脱・宮崎駿主義宣言 ー『果てしなきスカーレット』、『君たちはどう生きるか』、『風立ちぬ』を巡る、アニメ映画の<成熟>ー
Ⅰ、『果てしなきスカーレット』の不評を観て
これまでにない、非常に大きな波が起きた。
SNSでは、『果てしなきスカーレット』について、連日連夜、負のイメージを刷り込まれた。
日本テレビの取締役による、「ネガティブキャンペーンの波にのみ込まれてしまった。」という発言が、このことを象徴しているだろう。
(日刊スポーツ、日テレ取締役、映画「果てしなきスカーレット」は「大不振で終了」SNSの"ネガキャン"嘆く、2026年2月16日)
しかし、この現実は、適切な評価によって、もたらされたものだろうか。
劇場で、本映画を観た時、大きな違和感を感じた。
何かが、「欠けている」と強く思った。

この気持ちは、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を観たときにも、もたらされた。
略して『君生き』は、難しいとSNSで言われていた。
そのこともあって、何かが「欠けている」と思った。
作品と評価の乖離である。
本稿は、もたらせられた、この感情に対して、私なりに一つの応答をした。
が、あくまでも、一つの短い応答である。
未だ眠っている答えがあることを、胸に刻みつつ、発表していく。
その応答は、要約すると、「宮崎駿」作品のような<子供>が評価されるのに対し、「細田守」作品のような<大人>は不評であることの、現実を伝えている。
これから、この現実を詳細に描写していく。
Ⅱ、『果てしなきスカーレット』の本当のテーマ ー『未来のミライ』と関連付けてー
『果てしなきスカーレット』への不評の要因を大きく分けると、下記の二つにある。
①、世界設定の規模が大きい割に、雑や謎な所が多い
②、聖の行動が意味わからない
①に関しては、111分という2時間に満たない、短い上映時間に対して、詰め込み過ぎた物語の帰結である。
あまりにも「商業主義」に寄りかかり、短さを求める邦画の路線は、褒められたものではない。
不朽の名作、『七人の侍』は、207分もある事実を忘れているのではないか。
ただ、『国宝』が、174分ありつつ、興行収入200億円を超えたことは、救いである。
話を戻そう。
それでも、設定への違和感に、少しは反論できる部分もある。
以下からは、下記の漫画を参考に、違和感について語る。
(COMIC OGYAAA‼、邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん Season15/3本目 果てしなきスカーレット、2026年01月23日)
メインである、違和感として、『果てスカ』のメイン舞台である、この世とあの世の「死者の国」に、クローディアスとその部下がいることである。
加えて、上記の漫画では触れられてないが、なぜか、令和に生きている、聖がいることへの違和感も、SNSでは見受けられた。
この設定に関して、意味が分からないと、突き放すことは簡単である。
だが、この設定が設けられた理由とメッセージ性を、一度考えてみよう。
「死の国」の老婆による、「ここは生も死も、時間も溶け合う場所。」という台詞がかなり序盤に語られた。
この言葉は、設定を理解する、一助にならないだろうか。
人であるからには、誰もが死ぬ。死なない人は、存在しない。
その先に、辿り着く、「死の国」では、いつ・どこで・どのように<死>に直面した人物であったとしても、誰もが交わることができる。
つまり、<死>の普遍性が表現されているのだ。
では、聖がいることは、どのような意味があるのだろうか。
スカーレットから聖へのセリフとして、「聖の時代に争いが無くなるように頑張る」というものがあった。
このとき、中世のデンマークと、現代日本に如何なる繋がりがあるのだろうかと思う。
しかし、細田守監督の前々回の作品『未来のミライ』を思い浮かべてみよう。
あの作品では、「他者(家族)の中でしか、人間は存在し得ない」というテーマが語られている。
そのテーマにある核には、歴史の上で、命が連綿として連なっていることがある。
言い換えるならば、人ー父・母ー祖父・祖父母ー曽祖父・曾祖母・・・・・・・・・・・・と、何千年の連なりが、我々の背後にはあることである。
この一つでも、途切れたら、我々は存在し得ない。
『未来のミライ』の主人公、くんちゃんには曽祖父がいる。
その曽祖父は、曾祖母に、かけっこで勝ったら結婚してくれと言い、プロポーズをした。
この時、曹祖父が走りきらなければ、もしかしたら、くんちゃんは存在していないかもしれない。
歴史とは、そのように連綿と果てしなく続き、築かれていく。
このように人間とは、我々の想像の範疇にはない、遥か彼方のむかしのできごとに、何かの影響を受けながら、生きている。
そういう、連綿とした、「縦の繋がり」の関係性が表現されているのだ、
ともすれば、我々は生きている、現代という「横の繋がり」のみを語ってしまいがちである。
だが、我々は、歴史という「縦の繋がり」にも影響を受けながら、未来に影響を与えているのだということ。
これが、聖の存在によって、表現されているのだ。
では、②聖の行動が意味がわからないことに、触れていこう。
その行動とは、「戦うことを辞めさせようとしている」のに対し、「スカーレットのピンチでは、弓を引いて敵を殺し、助けた」ことである。
ここに関しては、本作のテーマを捉え直す必要がある。
それは、<復讐>であると考えられている。
だが、この考えは、聖に視点を置かずに、スカーレットの視点に留まっている。
聖を加えたテーマに相応しい言葉は、<不条理>であると考える。
この二人は、社会あるいは人間の<不条理>(権力欲に溺れたクローディアスや、無差別殺人事件)をくらい、「死の国」に追いやられている。
そのような中、聖は<不条理>を「忘れる」ことで生きたが、スカーレットは強烈に「刻み続ける」ことで生きようとした。
だが、このような、自己と「乖離」した観念的な生き方では、「自分を許す」ことができない。
なぜなら、現実に<不条理>は存在し続け、無理な抗いや忘却では、自らが負けてしまうからである。
スカーレットが<不条理>に負けた、「自分を許す」ことができたことは映画で緻密に描かれている。
父、アムレットの最後のセリフは「許せ」であり、それはスカーレットに向けられていた。
が、聖は「自分を許す」ことはできたのだろうか。
その時に、②である、聖が弓を引く場面が重要になるのである。
彼が弓を引く前の葛藤の際、「死の国」の老婆が、「お前さんは、なぜこの場所にいるのだ」と聖に語り掛ける。
そして、聖は、自らが、無差別殺傷の犯人から子供をかばい、刺されて死んだことを思い出す。
それから、弓を引いて、スカーレットを助けるのである。
この時に、<不条理>を無理して「忘れる」ことを、辞めているのだ。
つまり、<不条理>が存在し、現実から乖離した理念(人を傷つけない・殺さないこと)だけでは通用しないことを認め、理念から外れても、<不条理>と向き合う「自分を許す」ことができたのである。
こうして眺めてみると、①・②の不評の要因にも、多くの大事な「メッセージ」が眠っているのである。
たしかに、「メッセージ」先行になっているかもしれない。
しかし、それは、宮崎駿作品にもよく言われていることである。
そして、このときに現れる、大きな違いが、「メッセージ」が<大人>か、<子供>かである。
上記の論考を総括すると、『果てスカ』のテーマは、<不条理>をくらった際にいかに「自分を許す」べきかという、現実的かつ重々しい内容である。
つまり、現実を知った、<大人>なテーマなのである。
では、宮崎駿作品はどうであろう。
Ⅲ、『風立ちぬ』、『君たちはどう生きるか』に眠る<子供>性
激烈な違和感を感じながら、米津玄師の『地球儀』を聴いた。
『君たちはどう生きるか』が、<難しい>と言われていたからだ。
確かに、世界設定や物語の流れなどは、<難しい>かもしれない。
しかし、そこにあるテーマは非常に<単純>である。
それは、「自己を確立」させることである。
本編で、「ワレヲ學ブ者ハ死ス」という黄金の門があることや、終盤に主人公である眞人は、大叔父から「13個の悪意のない石の積み木」を継ぐことを拒否する場面があることから、このテーマは読み取れる。
だが、「自己を確立」させることは、<模倣>を辞めることだけなのだろうか。
今風に言うと、「アイデンティティ」の発見となるが、それは途轍もない、「葛藤」を繰り返して、見つけ出すことができる、非常に難しいことである。
本作は、その「葛藤」がない。
なぜならば、その物語は、宮崎駿自身の作品のオマージュをふんだんに塗り固めただけにすぎないからである。
曖昧で、面倒くさい「葛藤」もなく、「友達」を作ることだけで、全てが解決してしまう。
一つ、その「葛藤」を描いた作品を挙げよう。
それは、『風立ちぬ』である。
主人公、堀越二郎は「美しい」飛行機を作りたいだけである。
だが、その願望は、人を殺すことに繋がってしまう。
なぜならば、実際の飛行機は、戦争が起こることに伴い、発展していったからである。
そうした、<葛藤>は、二郎だけでなく、駿自身にもある。
彼は、戦闘機の「美しさ」に魅了されている。
『風たちぬ』のみならず、『紅の豚』でも、彼の戦闘機への愛は伝わってくる。
が、現実では、彼が憎む戦争で、それらは大活躍しているのである。
その<葛藤>こそ、理想と現実の相違で、我々が直面するものである。
しかし、『風立ちぬ』でも、戦争のシーンは、ほとんど見受けられなかった。
現実を眺めることから「逃げ」、「美しさ」だけを見つめるのである。
総括すれば、宮崎駿作品は<子供>なのである。
現実から「逃げ」、<単純>なテーマに縛りついている。
Ⅳ、脱・宮崎駿主義とは何か
宮崎駿作品は、多くの人に愛され、これからも愛されていくであろう。
勿論、それらの作品が、途方もなく優れていることは言うまでもない。
決して青少年向けでない部分も多いにある。
しかし、一つ大事なことがある。
それは、アニメ映画の基本に、宮崎駿的なる物語を求めないことである。
たとえば、かつて新海誠は「ポスト宮崎駿」であると、語られた。
『すずめの戸締り』も、ジブリを意識した物語になった。
が、宮崎駿作品は宮崎駿が監督であるから、優れているのである。
それが「アイデンティティ」である。
彼の作品の<子供>性が、広まり、受け継がれると、永遠にアニメ映画は<成熟>できない。
未だに、アニメ映画は、青少年向けに留まっている感は、否めない。
ひと夏の青春も素晴らしいが、<不条理>のなかでどう生き抜くかを直視する作品も大いに評価されるべきである。
日本のアニメ映画が<成熟>していくことを期待して、筆を休める。
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