2025年8月15日金曜日

「火垂るの墓」冒頭シーンの消えるおにぎり | Arkios's Diary 吉野源三郎と『君たちはどう生きるか』

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Arkios's Diary 吉野源三郎と『君たちはどう生きるか』

「火垂るの墓」冒頭シーンの消えるおにぎり

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1122dd.jpg 冒頭シーン。駅で死にかけている清太に、通りすがりの人がおにぎりをめぐんでくれる。

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いったんここでアップになり、足元のオニギリは視界からはずれる。
そして「今、なんにちなんやろう」というセリフが入り同時に、くずれおちる。

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くずれおち、横になってしまった清太。
カメラが引いた映像に切り替わった時にはオニギリは消えている。
この一連のシーンは当然原作には無い。だが映画版の高畑にとってはMUSTなシーンなのである。

 この「消えるおにぎり」は、一番さいしょの消える灰皿と同様に、時間経過を感じ取らせるための演出だ。このおにぎりに気が付いた視聴者は、「あれ?食べてるじゃん?」と奇妙な、不安な気持ちになるはずだ。「食べ物」に関するえげつなさを表す最初の演出である。時間経過に関する嘘と、食べ物に関する嘘が、冒頭で演出されているわけである。

 高畑勲の演出意図としては、あたかも自分が清太であるかのように小説を描いた原作者の野坂昭如はこの時死んでなんかいないから、清太がここで死んだなんていうのは単なる「お涙頂戴の演出」にすぎないし、食べなかったというのも嘘だ、といいたい訳である。だがここで少々複雑だが、高畑としては、野坂昭如の本当の心を代弁しているつもりなのであって、批判しているのは高畑ではなくあくまで野坂自身というロジックになる。そしてそれが赤の世界の清太である。

 もしかしたらこうした事から察知していただけるかもしれないが、「君たちがどう生きるか」が巷で評価されているような意味での感動的な物語でないのと同様に、「火垂るの墓」も巷で評価されているような意味での感動ものがたりではない。特に海外の評価においてはほとんど動物的反応しか示しておらず壊滅的であって、著名な映画評論家でさえまったくマトをはずして聞くに堪えない恥ずかしい評価を下している。この作品を単純な意味での「泣ける映画」におとしめてしまうのは、野坂にも高畑にもかわいそうな話だと思う。

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ベートーベン「テレーゼ」

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ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 第24番 嬰ヘ長調 作品78 アシュケナージ 1979

 ルドルフ大公の目録によれば、この作品の写譜が大公の元に届けられたのは1809年10月であったらしい。当時は旺盛な創作活動を続けていたベートーヴェンであったが、ピアノソナタの分野では前作『熱情ソナタ』以来既に4年が経過していた。1809年のナポレオン軍の侵攻はルドルフ大公がウィーンを離れるという事態を招き、この出来事に絡んで作曲された『告別ソナタ』によってベートーヴェンはこのジャンルに舞い戻る。そうした中、同時期に書かれたより規模の小さい本作が先に完成されて世に出されることとなった。
 楽譜は1810年9月にブライトコプフ・ウント・ヘルテルから出版され、伯爵令嬢テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックに捧げられた。そのため本作は『テレーゼ』と通称されることもある。ベートーヴェンはブルンスヴィック家と親密な関係であり、ピアノの教え子でもあったテレーゼから贈られた彼女の肖像画を生涯大切にしていた。なお、彼女は『エリーゼのために』の「エリーゼ」の正体として有力視されているテレーゼ・マルファッティとは別人である。アントン・シンドラーによれば、作曲者自身はこの作品に強い愛着を抱いていたということであるwiki
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