鷗外「青邱子」⑨
『於母影』の「青邱子」のつづき、きょうは23~24行目です。
懸蝨のかすかなる、つらぬかでやは、吾征箭(さつや)。
長鯨のいとたけき、とりひしぎてむ、我力。
紀昌の故事によれば、趙の都・邯鄲に住む紀昌が天下第一の弓の名人になる志をたてます。彼は、百歩を隔てて柳葉を射て百発百中するという名手飛衛、さらには飛衛をしておのが技は児戯に等しいと言わしめる仙人甘蠅に師事し、「射の射」を超えて「不射の射」を体得します。
真の名人になった紀昌は、とうとう弓への執着からも離れて、ついには弓そのものを忘れてしまうに至ります。9年が経って山を降りた紀昌を見た飛衛はその顔を見ると感嘆して「われらの如きは足下にも及ぶものでない」と告げたといいます。紀昌は「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と言います。
紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝されるようになり、甘蠅の元を去って40年、紀昌は静かに煙の如く静かに世を去ったとされています。
「長鯨」。鯨は海生の怪物として古くは恐ろしい存在でした。たとえば長須鯨(ながすくじら)は、ふつう体長20メートル内外で、雌は26メートルにも達します。
ここでは、そうした鯨をもとりひしぐほと勇猛に、という意になります。「とりひしぐ」(取り拉ぐ)は、つかみかかって押しつぶす、ひしぐ。
原詩はつぎの通りです。
微如破懸蝨 微なるは懸けし蝨(しらみ)は破るが如く
壯若屠長鯨 壮なるは長(おおい)なる鯨を屠(ほふ)るが若(ごと)し

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