2024年9月14日土曜日

藤井聡太王位が解いた「200年前の詰将棋」に残されたナゾ…実は込められた意味があった バン記者・樋口薫リポート:東京新聞 TOKYO Web

藤井聡太王位が解いた「200年前の詰将棋」に残されたナゾ…実は込められた意味があった バン記者・樋口薫リポート:東京新聞 TOKYO Web

藤井聡太王位が解いた「200年前の詰将棋」に残されたナゾ…実は込められた意味があった バン記者・樋口薫リポート

<バン記者・樋口薫の棋界見て歩き>

 将棋の藤井聡太王位(22)が今月9日、静岡県牧之原市を訪問した際、市内の旧家で今春見つかった200年以上前の詰将棋(つめしょうぎ)が披露されました。藤井王位が一目で解いてみせたこの詰将棋に、解答とは別の謎が秘められていたことが、その後の調べで分かりました。愛好家が「約20年ぶりの大発見」と興奮し、藤井王位も「気づかなかった」と驚いた、図面に隠された秘密とは―。東京新聞連載「バン記者・樋口薫の棋界見て歩き」の「盤外編」としてお伝えします。(樋口薫)

静岡県牧之原市内の旧家で見つかった、200年以上前の詰将棋の問題

◆発見者「詰将棋の得意な藤井王位の力をお借りしよう」

 伊藤園お~いお茶杯第65期王位戦7番勝負(東京新聞主催)第6局の開催予定地だった牧之原ですが、今期は第5局で決着したため「幻の対局場」となりました。代わりに藤井王位を招き、防衛の祝賀会を兼ねたトークイベントを開催。くだんの詰将棋は、藤井王位が市役所の杉本基久雄市長を訪問した際、お披露目されました(図1)。

 発見したのは市史料館の学芸員、長谷川倫和(ともかず)さん(39)。市内の旧家から依頼され、衣装ケース13箱分の古文書を調べる中で、詰将棋の書き付けを見つけました。作者は「仲平」とだけあり、どういう人物かは不明。図面の横に「文化午大小」と記され、文化7年の午(うま)の年、つまり1810年の作と分かりますが、解答は書かれていません。将棋のできる職員が解こうと挑みましたが、歯が立たなかったそうで、王位戦の誘致担当でもある長谷川さんは「詰将棋の得意な藤井王位の力をお借りしよう」と考えたそうです。

 用意された将棋盤に、職員が古文書の通り駒を配置すると、藤井王位は一瞥しただけで、すぐに持ち駒の角を1五に打ちました。歩の頭に角を捨てる意表の一手。側で見ていた記者は、まだ駒の配置すら頭に入っていません。こんな初手は、素人にはなかなか浮かばないなあ、と感心する間もなく、藤井王位はあっという間に玉を詰ませてしまいました。そして「後半は複数の詰まし方がある」とも指摘。作者の想定とは異なる詰め手順(余詰、よづめ)が複数あり、不完全作になっているとのことでした。

 最短の手順でも17手詰めで、詰将棋らしい突飛な手も含む難問。杉本市長は「こんなに簡単に解いてしまうとは」と驚きの表情です。プロも出場する「詰将棋解答選手権」に小学6年で初優勝し、その後5連覇した藤井王位の実力をまざまざと見せつけられた一同は、口々に感嘆の声を漏らしていました。

◆藤井王位「持ち駒に歩がなかったら完全作と言えますね」

 市役所からイベント会場に向かう車中で、藤井王位は「詰将棋の醍醐味(だいごみ)は実戦からいかに飛躍するかという点。この作品は現代の基準だと不完全作ですが、焦点に駒を捨てる手筋が二つ出てきて、主張がしっかりある。作者がアマ高段以上の実力だったことは間違いありません」と解説してくれました。そして無言になると、考慮を始めました。

 しばらくして顔を上げた藤井王位は「持ち駒に歩がなかったら、完全作と言えますね」とつぶやきました。つまり元の図面で「角・香・歩」の持ち駒が「角・香」になると余詰の筋が消え、きれいな21手詰めとなるのです(図2)。200年前の詰将棋が、藤井王位の手によって生まれ変わる。記者は目の前で魔術を見せられたような心地でした。しかし、この話にはまだ続きがありました。

図2 21手詰め(正解はページ内のリンク先に掲載しています)

◆詰め手順に影響しない「不要駒」が

 盤上には一つの謎が残りました。それが玉方(後手)の「7二歩」の存在です。詰将棋は必要最小限の駒で作るのが原則。しかしこの図では、7二歩が詰め手順に影響しません。藤井王位も不審がって確認しましたが、やはり不要駒という結論に至りました。作者がうっかりしたのかも、と話し、その場はお開きとなりました。

 この歩に込められた意図が判明したのは、その夜のことでした。鍵は、図面の脇に「文化午」とともに書かれた「大小」の2文字にありました。記者がネットで調べると「大小詰物(つめもの)」という言葉がヒットします。江戸時代の「大小暦」を表現する趣向の詰将棋と説明がありました。

 大小暦を理解するには、まず旧暦について知る必要があります。当時は現在の太陽暦でなく、月の満ち欠けを基準とする太陰暦(太陰太陽暦)が用いられていました。月の公転周期は約29.5日なので、年によって30日まである「大の月」と、29日までの「小の月」が不規則に並びます。また、3年に1度ほど「うるう月」という13カ月目の月が加えられます。

 このように太陰暦は非常にややこしいので、暦の作成は幕府の専売特許とされ、私的な売買はご法度でした。しかしツケ払いが主流だった当時、その月が「大」か「小」かを把握しておかないと、月末の支払日がいつか分からなくて困ります。そこで、その年の月の大小がどういう順番に並んでいるかを示した大小暦を人々がこぞって自作し、交換し合ったのです。

 つまり大小暦は、現代のカレンダーの簡易版に当たります。初期は各月の大小の区別を文字で記すだけでしたが、絵や文字による判じ物(パズル)の形で、隠された大小を読み解く趣向が加えられました。江戸時代の中期から後期にかけ、庶民の娯楽として大流行。葛飾北斎や歌川広重、河鍋暁斎といった有名な絵師たちも大小暦を描いています。その暦を詰将棋で表したのが大小詰物で、天野宗歩や九代大橋宗桂といった、江戸時代を代表する将棋指しも作品を残しています。

◆天啓が舞い降りた

 では、牧之原で見つかった詰将棋は、大小をどのように表現しているのか。文化7年の各月の配列を調べると「小大小大大小大大小大小大」の順と分かりました。盤面に並ぶ駒の数も12枚。これらが大小を示しているのは間違いなさそうです。しばらくうなっているうち、記者の頭に天啓が舞い降りました。盤の右上から下へ順番に駒を拾っていくと「歩飛歩玉桂歩金桂歩角歩飛」となります。つまり歩を「小」、それ以外の駒を「大」に置き換えると、この年の大小の並びと一致するのです(図3)。

図3

 不要駒である7二歩の存在も、それで説明がつきます。大小暦として成り立たせるためには、この位置に歩の駒が存在しなければならなかったのです。謎が解けた興奮で、記者はその夜は寝られませんでした。

◆22年ぶりの発見というだけじゃない「奇跡のような物語」

 詰将棋研究家で、江戸時代の作品に詳しい磯田征一さん(85)=神奈川県=は「現存する大小詰物は39作で、この22年間は新しい発見がなかった。今回の発見をいかに待望してきたことか」と喜びをあらわにします。過去の39作中36作は、将棋界で名の通った作者によるもので「作者不明の大小詰物が一般家庭から発見されるのは4例目で、かなり珍しい」。江戸時代の作品約3300局と比べても類似作はなく、未発見の図面とみて間違いないとのことです。

 一連の経緯を藤井王位に報告すると「興味深い話」と返答がありました。「大小詰物は聞いたことがありましたが、本作がそうであるとは、まったく気が付きませんでした。そうしてみると、実に自然に大小が表現されていると言えそうです。他の年にも同作者の大小詰物があるのか、といった想像も膨らみます」

 200年前、地方にいた無名の将棋指しの残した謎が、現代の名人へと届いたのです。元の図面は不完全作でしたが、藤井王位の指摘を入れれば、大小詰物としての趣向はそのままに完全作となります。まさに奇跡のような物語が、詰将棋界の歴史に、新たな1ページとして加わりました。



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