2024年9月8日日曜日

2024年野田地図『正三角関係』観劇感想〜「いつかきっと」のその先に〜|くられんす

2024年野田地図『正三角関係』観劇感想〜「いつかきっと」のその先に〜|くられんす

2024年野田地図『正三角関係』観劇感想〜「いつかきっと」のその先に〜

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観に行ったきっかけ

「野田地図」だから。さらに新作だから。さらに大好きな東京芸術劇場プレイハウス(未だかつて見切れなし!!)でどんな席が来ようが安心して観劇できるという確信があったから。
 ありとあらゆる先行に外れ続けたものの、なんとかセブン先行が一件当たり、無事に7/24(水)のソワレ、一階のRB列で初見。
 基本的に新作を観る際は公式以外の前情報は一切シャットアウト、特に野田さんの作品についてはどんだけ気になっても感想検索は観劇後、と決めてるので、今回も野田さんの前書きや出演者の方々の公式事前コメント以外はまっさらなまま着席。

この記事はネタバレしています

 あれこれ具体的な演出や朧げに記憶しているセリフに言及しながら感想を書いていくので、ご自身の目で観劇してから読みたい派の方は、ご観劇終了後までここから下はお控えください。

 ちなみに今回のプログラム、「ここは本編を観てからご覧ください」って親切な注釈がいつもながら対談とかには冒頭部分にちゃんとついてるのだけど、まさかの前半にある野田さんの個別インタビューコーナーでフェイクスピアのネタバレに相当する内容が入ってるので、もしフェイクスピア未見でまっさらに鑑賞予定の方は気をつけた方が良いかもです。。

箇条書き感想あれこれ

全てはこの問いのために

「悪意のない手は人殺しではない」
「これで戦争を終わらせることができたのだから、(この原爆投下が)裁かれることはない。被告は無罪です!!」。これを、この問いを観客の胸に打ち込むために積み重ねられた2時間だと思った。 
 
  カラマーゾフの兄弟をモチーフに、花火師の唐松家における殺人事件をめぐる裁判形式の今回。事件当日の出来事、事件に至るまでの父vs長男の衝突は執拗に何度も再現されるものの、最後まで「富太郎(=ドミトリー)」が父親を殺害したのかしていないのかは敢えてぼかされていた印象だった。富太郎の上の弟、威蕃(=イワン)によって、"真犯人は富太郎の父親の下僕である墨田麝香(=スメルジャコフ)であり、麝香をそそのかしたのは自分だ"、と説明されるくだりも終盤でちゃんとあるんだけど、最後の検察側のターンで、花火師としての誇りを汚し続けた父への衝動的な殺害説が登場し、「あれ?これはずっと無罪に見えてたけど、有罪も無罪もどちらもあり得るかも?」と思わせた直後に有罪判決の形で裁判自体は終わる(富太郎本人が呟く、「(殺害していたとしてもその瞬間の)記憶が無いんだ…」は本当にそうだったんだろうなと思わせるもので、絶妙に"殺害したのかしなかったのか"が両方ありえる印象が添えられたと感じた)。
 ベースに裁判シーンを、それも「殺害をためらった」「悪意はなかった」といったフレーズを重ねて、「有罪か無罪か」がいかにも焦点になるように収束していくような設計だったのは、そうか、その後の原爆投下にまつわる問いのための、壮大な下準備だったんだ…と、ラスト、焼け野原で真っ黒な灰の中で言葉を絞り出す富太郎を観て合点が行った。

モチーフとテーマ

 モチーフは「カラマーゾフの兄弟」、テーマは「原爆」と「罪」の今回(拾い方によってはもっとあるとは思うんだけど、少なくともこの2つは入ると思う)、実はちょっと意外だった。
 最近の野田さんのお芝居は、割と近年に起こった出来事/事件を題材にしていたので、今回もてっきりその延長だと当初思い込んでおり、「74年前(だったような?池谷さん演じるウワサスキー夫人のセリフ)*注1」と言われれば「1950年となると、すでに第二次大戦終わってるし、日米安保か?」と勘ぐり、やたらと「鉱山」がキーワードになっている点に気づくと「え、鉱山?!足尾銅山…?にしては他にそれっぽいキーワードが無いような?」と混乱し( ウランって明確にすぐ次に出たのに…)、「や、もっと近年の問題として森◯事件か」、「宗教や信仰ってキーワードがあるし、さらに最近の(2022年の)事件?」と色々勘ぐってしまった(何回原爆のキーワードが出ても「や、原爆はすでに取り上げているし、第二次大戦自体も取り上げているし、違うはず」と思った自分、素直に観劇しなよ…だった)。
 野田さん特有の「一見全然関係ないモチーフや要素がとっ散らかってるように見せつつ、ぎゅーっと見事に収束し、鮮やかに別の絵を浮き上がらせる」スタイルは健在ながら、今回はかなりシンプルにキーワードが積み上がっていった印象を受けた。
 
 ちょうどこの作品を観ている同じ期間に上演されていた(そして私が観ていた)別の作品では広島の原爆が語られていて、どちらも向き合うのにエネルギーの要る、辛く苦しい出来事だけれど、演劇の形で刻む意義のあるテーマだよな、と改めて思った。 この作品が、日本でのツアーを終えた後にイギリスで(ということは潜在的に今後も海外で)話題に上る可能性を考えると、このテーマは納得で、帰り道、プログラムの中に野田さんが直接今回これを選んだ背景に言及しているところを読んで頷いた。

 投下の直前まで、アンサンブルの方々がごくごく日常の営みを表していて(洗濯物を干したり、子供をあやしたり、本当に日常の、平和な動作をそれぞれ)、そうだった、なんの予告もなく、いきなり落とされたんだよね…と習ったことを思い返しながら「投下の瞬間まで」と、「投下の直後」の表現を目に焼き付けた。
 
 一番最後のシーン、富太郎から少し離れた舞台の上手側に、幼子(=首の角度からして明らかに死んでしまったことが分かるほどのけぞった子)をおぶった子供が出てくるのだけど、それがあの有名な写真「焼き場に立つ少年」なんだと、「あぁ、あの写真はこの原爆のものなんだ」、と、海外で観る方々が心の中で、観たばかりの作品と現実とをしっかり繋げて認識してくれますように。

「誰もが同時に空を見上げるとき」、その一瞬は「幸せな筈だった」

 幸せな筈だったのに。空は花火が上がる場所だった筈なのに。火薬は人を焼き殺すためではなく、心に楽しみを咲かせるために使われるもののだった筈なのに。
 在良(=アリョーシャ)が劇中何度か口にするヨハネ書の一節、「一粒の麦、地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。けれど、一粒の麦が、地に落ちて死んだなら、たくさんの実りをこの大地に生み出すだろう」(プログラムより引用)。ここで言う「落ちて死ぬ」とは、おそらく「落ちた後原型を止めず姿を変えること」で、麦が麦のままではなく、発芽するということ、だと解釈すると、落ちる、と、セットで言われる「実りをもたらす」というフレーズが繰り返されていただけに、地に落ちて死んだ(落とされ、原型を止めず爆発した)原爆は、たくさんの実りをもたらすどころか夥しい死を招いたんだよね…と対比がより強烈に感じられた。

 最後の「いつか、きっと」の続きはきっといくつもあって、「いつか、きっと」再び空を希望を込めて見上げることができますように、「いつか、きっと」威蕃や在良も好きだった花火を打ち上げられる日が帰ってきますように、「いつか、きっと」火薬が、人を殺すのではなく、心を楽しませる目的だけで使われる日が戻りますように、「いつか、きっと」生き残ってしまったこの命に意味はあったと思える日が来ますように…たくさん浮かんだ。
 劇場を出てから自分が引き継いだ「いつか、きっと」の続きは、「いつか、きっと」この出来事を、次の被害を起こさない視点で世界中の人と話せる日が来ますように、「いつか、きっと」核の戦時利用が、核爆弾の開発自体が、無くなりますように。

役ごとにその他思い出し

 全員には言及できないですが、特に印象に残った、書かないと眠れない方々の分だけ少し。

 初めて松潤さん(松本潤さん)の生の舞台を拝見。短気で喧嘩っ早くて、でも純粋で勘の鋭い(俺はこれが花火じゃないことだけは分かる/これから俺はたくさんの人を殺すんだろう?のセリフなどから)、悩む顔も弟たちに向ける笑顔も、花火/遊女たちに向ける色気全開の顔も全部絵になる富太郎、無条件で愛おしく思わせる富太郎。。。野田さんの作品でラストシーンを任されるって相当な重圧だと思うので、そして今回もフィクションじゃなく思いっきり実際の出来事を題材にとった話なので、最後まで怪我なく、そして楽しんでロンドンまで快走されますように!
 
 私がどうしてももう一回観たいと長年思い続けている、『逆鱗』にも出てらした瑛太さん(むかーしBSかWOWOWで放送されたのを観て、生観劇じゃないのに骨にひびが入るんじゃないかという程泣いた。体力ある時に観るのを勧めます)。印象的なシーンはいくつもあるのだけど、ラスト原爆が落ちてきた時の笑顔が忘れられない。量子力学者として「戦争を終わらせるために」「アメリカや他国より先に」原爆を開発する使命を負いながら、最後は科学者として、(先を越されたとしても)おそらくは自分達の持っていた仮説が正しかったこと、爆弾を爆弾としてではなく一種の作品と見なして、「やっぱりこの威力になるんだぁ!」と無邪気にわくわくしているような印象があった。

 信仰心をもって教会に勤める在良と娼婦のグルーシェニカという、聖と俗の両極端な二役をやった長澤まさみさん。早変わりがとにかくすごくて、かなり目まぐるしいスイッチをこなしながら、「同じ声、、の筈、、、なのに?!」と混乱するくらい両方をしっかり全うしてらして、気持ちよく観劇できた。グルーシェニカの突き抜けた感じ、ポールダンスタイムのかっこよさ、凄かった。。

 ウワサスキー夫人役、私の大好きな池谷のぶえさん。ロシア大使(?)夫人という役柄の説得力。声の美しさは今回も凄腕の人間国宝が織り上げた絹織物みたいで、のぶえさんが言うことでセリフが必ず面白くなり、のぶえさんの"間"によって、文字通り客席の笑いも劇場の空気のメリハリもピタっときまるのが、「これこれこれがのぶえさん!!!!!」と爽快だった(プログラムによると、「この役は最初野田さんがやるんだと思った」そうで、あ、言われてみれば確かに?とも。でも絶対のぶえさんのが良い)。のぶえさんの十八番の範疇だったので、逆に言うと若干「もう少しいつもと違うテイストも!」と言う物足りなさも感じそうになったのだけど、そんなリクエストを見透かしたかのように、中盤威蕃に謎にしなだれかかる(!)箇所があって新鮮だった。
 さらっと呼ばれた猫の名前(笑)、大爆笑だったんだけど、あれ誰の発案なんだろう(笑)。私も含めて客席大ウケだった(笑)。ケラさんの耳にも届いてるんだろうな(笑)。

 他の方々も勿論、いつもながら凄腕のアンサンブルの方々も含めて隅々まで芝居を堪能できる充実ぶりで、とても満足。
体温を超える凄まじい暑さの東京公演は勿論、涼しいロンドン公演まで、どうかスタッフの方含めて皆様安全に健やかに、完走できますように!

音楽その他あれこれ

 途中まで聞いて、今回もそうかな?と思ってたら大当たり、今回も原摩利彦さんが音楽。投下の瞬間の曲が、天井の高い建物の中で響き続ける静かな教会音楽さながらだった。
 荘厳ながら、仰々しすぎず、ヒリヒリと目の前の辛い展開に焼かれそうになる自分の感性に優しく冷たい水を与えてくるような音楽で、大好きです。フェイクスピアのサントラなど、疲れている時に気持ちや神経を鎮めてくれる力がすごくて、お芝居を反芻したい時以外でもかけてます。

 原爆投下の瞬間は、おそらくキノコ雲と灰の表現を一挙に担っていると思われる大きな薄い幕(というのかな、透ける布)が舞台全体を覆っていて、実際には一瞬で、轟音で、強烈な光と共に全てを黒くしてしまった筈なのに、ゆっくりとした幕と照明との美しさが残酷なイメージを強調してるようだった。

 今回大活躍だった養生テープ。野田さんと皆さんで今回も試行錯誤を重ねて発案されたのかなぁ、なんて楽しく想像。その場でポールに出演者の方々がどんどんテープを貼って行って、受話器をくっつけたり(笑)、松潤さんが破いて駆け抜けたり。ビーっビーーーーって音がリアルに聞こえるのがセリフのノイズになるかと思いきや逆に躍動感を盛り上げていて、「はぁああだから面白いよねぇ野田さんの作品の美術!」と唸った。

 キャスターのついた椅子、気に入ったのかな…?と過去作品での飛行機シーンを思い出したり。座った姿勢でスピード感出せるから確かに場面次第ではピッタリ来るよなぁ。

終わりに

 野田さんならではの大量の言葉あそび、風刺、今回も楽しくて、細かいところまでぎゅうぎゅうにネタを詰め込む作風、やっぱり好きだなぁ!と。
 観劇後、久しぶりに勢いで書いたので、ここから少しずつ推敲し、また思い出して付け足したいものが出てきたら、注釈付きで編集していきます。

 大切なお時間でここまで読んでくださった方、ありがとうございました!

注1…74年前じゃなく、正しくは「79年前」だったのを後日発売された戯曲で確認(2024/8/16追記)

参考にしたもの

公式サイト

公式プログラム
(東京公演では現金のみ、一冊1300円)

戯曲
月刊『新潮』9月号掲載

書く過程で出会って読んだもの

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