海外発祥のヒップホップ、日本語でラップすることの意義は…若手批評家が愛と情熱込めて分析
国内ヒップホップシーンが盛り上がり続ける中、若手批評家の中村拓哉=写真=が『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』(書肆侃侃(しょしかんかん)房)を刊行した。日本語でラップすることの意義や、ヒップホップ音楽の魅力に迫った一冊だ。
ヒップホップは1970年代前半、治安悪化や貧困問題を抱えた米ニューヨークの黒人らのコミュニティーで誕生し、世界的な文化となった。日本でも多くのアーティストが表現してきたが、海外発の文化をどう自分たちのものとして位置づけるかは長く課題とされてきた。
中村は、ヒップホップグループ、ライムスターの宇多丸が90年代半ば、「ヒップホップは"一人称"の文化だ」と音楽誌に記したことに注目。語り手たちの強烈な自己表現が、国境や言語、性別を超えて伝播(でんぱ)し、他者を触発して文化を創発する営みこそがヒップホップの本質だと捉え直す。
「国内では特に2000年代以降、格差や貧困の深刻化を背景に社会の暗部やストリートのリアルを語るラッパーたちが台頭。女性も相次いで活躍し、時代を経るごとに一人称の表現はより多様で、豊かになった」
音楽面では、機械的に反復するビートに乗って、ラップが微細な変化を与え続けることで、同じビートでも多彩な音楽体験をもたらしうる点を指摘。聴き手が自然と首を振る反応は、肯定的な感覚をもたらす行為でもあると読み解く。
さらに、KOHH(現在の千葉雄喜)の「やるだけ」といった曲や、SEEDAのアルバム「花と雨」(06年)を精査。早世した姉への思いをラップした同作の表題曲で、韻の中に宿った追悼の念を指摘するくだりはひときわ印象深い。
過去に韻踏み夫名義で日本語ラップの名盤ガイドを刊行。今回は現代思想や哲学を援用して精緻(せいち)に分析し、「(自分は)日本語ラップだけでも十分に楽しめる環境があった世代。それだけ豊かな歴史を持つ文化を論じたいと思ってきた」と語る。ヒップホップに触発された中村の深い愛情と情熱に貫かれた一冊でもある。
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