エイゼンシュテイン『映画の弁証法より
歌舞伎・予期しなかったもの
歌舞伎を実際に経験して、まっさきにわれわれに思い浮かぶ連想は、サッカーである。これは、スポーツのなかでも最も集団的なものであり、最も全体的効果をねらうものである。声、拍子木、身振動作、謡い手の張りあげる大声、折りたたみのきく幕~こういったものはすべて、それぞれ、バック、ハーフ・バック、ゴール・キーパー、フォワードであり、劇というボールを相互にパスし、観衆というゴールを目ざしてドライヴし、観衆を茫然とさせるのである。
歌舞伎では、それぞれが附随の部分であるなどと語ることは、不可能なことである。それは、ちょうど、われわれが歩いたり走ったりするときに、右脚が左脚に附随するのだとか、両方の脚が横隔膜に附随するのだ、などということができないのと同じである。
…
光を聞き、音を見る
歌舞伎において、ぴかりと光っているのは、付随の方法ではなく、赤裸々な転移の手法である。基本的な感情の目標、甲の材料から乙の材料へ、甲の種類にぞくする挑発から乙の種類にぞくする挑発へ、と移していく手法である。
歌舞伎を見て、思わず想い出されるのは、聴神経と視神経とが置きかえられているために、光の振動を音として知覚し、空気の振動を色として知覚する男を扱った、あるアメリカの小説である。この男は光を聞き、音を見るのである。歌舞伎のなかで起こるのも、まさに、これである。われわれは、現に歌舞伎を見ていて動きを聞き「音を見るのである。
忠臣蔵
一例。 由良之助があけ渡した城を去る。そして舞台の奥から前景の一番前まで歩いてくる。すると、突然、城門を実物の大きさ(クローズ・アップ)に描いてある背景の幕が折りたたまれ、これにかわって、城門をちいさく描いた(ロング・ショット)第二の背景が現われる。これは、由良之助がさらに遠く歩いてきたことを意味する。由良之助が歩きつづける。背景に茶と緑と黒の幕が引かれるが、これは城がもう由良之助の視界から隠れていることを示すものである。さらに、歩きつづける。由良之助はこんどは舞台を歩ききって「花道」にさしかかる。ここの道行きは、三味線によって、すなわち音によって、強調される。
第一の移動~歩行、すなわち俳優自身による空間的移動。
第二の移動~平面的な絵画、すなわち背景の変化による移動。
第三の移動~知的に説明される指示、すなわち、その幕がわれわれの眼に訴えるものを消し去っている。
第四の移動は~音で!
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