#果てしなきスカーレット
千葉、ちはら台で鑑賞。
七回目で初めて思ったこと。
聖を刺す通り魔は細田守監督自身に似ている(笑)。
『国宝』でも主人公を棒でなぐる男を監督自身に似た役者に演じさせていた。
まあ出鱈目な個人的推察に過ぎないが。
演技とはいえ犯罪者にさせるわけだから監督も気を使う。そういう時代になった。
12日の最終日にまた観たいが…
☆
魔女を大友克洋的キャラにしたのは宮崎駿がもののけでシシガミの最後の表情を手塚治虫キャラにしたのに似ている。
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スカーレットが長からのお茶を飲む瞬間にフラダンスが始まる(小説では長老の言葉の後)。
ダンスが観客への一服のお茶ということだ。
ダンス、演劇へのリスペクトはスマホ慣れした我々には新鮮だ。
かつてグローブ座もマイクなしでやっていた。
ラストの演説は声が聞こえなくとも民衆は満足して帰るだろう。
皇居で天皇一家を見て満足する日本人みたいに。
全世界に向けた作品という監督の気概を感じる。
格闘へのリスペクトも特筆すべきだ。
伊澤さんがぎっくり腰になったのは冒頭の方の訓練のシーンだろう。
☆
自分が好きなのは朝になり星が見えなくなる空のカット。
実写ではなかなか出来ない。
失われた十支族は東へ向かった。つまり太陽の出る方角だ(映画では夕陽も出てくるが)。
スカーレット自身が空に昇る際、太陽に重なるように昇ってゆくのは偶然ではない。
☆
この映画の凄いところは映画(アニメ)を映画(アニメ)内で完結させようとしていない点だ。そこが反発を生むのだろう。
アニメばかり見て何が悪い、ハムレットを読んでなくて何が悪い、と。
タルコフスキー 『サクリファイス』に対抗出来る日本映画は『生きものの記録』と『サマーウォーズ』しかないとずっと思っていた。
『サクリファイス』は劇場で五回見たが今回はそれを越えた。
とにかく色々考えさせられる映画だ。いやそれ以上に感じさせてくれる映画だ。
ドラゴンのスイミー化は劇場によって鳥の鳴き声の聞こえ方が違うので、その聞こえ方次第になる。
ScreenX版では鳥の声が分離してよく聞こえたので復讐をやり遂げたドラゴンの成就という印象になった。
千葉の劇場は音が極端に小さいかなぜか鳥の声はよく聞こえた。ドラゴンの復讐の相手はスカーレットでも良かったのだろう。剣さえ振りかざしていれば。
画面が小さいからより考える冷静さが生まれた。
つまり虚無は我々の見方次第。
この映画を見飽きることがあるとすれば、映画のように踊れるようになった時、歌えるようになった時、闘えるようになった時、懺悔できるようになった時、応急処置できるようになった時、演説できるようになった時、絵を描けるようになった時、リュートを弾けるようになった時。まあ見飽きることはないということだ。
しかしハムレットを愛読してる人間はアニメを見ないだろうし、アニメ好きはハムレットを読まない。
日本は精神的にも貧しくなった。
タルコフスキー、黒澤明以降映画の天才はいない。それでもこんな傑作が出来た。映画も捨てたものではない。
「果てしなき」の歌詞は聖との別れのシーンに対応している。流れるメロディも共通。
聖の名前は植松聖を意識しているかもしれない。いや意識はしていないだろうが自分は意識してしまう(「寺へ行け」というギャグだけのための名前だとしても)。
植松は財務省プロパガンダを信じ込んだ犠牲者。
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