2026年2月10日火曜日

古賀史郎さんによるXでのポスト オフィーリア

 
 
古賀史郎
⁦‪@ShiroKoga_D‬⁩
クッッッソ長い映画の感想書きました。
映画の話とか、ガンダムの話とか、スピリチュアルの話とか、オフィーリアの話とか、色々です。

映画「果てしなきスカーレット」 感想(スピリチュアルとオフィーリア)|古賀史郎 ⁦‪@ShiroKoga_D‬⁩ #映画感想文 note.com/lively_minnow8…
 
2026/02/10 6:57
 
 

隠されたモチーフ「オフィーリア」と「生きたい」

さて、ここからはさらに想像を飛躍させていく。そして、ここからが本記事で個人的に最も重要で、最も訴えたい内容である!
(そしてとんでもなく強引なこじつけである)

――オフィーリアは、何処に行ったのか?

私は、最初にこの映画を見た時憤慨した。なぜなら明確にハムレットがモチーフであるにもかかわらず、オフィーリアの姿が見当たらなかったからである。ハムレットポジションの主人公が女性なのだから当然……そう思ったが、オフィーリアを愛してやまない私としては納得できるものではない。

全世界30億人のオフィーリアファンもそう思ったのではないだろうか。女性が水に沈む艶かしさが性癖なみなさんは、是が非でもオフィーリアに登場してほしいのではないだろうか。

しかし、どうか安心してもらいたい。

実は、オフィーリアはすでに登場している。
それも、最も目立つ形で。

そう、オフィーリアは主人公――スカーレットである。

ハムレットを女体化させたのがスカーレットだと思った? 残念! オフィーリアでした!

突然何を言い出すんだと思うかもしれないが、どうか最後まで読んでもらいたい。(もちろんこれは全く根拠のない考察です(笑))

まず思い出してもらいたいのが、最初にスカーレットが殺された(と本人が思っていた)あと、スカーレットが生も死もない世界で目覚めた時だ。スカーレットは地中に引き込まれ、溺れそうになっていた。

このシーンを見た時、私は既視感を覚えた。
そう、それこそが水底に沈むオフィーリアである。スカーレットはオフィーリアと同じくまさに沈もうとしていた。オフィーリアとの違いは、沈むに身を任せるか否かである。

(余談だが善人も悪人も一緒くたに落ちてくる「生も死もない世界」にスカーレットがショックを受けていたのは、キリスト教的価値観で「最後の審判」が念頭にあったからではなかろうか。あの時代のデンマークでは庶民から王族までキリスト教的世界観が常識になっているのは自明である。そして、キリスト教においては「死んだ人間は最後の審判で天国と地獄に行き先を分けられる」というのが常識であり、それが自分が善行を積むモチベーションでもあった。ゆえに「生も死もない世界」という存在は「最後の審判」は存在せず悪人が地獄に落ちることもないという現実を見せつけられ、自分の常識であったキリスト教的世界観が崩壊したショックに思えるのだ。ただこのリアクションは、西洋人なら当たり前のようにピンとくるだろうが、日本人にはわかりにくいのではないかと思う)

「水底に沈む」という点では、他にもそれを示唆する描写がある。そもそもあの世界自体が、水面の下に存在するような描写なのだ。それは果てしなき世界の先へ階段を登った後、果てにたどり着いた時その足元は水面のように描写されていた。あの世界は水面の下にあるかのように。

つまりオフィーリアは、水面の下に「沈んでいた」のだ。「生も死もない世界」という水底に。

――I would give you some violets, but they withered all when my father died

――あなたにはスミレを少しあげたいんだけれど、お父さんが死んだとき、一緒にみんな枯れたの

ハムレット 第四幕 第五場 オフィーリア

オフィーリアといえば、花。死ぬ前に花を摘んでいたことは有名だ。そして上記はオフィーリアのセリフだが、奇妙にもこれは「生も死もない世界」にリンクする。皮肉にも、あの世界では花は咲かない。すべて枯れてしまうのだ。オフィーリアが言った通り。

(スカーレットがあの世界に落ちた直後に来ていたドレスもよく見ると花のモチーフのようにも見え、これもまたオフィーリアらしさを感じ、またあの世界との明確な印象の対比を感じる)

(さらに余談だが、スミレ(バイオレット)も「スカーレット」の名前と対称的に思える。何かの示唆だろうか)

そして、次のセリフは、オフィーリアの死に様を語ったガートルードのセリフ、その抜粋である。

――Her clothes spread wide;
And, mermaid-like, awhile they bore her up:
Which time she chanted snatches of old tunes;
As one incapable of her own distress,
Or like a creature native and indued
Unto that element: but long it could not be
Till that her garments, heavy with their drink,
Pull'd the poor wretch from her melodious lay
To muddy death.

――オフィーリアの衣装は水面に広がり
人魚のようにしばらく浮いていました。
その間、自分の災難を知らぬ者のように、
オフィーリアは昔の歌の節々を歌い、
または、まるで水になれた生き物でもあるかのようでした。
しかしそれも長くは続きませんでした。
衣装が水を吸って重くなり、
哀れな乙女の歌は途切れ
オフィーリアは水底に沈みました。

ハムレット 第四幕 第七場 ガートルード

オフィーリアの死は、悲惨ながらも美しい。
それに比べ「生も死もない世界」のなんと荒涼としたことか。

生命の息吹を感じられない、オフィーリアの印象と真逆の世界は、水の中ではなく水底を思わせる世界だ。なんと皮肉なことだろうか。

そしてスカーレットとオフィーリアは、実は他にも、もっと本質的な共通点がある。
それは、オフィーリアもまた愛する父を殺された人間だったということだ。

「ハムレット」の中で父を殺されたのはハムレットだけではない。それこそが、悲劇が連鎖するシェイクスピア作品の秀逸なところである。

「ハムレット」の作中でオフィーリアの父、ポローニアスは半ば勘違いのような状況でハムレットによって殺さた。さらに、その前後からハムレットは気が触れたような態度を取るようになり、オフィーリアに対しても冷たい態度を取っていた。(ハムレットがオフィーリアに言い放った「尼寺へ行け」は割と有名なフレーズではないだろうか)その結果、オフィーリアは狂気に陥って川に転落した(不幸な事故のような描写だったが、半ば自殺のようなものと捉えることもできる)

つまり、オフィーリアは正気だった恋人(ハムレット)と自らの父親という、愛する人を二度も失い、生きることに絶望した人物だったのだ。

ひるがえって、スカーレットは愛する者を失った後、復讐、憎しみを原動力にして生きてきた。でなければ他に生きる理由がなかった。スカーレットもまた生に絶望していた。復讐にこだわるのは、復讐以外に生きる理由がなかったからだ。そんなスカーレットの生き様は、どこか女を捨てたようで、それでも捨てきれない痛々しさがつきまとう。

私は、そんなスカーレットの生き様に、オフィーリアに言い放ったハムレットの言葉を思い出す。

――Get thee to a nunnery: why wouldst thou be a breeder of sinners? I am myself indifferent honest; but yet I could accuse me of such things that it were better my mother had not borne me: I am very proud, revengeful, ambitious, with more offences at my beck than I have thoughts to put them in, imagination to give them shape, or time to act them in. What should such fellows as I do crawling between earth and heaven? We are arrant knaves, all; believe none of us. Go thy ways to a nunnery. Where's your father?

――おれは女たちの化粧のことも聞いているよ、よく知っている。神は女たちに一つの顔を与えたが、女たちは別の顔を作るのだ。そして気取って歩き、気取って喋り、神の創造物に別の名前をつけ、ふしだらな行状を無知のせいにする。おれはもう我慢できない、気が狂いそうだ。人間は結婚すべきではない。すでに結婚している奴らは、一組を除いて、そのままでいいだろう。残りは結婚しないまま生きてゆけ。尼寺へ行け。

ハムレット 第三幕 第一場 ハムレット

父王を殺されてからのスカーレットは、まるでハムレットの呪詛をなぞるような生き方ではないか。

スカーレットは尼寺に行ったわけではない。しかし、復讐に身を捧げ、一心に剣の修行に明け暮れるその姿は、果たして修道女とどれほど違うのだろうか。私にはロザリオを剣に持ち替えただけにしか見えない。ある意味で、西洋の剣は十字架のシンボルとも言える。

(余談だが、実際のところ「Go thy ways to a nunnery.」の解釈については意見が分かれており「俗世間を離れ女子修道院(尼僧院)に入ってほしい」という意味と、「売春婦にでもなれ(当時の尼寺では売春が行われており、隠語で淫売屋を意味する言葉だったとのこと)」という意味の二通りの解釈があるらしい。しかし、私としては前者の解釈を推したい。確かにこの場面でハムレットはオフィーリアに対して強い非難のような言葉を投げかけているが、実際その内容で非難されているのは、オフィーリアではなくガートルードであるとわかる。ハムレットは狂気を演じてオフィーリアに冷たくあたっており、それはオフィーリアを汚い政治の世界から遠ざけるためであり、清らかな存在のままであってほしいというハムレットの願望の現れではないだろうか)

なんとなれば、王を暗殺する、その目的だけなら剣など必要ないはずなのである。殺すなら毒で殺せばいいし、スカーレットは実際そうしようとした。

それでも剣が必要だったのは、それがスカーレット自身の修行であり、自らに課した罰であったのではないか。父の復讐というのは確かに大きな理由ではあったが、それと同時にわかりやすい建前であったのかもしれない。

(また皮肉なことに原作ハムレットでも登場人物の多くに死をもたらしたのは毒だが、その悲劇の前に、剣による決闘をハムレットとレアティーズが行っていた。「剣により決着をつける」その意思が巡り巡ってスカーレットに引き継がれているような気がしてならないのだ)

スカーレットの絶望は、既に前世から引き継がれていたのかもしれない。それはきっとオフィーリアの絶望であり、同時にハムレットの絶望だ。

ゆえに、復讐という理由を失った時、それでもなお「生きたい」と自ら願う必要があったのである。最初は例え、形だけでも。

「――生きたい」

スカーレットがそう叫ばねばならなかったのは、生に絶望したオフィーリアが暗い水底から元の世界に戻るための儀式だったのではなかろうか。

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