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アンドレイ・タルコフスキー、『叫びとささやき』(1972年)について:
「ベルイマンの『叫びとささやき』には、ひときわ力強い場面が一つあり、それはおそらくこの映画で最も重要な場面だろう。二人の姉妹が、年上の姉が死にかけている父の家にやって来る。映画は彼女の死を待つ期待から展開していく。ここで、二人は突然、姉妹の絆と人間的な触れ合いへの渇望によって、思いがけず引き寄せられ、一人きりになる。彼女たちは話し、話し、話し続ける……。言いたいことをすべて言い尽くせない……。互いに撫で合う……。この場面は、人間的な親密さの焼けつくような印象を生み出す……。か弱く、切望されるもの……。そして、ベルイマンの映画ではそのような瞬間が儚く、束の間であるだけに、なおさらそうである。映画のほとんどの場面で、姉妹たちは和解できず、死の間際ですら互いを許せない。彼女たちは憎悪に満ち、互いを、そして自分自身を苦しめる準備ができている。彼女たちが一時的に結ばれるとき、ベルイマンは対話を省き、蓄音機でバッハのチェロ組曲を流す;その場面の衝撃は劇的に強まり、より深みを増し、さらなる広がりを持つ。もちろん、この高揚、この善への飛翔は、明白に蜃気楼である——それは存在せず、存在し得ない何かの夢だ。それは人間の精神が求めるもの、渇望するもの;そしてその一瞬が、調和の、理想の垣間見せを許す。しかし、この幻想的な飛翔でさえ、観客にカタルシスを、精神の浄化と解放の可能性を与える。」
— アンドレイ・タルコフスキー著『時間の塑像:映画についての省察』(1985年刊)
ベルイマンの映画『叫びとささやき』のなかに、きわめて印象的なひとつのエピソードがある。おそらくこれは、もっとも重要なエピソードだ。ふたりの姉妹が父の家にやってくる。彼女らの姉がその家で死にかかっているのだ。姉の死を待つこと、これがこの映画の発端となる状況である。やがて姉妹はふたりきりで残されるのだが、ある瞬間、ひじょうに親密で人間的なつながりを感じる……彼女たちは、いつまでも話し続ける……それでもしゃべり足りない……そして……お互いを慈しみあう……こうしたすべてが、胸を締めつけるような人間的な親近感を呼び起こす……もろい、待ち望まれている感覚を……ベルイマンの映画では、こうした瞬間は、束の間のはかないものであるがゆえに、いっそう激しく待ち望まれている。たいていの場合、ふたりの姉妹は死を前にして和解することも、許しあうこともできないのだ。彼女たちの短い交流のシーンのなかで、ベルイマンは台詞のかわりにレコードでバッハのチェロ組曲を流した。印象は幾倍にも強められ、深さと広がりがそこに添えられた。ベルイマンの映画のこのなにか精神的な高みへの、肯定的なものへの出口は、幻影であることが強調されている。それは夢であり、存在しないし、しえないものだ。人間の魂が追い求めるもの、夢見るものだ。それは調和であり、この瞬間感じられたかのように思えたある理想なのである。しかし、この幻影でしかない出口でさえも、観客にカタルシスや精神的解放、浄化を体験する機会を与えるのである。
ここでこうしたことについて語っているのは、私が、みずからのうちに理想への郷愁を抱え持ち、理想へのあこがれを表現しようとする芸術の擁護者であることを強調したいためである。私は人間に〈希望〉と〈信仰〉を与える芸術の味方なのだ。芸術家の語る世界が絶望的であればあるほど、その世界と対置される理想は、おそらくより強く感じられるに違いない。そうでなければ、生きることはまったく不可能だったろう。
芸術はわれわれの存在の意味を象徴している。
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