も切ない。


「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
言わずと知れた日本国の国歌です。

https://wakadokoro.com/learn/%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%EF%BC%9F-%EF%BD%9E%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86%EF%BD%9E/

 「あなたが非常に長生きできることを願います。それは小さな砂利が悠久の年月を経て巌(いわ)となり、苔が生い茂るまで」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ccd908251752f018818e4bcbe313a2661950f6e1

デリケートな問題というのは、君が代の「起立斉唱問題」です。
君が代は「大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は国体護持の意味合いが強い」ということから、君が代の斉唱を反対する運動が起きています。
でも君が代の「君」は本当に天皇を指しているのでしょうか?
また歌の内容は国体護持なのでしょうか?
君が代の歌詞は、古今和歌集の「賀歌」が元になっています。
「賀部」の冒頭
343「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(よみ人しらず)
そもそも「賀歌」は、誰に向けた祝賀なのでしょう?
古今和歌集は「勅撰和歌集」ですから、天皇に向けた祝賀がほとんどだろうと思えます。
しかし!
賀歌二十二首の内容、詞書をみても、天皇に向けた祝賀であると特定できる歌は一切ないのです。なおかつ祝いの内容は末永い国体の繁栄などではなく誕生の賀が大半。
しかもその対象者が本康親王(仁明天皇の皇子)と尚侍の右大将(藤原定国)という奇妙なアンバランス。
つまり「賀歌」の本質は、親しい人へのバースデーソングなのです。
君が代の君は「天皇ではない」と言い切れないまでも、天皇である可能性は薄く、かつ国体護持というような内容を含んでいる可能性はほとんどない!
ということです。


式子内親王(1149〜1201)
「玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」
百人一首89番
https://evrica.me/liberal-arts/1131
我が命よ、絶えることなら早く絶えてしまえ。このまま生き永らえていると、恋心を耐え忍んでいる私の心が弱ってしまうと困るから。


明智光秀
「時は今 天が下しる 五月哉」
https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=494931
 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

松尾芭蕉?
「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か
回答
松尾芭蕉ではなく、相模(神奈川県)の田原坊の作と思われる。
『松島(嶋)図誌』(桜田周甫 文政三年)に田原坊の「松島や さて松島や 松島や」という吟が収められていたが、
風景のあまりの美しさに句を詠めなかったという松尾芭蕉の話も同時に掲載されたため、当句の詠み人=松尾芭蕉と混同して今に伝えられているのかもしれない。
なお、芭蕉は松島で「島々や千々にくだきて夏の海」という句を詠んでいる。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000204432&page=ref_view

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース
・『芭蕉全発句』(山本健吉/〔著〕、講談社)
 『芭蕉秀句』(山口誓子/著、春秋社)
 索引から調べるがいずれも該当句はなし。

・『ら・ら・ら「奥の細道」』(黛まどか/著、光文社)p.42
 「松島や~が芭蕉の句だと信じている人が意外と多いのだけれど、芭蕉の名誉のためにもこれは断じて彼の句ではありません!と念を押しておきますね」

・『おくのほそ道-解釈と研究-』(井上豊/著、古川書房)p.177
「芭蕉の作と伝えられる『松島や』の句については、木村架空の『新釈』(『新釈奥の細道』明治29年)に『俗書に伝へる松島や~の句は、桜田周甫の松島図誌に、相模の人、田原坊の吟として載せてあり、ああはさてとなって居る。『さての方大いに好し』とある」

・『芭蕉はどんな旅をしたのか』(金森敦子/著、晶文社)p.203
「芭蕉がこのような句を吟じた事実はなく、1821年(文政四年)に出された『松島図誌』には相模の田原坊の吟とあり、「ああ」は「さて」となっているという」

・『奥の細道行脚』(櫻井武次郎/著、岩波書店)p.73~
「ところで、芭蕉が松島で句を作れず、 ああ松島や松島やとつぶやいたという話がある。先に掲げたように松島で芭蕉は作句している(島々や千々にくだきて夏の海)のだが、『奥の細道』には記さないので、このような話が生まれたのだろうか。復本一郎氏の教示によれば、『松嶋図誌』(文政三年)という本に、松嶋や~さてまつしまや~(相模州田原坊)の句を収め、その後に来た芭蕉が、風景のあまりの美しさに句を読めなかったという話を載せる。直接かどうかは分からないが、この記事を混同して「ああ松島や」の話が生まれたのかもしれない」

2023.11.22追記
国立国会図書館デジタルコレクション収録の『松嶋図誌 再販』(桜田周輔/著、東沢/画 裳華房)37コマより、相模の田原坊の吟の左側に松尾芭蕉の話が掲載されていることが分かる。
(https://dl.ndl.go.jp/pid/991518/ )2023.11.22確認


浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」
https://tankanokoto.com/2020/12/akourousi.html
意味は、
風に舞い散る桜のよりもずっと、若くして断たれるこの命の心残りをどうしたらいいものか
というもの。
浅野内匠頭の年齢は、このとき33歳でした。
浅野内匠頭の、口惜しさが伝わる短歌なのです。
これを詠んだ家来たち四十七人は、主君の無念を察して仇討ちを決心したのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/itsukusima-m/e/450c544a1e7745dbf9e1827798364f6c
本居宣長
「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人とは(わ)ば 朝日に匂(にお)ふ 山桜花(やまざくらばな)」

「古事記伝(こじきでん)」で有名な国学者「本居宣長(もとおりのりなが)」の歌です。
「敷島の」は大和心にかかる枕詞、「匂う」は現在では「香りが匂う」という意味で使いますが、
当時は「花が美しく咲いている、映えている」という意味で使っています。
また「大和心」は「漢心(からごころ)」(中国かぶれの心)に対する「日本人としての昔ながらの柔軟な知恵」という意味です。
すなわち「大和心とはなにかと、尋ねられたら、朝日に照り輝く山桜の花であると答えよう。
日本人である私の心とは朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」

「泰平の眠りを覚ます上喜撰」

https://higashiyamatoarchive.net/ajimalibrary/01%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%88%A5%E3%83%BB%E8%91%97%E4%BD%9C/%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%8B%82%E6%AD%8C%E3%80%8C%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%80%8D%E3%80%81%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA%E7%9B%B4%E5%BE%8C%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E8%A3%8F%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9B%B8%E7%B0%A1%E7%99%BA%E8%A6%8B.html

上喜撰の碑
碑文
泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず

  江戸幕府は約二百年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていました。その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸しました。この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督でした。
  江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺しました。開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどのようなものだったでしょう。その驚きを端的に表現したのが、この落首です。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています。

交通:JR・京急久里浜駅~野比海岸間バス、ペリー記念碑下車・徒歩2分

https://mwl-store.com/2021/05/14/%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%9B%9B%E6%9D%AF%E3%81%A7%E5%A4%9C%E3%82%82%E5%AF%9D%E3%82%89/

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず。
「蒸気船と上喜撰」「上喜撰」とは当時人気のお茶のこと、湯呑みの杯と「蒸気船」の船の杯を掛け合わせ、さらにお茶の効能の目が覚めることにも掛けた、江戸人ならではの洒落っ気。黒船来航として1853年に浦賀沖に突然現れた(となっているが実際は薩摩藩などに事前に告知があったともの諸説あり)アメリカの船団四隻(実際には蒸気船は二隻だったという、残りの二隻は蒸気船でない船のこと)神奈川県浦賀の当時の人にとってはさすがに驚きで、どこかが攻めてきたと大騒ぎだったろう、自分たちが使う船とのあまりの大きさの違いに。。。


坂本龍馬
世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

https://oidon5.hatenablog.com/entry/2021/05/02/190000

坂本龍馬 『詠草二 和歌』
現代語訳
世の中の人は俺のことをどうとでも言いたけりゃ言え。俺のやることは俺にしかわからんだ。

与謝野晶子
https://news.mynavi.jp/article/20240301-2896065/
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
1904年


森鴎外
我百首
http://sybrma.sakura.ne.jp/347ougai.wagahyakusyu.html

我は唯この菴沒羅菓(あんむらくわ)に於いてのみ自在を得ると丸呑にする

我詩皆けしき臟物(ざうもつ)ならざるはなしと人云ふ或は然らむ
1909年

宮沢賢治

[ 名言 ]
詩は裸身にて、理論の至り得ぬ境を探り来る。
そのこと決死のわざなり。

https://meigennavi.net/word/16/160918.htm

[ 出典 ]
宮沢賢治[みやざわ・けんじ]
(明治~昭和初期の詩人・童話作家、1896~1933)
【 宮沢賢治の名言 】


寺山修司
マッチ擦するつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(『寺山修司全歌集』)
https://note.com/yojiroo/n/n7bd50680f1db
おそらく寺山修司のもっとも有名な歌だ。多くの教科書にも取り上げられた。僕が寺山修司の歌で唯一知っていたのがこれだ。
1958年


  • 〈マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや〉は、三句切れ。2023/04/19
  • 1 09 国語の勉強法③ - 行人塾―こうじんじゅくhttps://kojin-juku.net>goroku

    マッチ擦るは何句切れですか?


マッチ擦るつかのま海に霧深し… - ユリイカ学習塾

  1. https://eureka.aosoraya.com>マッチ擦るつかのま海に霧...
2021/4/28 -青森出身の詩人、寺山修司(1935-1983)の若い頃の短歌で、まだ私の印象に残るものがある。「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つる程の 祖国はあり ...

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  1. https://tapanulifever.hatenablog.com>entry>2015/05/02
2015/5/2 -マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや寺山修司 富沢赤黄男の俳句、 一本のマッチをすれば湖は霧の本歌取り、というか、パクリ。

この国などどうでもよいが首ばかり丹念に洗う湯屋にて洗う

  1. https://sunagoya.com>tanka
2024/3/9 -これを読んでとっさに思い浮かべるのが、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(『空には本』、1958)。寺山の下 ...

マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  1. https://mediajuku.com>article
寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)日本の歌人、詩人、劇作家、映画監督と様々なジャンルで前衛的な活動をした。演劇実験室「天井桟敷」を主宰。



昭和天皇
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
昭和61,62年の終戦記念日に陛下が詠まれたとする
1986年
https://note.com/saito_syse/n/ncb2216bc23ce


俵万智
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念
https://www.amazon.co.jp/サラダ記念日-俵-万智/dp/4309024882

日本名歌20選


八重 スサノオ
ヤマトタケル
望月の歌 藤原道長
額田王
柿本人麻呂

菅原道真 901
君が代 905
明智光秀
松尾芭蕉
浅野内匠頭

本居宣長
式子内親王
狂歌
坂本龍馬
与謝野晶子

森鴎外
宮沢賢治
寺山修司
昭和天皇
俵万智

スサノオノミコト
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」
「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。
「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。
 
『古事記』の最初に出てくる歌でもあり、のちの『古今和歌集』の「仮名序」には、
このスサノオの歌から歌の三十一文字が定まったと書かれていて、
つまり、この歌が、いちおう、日本最古の短歌であり、三十一文字の歌の原型ということになっている。
 
有名な八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)の件(くだり)に出て来る。

https://sunagoya.com/tanka/?p=19782

ヤマトタケル
「大和は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣山籠れる」
「やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる」。これに「やまとし うるはし」

倭建命が故郷を思って歌ったとして、「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。
この歌の解釈としては「大和は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は、美しい」と記述がある。

額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
万葉集
https://manapedia.jp/text/2070#google_vignette
原文
(※1)あかねさす紫野行き(※2)標野行き (※3)野守は見ずや(※4)君が(※5)袖振る

ひらがなでの読み方
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

現代語訳
紫草の生えた野を行き、標野を行きながら(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。

柿本人麻呂
https://tankanokoto.com/2021/10/hitomaro2.html
しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞま幸さきくありこそ
読み:しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ
作者と出典
柿本人麻呂  巻13・3254
現代語訳
しきしまのやまとの国は言葉の霊力が物事をよい方向へ動かしてくれる国です、どうか私が言葉で申し上げることによって、どうぞその通り、無事でいて下さい。

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
読み:やくもさす いづものこらが くろかみは よしののかわの おきになづさう
作者と出典
柿本人麻呂  巻三・四三〇
現代語訳
八雲の湧く出雲の娘子の黒髪が、吉野の川の沖に揺らめいている

藤原道長
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
(このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば)
は、寛仁2年10月16日(ユリウス暦1018年11月26日)に、太閤・藤原道長が詠んだとされる和歌。この日は道長の三女・藤原威子が後一条天皇の中宮として立后された日であり、摂関政治の絶頂を示した歌としてしばしば引用され、望月の歌と呼ばれることもある[1][2]。
  

菅原道真
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
百人一首11

https://note.com/infinity0105/n/n4fdbec406c4d

東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅(むめ)の花(はな)あるじなしとて春(はる)を忘(わす)るな
拾遺和歌集 雑春 1006番
訳:わが家の梅の花よ。東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ。主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。
My ume tree, could you please send your scent on the east wind? Don't forget to bloom in spring even if I'm not here.

道真は昌泰4(901)年、大宰権帥に左遷される。この歌は都を発つときの歌として、『大鏡』などに引用されて有名。なお、東風(こち)は、東から西に吹く風のことであり、大宰府においては都から吹いてくる風が東風である。
ほぼ同じシチュエーションでの「桜花ぬしを忘れぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ」(後撰和歌集・春・57番)も切ない。


「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
言わずと知れた日本国の国歌です。

https://wakadokoro.com/learn/%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%EF%BC%9F-%EF%BD%9E%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86%EF%BD%9E/

 「あなたが非常に長生きできることを願います。それは小さな砂利が悠久の年月を経て巌(いわ)となり、苔が生い茂るまで」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ccd908251752f018818e4bcbe313a2661950f6e1

デリケートな問題というのは、君が代の「起立斉唱問題」です。
君が代は「大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は国体護持の意味合いが強い」ということから、君が代の斉唱を反対する運動が起きています。
でも君が代の「君」は本当に天皇を指しているのでしょうか?
また歌の内容は国体護持なのでしょうか?
君が代の歌詞は、古今和歌集の「賀歌」が元になっています。
「賀部」の冒頭
343「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(よみ人しらず)
そもそも「賀歌」は、誰に向けた祝賀なのでしょう?
古今和歌集は「勅撰和歌集」ですから、天皇に向けた祝賀がほとんどだろうと思えます。
しかし!
賀歌二十二首の内容、詞書をみても、天皇に向けた祝賀であると特定できる歌は一切ないのです。なおかつ祝いの内容は末永い国体の繁栄などではなく誕生の賀が大半。
しかもその対象者が本康親王(仁明天皇の皇子)と尚侍の右大将(藤原定国)という奇妙なアンバランス。
つまり「賀歌」の本質は、親しい人へのバースデーソングなのです。
君が代の君は「天皇ではない」と言い切れないまでも、天皇である可能性は薄く、かつ国体護持というような内容を含んでいる可能性はほとんどない!
ということです。


式子内親王(1149〜1201)
「玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」
百人一首89番
https://evrica.me/liberal-arts/1131
我が命よ、絶えることなら早く絶えてしまえ。このまま生き永らえていると、恋心を耐え忍んでいる私の心が弱ってしまうと困るから。


明智光秀
「時は今 天が下しる 五月哉」
https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=494931
 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

松尾芭蕉?
「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か
回答
松尾芭蕉ではなく、相模(神奈川県)の田原坊の作と思われる。
『松島(嶋)図誌』(桜田周甫 文政三年)に田原坊の「松島や さて松島や 松島や」という吟が収められていたが、
風景のあまりの美しさに句を詠めなかったという松尾芭蕉の話も同時に掲載されたため、当句の詠み人=松尾芭蕉と混同して今に伝えられているのかもしれない。
なお、芭蕉は松島で「島々や千々にくだきて夏の海」という句を詠んでいる。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000204432&page=ref_view

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース
・『芭蕉全発句』(山本健吉/〔著〕、講談社)
 『芭蕉秀句』(山口誓子/著、春秋社)
 索引から調べるがいずれも該当句はなし。

・『ら・ら・ら「奥の細道」』(黛まどか/著、光文社)p.42
 「松島や~が芭蕉の句だと信じている人が意外と多いのだけれど、芭蕉の名誉のためにもこれは断じて彼の句ではありません!と念を押しておきますね」

・『おくのほそ道-解釈と研究-』(井上豊/著、古川書房)p.177
「芭蕉の作と伝えられる『松島や』の句については、木村架空の『新釈』(『新釈奥の細道』明治29年)に『俗書に伝へる松島や~の句は、桜田周甫の松島図誌に、相模の人、田原坊の吟として載せてあり、ああはさてとなって居る。『さての方大いに好し』とある」

・『芭蕉はどんな旅をしたのか』(金森敦子/著、晶文社)p.203
「芭蕉がこのような句を吟じた事実はなく、1821年(文政四年)に出された『松島図誌』には相模の田原坊の吟とあり、「ああ」は「さて」となっているという」

・『奥の細道行脚』(櫻井武次郎/著、岩波書店)p.73~
「ところで、芭蕉が松島で句を作れず、 ああ松島や松島やとつぶやいたという話がある。先に掲げたように松島で芭蕉は作句している(島々や千々にくだきて夏の海)のだが、『奥の細道』には記さないので、このような話が生まれたのだろうか。復本一郎氏の教示によれば、『松嶋図誌』(文政三年)という本に、松嶋や~さてまつしまや~(相模州田原坊)の句を収め、その後に来た芭蕉が、風景のあまりの美しさに句を読めなかったという話を載せる。直接かどうかは分からないが、この記事を混同して「ああ松島や」の話が生まれたのかもしれない」

2023.11.22追記
国立国会図書館デジタルコレクション収録の『松嶋図誌 再販』(桜田周輔/著、東沢/画 裳華房)37コマより、相模の田原坊の吟の左側に松尾芭蕉の話が掲載されていることが分かる。
(https://dl.ndl.go.jp/pid/991518/ )2023.11.22確認


浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」
https://tankanokoto.com/2020/12/akourousi.html
意味は、
風に舞い散る桜のよりもずっと、若くして断たれるこの命の心残りをどうしたらいいものか
というもの。
浅野内匠頭の年齢は、このとき33歳でした。
浅野内匠頭の、口惜しさが伝わる短歌なのです。
これを詠んだ家来たち四十七人は、主君の無念を察して仇討ちを決心したのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/itsukusima-m/e/450c544a1e7745dbf9e1827798364f6c
本居宣長
「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人とは(わ)ば 朝日に匂(にお)ふ 山桜花(やまざくらばな)」

「古事記伝(こじきでん)」で有名な国学者「本居宣長(もとおりのりなが)」の歌です。
「敷島の」は大和心にかかる枕詞、「匂う」は現在では「香りが匂う」という意味で使いますが、
当時は「花が美しく咲いている、映えている」という意味で使っています。
また「大和心」は「漢心(からごころ)」(中国かぶれの心)に対する「日本人としての昔ながらの柔軟な知恵」という意味です。
すなわち「大和心とはなにかと、尋ねられたら、朝日に照り輝く山桜の花であると答えよう。
日本人である私の心とは朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」

「泰平の眠りを覚ます上喜撰」

https://higashiyamatoarchive.net/ajimalibrary/01%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%88%A5%E3%83%BB%E8%91%97%E4%BD%9C/%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%8B%82%E6%AD%8C%E3%80%8C%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%80%8D%E3%80%81%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA%E7%9B%B4%E5%BE%8C%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E8%A3%8F%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9B%B8%E7%B0%A1%E7%99%BA%E8%A6%8B.html

上喜撰の碑
碑文
泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず

  江戸幕府は約二百年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていました。その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸しました。この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督でした。
  江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺しました。開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどのようなものだったでしょう。その驚きを端的に表現したのが、この落首です。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています。

交通:JR・京急久里浜駅~野比海岸間バス、ペリー記念碑下車・徒歩2分

https://mwl-store.com/2021/05/14/%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%9B%9B%E6%9D%AF%E3%81%A7%E5%A4%9C%E3%82%82%E5%AF%9D%E3%82%89/

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず。
「蒸気船と上喜撰」「上喜撰」とは当時人気のお茶のこと、湯呑みの杯と「蒸気船」の船の杯を掛け合わせ、さらにお茶の効能の目が覚めることにも掛けた、江戸人ならではの洒落っ気。黒船来航として1853年に浦賀沖に突然現れた(となっているが実際は薩摩藩などに事前に告知があったともの諸説あり)アメリカの船団四隻(実際には蒸気船は二隻だったという、残りの二隻は蒸気船でない船のこと)神奈川県浦賀の当時の人にとってはさすがに驚きで、どこかが攻めてきたと大騒ぎだったろう、自分たちが使う船とのあまりの大きさの違いに。。。


坂本龍馬
世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

https://oidon5.hatenablog.com/entry/2021/05/02/190000

坂本龍馬 『詠草二 和歌』
現代語訳
世の中の人は俺のことをどうとでも言いたけりゃ言え。俺のやることは俺にしかわからんだ。

与謝野晶子
https://news.mynavi.jp/article/20240301-2896065/
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
1904年


森鴎外
我百首
http://sybrma.sakura.ne.jp/347ougai.wagahyakusyu.html

我は唯この菴沒羅菓(あんむらくわ)に於いてのみ自在を得ると丸呑にする

我詩皆けしき臟物(ざうもつ)ならざるはなしと人云ふ或は然らむ
1909年

宮沢賢治

[ 名言 ]
詩は裸身にて、理論の至り得ぬ境を探り来る。
そのこと決死のわざなり。

https://meigennavi.net/word/16/160918.htm

[ 出典 ]
宮沢賢治[みやざわ・けんじ]
(明治~昭和初期の詩人・童話作家、1896~1933)
【 宮沢賢治の名言 】


寺山修司
マッチ擦するつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(『寺山修司全歌集』)
https://note.com/yojiroo/n/n7bd50680f1db
おそらく寺山修司のもっとも有名な歌だ。多くの教科書にも取り上げられた。僕が寺山修司の歌で唯一知っていたのがこれだ。
1958年


  • 〈マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや〉は、三句切れ。2023/04/19
  • 1 09 国語の勉強法③ - 行人塾―こうじんじゅくhttps://kojin-juku.net>goroku

    マッチ擦るは何句切れですか?


マッチ擦るつかのま海に霧深し… - ユリイカ学習塾

  1. https://eureka.aosoraya.com>マッチ擦るつかのま海に霧...
2021/4/28 -青森出身の詩人、寺山修司(1935-1983)の若い頃の短歌で、まだ私の印象に残るものがある。「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つる程の 祖国はあり ...

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  1. https://tapanulifever.hatenablog.com>entry>2015/05/02
2015/5/2 -マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや寺山修司 富沢赤黄男の俳句、 一本のマッチをすれば湖は霧の本歌取り、というか、パクリ。

この国などどうでもよいが首ばかり丹念に洗う湯屋にて洗う

  1. https://sunagoya.com>tanka
2024/3/9 -これを読んでとっさに思い浮かべるのが、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(『空には本』、1958)。寺山の下 ...

マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  1. https://mediajuku.com>article
寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)日本の歌人、詩人、劇作家、映画監督と様々なジャンルで前衛的な活動をした。演劇実験室「天井桟敷」を主宰。



昭和天皇
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
昭和61,62年の終戦記念日に陛下が詠まれたとする
1986年
https://note.com/saito_syse/n/ncb2216bc23ce


俵万智
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念
https://www.amazon.co.jp/サラダ記念日-俵-万智/dp/4309024882

柿本人麻呂の万葉集の和歌代表作一覧

柿本人麻呂の万葉集の和歌代表作一覧

しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞまさきくありこそ

読み:しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ

作者と出典

柿本人麻呂  巻13・3254

現代語訳

しきしまのやまとの国は言葉の霊力が物事をよい方向へ動かしてくれる国です、どうか私が言葉で申し上げることによって、どうぞその通り、無事でいて下さい。

https://tankanokoto.com/2021/10/hitomaro2.html

柿本人麻呂の万葉集の和歌代表作一覧

柿本人麻呂は、万葉の古代日本を代表する大歌人とされています。

柿本人麻呂の万葉集の和歌の代表作品を現代語訳をつけて一覧でまとめます。

柿本人麻呂,肖像画

静神社の三十六歌仙より

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柿本人麻呂は、万葉集ばかりでなく、後代に至るまで「歌聖」と仰がれる優れた歌人です。

柿本人麻呂作の万葉集の和歌の代表作品を現代語訳をつけて、以下に一覧でまとめます。

他の歌人については 万葉集の代表的な歌人一覧まとめ をお読みください。

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ

読み:おうみのうみ ゆうなみちどり ながなけば こころもしのに いにしえおもおゆ

作者と出典

柿本人麻呂 万葉集 3-266

現代語訳

近江の湖の夕暮れに 波打ち際で餌をついばむ千鳥よ、こころがしなうほどに昔のことが思われる

※この歌の解説
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂

あしひきの山川の瀬の響るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る

読み:あしひきの やまかわのせの なるなえに ゆづきがたけに くもたちわたる

作者と出典

柿本人麻呂 万葉集 7-1088

現代語訳

山川の早瀬に波音が高くなるにつれて、弓月が岳には次々と雲が立ち昇っている

※この歌の解説
あしひきの山川の瀬の響るなへに弓月が嶽に雲立ち渡る 柿本人麻呂

しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞまさきくありこそ

読み:しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ

作者と出典

柿本人麻呂  巻13・3254

現代語訳

しきしまのやまとの国は言葉の霊力が物事をよい方向へ動かしてくれる国です、どうか私が言葉で申し上げることによって、どうぞその通り、無事でいて下さい。

※この歌の解説
しきしまの大和の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ 言霊信仰の万葉集の和歌

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ

読み:やくもさす いづものこらが くろかみは よしののかわの おきになづさう

作者と出典

柿本人麻呂  巻三・四三〇

現代語訳

八雲の湧く出雲の娘子の黒髪が、吉野の川の沖に揺らめいている

※この歌の解説
八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ 柿本人麻呂

大君はにしませば天雲の上に廬せるかも

読み:おおきみは かみにしませば あまぐもの いかづちのうえに いおりせるかも

作者と出典

柿本人麻呂 万葉集3巻 235

現代語訳

わが天皇は神でいらっしゃるので、天雲の雷の上に行宮(あんぐう)をおつくりになりたもうた

※この歌の解説
大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも 柿本人麻呂「万葉集」

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

読み:あしびきの やまどりのおの しだりおの ながながしよを ひとりかもねん

作者と出典

柿本人麻呂の作

「百人一首」「万葉集」に元歌

この歌の作者について

ただし、柿本人麻呂作とされているが、万葉集にも同じ歌形の歌があり、口伝えにされているうちに、大歌人である人麻呂の歌とされたとみられる。

この歌は「拾遺集」にも収められている。

現代語訳と意味

山鳥の長く垂れた尾のように長い長い夜を、寂しく一人寝をするのであろうか

※この歌の解説
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む/柿本人麻呂

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ

読み:ひんがしの のにかぎろいの たつみえて かえりみすれば つきかたぶきぬ

作者

柿本人麻呂 1-48

現代語訳

東の野に陽炎の立つのが見えて振り返ってみると月は西に傾いてしまった

※この歌の解説
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ/柿本人麻呂/万葉集解説

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも

現代語の読み:もののうの やそうぢがわの あじろぎに いさようなみの ゆくしらずも

作者と出典

柿本人麻呂 万葉集264

現代語訳

宇治川の網代木にたゆたっている 波の行方がわからないことだ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行く方知らずも 柿本人麻呂

天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ

現代語の読み:あまざかる ひなのながちゆ こいくれば あかしの とより やまとしまみゆ

作者と出典

柿本人麻呂 万葉集264

現代語訳

鄙からの長い道を通って家恋しくやってくると、明石海峡の向こうに大和の島々が見える

天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ 柿本人麻呂

石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹みつらむか

現代語の読み:いわみのや たかつのやまの このまより わがふるそでを いもみつらんか

出典

万葉集 215 「石見相聞歌

現代語訳

石見のなあ、高角山の高い山の基の間から私が別れを惜しんで振るこの袖を妻は今頃見ているだろうか

笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば 解説

現代語の読み:ささのはは みやまもさやに さやげども われはいもおもう わかれきぬれば

出典

万葉集 2-133 「石見相聞歌」の反歌

現代語訳

笹の葉は山全体でさやさやと音を立てているけれども、私は一心に妻のことを思っている。別れてきてしまったので

※石見相聞歌の長歌の解説は下の記事に記しました。

石見相聞歌の解説 表現技法と品詞分解 柿本人麻呂

柿本人麻呂の経歴

柿本人麻呂 かきもとのひとまろ

飛鳥時代の歌人。生没年未詳。7世紀後半、持統天皇・文武天皇の両天皇に仕え、官位は低かったが宮廷詩人として活躍したと考えられる。日並皇子、高市皇子の舎人(とねり)ともいう。

「万葉集」に長歌16,短歌63首のほか「人麻呂歌集に出づ」として約370首の歌があるが、人麻呂作ではないものが含まれているものもある。

長歌、短歌いずれにもすぐれた歌人として、紀貫之も古今集の仮名序にも取り上げられ、古来歌聖として仰がれている。

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース
質問

解決

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か
回答
松尾芭蕉ではなく、相模(神奈川県)の田原坊の作と思われる。
『松島(嶋)図誌』(桜田周甫 文政三年)に田原坊の「松島や さて松島や 松島や」という吟が収められていたが、
風景のあまりの美しさに句を詠めなかったという松尾芭蕉の話も同時に掲載されたため、当句の詠み人=松尾芭蕉と混同して今に伝えられているのかもしれない。
なお、芭蕉は松島で「島々や千々にくだきて夏の海」という句を詠んでいる。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000204432&page=ref_view

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース

・『芭蕉全発句』(山本健吉/〔著〕、講談社)
 『芭蕉秀句』(山口誓子/著、春秋社)
 索引から調べるがいずれも該当句はなし。

・『ら・ら・ら「奥の細道」』(黛まどか/著、光文社)p.42
 「松島や~が芭蕉の句だと信じている人が意外と多いのだけれど、芭蕉の名誉のためにもこれは断じて彼の句ではありません!と念を押しておきますね」

・『おくのほそ道-解釈と研究-』(井上豊/著、古川書房)p.177
「芭蕉の作と伝えられる『松島や』の句については、木村架空の『新釈』(『新釈奥の細道』明治29年)に『俗書に伝へる松島や~の句は、桜田周甫の松島図誌に、相模の人、田原坊の吟として載せてあり、ああはさてとなって居る。『さての方大いに好し』とある」

・『芭蕉はどんな旅をしたのか』(金森敦子/著、晶文社)p.203
「芭蕉がこのような句を吟じた事実はなく、1821年(文政四年)に出された『松島図誌』には相模の田原坊の吟とあり、「ああ」は「さて」となっているという」

・『奥の細道行脚』(櫻井武次郎/著、岩波書店)p.73~
「ところで、芭蕉が松島で句を作れず、 ああ松島や松島やとつぶやいたという話がある。先に掲げたように松島で芭蕉は作句している(島々や千々にくだきて夏の海)のだが、『奥の細道』には記さないので、このような話が生まれたのだろうか。復本一郎氏の教示によれば、『松嶋図誌』(文政三年)という本に、松嶋や~さてまつしまや~(相模州田原坊)の句を収め、その後に来た芭蕉が、風景のあまりの美しさに句を読めなかったという話を載せる。直接かどうかは分からないが、この記事を混同して「ああ松島や」の話が生まれたのかもしれない」

2023.11.22追記
国立国会図書館デジタルコレクション収録の『松嶋図誌 再販』(桜田周輔/著、東沢/画 裳華房)37コマより、相模の田原坊の吟の左側に松尾芭蕉の話が掲載されていることが分かる。
(https://dl.ndl.go.jp/pid/991518/ )2023.11.22確認

製作から40年、三島由紀夫最期の日を描く”幻の映画” 『MISHIMA』トークショー| Mishima: A Life in Four Chap...

製作から40年、三島由紀夫最期の日を描く”幻の映画” 『MISHIMA』トークショー| Mishima: A Life in Four Chap...

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泰巖宗安記:影武者(映画)のロケ地

泰巖宗安記:影武者(映画)のロケ地
泰巖宗安記:影武者(映画)のロケ地
http://taigan.blog104.fc2.com/blog-entry-39.html

影武者(映画)のロケ地

黒澤明監督の作品影武者は、隆大介という新人を信長役に抜擢し、色黒で精悍という新しい信長像を描いたものである。
その冒頭、野田城攻囲中の武田軍の中を一人の武者が水の手を掘り当てたことを注進する為に駆け抜けるシーンがある。
ソレこそ、安土城天主跡入口から伝菅屋邸への道である。

このシーンで使われた石段は切石が使われており信長時代のものではなく、平成の発掘調査の始まる前に石垣整備工事の際に、石垣を取り外し瓦礫の下から現れたものである。安土城の謎の一つでもある。現在は閉鎖されており見学不可能であるが。
その先の平坦な所は発掘調査で重層建物の存在を窺わせるものといわれたところでもある。
黒澤明監督が亡くなられた際、NHKの特集でロケハンしてるところが放送されていた。故黒澤明も安土城跡を訪れたようである。     

Kagemusha - Der Schatten des Kriegers - Schnittbericht: FSK 16 (Schnittberichte.com)

Kagemusha - Der Schatten des Kriegers - Schnittbericht: FSK 16 (Schnittberichte.com)

Kagemusha - Der Schatten des Kriegers

Wrong Turn 1-7 - ab 31.10.2025 zum Vorbestellen
Freigabe FSK 16
Die amerikanischen Regisseure George Lucas (Krieg der Sterne) und Francis Ford Coppola (Apocalypse Now) waren von Akira Kurosawas Arbeiten so begeistert, dass sie ihm zum Ende der 70er Jahre dabei halfen, die Finanzierung für sein neuestes Historienepos Kagemusha sicherzustellen. Der schaffte es nämlich 10 Jahre nach seinem größten Erfolg „Die sieben Samurai" nur noch alle paar Jahre ein neues Werk in die Kinos zu entlassen, was sich aber aufgrund des geringen finanziellen Erfolgs von Kagemusha auch im darauffolgenden Jahrzehnt nicht ändern sollte in dem er nur noch für RAN ein größeres Budget erhielt und sich in den 90ern nur noch kleineren Projekten widmete, bevor er 1998 starb.

Kagemusha stellt im Oeuvre Kurosawas sicherlich ein einmaliges Highlight dar. Entstanden zu einer Zeit, in der er sich auch ausgiebig der Malerei widmete, entfernt sich der Film bewußt von den Massenschlachten anderer Historienfilme ab (zeigt sie später aber wieder in RAN) und präsentiert meist nur ihre Vorbereitung, ihre Folgen (das Meer aus Leichen am Ende) oder die Reaktionen, die bei den Beobachtern hervorrufen. All das geschieht mit unglaublicher Präzession und Geduld. Vielleicht etwas zuviel Geduld für das westliche Publikum, weswegen es Lucas und Coppola wohl nicht verhindern konnten, oder wollten, dass der Film für die internationale Auswertung stark gekürzt werden sollte.

Anders als der 5 Jahre später entstandene RAN stellt Kagemusha zweifelsohne den am schwersten zugängliche Film Kurosawas dar, weshalb er Anfängern absolut nicht zu empfehlen ist. Die gekürzte Fassung des überlangen Film macht es dem Zuschauer etwas leichter, aber wie so oft und zuletzt bei Wu Ji – Die Reiter der Winde stellt sich die Frage, ob das den unbedingt der Fall sein muss.

Wer sich aber zum Beispiel die perfekt ausgestattete Criterion DVD aus den USA gönnt und auf die vielen Details in Tatsuya Nakadai präzisen Darstellung des Fürsten und seines Doubles achtet, kann sich der hypnotischen Wirkung dieses Meisterwerks nicht entziehen, das in einem vom törichten Kriegsherren heraufbeschworenen Finale voller Tragik und Elegie seinen Höhepunkt findet.

Verglichen wurde die internationale Version, in Deutschland mit einer FSK 16 Freigabe versehen und durch die ARTE Ausstrahlung vertreten, mit der japanischen Originalfassung der Criterion DVD.

Insgesamt fehlen 18 Minuten und 40 Sekunden bei einer Gesamtzahl von 42 Unterschieden. Die internationale Fassung beinhaltet eine zusätzliche Einleitung mit 25,5 Sekunden.
0:00
Unterschiedliche Logos.
27,5 sec

Arte 6:23
Criterion 7:06
Die Arte Fassung hat einen Einleitungstext gleich nach dem Kagemusha"-Titel: "Im 16. Jahrhundert war Japan ein von Machtkämpfen zerissenes Land. Die Territorialfürsten boten alle Kräfte auf, um die Hauptstadt Kioto einzunehmen. Die drei mächtigsten dieser Fürsten waren Shingen vom Hause Takeda, Nobunaga vom Hause Oda und Ieyasu vom Hause Tokugawa. 1572 marschiert Shingen auf Kioto zu. Nachdem er die Armeen seiner beiden Rivalen geschlagen hat, belagert er nun Ieyasus Festung Noda."
25,5 sec


7:14
Der Soldat rennt länger durch die Lagerstätten.
12 sec


7:47
Zu Beginn verlängerte Einstellung des Raumes, durch den der Bote geht.
3 sec

8:32
Der General links sagt noch: "Indeed. We breach their outer and inner perimeters, and they calmly hole up in the keep."
9,5 sec


9:25
Masakage Yamagato steigt vom Pferd und läuft durch den Hof zu Shingen. Dort kündigt ein Diener dessen Ankuft an.
30,5 sec


14:12
Wie Ieyasu Togukawa von einem Boten erfährt, dass Shingen angeschossen wurde und unter Umständen tot ist ist erst bei 15:28 zu sehen, nachdem man sieht wie Nobunaga vom Vofall erfährt. Dadurch fehlt dann wie Ieyasus Generäle kurz die Situation im Land mit ihren 4 Krisenherden erläutern und dass man unbedingt dem Verbündeten Nobunaga Oda bescheid sagen muss. Ieyasu ist sich aber sicher, dass der schon vom scheinbaren Tod Shingens weiß.
51,5 sec


15:23
Nobunaga reitet noch zweimal wütend um den Platz herum, nachdem er von Shingens Tod erfahren hat.
18,5 sec


16:25
Ein Möch erfährt von Shingens Tod.
99 sec


17:34
Ein Blick auf die Raststätte für die Nacht.
3 sec


18:50
Shingen wiederholt noch einmal mit Nachdruck, dass sein Sohn und seine Generäle auf keine Fall die Heimat für einen Krieg verlassen sollen: "Do not move."
3 sec


20:07
Am Ende des Vortrags ist Shingen noch einen Moment länger zu sehen.
8 sec


24:34
Masakage Yamagato reitet mit Shingen in einer Sänfte über einen Berg. Der Arzt rät ihm zu einer Pause, da sich sonst Shingens Zustand verschlechtern könnte.
47 sec


26:20
Masakage Yamagato schaut den Arzt nach Shingens Ausfall länger teils wütend, teils entsetzt an.
4,5 sec


26:53
Die Soldaten reiten etwas weiter.
3,8 sec


Arte 28:01
Criterion 34:21
Nur in der Arte-Fassung ist ein Sonnenuntergang zu sehen.
4 sec


31:10
Als einer der Spione den Zug der Takeda Soldaten beobachtet, gibt es die Szenen, in der ein einzelner Soldat mit einem Pferd vorbei reitet in einem anderen Ausschnitt, in der man den Spion unten nicht sieht, dafür rechts oben viel mehr. Allerdings fehlt wie der Spion zu Beginn durch den Wald angerannt kommt und auch am Ende mehr vom Marsch. Außerdem ist in der Criterion Fassung die ganze einminütige Szene in einer Einstellung zu sehen, während es in der Arte Fassungen einen recht stümperhaften Schnitt gibt, der zusammen mit dem verschobenen Bild eigentlich nur auf einen Fehler der Arte Fassung hinweist.
28,5 sec

Das verschobene Bild der Arte Fassung



31:54
Der Marsch geht etwas länger, nachdem der Spion weitergelaufen ist.
1,5 sec


34:49
Das Double reitet einen Moment länger an den Männern vorbei.
1 sec


40:05
Man hat eine lange Einstellung zerlegt und dabei aus der Mitte rausgeschnitten, wie das Double etwas länger das Tongefäß auseinander baut.
15 sec


51:51
Das Double bleibt noch etwas länger vor den Generälen knien.
7 sec


Arte 51:51
Criterion 60:04
In der Szene, in der das Schild über das angeblich versenkte Fass Sake zu sehen ist, gibt es in der Arte Fassung eine Nahaufnahme. In der Criterion Fassung dagegen, ist dafür die darauffolgende Einstellung zu Beginn länger.
kein Zeitunterschied
links Arte, rechts Criterion



52:19
Die Spione setzen sich an den Baum.
4,5 sec


52:59
Fast schon nicht anders zu erwarten, fehlt ein großer Teil des No Theaters. Kurz davor noch ein paar Sekunden mit den Spionen am Baum.
116 sec


70:22
Wie auch zuvor der echte Shingen bei 20:07, wurde das kopierte Sitzen des Double am Ende etwas verkürzt.
3 sec












Änderung der Reihenfolge

Nachdem das Double seine beiden Konkubinen von seiner Echtheit überzeugt hat, wurde in beiden Fassungen die Reihenfolge der folgenden Szenen umgestellt.

Criterion

Arte

  • Ieyasu Tokugawa spricht mit einem seiner Generäle über die Shingen und beschließt einen Angriff auf Suruga

  • Der Kampf in Suruga

  • Katsuyori Takeda in der Burg Suwa spricht über seine Enttäuschung von seinem Vater nicht akzeptiert geworden zu sein

  • Das Double spricht mit seinem Enkel


  • Katsuyori Takeda in der Burg Suwa spricht über seine Enttäuschung von seinem Vater nicht akzeptiert geworden zu sein

  • Das Double spricht mit seinem Enkel

  • Ieyasu Tokugawa spricht mit einem seiner Generäle über die Shingen und beschließt einen Angriff auf Suruga

  • Der Kampf in Suruga


81:03
Am Ende der Katsuyori Takeda Szene in der Burg Suwa fehlt auf Arte noch eine Szene, in der der andere Mann aufsteht, aus dem Fenster schaut und einen Boten am Strand sieht.
10 sec


87:09
Bei der Versammlung werden von Dienern Kerzen aufgestellt.
27,5 sec


Arte 91:43
Criterion 104:25
Nachdem das Double die Versammlung verlassen hat, fehlt in der Criterion Version eine weitere Szene mit Nobukado und dem wütenden Katsuyori.
4 sec


91:43
Dafür fehlt in der Arte Fassung, wie Tatsuyori und seine Leute wütend davon reiten und die ersten 3 Sekunden der kleinen Versammlung danach.
30 sec


93:14
Nobukado sagt am Ende der kleinen Versammlung noch etwas über das Double: "And all because ... one brief meeting with the late lord won his heart and he was saddened by his death. You have to feel sorry for him."
33 sec


93:33
Shingen steht in der Traumseqeunz einen Moment länger da, nachdem er sich aus dem Tonkrug befreit hat.
1,5 sec


Die Szene, in der Shingen weiter auf das Double zugeht - genau vor dem nächsten Schnitt - ist in der Arte Fassung etwas später bei 93:51 zu sehen.

93:36
Shingen läuft weiter auf das Double zu, während der entsetzt zurückweicht.
11 sec


93:51
Da hier eine Szene von vorher wiederholt, fehlt Folgende der Criterion ganz.
2,5 sec


Arte 93:59
Die Arte Fassung hat eine zusätzliche Eintellung, in der das Double zurück schreckt. Aufgrund der Szenenverschiebung ist die Zuordnung zur Criterion Fassung nicht möglich, da es sich um eine alternative Szene handelt, die nicht in die Criterion Fassung passt.
2,5 sec


94:34
Das Double irrt noch wesentlich länger durch die Traumlandschaft, bevor er niederkniet. Die kurze Jump Cut Sequenz bevor er zum Fluss geht, wurde auch anders angeordnet.
50,05


94:54
Er irrt etwas noch länger durch den Traum, bevor er zum Fluss geht.
5,5 sec


95:24
Er läuft länger durch den Fluss.
7,5 sec


97:41
Nachdem Nobunaga die portugiesischen Priester gegrüßt hat, fehlt folgender Dialog.
Nobunaga: "I didn`t know the priests were still here."
Diener: "They return to Sakai today."
Nobunaga: "Wait, one of them was a man of medicine. Send him to pay Shingen a sympathy visit."
Diener: "A visit from an enemy camp might be difficult."
Nobunaga: "Idiot. You think I don`t know that? Use Nobutora. The geezer`s at loose ends in Kyoto since his own son Shingen banished him. They can`t turn away a mesenger from him. He has servants who know Shingen well. With one of them along, we can learn the truth.
44 sec


100:26
Der Priester, den Nobunaga geschickt, erscheint am Hofe von Shingen. Nobukado und auch die Generäle sind nicht sehr begeistert, müssen ihn aber empfangen, da er ja scheinbar von Shingens Vater geschickt wurde. Sie glauben zwar, dass der Feind hinter dem Besuch steckt, hoffen aber auch, dass die beiden Besucher deren Zweifel über Shingens Tod vertreiben könnten, wenn sie das Double sehen.
107,5 sec


100:39
Das Double empfängt den Priester, während draußen noch einmal Shingens Pferd wild durch die Gegend springt und nur schwer von Stallburschen gebändigt werden kann. Der Diener von Shingens Vater wird, während der Priester das Double untersucht, etwas frech und fordert ihn mit Fragen über die Vergangenheit heraus. Nobukado kann aber alle Versuche das Double zu enttarnen abfangen.
210 sec


118:44
Beim Treffen zwischen Nobunaga und Ieyasu sieht man zu Beginn noch kurz den Priester und den Diener, die Shingen besucht hatten und Nobunaga berichtet hatten, dass es Shingen einwandfrei geht.
26,5 sec


137:45
Die drei Generäle, die "Feuer", "Wald" und "Wind" repräsentieren, betrachten die Palisaden der Oda etwas länger.
27,5


In den Szenen nach der Schlacht wurden die Einstellungen mehrmals umgestellt.

Weiterhin fehlen:

148:33
Weitere Pferde versuchen wieder aufzustehen und auch ein paar verwundete Soldaten irren über das Schlachtfeld.
31 sec


148:52
Wieder mehr sich windende Pferde und tote Soldaten.
66,5 sec


150:10
Der Abspann fällt auf Arte kürzer aus.
80 sec

Kommentare

19.11.2006 04:11 Uhr - peacekeepa

Kagemusha war einer der ersten Kurosawa Filme, die ich gesehen hatte. Schwer zugänglich fand ich ihn weder damals und finde ich auch heute nicht. In meinen Augen sehr wohl für Einsteiger empfehlenswert, im Gegensatz zu RAN, aber das ist wohl Ansichtssache. Dank gebührt dem Autor des Schnittberichts. Der Kauf der Criterion DVD ist damit beschlossene Sache.


19.11.2006 12:27 Uhr - Doc Idaho

Das hängt natürlich auch davon ab, wie sehr man sich (unabhängig von Kurososawa) mit dem japanischen Kino vor 1980 auskennt, der behandelten Historie und den auftretenten Kunstformen. Ansonsten verpasst man zuviel von Kagemusha, ohne das man es merkt. Ich gehe weiter davon aus, dass der Großteil, der sich mit diesen Themen beschäftigt irgendwann mal einen der bekannteren Kurosawa gesehen hat muss.
Du bist vielleicht die Ausnahme.
Aber in meinen Augen ist Kagemusha weiterhin ein deutlich sperriger Film als z.B die Sieben Samurai oder Yojimbo.
ciao


21.11.2006 14:10 Uhr -

dem kann ich nur zustimmen, aber soooo
schwer isser dann nun auch nich.
zählt aber mM nach nicht zu den Besten Kurosawas.

RAN, Das Schloss im Spinnwebwald und die Sieben Samurai
sind meine absoluten Favs.


25.09.2007 22:05 Uhr -

Kleine Korrektur in den Links zur OFDB:
Der Film ist FSK 12 und nicht FSK 16.
Ansonsten: Top Schnittbericht.


11.10.2008 11:20 Uhr - goof

Wer keine Geduld hat, hat Pech gehabt. Da gibz nix zu kürzen, der Film is geil.


24.10.2008 01:02 Uhr - Blutgericht

Großartiger Film.


10.05.2012 15:57 Uhr - Der Streber

Wird in den Extras der Criterion eigentlich gesagt auf wessen Bestreben hin der Film gekürzt wurde? Oder ob Kurosawa irgendwelchen Einfluss auf die internationale Fassung hatte?


16.05.2012 18:32 Uhr - Phileas

10.05.2012 15:57 Uhr schrieb Der Streber
Wird in den Extras der Criterion eigentlich gesagt auf wessen Bestreben hin der Film gekürzt wurde? Oder ob Kurosawa irgendwelchen Einfluss auf die internationale Fassung hatte?

Nicht dass es mir aufgefallen wäre. Weder Lucas noch Coppola verlieren ein Wort darüber. Ich tippe mal darauf, dass Fox dafür verantwortlich ist.

Meiner Meinung nach einer der schwächeren Kurosawa. Ich habe fast alle bis auf drei oder vier gesehen. Die meisten mehrfach. Ich glaube spontan finde ich - von allen nach 1945 entstandenen - nur Rhapsody in August noch schwächer als Kagemusha. Der Film ist eigentlich nur eine Aneinanderreihung von schönen Gemälden in Filmform, denn die Bilder waren Kurosawas Ausgangspunkt für den Film.

Die Story ist zu simpel und hat für 3h Laufzeit einfach keinen Tiefgang. Das Spiel des Hauptdarstellers ist eine der weiteren Schwächen. Die Musik ist manchmal plump eingesetzt - abgesehen vom Anfang, wo sie exzellent funktioniert. Ich habe nichts gegen Langatmigkeit - im Gegenteil, es kann ein Stilelement sein. Ozu hat eine ganze Reihe von japanischen Filmen gemacht, die allesamt sehr langatmig sind. Die Kamera bewegt sich fast nie, die Schnitte sind extrem lang, aber langweilig wird es nie. Nicht so Kagemusha.

Lucas und insbesondere Coppola deuten in den Interviews schon einiges an. Während sie die wichtigen Kurosawa Filme positiv werten und loben, fällt nichts dergleichen über Kagemusha - und das, obwohl es in den INterviews ja um diesen ging. Im Gegenteil: Beide sind sich einig, dass Hauptdarsteller nicht der richtige ist. Ursprünglich war Shintaro Katsu vorgesehen, den beides besser gefunden hätten. Dann sagt Lucas etwas wie: "Auch wenn es kein neues Meisterwerk wird, ist es wichtig, dass Kurosawa mehr Filme macht. Wir können davon lernen." (frei aus dem Gedächtnis übersetzt). Copola, der auf eine Frage antwortet, die wir nicht kennen (wieder frei übersetzt): "Nur wenige Künstler schaffen es sich neu zu erfinden" (es folgt eine Aufzählung und Kurosawa ist nicht dabei). Da liegt das Problem. Kurosawa kehrt zu einem Genre zurück, das er selbst mit definiert hat... in dem er die Messlatte weit nach oben geschoben hat (auch wenn ich persönlich "Seppuku" für den besten Samurai Film halte). Toho hatte offenbar seine Gründe, warum man den Film nicht komplett allein finanzieren wollte.

Mein Fazit: Grandiose Bilder, aber leider nicht so viel dahinter, wie erwartet. Kein schlechter Film, aber auch kein Meisterwerk.

p.s.
Schwer zugänglich finde ich eigentlich keinen Kurosawa. Nicht ohne Grund wird er als der "westlichste" japanische Regisseur bezeichnet. Zum einen hat er sich nicht selten am Westen orientiert, zum Anderen hat man im Westen schon viel von Kurosawa assimiliert, so dass man im Allgemeinen ohne Probleme seine Filme schauen kann. Auch Naruse und Ozu sind auch ganz gut verdaulich. Für Mizoguchi, Kobayashi oder Ichikawa bedarf es schon ein wenig mehr. Wie dem auch sei... Kurosawa ist und bleibt einer meiner Favoriten neben Kobayashi und Imamura.

13.06.2012 12:00 Uhr - Der Streber

@Phileas
Danke für die Antwort! Ich hatte ja vergangenes Jahr das unbeschreibliche Glück, alle Kurosawas im Kino zu sehen. Deiner Meinung bezüglich "Kagemusha" muss ich mich leider anschließen. Nur mit "Der Idiot" und "Nachtasyl" konnte ich weniger anfangen. Selbst der Propagandastreifen aus den 40ern ("Am allerschönsten") hat mich mehr mitgerissen. Was die Besetzung der Hauptrolle angeht, so kann ich nur sagen, dass ich den beeindruckend wandlungsfähigen Nakadai für eine Idealbesetzung halte (besonders die Anfangsszene hat mich sehr beeindruckt), aber die Aussage von Kurosawa, dass "Kagemusha" eine reine "Kostümprobe" für "Ran" gewesen wäre, macht irgendwo Sinn. Wie du schon gesagt hast: zu aufdringliche Musik (bei der ich dann auch noch dauernd an "Takeshis Castle" denken musste, weil die da rauf und runter gespielt wurde), zu wenig Tiefgang bei zu langer Laufzeit. Schade, man hätte sicher mehr daraus machen können.

"Seppuku" halte ich auch für den besten Samuraifilm. Da hat mich Nakadai WIRKLICH umgehauen! Der war damals 29 und man nimmt ihn den alternden, würdevollen und kampferprobten Samurai zu jeder Sekunde ab. Die Musik von Takemitsu ist auch genial - die Biwa wird so schroff gespielt, dass sie schon nach E-Gitarre klingt. Die langsamen, hypnotischen Bilder können mit jedem Kubrick-Film mithalten. Ich hoffe sehr, dass demnächst noch mehr Sachen von Kobayashi erscheinen. Hab mir schon überlegt, ob ich mir "Black River" aus Frankreich importieren sollte, auch wenn mein Französisch nicht gerade das beste ist...


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