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1962年に彼の最初の長編映画『イワンの幼年時代』を発表した直後、アンドレイ・タルコフスキーは、当時のソビエト映画におけるさまざまな傾向について次のように語った:
「現在、ソ連には互いにあまり干渉することなく並行して進む多様な傾向が存在し、この点で私は自分を位置づけることができる。例えば、『ゲラシモフ』的な傾向がある。それは、何よりもまず人生の真実を求めるものである。この傾向は大きな影響力を持ち、多くの支持者を集めてきた。他の二つの傾向は、最近になって明確に形を現し始め、より現代的なものに見える。それらの起源は1930年代に遡ることができる。しかし、20回党大会の後になって初めて、それらは解放され、発展できるようになり、抑圧されていたエネルギーが解き放たれたのである。では、これらの二つの傾向とは何なのか。一方では、『詩的映画』である。チュクライの『兵士のバラッド』(1959年)やミハイル・カリクの『太陽を追って』(1961年)によって例証されるもので、ラモリスの『赤い風船』(1956年)と比較できるが、私の意見でははるかに優れている。私は、厳密な物語の発展や論理的なつながりに従わないので、詩的映画のこの傾向の中に位置づけられると思う。主人公の行動に対する正当化を探すのが好きではない。映画に携わるようになった理由の一つは、映画言語から私が期待するものに合わない映画をあまりにも多く見てきたからだ。
『もう一方では、ソ連で我々が『知的映画』と呼ぶミハイル・ロムのものがある。彼の学生だった時期があったにもかかわらず、私はそのような映画を理解できないので、それについて何も言えない。もちろんすべての芸術は知的であるが、私にとってすべての芸術、特に映画は、何よりもまず感情的であって、心に働きかけなければならない。』」
-1962年、パトリック・ビューローとのインタビューより。
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