2025年11月11日火曜日

藤牧義夫の三囲(7) ”正体不明”の印刷物 : 玉乗りする猫の秘かな愉しみ

藤牧義夫の三囲(7) "正体不明"の印刷物 : 玉乗りする猫の秘かな愉しみ

藤牧義夫の三囲(7) "正体不明"の印刷物

その藤牧が手にした一枚の紙=絵は、その後に描かれる『絵巻隅田川・三囲の巻』(写真・下)に貼り込まれ、現在にまで伝わることになるだろう。それはまた、僕がこの論を始めるきっかけとなった絵にほかならないのであって、僕らは今ではそれが歌川豊春画『浮絵 三廻之図』(以下『三廻之図』)という題名を持つ絵であることを知っている。
藤牧義夫の三囲(7) 
僕は、この貼り込まれた絵(写真ではモノクロだが実際は三色刷り)を見たとき、右辺の題名・作者・版元などを記した表題部分が切り取られているのをもちろん不自然に思ったが、それでも『三廻之図』の複製木版画だろうと、何を疑うでもなかった。さらに原画とよく比べてみると、この複製画は上辺部分も少し切り取られて短くなっている。藤牧は、絵巻のタテの長さに収まるように複製画の上辺を切り取り、そうすると右辺の作品題名の一部が切れてしまうから、体裁を整えるために右辺題名全体も削ったのだろうと推測した。
ところが、あらためて絵巻を見てみると、複製画はかなりの余白を残して絵巻に貼られているようなのだ。上辺を切り取る必要が本当にあったのだろうかと思ったとたん、僕はあわてて定規を取り出した。
藤牧義夫の三囲(7) 
豊春画『三廻之図』の大きさは、錦絵(多色浮世絵版画)の規格のうち「大判」とよばれるもので、それは約26x39cm。厳密な長さが調べられる東京国立博物館蔵版では、24.7x37.3cm(写真・上)だ。
藤牧の絵巻のタテの長さは28.0cm。僕の持っている複製絵巻を使って計算すると、この複製画はおよそ19x30cmの大きさしかない。上辺と右辺のそれぞれの一部が切り取られる前の大きさを復元しても21x31cm。つまり、この複製は、そもそも縮小されていたのだ。

とすると、この切断が藤牧によって行われたとはとうてい考えられないことになる。なぜなら、絵巻のタテは28cm,ヨコはゆうに40cm以上の空白があるから、複製画を切断することなく貼り付けられるからだ。わざわざ複製画の一部を切り取って小さくしなければならない理由がない。この複製は最初から上辺と右辺がトリミングされていたか、少なくとも藤牧が手にしたときにはすでにこの状態になっていたにちがいない。これはいったいどういうことだろう。

絵巻の本物で確かめられるものならそうしたいところだが、この貼り付けられた複製は、木版複製ではなくて、粗悪な印刷による複製なのだろう。木版複製なら縮小するなどということはありえない。浮世絵を専門にする書肆から出されたものとは考えがたい。何かしらの刊行物の付録のようなものだったかとも考えてみたが、それとて縮小することはあっても原作の題名部分までトリミングするという大胆な改変はしないだろう。包装紙か宣伝用の印刷物なら少なくとも店名か商品名が書き込まれていなければならない。通りがかった古本屋の店先に置かれた安物の複製画だったのだろうか。
つまり、これは僕らにとって"正体不明"の印刷物なのだけれど、よくよく考えてみれば、藤牧がこの絵を手にしたとき、これは藤牧自身にとっても"正体不明"の印刷物だったのではないかということに気付いた。

忘れられた画家と言っては言い過ぎになるが、豊春は今も当時も決して人気のある浮世絵師ではなかった。歌川派の祖として記録されてはいても人気において一門の広重は言うに及ばず豊国にさえもかなわない。さらに彼の美人画や肉筆絵に比べて浮絵の評価は高くなかった。研究書はおろか画集でさえも豊春だけを扱った本というようなものはいまだかって一度も出版されたことがない。[注1]
藤牧は、この絵が三囲神社付近の隅田川風景を描いたものだということは見た瞬間わかっただろうが、誰の何という作品かまではわからなかったのではあるまいか。なにしろ作者名と題名が消されてしまっていたのだから。しかし、その絵になにか感じるものがあったにちがいない。彼は調べた、のだと思う。

それが、おそらく「白鬚の巻」の最後にまとめて書かれたメモ群の冒頭の英文につながっていくのだろう。「白鬚の巻」のメモを紹介したときには、その部分を引用しなかったので、ここにその部分を僕の日本語訳を添えて、原文通り写す。(次の写真)。
藤牧義夫の三囲(7) 

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TOYOHARU 説明文
THE UKIE:"MIMEGURI SHRINE"- By Toyoharu utagawa
The author of this fine picture is ancestor of the famous
"Ukiyoe"artists family "Utagawa" this is not the
"Ukiyoe" but "UKie"(some European-styled picture
using the perspectives.) His master work is the
Mimeguri Shrine" as in the picture (By courtesy of
the Tokyo Empire Library)
【日本語訳】 豊春 説明文
浮絵『「三囲神社』 歌川豊春作
この素晴らしい絵の作者は浮世絵師歌川派の祖である。これは「浮世絵」ではなく「浮絵」つまり遠近法を用いた西洋風絵画。豊春の代表作は『三囲神社』であることは次の作品のとおり。(東京帝国図書館の好意による)  
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今まで、この文の意味するもの、置かれるべき文脈といったものがまったくわからなかった。が、ここで言う『三囲神社』が、『三廻之図』であることが判明した今では、これはつまり、こういうことだろう。
この"正体不明"の浮世絵について、その作者と題名を調べるために藤牧は下宿から近い上野の「帝国図書館」に行ったが、それを見つけられなかった。そのとき、係の人に協力を求めると親切に調べてくれて、ついにこの絵の図版とそれに付された「説明文」を見つけることができた、ということなのではないだろうか。最後の部分はその調べてくれた人の好意に感謝していると読めそうだ。引用された英文は極めて簡潔であることからして、まとまった文章の一部ではなくて、『三廻之図』図版につけられたキャプションでもあるのだろうか。[注2]

こうして正体不明だった絵の作者と題名(それが英語直訳題名だったとしても)が図版によって確認できたことは藤牧にとってよほど感動的なことだったに違いない。メモ群の冒頭に、そのキャプションをそのまま英文で引用し、その複製図を絵巻に貼り付けていることからして、藤牧によってこの豊春画が特別な印象をもって受け止められたことは疑いの余地がない。この一枚の絵との出会いが藤牧にもたらしたものは何だったのだろう。




注1
当時、浮世絵は一種のブームのようになっていた。
1930-31年(昭和5年-6年)に『浮世絵大成 全12巻』(東方書院・大鳳閣書房)、1931-32年(昭和6年-7年)には『浮世絵大家集成 20巻』(大鳳閣書房)といった大部の画集が比較的安価で出版され、浮世絵雑誌の刊行も相次いだ。
しかし、『大成』に浮絵はわずかしか取り上げられず、『大家集成』に豊春の巻はない。浮絵、もしくは豊春の研究では今なおその分野の古典ともいえる黒田源次『西洋の影響を受けたる日本画』(中外出版 )は1925年に出ていたが、再版もされなかった。織田一磨、岸田劉生も豊春について書いているが、それがどれほど知られていたかはわからない。


注2
藤牧が「引用」している英文は、とても奇妙な「英文」ではある。
author という語を絵師=画家に使うことはない。painter か artist だろう。
ancestor もどうだろう、冠詞が抜けているのは書き忘れたとしても、the founder とでもするべきか。
そもそも題名も A (perspective) view of Mimeguri か Landscape of Mimeguri あたりがふさわしく、Mimeguri Shrine とこの風景をそこにある一つの社寺に代表させているのがヘンだ。また、この絵を豊春の master work とする評価は極めてめずらしい。せめてone of his master works くらいが妥当な線だろう。
僕は、この「英文」は英語を母語とする人が書いたとはちょっと思えない。いったいどういう所から出てきた「英文」なのか、藤牧はそもそもこれを「引用」しているのか、これ以上の推測は控えるが、大いに疑問の残るところだ。

僕は、当時の上野帝国図書館の蔵書を引き継ぐ現・国会図書館で、藤牧が手にした可能性のある日本版画、浮世絵、美術についての英文図書をかなり探したが、今のところ、大いなる徒労に終わっている。なんだかこのまま見つからないような気さえしてきた。次から次へと空振りが続くと、そんなものはそもそも存在しないのではないかと思えてくるのは誰にでもある経験だろう。もう当たるべきと思われるところには当たったので、こうなると、当時の雑誌か、美術とは違う分野の本を探さなければいけないのかもしれない。

ただ、どういういきさつであれ、藤牧がその絵の作者と題名を図書館で初めて知った、という推理は動かないと思う。

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