震災前の熊本城 小天守と本丸北側に抜ける石門
https://www.photolibrary.jp/img459/47302_4369159.html
https://youtu.be/85O6mzkKMoE?si=2R2ffKRgnIshzwd0
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熊本城⑤ ~大小天守と秘密の抜け穴?~
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小天守東側直下。
古図によると正面奥の石垣の上(建物があるあたり)に御裏五階櫓があったということです。
(御)裏五階櫓は本丸北端にあった櫓である。1重目に対し2・3重目の逓減率の大きい初期望楼型で1重目東面が西面より半間長い台形状になっているなと古い造りで熊本城の初代天守や隈本城の旧天守との説がある(宇土櫓にも同様の説がある)。北帯曲輪や不開門を見下ろす位置にあり、厚みのない北側の拠点である。かつて北帯曲輪が平左衛門丸へと続く通路であった際、通路から本丸への入口を櫓の南隣の本丸埋門に通しており、本丸北口の守りの要でもあった。西南戦争前に陸軍により破却されている。再建計画はあるものの、前述の入口の石段は破却されたままで、現在、櫓跡地には公衆便所がおかれている。
(wiki参照)
気になるのは、その手前の石垣にはさまれたアリジゴクのような特徴的な遺構。
よく見ると一番下まで降りた先には門はなく、抜け穴のようなもの(埋門?)が確認できます。
かつての本丸への虎口の一つだったとしても、現状は人一人がかがんで通れる程度の穴で、これが通常の虎口とは到底思えません。
さらに抜け穴らしきものは左手側の石垣にも確認できます。
ちなみにこれは小天守手前で撮った写真。
→方向へ進むとすり鉢状石垣の底へ進めます(現状は立ち入り禁止。無理をすれば物理的に降りられないわけではなさそうだが、衆人の目の前でそれをやる勇気はない)。
wikiによると、こういうことのようです。
大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開門(あかずもん)より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も枡形もなく、直に小天守入り口に続く構造を確認することができる。現在は非公開だが、この階段を下ると裏五階櫓跡と小天守の間に旧通路をふさぐように石垣が築かれている。石垣下部には、高さ1メートル程の石門という通り道があり、不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができた。石門は堀や帯郭の清掃のための通用口として利用されていたが、過去には抜け穴や水抜き穴との説があった。また、石門を抜けた左手にも同じ造りの石垣があり、こちらは宇土櫓へと続く犬走りへ出ることができた。
大天守内にあった展示。
ここでは抜け穴であるとしていますが、これは過去の説になってしまうのですかね。
wikiの内容をそのまま信用するというのもどうかと思いますが。
その④で触れた谷村計介伍長が、西南戦争時の脱出の際に利用したという説もあるようです。
経路図を示すとこんな感じ。
この「抜け穴」を使い、写真左奥方向に進むと平櫓・不開門から最短距離で城外へ。
左手前方向へ進むと宇土櫓脇の帯曲輪へと続きます。
城内には他にも抜け穴と思われる穴がいたるところに残っていますが、ほとんどは塞がれてしまっています。
https://youtu.be/1PBq8TEzGJk?si=WHbhz3aO3Lbth8gc
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