2026年1月24日土曜日

【謎解き】『果てしなきスカーレット』は四重構造の救済劇。|rain-bow

【謎解き】『果てしなきスカーレット』は四重構造の救済劇。|rain-bow

【謎解き】『果てしなきスカーレット』は四重構造の救済劇。

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(追記:11月27日から12月2日にかけて改稿、図表追加。12月16日、ウテナ画像を追加。1月12日、3老婆の画像を追加、追記。なお本編画像は©2025,スタジオ地図。以下同様)

2025年の細田守監督作品『果てしなきスカーレット』が先週公開された。
初見では理解が追いつかず、賛否が割れやすいタイプの作品だ。試写以来、難解な脚本が理解されないまま、驚くほど叩かれてきた。興行成績は不振に終わりそうだ。
確かに、表層だけ見れば、意味不明な映画だし、スカッとしないし、お世辞にも、ファミリー向けのファストフード的エンタメとは言えない。

だが、理解できないままでもいいから、一度は劇場で観ておくことを、心から薦めたい。子どもにも、中学生以上なら観てほしい。

本作は、10年後あるいは30年後に「あのとき(あの人と一緒に)劇場で観ておいて良かった」と思えるようになる、そんな映画だからだ。

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自分は11月の連休に3回目を鑑賞して、やっと物語の構造と、全てのシーンの必然性が理解でき、すっきりしたと同時に、細田構想のスケールに総毛立った。

この作品は『ハムレット』――だけじゃない。

本作は表面上、シェイクスピアの『ハムレット』をマイナーコピーした――だけのように見えるし、実際そう見られているようだが、実は違う。むしろ逆だ。

ハムレット成分は『スカーレット』という巨大な「演出の大聖堂」を支える柱の一本に過ぎない。
本作にハムレットだけ、あるいは復讐劇だけを見つけようとすると、頭上にそびえる伽藍がらん穹窿そうきゅうの見事さに気づくことができなくなる。

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これは、スカーレット自身だけでなく、『ハムレット』と『聖書』と現代社会をも救う物語だ。

この映画は、主人公スカーレットが、聖に助けられながら、
 (1) 自分自身 だけでなく
 (2) 悲劇『ハムレット』のバッドエンド と
 (3) キリスト教をはじめとする諸宗教 と
 (4) 戦争が絶えない現代社会とその倫理
という「四重の救済不能問題」を救い直す、重層的な物語である。

映画の表層には、
(1)
父王を殺され、継母王妃と叔父に裏切られた主人公スカーレット個人が救済にたどり着くシンプルな物語があるが、それだけでは意味の通らない不自然な箇所、唐突に思える飛躍が、いくつもある。
明らかにわざと、ストーリーにヒビやキズ(scarスカーが入れられている。そのヒビ割れが気になって仕方なくなるようにつくってある。まるで、光悦の金継ぎ茶碗『雪峯せつぽう』だ。

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割れた赤楽焼きの器に、本阿弥光悦が金継ぎ(漆で継ぎ、金粉で装飾する日本の伝統技法)を施したことで価値を上げた作品。金継ぎの跡が、まるで山を流れ落ちる雪解けの渓流のように見えることから「雪峯」の銘を与えられた。/『スカーレット』的には、ドラゴンの落とす雷、あるいは流れ落ちる溶岩流に見える。(画像は日曜美術館より。白金台の荏原畠山美術館に所蔵。重要文化財。)

本作では、表層のストーリーのヒビ割れは、劇中のある登場人物が意図的に入れている。ただしそれは、初見では気づくことが困難なほど、巧みに隠されている。そのため初回の鑑賞者の多くは、どこがおかしいのかはっきりしないが何か変だ、そんな違和感を覚える。

それらのヒビ割れの周りには、宗教学的あるいは人類学的な象徴が数多く散りばめられている。それらを丁寧に読み解くと、『スカーレット』のヒビ割れの背後には、別の3つの救済があることが見えてくる。

(2) 『ハムレット』はシェイクスピアの最長作品にして、世界史上もっとも有名な戯曲ぎきょくだ。全員が不幸になる全滅エンドの悲劇を400年間ループ再生・リミックス再生し続けている――言い換えれば、世界文学史上で最も不幸を繰り返し描いてきた。
本作は、この戯曲『ハムレット』そのものを反転し、救済しようとする。

(3) 2000年かけて結局、人類を救済することに失敗し、暴力の応酬に加担してしまった多くの宗教。
本作は、それらの諸宗教から、いま改めて本質的価値を救い上げる。

(4) 400年前や2000年前から見れば奇跡そのものを実現しながら、未だにむき出しの力の論理を振りかざして、殺し合いの連鎖を続ける現代社会。
本作は、そんな現代社会とその倫理自体を、問い直し再生する。

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キャラクターを縦糸、物語を横糸、象徴を飛び杼として、織り上げられた前代未聞の異様な物語構造。四重に仕掛けられた通過儀礼。表層だけ撫で、その意図的なヒビ割れを批判する主張は、本作の批評として力不足だ。

つまり、(1) 表層の救済、(2) 文学史の救済、(3) 宗教史の救済、(4) 人類史の救済、この4つが、同時に進行する。そして主要な登場人物は、それぞれのテーマの救済において、固有の役割を果たす。

自分も、初見ではまったく意味がわからなかった。1回目の鑑賞は、ただ圧倒的に美しい作画と美術に圧倒されて、終わった。
もっとも、その1回だけのために、劇場で観ておく価値がある。それほどの作画と美術。これまでの細田守作品とは段違いのクオリティ、超贅沢な体験だ。
脚本や考察なんか、まずはどうでもいいから、一度は劇場で観ておくことを薦める。今なら大スクリーンの特等席で見られるよ!

♪〽どこかに隠された秘密 解き明かしてみせて〽♪

あまりに不思議な映画体験、その中で一番意味不明な、あの謎の渋谷祝祭ダンスの歌は、こんな歌詞で終わっている
これは細田守監督から観客への挑戦状。この映画は 謎かけ物語(リドル・ストーリー)だという宣言だ。

2回、3回と見るうちに、ようやく意味が少しずつわかってくる。本作は噛み応えのあるスルメ映画である。自分は14回目の鑑賞でも新たな発見があった。
本作の難解さは『マルホランド・ドライブ』級かもしれない。あの時は、デビッド・リンチ監督からヒントが出されたし、2回目の鑑賞は1000円で済むという画期的な施策が打たれた。本作がそうした売り方をできていれば、現状のような不振は無かったろう。

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本作の監修には、シェイクスピア文学・アラビア料理・ラテン語・美術史考証の専門家、大学弓道部、電力中央研究所(雲や雷のモデリング? リヒテンベルク図形?)などと並んで、カトリック東京教区大司教秘書である赤井悠蔵氏の名前があった。聖書解釈の専門家だ。

3回目の鑑賞後、理解が噛み合ってから考え直すと、1回目の鑑賞で唐突に感じた「ゆるし」、チグハグに感じた全体の物語構造に、まったく余計な所がなかったことに気が付いた。1回目の鑑賞で自分は、まんまとあの登場人物によって幻惑され、肝心の所を見過ごしてしまっていたのだ。

表層の物語に敢えてヒビ割れを入れ、そこを通してより下層の物語を透かし示す。3段階の通過儀礼がそれぞれ四重に織り込まれる――前代未聞の構造のせいで、初見では違和感を覚えたが、「これはそういうものなんだ」と虚心坦懐で見直すと、実のところ意外なほど、完成度が高い映画になっている。

唐突すぎるフラダンスにも、人工的すぎてうすら寒さを感じる渋谷で繰り広げられる祝祭ダンスにも、異様にテンション高い墓掘りたちにも、無人の病院集中治療室にさえ、物語上欠かせない重要な理由があった。
巨大なドラゴンにも、叔父王の肌を覆う奇怪な紋様にも、火山からあふれ出す溶岩流にも、王冠の突起にすら、自然現象と人類史に根差す含意があった。
スカーレットの冒頭いきなりの嘔吐にも、彼女が切り落とす長髪にも、前装式の青銅砲にも、爆発する鼻糞にだって、物語を成り立たせる上での必要性があった。
剣を止めた際の右手のキズにも、通り魔に刺された左脇腹のキズにも、少女の無邪気な台詞せりふにも、最後の綺麗ごとに聞こえる演説にも当然、すべてに必然と言えるほどの意味があったのだ。

シンプルなストーリーの中に、多くの象徴が隠され、ひとりの人物が多くの役割とイメージを背負う。アニメでは大友の『天使のたまご』『AKIRA』、細田自身も絵コンテで参加した幾原の『少女革命ウテナ』、宮崎の『千と千尋の神隠し』、高畑の『かぐや姫の物語』、庵野の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』。洋画ならJ.コクトーの『オルフェ』、R.スコットの『ブレードランナー』、T.ギリアムの『未来世紀ブラジル』、ウォシャウスキーズの『マトリックス』、ターセム・シンの『落下の王国』、C.ノーランの『ダークナイト』、T.マリックのツリー・オブ・ライフ』と似た映画だと言える。

作品内の象徴性やキャラクターの多義性は、上記のように、それほど珍しい手法ではない。ただ、四重構造の救済劇――四層の物語構造、入れ子状になりさらに鏡写しになった四重の通過儀礼表層と2層目以降を等価値に扱う手法――は、古今東西の創作と比較しても類例が思い当たらない。この斬新さは、わかりにくさと、受け入れられにくさも招いているが、今後、創作の最前線では間違いなく高く評価されるだろう。
ヱヴァ』や『パルプ・フィクション』、アメコミ『ウォッチメン』、古典文学作品では『神曲』『罪と罰』『ユリシーズ』など、三重やそれ以上に重層的な構造を持つ作品も多い。
表層に敢えてヒビを入れた映画作品には、先ほど挙げた中のツリー・オブ・ライフがある。この映画はカンヌでパルムドールを獲ったが、表層の脆さ弱さは欠陥としてやはり批判を受けたし、興行も振るわなかった。同作よりも遥かに複雑な構造に挑戦しつつ、同作よりも強固な表層を実現した『スカーレット』で、細田守はテレンス・マリックを越えた

上記の映画群に慣れていない限り、「脚本がわからない」という反応は、ごく自然だ。
けれど初見で理解できないからといって、本作の脚本を失敗と断じるのは早計だ。本作は、理解を遅らせることでしか成立しない構造そのものを、観客体験として組み込んでいる。台詞せりふばかり気にせず、前列で演出を見逃さず浴びるように観る方が、理解への近道かもしれない。
なにせ本作は、演出の天才だけが構想し得る、演出をひとつひとつ積み上げて築かれた、映画史上に冠たる演出の大聖堂なのだから。

おそらく、公開当初しばらくは誤解と不評のレッテルを貼られるままだろう。だが、今から10年後、あるいは30年後に『スカーレット』は「時代を先取りしすぎた名作」という扱いになっているのではないか。
その時、公開当初にガラガラの劇場で本作を観た体験は、得難い価値を持つんじゃないか、自分はそう思う。

それにしても、なぜ、細田守はこんな、客ウケの悪そうな難しい映画を創ったのか?

細田の作家性が救済劇にあることは間違いない。ただ『未来のミライ』は家族間の繊細な関係、『竜とそばかすの姫』は母の死というトラウマや、父からの精神的DVの克服という、身近に捉えやすいシンプルな救済劇だった。

なぜ今回、これほど大それた複雑な構造に挑んだのだろう?

細田守の問題意識:救いの無い物語は、もう十分飽きるほど見た。では、誰をどうやって救えばいいのか?

現代は、科学技術で奇跡のような進歩を遂げた。富さえあれば、寿命と多くの病気すら克服し、世界を意のままに操れる気がしてくる。

だが世界の現実は?
戦争は止まず、むしろロシア、イスラエル、アメリカ、中国など、武力による現状変更の横行は、この100年間で最もひどい。罪なき子どもが殺され、暴力の連鎖は拡大、共同体は崩壊し、どうやら人類は救済されることに失敗している
ちょっと独裁者が血迷ったら、全滅エンドの核戦争も、完全に否定できる状況ではない。

宗教も無惨なありさまだ。苦しみから救うどころか、無差別殺人を行ったオウム真理教、多くの家族を壊した統一教会のような、苦しみを与え広めるカルトが、まだ自分たちは宗教だと言い張っている
ユダヤ教という、自民族だけを救うとする偏狭な一神教の中から、人類愛を説くイエス・キリストという完全な異端児が誕生して、2000年余り。
だがキリスト教も、その変奏と言えるイスラム教も、この2000年の間に自ら報復合戦に加担し、ときに戦争の原因そのものとなった。それでは結局、人類を救済することに失敗しているのではないか?  ……異教徒からはそう見えかねない。少なくとも、自分にはそう見えてしまう。

奇跡を実現できるのに、救済できない・されない人類
この無様な現実のせいで、ややもすると、すべての良い話が色褪せ、不滅の価値が嗤われ、相互の信頼関係にケチがつくように感じられる。
実際、自由に描けるはずの創作でも、両極端。チートスキルで楽勝救済か、でなければ救いの無い物語が、大量生産されている。
それは、本気で誰かを救う・誰かが救われる話をしようとすると、逆に「どうして、自分ではなく、そいつだけ救われるのか? ズルい、不公平だ」と怒りが噴き出し、蜘蛛の糸は切れカンダタは地獄に落ちてしまうからだ。ゼロサム・マイナスサムの社会では、足の引っ張り合いで全員が不幸になる。
多くの人が救いを必要としているのに、このままでは救いに取り組もうとする人は減るばかりだ。相互理解は絶え、分断が進み、お互いを悪魔化して過剰に批難し合う空気が、世界を覆いつつある。

本作に対しても、表層だけ見て「お花畑」「浅すぎる」あるいは「意味わからん」「理解できない」とSNSで石を投げられ、劇場は閑古鳥だ。

だが、そんな世の中だからこそ細田守は、分かりやすくスカッとできる映画を創るわけに行かなかったのではないか? 

こんな世界だからこそ、観客の眼と懐の深さを信じ、観客に問いかけるような映画を、主人公スカーレットがあらゆる意味で救い・救われる映画を、人類に入ったキズ(scar)を当人たちが修復できるよう手助けする映画を、創ろうとしたのではないか?

そのためには、表層のストーリーに意図的なキズやヒビ割れを入れ、世界の脆さを表現に取り入れることが、どうしても必要だったのではないか?

本作への評に「インフルエンザの時に見る夢」という一節を見かけた。言いえて妙だ。良いセンスだと思う。ではなぜ、それこそが細田守の真の狙い、リミナル空間が与える感覚だと気づかないのか?
それは観客の側が「世界の脆さ」から目をそむけ、そんなものに自分は関係ない と思い込みたがっているからだ。

本作で、こんな人類を冷笑せず、分断せず、分かりやすさや応報快楽や拝金主義に逃げず、綺麗ごとと言われることを恐れず、信仰を求めず、宗教間の争いから逃げることも一方の肩を持つこともせず、誰も成し遂げたことのない目標を信じて、自分のベストを尽くそうと藻掻いた細田守監督と、監督と志を共有しひとつの成果を送り出した人々に、自分は敬意を表する。

この紛うこと無き傑作を観に、ガラガラの劇場へ行こう。
こんな体験、一生に何度も出来ないぞ。

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(以下は、オマケというか、物語とキャラクターの構造的な分析だ。重大なネタバレ、謎解きを含むので、ぜひ劇場鑑賞の後に、答え探しの資料としてご利用いただきたい。
謎かけ物語である以上、解答がひとつということはありえない。
様々な解釈の中のひとつ、ご自分なりの解釈への手がかりとして、お楽しみいただければと存ずる。)

スカーレット(cv:芦田愛菜)の8つの役割。

主人公スカーレットは、四重構造の中で、8つもの役割を負わされている
そんなことは不可能に思えるが、本作を注意深く観れば、そこに渋滞は発生していない。細田守は、8つの役割に丁寧なグラデーションをつけ、劇中、徐々にその役割をスライドし慎重に重ねている。
芦田愛菜、当時19歳の神演技が、スカーレットの多義性を存分に引き出し、なおかつひとりのキャラクターの中に複雑さを統合している。見事だ。

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スカーレットは、表の上から下へ向かって単純に成長していく、わけではない。だが演出の上では、上の層から下の層がチラ見えしている感じで、徐々に掘り下げられていく。こういうテクニックは、名人・細田守の真骨頂だ。
なお、表中の虹色横線は、その境界を跨ぐ際に通過儀礼が行われることを表している。

(スカー1a) 純粋で無力な少女、「いいこちゃん」役。

  • 原典の『ハムレット』では、冒頭すでに父王が死んでいるところから始まる。父王は毒殺されたが、王子は幽霊となった父に知らされるまで毒殺に気付かない。

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父王と幼い王女スカーレットの、短くも幸せな日々。
スカーレットの原点、内的動機である。このシーンが赦しの原動力となる。
  • 一方、本作では、序盤で王女スカーレットと、父王アムレット(cv:市村正親)との愛情が、比較的丁寧に描かれる。父王は毒殺ではなく隣国と通じた罪を着せられた末に公開処刑される。

  • なお、スカーレットが父親を描き、継母に破られた似顔絵は、王女のトラウマそのものだ。死者の国における虚無化、ドラゴンの分解の描写と呼応し、劇中一貫して喪失を象徴している。

  • 王となった叔父クローディアス(cv:役所広司)の蛮行に怒り、エルシノア城(モデルになったのはクロンボー城)から見下ろす屋外で、叔父王の暴政で親を奪われ虐げられる少女の姿に、自分を重ねて涙する。このシーンは、スカーレットがいいこちゃんから脱したことを示唆している。

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ぐぎぎスカーレット、いいこちゃんを卒業。
長髪を三つ編みにした少女の姿は、本作後半、何度も民衆の中に再生される。スカーレットは少女に「幼かった頃の自分」を重ね見て、少女を、未来を、そして自分自身と父の思い出を守ろうとする。

(スカー1b) 父に煽られず、自分を救う、逆「ハムレット」役。

  • 『ハムレット』では主人公・ハムレット王子はオフィーリアに「尼寺(一説に、売春宿の含意あり)へ行け」と暴言を吐く。亡霊の父王に求められ、敵討ちに固執した結果、意図せず多くの人を死なせ、叔父王を殺して死ぬ。

  • 一方、本作の王女スカーレットも、叔父王に対する復讐を誓い、剣の腕を磨き、仲間を増やし、少しずつ力を付けていく。

  • 留学先のウィッテンベルクで、叔父王の暴政が強まり、隣国と開戦しそうになっている状況を手紙で知り帰国、城での宴を利用して、叔父王一派に対するクーデターを決行しようとする。

  • 毒薬(ないし睡眠薬。時代設定とワインに混ぜた点から、ラウダナム=阿片チンキと思われる)を、叔父王とその臣下たちに対して盛り、一網打尽にして政権を奪取しようとしているようだ。叔父王だけが標的でないことは、盆に載せて供される杯が3つあり、王がどれを飲んでも計画に支障がないことからわかる。両隣に座っている宰相ポローニアス親子も、標的なのだ。

  • ところが、逆にその隙に自分も毒を飲まされていたことに気づき、スカーレットは意識を失う。ここまでが2D作画。

  • 初見では、このシーンは王女が返り討ちにあっただけのように見える。

  • だが後述するように、実は王女と叔父王は、互いに同時に毒を飲ませ合っていた―――。この点が劇中では伏せられていて、観客を困惑させるミスリーディングになっている。

  • 映画冒頭で死者の国の荒野を歩いてきたスカーレットは、池から水を飲み、歩いて行く途中に立ち止まって嘔吐する。女主人公が登場していきなり吐く。まるでイーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』だ。

  • 上の動画の 1:53 辺りからのシーン。これも、初見では水に当たったのかなくらいの違和感だが、これは叔父王に飲まされた毒を、吐き戻すのに成功したことを表している。吐き戻した先に、キモい虫が2匹、蠢いている。実際の寄生虫というよりは、解毒を具現化・可視化してみせているのだろう。映画マニアには「名作に名ゲロシーンあり」なんて言う人もいる。それにしても強烈な演出になっている。『竜とそばかすの姫』にも、主人公・鈴がトラウマの核心である川に向かって嘔吐するシーンがあった。

  • この後、小規模な戦いを数回経て、死者の国で出会った聖に「僧侶か?僧侶なら寺へ行け」と言い放つ。

  • コーネリウスから「戦士の鑑」と称えられるほど懸命に戦いつつ、スカーレットは苦しむ。結末のカタルシスへの蓄積が、ここから始まっている。

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このシーンのアクションが神がかっている。実写では不可能な動きをトゥーン調で精彩に描写。リギングで髪先や衣装までが大袈裟なアニメ風にではなく、ごく自然に躍動する。日本アニメーションの2025年現在における到達点だ。
殺陣のスタントコーディネーターは園村健介、アシスタントスタントコーディネーターは川本直弘、スタントアクターはわんころもち伊澤彩織ら。『ベイビーわるきゅーれ』シリーズや『ゴーストキラー』のチームだ。
  • キャラバンで食事や茶を勧められても王女は断る。これは現世で毒殺された経験、死者の国で守備隊に騙された経験から警戒しているからだが、隻眼の隊商主から誠実な言葉を聞くうちに、スカーレットの表情が少しずつ変わり、王女は器を口に運ぶ。冒頭の毒杯とキャラバンの茶、対比的な描写になっている。本作前半の最も心温まる場面だ。その繊細な仕草と表情の演出は、小津安二郎映画のように丁寧で美しい。

  • 終盤、門の前でスカーレットは「果たして私は、復讐を最後までやり遂げるべきか、それとも一切を赦すべきか?」と、かの有名な問い「To be or…」の変奏で自問し始める。

  • スカーレットは煩悶する。ここで画面は、本作で最も長い静止画、影絵のような二重写しとなる。王女は自身を理解しようと自問する。その視覚化だ。止め絵には縁に色収差による偏光、虹色の滲みが見える。揺れ動く方には無い。つまりこの二重性、どちらの像が本体=本心かは定かでないように演出されている。ここまでずっと描かれてきたスカーレットの未熟で不安定な精神性が、最後の関門を突破しようと戦っている。

  • 「どうしてここまで苦しまなければならないの? こんなに私を縛っているのは何? 別の生き方を発見できないのはなんで?」「わからない」「だって仕方ないじゃない、ずっとこうやって生きてきてしまったんだもの」「たしかに。やっぱりじゃあ本当に終わりだね」

  • 核心に迫るにつれ、二重写しだったスカーレットの像が、徐々に重なる。輪郭が収束してゆく。「憎しみから剣を習い、復讐のため、父のため、苦しむ民のため、すべてをささげて」「何度も何度も何度も自分を押し殺して、自分にこうでなくてはならぬと強く言いきかせて、今までずっと、自分を赦さずに生きてきて…自分を赦さずに…自分を赦さずに…自分を…

  • ここが、本作で最も重要な台詞だ。二重の輪郭はピッタリと重なる。3D作画に戻る。自分を縛っていたのは自分自身であること、そして父の真意は、「自分自身を赦せ」という意味だったと、スカーレットは気付く。

  • 次の瞬間、水滴がスカーレットの顔に落ちる。劇中で初めて雨が降ってくる

  • タルコフスキーの『ストーカー』『ノスタルジア』以来、映画において雨あるいは流れる水は、洗礼式を象徴し、雨のシーンでそれまで隠されていた内心が観客に明かされる。バーホーベンの『氷の微笑』ではシャロン・ストーン演じるキャサリンは水の近くにいる時だけ真実を語り、そうでない時は嘘を語っていた。P.T.アンダーソンの『マグノリア』では他に類を見ない衝撃的な雨のシーンで、一斉に過去の後悔などが語られた。

  • 本作ではここまでのシーン、叔父王のによって一旦赦したはずの王女の中の恨み・復讐心が明かされ、次にによって唾が洗い流され、復讐心に縛り付けられていた自身の抑圧が明かされるという、二重底の解放が演出されているのだ。いや、これはすごい。細田守演出の真骨頂である。このような繊細で奥深い描写は、あの高畑勲以外にこれまで成し得なかった。

  • 本作ではここで劇中初めて、亡霊の父が現れる。これまで常に下手、画面左側にいた父が、ここでは上手、右側に現れることに注意したい。

  • 「私のために復讐など、馬鹿げたことはやめなさい。憎しみに囚われ、誰かを恨み続けるより、本当はもっと別に、君が望んでいる君がいるはずだ。君の人生を大切に生きて欲しい。君らしくのびのび輝いて欲しい」 と言い残す父王アムレット。父王からの赦しの幻視によって、復讐から解放されたことが、改めて確認される。この構図は、元の『ハムレット』と完全に逆になっている。

  • 元の『ハムレット』では、ハムレット王子の遺言に従い、友人ホレイシオ(ホレイショー)が悲劇を言い伝えて幕が下りる。

  • 一方、本作では、主人公スカーレット自身が生き残って「彼女しか知らない未来の英雄=聖」の理想を語り継ぐ責任を負う。これまた見事な反転だ。その責任の果たし方は、最後に人類史全体へと昇華される。

(スカー2a) 水から出でて救われる、逆「オフィーリア」役。

  • オフィーリアとは、『ハムレット』の悲劇のヒロインの名だ。彼女は、父宰相ポローニアスの指示に従い、ハムレット王子の演技に傷つき、誤って王子に殺された父への悲しみから、心を病んで入水自殺する。父と妹を失った兄レアティーズは敵討ちを誓う。

  • 悲劇の連鎖にあって、オフィーリアはまったく救われない

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ミレーの描いた『オフィーリア』(1852, 絵画の画像はwikipediaから。以下同じ)
口が開いているのは、オフィーリアは入水したこの時に至ってもまだ歌っているからだ。美しくも哀しく恐ろしい場面であり、この絵は後世に大きな影響を与えた。本作もそのひとつ。
  • だが、ハムレット命名だらけの『果てしなきスカーレット』に、オフィーリアの名だけは登場しない。なぜか?

  • 本作ではオフィーリア役を、スカーレットと聖のふたりが分担しているからだ。

  • スカーレットが担うのは、入水自殺するオフィーリア役を反転する役目だ。水没と復帰をスカーレットは繰り返す。

  • 死者の国に落ちてすぐ、スカーレットは仰向けに血のように赤い沼地に沈む。だが老婆(cv:白石佳代子)に煽られ、復讐を動機に、死者たちを跳ね飛ばして起き上がる

  • 中盤、夢の中の夢でも、水面を覗き込み、その中にまっすぐ潜る。ここは次項で触れよう。

  • 終盤には、見果てぬ場所への階段を登りきったところで、いつの間にか上空に見えていた「空の海」の中に入り泳いでいる。

  • 水面から顔を出すとそこはサンゴ礁に変わっている。

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(スカー2b) 山を登り、水で浄められ新生する「ダンテ」役。

  • 本作の後半、渋谷ダンスから戻ってからの展開は、ひたすらに上昇の場面が続く。スカーレットと聖は画面左上を目指す。

  • このように、山を登り、水を潜り抜け、胎内から生まれ出るイメージは、ダンテの『神曲煉獄篇れんごくへんとも重なる。煉獄篇の山は、上昇空間であり、天の入り口に向かう狭い道である。クライマックスでは罪の記憶が消えるレーテ川、善の記憶が強められるエウノエ川が登場し、これらを通過して洗浄されたダンテは、エデンで新しい人(novus homo)として誕生する。

  • スカーレットは産卵するウミガメ2匹とともに砂浜へ上陸し、産道めいた植物のトンネルを抜けて、固く閉ざされた門の前に立つ。露骨なほど、羊水と子宮の暗喩だ。さらに現世に戻る復活シーンなどは、まるで出産のような演出になっている。ひっひっふー。

  • 植物のトンネルを抜けるシーンは、一人称視点でカメラがぐりぐり進んでいく。細田作品『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』の密林シーンの描写に、新たに産道のメタファー、『神曲』煉獄篇28歌の「神の森」のイメージが重ねられている。

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死者の国の荒野からずっと眺めていた空の海面。
煉獄山頂からさらに階段を登った先に、海の下面。
海の上面を抜けると、やっと青空が広がる。
  • 実は、先ほどの父の亡霊の台詞は、『神曲』でウェルギリウスがダンテに与える言葉とも同期している。

私のために復讐など、馬鹿げたことはやめなさい
憎しみに囚われ、誰かを恨み続けるより、本当はもっと別に、君が望んでいる君がいるはずだ。
君の人生を大切に生きて欲しい。君らしくのびのび輝いて欲しい

父王アムレットの亡霊の台詞。

我が言を、我が許しを待ってはならぬ。
おまえの意志は、自由で、まっすぐで、健やかなのだ。
その意志に従わぬことこそ過ちとなるはずだ。


Non aspettar mio dir più né mio cenno;
libero, dritto e sano è tuo arbitrio,
e fallo fora non fare a suo senno:

ダンテ・アリギエリ『神曲』煉獄篇 第27歌より。原 基晶 訳。原『ダンテ論』p.275より引用。
  • 『ハムレット』を反転していった最後が、ちょうど『神曲』と重なるという狙いすました統合を実現しえた点は、本作の大きな成果だ。

(スカー3a) 聖からの赦しで救われる「マグダラのマリア」役。

  • 本項が、本作を読み解く上で『ハムレット』以上に重要なポイントになる。

  • 聖書では、蔑まれていた女性マグダラのマリアが、悔悛かいしゅんmetanoiaメタノイア。改心、回心などと呼んでもいい)によって救済され、使徒一行に加わる。キリストの処刑を見届け、復活の最初の証人となるのも彼女だ。

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エル・グレコによる『悔悛するマグダラのマリア』(a.1576-1578, 上に同じ)
  • キリストの母、聖母マリアが篤く信仰されたのに対し、13人目の使徒とも、キリストの妻とも言われながら、こちら、もう一人のマリアは、聖母マリアほどの扱いは受けなかった(ちなみに、そこから陰謀論に持って行ったのがD.ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』)。

  • 長髪によってキリストの足を拭いた、名のない罪深い女と後世同一視され、キリスト教美術では「長髪=マグダラのマリアの記号」とされるようになった。

  • 一方、本作では、父王の没後スカーレットが、蔑まれ侮られ、長髪を引っ掴まれ、踏みにじられてきたことが描写され、マグダラのマリアとしての役割をひそかに負わされている。こうした、アニメにキリスト教的象徴を編み込む手法は、細田自身が橋本カツヨ名義で絵コンテを切った『少女革命ウテナ』を想起させる。

  • 老婆に導かれ、聖と出会い、キャラバンと交流し、旅を続ける中で、復讐と暴力に凝り固まっていたスカーレットは、変容し始める。これがマグダラのマリアとしての悔悛である。

  • さらに、1.墓掘り人の手を借りて古い自分を埋葬し、2.奇跡が現実になった時代の渋谷を幻視することで、スカーレットは自ら、3.長髪を切り落とし、次の段階の役割へ進む。

  • この不可思議で奇妙奇天烈きてれつな手順を、『神曲』煉獄篇 第9~33歌と比較して検討することもできる。が、ここではより普遍的な人類共通の根拠に沿って説明しよう。

  • 文化人類学者 A.ファン・ヘネップ や V.ターナー は、世界中の民俗文化を分析し、3段階からなる通過儀礼(rite of passage, initiation)のパターンを見出した。すなわち;

  1. 共同体や日常からの分離

    • ここでは象徴的死。すなわち、墓掘りによって、スカーレット自身が埋葬される

    • 墓掘りのシーンの前から、カメラがティルト、つまり縦に動いていることに注意しよう。夢の中でスカーレットは水面に立つ。水面を覗き込み、水中に飛び込むと同時に衣装が花のドレスに変わる。さらに降りて行くと死者の国の地面に空いた大穴が見え、その底に墓掘りたちが居る。ここまでずっと長いティルトダウンのカメラワークで、自己への沈潜であることを印象付けている。棺に入る手前に、長い予告があったわけだ。

    • なお、大穴が映る構図は、冒頭エルシノア城に囲まれた中庭、父王の処刑場へのティルトダウンと重ねられている。

  2. 宙吊り状態の過渡期・境界線上=リミナルな状態

    • ここでは幻視。すなわち、渋谷のどこか空虚さを感じる駅前風景の中で、フェスか盆踊りめいたダンスが展開する。

    • 不自然で人工的でシュールな空間における、白昼夢のような祝祭。それがまさに通過儀礼の第2段階として必要とされた、リミナル空間の意味だ。

    • 17万人がシェアしたリミナル空間写真集不自然さ・不気味さ・人工感は、本作の渋谷の風景と重なる。あの渋谷ダンスは、意味不明でサイケデリックな不思議空間で繰り広げられなくてはならず、見当識を喪失した、地に足のついていない感じのまま踊っていることこそが、薬物を用いずにトリップすることが、スカーレットの成長には重要だったのだ。

    • なお、このシーンはミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』のオマージュになっている。エマ・ストーンとドレスの色も同じだ。

  3. 新しい自己による帰還・統合

    • ここでは聖との会話と断髪。すなわち、愛を得て長髪(マグダラのマリアを示す記号)を切り捨て別人格になること

    • 通過儀礼は完了し、これ以降のスカーレットは次のキリスト役を担う。

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批評誌『エクリヲ』最新16号の、不気味空間「リミナルスペース」特集。
この空間版「不気味の谷」現象は、近年注目を集めている。
  • 実際、仏教の悟り譚にも、1.無我、2.悟り、3.衆生済度、という通過儀礼に似た3段階構造がしばしば見られる。

  • イスラーム神秘主義(スーフィズム)では、ファナー(自己の消滅)とバカー(再存)という2つの重要な状態があり、しばしば「自己の死 → 神的な啓示の体験 → 新しい自己としての再生」という3段階に読める構造を持つと解釈されてきた。

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イワノフによる『私に触ってはならない(マグダラのマリアと復活直後のキリスト)』(1858, 同)
なお、本作で、ふたりの別れのシーンはこの絵を全く逆の形で描き直す。復活直後ではなく直前であり、キリストとして復活するのは女性側=スカーレットの役割となる。逆にキリストとしての役割を渡し終えた聖は、脇腹のキズによって息絶え、虚無になることになる。

(スカー3b) 聖に代わって復活し救う、救世主「イエス・キリスト」役。

  • 中盤以降、3段階の通過儀礼を経て、スカーレットは聖の考えを受け容れ、言わば聖の教えに帰依し、聖を愛し、イエス・キリスト役に同一化していく。少女を救い、父の遺言を聞かされて、叔父王を赦そうとする。

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過去のスカーレットと世界の未来を暗示する少女(cv:白山乃愛、東宝芸能の子役13歳)。スカーレットは純真無垢だった過去の自分を、彼女に重ねて見る。髪型の対比に留意のこと。
「私、ホントはお姫様に生まれたかったなあ。あなたもそうよね、そうでしょ? もし私がお姫様だったら、したいことがあるの」「…何?」「私たちみたいな子どもが、死なない世界にする
スカーレットは金貨と引き換えに、少女から髪の色と同じスカーレット(緋色)のスカーフを受け取り、首に結んでもらう。切断した長髪の代わりであり、少女の希望との契約でもある。
  • 山頂でポローニアスの剣を掴んだ時、スカーレットは右手にキズを負う。聖書では、手のキズは「キリストが十字架にかけられた際の釘跡」「正義と審判」を象徴する聖痕(stigmata, stigma)であり、これは決して完治しない。

  • なお、Scarlet から Hamlet の -let を取り除くと、残るのはキズ、キズ跡、ヒビ割れを意味する Scar だ。ちなみに、同じくハムレット翻案映画である『ライオンキング』では、叔父王の名がクローディアスに代わってスカー(Scar)だった。ハガレンにもいたよね、スカー。

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ヴォルティマンドに撃たれた左肩の銃創(第一の聖痕)に続いて、この時の右手のキズ(第二の聖痕)も、聖によって応急処置される。この傷は完治せず、現世にまで持ち込まれる。
  • スカーレットは審判の最後になって、赦しの理由を、第三者に、過去と未来に見つける。「あなたを赦せたわけじゃない。赦せるわけがない。だけど、もう止める。争いが終わるように願った、全ての人々のために。それで未来の人たちが、仲良く平和に暮らせるかもしれないのなら

  • 未来のために行動を変える。これは細田の独立後初監督作品『時をかける少女』と同じだ。他者と歴史を知ることで、未来につながる自己を得る

  • かくしてスカーレットは、聖の遺志を継ぎ、キリスト役を引き継いで現世へ「復活」する。

  • ここで奇妙な描写が挟まる。スカーレットは毒を盛られ、解毒剤で助かるまで眠っていただけのはずだが、復活後も髪は短いままで、右手には聖痕が残っている。夢のような体験の中の出来事が、現実にフィードバックしている。

  • 夢の経験が、なぜか現実側に刻印されている。これはS.T.コールリッジが詩に残し、J.L.ボルヘスが広め、J.コクトーが映画『オルフェ』で初めて映像にした、いわゆるドリームロジックだ。『千と千尋の神隠し』や『全修。』では髪留めを夢から持ち帰っていた。叔父王の死因も、もしかすると聖の死亡も、後付けの理屈より、ドリームロジックの一部として捉えるべきだろう。

  • 通過儀礼に関して触れた人類学者ターナーは、こうした現象についても「リミナルな状態」で説明している。―― 勘の良い方なら、もうお気づきだろうか?

  • 何と、スカーレットは3段階の通過儀礼を二重に行っているのである。

  1. 共同体や日常からの分離

    • 本作全体で見ると毒による仮死状態

    • 叔父王に毒を盛られ、スカーレット自身が死の淵をさまよう

  2. 宙吊り状態の過渡期・境界線上の=リミナルな状態

    • 本作全体で見ると死者の国

    • 何もかもが不条理な世界で、スカーレットは戦いと愛と赦しを経験する。渋谷ダンスをしのぐ、不自然で人工的でシュールな空間におけるスペクタクル。地に足のついていない感じのまま、非日常的で理不尽な世界をスカーレットは旅した。

    • その中には、前述した3段階の通過儀礼が、箱の中に入った箱のように内包されている。

  3. 新しい自己による帰還・統合

    • 本作全体では、聖との別れと現世への帰還。日本語では「黄泉よみの国から帰る」からこその、よみがえる。

    • 通過儀礼は完了し、これ以降のスカーレットは1層下に降りて、新しい女王役を担う。

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通過儀礼の入れ子構造。さらに聖とは対称になっている。あわせて四重構造。そして取りも直さず、本作という斬新奇抜な映画の体験は、観客であるわれわれ自身にとって、リミナルな空間となっている。
なお、それぞれ現世でのシーンは平面2D作画で、死者の国ではおおむね3Dモデリング・リギングでアニメーションしており、全体がχ字型の対称構造になっている。また、カミシモ(上手-下手)の舞台文法も、同じように対称構造になっており、通過儀礼の中心性を強めている。このことは別稿でメタ的に説明しよう。

(スカー4a) 毒母を赦免する、デンマーク王国の「新しい女王」役。

  • 『ハムレット』では王子も、叔父王も、継母王妃もみな死に、全滅して終わる。王妃が反乱を唆すという構図は、もうひとつのシェイクスピア悲劇『マクベス』のマクベス夫人だ。ふたつの悲劇が混り交じっている。

  • 一方、本作では、父と聖によって救済された後、スカーレットは復活し、デンマーク王国の女王となる。城の広間に臣下の声が響く。「新しい女王に栄光あれ!」

  • 叔父王クローディアスの台詞から、継母王妃ガートルード(cv:斉藤由貴)こそが反乱の首謀者であることがほのめかされるが、叫んで退場する継母を、スカーレットは穏やかに見送り、復讐しようとしない。

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継母王妃ガートルード。王妃が天然なのか確信的な毒親なのかは『ハムレット』同様、曖昧なままとなる。

(スカー4b) 民衆に統治を赦され、世界を救済する「民主的・社会契約的リーダー」役。

  • デンマーク王国の女王で終わるのかと思いきや、最後のシーンでは明らかに王国の情景や常識的な人数ではなくなっている。スカーレットは民衆から最初女王と呼ばれるが、対話が進むうちに、最後は「リーダー」と呼ばれる。

  • スカーレットはいきなり民衆から問われる。「新しい女王様、前の王様みたいに私たちを苦しめないと約束してくれますか。」「貧しい者だけバカを見るのは、もうごめんだ!」「そうだ!」

  • このシーンは手描き作画であるにもかかわらず、女王も群衆も様々な方向から描かれる。イマジナリーラインは無視され、敢えて全方位と対話しているような錯覚を起こさせる演出となっている。

  • スカーレットは世界の民衆に公約を提示し、社会契約を呼び掛ける。彼女は、宗教や奇跡に頼らない。衣装は16世紀のままだが、このシーンの時代設定は現代社会を表しているのである。そのため、誰ひとりとして定番の「God save the Queen.(神よ女王陛下を救いたまえ→女王陛下万歳)」を言わない。「神が救ってくれる」という期待は、スカーレット側にも、民衆にも、どこにもない。神に替えて、契約と法が、社会を成立させる。

  • 「みなさん、もし私をこれからの国の責任を担う者として選んでくださるなら、みなさんの幸せのため、最善を尽くし、奉仕します。」

  • 「子どもは絶対死なせない。」

  • 「たとえ苦しみながらでも、藻搔きながらでも、もう争わないで済む道を、諦めないで探し続けることを約束します。」

  • これまで争いがなくなるように願って亡くなった、すべての人のために、 これから幸せを願って生まれてくる、すべての人のために。」

  • 懐疑の問いかけ「本当に争いが無くなる世界がやってきますか?」には、 「はい、あなたが賛同して協力してくれたなら。」と返す。契約の対価は、各個人の賛同・協力なのである。

  • 民衆は少しずつ同意し、「新しいリーダーに栄光あれ!」と叫ぶ。

  • つまり本作は、民衆の願いと、リーダーへの赦しと法への信頼回復の物語でもあったことが明かされている。民衆の声は、キャラバンと同様、豪華声優陣が当てている。単なるモブではなく、隠れた主役陣だ。アニメファン各位は、ここを聞き逃さないように。

  • 初見では不可解なラストシーンだが、四重構造さえわかっていれば、なるほどそう来たか、という展開だ。

  • その後スカーレットが果たして理想の実現に成功したかは語られない。だが本作のアバンタイトル最初のシーン、長髪に花のドレスの装いで見果てぬ場所に立ち、振り返って涙をうかべるスカーレットの姿は、死後ふたたび聖と巡り合ったというエピローグにも思える。

ヒロイン、聖(cv:岡田将生)の5つの役割。

聖には『ハムレット』成分が薄い。そのため、多くの方が初見では最も有名な戯曲『ハムレット』に現代日本人がひとり挿入されたと理解するだろう。しかし、それはミスリーディングな罠だ。本作はスコセッシの『シャッターアイランド』のように、混乱と欺瞞ぎまんが仕込まれていて、観客を戸惑わせる。

実際には、聖書という、人類史上最も有名な物語へ、最も有名な戯曲『ハムレット』が挿入されている。
スカーレットと聖、2人分の身体のキズ=聖痕が合わさって、キリストの身体になる。これは、古い救済である宗教(=聖)と、新しい救済である社会契約~民主主義(=スカーレット)が、連続していることを示唆している。

(聖1) 救済しも救済されもしない現代的「超いいこちゃん」役。

  • 死者の国に来たばかりのスカーレットは、修行しても悪役に騙されてしまう。現世の最後で、うっかり自分も毒を飲まされ叔父王から「赤んぼう」呼ばわりされてしまったように、卒業したつもりで「いいこちゃん」が抜けていない。

  • だが、より純真無垢な21世紀出身「超いいこちゃん」である聖を対置すると、16世紀出身のスカーレットは、それなりにスレていて、現実主義者で、聖より戦えることが示される。聖から見ればスカーレットは十分に「猛獣」なのだ。

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猛獣が吠える。「現実を受け容れろ! 目の前を見ろ! いいこちゃん」「綺麗ごとを言うな!」
  • このように、スカーレットの成長は常に、現代的な理性と倫理の象徴である聖を鏡として、段階的に確認されてゆく。聖自身も、そんなスカーレットから影響を受けて変わっていく。ふたりの心情の変化を追っていくことが、本作鑑賞の本道だ。

  • 岡田将生の抑制的な演技が、死者の国でたった独りの21世紀出身者、理想主義者として浮いている、聖のポジションを裏付けている。岡田はゴドウィン演出版の舞台でハムレット王子役を好演していたが、ヒロインポジションでオファーされるとは予想していなかったのではないか。

  • 一体なぜ、そして何者が、聖だけを、16世紀より後の時代から呼び出したのか、それは劇中明かされない。けれど、本作の細やかな演出と、ストーリーのヒビ割れを通して垣間見える四重構造から論を立てて行けば、自ずと犯人が推定できるようになっている。

  • 聖は中盤まで、細田作品によくある驚き屋 兼 鑑定役として機能する。『サマーウォーズ』で言う佐久間だ。

(聖2a) 歌とリュートで王女を癒す、逆「オフィーリア」役。

  • 『ハムレット』のオフィーリアは、父が王子に殺されて錯乱し、歌いながら、舞台をさ迷い歩き、歌いながら自殺する。オフィーリアの歌は誰も何も救わない救済の不在の象徴とも言える。

  • 一方本作では、歌はオフィーリア役とキリスト役が担う。出会う前から、聖の鼻歌が聴こえてくる。初見ではわからないが、これはあの「祝祭の歌」だ。

  • 出会った途端に「寺へ行け」と言われ、リュートをキャラバンで習い、演奏し、受け取る。初期の時点での聖は受動的である。

  • 癒しに関してはプロであっても、歌と音楽に関してはアマチュアの聖。だが、その聖の歌と音楽の力が、やがてスカーレットを救う。オフィーリアの別の側面もまた、もうひとりの主人公聖によって反転されている。

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シェイクスピア当時の曲、ダウランドの『蛙のガリアルド』。ちゃんと、8コース15弦のルネサンスリュートが使われている。演奏は会所幹也。

(聖2b) 叱責し送り出す、永遠の恋人「ベアトリーチェ」役。

  • 『ハムレット』のヒロインがオフィーリアなら、『神曲』のヒロインはベアトリーチェ。著者ダンテの人生において、9歳で出会い、18歳のとき再開し、25歳の時に死別したとされる恋人だ(ただし、近年の研究では当時すでにダンテには妻と子があったという。近代に理想化されたほど純愛ではなかったのかも)。ダンテはベアトリーチェの死後に彼女を讃える詩『新生』を、のち晩年に『神曲』を完成させた。

  • 『神曲』では、ダンテは地獄と煉獄を古代の詩人ウェルギリウスと旅する。本作において、異なる時代から来たは、まさにウェルギリウスの置き換えだ。

  • やがてウェルギリウスは、ベアトリーチェの依頼でダンテを助けていたことが明らかになる。煉獄山の頂上でウェルギリウスに代わって、ベアトリーチェがダンテを迎える。ベアトリーチェは厳しくダンテを叱責し生き方を改めさせる。その後、彼女が見つめ微笑む中、ダンテは昇天する。

  • 一方、本作では、やはり聖が「死んでもいい」「離れたくない」とぐずるスカーレットを叱責し、『ワンピース』のニコ・ロビン同様、「生きたい」という意志を言葉にして確認させる。そして聖が見つめ微笑む中、スカーレットは現世へと昇っていく。聖はウェルギリウス役とベアトリーチェ役を併せて演じる。ここまではほとんど『神曲』通りだ。

  • ところが、スカーレットは最後に、虚無化する聖を抱き寄せて口づけする。その意味は、恋愛的なキスであるだけでない。

  • これは『神曲』からの改変で、むしろ『新生』に近い解釈だ。別れの挨拶としてのキス・サルーテ(英語 salutation に相当する、祝福・挨拶、とりわけ惜別の挨拶)が、 救済や魂の安寧を意味するサルーテ(英語 salvation に相当)へと昇華したことを意味していたのではないか、と『神曲』翻訳者で研究者の原先生から指摘いただいた。

  • 救済は、神による奇跡として起きるのではなく、人が人を承認する行為でありそれが「愛」なのだというメッセージは、『神曲』から本作まで、まっすぐ貫かれている。本作の基礎に『ハムレット』『神曲』そして聖書が置かれているのは、これらが書かれた当時の時代状況を越えて現代を照らす「古典中の古典であり、それゆえにこそ常に新しい」からだ。

(聖3) 傷を癒やし希望蒔く、奇跡の預言者「イエス・キリスト」役。

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看護師として同行を申し出る聖。「勝手にしろ」と応じるスカーレット。次の瞬間、十字に回析する夕陽が画面に映る。本作で十字架のモチーフは、きわめて慎重に、さりげなく登場する。
  • 聖の最も重要な役割は、キリストとしての言葉と役割をスカーレットに届けることにある。

  • ふたりが巡り合って最初の夕陽は、ブルーミングとレンズフレアによって太陽光線が十字形に回析している。見過ごしがちな、さりげない演出だ。

  • 聖は、治癒と傾聴を優先することで、不信で固まった死者の国の人々の心と身体を解きほぐし、平和主義、理想主義、無償の愛で、少しずつ仲間にしていく。21世紀におけるプロによる日常的な看護・介護は、16世紀基準の死者の国では「癒しの奇跡」に他ならない。

  • ついには、叔父王の送り込んだ刺客、コーネリウスとヴォルティマンドまで、味方につけてしまうことになる(――と思えるが、実は別にもうひとつ解釈がありえる。これについては後述しよう)。

  • 拳の刺客コーネリウスに対して聖は、直接射るか迷った末、発射直前に弓を上方に向け、警告のかぶら矢で注意を逸らしている。その隙を突いてスカーレットはコーネリウスに勝利するが、聖は治療しを与える。

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初登場のシーンで、聖が見せる手のひら、親指側と小指側には、実は弓道特有のタコがある。なお、弓道の監修は、法政大学と中央大学の弓道部とのこと。どちらにも細田守監督が自ら取材に訪れている。
  • ふたりは崩れた古代の教会を訪れ、床のタイル造りの地図から目的地である煉獄山(仮称。名前は劇中示されない)の場所を知る。実に見事な美術。ここで地図上の山が、手を模している点も興味深い。

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こちらのnote記事にあるように、宗教美術における手の表現は雄弁だが、タイル地図でそれを行うとは。
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スクリーンXの予告編によると、地図は全体でこのようになっている。
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ミケランジェロによる『アダムの創造』より、神の右手と、最初の人間アダムの左手。映画『ベン・ハー』ではこの構図が効果的に使われていた。『果てしなきスカーレット』劇中ではアダムの左手が、左右反転して用いられている。ヒトの象徴であり、最後に聖痕と聖による治療の証拠が残る、王女の右手を思い出させる。
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手と言えば、冒頭でスカーレットを血の海に引き込もうとする手の動きも凄まじかった。
  • 銃の刺客ヴォルティマンドに対しては、自ら身をさらし、庇ったスカーレットが左肩を撃たれる。ドラゴンが上空からヴォルティマンドたちを威圧する中、聖はスカーレットの銃創を手当てし、スカーレットは劇中で初めて、女性として恥じらう。

  • 左肩のキズは、キリスト教において「十字架の重荷」「家族や歴史から強制的に背負わされた使命」を象徴する聖痕である。

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ヴォルティマンドに停戦を呼び掛けに行って窮地に陥った聖を、スカーレットは助けに走る。剣を抜き放とうとして、聖の言葉を思い出し、鞘を付けたまま「殺さずに」戦うことを決める。細やかな演出から、スカーレットと聖が通じ合ってきたことが伝わる。
  • 盗賊が虚無になったのを見て、聖はつぶやく。「職場でよく言われた。看護士だったら人が死ぬのに慣れて行かないと仕事にならない。いちいち悲しんでいたらきりが無いって。でも、死ぬのに慣れて心が麻痺したら、きっと別の何かを失う」この台詞は、現実主義に対する疑義であり、同時に死者の国における虚無の説明にもなっている。祝祭の歌で言う所の「私が生きる意味を なくしてしまう前に」だ。

  • この重要な台詞が告げられたその瞬間、聖の通過儀礼が始まる。後に控えたスカーレット同様、3段階からなる通過儀礼である。

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聖の通過儀礼は、スカーレットと鏡映しになっている。ただし聖の大きな方の通過儀礼構造は、現世への生還という形では果たされない、悲劇性。そして、果たされないからこそ、未来には「果てしなき希望」がある。エモい。
  1. 共同体や日常からの分離

    • やはり象徴的な死

    • 聖は白昼夢の中で、現世の病院の集中治療室で、昏睡状態になっている自分をまるで他人のように見る。奇妙なことに日中であるにもかかわらず、病院は外来待合を含めて、人影はまったくない。室内にはニュースと、祝祭の歌が流れているが、やがてすべての音が途絶える。人工的で不自然な空間としての性質は、2.からこの1.へとズラされている。

  2. 宙吊り状態の過渡期・境界線上の=リミナルな状態

  3. 新しい自己による帰還・統合

    • 夜空を眺めていた聖は、星空の中に異なる動きを見せる天体を見つける。ひとつだけ斜め左上へ昇って行く十字の光。そこから聖は、自分とスカーレットの運命がこの後分かれていくであろうことを予感する。

    • 聖書の中の「光のしるし」を重ねずにはいられない場面だ。キリストは啓示を受け、周囲に別れの時が近づいていることを告げる。「人の子は上げられなければならない」「光のあるうちに、歩きなさい」(ヨハネ福音書 12章)。

    • 通過儀礼は完了し、これによって聖は次の、暴力と犠牲を引き受ける英雄的生贄へと転換を遂げる。

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星空の中、ひとつだけ斜め左上へ昇って行く光。この光も十字の回析。
別れの啓示。自分の運命を悟った聖は、「戦わず歌う救世主」という役割を離れる。
  • 聖は、焚火を前に、未来はもっと良いものだとスカーレットに「預言する。通過儀礼の中で渋谷ダンスを幻視したスカーレットと語り合い、王女を救済する。「泣くなスカーレット。俺がそばに居る」明らかに2人の関係が恋愛っぽく変わってきている。なぜ毛布の下が裸身なのか、途中省略されてるシーンがありそうだ

  • 通過儀礼を経て変容した聖は、キャラバンでもらったリュートを、市場で弓籠手に交換する。

  • ここは重要なシーンだ。不戦の誓いが通用しないことを知り、スカーレットの言う通り「目の前の現実を見る」決意がなされたという演出だ。なお、この店には日本の武者鎧も売られている。

(聖4) 子どもを助けるため、蛮行と犠牲を引き受ける「英雄的生贄」役。

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左がギルデンスターン、右がローゼンクランツ。染谷将太のドサンピン演技たのしい。16世紀衣装のモデリングも、見事のひとこと。
  • これらロゼ&ギル同様に、他にも重要さを反転させられた特使たちが居る。これは後述しよう。

  • ちなみに、ミュージカル『ライオンキング』も『ハムレット』をハッピーエンドに変えた二次創作だが、ロゼ&ギル役にあたるティモンとプンバァはより重要な役割に引き上げられている。本作のロゼ&ギルのコミカルな演出は、ティモンとプンバァを彷彿とさせる。ハクナ・マタタ!

  • 聖とロゼ&ギルが対決するこのシーンでは、劇中で最も強烈にダッチ・アングルが使われている。カメラが傾けられ、ギルデンスターンの首はさらに傾く。緊張と切迫感が強調される構図が、執拗しつように繰り返される。少女が落とした貨を見つけるギルデンスターンの名は「の星」の意。

  • また、ロゼ&ギルの部下に取り押さえられたスカーレットは、十字架へはりつけにされたキリストのように、腕を両側から引っ張られている

  • 聖は、老婆に「お前は何のためにこの世界へ来た」と問われながら、スカーレットと少女を助けるためやむを得ず、弓と矢で2人を殺す。老婆はここで、聖がルールに違反しないか厳しく監視している。

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ずっと「戦いを止めてください」「殺すな」と言ってきた聖が、スカーレットと子どもを守るために、ついに自分の手を汚す。前半コーネリウスを撃てなかった時は上手側だったが、今回は下手側で斜面下側。位置関係でも、劇判でも、追い詰められたことが演出されている。
  • ギルデンスターンを射殺し、襲ってくるローゼンクランツを迎撃する聖。スカーレットは気づいていないが、聖はローゼンクランツから相討ち気味に左の脇腹を刺されている。内臓まで達するこのキズが悪化し、しばらく後に虚無になる。

  • キリスト役の聖を殺すこの役割に、ローゼンクランツが選ばれた理由は、彼の名ローゼンクランツがドイツ語で「薔薇の花輪」転じて「ロザリオ」そのものを意味するからでもあるだろう。これは十字架の付いた数珠で、キリストの生涯をひとつひとつ追体験する儀式用の道具だ。儀式の最後に、キリストは十字架にかけられその後復活する。

  • 現世の渋谷でも、聖は通り魔から子供を助けるために左の脇腹を刺されている。死者の国のローゼンクランツと、渋谷の通り魔、ともにダッチ・アングルのまったく同じ構図で、2つの場面が重なる演出。ただし渋谷の聖は両手を広げ制止のポーズ。通り魔へ攻撃はしない。この違いは、死者の国では聖がスカーレットの影響を受けたからだ。

  • 聖書における左の脇腹のキズとは、ご存じの通り、十字架にかけられたキリストがローマ兵の長ロンギヌスに槍で刺されて死んだ(あるいは一説に死亡確認された)傷口であり、「全人類の罪を代わりに背負った証明」「犠牲と代償」を象徴する、最後の聖痕である。ここは、聖にとってのゴルゴタの丘(キリスト処刑の地。丘とも山とも言われる。本作では煉獄山の中腹)だった。

  • この場面は、劇判の低音メロディにも音楽ファン・映画ファンを唸らせる仕掛けがこらされている。別稿で音源をもとに解説しよう。

  • 聖書ではキリストはこれほどの暴力を振るわない。せいぜい神殿で祭壇をひっくり返すくらいだ。だが、J.キャンベルの『千の顔を持つ英雄』が解き明かしたように、多くの神話で、

    1. 年上の存在や天から「使命=神命=召命=calling」を受け、

    2. 目的を確認し、

    3. 英雄として覚醒し、

    4. 神に異議申し立てするほどの蛮行、生命力の暴走を起こし、

    5. 最後はハッピーエンドではなく報いを受けて亡くなる(つまり結果として、自分を生贄いけにえに世界を救う)という定番構造がある。

  • インドではヒンドゥー神話のラーマ、クリシュナ、釈迦。ギリシャ神話ではヘラクレス、アキレウス、ヘクトールなど。メソポタミアではギルガメッシュ。北欧神話ではシグルズ、ジークフリート、カレワラのレンミンカイネン。ケルト神話ではクー・フーリン。アステカ神話ではケツァルコアトル。ポリネシア神話のマウイ。アフリカ~ハイチのヨルバ神話ではシャンゴ。そして日本神話では最古の英雄たる日本武尊やまとたける伝説が、ほぼ同じ構造を持っている。誤解を恐れずに言えば、キリストは最後の神話的英雄のひとりである。

  • 彼らの英雄の物語も、一種の通過儀礼であり、人類の普遍的な原型(monomythモノミスなのだ。

  • 人類の歴史が「武力による支配」から「法と倫理による統治」に移行する中で、例えばジークフリートがきれいなゲオルギウスになったように、これらの神話が宗教化したのであって、原型はいずれも、もっとずっと生々しく、痛々しく、ドロドロしたものだった。

  • 宗教や倫理が生まれる前の、人類の原点にあたる普遍的ドラマを、細田守は描こうとしている。そのため、本作中の4つの通過儀礼のうち、聖の通過儀礼は、この英雄物語構造に沿っている。

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スカーレットは帰還して成長する人間。
聖は帰還しない英雄。
  • 神には成しえない聖性、それが英雄だ。聖は気まぐれで非暴力路線を諦めたのではなく、たった一度、老婆に煽られ、スカーレットと少女(=未来)を守るためにその命を捧げた。

  • 聖がスカーレットや、キャラバン、特に隻眼の隊商主と、キズを勲章として背負う男性から、そして合戦で倒れた者たちから、多くの影響を受けた演出が、ここまで描かれてきた。

  • 中盤までを理想主義的、悪く言えば夢想家のヒロインとして振る舞っていた聖が、少しずつ現実主義寄りに成長し、終盤、ただ一度英雄として振る舞う、この変化こそが聖というキャラクターアークの精髄である。

  • 「正しい」からそうしたのではなく、「そうせずにいられない」から ―― それこそが「生きる」ということであり、「」ではないのか。『バケモノの子』や『竜とそばかすの姫』で誤解と冷笑を受けながら必死に訴えてきた細田守の、不器用で生真面目な主張がここにある。

    • 『竜そば』の主人公・鈴の母はなぜ無謀な救出を敢行したのか。

    • そのトラウマを抱えた鈴は、どう考えても無謀で「正しくない」個人情報晒しや単独東京行きを、なぜ行ったのか。

    • それを止めなかった周囲は果たして本当に理解者か、無責任な野次馬か、それともそこにも別の「せずにはいられない」があったのか。

    • これらは、冷笑しポリコレで斬って終わるには、もったいない問いだ。

    • 本作での聖の行いは、それを改めて問うている。

  • この斜面における受難の場面は、ドラゴンの落雷よりも重要なシーンであり、映像のあちこち、ひとつひとつの繊細な動作にニュアンスが隠されている。アンテナを上げて凝視しよう。

  • 次のシーンで煉獄山が噴火し始める。飛翔する火山弾。流れ出す溶岩流。聖の左脇腹のキズからの出血の世界的表現だ。本作で最大のヒビ割れ、世界のキズ(scar)である。溶岩が固まった部分は、屍が折り重なったかのように描写され、その隙間からまだ赤熱したマグマが光る。後述するリヒテンベルク図形にも似ている。

  • スカーレットは聖を支えて歩き始める。ふたりの別れが迫る。

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ハムレットとオフィーリアというよりは、ロミオとジュリエット型の悲恋。そこに、キリストとマグダラのマリアの姿が、そしてもちろん『時をかける少女』が重ねられる。

コーネリウス(cv:松重豊)
ヴォルティマンド(cv:吉田鋼太郎)
特使たちの、3つないし4つの役割。

(特使1a) 父王の最期の台詞を娘に伝える「特使」役。

  • 『ハムレット』では、この2人のおっさんはノルウェーから来た外交特使。本来はややチョイ役だ。

  • 一方、本作では宰相ポローニアス(cv:山路和弘)と子レアティーズ(cv:柄本時生)を凌ぐ重要な役。つまりここでも『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』式に、重要度を反転している。

  • ここに蜷川組でホレイシオ役を何度も演じた松重、ならびに、キャリア初期から根っからのシェイクスピア俳優で、今や蜷川の後継者であり自ら演出とクローディアス役を演じた吉田をそれぞれ当てていて、特に吉田は、渾身の演技で応えている。すげーよ。

  • コーネリウスは、叔父王の居場所をスカーレットに伝える。

  • 父王アムレットの公開処刑の場において、2人は父王の最期の言葉を聞いており、ヴォルティマンドはそれをスカーレットに伝える。

  • 2人とも外交官として登場するわけではない。ただ役割はメッセンジャーなので、特使(envoy)ではあると言える。面白い翻案だ。

(特使1b) あるいは「二重スパイ」役。

  • ただ、ここにもうひとつ検討すべき解釈がある。それは、ふたりが実際に『ハムレット』同様の「隣国から派遣されたノルウェー人」であって、ふたりが最初から、すなわち現世にいた時からスカーレットを助けようとしていた可能性である。

  • 『ハムレット』では、凄惨な殺し合いで全滅したデンマーク王家の宮廷に、ノルウェーのイケイケ王子フォーティンブラスが入城し、ホレイシオから事の顛末を聞き、自分がデンマークを治めることを宣言して終幕する。

  • しかし、である。もし本作の設定のように――王子ではなくスカーレット「王女が継承権を持っていたなら、叔父王クローディアスがタカ派でノルウェーとの戦争に前向きであったなら、デンマーク王国の運命はどう変わるか? 本作に顔を見せないノルウェーの王子はどのように考え、行動するか? その部下であるコーネリウスとヴォルティマンドはどのような指示を受け取るだろうか? この可能性を示唆して下さったのは、天才🐾文学探偵犬さんである。厚く感謝したい。

  • この条件下ではおそらく、フォーティンブラス王子はスカーレットに手紙を送り、復讐を煽ってクローディアスを排除、特使2人に二重スパイとしてそれを手伝わせるだろう。排除した後で、自分がスカーレットと政略結婚すれば、ノルウェーとデンマーク王国は同君連合として統一できるからだ。もしこの企みをクローディアスが阻止したことが、スカーレット毒殺の真相だったならば――。

  • コーネリウスとヴォルティマンドは、スカーレットとともに殺され、あるいはスカーレット服毒と前後してノルウェー軍とデンマーク軍が開戦、戦いで多くの兵とともに宰相ポローニアス、その子レアティーズ、特使2人が一斉に死亡、結果として死者の国に勢ぞろいしたとしても、何もおかしくないのである。恐るべきシナリオだが、劇中にはそれと整合する事実しかない。こうした読み取りも、十分に可能である。

(特使2) スカーレットと聖、それぞれへの「試練」役。

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拳の特使、コーネリウス。松重豊は『孤独のグルメ』より本当はこういう演技が得意。
  • 死者の国に戻ろう。ふたりの刺客は順番にスカーレットたちに襲い掛かる。

  • コーネリウスは拳と頭突きで、ヴォルティマンドは騎乗ラリアットと銃で、襲ってくる。ただし、父王の最期の言葉に影響された(あるいは最初からスカーレットの隠れた味方であった)ふたりは、何とかしてスカーレットを生け捕りにしようと刃物を使わない。このことは初見で気付きにくい、部下たちはふたりの意図を知らされず、剣で襲い掛かってくるためだ。

  • 一方、主人公側の対応は、ふたりの刺客に対して異なる。

  • コーネリウスとその部下に対しては、スカーレットは遠慮なく刃物を刺して仕留める。聖は、拾った鏑矢と、スカーレットが倒した部下から得たロングボウでスカーレットを援護しようとするが、敢えて矢を逸らす。

  • ヴォルティマンドとその部下に対しては、聖はリュートを置いて馬に乗り、王女より先に、単独で停戦交渉を呼び掛けに行く。スカーレットは、その前に襲ってきた部下を含めて、敢えて刃物を使わない

  • 極端な現実主義者だったスカーレットと極端な理想主義者だった聖が、それぞれ別方向に成長し、互いに歩み寄ったことが、行動の変化として、はっきりと示されている。

  • ところがドラゴンが現れたために、ヴォルティマンドと部下は遺跡の中に退避し、銃で聖を撃とうとする。銃弾は庇ったスカーレットの左肩に当たってしまう。ドラゴンに威圧される間、一時休戦。その隙に聖はスカーレットの銃創を手当てする。

  • 治療中の親密な会話から、スカーレットは聖が看護師になった動機を知り、聖はスカーレットの中に「生きたい」という願望を見つける

  • コーネリウスとヴォルティマンドそれぞれとの対決→受傷→治療→和解を通じて、スカーレットと聖は双方大きく成長し、行動を変化させ、互いに接近していく。

  • このふたつの戦いは、アクションシーンとして秀逸なだけでなく、非常に濃密な心理描写になっている。まるで黒澤明だ。

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銃の特使、ヴォルティマンド。吉田鋼太郎が良すぎる! 銃持ってアワワしてるのも可愛い。吉田はオファー当初に役名を聞き、最初は「なんだ、端役か」と思ったという。おそらく史上最高にカッコいいヴォルティマンドである。

(特使3) スカーレットと聖に従い助ける「使徒」役。

  • 聖書ではキリストの弟子、使徒は12人いた。使徒は師であるキリストを信じ従い人生を捧げながらも、試したり煽ったり疑ったり裏切ったりした末、師を失う。最後は各々が布教につとめ、キリストの行為を模倣するように迫害され殉教する。

  • 一方、本作では12人分をこの2人で代替している。使徒ふたりは、山の頂上でポローニアス親子の襲撃から、スカーレットと聖の窮地を救う。

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宰相ポローニアスとその子レアティーズ。『ハムレット』では重要な役どころであるふたりだが、本作では重要度逆転し、小者扱い。柄本時生の悪役演技が実に良い。
  • コーネリウスは、主人公たちと戦った時も、ポローニアスを迎え撃った時もずっと拳だけで戦っていたが、最後に一度だけ仕込み杖を抜く。この杖は、聖が治療後に拾って渡した物である。コーネリアスが素手以外で戦うのはこの瞬間だけだ。使徒として、聖の英雄的行為を受け継ぎ、模倣している。

  • ヴォルティマンドは、主人公たちと戦った時は、聖を銃で狙撃し、降伏後も聖からの握手を拒否する。しかしこの山頂では、レアティーズの銃に槊杖を突っ込んで暴発させ、聖の握手を受け容れる。行動が対置されている。

  • ポローニアスとレアティーズの親子を倒した後、コーネリウスは「ここまで来たなら復讐を果たせ」とスカーレットを最後に煽り、階段を登らせる。あくまで王との対決と勝利を期待している所は、師キリストが亡くなるまでの使徒たちの姿勢に重なる。

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特使たちと墓掘りたちの4人は、本作を支える二次構造部材だ。

2人の墓掘り(cv:宮野真守・津田健次郎)は1シーンのみ登場だが、重要な3つの役割。

(墓掘り1) 古代からの冥界降下譚における地獄の「門番」役。

  • ギリシャ神話ではオルフェウス、アエネイス、ヘラクレス、テセウス。シュメールではイナンナ、メソポタミアではイシュタル、アステカではケツァルコアトル、日本神話では伊邪那岐命いざなぎのみことが、それぞれ死者の国である冥界への旅行katabasisカタバシス, catabasis)を行う。古代神話の定番イベントである。

  • その再解釈である『神曲』でも、作家ダンテ自身が地獄を訪ねる。なお、スカーレットと聖が出会った場所で岩に刻まれていたラテン語「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」は、『神曲』地獄篇からの引用だ。

  • ギリシャ神話ではケルベロスやカロン、シュメールではネティなどの門番役が境界を守る。

  • 日本神話では黄泉比良坂の、千引の石=塞坐黄泉戸大神が門番。

  • 他の神話でも共通して、古い自分を葬る手助けをする者であり、死者の国から生者へ戻るための条件を提示する者の役割だ。

  • 一方、本作では、墓掘りたちは死者の国に掘られた巨大な穴の底に居る。露天掘りの鉱山のような地形になっており、とてもスコップで掘られたようなスケールではない。

  • これは明らかに『神曲』地獄篇の地形、九重のすり鉢状同心円だ。本作では門の成句とこの地形だけ、地獄篇が参照され、他はほぼ煉獄篇の描写が使われている。

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ボッティチェルリによる『神曲』挿絵入り写本の断片(1490頃)。
  • さらに、先ほど説明したように大穴に降りるカメラの動きは、冒頭エルシノア城に囲まれた中庭、父王の処刑場へのティルトダウンと同じ動きになっている。スカーレットにとってのトラウマの所在を、演出で示している。

  • 父王の馬に乗った帰城シーン、父王の処刑シーン、いずれもスカーレットは2階から中庭に降りてくる。砂丘を登っている時でさえ、滑り落ちる。映画の前半はひたすら下降運動が描かれる。その最下点が、墓掘りの穴であり、幻の渋谷空間になっている。

  • つまり本作の前半は『神曲』地獄篇の下降が、後半では煉獄篇の上昇が、それぞれ意識されているわけだ。

  • 墓掘りたちはスカーレットに「あんたが知りたがってるのは」「あんた自身だよ!」と突きつけ、棺桶に葬る。劇中で最も重要な、3段階の通過儀礼の始まりだ。

(墓掘り2) 『ハムレット』における2人の「道化の墓掘り」役。

  • 『ハムレット』でも2人の道化が墓掘りを演じる。歌いながらオフィーリアの墓を掘り、「王でも乞食でも骨になれば同じ」と王子を論破して、身分の無意味さ、死の平等さを自覚させる、喜劇的シーン(コミックリリーフ)だ。続く葬儀の場面で、王子は初めてオフィーリアの死を知る。

  • 一方、本作では、道化の化粧で墓を掘っている。ホラー的シーン

  • 「アレクサンダー」「シーザー」は『ハムレット』ではハムレット王子の台詞。ごく短いシーンだけなのに、2人とも楽しそうに演技していて、強く印象に残る。「こいつはまだ新しい」「あんたが知りたがってる人間さぁ」「人間さぁ」

宮野は人形朗読劇版の『ハムレット』で主演。
津田は若い頃、蜷川組に参加。蜷川から「イギリスの若い役者はとにかく早く年をとりたいと考えている。30になったらハムレットができるようになる、40を越えたらマクベスができるようになる。それが、イギリスの役者にとってはカッコいいし、名誉なことなんだ」と聞かされたという。

(墓掘り3) マグダラのマリアが出会う「二人の天使」役。

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グエルチーノ(1591-1666)による『懺悔するマグダラのマリアと二人の天使』

叔父王クローディアス(cv:役所広司)の4つの役割。

圧倒的な演技で本作を支配したクローディアス。声は『バケモノの子』の熊徹役など、細田守作品の常連である役所広司。シェイクスピア俳優としても名高く、本作には並々ならぬ意気込みで取り組んでいる。

(叔父王1) 主人公を追い詰め成長を促す「抑圧的踏み台」役。

  • 『ハムレット』では、兄王を密かに毒殺し、王位を簒奪したクローディアスは、隣国ノルウェーからフォーティンブラス王子の兵が向かっていることを知ると、老ノルウェー王と交渉して和平を結ぶ。王子のノルウェー軍はポーランドへ向かう振りをするが、密かにデンマークへ向かってくる。

  • 一方、本作では、叔父王クローディアスの政治的立場は逆である。兄王を隣国と通じた罪で公開処刑し、隣国(ハムレット的にはノルウェー、この後の現実世界史ではスウェーデン)と戦争に向かっていく

  • スカーレット王女視点では、愛する父の憎い仇である。

  • だが、「いいこちゃん」だった彼女が成長できたのは、叔父王に裏切られ、父王アムレットを殺され、死者の国に落ちたからでもある。そういう意味では、結果的にクローディアスは厳しくスカーレットを育てたとも言える。もともと、幽閉するわけでもなく、政略結婚の駒扱いすることもなく、16世紀末に女性が大学へ留学して学ぶなど、ほぼありえないような待遇を与えている。後継者として期待しているのか、それとも実は…。

  • ただしその有り様は、極端に男尊女卑・父権主義的で、辛く強引なものとならざるを得ない。聖や老婆の存在なしでは、スカーレットは壊れてしまっただろう。

  • この強権的父親像は細田の前作『竜とそばかすの姫』の竜の父親に重なる。

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本作には、男性による暴力の表現として、象徴的な長髪を引っ掴むシーンが、2回表れる。舞踏会での叔父王からスカーレットへ、そして煉獄山でのギルデンスターンから少女へ。

(叔父王2) 王妃に唆され、罪を犯した者「マクベス」役。

  • 『ハムレット』と同様、本作でも兄王を陥れたクローディアス。けれど「私はいつでも、王になる男のもの」とうそぶそそのかす王妃の姿勢は、『ハムレット』のガートルードというよりは、別のシェイクスピア悲劇『マクベス』主人公の妻(レディ・マクベス)を思わせる。

  • 一方、本作のクローディアスは、毒による暗殺ではなく、隣国と共謀した罪を捏造して兄王アムレットを処刑している。

  • 実は、スカーレットの毒殺計画は半ば成功している。「自分だけは毒を盛られないと思うお前は、赤んぼうでなくて何だ?」と言いながら、毒に苦しむスカーレットを見下ろすクローディアスの顔色は、いつの間にか、それまでにない土気色に変わっている(ここは本当にさり気ない演出なので、見逃さないように!)。なお、叔父王に毒杯を渡すのは王女付きの女中で、スカーレットに渡すのは黒い帽子の男性侍従が行っている。

  • ふたりは同時にお互いに毒を盛り、互いに半死半生の仮死状態になるこのシーンが意図的に描かれない(敢えてのミスリーディング)ために、この映画はひどく難解で、謎めいたものになっている。スカーレットが死者の国に着いた当初、老婆もこの世界にクローディアスが居る理由を敢えて語らず、スルーしている。それは、後述するように老婆は目的をはっきり別に持っているからだ。

  • 見果てぬ場所近くの城で、大戦闘団を組織してガートルードが来るのを待つクローディアス。

  • クローディアスは、煉獄山の城の玉座で赤い鎧の胸に手を当ててつぶやく。「蛇に傷を負わせたが、殺してはいない」「この胸はサソリで一杯だ」これらは『ハムレット』ではなく、『マクベス』の台詞である。

  • マクベスもまた、妻に唆されて先王を暗殺し王位に就き、荒野で3人の魔女の予言を聞いて自分の勝利を確信するが、重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐に倒れる。なお、マクベスの衣装には慣行上、赤色が用いられることが多い。

  • つまり、本作におけるクローディアスは、どちらかといえばマクベス的な性格が強い。王妃に唆され、魔女=老婆に騙され踊らされて、仇の子と競わされている、哀れな簒奪者である。老婆から見れば、クローディアスもスカーレット同様「弱き者」なのだろう。

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赤い鎧は、動きや音から金属製ではない。コーネリウスの部下の大男と同じく、硬化革鎧に染色を施した物と思われる。繊維密度が高い牛の首や肩の革を、蒸気当ててコラーゲン収縮硬化させて成形したものだ。一般には褐色だが染色可能。
兄王から奪った王冠には、荊の冠や雷を思わせる「出 出 出 出 出 出 出 出 出 出」がかたどられており、叔父王クローディアスの結末を暗示している。

(叔父王3) 殺人・簒奪より重い罪人「偽りの悔悛者」役。

  • 聖書では「いつわりの悔悛かいしゅん」を殺人・姦淫・簒奪などよりも重く、救済不能に陥る大罪と位置づける

  • それは、本作のメインテーマであり、キリスト教の中心教義である「ゆるし」の悪用そのものだからだ。偽りの悔悛を赦せば、すべての赦しそのものが茶番と化し、意味を失ってしまいかねない。赦しシステムのセキュリティホールとも言える。

  • なお、ギリシャ悲劇やユダヤ教のタルムード、イスラム教のシャリーア、大乗仏教などでも、同様の概念がそれぞれ重い罪として位置づけられている。

  • 一方、本作では終盤、見果てぬ場所の門の前(暗喩的には子宮口)で、叔父王は「懺悔ざんげするしかないか」「今さら間に合うのか」と悩み、ひざまづく。「懺悔、やるしかない、懺悔を」「罪深き我を助けたまえ」「見果てぬ場所に憧れる、多くの哀しき者のために、我は力を尽くしてきた。そんな我を、助けたまえ」―――ここで鳥が一斉に飛び立つ。

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門の屋根から、鳥が一斉に飛び立つ。ドラゴンへの変身準備だ。審判の時が迫っていることを示している。
  • 叔父王の背後で処刑の姿勢を取っていたスカーレットは、この懺悔を受け容れ、剣を捨て、復讐を止め、ひとつだけ条件を出す。ヴォルティマンドから伝え聞いた父の最期の台詞を信じて、彼女は劇中はじめて、叔父王を「おじさん」と呼び、笑顔を向ける。

  • ところがこれは偽りの悔悛であった。ひとつだけの条件を拒まれ、スカーレットは激怒する。雷鳴が鳴り始める。「あなたのような欲にまみれたおぞましい心の持ち主がなぜここにいる? 人の願いを平気で踏みにじるようなあなたが、どうして見果てぬ場所に行きたいなんて望める? そんなあなたに父がどれだけ苦しめられたか。どれだけ無念だったか。何千分の一でもわからせてやろうか! わからせてやろうかぁ!」叔父王をめぐる一連の描写、なかんずくこの台詞から、『ハウル』騒動当時の細田守自身の心情を読み取ることは簡単だ。しかし本解説では五層目の救済に触れることは敢えてしない。批評と作品読解を豊かにしないからだ。

  • だが何度も父の声が響く。「赦せ!」苦しむスカーレット。やがて父の真意(=自分自身の本当の願い)を悟った彼女は、怒りを残したまま復讐を放棄するが、クローディアスは開き直って、ここぞとばかり反撃に出ようとする。「よく聞け。ここはお前のような負け犬の娘が来る場所じゃない。見果てぬ場所は私だけのものだ。他の誰も入れない。私と王妃だけが、この門の向こうに行けるのだ。虚無へ落ちろ! 惨めな父親の後を追え!」

  • 審判の結論は出た。ドラゴンが出現する。これまでの樹枝状に分岐する雷と違い、一点へ集中する雷が、しかも二度もクローディアスに落ちる。「死にたくない、ガートルード…」譫妄せんもう状態に陥ったクローディアスはスカーレットをガートルードと取り違えてすがる。雨が止む。

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偽りの悔悛という大罪に対する、最後の審判。
臨終のクローディアスの作画も凄まじい力作。本作の見せ場のひとつだ。
  • これまでの罪の処罰とは異なった演出になっていることに注意しよう。叔父王への裁きは、復讐の代行ではなく、「偽りの悔悛=赦しの悪用」に対する処罰だった、という点は本作の最重要ポイントである。ここを外すと、結局は復讐できたんだね、という頓珍漢とんちんかんな受け止め方になる。

  • なおクローディアスは、冒頭で兄王の処刑に際してこう演説している。「民よ、裏切り者には罰を与えなければならない。それが果たされた時、神は我を新しい王に選ぶだろう」この台詞が、最後に自分へ帰って来ている。

(叔父王4) 世界を不安定化する「怯える権力者」役。

  • 偽りの悔悛直後のクローディアスは叫ぶ。「ほかの奴らなんぞ連れて行って何の得がある? 見果てぬ場所は私だけのものだ! 誰にも渡してたまるものか!」現代社会の権力者も、荒れ野に隠れ場所を探す。911テロ直後のビンラディンの隠れ家も、習近平がミサイル基地とシェルターを隠すのも、ビリオネアが別荘を作るのも、砂漠地帯だ。本作で死者の国と呼ばれる、厳しい環境の砂漠こそ、孤独な権力者にとっては「他の人間が寄り付かない」から、自分だけが安全と見なせるのである。

  • 独裁者ほど怖がりで、だからこそ、逆に恐ろしい粛正や無謀な戦争へと突き進むヒトラーはベルリンの地下壕で常に怯え、恐怖に震えていた。安全のため寝室を複数それも頑丈に造らせたスターリンは、その中で倒れたために治療が遅れて死んだ

  • 独裁者の孤独で暗くおぞましい炎を、本作のクローディアスはしっかり魅せてくれる。

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聖という明るい光に支えられながら、スカーレットの行為は常に、叔父王クローディアスという暗い鏡の存在によって動機付けられる。

老婆(cv:白石佳代子)=ドラゴンの4つの役割。

(老婆1) 異世界を創り、誤解させ物語にヒビを入れ、冷徹に監視する「審判者」役。

【第一の謎】老婆の説明は信頼できるか?

  • 本作で最も謎めいた人物が、老婆である。彼女はヒントを出し続ける。ただし、彼女の言動には、ほとんど常に、巧みなミスリーディングが混ぜ入れられている。嘘は言わないが、わかりやすい真実は、決して提示しない

  • 老婆の存在は、ストーリーにわざと瑕疵かしを、ヒビ割れ、傷口をつくり、観客を戸惑わせる。そのヒビから下層にある真実を、観客が慎重に取り出さなければならないのだ。老婆の言う台詞を、「嘘ではないが、直球でもない」ものとして受け取るように注意すると、本作の意味不明な部分、支離滅裂に思えていた部分に、光が当たり始める。

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老婆の装いや髪型は頻繁に替わるが、いずれの姿でも、額に、時に首元に、小さなドラゴンの頭蓋骨が飾られている。瞳は赤い。枝分かれした、あるいは翼を思わせるシルエットをとる。杖にも秘密がある。

(老婆2b) 誤解させ物語にヒビを入れる、信頼できない予言者「荒野の3魔女」役。

  • 老婆のコロコロ変わる髪型や装いは、ディテールからいずれもドラゴンの化身であると匂わせつつ、老婆の中にも3種類のキャラデザ違い(ゲームのグラフィックで言う3Pカラー)があることを示している。

  • これは明らかに『マクベス』に出てくる3人の魔女が意識されている。マクベスが荒野で出会う魔女たちは、厳密には嘘ではないが、誤解を誘う予言を与えてマクベスの運命を翻弄ほんろうする。ひとりの魔女が3つの姿をとっているのか、3人の魔女が交代して表れているのかはここでは問題でない。

  • 彼女らが映画論でいう「信頼できない語り手」であることが重要だ。

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T.シャセリオーによる、『3人の魔女と出会ったマクベスとバンクォー』(1855)。魔女たちは「マクベスはいずれ王になる」「女から生まれた者にはマクベスを倒せない」「バンクォーの子孫が王になる」といった予言を与える。予言自体は実現するのだが、信じたマクベスは悲惨な目に遭い、破滅する。『ハムレット』と並ぶシェイクスピア悲劇の双璧である。
中央の馬に乗ったマクベスの衣装はマントも腰巻もブーツも盾の紋章も、赤い。
  • 冒頭で、古いローマ兵の鎧の中から老婆の声が問いかける。「ここをどこだと思ってるんだい? ここはね…」スカーレットは老婆の声を遮って、食い気味に「死者の国」と答え、そのまま「そう、私は死んだ。憎き仇への復讐に失敗して、死んだ」と独白する。

  • このわずかな台詞の中に、なんと事実誤認が3つもある。終盤になって老婆は言う。「人間はいまだにここを、死者の国だの見果てぬ場所だのと勝手に呼んでおるが、大きな間違いだ」「ここに、ふたりのうち、たったひとり、死んでないものが紛れておる」もちろん、クローディアスや部下はちゃんと死者の国に来ていて、言わば復讐は成功している。

  • スカーレットとわれわれ観客は、最初から老婆の引っかけ問題に釣られていたのだ。

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J.マーティンによる『マクベス』(1820)。荒野の中央にマクベスとバンクォー、右に軍勢、左に3人の魔女。荒野と山と空の表現は、本作の描写を思わせる。

【第二の謎】死者の国でなければ、この世界は何なのか?

  • 老婆は「ここは生も死も混じり合う場所」「時もまた然り、ここでは過去も未来も常に溶け合っている」という台詞を、劇中それぞれ別の場面で、三度も繰り返す。3人の魔女が順番に語っているのだろうか、少しずつ白石の演技も異なる。

  • これをストレートに受け取れば、生者と死者が一定の比率で入り混じって存在する場所であり、例えば過去ならネアンデルタール人、未来なら30世紀人も含めて、すべての時代の人々が均等に、数多く存在している場所を意味するのだ、と理解するだろう。

  • 実際この後、聖と古戦場で出会ったスカーレットは「みんな一律にここに来てしまう」と自分なりの解釈を聖に与えている。われわれ観客も初見時、その説明を当然に受け容れる。

  • ところが、これも全くのミスリーディングだ。この世界では、生と死、過去と未来が、均等に混じっているわけでは全然ない。それどころか実態は限りなく真逆に近い。そのことに、スカーレットも、観客も気づかないよう、序盤でミスリーディングが仕掛けられていた。

  • 具体的には、死者の中に混じっている生者は、仮死状態のスカーレットと叔父王の2人だけ、過去の中に混じっている未来は聖1人だけである。この隠された対照を見抜くと、死者の国の意味が一気に明快になる。

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死者の国の人口構成。
にしても、初見は戸惑うよね、カフェラテだと思って飲んだら実はマキアートなんだもん。嘘はついてないけど、ほぼ嘘だろこんなん。ばあちゃんマジずるい。
  • そして、過去と言っても、過去すべての期間ではない。死者の国の人々の衣装や装備を見れば明らかだ。最古の装備がローマ兵のもので、最新の装備である大砲は前装式の青銅砲。つまり過去とは、新訳聖書~『ハムレット』の約16世紀間を指しており、しかもその両極端に近い時代ほど極端に多いことがわかる。なぜこの期間なのかは、ハムレットと聖書のイメージを繰り返し参照してきた本稿読者には自明だろう(ちなみに『神曲』では、紀元前の死者は別口で辺獄に送られてしまう)。

  • なお民族・地域はかなり広範である。欧州、中東、アフリカ、アジア、南北米先住民(色黒だが顔つきがモンゴロイド系)、ハワイ系も見える。当時の世界人口比率どおりなら、約60%がアジア系、約10%がサブサハラ系となるべきだから、死者の国に来ているのはデンマークあるいは中東に近い地域ほど多く、遠い地域ほど少ない設定になっているのだろう。

  • なお、アジア系(日本人?)と思しき僧兵集団が良い味を出している。ハムレット』の時代は、日本では戦国時代の終わり頃、関ヶ原の合戦に当たる。その直前、比叡山で信長に焼き討ちにされた僧兵たちなのかな。近年の歴史研究に沿った僧兵のいで立ちがニクい。@doujinandsound1さんに指摘されて気づいたが、合戦では彼らのひとりが先頭に立って武器を持たず、盾だけを手に突撃し、矢に倒れる。聖の治療も甲斐なく、僧兵は虚無になる。このシーンは宗教や理想論の無力さを暗示し、聖に英雄的生贄への転換を求めている。だからこそ聖はローゼンクランツと矢で対峙する。

  • つまり、死者の国とは、万人が例外なく来る共有地ではなく、むしろ例外のための場所であり、ここからは自分の個人的な見解だが、おそらくスカーレットのためにカスタマイズ生成された「主観的な煉獄」なのだ。

  • 特にスカーレットの場合は、『ハムレット』世界だけでなく聖書のマグダラのマリア&キリストを重ねるために、1世紀の文化(ローマ兵)と、キリスト的存在=聖を混入させたのだろう。

  • 老婆自身は「死者の国」という名も人々が勝手に呼んでいるだけと突き放し、『神曲』の煉獄という名も、決して出さない。キリスト教の枠組みに留まらず、人類の普遍的な集合意識を老婆は象徴している。例えば敬虔けいけんな仏教徒のためには仏典に沿った空間を、老婆は生成するのではないか。

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階段を登った先のサンゴ礁と白い砂浜は、実は下界の荒野にも存在している。死者の国見果てぬ場所は別の存在ではなく、印象が違うだけの同じ場所だ。老婆の言葉とも整合する。

【第三の謎】老婆の目的とは?

  • 冒頭、絶望して血の海に沈むスカーレットが、クローディアスの名前を出すと、老婆は背を向けたまま言う。「待て、その男ならまだここにいる。まだ虚無にならずにどこかで笑っておるわ」と、スカーレットにさらなる復讐を煽るかのように振舞う。

  • この説明にスカーレットは疑問を覚えない。つまり、スカーレット自身は叔父王一派が仮死ないし死亡状態に陥っていることを、すでに承知している。しかし、われわれ観客にはそれをできるだけ気づかせないようにしている。ここもミスリーディングな演出だ。敏感な方は、このヒビ割れに引っかかってモヤモヤされただろうと同情する。自分は2回目でやっと気づいた。

  • 老婆はさらに問う。「生きるとは何だ? 死ぬとは?」実は、老婆の真の目的は、同時に互いに毒を盛り、半死半生に陥っているふたりのうち、どちらを現世に戻すべきか、どちらが王に相応しいか、審判することにある。まるで『ハムレット』と『マクベス』を煉獄で競争させるかのような奇想天外なプロットが、本作には隠れている。老婆は、宗教的な神というよりも法そのものを擬人化した、競争の審判者である。

  • なお、「仮死状態になった少女の復活、その間の恋人の死、それを見守る老人」という三者の構図は、シェイクスピアの別の有名悲劇『ロミオとジュリエット』も思わせる。

  • 死者の国で騙されて包囲されたスカーレットを救出するために、老婆は崖の上から鼻糞をひとつ落とし、その爆発と煙幕でスカーレットを逃がす。ここでも、雷を落とすドラゴンと同一存在であることを示唆している。細田演出の発想は豊かだ。

  • このシーンは、老婆が王女を守っているように見える。初見では、味方に見えるだろう。ところが、それもミスリーディングで、老婆は王女・叔父王の両者を泳がせ、執行猶予しながら監視しているのである。「人間とは何だ? 生きるとは? 死ぬとは?」ずいぶん意地悪な保護観察官もいたものだ。

  • 老婆の監視は、本来16世紀人の死者の国に居るはずのない異物、21世紀から自分が特別に目を付けて連れてきた聖にも、向けられている。

  • なぜ聖が未来からたったひとり選ばれ連れて来られたか。自分はその理由をこう推測する。老婆にとって、スカーレットとクローディアスに対する選定・審判・救済に必要だったから。何より、古代詩人ウェルギリウス、神の子イエス・キリストに最も近い精神性を持っていたからだろうと。

  • 現代社会でも聖は異端児だった。渋谷の雑踏の中、血のしたたるナイフを持った通り魔に、立ちはだかったのはたった一人、聖だけだったのだから。老婆はその異端さに目を付けたのではないか。

(老婆2a) 復讐から降りた人々に代わって裁く「サンダードラゴン」役。

  • 『ハムレット』は、復讐が誰も予期しない結果を招き、多くの人物が死んでいく悲劇。

  • 一方、本作では復讐から降りた人々がいる分、悪人がのさばったままとなる。

  • そのため、代わりに取り締まるべくドラゴンが定期的に巡回している。例えば盗みを犯した盗賊は、空を飛ぶドラゴンから雷を落とされて虚無になる。これは法の統治を象徴している。

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死者の国の警察官、サンダードラゴンばあちゃん。
その正体は、ハナクソばあちゃん。
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雷。別の言い方をすると、絶縁破壊からの電子雪崩によるリヒテンベルク立体。
アニメーション史上最高の落雷表現である。庵野ならこのシーンに一番食いつきそう。

(老婆3) 王の契約履行と謙遜を求める「荊の冠=王冠」役。

  • ドラゴンの雷に打たれた罪人には、最終盤のクローディアスのように、落雷被害者の皮膚に残る、樹枝状の赤い電紋リヒテンベルク図形が表れる。ここでも再び、キズ(scar)である。

  • 劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座あかざ再来』では、兄弟子・獪岳かいがくから血気術と雷の呼吸のコンボを受けた我妻善逸あがつまぜんいつ赤いヒビ割れが発症していたが、あれも電紋にヒントを得たものだ。

  • 実は、冒頭の死者の国空撮で見える赤い河川模様もリヒテンベルク図形そのものだった。死者の国の大地も、感電し傷口から血を流し、ヒビ割れていたわけだ。

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ヨルダンの涸れ沢(ワジ)か、リヒテンベルク図形か。赤いせいで、毛細血管にも見える。とってもフラクタルだわ。
  • 枝状・棘状のフラクタルな分岐は、クローディアスが兄王から奪った王冠の「出出出出出出」模様や、聖書で十字架にかけられる直前、ローマ兵がイエス・キリストにかぶせたいばらの冠」にも対応する。

  • 荊の冠は、宗教的には「暴力と救済の二面性」「王権への制限や、謙遜」を象徴する。下の絵画でわかるように、荊の冠はくいこみ血をしたたらせる。この受難に基づいて、しばしば法を自ら曲げて罪から逃れがちな権力者に、権力の濫用らんようを厳しく戒める意味合いを持たされている。

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やはりエル・グレコによる『荊冠のキリスト、十字架を運ぶ』(1580頃、同)
  • ドラゴンの全身に突き立てられた武器も、同様の象徴的表現だが、こちらは、不本意に変節し機能不全に陥りかけている「瀕死ひんしの宗教」「法の限界」そのものの暗喩だろう。胸や首にはひときわ大きな武器が突き刺さっている。

  • ここまで来れば、細田ファンなら本作の老婆=ドラゴンのイメージの原形が、『ウテナ』の褐色の肌もつヒロインにして魔女、100万本の剣に貫かれる姫宮アンシーにあることに気づかれたかもしれない。

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『ウテナ』のヒロイン、褐色の肌の魔女、「世界の果て」の妹、姫宮アンシー。「薔薇の花嫁」と呼ばれ、薔薇の棘のような冠・ティアラを身に付ける。人々の憎悪である100万本の剣に貫かれつつ耐えるアンシーの苦しみと救済の構図は、老婆とスカーレットの双方に引き継がれ、老婆は影絵少女の代わりに語る。(1997, (C)ビーパパス・さいとうちほ/小学館・少革委員会・テレビ東京)
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薔薇で封印された門。『ウテナ』には押井守の『天使のたまご』やその源流タルコフスキーの影響も色濃い。(同上、最終話より。絵コンテは橋本カツヨ=細田守)

(老婆4) 契約と法に機能を託し、消えていく「鳥=不在の神」役。

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老婆=ドラゴンと同一の存在である、鳥。
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アンズーもしくはズー。今から4500年以上の遺物。ルーブル美術館所蔵。
なお、エジプトでは隼の神ホルスが王権を守護し、その目は癒しと再生と代償と保護を象徴する。古代イランの勝利の神ヴァルフラは大鷲の姿をとり、アケメネス朝の王権を象徴した。日本神話では、ニニギの天孫降臨を先導した天迦久神が鳥の姿であった。
  • さらに、最終盤クローディアスに最後の雷を落とした後、ドラゴンは分解し、実は鳥の集合・群体だったことが明らかになる。

  • ここで立て続けに示される3つのシーン。その意味が繋がっていることを見逃さないようにしたい。

    1. 父王の亡霊が破られた似顔絵となって消え、

    2. ドラゴンが鳥へ分解されて消え、ほぼ同時に

    3. 叔父王が電紋に侵されながら虚無になって消える。

  • このように3連続の演出で、喪失が強く印象付けられている。

  • 鳥の群れは、あるシーンでは雀のような鳴き声を、最後の登場ではカラスのような鳴き声を響かせるが、常に逆光、真っ黒なシルエットで描かれる。それはスクリーンを見つめるわれわれ観客の姿のようでもある。果たしてこの鳥たちは、本当にスカーレットの味方だろうか?

  • そうやって鳥が去った後、老婆が現れる。老婆の手に握られた杖は、鳥の頭をかたどっている。露骨に、老婆=鳥=ドラゴンだった、という種明かしになっている。

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左から、3人目(斜面の聖受難の場面)、1人目(赤い沼と鼻糞爆弾の場面)、2人目(大いなる門の場面)に登場する老婆。どの老婆も、鳥の頭と翼を思わせるおかしな杖を持っている。老婆=ドラゴンこそ、死者の国における演出家であり監督なのだった。
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入れ子状で、さらに鏡写しになった、四重の通過儀礼が、観客にも目くるめくリミナルな体験を創り出す。そのために、老婆は策謀の限りを尽くし、ミスリーディングの罠を仕掛けて、主人公と観客を翻弄する。細田守の恐るべき構想、悪魔的演出。そして、観客の眼への何という信頼。これに応えず何とする?
  • 鳥は飛び去り、姿を隠す。現世に復活した後は、老婆はもちろん、鳥も、もう現れない。

  • 代わって、戒めの王冠を被ったスカーレットが、社会契約を民衆に明言する。神が、戒めの王冠となり、最後に言葉=法となったのである。

  • スカーレットは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と述べたエリザベスI世のように、孤独な統治を始める。民衆が彼女を支持し続けるか、戦争は本当に避けられるのか、それは語られない。観客ひとりひとりが考える寓話の「その後」こそ、リアルな未来だ。

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四重構造の救済劇。四層に重なり合った物語は、表層と2層目以降を等価値に扱う。すべての役割が、パズルのようにお互いを必要とし合っていたことがわかる。

『スカーレット』の2つの最重要ポイント。

  • 本作の多様な感想を拝見して学ばせていただいた。ただ、「スカーレットが自分で復讐した方がスッキリしたはず」という主張には、あまりに作品の内容と正反対の感想で、さすがに閉口してしまった。

  • 本作には2つの最重要ポイントがある。

ポイント1:復讐とは呪縛だ。

  • 復讐に固執していたのは、スカーレットが自分で自分を縛っていたから。

  • 自分で自分を赦し、解放することでようやく手放すことができる。

ポイント2:赦しには必ず条件が伴う。

  • 叔父王への裁きは、復讐の代行ではない。

  • 「偽りの悔悛=赦しの悪用」に対する処罰だ。

  • 復讐と赦しの関係として、この2つだけは最低限、押さえておきたい。

  • ここを見逃すと、表層のストーリーすら、わからなくなってしまう。見逃してしまったら、お手数でも、ぜひもう一度、鑑賞してもらいたい。

復讐と赦しの、哲学と表現。

  • それにしても、現代日本人の復讐達成への執着、暗い期待の強さには、驚かされる。

  • 元首相が白昼の街頭で暗殺されたり、頂き系女子が搾取した弱者男性に刺殺されたりする事件にあって、いかに被害者側に大きな問題があり、社会正義が期待できず、加害者側に情状酌量すべき悲惨な事情があったとしても、私刑によって自ら復讐を執行し、自力救済した加害者を褒めそやすのは行き過ぎだ。仇討ちは美談ではない

  • 復讐はまたその報復を呼ぶ。復讐の連鎖を未来に押し付けることになる。それはもう呪いでしかない。

  • そもそもウル・ナンム法典、ハンムラビ法典、それらの末裔たる全ての国の刑法は、無限に続く復讐の連鎖を止めさせるために生まれた

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ハンムラビ法典(ルーブル美術館所蔵)。過度な復讐を防ぐため、復讐に制限を加えた。
なお、より古いウル・ナンム法典では、復讐ではなく賠償によって贖うことと定められている。
いずれにしても、復讐の連鎖を断つための努力は、4000年に渡って続けられている、人類最古の未解決問題である。
  • 復讐の快楽こそが悲劇の根源であり、それを断ち切ることが唯一の救済である、無念の解消は神あるいは法に委ねそれを信頼せよ、という哲学は、歴史上新しいものではない。アイスキュロスの『オレステイア』三部作に始まり、旧約聖書、新約聖書、ドストエフスキーの『罪と罰』など、連綿と多くの作品がある。他ならぬ『ハムレット』自体が、復讐の虚しさを反語的に表現した悲劇だ。

  • だが映画や漫画・アニメでは、娯楽のために安易な応報・復讐・自力救済(不快を承知で敢えて言い換えるなら「スカッとポルノ」を描くものが絶えない。

  • 復讐が悲劇ですらないものもある。観客は日常満たされないストレスを、創作の中の復讐で晴らし、応報快楽として消費している。

  • このネタ画像の元ネタ、復讐どころか応報快楽を娯楽化する考えを発したvtuberは、復讐の最も大きな問題、次々と復讐が連鎖してしまうことをすっかり忘れている。

  • こうした憂慮すべき状況から抜け出ようと、イーストウッドの『許されざる者』、カウリスマキの『過去のない男』、ヴィルヌーヴの『プリズナーズ』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』、そして細田守自身の作品に至る、多くの努力と表現のアップデートが為されてきた。

  • 近年の漫画・アニメでもっとも真摯に正面からこのテーマを描いたのは、本作と『ヴィンランド・サガ』だろう。

  • 本作『果てしなきスカーレット』は、復讐(あるいはスカッとスッキリ)を目的とした私刑の表現にも、疑問を突きつけている。

  • 創作の中であっても応報快楽をもたらすような復讐とくに自力救済は抑制されるべき、赦しの哲学を見直そう、という問題提起は、細田守が本作で創作界隈に投げ込んだ重いテーマだ。表現の自由とも鋭く対立する。

  • 復讐の表現については今後も議論を要するが、少なくとも赦しの哲学は、現代では明らかに衰え不足している。創作者たちが相争って過激な表現を追求していけば、観客は薬物中毒のようにスカッとスッキリを求めるようになりかねない。すでにそうなってしまっている人々も、観測されている。

  • 本作の問題提起は、果たして今後、どのように受け止められるだろうか。スタジオ地図の作品の中では、この問題提起はどのように踏まえられていくのだろうか。細田守監督の次作を、これまで以上に期待したい。

以下、様々な批評をご紹介。

本作は実に多様で豊かな読み方をされている。それ自体が本作の豊かさを実証している。

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