2025年10月31日金曜日

影武者 全記録

影武者 全記録
特に、姫路城ロケでは、小天守を信長の岐阜城の一室、水門は野田城の捨曲、 すて門は家康の浜松城の本丸という ようにひとつの城をフルに使っている。最後まで候補にあったのは大阪城。この空堀を使って撮影される予定であったが、これは熊本城、伊賀上野城が使われることになった。


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影武者 全記録

撮影日誌/製作裏話/黒澤語録 企画から完成までのすべてをここに! 一昨年暮れの製作発表から今年4月26日の公開にいたるまで、これほどまでに話題を呼んだ日本映画はなかった。あの劇的な主役交代騒ぎ、G・ルーカス、Fコッポラらの海外版プロデュースなど、いずれも世界のクロサワにふさわしいスケールだった。あ あなたは、この大作をもうごらんになっただろうか?

1978年12月20日

東京・丸の内の東京会館で製作発表。主演は勝新太郎で、他の出演者は数名の腹案もあるが、オーディションによって、キャスティングを組む意向。すでに井手雅人との共同シナリオは3月に脱稿していたが、製作費の予算面で折り合いがつかず、やっと1億4千万円で製作発表することが決った。

1979年1月16日

姫路城ロケハン。馬を使ってのスペ クタクル・シーンの撮影は、北海道の 勇払原野で行うことが決ったが、その 他のロケ地は未定。1月は全国の古城や武田屋形のモデルとなる古寺巡りとなった。熊本城を皮切りに丸亀、高知などの、中国、四国、近畿の古城、古寺を4カ所以上訪れた。

1979年1月20日

配役公募広告を全国主要新聞に掲載。

この時の黒澤監督のメッセージは こうだ。「今や、日本映画は新しい人材の発掘とそれを育てることから出直さなければならない。監督、脚本、撮影、録音、美術その他映画の芸術的技術部門の新人育成はもちろん急務だが、それは相当の年月を必要とする。しか俳優の新人の育成はひとつの映画の製作過程で、十分とは言えないが、不可能ではない。私はこの作品で、俳優の新人を発掘し、その才能を育てるとともに、既成の俳優諸君にも新人のつもりで取り組んで貰い、この映画を新鮮なものにしたいのだ」

1979年4月28日

東宝 のスタジオで配役発表が行 われる。1万5千人もの応募者(100人は女性)の中から、書類選考でまず干人。その後、数回の面接などを行い主な出演者2人を始めとする30人近い出演者が決まった。プロ・アマ問わずのキャスティングとあって、7対3の割新人、素人が大半を占めていた。

1979年6月27日

2カ月間、東宝スタジオでリハーサルの後、姫路城ロケからクランク・イン。信長・家康のシーン。野田城攻略策を練る武田の侍大将たちのシーンが中心となった。姫路城の国宝・乾小天守と「ろ」の渡りなどが、初めて開放され撮影が行われた。姫路城ロケは 7月9日までの2週間。

1979年7月20日

黒澤監督と勝新太郎の間で意見が対 立勝が主役を降ろされる。東宝スタジオで7月17日からリハーサルが行われていたが、勝が演技研究のためにとビデオカメラを持ち込もうとしたこと黒澤監督の逆鱗にふれたもの。これはの演技以前の問題で、勝手な行動をとられては映画製作ができないという理由であった。

1979年7月22日

の後任として、信玄とその影武者仲代達矢が決定。出演話が来た時の感想として仲代は「これはシメタ!と思った。黒澤先生が私に白羽の矢を立ててくれたことに大変感謝している」と語った。本読み、扮装テスト、リハーサルが2週間行われ、セット撮を中心として、武田屋形内で影武者 近習たちとの対面シーン、ブロ ローグの3人の信玄がいるシーン。などが撮影された。

1979年8月20日

信玄の息子・勝頼役の萩原健一が急性肝炎とスイ臓衰弱で入院。10日間の安静のため、撮影スケジュールが変更となる。

1979年8月28日

武田屋形のオープンセットの撮影開始。富士山裾野・静岡県小山町に1500坪、1億2千万円もの費用で、4月から約5カ月がか武田屋形は再現され た。山崎努、大滝秀治、室田日出男侍大将たちが、 勝頼が単独で高天神城へ出 陣した報を聞くシーンから撮影された。

1979年9月25日

10月から7週間の北海道ロケに向かうため、黒澤監督は、今までに撮影し たフィルムの編集分(約70分間)の特別試写をスタッフ、キャストに見せた。黒澤監督が試写室にはいると、待ちかまえていたスタッフ、キャストはいっせいに「お早うございます」と大合唱。黒澤監督は「なんだか小学校の先生みたいだね」と大いにテレていた。

1979年10月6日

北海道ロケ第1日目。この日は、1カ月半ぶりに現場復帰した勝頼役の萩原が、諏訪湖にみたてた浜厚真の海岸線を馬で疾走するシーン。急報を告げに来た伝駒の姿をはるか遠くに認め、手綱をグイと引いて馬を急停止させる場面。このサラブレッドの牡馬は、3年前まで中央競馬で走っていたインモタルという1億円馬ということ。北海道ロケのヤマ場は、長篠の戦い〟で、信長・家康の連合軍の馬防柵に武田騎馬軍が突撃してゆくシーン。00メートルの馬防柵が作られ、3頭の騎馬が土煙りをまき上げて突撃する。このシーンだけで2週間の撮影が行われた。

1979年11月12日

外国版プロデューサーのコッポラ、ルーカス一行が来日。北海道ロケの黒澤監督を訪れた。この日の撮影は信玄の影武者となった盗人が武田騎馬軍の兵を受け、調子に乗って落馬するシ ーン、ところが本当に影武者役の仲代が落馬、40キロ近い鎧をつけている仲代は胸を強く打って動けず、大事をとって休養することになった。

1979年11月18日

北海道ロケ地の勇払原野や苫小牧市内に大雪が降り、帰京することになる。7週間の北海道ロケで、予定されてい支笏湖で撮影の信玄の水葬"シーシや高天神城の戦い"のシーンの役者のアップ撮影などが消化できずに終わった。北海道ロケ参加人員は2万600人、馬は4千500頭も動員され、台風20号にも見舞われ、悪天候のため撮影中止すること7日間、撮影したフィルムは上映時間にして9時間におよんだ。

1979年12月9日

熊本城ロケ開始。北海道ロケから帰った黒澤監督は編集作業にはいった。1月の主なロケは、熊本城、伊賀上野城、京都ロケ。北海道ロケで行えなか城の石垣を使ってのスペクタクル・シーンの撮影が行われた。当初、このロケは6月上旬から行われる予定であったが、梅雨のためくり下げられたもの。 武者"の夢を撮影

黒澤監督の誕生日に

1980年1月8日

東宝スタジオに戻った黒澤監督は武屋形軍評定のシーンから新しい年を迎えた。家康の陽動作戦に血気に逸り、勝頼が影武者に出陣をうながすシーン。前日にリハーサルが行われ、1日本番という撮影ベースで進められた。

1980年1月21日

武田屋形のオープンセットで、信玄影武者であることが側室たちにバレるシーンを撮影。前日、リハーサルが行われ、桃井かおり、倍賞美津子、そして竹丸役の5才の油井孝太君などが参加とあって、黒澤監督は終始ニコニ顔、まだ、眉をそり落としていない桃井に、「本番の明日はそってこなく てはいけないよ」と笑いながら言っていた。

1980年2月9日

東宝スタジオで諏訪大明神奉納の 薪能"に影武者が堂々と臨むシーンを撮影、精巧な張り木の杉の木が2本、能舞台の周囲には5トン車2台分の白小砂。このセットの設営に8日間も費やされた。このみごとなセットに、再び来日したコッポラ監督は感動。黒澤演出をじっくりと見つめていた。

1980年2月26日

前日、黒澤監督は東宝・松岡功社長と会談し、東宝は公開を2週間延期し 4月26日に変更したことを発表した。これは「影武者』があまりにもスケールの大きい映画であることを物語るものであり、いかに黒澤監督が妥協を許さず、製作を行っているかという証明にもなった。

1980年3月3日

信玄の水葬"シーン撮影開始、当初、北海道の支笏湖で撮る予定が、撮影の遅れ、天候不順などから、琵琶湖の長浜で行われることになった。琵琶湖に そそぐ姉川河口の中洲が選ばれ、スモーク(発煙筒)20本を焚いて朝もやの 諏訪湖を作り出した。

1980年3月23日

黒澤監督70才の誕生日を迎えた。 影武者の夢"のシーンを4日間の準備、2日間の本番で撮り終えた黒澤監督を、スタッフ、キャストは撮影所のサロンで誕生パーティを行った。みんなの「おめでとうございます」との言葉に黒澤監督は「あと5本は映画を作りますよ」と語っていた。

1980年4月7日

9ヵ月以上の撮影が敢行され、3カ月の遅れとなってクランクアップ。撮影期間の半分は準備、リハーサルが行われ、撮影実数は1日。撮影フィルム2万フィート(約86)3時間分の撮影が行われた。のべ出演者は5万8 千人、のべ馬動員数は4千頭にもお よんだ。このため製作費は2億近くオ ーバーし、1億5千万円となった。

1980年4月18日

東洋現像所で、現像所の技術者だけ による0号試写。

1980年4月10日

夜中の1時から翌2日の午前2時にかけて、黒澤監督をはじめ関係スタッフ立ち会いによる検定試写が東京・有楽座で行われた。この結果、音の調子が部分的に良くない(ノイズが入る)という理由で、2日に予定されていたマスコミ関係者用の試写が中止とな

1980年4月23日

検定試写で不良部分の修正と、ドナルド・リチー氏監修による英語スーパ入れを終了し、夕方から東京・有楽座でワールドプレミアを開催。黒澤監督、日本人スタッフや出演者はもちろん、フランシス・コッポラ、ピータ・フォンダウィリアム・ワイラー、テレンス・ヤング、アーサー・ペン、サム・ペキンパー、ジェームズ・コバーンの有名監督やスターも出席、「世界のクロサワ」にふさわしい、日本映画史上かつてないスケールの試写会となった。 (今月号「スター・ナウ」参照)

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