2025年5月25日日曜日

追悼・市川崑監督 思いつき『獄門島』考 ~『獄門島』×『娘道成寺』~: metoLOG : The World of Mystery Movies

追悼・市川崑監督 思いつき『獄門島』考 ~『獄門島』×『娘道成寺』~: metoLOG : The World of Mystery Movies

追悼・市川崑監督 思いつき『獄門島』考 ~『獄門島』×『娘道成寺』~

追悼・市川崑監督
思いつき『獄門島』考

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~『獄門島』×『娘道成寺』~

皆様こんにちは、めとろんです。

日本映画界の巨星であり、何より探偵小説ファンにとっては『犬神家の一族』に始まる横溝正史原作のシリーズで一世を風靡した市川崑監督が、この2月13日、永眠されました。

今回はその追悼の意味も込めて「思いつき『獄門島』考」と題した小文を、綴ってみたいと思います。拙い内容ではありますが、少々お付き合い下さい。

≪御注意!今回は、横溝正史『獄門島』のトリック及び結末について語っています。映画と原作を未見・未読の方は、恐れ入りますがご遠慮下さい≫



◇「備中笠岡から南へ七里、瀬戸内海のほぼなかほど、そこはちょうど岡山県と広島県と香川県の、三つの県の境にあたっているが、そこに周囲二里ばかりの小島があり、その名を獄門島とよぶ。」元来「北門島」と名付けられたこの島は、南北朝の時代から海賊の基地となり、旧幕時代には領内の流刑場としてさだめられた故か、いつしか「獄門島」と不吉に訛って呼ばれるようになったのである。

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時に、戦争終結から1年が経った昭和21年9月下旬。南方戦線から帰還した金田一耕助が、復員船の中で死んだ戦友・鬼頭千万太の最期の願いを叶えるため、この島にやって来るところから物語は始まる。それは、「…おれが帰ってやらないと、三人の妹たちが殺される…」「いってくれ、おれの代わりに…三人の妹…おお、いとこが、…おれのいとこが…」との、およそ信じ難い不吉な遺言であった。

耕助は、戦争にも鋳潰されずに戻ってきた千光寺の釣鐘が積まれた船に乗り、島に向かう。しかしこの訪問こそが、前代未聞の凄惨な「俳諧連続殺人事件」の幕開けであった!…

◇さて、この『獄門島』における重要なモチーフの一つが、紀州(現在の和歌山県と三重県の一部)に伝わる「安珍・清姫伝説」と、その後日譚ともいうべき歌舞伎舞踊『京鹿子娘道成寺』です。

それはこの事件の発端に、大きく関わっているのです。
金田一耕助が島へ渡る、遥か昔のこと。
まず、島を牛耳る本鬼頭の頭首・鬼頭嘉右衛門が大の芝居好きで、旅芸人一座を島へ呼び、本鬼頭の庭で『娘道成寺』を踊らせました。
そして、その女役者・お小夜に嘉右衛門の息子・与三松が惚れて手を付け、大反対の嘉右衛門との激しい確執の中、月代、雪枝、花子の三姉妹が生まれます。
お小夜は、旅で覚えた加持祈祷で信者を増やし一時は栄えるが、ついに了然和尚の怒りを買い、追い詰められ精神に異常をきたし早死にしたのでした。

◆『京鹿子娘道成寺』について

(1)「安珍・清姫伝説」

平安時代、熊野に参詣にきた美しい僧・安珍に紀伊国の清姫が一目惚れする。安珍は参拝中の身として彼女の求愛を拒否し、嘘をついて道成寺へと向かう。激怒し追いかける清姫は、ついに蛇神と化し、安珍が逃げ込んだ道成寺の梵鐘に巻き付く。安珍は鐘の中で焼き殺されてしまう。
清姫は蛇神のまま入水した後、2人は法華経の利益により成仏する。

(2) 『京鹿子娘道成寺』

(1)の後日譚。能の道成寺に基づく、歌舞伎舞踊の頂点の一つと目される作品。
清姫の蛇神に鐘を焼かれた道成寺は、長らく梵鐘がなかったが、新たに奉納され供養が行われることになった。そこへ美しい花子という白拍子(男装の遊女)が現れ、所化たちは舞いを許してしまうが、実は清姫の化身であり、ついに鐘の中へ飛び込んでいく。すると鐘の上に大蛇が現れる。

◆まず、この『娘道成寺』について言及されるのは第二の殺人、天狗の鼻に置かれた吊り鐘から、雪枝の振袖がはみ出しているのが発見されるシーンです。

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"「ほほほほほほ!」
突然、たからかな笑い声をあげたのはお志保さんであった。一同はぎょっとしたようにそのほうを振り返った。お志保さんは、とげのある、毒々しい笑い声をつづけさまにあげると、
「とんだ道成寺だこと。だけど、これ、あべこべじゃない?鵜飼さん、あの吊り鐘へ入るのは、あんたの役じゃなかったのかい。吊り鐘のなかへかくれるのは、安珍の役ときまったものだわ。清姫が入るなんて手はないわ。だけど…」
と、そこでお志保さんははたと気がついたように、
「ああ、そうそう、そういえば雪枝ちゃんのおっ母さんてひと、女役者だって話ね。そして道成寺の鐘入りがお得意で、…そこを与三松さんに見染められて、お妾から後添いになったって話だったわね。そうすると親の因果が子にむくいってわけなの。…そして…そして」"
(『獄門島』角川文庫版P172)


『獄門島』を読むと、その惨劇の起点がお小夜によって演じられた『娘道成寺』であったことが分かります。

①"失われた鐘の帰還"を契機としてドラマが始まること
②本事件発生の淵源である、与三松とお小夜の『娘道成寺』を通しての出会い(男女が逆とは言え)が、「安珍・清姫伝説」を彷彿とさせること
③昭和21年、美青年・鵜飼を登場させ、本鬼頭の三人娘と絡ませることで同伝説を二重露出のように浮かび上がらせていること
④特に「むざんやな冑の下のきりぎりす」の見立てが『娘道成寺』の早変わりに由来

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…等を考えると『獄門島』という作品全体の、当初の構想において「安珍・清姫伝説」及び『娘道成寺』のモチーフが占める度合いは、かなり大きなものであったと言えるのではないでしょうか。
そして、その前日譚である「安珍・清姫伝説」から一貫してその基調となっているのは「女性の盲愛と(その裏返しの)怨念」だと思われるのです。

横溝正史は『白と黒』(昭和35年11月~昭和36年12月連載)についての記述の中でこう言っています。

「いったいわたしは芝居の言葉でいう『世界』がきまらないと書けない作家である。芝居の『世界』と少しちがうが、筋だのトリックだけでは書けない作家である。」
トリックやプロットの複雑さだけではなく、作品世界の構築を重要視した正史。
しかし、小説世界の根底に『娘道成寺』を据えたにも関わらず、この『獄門島』に於いて、正史はいわば"ストーリー・テリングの力学"よりも、探偵小説的な筋の面白さや、犯人の意外性を優先させたように思えます。それは、この作品の「犯人」を誰にするか、正史が決めるに至るよく知られた以下のエピソードに、端的に表れています。

"「大体人物の配置や事件がきまったところで、女房に話をしたところが、彼女の曰くに、で、犯人はそのーなのね」
即ちこの小説の犯人は家内が思いついてくれたのだが、こういうと読者諸賢のうちには、さすが探偵作家の妻だけあって、才知すぐれた女性と誤解されるむきもあるかもしれないが、それはあくまで誤解である。"
(『真説 金田一耕助』角川文庫版P132 「獄門島」懐古Ⅱ)


「安珍・清姫伝説」及び『娘道成寺』のモチーフの導入が、その装飾的雰囲気の醸造に一役買っているとは言え、基本的に「読者を幻惑させるミスディレクション」としての効果に留まっていることは否めないと思います。
…と言いますか、『獄門島』は無論「本格探偵小説」ですので(笑)いかなる伝説をモチーフとして使っても、それは読者への目くらましであって全く構わないのですが。例えば『悪魔が来りて笛を吹く』などを読むと、重要な"手がかり"として登場するゲーテの「ウィルヘルム・マイステルの修行時代」が読者へのミスディレクションではなく、作品を貫くモチーフとして(素直に)導入されており、それは正史が大事にした「世界観」の構築に奉仕する役割を担っていると思えるのです。
それに対して、『獄門島』が"犯人の意外性"を優先させたことは、長い戦争が終わり、それまで不当に抑えられた、本格探偵小説への情熱が迸り出た時期の正史ならではの、"本格原理主義的帰結"と言ってもよいでしょう。
戦時中、作家の隣組の会合で井上英三氏からディクソン・カーの著作を借り、たちまち虜になった正史は、その"ストーリーテラー的語り口"に魅了され、この行き方なら自分にもやれるのではないか、と思ったと言います。
"それが若いときから草双紙の影響をうけてきた私の性格にマッチしたのであろう。"
(『真説 金田一耕助』角川文庫「ディクソン・カーⅡ」より抜粋)

草双紙とは江戸時代の仮名と絵で構成された絵本で、様々な種類がありますが、正史が言う「草双紙趣味」とは"空想的な構成と、複雑な筋を発展させながら、しかも仏教的因果応報と、道徳的教訓の線にそって書かれている"(『探偵小説五十年』)「読本」と、更にその趣向をとり入れた谷崎潤一郎の諸作品の影響を指すというのが通説です。
戦前から正史は、自らがもともと強く持っている「草双紙趣味」と「探偵小説的要素」がせめぎ合う作品群を発表してきたわけですが、その2つが見事に融合した『真珠郎』などを除けば、概して前者の色合いが濃かったのです。
戦後、"本格探偵小説一本槍"を標榜した直後の『獄門島』は、そういった意味で後者が「草双紙趣味」を打ち負かした作品であり、それ故に"未曽有の傑作"になったと言えるのですが、元来正史の持つ嗜好性とは若干異なっているのではないかと思えるのです。

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◇『娘道成寺』を作品世界の根幹に据えたドラマとしては、前述の「女性の愛=怨念」に帰結することが自然だと思えますし、戦前の正史だったらおそらくそう構想したのではないでしょうか。

しかし、(清姫と安珍を思わせる)与三松とお小夜の関係から派生する物語は、「お小夜=清姫の怨念」のイメージからは正反対の、"お小夜の娘たちが次々と殺される"展開を見せてしまいます。
また、お小夜=清姫とすると、鐘の帰還と共に道成寺にやって来る白拍子=「復員詐欺の男」となりそうですが、やはり彼の仕業によって巻き起こる事件が"(お小夜の愛する)三人の娘たち"が被害者の事件であっては、根本的に矛盾してしまうのでした。

つまり、『娘道成寺』のイメージを大量に動員したにも関わらず、プロット全体に関わるテーマにはしていないのです。

『獄門島』において読者は「安珍・清姫伝説」を思わせるイメージを氾濫に惑わされ、その真相に潜む"戦前の封建主義の象徴"のような鬼頭嘉右衛門の「怨念」の存在に、(気付いていながら)気付かない仕掛けになっています。
そして、嘉右衛門をはじめとする犯人(たち)よりも、そこへ行き着かざるを得なかった、目に見えない「運命」なるものが大きく浮かび上がる(欠点とも言える、頻出する"偶然の連鎖"をも必然として集約してしまう)ラストは圧巻であり、まさに"横溝正史の代表作"の名に恥じない、傑作でありましょう。
…にも関わらず感じてしまう、若干の違和感。物語の終盤における、"ドラマ的なカタルシス"が専ら「了然和尚の悲劇」へと横滑りし、じつは本来の行き場所を失っているような感触。
それは、"犯人の意外性"を優先したが故の「代償」ではなかったでしょうか。

結論として少々誤解を恐れずに言えば、『娘道成寺』をメインのモチーフに据えたドラマの自然な結着点は、まず「女性」が犯人であり、その動機は「女性の愛=怨念」でなければならないように思えるのです。そしてお気付きの方も多いかと思いますが、これは'70年代に市川崑監督が演出した『犬神家の一族』と『悪魔の手毬唄』に共通する犯人像なのでした。

◇そして、原作発表から約30年後の、市川崑監督作品『獄門島』('77年 東宝)
この作品は当初、市川監督の"横溝正史三部作"の最終作として、「原作と犯人が違う」ことを大々的に打ち出して製作されました。
その犯人に選ばれたのは、まさに「女性」-。

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公開時のパンフレットから、まずは市川崑監督のコメントを抜粋してみると、

"獄門島」の場合、原作では別に女性が犯人ではありません。けれども、やはり「犬神家の一族」と「悪魔の手毬唄」の三部作的な意味もあるでしょうから、この作品も女性が真犯人に何か大きく結びつくという要素を持たせ、前作と同じシチュエイションで絡んだ方がいいのではないかということで、横溝さんの了解を得た上で、犯人を原作とは変えたのです。"
(『獄門島』公開時のパンフレット 「金田一耕助は神様」より抜粋)


僕は、"女性犯人で揃えて三部作"というタテマエをアリバイとしながらも、市川監督の類まれな映画監督としての嗅覚が、この『獄門島』をドラマとして"落とす"ためには、「女性犯人」しかない、と感じたと捉えたいのです。
また、第3作目で新境地をー、というのであれば(原作では)初の男性犯人、しかも3人というのは絶好の要素ではないかと思うのですが、そうはならないところに監督の"のっぴきならなさ"を感ずるというのは、穿ち過ぎの意見でしょうか。

第1の殺人の犯人は原作通り、了然和尚でしたが、第2、第3の殺人の犯人として、この映画で導き出された人物は…本鬼頭の女中であり、鬼頭嘉右衛門の妾であった勝野(司葉子)だったのです。
そして、親戚と思われていた一(ひとし)、早苗(大原麗子)の兄妹がじつは、嘉右衛門と勝野の間に出来た子供であったことが終盤において判明するのです。勝野が雪枝、月代を殺害した動機は、嘉右衛門が了然和尚、医師幸庵、荒木村長に「3人娘の見立て殺人」を遺言しているところを偶然聞き、かねてから想いを寄せていた和尚一人にその罪を着せるわけにはいかない…言ってみれば「了然和尚への(おそらくプラトニックな)愛」故、というものでした。
既に作中で死亡してしまっている嘉右衛門翁以外のキャラクター達に「悪」の要素が欠如しており、犯人も含めて皆が皆、同情すべき哀しき人物たち、という大団円には正直、物足りなさも残ります。

◇僕が思うに、「安珍・清姫伝説」との関連から言っても、勝野はかなり理想的な「女性犯人」に設定しうるような気がします。まず清姫=勝野、嘉右衛門=安珍と当てはめ、その動機を「女性の愛=怨念」とするなら、勝野はまず(自然死と見せて)嘉右衛門翁を毒殺し、かつ自らの子・一(ひとし)及び早苗に本鬼頭を相続させるため、3人娘を次々に殺める…、という展開が妄想できるのでした。
『娘道成寺』の展開に対応させてみると、勝野の身に潜む"蛇神"が、白拍子=「復員詐欺の男」を呼び寄せ、そこから惨劇の幕が開く―、とすればピッタリと当てはまるのです。

そこまで考えると、この物語は重大な問題に出くわすことに気付きました。
以下は公開時パンフレットにおける、共同脚本の日高真也氏のコメント。

"市川崑監督の横溝作品映画化は、新しいものから古いものへと、つまり原作者の著作歴の逆を行くことになってしまった。これは偶然である。
この偶然が、プロデューサー、監督らとの脚本執筆の前の打ち合わせの時からスタッフの悩みの種となってしまった。と、いうのは旧作は新作の原典的な要素を持っているもので、「獄門島」のストーリー展開には、犬神的な要素と手毬唄的要素が同居している。
つまり、映画「獄門島」のあとで「犬神家―」「悪魔―」を発表すれば、作品としてのみごとな発展があるが、順序を逆にすると、前作の域を出ない危険性が介在するのである。"
(『獄門島』公開時のパンフレット 「真犯人は誰にしよう?」より抜粋)


―そうなのです。たった今僕が妄想した『娘道成寺』的『獄門島』の犯人・勝野は、まさに『犬神家の一族』の犬神松子であり、『悪魔の手毬唄』の青池リカの肖像そのものだったのです。
その後の傑作群で現れる犯人像が、昭和22年執筆の『獄門島』の(出来上がった作品としては異なる)構造を考える中で導き出されたことは、大変興味深いと思いました。そして、この作品が持つ「原典的要素」について、大きく首肯したのでした。
だからこそ市川崑監督は新たな真犯人創作にあたり、また別の"勝野像"を創り出さなければならなかったのです。それは、文字通り塗炭の苦しみだったようです。

"クランク・インあとわずかの旅館で、まだ準備稿の完成を急いでいる監督とボク。書きすすめてきた部分の欠陥をチェックして深夜におよんだとき、どうしても変更犯人像が的確にクローズ・アップされないままに
「犯人はやはり、原作通りにしておくか…」と音をあげることもあった。自分で自分の首を締めている。利口な人なら決してやらぬ錯誤のくりかえし。"
(『獄門島』公開時のパンフレット 「真犯人は誰にしよう?」より抜粋)


◆さて、この稿を終えるにあたり、「横溝正史読本」(角川文庫 緑三○四)・「自作を語る」の項で、『獄門島』の犯人について語られている箇所を改めて抜粋してみたいと思います。

"小林 (前略)それで、あれ、本当は犯人は一人なわけですよね。(横溝、笑う)それがぼくは、非常にうまくできてると思います。それで、最後に、詐欺の男が来てて、犯罪そのものの動機が崩壊しちゃうでしょう。あそこがやっぱりおそろしいですね。復員詐欺で…。
横溝 復員詐欺、あの時分盛んにあったらしいですよ。
小林 それで動機が全部崩れちゃうというところが、やっぱりミステリーのだいご味だと思うんです。"


―この"(横溝、笑う)"が大変印象的で、背筋が寒くなった部分です。
つまり、『獄門島』の真の犯人、「運命のドミノ」の最初の一つを指で弾いたのは"彼"なのです。

そして、"この点"を押さえてさえいれば、実は"市川版・獄門島"も"原作・獄門島"も、真犯人は同じなのですね。そして、大のミステリー・ファンだった市川崑監督が、それに気付いていなかった筈はないでしょう。監督はあくまで宣伝のため、マスコミに向かって「今回は原作と犯人を変えます!」と発表しながら(そして実行犯は事実、変更したのですが)ほくそ笑んでいたのではないでしょうか。

その確信犯的態度は、映画の冒頭に、しっかりその"復員兵"が(コメディ的演出をミスディレクションとして)金田一耕助と出会うシーンを挿入していることでも推察できるような気がします。有名なロナルド・ノックスの「探偵小説十戒」の第一に曰く、

「犯人は物語の初めから登場していなくてはならない。」

探偵小説マニアであった監督は、この戒め通り、しっかりと"犯人"を冒頭に登場させたのでした。

コン・コクトー






―不世出の探偵映画作家・市川崑監督。

今頃、愛する和田夏十さんと楽しく再会し、ミステリーの話に花を咲かせていらっしゃるでしょうか。探偵映画脚本家・久里子亭の名もまた、永遠に不滅です。
今まで、本当にありがとうございました。

関連記事:
思いつき『獄門島』考・補遺 市川崑監督『娘道成寺』('45)
http://metolog.seesaa.net/article/387393963.html

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