2026年7月9日木曜日

【濱口竜介×伊藤亜紗対談】体と居場所と物語(濱口 竜介,伊藤 亜紗) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社

【濱口竜介×伊藤亜紗対談】体と居場所と物語(濱口 竜介,伊藤 亜紗) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社

【濱口竜介×伊藤亜紗対談】体と居場所と物語

美学者の伊藤亜紗さんと、映画監督の濱口竜介さんは大学の同級生。

「この異常な読みやすさっていうのは、一体何なんだろう? AIっぽいな」伊藤さんの『体の居場所をつくる』(朝日出版社)を読んでそう感じた濱口さんが、伊藤さんのインタビューでの聞き方、相づちをつぶさに見ながら制作過程を探ります。声の情報量と、声が変わっていくこと。筒抜けの体から伝わり、流れ込んでくるもの。生命力ある体がやってくる、映画の「場」のつくり方。病にすら居場所をつくろうとする人間ってすごい! 

新作映画『急に具合が悪くなる』の制作を終えたばかりの濱口さんと、「スプーンになりたい」伊藤さんのお話、ぜひお読みください。

(本記事は、2026年3月31日に代官山 蔦屋書店で行われたイベントの再録です)

「11人の永い回復」

伊藤:私と濱口さんは大学の同級生なんですよね。

濱口:そうですね。私は2003年卒業ですが、2000年から同じ美学芸術学専修課程で。

伊藤:再会したのは5年前ぐらい。

濱口:はい、たまにイベントでお会いしていますけど、かなり没交渉といえば没交渉な感じで、今日は久しぶりにお会いして。

伊藤:嬉しいです。事前の打ち合わせはしていないので真っ白なんですけど。濱口さんに『体の居場所をつくる』の帯文を寄せていただいて。あの……とてもまとめにくい本だと思うんですけれども、すごく的確に。

濱口:おや。

伊藤:大事にしていることをズバッと書いてくださって。「11人の永い回復」っていう言葉にめちゃくちゃ感動したんです。

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体の研究をしていくなかで、いろいろ抽象度を変えながら本を書いているんですね。この本は、私のライフワークみたいな仕事が形になったものですけれども、一番抽象度が低い。本当にお一人お一人の体の違いみたいなことと素直に向き合う。私の中では一番こう……悦びがあるんですよね。一人の体に深く向き合う、知っていくということが面白いし、嬉しい。学問以前の、もっと原初的な悦びのように感じます。ちょっとやばいのかなと思うくらいです。

濱口:あははは。ええ。

伊藤:なんとなくのテーマとして、体との関係修復ということ。体と一緒に生きていくことがそんなに簡単ではない状況に陥ったとき、でも体は悪者にできない、どっか行ってって言えない。すごい困った、こいつどうしようって、みなさんが試行錯誤して、なんとか体が、こうすれば一緒にいられるかもしれないっていう状況をつくる。その工夫を11人分集めたもので、それを「永い回復」と書いてくださったのがすごく嬉しくて。

濱口:まあでも確かに、どうコメントを書いたらいいんだ?っていうのは、ちょっと思ったんですよ。本当に面白いと思ったわけです。けれど一体それをどう言えばいいのかな、みたいなことを、年末年始に読みながらうんうん考えて、「永い回復」。結局それがこの本の姿勢なんじゃないかと。今日のトークがあるから本を読み直すじゃないですか。そうしたら、ああ、いいコメント書いたな……みたいな気持ちにね、なるんですよ。

伊藤:あははは。

濱口:それは自分で編み出したのではなくて、単純に、本当にこの本で為されていることを文章化できたという気がしていて。で、すっごい雑な感想を述べることから始めるんですが、その……伊藤さん、なんて文章がうまいんだろうっていうことを思ったんですよ。

何なんだ? この異常なまでの読みやすさは

濱口:私、年末年始疲れていて、本とか読むのほんとやだなって思いながら読み始めたのですが。

伊藤:ごめんなさい(笑)。

濱口:なんか、スルスルスルと読んでしまってですね。何なんだ? この異常な読みやすさってのは、一体何なんだろうなっていうことを思っていて。

この本は、伊藤さんがみなさんにインタビューをされて、そのインタビューは伊藤さんの個人のウェブにもアーカイブされていて、それを元にして、ある種語り直す。そういうものだと思いますが、今日は、どうやってここにたどり着くのかっていうのが聞けたら良いのかなと思って来ているんです。……さて、そう言われて、どう思います(笑)?

伊藤:ふふふふ。そうですねぇ……。文章に関しては、研究者になろうと思ったときから、意識的にめっちゃわかりやすく書こうと思っていて。特に身体の研究って、詩的で曖昧な表現が散りばめられた、なんとなく密教的な雰囲気の文体が多い印象だったんですよね。

もともと理系だということもあって、修飾の部分で煙に巻くのはオープンじゃない感じがして嫌だなと。プレーンな書き方をしようっていうのは、研究者になったときから決めていました。

濱口:でも、伊藤さんの文章は単にわかりやすいっていう域を超えてるということを、やっぱり思うんです。単純に誰でもわかるような平易な言葉で書かれている以上の何かがある。それが一体何なんだろうと。

どういうふうにやっているんだろうなと、読みながら自分なりに想像してみたんです。みなさんにインタビューをして、引っかかった言葉がある。それがある程度溜まっていって、そこに伊藤さんが今まで研究してきたことから、この部分はこれに対応するんじゃないかと、たとえばデリダが引用されたりする。

なんか、「この事象にこの言葉や概念をはめる」っていうことの滑らかさみたいなものが、もう本当に一つひとつ――デリダのことだって、別にそんなにわかりやすいものではないはずなんだけれども――こっちに入ってくるっていうのが何なのか。

そういうことを考えていたとき、暫定的にひとつの印象にたどり着いて。まあ、後で否定するんですけど、「なんかすげえAIっぽいな」っていうことを、まず思ったんですよ。

声に触発されて、思いついたことを返していく

濱口:まあ最近はAIが世の中に普及しておりますけれども、私もやっぱり使用してはいて、いろいろ訊いちゃったりするときに、「ああ、すごい最適解っぽいことを言われているなあ」みたいな気持ちになるわけです。なるほどね、こういうソースからこういう言葉を持ってくるのか、とか私の考えにはこのような盲点があったんですね、みたいなことを指摘されたりする。その感覚、非常に滑らかに最適な言葉が連ねられていく、それになんか似ている、とまず思いました。だけど違うんです。それは何なんだろうなと思ったときに、やっぱりそこに伊藤さんの体があるというか、抜き差しならなさみたいなものが宿っているのを感じているんだな、と。

取材対象の方と向かい合って、その人に聞いている。で、それが聞いている過程なのか、そのインタビューを文字起こししたものを読み直す過程なのかはわからないけれども、きっと、この本に選ばれなかったいろんな仮説があると思うんです。そのとき、その取材対象に対して、なんていうんですかね……、やっぱり何をしてもいいわけじゃないじゃないですか。聞かせてもらったことに対して。この人が話してくれたことに対して、この言葉ははめていいけど、この言葉ははめるにはふさわしくないという判断みたいなものがある。その人と向き合った時間があり、受け取った何かがあって、それに対して文章を書こうとする。そのとき、一番軸にあるのは、伊藤さんがその人の状況を「永い回復」として捉える姿勢だと思ったんですよね。

なかには明らかに、一般的な目線から言うと悪くなっている人もいるけれど、単にそのように書くことはしないし、そうではないようなものを書くための覚悟がある気がして。それが、この帯文を私に書かせたものじゃないかなという気がしているんです。

伊藤:ありがとうございます。そうですね……、えっと、まず、私はインタビューさせていただいた方のテープ起こしを元に原稿を書くわけですけれども、けっこうその方の声を聞いてるんですよね。

濱口:実際にその声を聞きながら。文字を単に読むんじゃなくて。

伊藤:そう。まず、音。声はめちゃくちゃ情報が多い。文字に書かれていない部分にも、ニュアンス的なものだったり逡巡みたいなものだったり、いろんな情報が声ってあるので、そこに思考が助けられているんです。

それって普通の会話と同じというか、今も濱口さんがお話しくださって、私、なに返そうって思ったときに、単に思いついてるだけなんですよね。こう解釈しようとか、論理的に説明するとこの概念だよねっていうふうに人に接するのってめちゃくちゃ失礼だなと思っていて。それはやりたくないんですよね、研究として。

濱口:うん。

伊藤:そうじゃなくて、ある意味自分の頭で考えないようにするというか、触発されて思いついたことを返している。そこがたぶんね、すごいAIっぽいんだと思う。私も自分の文章はけっこうAIっぽいなと思っていて。

濱口:ははは、ええ。

伊藤:触発されて、そのとき、そこにあったものを返しているみたいな、いい加減に見えるかもしれないけど、それが実は倫理的なんじゃないかなと思っているんです。「これが美学の方法論です」みたいなのを、杓子定規に相手に当てはめるようなことはしたくない。デリダとか引用してるけど、そのとき、デリダで論文を書いてる学生を指導してたとか。

濱口:あははは。単純に本当に物理的に概念が近くにある。脳の記憶の中でも近いところにあるものがフッと出てくる。

伊藤:そうですね(笑)、なんか元も子もないですが。どちらかというとお近づきになりたくて必死、みたいな感覚で。

今回の本に登場してくださる方って、私の素の体からは遠い方なんですね。特に摂食障害の方が最初に3人出てくるのですが、そういう方たちの、自分の体が自分じゃないような、物体みたいに感じるっていうことは、私自身のリアリティからはだいぶ遠いので。そういう、相当違う人をどうやって理解しよう、どうやったらお近づきになれるんだろうっていう必死さの中で、手元にあったものを、デリダを使ったらわかるかな、みたいにいろいろ試してる。そんな感じですかね。

針の穴を通すような「面白い」

濱口:私ね、伊藤さんの個人アーカイブ(Research | Asa Ito)で、元のインタビューを読んだりして……真面目でしょう(笑)。

伊藤:恐縮でございます。

濱口:それを読むと、伊藤さんの聞き方の特徴っていうんじゃないけど、なんか、「ああ面白い」っていう相づちがめちゃめちゃ多いんですよ。「それ面白いですね!」って弾むように言っているのとか、しみじみと「ああ、それ面白いですね」みたいな感じとか。

自分は、震災の津波の被害に遭った人たちのインタビューをしたことがあるので(「東北記録映画三部作」『なみのおと』『なみのこえ』(『気仙沼』編、『新地町』編)『うたうひと』)、なんていうのかな、やっぱり……明らかにすごくつらい思いをしている人とか、そういう人に対して、自分が一体どこまで何を言っていいのか、その境界っていうのは、ものすごい悩むわけですよね。で、少なくとも初対面で、面白いっていうことはやっぱり言えないわけですよ。でも、自分もその人たちが言ってくれることをとても面白いと思っていたし、ときには態度で示すこともしました。でも、自分は当事者ではないので、そうすることにはすごく恐れもあったし、常にできたわけでもない。なので、一体どういう関係性で、この面白いっていう相づちなのかを伊藤さんにも聞きたいと思いました。

で、たぶんこれだけインタビュー起こしをしていれば、自分がこんなにも「面白い」と言っていることにも気づいているはずだと(笑)。でもそれは、11人に対して繰り返されている。だから「面白い」はタブーの言葉ではないようだ、と。きっと伊藤さんは、自分が今、面白いと思っていることを相手に伝えたいんだろうなということを思いました。でもそこで、考えなしに使ってるはずもない。なんか、針の穴を通すような面白い、みたいなものがある気がしていて。

伊藤:ふふふ。

濱口:それって何なんですかね(笑)。

伊藤:そうですね、ふたつ答え方があると思うんですけど、ひとつは単純に本当に面白いと思っているから。私、最近、夫に「フリーレン」って呼ばれているんです。『葬送のフリーレン』というアニメで、1000年、2000年とか、めちゃめちゃ長く生きているエルフという存在がいて、人間と時間軸が違うわけです。そうすると、人間がこういうシチュエーションでこんなことを感じる、みたいなことが、ずれてるので、よくわからないから、いちいち新鮮なんです。私もちょっとそういう見方をしちゃってるみたいで。

たとえば「今日、大学の卒業式があって、学生が3人泣いてたよ」みたいなことを家で話すと、「またお前フリーレンだな」って言われるんですけど(笑)。なんか、一緒に悲しくなるよりも。

濱口:事象として。

伊藤:そう、人間って卒業式に泣くものなんだね、みたいな。ふふふ。

濱口:何年教師を……(笑)。

伊藤:そんなふうに観察しちゃう。たぶん元々の傾向だと思うんですけれども、そういうのが前提にあります。

ただ、それってすごく冷たいし、失礼なものだということもわかっているので気をつけなきゃいけないんですけど、研究とかインタビューの中では、少し意識的に使ってる部分もあります。

もうひとつは、体だから言えてるんだと思うんですよね。

濱口:うん。

伊藤:その人の人生で起こった出来事に対してだったら、たぶん言えないと思う。でも体っていうのは、ちょっと自分から切り離してテーブルの上に置ける。その人の体について一緒に話してて、「もう、ほんとしょうがないね」って、ちょっと諦めモードも入りつつ、距離を取れる存在っていうところがあると思うんです。

私の中では、インタビューをするとき、相手の人にも、そういうふうに、ちょっと距離を取って眺めてみた場合、ご自身の体はどう見えますか?って誘ってる部分もあります。

あとは、なんでしょうね……、たぶん、「大変だね」とか、「つらいね」ばっかり言われてると思うんです。

濱口:はい。どうしたらいいかわかんないような顔をしてしまう人をたくさん見てきているでしょうね。

伊藤:そうそう。なんかそれも飽き飽きしているだろうなとも思うので、違う接し方をしてみたほうが私と話した意味がある。研究者っていう、その肩書きに免じて、ちょっと観察モードで一緒に見てみようよ、みたいな。

「スプーンになりたい」

濱口:伊藤さんの聞き方で面白いなと思ったのは、全然誘導的ではない感じがしているところで。誘導的というのは、さっきご自分で言ったみたいに、こういう概念が既にあるとか、こういう病気に対する考え方が既にあるから、そこに対してこれってどうですかと差し出しているというより、まず、その人が、今、話したそうなこと、心に浮かんでいて、普段だったら、一人だったら、それ以上発展させないかもしれないけれど、なにか今、この人の中に浮かんだんだろうなというところに、ちょっと問いを置く、みたいなことがひとつ。

もうひとつは、たぶん本当に思いついたことだと思うんですよね。瞬発的に、あ、これはあの人の何かと似たところがあるかもしれないと思いつく。それは伊藤さん自身の関心の掘り下げみたいなときにある気がしていて、自分自身の関心と、相手が喋りたいことを喋らせるみたいなことのバランスが、すごくいい気がする。

そうは言っても、本当に自分にはわからないような苦労をしている人たちに対して、自分だったらけっこう体が強張ると思うんです。そういうことを聞くとき、どういうふうに振る舞ったらいいんだろうなって。伊藤さんはしなやかに、それこそ本当に何かいい居場所を見つけようとしてインタビューをされていて、そのプロセスが、そのまま文章にも反映されている印象がありますかね。

伊藤:ありがとうございます。そんなにインタビューのことを考えてくださると思ってなかった。すごく嬉しいです。

私が所属している大学(旧東京工業大学)が一昨年、東京医科歯科大学と統合したので、けっこうお医者さんの知り合いが増えまして。先週、嚥下のご専門の先生に、訪問看護に一緒に連れていってもらったんです。

濱口:はい、飲み込むの嚥下。

伊藤:嚥下って聞くと、喉だけ見ているような感じがするかもしれないですけど、姿勢とか全身を見ていらして。ちゃんと飲み込めるようになるまでに手はずを整えることを全部やると、健康全体にいい。そんなふうに全身を見てらっしゃる方なんですけど、そこですごくいいなと思ったことがあって。

とあるお年寄りで、認知症がかなり進んでいて、統合失調症も持っていらっしゃる方がいて、明らかに顔は険しいんですよね。おばあさんなんですけど、ずーっと歯ぎしりしてるんです。ががが、ぎりぎりぎりって、すごい音で。

その嚥下の先生が訪問したときは、ご飯を食べて、その食べてる様子を先生が診るっていうときだったんです。歯ぎしりでめちゃくちゃ噛み締めしているおばあさんが、明らかに抵抗モードに入りそうだったんだけど、介助者が食べ物をちょっとすくって口に持っていった瞬間、ハッて口を開けたんですよ。で、それを見たとき、その嚥下の先生が、「あ、この方は出られるので大丈夫だ」と。

濱口:ああ、出られる。

伊藤:そう。その表現がすごい面白いなと思って。歯ぎしり状態からスプーンを差し出された瞬間に、パッと、その状態から出られる、だから大丈夫なんだと。で、なんか私、このスプーンになりたいなぁと思ったんですよね(笑)。

濱口:はい(笑)。

伊藤:無理やり口を開けさせるのでもなく、なんか、こいつ来た!みたいな。こいつ来たから思いがけず口開けちゃった、みたいな関係がすごくいいなって思って。

それはある種、ご本人からすると望んでいなかったことかもしれないんですけど、私はもうすごい怒ってるんだっていう気分だったかもしれないのに、なんかふっと、考えてもいなかった問いが投げかけられたことに、思わず答えてしまったみたいな。たぶん、回復ってそういうことなんじゃないかなと思っているんです。

自分が囚われているひとつの状態から、何かきっかけが、たぶん外から来るんですよね。外から来るきっかけに思わず反応した結果、出ちゃった、みたいなことが回復という出来事なのかなと。そのスプーンにどうしたらなれるかっていうことを、インタビューをするとき、いつも考えてるなって思ったんですよね。

濱口:……いい話(笑)。

伊藤:ふふふ。

濱口:うん、そうですね……。今日、来がけにも『体の居場所をつくる』の最終章の今泉美佳さんのインタビューを読んでいたんです。今泉さんは、3、4歳から皮膚や関節が壊れ続けるという痛みの強い難病がある方ですが、インタビューでは「面白い」っていうことが最初は抑制されているような気がして。でも、ちょっと今泉さんが、それまでからポッと外れたようなことを話したときに、「面白いですね」って伊藤さんが差し挟んでいる。

あ、この外れる瞬間、それまでの凝り固まった何か、今までの考え方とか、行動の枠組みからポッと外れた瞬間っていうのが、この人は単に好きなんだなっていう感じが、すごくありました。

伊藤:そうですね。なんか、その瞬間を見たいっていうか、それは理屈じゃないし導けるものでもないので。人が変わる瞬間みたいなものを見たいし、まあ、あわよくばそこに一役買いたい。偶然でしか起こらないですもんね。しかも何も治せる技術もないのに関われる人。スプーン役になって。

濱口:勝手なこと言うと、伊藤さんは、良き偶然になりたいっていう感じがすごくしていて。たぶん、その人が、人生の中で思ってもいない、考えたことがないようなことをポッと言って、その人がポッと違う思考の回路に入っていくのに立ち会いたいっていうような。

伊藤:そうですね、そういうふうになりたいですね。

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声が変わっていく

伊藤:濱口さんは、体に対する興味って、学生時代から持っていたんですか。

濱口:いや……、さほど(笑)。

伊藤:映画を撮ることと体に興味を持つことって、言われれば必然的だと思うけれども、必ずしもみんながみんな、そうでもないですよね。

濱口:そうです。少なくとも自分はそうではなかった。ただ結局、見ないことにはどうにもならないっていうことが、いろんな失敗を経てわかっていくんです。自分が望んでいるような事態っていうのは、ある体の状態が必要で、その体の状態がその場で生じるためには準備が必要で、自分もそれが起きたか起きないかをちゃんと見極めないと、編集のときに頭を抱えることになる。それを理解するに至る試行錯誤があって、たぶん30代ぐらいから、どうも体を見ないとしょうがない、ちょっと逃げられないなと思ったんですね。

声の情報量の話をされましたけど、一番はやっぱり、震災のときにインタビューをして、声が変わっていくのを聞いたわけです。声の情報量の多さに、そのとき気づいた。

『東北記録映画三部作』では夫婦、友人、親子、仕事仲間など、もともと親しい間柄にあるふたりに、向かい合って体験を語り合ってもらうというインタビュー形式がおこなわれた。

これだけ情報量を持っているということは、演技をしている人の声においても同様で、それを見る観客は、実のところその声の情報量で判断している部分が多いだろう。じゃあどうやってこういう生命力みたいなものがやってくる体を準備するかということを、ある時期から考えている気がします。

伊藤:その準備っていうのは、本読みするとか、事前に、かなり前からという意味での準備ですよね。

映画『ジャン・ルノワールの演技指導』に収められている「イタリア式本読み」をモデルとしたメソッドで、演者全員で、無感情、無抑揚、同じペースで何度も繰り返し本読みを行う。そうしてテキストを覚え、テキストが身体に刻み込まれた状態にする。

濱口:そうですね。でも、根本にあるのは、たぶん安心してもらうことで。

伊藤:俳優さんに安心してもらう。

濱口:はい、俳優さんがまず第一で。たぶん、伊藤さんがやられていることとも近いと思うんですけど、「ここではあんまり他のことを考えなくても大丈夫ですよ。ここでは普段考えているようなことに対して、関心のリソースを割かなくても大丈夫ですよ」っていう状況になると、自分の内的な状態に対して、より注意を向けやすくなると思うんですよ。

ここで何を言わなきゃいけないかとか、その人の感情を害さないかとか、普段だったらいろいろ考えなきゃいけないことが取っ払われている状況の中で、その人自身の自分が感じていることにフォーカスできる。でも、自分ばっかりだときっと上手く行かなくて、最終的には相手が何を感じているかということにフォーカスできると自然と、相互的に感情を感じる状態に入っていく。

伊藤さんの本の中でも最も抽象度が高そうな本、『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)の中でも、注意っていうのは、ある領域を固定することによって、その領域の中においては変化に対応していく、その中で変わっていくことができる。注意はそういう領域の固定と領域内の変動の調整としてあるというようなことが書いてありましたが、そういうことだと思うんです。これ、ちなみにロベール・ブレッソンが言っていることとすごく似ている。ブレッソンもヴァレリーを読んでいたのかな、と思いました。

で、それこそが居場所っていうか、「場」ですよね。あくまでフィクションとしてですが、注意を最大限高められるような、背後からは何も襲ってこないような、安全な場を用意する。ここでフィクションと言う意味は、この場では次に起こることが決まっています、あなたがこのセリフを言ったら、次にこの人がこのセリフを言う、そういうことが起こりますというのが決まっているということ。この世の中に、そういう場所って、儀式とか儀礼以外にはあんまりないんじゃないですかね。

最近よくあるタイムリープもの、何度も何度もタイムリープして、一番いい世界線を選び取ろうとするっていうのがありますけど、それと近い。毎テイク毎テイク、あることを繰り返すというのは、「次はもっとうまく」っていうこと。この「うまく」の内実も、まだ十分言語化されないですけど、注意力をよりよく行使されるような状況をつくる、ということかもしれませんね。

次はより良い生を生きられるかもしれないということで、そのテイクが繰り返されていくっていうことをやることは、自分の求めているような体の状態を得るうえでも必要なんだなと。そういう場所を準備しなきゃいけないんですよっていうことを、スタッフと確認したり、俳優のためにその場所を用意したりっていう感じですかね。

伊藤:ふーん……そうか、次に起こることをわかっている。

濱口:部分的にですけど。次に起こること、このセリフの後にこのセリフが来るっていうことは形式としては決まっているけれど、その内実というか感情面においては決まっていないという状況を、どう生きてもらうか。

何を言うかは決まっているが、どういう感情で言うかは決まっていない状況を呼び寄せるということをしていて、でもそのとき、常に役にふさわしい感情が来るわけではないんですよね。「照明明るいな」とか、「この相手役、全然聞いてないな」とか、そういう感情が乗ってくる可能性だって当然あって、高まった注意力はそのことを捉えてしまうわけです。それはそれで記録されて、自分がそれを、何か濁ってんなと思ったらNGということで、もう一回繰り返す。

で、そういうことをやっているときに、けっこうストンと、こっちに落ちてくるような声が出ることがあると。それがどうして起こるのかは、実のところはわからない。きっとそれは、注意力を高めて相互反応して言葉のやりとりをしている俳優同士は、触れ合ってるのに近いような、ものすごい解像度でやり取りしてることがあると思うんです。でもそれは、こっちにまでは、その解像度では届かなくて「今の何だ?」ぐらいのことで入ってくる。

これがブレッソンが見ていた世界か!

伊藤:濱口さんと、三宅唱さん、三浦哲哉さんとの鼎談本の『演出をさがして』(フイルムアート社)の中でも、その体がどういうふうに準備されているのかということをお話ししていますが、ここまで見抜くんだ!みたいな話がいっぱいありますよね。

この本は、必ずしも自分の映画を語っているわけではなくて。

濱口:そうですね。巨匠編っていう感じで、映画史の傑作を3人で見て勉強会をしている記録です。

伊藤:最初の章がロベール・ブレッソン。『ジャンヌ・ダルク裁判』の中で、ジャンヌ・ダルクを演じている俳優さんが、セリフを喋るたびに、目線を上げ下げする話があります。これは、カメラが回る前の段階の準備がここに出てるんだっていうことですよね。

濱口:そうですね。おそらく読書訓練とブレッソンの呼んだものの成果なのか。

伊藤:台本を読むとき、その台本を下に置いた状態で、目線を上げたり台本を見たりしながら読む練習をして準備をしていたのが、本番でも、レイヤーの一つとして、それが残っているのが体に見える。

濱口:そうですね。正確にはどういうことをやっていたのかというのは全くわからないので想像なんですけど。でも、普通にやっていたらそうはならない。目線を上げて、目線を下げた状態で一回ターンが始まって、目線を上げてセリフを言う。言い終わったらまた下げるっていうことを、フロランス・ドゥレっていう、ジャンヌ・ダルクを演じた人がひたすら繰り返しているんですけど、ここまでずっとやっているというのは、何かしらの訓練とか、体の習慣づけの結果以外にはありえないだろうと。

 『ジャンヌ・ダルク裁判』は、一見、めちゃめちゃ平板な映画に見えるんですよ。もう本当に人が喋っているところ、それをクロースアップするわけでもなく、感情を極端に露わにするわけでもなく、腰上、膝上ぐらいのサイズで切り返しで撮っている。すごく退屈な映画にも見えるんですけど、映画が進むにつれて、この視線の上げ下げに、だんだん、ある乱れみたいなものが生じてくる。

最初は、台詞を言うときに目線を上げる、その頭の部分がかっちり合っていて規則的なものになっているんですが、だんだん目線を上げるタイミングが台詞の後半部分になってきて、タイミングがばらけてくるんです。これは一体何なのかっていうことを見ていくと、テキストと感応し合っている体の状態みたいなものが見えてくる。ドゥレは「私の魂(mon âme)」という瞬間に、その言葉を噛みしめるような声音を発します。恍惚感のある吐息が混ざる。台詞の意味合いを玩味することから生じる身体反応みたいなものが、すごく素直に表現されている。おそらくブレッソンこそが最大限注意力を高めて、この体の状態のすごく微細な変化を見ていたんじゃないだろうか。この視線の上げ下げに注目したとき、平板に見えた画面の中の奥行きみたいなものが、グイッと自分の中に入ってくる体験が起きたんですよね。

この映画のテキストは元々はジャンヌ・ダルクの実際の裁判記録であって、つまり、フロランス・ドゥレはテキストを口にしながら、ジャンヌ・ダルクの世界に感応していく。つまりはドゥレがジャンヌになりゆくさまを見ているとも言える。この彼女の身体の状態が、こっちの身体にまでスッと流れ込んできたときに、これがブレッソンが見ていた世界かと感じ入ったんです。

さわったことがないような柔らかさの手

濱口:体は皮膚によって外界と境界線があるわけですけど、声というのは内臓の動きがそのまま反映されます。我々の振る舞いや表情もそうですが、声において内的な状態というのは、かなりむき出し。声がよく聞かれてしまったら、もしくは自分の身体を凝視されてしまったら、我々は常に裸で歩いているようなものなんだなっていうのが現在感じていることです。もちろん、社会のなかではじっと見てはいけないっていうのが根本だとは思いますが、でも、じっと見合うような社会であったとしたら、その内的な状態は、相当に筒抜けなんだなと思ってもいます。現在は撮影の際に、被写体の内的な状態は、かなりダイレクトに観客まで届いてしまうことを覚悟してやっています。映画の場合は、観客は何の遠慮もなしにじっと見てるし、その内面を覗き込もうとしているとも思うので。

伊藤:そう思いますね。逆にそういうとこ、見ちゃいますね、すごく。

最近、ちょっともう言葉から離れたいなと思っていて、2ヶ月に1回ぐらい、静岡の浜松にあるクリエイティブサポートレッツという団体が運営する施設に通っているんです。重度の知的障害がある方たちが通所したり住んだりしている施設で、利用者さんたちの独自のこだわり行動を「表現未満、」ととらえるのびのびしたところなのですが、そこにちょっと仲間に入れてもらっていて。まあ何もしてないですね。ボーッとしてるだけなんですけど。

濱口:うん。

伊藤:そこには重度の知的障害の方で自閉症をもってる方とか、言葉は全く喋らない人もいるんですよね。研究者としてどうやったらこの人たちにインタビューできるんだろうって、最初はすごい気構えて、研究の方法論とは、みたいな感じで行ったんですけど……なんか1日いるとできるような気がしてくるんです。

テーブルに私が手を置いてたら、その爪の先1ミリさわるぐらいのところに手を置いてくる人がいて。そこから何となくお近づきになって、しばらくして、私がこう、てのひらをその人に向けて、手をちょっと掲げるように出すと、その方も手を合わせてくれる。そうすると……めちゃくちゃ柔らかかったです、その人の手が。私が生まれてこの方、こんな柔らかい手はさわったことないっていうような柔らかさで。

正解は絶対にわからないというところがポイントなのですが、そのときに受けた印象から推測した仮説としては、強い力を入れたことがないのかなと思いました。自分の意思の道具として手を使ったことがないというか、なにかを無理やりこじ開けるとか、重いものを運ぶとか、たぶんそういう仕事のために手を使ってない人。ひたすら感じるために手を使ってきた人なんじゃないかな。

体って動きも面白いですけど、さわるとよりダイレクトに、その人の緊張やオープンさって伝わってくるんですよね。やっぱり、意思の道具ではなく感じるために使われてきた手にふれるというのは、こちらとしても、脳のしわしわが伸びてここにあるみたいな感じの生々しさ、そのレベルの繊細さにまでおのずとチューニングされていく感じがあります。

あとは、一人で、ずっと手をこう……回転しているような動きをしていて、こう……真似できないです、私がやると型みたいになっちゃうんですけど。言語を介さない体。私の言語化だとパチンコっていう名前をつけてるんですけど、パチンコ動作みたいのをずーっとやってる。でも絶対パチンコじゃないですよ。

濱口:ええ、もちろん(笑)。

伊藤:そこで、分節できない、ものすごい情報みたいなものに一日浸るっていうのが、すごく面白くて。

濱口:伊藤さんの本の『手の倫理』では、「さわる」と「ふれる」の2分法があるんですけど、今の話だと、その方の手は、本当にふれるに特化したような、すごく特殊な手だなと思いますね。

『手の倫理』において、コミュニケーションのモード(態度)を、メッセージが「発信者から受信者へ」と一方向に受け渡される〈伝達モード〉と、両者のやり取りの中でメッセージが持つ意味やメッセージそのものが生み出されていく〈生成モード〉の二つに分け、「さわる」を〈伝達モード〉、「触れる」を〈生成モード〉とし、両者の関係や絡まり合った在り方を考えた。詳しくは『手の倫理』第4章参照。

『手の倫理』は全6章で、第5章に、伊藤さんが盲人のランナーの人と伴走者として一緒に走る、「共鳴」という章がありますが、あ、この本はここに全部向かっていたのかっていう印象がある。

伴走というのは、ロープを輪っかにして、一箇所を目の見えないランナーが、反対側を目の見える伴走者が持って横に並んで走るという動作を長時間共有することですが、最初はウォーキングだったのが、最後は階段も駆け上がるようになって、「ずっと走っていたい!」と。そこには、伴走した伊藤さんの、それこそ体の喜びみたいなもの、肉体の感覚の開けみたいなものが書かれている。あ、ここ、この喜びが書きたくて書いたでしょ、みたいな、そういう気持ちに読んでてなったりもしました(笑)。

まあ、一方で、自他の境界というのは曖昧だけれども絶対に存在していて、それは簡単に侵入してはならないというルールもあると思うんですよ。でも、そこをずっと探っていらっしゃるような印象があります。

伊藤:レッツにいらっしゃる方を私なりに観察した結果でしかないんですけど、生きているといろんな刺激を受けて、体の状態が変わりますよね。それが非常に強くて、なんていうのかな……「対象」みたいな距離の取り方ではないのかもしれません。

たとえば、今すごく不快だというときに、私の捉え方だと、その理由をさがそうとします。「あんまり好きじゃない人が来た」とか。つまり対象に対する反応として理解する。でも、彼らを観察していると、そういう対象に紐づけるよりも、ただただ情動にさらされているような印象を受けることがあります。それは同時に複数のものを対象化しうる体でもあると思うんですよね。嫌な人来てるけど、なんかいい匂いもするぞ、みたいに。天気のようにいろんなものがざわざわざわって、いろんな情動みたいなものが走っているように見えることがあります。

彼らのそばにいると、その波がこっちにまで来るわけです。もちろんそれは自他を超えられなくて、完全に謎なんですよ。その人が何を考えているかもはっきり言ってわからないので、知的には謎なんですけれども、物理的にはつながってしまう。

人の気分って、伝染しますよね。その人が対象っていう感覚を持っていないがゆえに、私をも対象にしていないので、波がすごい来ちゃう。なんか理由もよくわからない幸福感とか不快感みたいなのがこっちまで来る。それが、私としてはすごく面白いし、乗り越えてくる面白さなのかなと思いますよね。

濱口:『体の居場所をつくる』に出てくる身体症状症(旧身体表現障害)のさえさんは、光や音、匂いなどの刺激に対して体そのものが反応してしまい、吐き気やめまいや頭痛が続いて外に出られなくなってしまっていて、Orihimeという小さなロボットを使って外に出ているんですよね。

環境というと、体の周り、体の外だっていうふうに、我々はみんな当然思っているけれど、さえさんは、自分自身があまりに周囲の環境に左右されやすいから、自身の体そのものも環境として見ているんですよね。なんかね、気づいたんです。このとき、伊藤さんは他の概念を何も導入していないと。

伊藤:ふふふふ。

濱口:本当にさえさんの記述をひたすら楽しんでると言ったらあれですけれども、さえさんから受け取るものだけで書いている。こういう既存の境界、ずっとこうだと思っていることが崩れるものを知りたくて、伊藤さんはこんな嬉々としてインタビューしたり書かれたりしてるのかしらと思ったりしました。

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【濱口竜介×伊藤亜紗対談】体と居場所と物語(濱口 竜介,伊藤 亜紗) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社

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