『果てしなきスカーレット』評
はじめに
1.ストーリー上の工夫
2.歴史的題材の面白さ
3.倫理的、宗教的課題
4.追記
はじめに
本作を最初に見た時は欠点のある野心作という印象だったが3回目を見た時傑作と判断した。劇場で計9回見た。ここまで劇場で見た映画はない。
多分『もののけ姫』以来最も重要な映画だと思う。アニメに限定せず全ての映画なかで。
1.ストーリー上の工夫
一見捻りのないストレートな復讐譚なのだが、そもそも本作の主人公スカーレットはハムレットと違う猪突猛進型で面食らう。原作のハムレットは狂気を装うのだからスカーレットとは真逆で腹に一物あり狂気を装い周りを騙すのだ。それだからこそハムレットは一応の復讐を果たす。原作とは関係ないことがわかって純粋に映画を楽しむためには原作を知っておく方がいいということになる。
名作映画以上にハムレットは知っておいた方がいい。それだけの戯曲だし上演の歴史がある。
テクノロジーに依拠した現代アニメの歴史より演劇の歴史は古いし、数々の芸術家を刺激してきた(かつてのグローブ座ではマイクなしに群衆に対峙してきたし、それはラストのスカーレットも同じだ。テクノロジーの発達した今見習う点は多い)。
ハムレットについては特にタルコフスキー 『映像のポエジア』が参考になる。
《…私は物質的なルーチンワークに敵対しようとしている人間のエネルギーに引きつけられる。ここで私のもっとも新しい構想の糸玉が巻かれるのである。
このような観点から私にとって興味深いのは、シェイクスピアの『ハムレット』である。『ハムレット』を私は、いずれ、映画にしたいと思っている。このもっとも偉大な劇のなかには、最高度の精神的レベルにありながら、同時に低劣で汚れた現実との相互関係のなかに入っていくことを余儀無くされた人間についての、永遠の問題が考察されている。これは、もし未来の人間が自分の過去のなかで生きることを余儀無くされたとするならばどうなるか、というような問題を抱えている。ハムレットの悲劇も、私の考えによれば、ハムレットが破滅するということのなかにではなく、ハムレットが死を前にして自分の精神的欲求を放棄し、普通の殺人者にならなければならないということのなかにある。このような変節のあとでは、死は彼にとって至福の出口と言えるのである。あのように決闘で死ななかったならば、ハムレットは自殺することで自分の生命を絶たなければならなかっただろう。》
この正確なハムレット評は実は本作ではスカーレットにではなく聖の運命に当てはまる。スカーレットにはオフィーリア的要素が映画では重ねられる。
本作でto be or not to beを男女の二人の主人公に振り分けた(小説版がわかりやすい)のはハムレット読解として面白い。
神曲にしても一番重要なフレーズを死者の国で知り合う聖に読ませる点で、おやっと思う。死後の世界の三層構造は辺獄ということで一元化して描かれる。とは言え途中の悪夢では神曲の構造が背景に描かれる。
(恐怖の明確化という点で、不安を提示するだけのジャパニーズホラーには到達できなかったシーンだ。)
復讐の敵役はハムレットではなくマクベスからセリフ(さそり云々)が取られる。
オルフェウスは竪琴の名手だが聖は苦労してリュートを上達する。
復讐を果たすのも主人公スカーレットではなくドラゴンという結末である。
このようにストレートなストーリーが実は観客に対する裏切り、挑戦となっているのが本作の物語的特徴である。
視覚的にはコンピューターを使用して手描きアニメとの融合が図られる。
ScreenXではそれが圧倒的な成功を収めていた。
CGの活用は特筆すべきだ。生と死という抽象的概念ばかりではなく、ダンスや格闘や楽器演奏を含む身体表現が(リスペクトされつつ)テクノロジーと融合している。
『2001年宇宙の旅』を思わせる視覚効果は厳密には本作のそれは構造的に少し異なる。光学的に露光を制御した前者の場合は一本の線状に光線が収束しているが、本作は完全なCGを使用し消失点を点にしている。消失点が印象的なショットは後半でも出てくる。唾を吐きかけられたスカーレットを癒すかのように雨粒が一滴空から落ちるが、その見た目のショットが同じような消失点を示している。雨粒のぶつかる一瞬のエフェクトはCGかも知れないが、自然界を観察した場合には奇跡の発見には必ずしも特殊効果を必要としない。
音楽について言えば、世界音楽というジャンルを個々の差異を解消することなく打ち立てている点で画期的だと思う。普遍宗教というものが自らの音楽を普遍的だとする勘違いの危険を孕んでいるように、世界音楽なる言葉は同じ危険を孕むが、この映画はそうした勘違いを自戒するようなストッパーが製作者のインタビュー及び作風の選択から感じられる。
例えば渋谷の音楽はサンバではないと言う。一般化したリズムを使用しているというのだろう。ハワイアンや古楽の使用からは流行から身を引く姿勢、その音楽独自の歴史を重視する姿勢を感じる。
これ以上の分析には細かい作業が必要だが本作の音楽は超越的な世界音楽なるものが存在しないことを自覚するが故に結果的に自らが世界音楽を体現している。
2.歴史的題材の面白さ
ここで指摘したいのは後半の歴史を扱ったストーリー描写で、上の物語紹介とは違い、若干の解説がある方が新たな楽しみを得られると思うので記したい。
まず敵役のクローディアスはマクベスからモーセに役割が変更する。トランプの塀を連想させるが基本的には旧約聖書が参照される。クローディアスの城も、バベルの塔を連想させるし小説版ではそう明示される。
(シェークスピアはハムレットでレビラート婚を批判していると読めるし、ベニスの商人と繋げればユダヤに批判的ということになる。映画は辺獄でキリスト以前のユダヤ教のイメージを使うことでこのシェークスピアの政治的歪みを修正している。みんなモーセの頃を思い出して仲良くやろうよ、ということだ。)
ヴォルティマンドの要塞も中東のペトラ遺跡を参照していると公式ガイドブックにある。群衆は東の太陽の出る方角を目指す。
途中夕陽も描かれるから紛らわしいが基本的にエクソダスは画面上右から左への移動として描かれるので分かりやすい。
東を目指すのは日ユ同祖論的イメージである。
途中廃墟の教会の床に絵がされたモザイクの地図はシナイ山と太陽が一つに描かれる。これはモデルとなるマダバ地図を独自に改変したものだ。
太陽のモチーフは鳥のモチーフと共に本作で重要だ。
スカーレット自身が空に昇る際、太陽に重なるように昇ってゆくのも偶然ではない。
スカーレットが目覚めた時に見え天蓋の装飾もヘロデ門(現イシュタル門に現存)の太陽を思わせる。
現イシュタル門(古代ヘロデ門が残っている)
十六弁菊花紋
都市伝説的には十六弁菊花紋と比べられるデザインだ。
何より気になるモチーフは王冠である。
これは私見ではローマ帝国と交流があったと噂される古代新羅の王冠に似ている。
樹木を模ったとされるが一部ではメノラーを想起させると言われている。
こうした歴史的モチーフはストーリー描写の背景にアレゴリカルに配置され、歴史に興味ある人間には刺激的である。
(小説版では歴史上の武器が紹介されさらに興味深い。ちなみに映画でもキーワードになる「ゆるし」という日本語は縄文由来の言葉らしい。紐を縛る、緩めると言う時の「ゆるめる」が語源だという。証明のしようがないが結縄が普及していたのは確かだろう。結縄はインカ帝国のキープが有名。沖縄にも藁算が残る。市場のシーンで少女がスカーレットにスカーフを巻いて結ぶのも約束という意味合いが感じ取れる。信用貨幣の原点に結ぶという行為があり、緩める、許すという行為もその一環に位置付けられる。さらに小説版で明らかになるが細田守は市場で共通通貨、共通言語が生成されると考えているようだ。旧約聖書ではバベルの塔が崩壊して複数言語に分かれるからバベルの塔の完成は共通言語の形成につながるという考え方もあり得る。)
3.倫理的、宗教的課題
ただし本作の魅力はこうした要素を上回る宗教的とも言える倫理的使命感にある。この宗教性は日本の一部の観客を激怒させ、反発させたものだ。
「君が私たちの無事を、神様に願ってくれたおかげさ」
冒頭部分のアムレット王のこんな小さなセリフでさえ宗教的構造は複雑だ。
願いをアニミズム的に作用させるのではなく神というワンクッションをわざわざ介在させる論理は日本の観客には理解し難いだろう。呪術と宗教の違いは以下の図解が参考になる。
呪術 祈り(宗教)
神
行為 為 り↗︎ \
(まじない) 行 の/ \
人-----→効果 い/ ↘︎
人 効果
岸本英夫『宗教学』50頁より
昨今のアニメーションブームには文字通り思考回路に呪術的アニマを復活させるという退行的な側面があるということは自戒を込めて追記しておきたい。テクノロジーを駆使すれば駆使するほどブラックボックス化の恐れは大きくなるので退行が進む危険がある。
(解決のヒントは先のセリフは父と娘のスキンシップを描くなかで発せられるということにある。テクノロジーを背景にして流行する退行を防ぐのはむしろ単純なスキンシップかも知れない。スカーレットが経験した絵画教育もそうした観点で捉え直すことは有益だろう。)
さらに宗教的反発については以下の言葉が正確だ。
“Whatever is truthful haunts you and don't let you sleep at night. Especially anybody who's living a lie gets hurt. You get a lot of ugly reactions from people not familiar with it. …
…Make something religious and people don't have to deal with it, they can say it's irrelevant. …There does come a time, though, when you have to face facts and the truth is true whether you wanna believe it or not, it doesn't need you to make it true... ”
Bob Dylan“Biograph” liner notes (1985)
《真実であるものは何であれ、人の心に付きまとい、 眠れなくなってしまう。 特にうそっぱちな生き方をしている者たちは、真理を聞かされると傷つくんだ。 そこでいろんな険悪な反応が返ってくるんだ。…
…なにか宗教的なものに対しては、 人は面と向かわないで、関係ないよと言わんばかりの顔をする。 …だけど、 事実に直面しなければならない時が来るし、 信じたくても、 信じたくなくても真理は真理であるという時が必ず来る。》
(ボブ・ディラン『バイオグラフ』旧版ブックレット38,94頁より)
柄谷行人の用語で言えばこの映画は交換様式Dを目指している。柄谷行人は共同体の高次元の回復を解くが、この映画ではキャラバンと市場のシーンが主人公二人を高次元に高める。詳細は別稿に譲るが交換様式Cを経てDに至る。それは恋愛感情を含めてだ…ただしスカーレットの獲得する愛は愛する人との永遠の別れと引き換えである。細かい技術的なことを言えば聖とスカーレットの別れのシーンの音楽が再び使われて歌詞が付け加わりエンドロールになる。愛する人の喪失は歌の獲得として表現される…。
この作品はある一定の精神的危機を乗り越えた際には指標となるであろう芸術作品特有のスキャンダラスな典型的反応を周囲にもたらした。
細田守は一歩一歩前進し宮崎駿を乗り越えた。スカーレットが透明な階段を登るシーンで自分はそう確信した。
大部分の観客はそれに気づいていないが、『果てしなきスカーレット』は傑作としてこれからの新たな観客に開かれて残る。
(魔女はマクベスから取られたが、大友克洋のキャラに似ている。これは『もののけ姫』で宮崎駿がシシガミの最後の表情を手塚治虫風にしたのを連想させる。超越的なものを形にする知恵、その方法論それ自体を受け継いでいる点で細田は他のジブリ模倣者と一線を画す。)
追記(群衆と鳥):
最後に鳥のモチーフについても追記しておきたい。
スイミー的なオチは劇場によって捉え方が変わる。特に鳥の声の分離は劇場差が大きい。
虚無の在り方も我々次第ということだ。ここは一部海外批評家から仏教的と評された。
ドラゴンを鳥の集合体としたことは民衆の集合力をアレゴリカルに示したもので途中描かれた群衆の悲劇とも対応する。
最後の群衆の前に立つスカーレットはチャップリンの『独裁者』を想起させる。チャップリンと違うのはスカーレットが対話を試みるという点だ。
時にはうるさい、時には静かな群衆はスカーレットの問いかけによって対話する個々の人格を付与される。
《…わたしたちにとっての唯一の教師は、わたしたちに対して「私と共にやりなさい」と言う… 》 (ジル・ドゥルーズ『差異と反復』単行本49頁、文庫上74頁より)





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