2025年11月1日土曜日

日本名歌20選 再々改訂版

日本名歌20選 再々改訂版


八重 スサノオ
ヤマトタケル
望月の歌 藤原道長
額田王
柿本人麻呂

空海
菅原道真 901
君が代 905
明智光秀
松尾芭蕉 

浅野内匠頭
本居宣長
式子内親王
狂歌
坂本龍馬

正岡子規
与謝野晶子
森鴎外
宮沢賢治
寺山修司

昭和天皇
俵万智

スサノオノミコト
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
https://sunagoya.com/tanka/?p=19782
「やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを」
「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。
「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。
出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。
『古事記』の最初に出てくる歌でもあり、のちの『古今和歌集』の「仮名序」には、
このスサノオの歌から歌の三十一文字が定まったと書かれていて、
つまり、この歌が、いちおう、日本最古の短歌であり、三十一文字の歌の原型ということになっている。
有名な八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)の件(くだり)に出て来る。

ヤマトタケル
「大和は 国の真秀ろば 畳なづく 青垣山籠れる」
「やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまごもれる」。これに「やまとし うるはし」
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000106932
倭建命が故郷を思って歌ったとして、「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し」とある。
この歌の解釈としては「大和は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は、美しい」と記述がある。

額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
万葉集
https://manapedia.jp/text/2070#google_vignette
原文
(※1)あかねさす紫野行き(※2)標野行き (※3)野守は見ずや(※4)君が(※5)袖振る

ひらがなでの読み方
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる

現代語訳
紫草の生えた野を行き、標野を行きながら(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。

柿本人麻呂
https://tankanokoto.com/2021/10/hitomaro2.html
しきしまの大和の国は言霊の助くる国ぞま幸さきくありこそ
読み:しきしまの やまとのくには ことだまの たすくるくにぞ まさきくありこそ
作者と出典
柿本人麻呂  巻13・3254
現代語訳
しきしまのやまとの国は言葉の霊力が物事をよい方向へ動かしてくれる国です、どうか私が言葉で申し上げることによって、どうぞその通り、無事でいて下さい。

八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
読み:やくもさす いづものこらが くろかみは よしののかわの おきになづさう
作者と出典
柿本人麻呂  巻三・四三〇
現代語訳
八雲の湧く出雲の娘子の黒髪が、吉野の川の沖に揺らめいている

空海
https://jizoin.net/wisdom/生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、
死に死に死に死んで死の終りにくらし。
                『秘蔵法鑰』
自分はどこから生まれ、どこへ死んでいくのか、生まれるとは何か、死とは何かと言う一大事を、人はなおざりにして何も考えずに人生をおくっている。
とても有名な空海の言葉。密教の教え「輪廻転生」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を巡る迷いの再生である。人は迷いの世界を巡り、暗闇の中から抜け出せない学習能力の無き者。そろそろ自分の一生に、宇宙大の世界観を当てはめ、輪廻から離脱しようではないか。

藤原道長
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
(このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば)
は、寛仁2年10月16日(ユリウス暦1018年11月26日)に、太閤・藤原道長が詠んだとされる和歌。この日は道長の三女・藤原威子が後一条天皇の中宮として立后された日であり、摂関政治の絶頂を示した歌としてしばしば引用され、望月の歌と呼ばれることもある[1][2]。
  

菅原道真
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
百人一首11

https://note.com/infinity0105/n/n4fdbec406c4d

東風(こち)吹(ふ)かば匂(にほ)ひおこせよ梅(むめ)の花(はな)あるじなしとて春(はる)を忘(わす)るな
拾遺和歌集 雑春 1006番
訳:わが家の梅の花よ。東風が吹いたら、私のいる大宰府まで匂いを届けておくれ。主人がいないからと言って、春を忘れてはならないよ。
My ume tree, could you please send your scent on the east wind? Don't forget to bloom in spring even if I'm not here.

道真は昌泰4(901)年、大宰権帥に左遷される。この歌は都を発つときの歌として、『大鏡』などに引用されて有名。なお、東風(こち)は、東から西に吹く風のことであり、大宰府においては都から吹いてくる風が東風である。
ほぼ同じシチュエーションでの「桜花ぬしを忘れぬものならば吹き来む風に言伝てはせよ」(後撰和歌集・春・57番)も切ない。


「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
言わずと知れた日本国の国歌です。

https://wakadokoro.com/learn/%E5%90%9B%E3%81%A8%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%EF%BC%9F-%EF%BD%9E%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86%EF%BD%9E/

 「あなたが非常に長生きできることを願います。それは小さな砂利が悠久の年月を経て巌(いわ)となり、苔が生い茂るまで」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ccd908251752f018818e4bcbe313a2661950f6e1

デリケートな問題というのは、君が代の「起立斉唱問題」です。
君が代は「大日本帝国時代の国歌であり、歌詞は国体護持の意味合いが強い」ということから、君が代の斉唱を反対する運動が起きています。
でも君が代の「君」は本当に天皇を指しているのでしょうか?
また歌の内容は国体護持なのでしょうか?
君が代の歌詞は、古今和歌集の「賀歌」が元になっています。
「賀部」の冒頭
343「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(よみ人しらず)
そもそも「賀歌」は、誰に向けた祝賀なのでしょう?
古今和歌集は「勅撰和歌集」ですから、天皇に向けた祝賀がほとんどだろうと思えます。
しかし!
賀歌二十二首の内容、詞書をみても、天皇に向けた祝賀であると特定できる歌は一切ないのです。なおかつ祝いの内容は末永い国体の繁栄などではなく誕生の賀が大半。
しかもその対象者が本康親王(仁明天皇の皇子)と尚侍の右大将(藤原定国)という奇妙なアンバランス。
つまり「賀歌」の本質は、親しい人へのバースデーソングなのです。
君が代の君は「天皇ではない」と言い切れないまでも、天皇である可能性は薄く、かつ国体護持というような内容を含んでいる可能性はほとんどない!
ということです。


式子内親王(1149〜1201)
「玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」
百人一首89番
https://evrica.me/liberal-arts/1131
我が命よ、絶えることなら早く絶えてしまえ。このまま生き永らえていると、恋心を耐え忍んでいる私の心が弱ってしまうと困るから。


明智光秀
「時は今 天が下しる 五月哉」
https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=494931
 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

松尾芭蕉?
「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か
回答
松尾芭蕉ではなく、相模(神奈川県)の田原坊の作と思われる。
『松島(嶋)図誌』(桜田周甫 文政三年)に田原坊の「松島や さて松島や 松島や」という吟が収められていたが、
風景のあまりの美しさに句を詠めなかったという松尾芭蕉の話も同時に掲載されたため、当句の詠み人=松尾芭蕉と混同して今に伝えられているのかもしれない。
なお、芭蕉は松島で「島々や千々にくだきて夏の海」という句を詠んでいる。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000204432&page=ref_view

「松島や ああ松島や 松島や」は松尾芭蕉の俳句か | レファレンス協同データベース
・『芭蕉全発句』(山本健吉/〔著〕、講談社)
 『芭蕉秀句』(山口誓子/著、春秋社)
 索引から調べるがいずれも該当句はなし。

・『ら・ら・ら「奥の細道」』(黛まどか/著、光文社)p.42
 「松島や~が芭蕉の句だと信じている人が意外と多いのだけれど、芭蕉の名誉のためにもこれは断じて彼の句ではありません!と念を押しておきますね」

・『おくのほそ道-解釈と研究-』(井上豊/著、古川書房)p.177
「芭蕉の作と伝えられる『松島や』の句については、木村架空の『新釈』(『新釈奥の細道』明治29年)に『俗書に伝へる松島や~の句は、桜田周甫の松島図誌に、相模の人、田原坊の吟として載せてあり、ああはさてとなって居る。『さての方大いに好し』とある」

・『芭蕉はどんな旅をしたのか』(金森敦子/著、晶文社)p.203
「芭蕉がこのような句を吟じた事実はなく、1821年(文政四年)に出された『松島図誌』には相模の田原坊の吟とあり、「ああ」は「さて」となっているという」

・『奥の細道行脚』(櫻井武次郎/著、岩波書店)p.73~
「ところで、芭蕉が松島で句を作れず、 ああ松島や松島やとつぶやいたという話がある。先に掲げたように松島で芭蕉は作句している(島々や千々にくだきて夏の海)のだが、『奥の細道』には記さないので、このような話が生まれたのだろうか。復本一郎氏の教示によれば、『松嶋図誌』(文政三年)という本に、松嶋や~さてまつしまや~(相模州田原坊)の句を収め、その後に来た芭蕉が、風景のあまりの美しさに句を読めなかったという話を載せる。直接かどうかは分からないが、この記事を混同して「ああ松島や」の話が生まれたのかもしれない」

2023.11.22追記
国立国会図書館デジタルコレクション収録の『松嶋図誌 再販』(桜田周輔/著、東沢/画 裳華房)37コマより、相模の田原坊の吟の左側に松尾芭蕉の話が掲載されていることが分かる。
(https://dl.ndl.go.jp/pid/991518/ )2023.11.22確認


浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」
https://tankanokoto.com/2020/12/akourousi.html
意味は、
風に舞い散る桜のよりもずっと、若くして断たれるこの命の心残りをどうしたらいいものか
というもの。
浅野内匠頭の年齢は、このとき33歳でした。
浅野内匠頭の、口惜しさが伝わる短歌なのです。
これを詠んだ家来たち四十七人は、主君の無念を察して仇討ちを決心したのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/itsukusima-m/e/450c544a1e7745dbf9e1827798364f6c
本居宣長
「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人とは(わ)ば 朝日に匂(にお)ふ 山桜花(やまざくらばな)」

「古事記伝(こじきでん)」で有名な国学者「本居宣長(もとおりのりなが)」の歌です。
「敷島の」は大和心にかかる枕詞、「匂う」は現在では「香りが匂う」という意味で使いますが、
当時は「花が美しく咲いている、映えている」という意味で使っています。
また「大和心」は「漢心(からごころ)」(中国かぶれの心)に対する「日本人としての昔ながらの柔軟な知恵」という意味です。
すなわち「大和心とはなにかと、尋ねられたら、朝日に照り輝く山桜の花であると答えよう。
日本人である私の心とは朝日に照り輝く山桜の花の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。」


狂歌
「泰平の眠りを覚ます上喜撰」

https://higashiyamatoarchive.net/ajimalibrary/01%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%88%A5%E3%83%BB%E8%91%97%E4%BD%9C/%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%8B%82%E6%AD%8C%E3%80%8C%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%80%8D%E3%80%81%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA%E7%9B%B4%E5%BE%8C%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E8%A3%8F%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%8B%E6%9B%B8%E7%B0%A1%E7%99%BA%E8%A6%8B.html

上喜撰の碑
碑文
泰平の ねむりを さます じょうきせん
たった四はいで 夜も 寝られず

  江戸幕府は約二百年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていました。その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦・嘉永6年6月3日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸しました。この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督でした。
  江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺しました。開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどのようなものだったでしょう。その驚きを端的に表現したのが、この落首です。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中間部詮勝(まなべあきかつ・号 松堂)作ともいわれています。

交通:JR・京急久里浜駅~野比海岸間バス、ペリー記念碑下車・徒歩2分

https://mwl-store.com/2021/05/14/%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A%E3%82%92%E8%A6%9A%E3%81%BE%E3%81%99%E4%B8%8A%E5%96%9C%E6%92%B0%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%9B%9B%E6%9D%AF%E3%81%A7%E5%A4%9C%E3%82%82%E5%AF%9D%E3%82%89/

泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られず。
「蒸気船と上喜撰」「上喜撰」とは当時人気のお茶のこと、湯呑みの杯と「蒸気船」の船の杯を掛け合わせ、さらにお茶の効能の目が覚めることにも掛けた、江戸人ならではの洒落っ気。黒船来航として1853年に浦賀沖に突然現れた(となっているが実際は薩摩藩などに事前に告知があったともの諸説あり)アメリカの船団四隻(実際には蒸気船は二隻だったという、残りの二隻は蒸気船でない船のこと)神奈川県浦賀の当時の人にとってはさすがに驚きで、どこかが攻めてきたと大騒ぎだったろう、自分たちが使う船とのあまりの大きさの違いに。。。


坂本龍馬
世の人は われをなにとも ゆはばいへ わがなすことは われのみぞしる

https://oidon5.hatenablog.com/entry/2021/05/02/190000

坂本龍馬 『詠草二 和歌』
現代語訳
世の中の人は俺のことをどうとでも言いたけりゃ言え。俺のやることは俺にしかわからんだ。


正岡子規

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12844788967.html

https://number.bunshun.jp/articles/-/827815?page=3#goog_rewarded

若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ(わこうどの すなるあさびは さわにあれど ベースボールに しくものはあらじ)
明治31(1898年)

与謝野晶子
https://news.mynavi.jp/article/20240301-2896065/
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
1904年




森鴎外
我百首
http://sybrma.sakura.ne.jp/347ougai.wagahyakusyu.html

我は唯この菴沒羅菓(あんむらくわ)に於いてのみ自在を得ると丸呑にする

我詩皆けしき臟物(ざうもつ)ならざるはなしと人云ふ或は然らむ
1909年

https://aushiba.hatenablog.com/entry/2025/07/11/172215

   草藉(し)きて臥すわが脈は方(ほう)十里寝(い)ねたる森の中心に搏つ
              森鴎外 『鴎外全集10』(一刹那 「明星」明治40(1907).10)
   我が足はかくこそ立てれ重心のあらむかぎりを私(わたくし)しつつ
              森鴎外  同上

http://sybrma.sakura.ne.jp/349ougai.issetsuna.html

https://note.com/sheepfold/n/n446b2f67c822

森鴎外とその短歌

nii.ac.jp
https://numcjc.repo.nii.ac.jp › record › files › 20...

nii.ac.jp
https://numcjc.repo.nii.ac.jp › record › files › 20...
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清田文武 著 · 2009 — つ. 草籍きて臥すわが脈方十里寝たる森中心に持つ (一利那)(明治40・10). わたくし. わが足はかくこそ立てれ重力のあらむかぎりを私しつつ (同上). あめつち. はくだく.
11 ページ

宮沢賢治

[ 名言 ]
詩は裸身にて、理論の至り得ぬ境を探り来る。
そのこと決死のわざなり。

https://meigennavi.net/word/16/160918.htm

[ 出典 ]
宮沢賢治[みやざわ・けんじ]
(明治~昭和初期の詩人・童話作家、1896~1933)
【 宮沢賢治の名言 】


寺山修司
マッチ擦するつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(『寺山修司全歌集』)
https://note.com/yojiroo/n/n7bd50680f1db
おそらく寺山修司のもっとも有名な歌だ。多くの教科書にも取り上げられた。僕が寺山修司の歌で唯一知っていたのがこれだ。
1958年


  • 〈マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや〉は、三句切れ。2023/04/19
  • 1 09 国語の勉強法③ - 行人塾―こうじんじゅくhttps://kojin-juku.net>goroku

    マッチ擦るは何句切れですか?


マッチ擦るつかのま海に霧深し… - ユリイカ学習塾

  1. https://eureka.aosoraya.com>マッチ擦るつかのま海に霧...
2021/4/28 -青森出身の詩人、寺山修司(1935-1983)の若い頃の短歌で、まだ私の印象に残るものがある。「マッチ擦る つかのま海に 霧深し 身捨つる程の 祖国はあり ...

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  1. https://tapanulifever.hatenablog.com>entry>2015/05/02
2015/5/2 -マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや寺山修司 富沢赤黄男の俳句、 一本のマッチをすれば湖は霧の本歌取り、というか、パクリ。

この国などどうでもよいが首ばかり丹念に洗う湯屋にて洗う

  1. https://sunagoya.com>tanka
2024/3/9 -これを読んでとっさに思い浮かべるのが、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(『空には本』、1958)。寺山の下 ...

マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
  1. https://mediajuku.com>article
寺山修司(1935年12月10日~1983年5月4日)日本の歌人、詩人、劇作家、映画監督と様々なジャンルで前衛的な活動をした。演劇実験室「天井桟敷」を主宰。



昭和天皇
「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」
昭和61,62年の終戦記念日に陛下が詠まれたとする
1986年
https://note.com/saito_syse/n/ncb2216bc23ce


俵万智
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念
https://www.amazon.co.jp/サラダ記念日-俵-万智/dp/4309024882

正岡子規 ベースボール

正岡子規 ベースボール

ベースボール

ベースボール に至りてはこれを行う者極めて少くこれを知る人の区域もはなはせまかりしが近時第一高等学校と在横浜米人との間に仕合マッチありしより以来ベースボールという語ははしなく世人の耳に入りたり。されどもベースボールの何たるやはほとんどこれを知る人なかるべし。ベースボールはもと亜米利加アメリカ合衆国の国技とも称すべきものにしてその遊技の国民一般に賞翫しょうがんせらるるはあたかも我邦わがくに相撲すもう西班牙スペイン闘牛とうぎゅうなどにも類せりとか聞きぬ。(米人のわれに負けたるをくやしがりて幾度いくども仕合をいどむはほとんど国辱こくじょくとも思えばなるべし)この技の我邦に伝わりし来歴はつまびらかにこれを知らねどもあるいはいう元新橋鉄道局技師(平岡※(「(冫+臣+犯のつくり)/れんが」、第3水準1-87-58)ひらおかひろしという人か)米国より帰りてこれを新橋鉄道局の職員間に伝えたるをはじめとすとかや。(明治十四、五年のころにもやあらん)それよりして元東京大学(予備門)へ伝わりしと聞けどいかがや。また同時に工部大学校、駒場こまば農学校へも伝わりたりと覚ゆ。東京大学予備門は後の第一高等中学校にして今の第一高等学校なり。明治十八、九年来の記憶きおくれば予備門または高等中学は時々工部大学、駒場農学と仕合いたることあり。また新橋組と工部と仕合いたることもありしか。その後青山英和学校も仕合マッチ出掛でかけたることありしかど年代は忘れたり。されば高等学校がベースボールにおける経歴は今日に至るまで十四、五年を費せりといえども(もっとも生徒は常に交代しつつあるなり)ややその完備せるは二十三、四年以後なりとおぼし。これまでは真の遊び半分という有様なりしがこの時よりやや真面目まじめの技術となり技術の上に進歩と整頓せいとんとを現せり。少くとも形式の上において整頓し初めたり。すなわち攫者キャッチャーが面と小手こて撃剣げきけんに用うる面と小手のごとき者)を着けて直球ジレクトボールつか投者ピッチャー正投ピッチを学びて今まで九球なりし者を四球(あるいは六球なりしか)に改めたるがごときこれなり。次にその遊技法につきて多少説明する所あるべし。

(七月十九日)


ベースボールに要するもの はおよそ千坪ばかりの平坦なる地面芝生しばふならばなおし)皮にて包みたる小球ボール(直径二寸ばかりにして中は護謨ゴム、糸のたぐいにて充実じゅうじつしたるもの)投者ピッチャー投げたる球を打つべき木のバット(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つところやや細きもの)一尺四方ばかりの荒布にて坐蒲団のごとく拵えたるベース三個本基ホームベースおよび投者ピッチャー位置に置くべき鉄板様の物一個ずつ攫者キャッチャーの後方に張りて球を遮るべき網(高さ一間半、はば二、三間位)競技者十八人(九人ずつ敵味方に分るるもの)審判者アムパイア一人幹事一人(勝負を記すもの)等なり。
ベースボールの競技場 図によりて説明すべし。
ベースボールの競技場の図
 直線いほ及びいへ(実際には線なし、あるいは白灰にて引く事あり)は無限に延長せられたるものとし直角ほいへの内は無限大の競技場たるべし。ただし実際は本基ホームベースにて打者ストライカーの打ちたる球の達する処すなわち限界となる。いろはには正方形にして十五間四方なり。勝負は小勝負九度を重ねて完結する者にして小勝負一度とはこう組(九人の味方)が防禦ぼうぎょの地に立つ事とおつ組(すなわち甲組の敵)が防禦の地に立つ事との二度の半勝負に分るるなり。防禦の地に立つ時は九人おのおのその専務に従い一、二、三等の位置を取る。但しこの位置は勝負中多少動揺どうようすることあり。甲組競技場に立つ時は乙組は球を打つ者ら一、二人(四人をえず)のほかはことごとく後方にひかえおるなり。

(い) 本基ホームベース
(ろ) 第一ベース(基を置く)
(は) 第二基(基を置く)
(に) 第三基(基を置く)
(一) 攫者キャッチャーの位置(攫者の後方に網を張る)
(二) 投者ピッチャーの位置
(三) 短遮ショルトストップの位置
(四) 第一基人ベースマンの位置
(五) 第二基人の位置
(六) 第三基人の位置
(七) 場右ライトフィルダーの位置
(八) 場中センターフィルダーの位置
(九) 場左レフトフィルダーの位置

ベースボールの勝負 攻者(防禦者の敵)は一人ずつ本基ホームベース(い)より発して各ベース(ろ、は、に)を通過し再び本基に帰るを務めとすかくして帰りたる者を廻了ホームインというベースボールの勝敗は九勝負終りたる後ち各組廻了の数の総計を比較し多き方を勝とするなり。例えば「八に対する二十三の勝」というは乙組の廻了の数八甲組廻了の数二十三にして甲組の勝なりという意なり。されば競技者の任務を言えば攻者こうしゃの地に立つ時はなるべく廻了の数を多からしめんとし、防者ぼうしゃの地に立つ時はなるべく敵の廻了の数を少からしめんとするにあり。廻了というは正方形を一周することなれどもその間には第一ベース第二基第三基等の関門あり各関門には番人(第一基は第一基人これを守る第二第三みなしかり)あるをもって容易に通過することあたわざるなり走者ラナー(通過しつつある者)ある事情のもとに通過の権利を失うを除外アウトという。(普通に殺されるという)審判官アムパイア除外と呼べば走者(または打者ストライカー)はただちに線外にでて後方の控所ひかえじょに入らざるべからず。除外三人に及べばその半勝負は終るなり。故に攻者は除外三人に及ばざる内に多く廻了ホームインせんとし防者は廻了者を生ぜざる内に三人の除外者を生ぜしめんとす。除外三人に及べば防者代りて攻者となり攻者代りて防者となる。かくのごとくして再び除外三人を生ずればすなわち第一小勝負インニング終る。かれめこれ防ぎおのおの防ぐ事九度、攻むる事九度に及びて全勝負ゲーム終る。
ベースボールの球 ベースボールにはただ一個のボールあるのみしかして球は常に防者の手にありこの球こそこの遊戯の中心となる者にして球の行く処すなわち遊戯の中心なり球は常に動く故に遊戯の中心も常に動くされば防者九人の目は瞬時も球を離るるを許さず打者走者も球を見ざるべからず傍観者もまた球に注目せざればついにその要領を得ざるべし。今尋常じんじょうの場合を言わば球は投者ピッチャーの手にありてただ本基ホームベースに向って投ず。本基の側には必らず打者ストライカー一人(攻者の一人)バットを持ちて立つ。投者の球正当の位置に来れりと思惟しいする時は(すなわち球は本基の上を通過しかつ高さかたより高からずひざより低くからざる時は)打者必ずこれをたざるべからず。棒ボールれて球は直角内に落ちたる時(これを正球フェアボールという)打者は棒を捨てて第一基に向い一直線に走る。この時打者は走者ラナーとなる。打者が走者となれば他の打者は直ちに本基の側に立つ。しかれども打者の打撃だげき球に触れざる時は打者は依然いぜんとして立ち、攫者キャッチャーは後(一)にありてその球を止めこれを投者ピッチャーに投げ返す。投者は幾度となく本基に向って投ずべし。かくのごとくして一人の打者は三打撃を試むべし。第三打撃の直球ジレクトボール(投者の手を離れていまだ土に触れざる球をいう)バットと触れざる者攫者キャッチャーよくこれをかくし得ば打者は除外アウトとなるべし。攫者これを攫し能わざれば打者ストライカー走者ラナーとなるの権利あり。打者の打撃したるボール空に飛ぶ時(遠近に関せず)その球の地に触れざる前これを攫する時は(何人にても可なり)その打者は除外となる。
(未完)

(七月二十三日)


ベースボールの球(承前) 場中に一人の走者ラナーを生ずる時はボールの任務は重大となる。もし走者同時に二人三人を生ずる時はさらに任務重大となる。けだし走者の多き時は遊技いよいよ複雑となるにかかわらず球は終始ただ一個あるのみなればなり。今走者と球との関係を明かにせんに走者はただ一人敵陣てきじんの中を通過せんとするがごとき者、球は敵の弾丸だんがんのごとき者なり。走者は正方形(前回の図を参照すべし)の四辺を一周せんとする者にして一歩もこの線外に出ずるを許さずしかしてこの線上において一たび敵の球に触るれば立どころに討ち死除外アウトを遂ぐべし※(始め二重括弧、1-2-54)ここに球に触るるというは防者の一人が手に球を持ちてその手を走者の身体の一部に触るることにして決して球を敵に投げつくることに非ず。もし投げたる球が走者にあたれば死球デッドボールといいて敵を殺さぬのみならずかえって防者の損になるべし※(終わり二重括弧、1-2-55)されば走者がこの危険の中に身を投じて唯一ゆいいつ塁壁るいへきたのむべきは第一第二第三のベースなり。けだし走者の身体の一部この基坐蒲団ざぶとんのごとき者)に触れおる間は敵の球たとい身の上に触るるも決して除外とならず。(この場合において基は鬼事おにごとおかのごとし)故に走者はなるべく球の自己に遠かる時を見て疾走しっそうして線を通過すべし。例えば走者第一基にあり、これより第二基にいたらんとするには投者ピッチャーが球を取て本基(の打者ストライカー)に向って投ずるその瞬間しゅんかんを待ち合せ球手を離るると見る時走り出すなり。この時攫者キャッチャーはその球を取るやいなや直ちに第二基に向って投ずべく第二基人ベースマンはその球を取りて走者に触れんとすべし。走者は匆卒そうそつの際にも常に球の運動に注目しかかる時直ちに進んで険をおかし第二基に入るか退いて第一基に帰るかを決断しこれを実行せざるべからず。第二基より第三基に移る時もまたしかり。第三基より本基ホームベースに回る時もまたしかり。ただし第三基は第二基よりも攫者に近く本基は第三基よりも獲者に近きをもって通過せんとするには次第に危険を増すべし。走者ラナー二人ある時は先に進みたる走者をまずたおさんとすること防者が普通の手段なり。走者三人ある時はこれを満基フルベースという。(一基に走者一人以上留まることを許さず故に走者は三人をもって最多数とす)満基の時打者が走者となれば今までの走者は是非ぜひとも一基ずつ進まざるべからず。これ最も危険なる最も愉快ゆかいなる場合にしてこの時の打者の一撃いちげきは実に勝負にも関すべく打者もし好球をたば二人の廻了ホームインを生ずることあり、もし悪球を撃たば三人ことごとく立尽スタンジング(あるいは立往生という)に終ることさえあるなり。とにかく走者多き時は人は右に走り左に走り球は前に飛び後に飛び局面忽然こつぜん変化して観者をしてその要を得ざらしむることあり。球戯ベースボールを観る者は球を観るべし
ベースボールの防者 防禦の地にある者すなわち遊技場中に立つ者の役目を説明すべし。攫者キャッチャーは常に打者ストライカーの後に立ちて投者ピッチャーの投げたる球を受け止めるを務めとす。その最も力をつくす処は打者が第三撃にして撃ち得ざりし時その直球ジレクトボールつかむと、走者の第二ベースに向って走る時ボールを第二基人ベースマンに投ずると、走者ラナーの第三基に向って走る時球を第三基人に投ずると、走者の本基ホームベースに向って来る時本基に出てこれをいとめると等なりとす。投者ピッチャーは打者に向って球を投ずるを常務とす。その正投ピッチの方、外曲アウトカーブ内曲インカーブ墜落ドロップ等種々ありけだし打者の眼をあざむき悪球を打たしめんとするにあり。この外投者は常に走者に注目し走者ベースを離るること遠き時はその基に向って球を投ずる事等あり。投者攫者二人は場中最枢要さいすうようの地をむる者にして最も熟練を要する役目とす。短遮ショルトストップは投者と第三基の中ほどにあり、打者の打ちたる球をさえぎり止め直ちに第一基に向って投ずるをつとめとす。この位置は打者の球の多く通過する道筋なるをもって特にこの役を置く者にして短遮の任また重し。第一基は走者を除外アウトならしむるにもっとも適せる地なり。短遮等より投げたる球を攫み得て第一基をむこと(もしくは身体からだの一部をるること)走者より早くば走者は除外となるなり。けだし走者は本基より第一基に向って走る場合においては単に進むべくしてあえて退くべからざる位置にあるをもって球のその身に触るるを待たずして除外となることかくのごとき者あり。第二基人第三基人の役目は攫者等より投げたる球を攫み走者の身に触れしめんとする者にしてこの間に夾撃きょうげき等面白き現象を生ずる事あり。場右ライトフィルダー場中セントラルフィルダー場左レフトフィルダーのごとき皆打者の打ちたる飛球フライボールを攫み(この時打者は除外となる)またはその球を遮り止めて第一基等に向いこれを投ぐるを役目とす。しかれども球戯きゅうぎは死物にあらず防者にありてはただ敵を除外ならしむるを唯一の目的とするをもってこれがためには各人皆臨機応変の処置を取るを肝要かんようとす。防者は皆打者の球は常に自己の前に落ちきたる者と覚悟かくごせざるべからず。基人ベースマンは常に自己に向って球を投げらるる者と覚悟せざるべからず。
ベースボールの攻者 攻者は打者ストライカー走者ラナーの二種あるのみ。打者はなるべく強き球を打つを目的とすべし。球強ければ防者の前を通過するとも遮止しゃしせらるることなし。球の高くあがるは外観美なれども攫まれやすし。走者は身軽にいでたち、敵の手の下をくぐりてベースに達すること必要なり。危険なる場合には基に達する二間ばかり前より身をたおしてすべりこむこともあるべし。この他特別なる場合における規定は一々これを列挙せざるべし。けだし一々これを列挙したりともいたずらに混雑を加うるのみなればなり。
ベースボールの特色 競漕きょうそう競馬競走のごときはその方法甚だ簡単にして勝敗は遅速ちそくの二に過ぎず。故に傍観者ぼうかんしゃには興すくなし。球戯はその方法複雑にして変化多きをもって傍観者にも面白く感ぜらるかつ所作の活溌にして生気あるはこの遊技の特色なり観者をして覚えず喝采せしむる事多し。但しこの遊びは遊技者に取りても傍観者に取りても多少の危険をまぬかれず。傍観者は攫者キャッチャーの左右または後方にあるをしとす。

 ベースボールいまだかつて訳語あらず、今ここにかかげたる訳語はわれの創意にかかる。訳語妥当だとうならざるは自らこれを知るといえども匆卒そうそつの際改竄かいざんするによしなし。君子くんし幸にせいを賜え。
のぼる  附記

(七月二十七日)



底本:「ことばの探偵〈ちくま文学の森14〉」筑摩書房
   1988(昭和63)年12月20日第1刷
初出:「日本」日本新聞社
   1896(明治29)年7月19日号~27日号
※図の製作にあたっては、「子規全集 第十一卷 随筆一」講談社(1975(昭和50)年4月18日第1刷)を適宜参照しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年11月4日作成
2013年9月22日修正
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