2026年7月5日日曜日

ファーティマ・ハトゥン #天幕のジャードゥーガル

 


「天幕のジャードゥーガル」作者が語る 歴史漫画創作は思考の遊び:朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASV730VH3V73UCVL03PM.html



ファーティマを主人公にした理由

 ――主人公はモンゴル帝国を恨む元奴隷の侍女ファーティマで、第2代皇帝の第6妃ドレゲネと手を組んで帝国の崩壊をもくろみます。歴史ファンでも知らない人の多いファーティマを、なぜ主人公にしたのでしょうか。

 最初は、ドレゲネを主人公にしようと思っていました。彼女が一国の命運を左右する存在になった理由は想像の余地があるから、面白くなりそうだなと。

 けれど、ドレゲネはお姫様な…


https://x.com/ascom0/status/2073801836864155658?s=61


TVアニメ『天幕のジャードゥーガル』放送開始記念!星降る夜に語り尽くそうスペシャル 完全版!|2026年7月4日(土)初回2話連続1時間スペシャル! https://youtu.be/1PD6citv3ro?si=AlmxiOQhISpBSdS3 @YouTubeより


https://youtu.be/1PD6citv3ro?si=LfpdRSrwdpMSIxG4



https://x.com/sciencesaru/status/2073421575500730843?s=61



https://x.com/tsoup2/status/2073421483347759410?s=61


『天幕のジャードゥーガル』出発地であるトゥースでの生活の映像化は、イスラム美術をご専門とされる桝屋友子先生に監修していただきました。桝屋先生無くしてはできなかった素晴らしい映像だったと思います。心から先生に感謝を申し上げます。


すぐわかるイスラームの美術 建築・写本芸術・工芸 

https://x.com/tsoup2/status/1923006477423325638?s=61




最近読んでいる本

桝屋友子先生のイスラーム美術の本、知らなかったことが沢山あって、面白いやら焦るやらです。

『すぐわかるイスラームの美術』は図も豊富で本当にすぐわかる(私の認識が間違っていたことが…)

読み終わったら『イスラームの写本絵画』の方へ進むぞ…!


https://youtu.be/TCRs99bTP1s?si=rsoSWrY3XrSQESYI


https://youtu.be/w7BxptEtLuo?si=NIyl15JLZ9RjqTyf


https://youtu.be/NOrKCtUv9KU?si=gkmIp7D1xMfKJUW9



https://x.com/vvifdtjjwpfhg9f/status/2073424574268788824?s=61


モンゴルの歴史に沿ったアニメだとしたらシタラ=ファーティマ・ハトゥン


かなり残酷な結末がほぼ確定してる

歴史ものはすでに最終回が決まっているようなもので、そこにたどり着くまでに何があったのかは紡ぐ人によって異なるのでそこに期待したいね


#天幕のジャードゥーガル


ファーティマ・ハトゥンペルシア語: Fāṭima khātūn中国語: 法提玛、生没年:? - 1246年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えたマシュハド出身の女性。モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ・カアン没後に皇后ドレゲネの側近として活躍したが、後に失脚し「呪術使い」として凄惨な処刑を受けたことで知られる。ファティマ・ハトンとも。

生涯

生い立ち

チンギス・カンのホラズム遠征

ファーティマ・ハトゥンの事蹟については、ファーティマと同じくホラーサーン地方の出身であるアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの著作『世界征服者の歴史』に詳しく、「ファーティマ・ハトゥンに関する事件/ماجرای فاطمه خاتون」という独立した章が設けられている[1][2]

『世界征服者史』によると、ファーティマはモンゴル軍がホラーサーンに侵攻しマシュハドのイマーム・レザー廟英語版が占領された際にモンゴル軍の捕虜になったという[1][2][3]。捕虜となったファーティマはモンゴル帝国の首都カラコルムに連れてこられ、売春に携わった[注釈 1]。カラコルムにおいてファーティマは持ち前の抜け目のなさと狡猾さで第2代皇帝オゴデイの皇后の一人のドレゲネに取り立てられ、オゴデイの治世の間にドレゲネの側近にまで成り上がった[1][2]。ジュヴァイニーはファーティマの狡猾さを『旧約聖書』のデリラに擬えている[1][2]

ドレゲネ称制期

ドレゲネ称制期に発行されたコイン

1241年にオゴデイ・カアンが崩御したとき、モンゴル帝国の慣例では正皇后が次期皇帝の選出まで国政を取り仕切る事になっていたが、第一皇后のボラクチン・ハトゥンは既に亡く、第二皇后のモゲ・ハトゥンもオゴデイの後を追うように亡くなったことから、第六皇后に過ぎなかったドレゲネが次期皇帝の選出まで国政を握ることになった(中国史上の文脈ではこの期間を「六皇后/ドレゲネ称制期」と呼ぶ)[5][6][7][8]。『集史』「グユク・カン紀」によるとドレゲネは当初オゴデイ・カアン期のまま大臣・総督の地位を留めたが、チンカイを初めとする一部の大臣にはかつて憤慨するような対応を受けたことから報復を企んでいた[6][7][8]。この時、ドレゲネを助けたのがファーティマであり、ファーティマの助言によってチンカイらオゴデイ・カアン期の高官たちの多くが地位を失ったという[6][7][8]

また、同じく『集史』「グユク・カン紀」によるとファーティマはヒタイ地方(旧金朝領華北のモンゴル語呼称)の総督マフムード・ヤラワチに対して以前から敵意を抱いており、ヤラワチを罷免して代わりにアブドゥッラフマーンヒタイ(漢地)総督の後任として指名した[6][7][8][9]。この時期、ヤラワチが失脚してアブドゥッラフマーンが台頭したことは漢文史料の側にも記録されている[注釈 2]。ファーティマは更にオカル・コルチ(Oqal qorči>ūqāl qūrchī/اوقال قورچی)なる人物を使者(イルチ)として派遣しヤラワチとその家臣を捕らえようとしたが、ヤラワチは敢えて堂々と使者を迎えて宴を催し、宴の裏で逃亡の準備を行い3日目に使者の目をかいくぐって逃れることに成功した[6][7][8]

チンカイやヤラワチら、ドレゲネとファーティマによってそれまでの地位を逐われた高官達の多くはオゴデイの息子の一人で四川チベット方面の侵攻を担当していたコデンの下に逃れた[6][7][8]。ヤラワチを取り逃したオカル・コルチはコデンの下を訪れヤラワチの身柄を引き渡すよう要求したがコデンはこれを拒否して、次代の皇帝(カアン)を決めるクリルタイに彼等を連れて行き、一族や高官たちの立ち会いの下彼等の罪を明らかにすると答えた[6][7][8]。このような状勢を知ったヤラワチの息子でトルキスタン総督府に仕えるマスウード・ベクも同様にジョチ・ウルスバトゥの下に逃れた[3][6][7][8]。また、同時期にイラン総督府の総督コルグズチャガタイ・ウルスとの確執が元で審理を受けたが、政敵であるシャラフ・ウッディーンがファーティマに取り入ったために失脚・処刑されたと記されており[6][7][8][10]、モンゴル帝国の三大属領(ヒタイ/漢地、トルキスタン、イラン)全ての高官がドレゲネおよびファーティマの報復人事の影響を受けることになった[3]

失脚

生前のオゴデイは息子達の中でも正妻から生まれたクチュコデンらを厚遇していたが、特にクチュの早世後はその子のシレムンを自らの後継者とするよう扱っていた。しかし、国政を握ったドレゲネは自らの息子でオゴデイにとっては庶長子にあたるグユクを次代の皇帝にすべく工作を行った[11]。ジョチ・ウルスのバトゥを筆頭として先代皇帝の庶長子に過ぎないグユクの即位に対しては強烈な反対が寄せられ、カアンを決める統一クリルタイがなかなか開かれなかったためにドレゲネ称制期は5年にもおよんだが、1246年に遂にグユクは第3代皇帝として即位を果たした[12]

グユクが即位を果たしたころ、その側近であるカダクに仕えるアラヴィー・サマルカンディー・シラなる人物が「ファーティマがコデンに呪いをかけている」と告発した[1][2][13][14]。コデン自身もグユクに使者を派遣して自らの体調が悪化しているのはファーティマの呪術の結果であると訴え出て、もし自身が死んだらファーティマに対して仇を取るよう伝えたという[1][2][14][注釈 3]。その後、コデンが亡くなるとグユクの下で復権したチンカイの勧めもあり、グユクはファーティマを差し出すようドレゲネに使者を派遣した[1][2][13][14]

『世界征服者史』によると、ドレゲネは当初「自分でファーティマを連れて行く」と言って身柄を差し出すことを拒否したため、ドレゲネとグユクの仲は悪化したが、グユクの強硬な態度の前に抗弁を諦め遂にファーティマを差し出した[1][2]。グユクの下に連れてこられたファーティマは裸で拘束され、空腹と喉の渇きに耐えながら凄惨な拷問を受け、遂に自らの罪を自白した[1][2]。最終的にファーティマは身体の上下にある穴という穴を縫い合わされ、フェルトにくるまれて河に投げ捨てられるという処刑を受けた[1][2][13][14]

『世界征服者史』はファーティマの罪状を明らかにするためにマシュハドまで使者が派遣され、ファーティマの関係者は弾圧を受けたと記している[1][2]。遠い生まれ故郷での調査や苛烈な拷問による自白を必要としたことは、ファーティマが「呪術を行った」という罪状の証拠が乏しかったことを示唆しており、この事件の本質は「呪術使いの処刑」ではなく「モンゴル宮廷内の派閥争い」にあったと考えられる[16]。実際に、ファーティマの推挙によって取り立てられたアブドゥッラフマーンは同時期に処刑されており、ファーティマの処刑を切っ掛けとするグユク即位直後の粛正が存在していたことが指摘されている[17]

なお、『集史』「グユク・カン紀」には即位したグユクが最初に手がけた裁判案件が「ファーティマ・ハトゥンの尋問」であって、ついで「テムゲ・オッチギンの帝位簒奪未遂」の尋問が行われたと記されている[6][7][8][18]。これは、「ファーティマ・ハトゥンの尋問」がファーティマ個人への追究というよりはモンゴル帝国内の派閥争いの制裁という側面を有しており[19]、「チンギス・カン一族(アルタン・ウルク)の内紛」以上に政治的に重要であるとみなされていたことを示唆する[20]

モンゴル帝国と魔術

モンゴル人が魔術/呪術の行使に対して強い警戒感を有していたことは、ファーティマ・ハトゥンと同時代にモンゴル高原を訪れたプラノ・カルピニらの報告にも示されている。

[モンゴル人は]占い・前兆・腸占い・魔術・妖術を大いに用い、悪魔が答えている時、神が語っているのだと信じる。…中略…また簡単に言うと、火によって全て清められると信じる。だから、君主であれ誰であれ使者が彼等のもとにやって来ると、その者と携えている贈り物を、二つの火の間を通させる。これは、浄めるためと、毒か何か携えてきた悪いもので魔術を行使しないようにするためである。プラノ・カルピニ、『モンガル人の歴史』第3章[21]

この記述にはキリスト教徒としてのカルピニの偏見が含まれているものの、13世紀のモンゴル人が毒物などによる暗殺と魔術による呪殺を明確に区別せずに警戒していたことが窺える。このようなモンゴル人の魔術に対する忌避感が、ファーティマ・ハトゥンへの凄惨な処刑に反映されたのではないかと指摘されている[22]

ファーティマ・ハトゥンを扱った作品

脚注

注釈

  1.  原文はدر بازار قراقورم دلال محبت شد[4]。ボイルの英訳ではIt so chanced that she came to Qara-Qorum, where she was a procuress in the marketと訳される(Boyle 1958,pp.244-245)。
  2.  漢文史料上では、アブドゥッラフマーンについて後の包銀制につながる新税制を導入したことが諸史料に記録されている。ただし、漢文史料上ではいつごろアブドゥッラフマーンがヤラワチに取って代わったのか明記されず、漠然とオゴデイの治世末期からグユク即位のころまでであることが読み取れるくらいである。安部健夫はヤラワチの失脚をオゴデイの治世末期のこととする那珂通世説を退けてオゴデイ没後にアブドゥッラフマーンとの政争に敗れて失脚したとする『新元史』の記述に従うべきであると考察したが、結果的に安部説はペルシア語史料の記述とも合致する。
  3.  なお、後世のモンゴル年代記では「コデンが病に罹ったとき、チベット仏教僧のサキャ・パンディタがこれを治したため、両者は施主・帰依処関係を結んだ」との伝承が記される。この伝承がそのまま史実とは考えにくいが、この伝承の元となったの『世界征服者史』が語るようにグユク即位直後にコデンが病にかかったことにあるとみられる。なお、『蒙古源流』はサキャ・パンティタがコデンを治した歳を1247年丁未)としているが、これはグユク即位の翌年のことであり、グユク即位後にファーティマの呪詛によってコデンが体調を崩したとする『世界征服者史』の記述と合致する[15]

出典

  1.  Kabīr 1378, pp. 167–168.
  2.  Boyle 1958, pp. 244–247.
  3.  佐口 1968, p. 218.
  4.  Kabīr 1378, p. 167.
  5.  佐口 1968, pp. 214–215.
  6.  Rawshan 1373, pp. 799–800.
  7.  Thackston 2012, pp. 276–277.
  8.  余大鈞・周建奇 1985, pp. 209–211.
  9.  佐口 1968, p. 215.
  10.  本田 1991, p. 113.
  11.  佐口 1968, p. 214.
  12.  佐口 1968, pp. 221–222.
  13.  佐口 1968, p. 256.
  14.  志茂 2021, pp. 548–549.
  15.  周, 2001 & p-347.
  16.  Golev 2017, p. 142.
  17.  Golev 2017, p. 143.
  18.  志茂 2021, pp. 552–553.
  19.  Golev 2017, p. 140.
  20.  Golev 2017, pp. 141–142.
  21.  高田 2019, pp. 42–43.
  22.  Golev 2017, p. 134.

参考資料

書籍

  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』 2巻、佐口透訳注、平凡社〈東洋文庫128〉、1968年12月。ISBN 4582801285
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年1月1日。ISBN 978-4130261005
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡<上>』講談社〈講談社現代新書 1306〉、1996年5月20日。ISBN 978-4061493063
  • 高田英樹『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年2月8日。ISBN 978-4815809362
  • 志茂碩敏、志茂智子『モンゴル帝国史研究 完篇:中央ユーラシア遊牧諸政権の国家構造』東京大学出版会、2021年3月6日。ISBN 978-4130210850
  • 周清樹 (2001). 元蒙史札. 内蒙古大学出版社

論文

  • Konstantin Golev, Witchcraft and Politics in the Court of the Great Khan: Interregnum Crises and Inter-factional Struggles among the Mongol Imperial Elite. The Case of Fāṭima Khatun Annual of medieval studiesat ceu VOL. 23 2017
  • ジュヴァイニー『世界征服者史』(Tārīkh-i Jahān-gushāy
    • (校訂本) Muʾassasah-ʾi Intishārāt-i Amīr Kabīr,Tahrīr novīn Tārīkh-i Jahān-gushāy Juvainī , Tihrān 1378 [1999 or 2000]
    • (英訳) John Andrew Boyle (tr.), The History of the World-Conqueror, 2 vols., Manchester 1958
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B3

ファーティマ・ハトゥン

ドレゲネ称制期

1241年にオゴデイ・カアンが崩御したとき、モンゴル帝国の慣例では正皇后が次期皇帝の選出まで国政を取り仕切る事になっていたが、第一皇后のボラクチン・ハトゥンは既に亡く、第二皇后のモゲ・ハトゥンもオゴデイの後を追うように亡くなったことから、第六皇后に過ぎなかったドレゲネが次期皇帝の選出まで国政を握ることになった(中国史上の文脈ではこの期間を「六皇后/ドレゲネ称制期」と呼ぶ)[5][6][7][8]。『集史』「グユク・カン紀」によるとドレゲネは当初オゴデイ・カアン期のまま大臣・総督の地位を留めたが、チンカイを初めとする一部の大臣にはかつて憤慨するような対応を受けたことから報復を企んでいた[6][7][8]。この時、ドレゲネを助けたのがファーティマであり、ファーティマの助言によってチンカイらオゴデイ・カアン期の高官たちの多くが地位を失ったという[6][7][8]

また、同じく『集史』「グユク・カン紀」によるとファーティマはヒタイ地方(旧金朝領華北のモンゴル語呼称)の総督マフムード・ヤラワチに対して以前から敵意を抱いており、ヤラワチを罷免して代わりにアブドゥッラフマーンヒタイ(漢地)総督の後任として指名した[6][7][8][9]。この時期、ヤラワチが失脚してアブドゥッラフマーンが台頭したことは漢文史料の側にも記録されている[注釈 2]。ファーティマは更にオカル・コルチ(Oqal qorči>ūqāl qūrchī/اوقال قورچی)なる人物を使者(イルチ)として派遣しヤラワチとその家臣を捕らえようとしたが、ヤラワチは敢えて堂々と使者を迎えて宴を催し、宴の裏で逃亡の準備を行い3日目に使者の目をかいくぐって逃れることに成功した[6][7][8]

チンカイやヤラワチら、ドレゲネとファーティマによってそれまでの地位を逐われた高官達の多くはオゴデイの息子の一人で四川チベット方面の侵攻を担当していたコデンの下に逃れた[6][7][8]。ヤラワチを取り逃したオカル・コルチはコデンの下を訪れヤラワチの身柄を引き渡すよう要求したがコデンはこれを拒否して、次代の皇帝(カアン)を決めるクリルタイに彼等を連れて行き、一族や高官たちの立ち会いの下彼等の罪を明らかにすると答えた[6][7][8]。このような状勢を知ったヤラワチの息子でトルキスタン総督府に仕えるマスウード・ベクも同様にジョチ・ウルスバトゥの下に逃れた[3][6][7][8]。また、同時期にイラン総督府の総督コルグズチャガタイ・ウルスとの確執が元で審理を受けたが、政敵であるシャラフ・ウッディーンがファーティマに取り入ったために失脚・処刑されたと記されており[6][7][8][10]、モンゴル帝国の三大属領(ヒタイ/漢地、トルキスタン、イラン)全ての高官がドレゲネおよびファーティマの報復人事の影響を受けることになった[3]

失脚

生前のオゴデイは息子達の中でも正妻から生まれたクチュコデンらを厚遇していたが、特にクチュの早世後はその子のシレムンを自らの後継者とするよう扱っていた。しかし、国政を握ったドレゲネは自らの息子でオゴデイにとっては庶長子にあたるグユクを次代の皇帝にすべく工作を行った[11]。ジョチ・ウルスのバトゥを筆頭として先代皇帝の庶長子に過ぎないグユクの即位に対しては強烈な反対が寄せられ、カアンを決める統一クリルタイがなかなか開かれなかったためにドレゲネ称制期は5年にもおよんだが、1246年に遂にグユクは第3代皇帝として即位を果たした[12]

グユクが即位を果たしたころ、その側近であるカダクに仕えるアラヴィー・サマルカンディー・シラなる人物が「ファーティマがコデンに呪いをかけている」と告発した[1][2][13][14]。コデン自身もグユクに使者を派遣して自らの体調が悪化しているのはファーティマの呪術の結果であると訴え出て、もし自身が死んだらファーティマに対して仇を取るよう伝えたという[1][2][14][注釈 3]。その後、コデンが亡くなるとグユクの下で復権したチンカイの勧めもあり、グユクはファーティマを差し出すようドレゲネに使者を派遣した[1][2][13][14]

『世界征服者史』によると、ドレゲネは当初「自分でファーティマを連れて行く」と言って身柄を差し出すことを拒否したため、ドレゲネとグユクの仲は悪化したが、グユクの強硬な態度の前に抗弁を諦め遂にファーティマを差し出した[1][2]。グユクの下に連れてこられたファーティマは裸で拘束され、空腹と喉の渇きに耐えながら凄惨な拷問を受け、遂に自らの罪を自白した[1][2]。最終的にファーティマは身体の上下にある穴という穴を縫い合わされ、フェルトにくるまれて河に投げ捨てられるという処刑を受けた[1][2][13][14]

『世界征服者史』はファーティマの罪状を明らかにするためにマシュハドまで使者が派遣され、ファーティマの関係者は弾圧を受けたと記している[1][2]。遠い生まれ故郷での調査や苛烈な拷問による自白を必要としたことは、ファーティマが「呪術を行った」という罪状の証拠が乏しかったことを示唆しており、この事件の本質は「呪術使いの処刑」ではなく「モンゴル宮廷内の派閥争い」にあったと考えられる[16]。実際に、ファーティマの推挙によって取り立てられたアブドゥッラフマーンは同時期に処刑されており、ファーティマの処刑を切っ掛けとするグユク即位直後の粛正が存在していたことが指摘されている[17]

なお、『集史』「グユク・カン紀」には即位したグユクが最初に手がけた裁判案件が「ファーティマ・ハトゥンの尋問」であって、ついで「テムゲ・オッチギンの帝位簒奪未遂」の尋問が行われたと記されている[6][7][8][18]。これは、「ファーティマ・ハトゥンの尋問」がファーティマ個人への追究というよりはモンゴル帝国内の派閥争いの制裁という側面を有しており[19]、「チンギス・カン一族(アルタン・ウルク)の内紛」以上に政治的に重要であるとみなされていたことを示唆する[20]


女性摂政を支えたファティマという女──はたして悪女だったのか?(楊 海英) - 2ページ目 | 現代新書 | 講談社
https://gendai.media/articles/-/133660?page=2

女性摂政を支えたファティマという女──はたして悪女だったのか?

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ファティマ

トゥレゲネ・ガトンにはおそらくふつうの男には想像できないほどの孤独感があっただろう。チンギス・ハーンの母親ウゲルンや第一夫人ボルテ后とはちがい、東方の有力部族コンギラート部のような実家が彼女にはない。

孤独なトゥレゲネ・ガトンはひとりの女性に胸襟を開き、万事相談するようになった。ファティマである。

ファティマはイスラームのシーア派的背景を持つ女性である、と歴史学者の杉山正明は述べている(『モンゴル帝国の興亡』上巻、1996 )。預言者ムハンマドの娘の名で、その夫はアリーである。アリーの子孫だけをイスラームの正統的な指導者と見なすのが、シーア派である。十二イマーム派やイスマーイール派などである。なかでもとくにイスマーイール派は10世紀にエジプトでファティマ朝を打ち立てた。その名も預言者の娘に因んだ歴史観のあらわれである。

13世紀にモンゴルが勃興したとき、イランの地にもシーア派は絶大な権力と影響力を保持していた。ハラ・ホリムのファティマはサマルカンド出身で、アリーの後裔を自称していたシャラという人物と親しかったと伝えられていることから、あらためてシーア派的な色彩を帯びた人物だと推測できよう。

ジュヴァイニによると、ファティマはアリ・アル・リザのモスクが陥落した際に捕虜としてハラ・ホリムに連れてこられた、という。『集史』は彼女をホラズム帝国のトスという都市の出身だと伝えている。ある研究者は、チンギス・ハーンが中央アジアのマシュハードを落としたときに捕虜となり、孤り身でハラ・ホリムまで連れてこられた、としている。最初はムスリムたちの市場で生計を立てていたが、トゥレゲネ・ガトンに見初められて側近となり、宮廷オルド内で活躍した人物となった。

ジュヴァイニがファティマをガトンすなわち妃と呼んでいることから見れば、トゥレゲネ・ガトンの側近中の側近に昇進していたことがわかる。モンゴルでは、ガトンとはもっぱら黄金家族の正夫人にのみ用いられていた尊称だとされていたからである。一方、テュルク系集団内では、ガトンは「貴婦人」の意味でも使われる。したがって、ファティマは独身をとおしたらしいが、ガトンと呼ばれるほど権勢を振るっていたのはまちがいない。彼女はトゥレゲネ・ガトンに助言をし、帝国の人事と税制、それに外交関係に積極的にかかわっていたのである。

では、ファティマとトゥレゲネ・ガトンは何語で意思疎通していたのだろうか。テュルク系のナイマン部出身のトゥレゲネ・ガトンは当然、テュルク語ができたはずである。ファティマはペルシャ人かテュルク系かは不明であるが、中央ユーラシアには古くから多民族が混住しており、たいていの人びとは複数の言語を同時に操る。ファティマも例外ではないはずである。

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増税で各方面の恨みを買う

有力者たちが征西軍、征南軍としてヨーロッパ方面や対南宋の作戦中だったために、帝国の財政も苦しかった。オゴダイ・ハーンのように豪奢な宴会を毎日のように開き、惜しみなく金銀財宝を配る時代は去ったのである。

人口統計を綿密に作成し、増税しかない、とトゥレゲネ・ガトンは命じた。当然、既得権益を有する諸王家と大臣たちは喜ばない。となると、自身の政治的意向に沿った人物たちを抜擢ばってきし、重用するほかに選択肢はない。ファティマは少なくとも2人のシーア派のムスリムを中央アジアのマーザンダラン地域の役人として派遣していた、とジュヴァイニは聞いていた。新しい大ハーンがまだ選出されていない非常時であるとはいえ、孤独な女性2人の行動は当然、各方面の恨みを買った。

無惨な最期

1246年の冬か翌1247年の早春に、トゥレゲネ・ガトンは亡くなった。息子が大ハーンに選出され、それ以降も世襲されることになったことで、彼女は安心していたはずである。

「彼女がもし、20歳前後にオゴダイと結婚しているならば、亡くなったときは63歳だったのだろう」と中国の歴史学者さいひょうは推算している。

トゥレゲネ・ガトンの死去により、ファティマは後ろ盾を完全に失った。

あろうことか、「シーア派の信徒であるシャラという、アルコール依存症の男が彼女を誹謗中傷した」とある記録は記す。ファティマは逮捕され、拷問にかけられた。最後に目と口を縫われ、フェルトに包まれてから河に沈められた。フェルトに包んで処刑するのは、貴人に対する扱いかたである。

ファティマにはまた先代の大ハーン、オゴダイに毒を盛ったとの嫌疑もかけられていたという。酒色に深く沈溺して政治に無関心となった夫を見限ったトゥレゲネ・ガトンが侍女のファティマを使って毒を盛ったという悪意の噂が広がっていたらしい。

かわいそうなファティマ。どんな嫌疑をかけられても、彼女は孤立無援だった。

モンゴル帝国時代には無数の女性たちが活躍していたが、私はなぜか、ファティマの存在が誰よりも気になる。

男たちの活躍を前面に押し出し、モンゴル人女性たちの登場を必要最小限に抑えようとする東西の年代記作家たちはファティマにはやさしくない。彼女を巫女、悪人、権謀術数家として仕立て上げている。しかし、私からすれば、彼女こそ、激動のユーラシアを生きた、典型的な女性である。

彼女はたしかに権力と人間関係、それに金銭など、利用できるものはすべて利用した。ときに大胆に、ときにはまた冷徹に動いた。帝都ハラ・ホリムを舞台とした無数の男たちのなかで、彼女の謀略までもが美しく、耀いてみえる。

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https://gendai.media/articles/-/133660?page=3

女性摂政を支えたファティマという女──はたして悪女だったのか?

増税で各方面の恨みを買う

有力者たちが征西軍、征南軍としてヨーロッパ方面や対南宋の作戦中だったために、帝国の財政も苦しかった。オゴダイ・ハーンのように豪奢な宴会を毎日のように開き、惜しみなく金銀財宝を配る時代は去ったのである。

人口統計を綿密に作成し、増税しかない、とトゥレゲネ・ガトンは命じた。当然、既得権益を有する諸王家と大臣たちは喜ばない。となると、自身の政治的意向に沿った人物たちを抜擢ばってきし、重用するほかに選択肢はない。ファティマは少なくとも2人のシーア派のムスリムを中央アジアのマーザンダラン地域の役人として派遣していた、とジュヴァイニは聞いていた。新しい大ハーンがまだ選出されていない非常時であるとはいえ、孤独な女性2人の行動は当然、各方面の恨みを買った。

無惨な最期

1246年の冬か翌1247年の早春に、トゥレゲネ・ガトンは亡くなった。息子が大ハーンに選出され、それ以降も世襲されることになったことで、彼女は安心していたはずである。

「彼女がもし、20歳前後にオゴダイと結婚しているならば、亡くなったときは63歳だったのだろう」と中国の歴史学者さいひょうは推算している。

トゥレゲネ・ガトンの死去により、ファティマは後ろ盾を完全に失った。

あろうことか、「シーア派の信徒であるシャラという、アルコール依存症の男が彼女を誹謗中傷した」とある記録は記す。ファティマは逮捕され、拷問にかけられた。最後に目と口を縫われ、フェルトに包まれてから河に沈められた。フェルトに包んで処刑するのは、貴人に対する扱いかたである。

ファティマにはまた先代の大ハーン、オゴダイに毒を盛ったとの嫌疑もかけられていたという。酒色に深く沈溺して政治に無関心となった夫を見限ったトゥレゲネ・ガトンが侍女のファティマを使って毒を盛ったという悪意の噂が広がっていたらしい。

かわいそうなファティマ。どんな嫌疑をかけられても、彼女は孤立無援だった。

モンゴル帝国時代には無数の女性たちが活躍していたが、私はなぜか、ファティマの存在が誰よりも気になる。

男たちの活躍を前面に押し出し、モンゴル人女性たちの登場を必要最小限に抑えようとする東西の年代記作家たちはファティマにはやさしくない。彼女を巫女、悪人、権謀術数家として仕立て上げている。しかし、私からすれば、彼女こそ、激動のユーラシアを生きた、典型的な女性である。

彼女はたしかに権力と人間関係、それに金銭など、利用できるものはすべて利用した。ときに大胆に、ときにはまた冷徹に動いた。帝都ハラ・ホリムを舞台とした無数の男たちのなかで、彼女の謀略までもが美しく、耀いてみえる。

#7
ファティマ 
 孤独なトゥレゲネ・ガトンはひとりの女性に胸襟を開き、万事相談するようになった。ファティマである。  ファティマはイスラームのシーア派的背景を持つ女性である、と歴史学者の杉山正明は述べている(一九九六 上)。預言者ムハンマドの娘の名で、その夫はアリーである。アリーの子孫だけをイスラームの正統的な指導者と見なすのが、シーア派である。十二イマーム派やイスマーイール派などである。なかでもとくにイスマーイール派は十世紀にエジプトでファティマ朝を打ち立てた。その名も預言者の娘に因んだ歴史観のあらわれである。  十三世紀にモンゴルが勃興したとき、イランの地にもシーア派は絶大な権力と影響力を保持していた。ハラ・ホリムのファティマはサマルカンド出身で、アリーの後裔を自称していたシャラという人物と親しかったと伝えられていることから、あらためてシーア派的な色彩を帯びた人物だと推測できよう。  ジュヴァイニによると、ファティマはアリ・アル・リザのモスクが陥落した際に捕虜としてハラ・ホリムに連れてこられた、という。『集史』は彼女をホラズム帝国のトスという都市の出身だと伝えている。ある研究者は、チンギス・ハーンが中央アジアのマシュハードを落としたときに捕虜となり、孤り身でハラ・ホリムまで連れてこられた、としている。最初はムスリムたちの市場で生計を立てていたが、トゥレゲネ・ガトンに見初められて側近となり、宮廷オルド内で活躍した人物となった(De Nicola 2017)。

 ジュヴァイニがファティマをガトンすなわち妃と呼んでいることから見れば、トゥレゲネ・ガトンの側近中の側近に昇進していたことがわかる。モンゴルでは、ガトンとはもっぱら黄金家族の正夫人にのみ用いられていた尊称だとされていたからである。一方、テュルク系集団内では、ガトンは「貴婦人」の意味でも使われる。したがって、ファティマは独身をとおしたらしいが、ガトンと呼ばれるほど権勢を振るっていたのはまちがいない。彼女はトゥレゲネ・ガトンに助言をし、帝国の人事と税制、それに外交関係に積極的にかかわっていたのである。
  では、ファティマとトゥレゲネ・ガトンは何語で意思疎通していたのだろうか。テュルク系のナイマン部出身のトゥレゲネ・ガトンは当然、テュルク語ができたはずである。ファティマはペルシャ人かテュルク系かは不明であるが、中央ユーラシアには古くから多民族が混住しており、たいていの人びとは複数の言語を同時に操る。ファティマも例外ではないはずである。



無惨な最期
  その年の冬か翌一二四七年の早春に、トゥレゲネ・ガトンは亡くなった。息子が大ハーンに選出され、それ以降も世襲されることになったことで、彼女は安心していたはずである。 「彼女がもし、二十歳前後にオゴダイと結婚しているならば、亡くなったときは六十三歳だったのだろう」と中国の歴史学者蔡美彪は推算している(一九八九)。トゥレゲネ・ガトンとファティマが世界のハラ・ホリムでどのように政治を動かしていたか、第1章で触れたジョージア出身の貴族の女性タムタも見ていたはずである。  トゥレゲネ・ガトンの死去により、ファティマは後ろ盾を完全に失った。 
 あろうことか、「シーア派の信徒であるシャラという、アルコール依存症の男が彼女を誹謗中傷した」とジュヴァイニは聞いている。ファティマが呪いをかけていたために、王子コデンの病気が悪化した、との流言蜚語である。
  復権した鎮海も新帝グユクにファティマへの不満を口にした。どうやらグユクも自身と母親のあいだに立つファティマを快く思っていなかったらしい。グユクはファティマを尋問し、拷問にかけた。  ファティマは最後に目と口を縫われ、フェルトに包まれてから河に沈められた。フェルトに包んで処刑するのは、貴人に対する扱いかたである。 
 カルピニによると、ファティマにはまた先代の大ハーン、オゴダイに毒を盛ったとの嫌疑もかけられていたという。酒色に深く沈溺して政治に無関心となった夫を見限ったトゥレゲネ・ガトンが侍女のファティマを使って毒を盛ったという悪意の噂が広がっていたらしい。

 かわいそうなファティマ。どんな嫌疑をかけられても、彼女は孤立無援だった。
  グユク・ハーンの死後、エメールに住むアリー・ホジャがシャラを誣告の罪で訴え、受理された。シャラとその一族は処罰を受けた。登場人物たちの名前から判断して、事の真相はシーア派の内紛のように見えてしかたない。それを利用する者たちがいたのである。  モンゴル帝国時代には無数の女性たちが活躍していたが、私はなぜか、ファティマの存在が誰よりも気になる。
  男たちの活躍を前面に押し出し、モンゴル人女性たちの登場を必要最小限に抑えようとする東西の年代記作家たちはファティマにはやさしくない。彼女を巫女、悪人、権謀術数家として仕立て上げている。しかし、私からすれば、彼女こそ、激動のユーラシアを生きた、典型的な女性である。  
 彼女はたしかに権力と人間関係、それに金銭など、利用できるものはすべて利用した。ときに大胆に、ときにはまた冷徹に動いた。ハラ・ホリムを舞台とした無数の男たちのなかで、彼女の謀略までもが美しく、耀いてみえる。  
 次章においては、末子トロイの未亡人が主役になる。

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ファーティマ・ハトゥン #天幕のジャードゥーガル

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