【ゴジラ-1.0】ラストのアレについての考察【典子は芹沢博士だった?】
ネタバレしますよー。
この投稿では映画のラストに残された謎について考察します。
当然、映画の結末がわかってしまうので、まだ映画を観てない人は読んだらダメです。(笑)
ネタバレで面白さ激減するタイプの映画ではないですが、一応ゴジラVS人間という核心部分が推理できてしまうので、さすがにそれは読まないで映画を観た方が良いやろ、と思います。
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それでは考察を始めます。
▼生きていた典子:
銀座で敷島(神木隆之介)を助けるというインポッシブルなミッションを実行した際に爆風に飲み込まれて死んだと思われた女イーサンハントこと典子(浜辺美波)ですが、実は生きて治療を受けていたことが映画のラストで判ります。急いで病院へ駆けつけた敷島でしたが、病室のベッドで待っていたのは包帯でぐるぐる巻きになった痛々しい見た目の典子でした。
さらに泣き崩れる敷島を見つめる典子の首筋には何やら怪しく動く黒い痣のようなものがあります。これは一体何なのか。不穏な影を残して映画は終わってしまうのでした。
▼ネットの反応:
映画館でこの黒い痣に気づいた人達が、早速ネットで考察議論に入ります。
明らかに普通の人間の病気には見えないので、これはゴジラ細胞が転移したのではないか、という恐ろしい仮説まで出ていました。
うーん…
平成ゴジラVSシリーズでマクガフィンとなったG細胞ですか。
なかなか面白い考察だと思いますけど、どうでしょうか??
▼私の考察:
結論から言うと、私は違うと思います。
典子の首元にあった黒い痣みたいなモヤモヤ動く何かは写実的な表現ではなくて、放射線被曝を抽象的(象徴的)に描いたものかなーと私は思いました。
以下では、そう考えた根拠を説明していきます。
●なぜ典子は包帯を巻いていたのか
ゴジラが銀座に上陸してから、相模湾沖でのワダツミ作戦に至るまで何日が経過していたのか不明(フロンガスの配備と東洋バルーンの開発にはそれなりの時間を要する筈)ですが、いまだに典子の頭や右手に巻かれた包帯はやや不自然な感じを受けました。正直、少し滑稽でさえありました。
よって、これらは物語内の科学的に正しい描写ではなくて、物語を通して山崎監督が伝えたいテーマを形にした何かだったと考えられます。
で、私は典子が右目を隠していたことに着目したいです。
ゴジラシリーズで右目が隠れていた人といえば、誰ですか?
そう、第1作の芹沢博士です。
様々な第1作オマージュ(イースターエッグ)を含んでいたゴジラマイナスワンにおいて、最後の最後に芹沢博士をぶっ込んできたことに私は嬉しくなって微笑んでしまいました。
●芹沢博士とはどんなキャラなのか
多少なりともゴジラに詳しい人なら馴染みの芹沢博士ですが、彼は昭和29年の第1作でオキシジェンデストロイヤーを発明してゴジラ退治してしまった人物です。それこそ何十年にわたるゴジラ映画の中で長らく《怪獣王ゴジラに勝った唯一の存在》としてリスペクトされてきた重要人物です。
しかしそんな英雄である芹沢博士の、ダークで陰気なキャラ造形はあまり言及されません。
芹沢博士(平田昭彦)は眼帯をしています。そしてブルーレイなど高画質で観ると判りやすいのですが、実は芹沢博士の顔の右半分はケロイドのようになっています。演じている平田昭彦の顔に特殊メイクを施しているのです。つまり右目だけではなくて、顔のそれなりに広い範囲に深い傷が遺っていることが判ります。昭和29年ですから、あのように顔が崩れた人は現代よりもかなり醜い存在として世間に認知されていたはずです。
●芹沢博士がダークサイドに堕ちた理由
芹沢博士がなぜ眼帯をしているのかは劇中では語られません。しかし彼の仕事内容や、登場人物のセリフから推測はできます。
まず芹沢博士は古生物学者の国家的権威である山根博士(志村喬)の娘の許婚であり、広い屋敷に住んで、地下に大規模な実験室を持っています。つまり彼は日本の若手科学者では相当なエリートです。おそらく東京大学を首席で卒業しているでしょう。昭和29年という時代に令和のリモートワークみたいな暮らしは相当な偏屈者であり、これが許されるためには、本当に恐ろしいほど優秀で才能があることが必要です。(芹沢を捨てた恵美子は愚か者です)
本作の表向きの主人公とされる尾形(宝田明)のセリフで「芹沢さんも戦争に行かなけば、あんな体にならなくて済んだのに」と言います。つまり芹沢博士は太平洋戦争に何かしら絡むことで、あの顔の怪我を負ったと考えられます。
本作の狂言回しに近い新聞記者(堺左千夫)はセリフで「芹沢博士の友人であるドイツ人研究者から『あなたの研究が完成すればゴジラ対策に役立つ』と直接聞いたと言う記者がドイツ支局に居るんです」と言います。つまり芹沢博士はドイツに行って何か研究をしていたと考えられます。
なんとなく見えてきましたね。上記をまとめると、芹沢博士は第二次世界大戦の直前か同時期に、ドイツで原子爆弾の研究をしていた可能性が高いのです。(アメリカと日独伊のどちらが先に原爆を完成させるかという科学技術の戦争でもあった、という言説はこの手の作品によく使われるストーリーですね)
当時の日本のエリート学者だったなら、普通に徴兵されて戦場に送られるようなことは、まずありません。そういうのは尾形のような頭は悪そうだが体だけは優良健康そうな男子の役目です(女にはそっちの方がモテるんですけどね;涙)。なので芹沢は当時最新鋭の兵器開発をしていたドイツの研究室に加勢した、と考えるのが自然でしょう。
そしてドイツで何らかの事故が起きて、彼は大量の放射線を被曝して、顔の右半分は焼け爛れて、右目は潰れた可能性が高いのです。もっと言うならば内臓にも何らかのダメージを負っていた可能性も高く、例えば癌や白血病のような当時は不治の病を患っていたかもしれません。生殖機能を失っていた可能性もあります。当時の結婚観に鑑みれば、末長く一緒に居られることができないとか、二人の子供を残せない、というのは重大な障壁になります。
考えてもみてください。あんなに綺麗な恵美子(河内桃子)を、どこぞの野良犬みたいな海でサーフィンしてそうなギャル男に寝取られて、文句の一つも言わずに恵美子を譲って、そのまま自決してしまうんですよ。
芹沢は今後の人生に何か明確な理由で希望を持てなかったと考える方がはるかに自然です。
そして、この闇深きキャラがマイナスワンではヒロインの典子にあてがわれているのです!
しかも普通に観ているお子さんや家族連れなどライト層の一般のお客さんにはバレないようにこっそりと。
山崎貴監督は性格が悪すぎです。(笑)
●典子がこれから直面する宿命とは
典子にこれから待っているのは、病気(原爆症)との苦しい戦いです。
詳しくはこちらの記事にも書いたのですが、原子爆弾が本当に恐ろしいのは爆発の瞬間を生き延びても、そこから数ヶ月〜数年〜数十年にわたって体調不良や病気に苦しんだり、いつ致命的な病気が発症するのか怯えながら暮らさなければならないことです。
さらに映画の中でも描かれていましたが、人々は放射能の怖さをよく解っているので、今後あの時に銀座でゴジラの被害に遭った人達は広島や長崎の被爆者と同じように世間から差別を受けながら暮らすことになるでしょう。それは怪我や病気そのもの以上に苦しいことになるのかもしれません。
●典子はガイガーカウンターの少女の隠喩か
ゴジラ第1作でトラウマ的に強烈な印象を残すシーンがあります。それはゴジラに蹂躙された翌日の東京で、ガイガーカウンターがバリバリ反応している少女です。
第1作から様々な要素をオマージュとして引用していたゴジラマイナスワンですが、人間が残酷に殺されるシーンだけは巧妙に排除しています。ゴジラが噛み付いた人間の体が引き裂かれる瞬間は描かれませんし、ゴジラの炎で焼かれる人々も描かれませんし、ゴジラに踏みつけられる人々も飛び散る瓦礫に隠れて描かれません。
そしてガイガーカウンターを向けられて死の宣告を受けている少女もまた直接的に引用されることはありませんでした。
しかし典子の首元にうごめいていた黒い影が、放射能の恐怖であり死の宣告だと見なすならば、あの少女もまた形を変えてマイゴジに蘇ったと言えるでしょう。
それにしても、ヒロイン(浜辺美波)に悲劇の天才科学者芹沢と幼い被害者の少女というキーアイコンの2人を仮託するなんて、山崎貴はどれだけ容赦ないのでしょう!
そもそも、小学校に上がる前の幼女が、久しぶりに母親に再開した時に、駆け寄ることもせず、泣きもせず、なぜにあんな距離を置いて冷静で居られたんでしょうかね?
まさか、典子さんの中に《近づいてはけないもの=邪悪な何か=死のオーラ》を感じ取っていたからだったりして?
こわーーーい!(※マジで鳥肌🐔)
●山崎貴監督が仕込んだ悪意とは
本作のラストに病室で再会する典子と敷島を見て「よかった助かった、これでこの家族は幸せになれる」と素直に感動した人達は、確かにそう受け取るのも一つの正しい解釈ですが、私に言わせれば全然甘いです。この映画の器はそんな小さいものではありません。
映画を評価する軸の一つとして「観る人によって多様な解釈ができること」が挙げられます。この点で、ハッピーエンドにもバッドエンドにも観て取れるゴジラマイナスワンは優れた映画だと言えます。
おそらく東宝株式会社は、炎上を避けるために内容には相当センシティブになったのだろうと思われます。ゴジラマイナスワンの戦後日本は令和の時代にも反感を持たれないように、本当にリアルで汚くて臭い物には蓋をした、ファンタジーで塗り固められた美しき夢の世界です。この世界に《放射能への畏怖》のような重くてシリアスな主題はマッチしません。
しかし、その煌びやかで綺麗なものの陰に隠して、山崎貴監督はゴジラ映画としてのシリアスな一面を巧妙に埋め込んだのだのでしょう。
よく考えたら敷島だって、思いっきり《黒い雨》に打たれていたので、そのくらいはやってると考えた方が釣り合いは取れます。
東宝の取締役クラスには、自分の保身ばかり考えていて、映画の本質を見抜くだけの観察眼を持たないせいで、この仕掛けに気付いてない愚かな老人達もそれなりに居るかもしれませんが。それとも、このくらい全部お見通しで監督と一緒にニヤニヤと悪の微笑みを浮かべているのでしょうか。(笑)
しかし、とにかくこうしたバッドエンド解釈が可能な悪意を仕掛けたことで、ゴジラマイナスワンは昭和29年の第1作が持っていた核がもたらす死と恐怖というテーマでありゴジラ映画の一つの本質を内包することに成功しました。
●抽象と具象の間で
しかも山崎貴が上手いなあと思うのは、普通に黒い痣やケロイドを見せるのではなくて、何か未知の動くモヤモヤとして映像に落とし込んだことです。
この得体の知れない不気味な描写によって、私のように「ゴジラが去っても放射能の恐怖は続くのである」という抽象的な解釈から、もっとダイレクトに「実は典子はG細胞が体内に入り込んだことであの爆発も生き延びたが、もはや人間と言える存在ではなく、これから怪奇人間として変身する」という昭和30年代東宝の《変身人間シリーズ》のような具象的かつSF的な解釈さえできるようになりました。
さらには「典子の体内にG細胞が入り込んだことで、典子と敷島の間に生まれた子供は超能力を持ちゴジラと交信して、次の世代で迫り来る宇宙怪獣と戦うために人類とゴジラを協力させるキーパーソンになる=山崎版の三枝未希オリジンストーリーだった」という《平成ゴジラVSシリーズ》のリブート版のエピソードゼロとも呼ぶべきぶっ飛び展開まで、可能性が開けました。(笑)
表現を抽象的にボカすので言えば、庵野秀明の『シン・ゴジラ』のラストカットもそうでした。あのゴジラ第5形態は本当に出現していたというよりは、物語のテーマを伝えるためにイマジナリーな表象として描かれた、と解釈した方が映画全体の整合性が取れて綺麗になります。
シンゴジにしても、マイゴジにしても、一本の映画で綺麗に完結しているので、映像として表現されたものをそのまま写実的(SF的)に受け止めて、続編を作ろうと考えるのは野暮だろう、と個人的には思います。
(了)
■追記(2024年5月7日):
4月28日のゴジラ・フェス大阪で山崎監督が演出意図を明言していたので、別記事でまとめました。さあて、私の予測は当たったのでしょうか?(笑)
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