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2017年10月12日に日本でレビュー済み
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大川橋蔵主演の映画版が予想外の面白さだったので、原作を読んでみた。
元禄時代、三味線の名器「山彦」を巡って、有名無名の登場人物が京・四国・信州・江戸を舞台に追ったり追われたり…の物語。前半は三味線の持ち主・お品、後半は信州の山中に隠れ住む平家残党の御曹司・伊那小源太が主人公。楽しいのは後半部分。社会から隔絶して500年(火縄銃も徳川家も知らない!)、元禄文化華やかなりし江戸に乗り込むワイルド・ライフと平安貴種のハイブリッドの大暴れ。映画版の監督マキノ雅弘(戦前にも阪妻主演で同タイトル作を撮っているらしいが未見)がこの小源太をメインに据えて原作を拡大・脚色したのもむべなるかな。橋蔵演じる小源太が一党を率い、江戸城にて後鳥羽院の勅文を手に将軍綱吉・老中柳沢を中世風の雅(みやび)言葉で面罵する場面の痛快さは東映時代劇ならでは。
ちょっと『アイアン・スカイ』を思わせる展開だが、橋蔵の美男&貴公子ぶりを強調した映画版に比べ、昭和9~10年『キング』に連載された本作(司馬遼太郎『風の武士』はある程度本作を意識して書かれたものらしい)は小源太の野生味が強烈。群がる敵をちぎっては投げちぎっては投げ、牢を砕き土塀を破り、大名屋敷も素手で叩き潰す豪快さ。あとがき『「恋山彦」茶話』(松本昭筆)によると、作者は連載開始の前年に日本公開された『キング・コング』にヒントを得た由で、なるほどなあと思う。神殿に捧げられた美女を小脇に抱えて深山幽谷を疾走し、老中の愛妾を人質に楼閣上から睥睨獅子吼する姿、六義園での大パニック・シーンも確かにアレそのもの。ただし本作、上記のように前半・後半で分裂気味の構成といい、雑誌連載の弱みか原稿用紙10~12枚程度の章立てで見せ場見せ場の連続はいかにも息が短く、小説としての完成度は今一つ。
ヒッチコックはロバート・ブロック『サイコ』で興味を引かれたのは「ただ一ヵ所、シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さだ。これだけで映画化に踏み切った」と語っていたが、反対に、よく出来た・よく売れた小説の映画化がツマラないものに終わるのは往々にして見られるところ。原作ファンに気を配って単なる挿絵的・絵解き的なスタイルに終始したり、ヒッチコックに倣おうとする余り(?)肝心の原作のポイントを見過ごしたり。後者については最近「あれはマクガフィンに過ぎないから」という聞いた風な言い訳もあるけれど、しかしこれが大きなカン違い。マクガフィン―本書で言えば名器「山彦」―とはそういう意味のものではない。ドラマの核心・ポイント・テーマを的確に見定め、それを中心に小説的=非・映画的な無駄を削ぎ、映画的な肉を付けて膨らませていく(上記マキノのように)のが面白い映画作りの本道―この点で他の追随を許さないのがヒッチコック、黒澤明、デイヴィッド・クローネンバーグ―ならば、プロデューサーに必須なのは、本書のように全体として出来は悪いけれど映画向きのワン・アイデアが光る原作を見出す眼識―と、当然豊富・広汎な読書量―なのではないか。ベスト・セラーや◯◯賞受賞作に目を光らせるばかりが能ではないように思うのだが。
元禄時代、三味線の名器「山彦」を巡って、有名無名の登場人物が京・四国・信州・江戸を舞台に追ったり追われたり…の物語。前半は三味線の持ち主・お品、後半は信州の山中に隠れ住む平家残党の御曹司・伊那小源太が主人公。楽しいのは後半部分。社会から隔絶して500年(火縄銃も徳川家も知らない!)、元禄文化華やかなりし江戸に乗り込むワイルド・ライフと平安貴種のハイブリッドの大暴れ。映画版の監督マキノ雅弘(戦前にも阪妻主演で同タイトル作を撮っているらしいが未見)がこの小源太をメインに据えて原作を拡大・脚色したのもむべなるかな。橋蔵演じる小源太が一党を率い、江戸城にて後鳥羽院の勅文を手に将軍綱吉・老中柳沢を中世風の雅(みやび)言葉で面罵する場面の痛快さは東映時代劇ならでは。
ちょっと『アイアン・スカイ』を思わせる展開だが、橋蔵の美男&貴公子ぶりを強調した映画版に比べ、昭和9~10年『キング』に連載された本作(司馬遼太郎『風の武士』はある程度本作を意識して書かれたものらしい)は小源太の野生味が強烈。群がる敵をちぎっては投げちぎっては投げ、牢を砕き土塀を破り、大名屋敷も素手で叩き潰す豪快さ。あとがき『「恋山彦」茶話』(松本昭筆)によると、作者は連載開始の前年に日本公開された『キング・コング』にヒントを得た由で、なるほどなあと思う。神殿に捧げられた美女を小脇に抱えて深山幽谷を疾走し、老中の愛妾を人質に楼閣上から睥睨獅子吼する姿、六義園での大パニック・シーンも確かにアレそのもの。ただし本作、上記のように前半・後半で分裂気味の構成といい、雑誌連載の弱みか原稿用紙10~12枚程度の章立てで見せ場見せ場の連続はいかにも息が短く、小説としての完成度は今一つ。
ヒッチコックはロバート・ブロック『サイコ』で興味を引かれたのは「ただ一ヵ所、シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さだ。これだけで映画化に踏み切った」と語っていたが、反対に、よく出来た・よく売れた小説の映画化がツマラないものに終わるのは往々にして見られるところ。原作ファンに気を配って単なる挿絵的・絵解き的なスタイルに終始したり、ヒッチコックに倣おうとする余り(?)肝心の原作のポイントを見過ごしたり。後者については最近「あれはマクガフィンに過ぎないから」という聞いた風な言い訳もあるけれど、しかしこれが大きなカン違い。マクガフィン―本書で言えば名器「山彦」―とはそういう意味のものではない。ドラマの核心・ポイント・テーマを的確に見定め、それを中心に小説的=非・映画的な無駄を削ぎ、映画的な肉を付けて膨らませていく(上記マキノのように)のが面白い映画作りの本道―この点で他の追随を許さないのがヒッチコック、黒澤明、デイヴィッド・クローネンバーグ―ならば、プロデューサーに必須なのは、本書のように全体として出来は悪いけれど映画向きのワン・アイデアが光る原作を見出す眼識―と、当然豊富・広汎な読書量―なのではないか。ベスト・セラーや◯◯賞受賞作に目を光らせるばかりが能ではないように思うのだが。
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