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黒澤明が批評家に映画を誤解されたこと、そしてそれによって自分が侮辱されたと感じたことについて:
「インタビュアー:批評家の多田道太郎氏は、『七人の侍』(1954年)の終盤で、農民たちが歌いながら稲を植え始める場面は、農民の伝統への回帰を表していると言いました。それに同意しますか。多田氏を知っていますか。
黒澤:いいえ、知りません。彼が私の映画について書いたものを何度も読み返しましたが、彼の意図が理解できません。彼は農民たちは弱く、愚かだと言いたかったようです。むしろ私は、すべての出来事の後で、農民たちこそがより強く、土にしっかりと根を張っているのだと伝えたかったのです。むしろ、侍たちこそが弱かった。なぜなら、彼らは時代の風に吹き飛ばされていたからです。彼らは農民たちのために戦いに勝ちましたが、その後解散して去っていきました。農民たちは残って大地を耕し続けました。私は終盤で志村(演じる役)に「また負けたな」と言うセリフを入れました。だから私は、自分の考えをかなり明確に表現したつもりでした。
しかし、多田氏は私の農民に対する見方が違うと主張します。私はただ、彼が理解できません。もう一つ付け加えたいことがあります。多くの批評家が、私のアイデアや意図を過度に解明しようとします。彼らはすべての場面に説明をつけようとします。私はこのやり方に反対です。映画は一つの全体です。私は特定のシーケンスの中で自分のメッセージが何かを自分でも知りません。
沈黙を守る場面や、むしろ本当の考えを隠す場面もあります。しかし、映画のどこかで監督の本当の意図が浮かび上がります。多くの場合、私自身も特定の場面でのその表現に全く気づいていません。まあ、時には私の農民たちが本物の農民らしく馬鹿げた行動をします。時には彼らが戦士のように振る舞うこともありますが、それはその映画での私の本当のコンセプトではありません。私は批評家たちのこの態度を、ほとんど侮辱的だと考えます。私は彼らの多くから切り捨てられてきました。これは日本の映画批評家たちの奇妙な態度です。彼らは映画をあまりにも簡単に分析し、私の意図はこうだとか言って、私の映画をこのように切り捨てます。」
(黒澤明のジョーン・メレンとのインタビュー、1975年)
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