2026年3月25日水曜日

脱・宮崎駿主義宣言 ー『果てしなきスカーレット』、『君たちはどう生きるか』、『風立ちぬ』を巡る、アニメ映画の<成熟>ー|長門由伸(文学部3年)

脱・宮崎駿主義宣言 ー『果てしなきスカーレット』、『君たちはどう生きるか』、『風立ちぬ』を巡る、アニメ映画の<成熟>ー|長門由伸(文学部3年)

脱・宮崎駿主義宣言 ー『果てしなきスカーレット』、『君たちはどう生きるか』、『風立ちぬ』を巡る、アニメ映画の<成熟>ー

見出し画像

Ⅰ、『果てしなきスカーレット』の不評を観て

 これまでにない、非常に大きな波が起きた。
 SNSでは、『果てしなきスカーレット』について、連日連夜、負のイメージを刷り込まれた。
 日本テレビの取締役による、「ネガティブキャンペーンの波にのみ込まれてしまった。」という発言が、このことを象徴しているだろう。

(日刊スポーツ、日テレ取締役、映画「果てしなきスカーレット」は「大不振で終了」SNSの"ネガキャン"嘆く、2026年2月16日)
  
 しかし、この現実は、適切な評価によって、もたらされたものだろうか。
 劇場で、本映画を観た時、大きな違和感を感じた
 何かが、「欠けている」と強く思った。

画像
(2025年12月13日筆者撮影)

 この気持ちは、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を観たときにも、もたらされた。
 略して『君生き』は、難しいとSNSで言われていた
 そのこともあって、何かが「欠けている」と思った。
 作品と評価の乖離である
 本稿は、もたらせられた、この感情に対して、私なりに一つの応答をした。 
 が、あくまでも、一つの短い応答である。
 未だ眠っている答えがあることを、胸に刻みつつ、発表していく。
 その応答は、要約すると、「宮崎駿」作品のような<子供>評価されるのに対し、「細田守」作品のような<大人>不評であることの、現実を伝えている。
 これから、この現実を詳細に描写していく。

Ⅱ、『果てしなきスカーレット』の本当のテーマ ー『未来のミライ』と関連付けてー

  『果てしなきスカーレット』への不評の要因を大きく分けると、下記の二つにある。
 
 ①、世界設定の規模が大きい割に、雑や謎な所が多い

 ②、聖の行動が意味わからない

 ①に関しては、111分という2時間に満たない、短い上映時間に対して、詰め込み過ぎた物語の帰結である。
 あまりにも「商業主義」に寄りかかり、短さを求める邦画の路線は、褒められたものではない。
 不朽の名作、『七人の侍』は、207分もある事実を忘れているのではないか。
 ただ、『国宝』が、174分ありつつ、興行収入200億円を超えたことは、救いである。
 話を戻そう。
 それでも、設定への違和感に、少しは反論できる部分もある。
 以下からは、下記の漫画を参考に、違和感について語る。

(COMIC OGYAAA‼、邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん Season15/3本目 果てしなきスカーレット、2026年01月23日)
  
 メインである、違和感として、『果てスカ』のメイン舞台である、この世とあの世の「死者の国」にクローディアスとその部下がいることである。
 加えて、上記の漫画では触れられてないが、なぜか、令和に生きている、聖がいることへの違和感も、SNSでは見受けられた。
 この設定に関して、意味が分からないと、突き放すことは簡単である。
 だが、この設定が設けられた理由とメッセージ性を、一度考えてみよう
 「死の国」の老婆による、「ここは生も死も、時間も溶け合う場所。」という台詞がかなり序盤に語られた。
 この言葉は、設定を理解する、一助にならないだろうか。
 人であるからには、誰もが死ぬ。死なない人は、存在しない。
 その先に、辿り着く、「死の国」では、いつ・どこで・どのように<死>に直面した人物であったとしても、誰もが交わることができる。
 つまり、<死>の普遍性が表現されているのだ。
 では、聖がいることは、どのような意味があるのだろうか。
 スカーレットから聖へのセリフとして、「聖の時代に争いが無くなるように頑張る」というものがあった。
 このとき、中世のデンマークと、現代日本に如何なる繋がりがあるのだろうかと思う。
 しかし、細田守監督の前々回の作品『未来のミライ』を思い浮かべてみよう。
 あの作品では、「他者(家族)の中でしか、人間は存在し得ない」というテーマが語られている。
 そのテーマにある核には、歴史の上で、命が連綿として連なっていることがある。
 言い換えるならば、人ー父・母ー祖父・祖父母ー曽祖父・曾祖母・・・・・・・・・・・・と、何千年の連なりが、我々の背後にはあることである。
 この一つでも、途切れたら、我々は存在し得ない。
 『未来のミライ』の主人公、くんちゃんには曽祖父がいる。
 その曽祖父は、曾祖母に、かけっこで勝ったら結婚してくれと言い、プロポーズをした。
 この時、曹祖父が走りきらなければ、もしかしたら、くんちゃんは存在していないかもしれない。
 歴史とは、そのように連綿と果てしなく続き、築かれていく。
 このように人間とは、我々の想像の範疇にはない、遥か彼方のむかしのできごとに、何かの影響を受けながら、生きている。
 そういう、連綿とした、「縦の繋がり」の関係性が表現されているのだ、
 ともすれば、我々は生きている、現代という「横の繋がり」のみを語ってしまいがちである。
 だが、我々は、歴史という「縦の繋がり」にも影響を受けながら未来に影響を与えているのだということ。
 これが、聖の存在によって、表現されているのだ。
  
 では、②聖の行動が意味がわからないことに、触れていこう。
 その行動とは、「戦うことを辞めさせようとしている」のに対し、「スカーレットのピンチでは、弓を引いて敵を殺し、助けた」ことである。
 ここに関しては、本作のテーマを捉え直す必要がある。
 それは、<復讐>であると考えられている
 だが、この考えは、聖に視点を置かずに、スカーレットの視点に留まっている
 聖を加えたテーマに相応しい言葉は、<不条理>であると考える。
 この二人は、社会あるいは人間の<不条理>(権力欲に溺れたクローディアスや、無差別殺人事件)をくらい、「死の国」に追いやられている
 そのような中、聖は<不条理>を「忘れる」ことで生きたが、スカーレットは強烈に「刻み続ける」ことで生きようとした。
 だが、このような、自己と「乖離」した観念的な生き方では、「自分を許す」ことができない
 なぜなら、現実に<不条理>は存在し続け、無理な抗いや忘却では、自らが負けてしまうからである。
 スカーレットが<不条理>に負けた、「自分を許す」ことができたことは映画で緻密に描かれている。
 父、アムレットの最後のセリフは「許せ」であり、それはスカーレットに向けられていた。
 が、聖は「自分を許す」ことはできたのだろうか
 その時に、②である、聖が弓を引く場面が重要になるのである。
 彼が弓を引く前の葛藤の際、「死の国」の老婆が、「お前さんは、なぜこの場所にいるのだ」と聖に語り掛ける。
 そして、聖は、自らが、無差別殺傷の犯人から子供をかばい、刺されて死んだことを思い出す。
 それから、弓を引いて、スカーレットを助けるのである。
 この時に、<不条理>を無理して「忘れる」ことを、辞めているのだ。
 つまり、<不条理>が存在し、現実から乖離した理念(人を傷つけない・殺さないこと)だけでは通用しないことを認め理念から外れても、<不条理>と向き合う「自分を許す」ことができたのである。
 
 こうして眺めてみると、①・②の不評の要因にも、多くの大事な「メッセージ」が眠っているのである。
 たしかに、「メッセージ」先行になっているかもしれない。 
 しかし、それは、宮崎駿作品にもよく言われていることである。
 そして、このときに現れる、大きな違いが、「メッセージ」が<大人>か、<子供>かである。
 上記の論考を総括すると、『果てスカ』のテーマは、<不条理>をくらった際にいかに「自分を許す」べきかという、現実的かつ重々しい内容である。 
 つまり、現実を知った、<大人>なテーマなのである。
 では、宮崎駿作品はどうであろう。

Ⅲ、『風立ちぬ』、『君たちはどう生きるか』に眠る<子供>性

   激烈な違和感を感じながら、米津玄師の『地球儀』を聴いた。
 『君たちはどう生きるか』が、<難しい>と言われていたからだ。
 確かに、世界設定や物語の流れなどは、<難しい>かもしれない。
 しかし、そこにあるテーマは非常に<単純>である。
 それは、「自己を確立」させることである。
 本編で、「ワレヲ學ブ者ハ死ス」という黄金の門があることや、終盤に主人公である眞人は、大叔父から「13個の悪意のない石の積み木」を継ぐことを拒否する場面があることから、このテーマは読み取れる。
 だが、「自己を確立」させることは、<模倣>を辞めることだけなのだろうか。
 今風に言うと、「アイデンティティ」の発見となるが、それは途轍もない、「葛藤」を繰り返して、見つけ出すことができる、非常に難しいことである。
 本作は、その「葛藤」がない。
 なぜならば、その物語は、宮崎駿自身の作品のオマージュをふんだんに塗り固めただけにすぎないからである。
 曖昧で、面倒くさい「葛藤」もなく、「友達」を作ることだけで、全てが解決してしまう。
 一つ、その「葛藤」を描いた作品を挙げよう。
 それは、『風立ちぬ』である。
 主人公、堀越二郎は「美しい」飛行機を作りたいだけである。
 だが、その願望は、人を殺すことに繋がってしまう。
 なぜならば、実際の飛行機は、戦争が起こることに伴い、発展していったからである。
 そうした、<葛藤>は、二郎だけでなく、駿自身にもある。
 彼は、戦闘機の「美しさ」に魅了されている。
 『風たちぬ』のみならず、『紅の豚』でも、彼の戦闘機への愛は伝わってくる。
 が、現実では、彼が憎む戦争で、それらは大活躍しているのである。
 その<葛藤>こそ、理想と現実の相違で、我々が直面するものである
 しかし、『風立ちぬ』でも、戦争のシーンは、ほとんど見受けられなかった。
 現実を眺めることから「逃げ」、「美しさ」だけを見つめるのである
 総括すれば、宮崎駿作品は<子供>なのである。
 現実から「逃げ」、<単純>なテーマに縛りついている。 

Ⅳ、脱・宮崎駿主義とは何か

 宮崎駿作品は、多くの人に愛され、これからも愛されていくであろう。
 勿論、それらの作品が、途方もなく優れていることは言うまでもない。
 決して青少年向けでない部分も多いにある
 しかし、一つ大事なことがある。
 それは、アニメ映画の基本に、宮崎駿的なる物語を求めないことである。
 たとえば、かつて新海誠は「ポスト宮崎駿」であると、語られた。
 『すずめの戸締り』も、ジブリを意識した物語になった。
 が、宮崎駿作品は宮崎駿が監督であるから、優れているのである
 それが「アイデンティティ」である
 彼の作品の<子供>性が、広まり、受け継がれると、永遠にアニメ映画は<成熟>できない。 
 未だに、アニメ映画は、青少年向けに留まっている感は、否めない。
 ひと夏の青春も素晴らしいが、<不条理>のなかでどう生き抜くかを直視する作品も大いに評価されるべきである。
 日本のアニメ映画が<成熟>していくことを期待して、筆を休める。

0 件のコメント:

コメントを投稿

映画 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 : 陽気なホラ吹き男の「孤影」|年間読書人 https://note.com/nenkandokusyojin/n/ne981640bfd54 映画 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 : 陽気なホラ吹き男の「孤影」 2024年3月6日 19:18 見出し画像 映画評:オーソン・ウェルズ監督『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』(1965年、スペイン・スイス合作映画) オーソン・ウェルズによる「フォルスタッフ」である。 なんで邦題が『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』なのかと言えば、西欧では「フォルスタッフ」はあまりにも有名なキャラクターなので、タイトルだけでは、誰のどの作品を指しているのかわからにくいからであろう。同様の事例としては『ゴダールのリア王』もある。「リア王」が、あまりにも有名であるために、かえって日本では「ゴダールの」と付けているのだ。 もちろん、『リア王』は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(戯曲)であり、「フォルスタッフ」も「リア王」と同様、シャイクスピアの創造したキャラクターなのだが、「リア王」の方は主人公であり、その名がタイトルになっているので、舞台を観たり、本で読んだりしたことがなくても、そのタイトルくらいなら聞いたことのある人も多いだろう。 だが、シェイクスピアに「フォルスタッフ」というタイトルの作品はない。彼、フォルスタッフはあくまでも「脇役」だからだ。 フォルスタッフは、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世』で初登場する脇役キャラなのだが、そのあまりにも魅力的な人物造形に人気が高まり、のちには、シェイクスピア自身が、フォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書くことにもなる。 このあたりの事情については、「Wikipedia」の次の説明が簡明なものであろう。 『サー・ジョン・フォルスタッフ(Sir John Falstaff)は、ウィリアム・シェイクスピアの作品(ヘンリアド)に登場する架空の人物。言語によっては「ファルスタッフ」とも。 大兵肥満の老騎士。臆病者で「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。  フォルスタッフ「名誉だと? そんなもので腹がふくれるか?」 シェイクスピアの生み出した数多くの劇中人物の中でも、「劇を飛び出して生きた」息子は二人だけだと言われている(フォルスタッフとシャイロック)。 『ヘンリー四世』(2部作)ではハル王子(後のヘンリー5世)の放蕩仲間として登場するが、第2部の最後に即位してヘンリー5世となった王子に追放されてしまう。続編の『ヘンリー五世』では、追放後まもなく失意の中で、(フランスで汗かき病のため)死んだことが仲間(ピストール、バードルフ)の口から語られるという形で紹介される。  ピストール「地獄ででもいいから、ヤツと一緒にいたいよ…」 もっとも、このようなフォルスタッフの「殺害」については、当時から人気の高かったフォルスタッフを勝手に登場させた戯曲などがまかり通っており、シェイクスピアはそのような事態を防ぐために、自らの「息子」を死んだことにして守らなければならなかったといわれている。 イングランド女王エリザベス1世がフォルスタッフをたいそう気に入り「彼の恋物語が見たい」と所望したため、シェイクスピアはフォルスタッフを主人公とした『ウィンザーの陽気な女房たち』を書いたと言う説もある。同作では勝手な思い込みから2人の夫人に恋を仕掛ける愉快な好色漢として描かれている。』 このように、フォルスタッフは、いわゆる「ヒーロー(英雄)」ではないし、かといって「ヒール(悪役)」でもない。 いわゆる悪漢ではあるのだけれども、単純な悪党ではなく、人間的な魅力と愛嬌を兼ね備えた、その肥え太った巨体に相応しい「幅のある」キャラクターであり、そこが多くの人から愛されることにもなったのである。 画像 さて、私がなぜこの映画を観たのかというと、それはもちろん、敬愛するオーソン・ウェルズの作品だということと、昔からフォルスタッフというキャラクターには惹かれるものがあったからだ。したがって、この両者が交差するところに、興味を持たないわけにはいかなかったのである。 私が観たDVDには、小型パンフレットが付属していて、そこには映画評論家・吉田広明の「作品解説」と、英文学者・高山宏の寄稿文「フォルスタッフみたいなオーソン・ウェルズ」が収録されている。この高山文の中には、次のような部分がある。 『 神や名誉をキーワードにいわばどんどん精神化し始めていく時代(「近代」)に、これは未来永劫まったく変わることない人間の自然である「肉体」をまともにぶつけるとそれがそのまま、近代批判になるのだと言いだしたのも一九六〇年代の有力批評だった。ヤン・コットもその一人だったが、なにしろロシア人批評家ミハイル・バフチンによるラブレー研究や『ドストエフスキーの詩学』だった。バフチンが英訳されたのは『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』完成の後にはなるが、ヤン・コットやバフチンによる、近代文明が人間の肉体的部分をいかに「追放」してきたか論じる仕事は時代全体の大きな潮流となっていた。肉体を通じての近代批判を実行したとされた道化たちへの研究が一九六〇年代に爆発的に流行した事情は、今なお世界に誇ってよい人類学者、山口昌男の道化研究がまさしく一九六〇年代に突発したこと一点を思いだせば明らかだろう。ヤン・コットの盟友であり、バフチンの最強力推せん者だった故・山口氏にこそ見せたかった今回のリマスター版である。一九六五年完成版の方について氏がきっと何か面白いことを書いているはずだ。著作量が多すぎて、今は確認できていないが、多分。』 私に「フォルスタッフ」の存在とその魅力を教えてくれたのが、ここで紹介されている文化人類学者・山口昌男である。私は若い頃に山口の著作を読んでおり、多大な影響を受けた。 今、昔つけていた読書ノートを確認してみると、山口の著作を7冊ほど読んでいるのだが、それらの目次の中には「フォルスタッフ」の名は見当たらない。だが、これは「フォルスタッフ」の名を冠したエッセイが無いというだけで、山口は何度も「フォルスタッフ」に言及していたはずで、私はその影響を受けて、「フォルスタッフ○○の研究」といったタイトルの、無名の友人を扱った人物論を書いたこともある(○○の部分に、友人の苗字が入る)。 山口昌男の主著は、やはり『道化の民俗学』ということになるだろうが、山口がこの「道化(道化師、ピエロ、アルレッキーノ)」といったものをどのように捉えていたのかというと、別のエッセイ集のタイトル『笑いと逸脱』という表現が、一番わかりやすいのではないかと思う。 (表紙イラストは山口昌男による「ヘルメス神」) つまり、道化は「笑っている」「ふざけている」存在であり、その意味で「真面目」の対極にある。また、「ふざけている」というのは、「王道」「正統」といったものから「逸脱」した存在であることを意味する。 つまり、道化というのは「正統派」でも「正義の味方」でもなければ、バットマンのような「ダークヒーロー」でもなく、むしろ「ジョーカー」的な存在であり、その意味で「悪漢」であり「悪魔」なのだが、しかし「暗く」はないのだ。いつも「ふざけている」し「笑っている」悪漢であり、その意味で、アメコミヒーローの一人、バットマンの宿敵であるジョーカーこそが、「道化」のイメージに近いし、事実、『バットマン』に登場するジョーカーは、「道化師=ピエロ」と「悪魔」の合成されたイメージなのだと言えるだろう。 画像 (ジョーカーを演じた俳優たち。左から『ジョーカー』のホアキン・フェニックス、『ダークナイト』のヒース・レジャー、『バットマン』のジャック・ニコルソン) しかし、それに比べれば、フェルスタッフは、そこまでの「悪魔性」は持っていないし、もっと「庶民的」であり「人間的」で、そんな「愛嬌のある」キャラクターだからこそ、多くの人に愛されたのだと言えるだろう。 言い換えれば、フォルスタッフの「道化性」とは、ジョーカーのような「(神性に対する)悪魔性」ではなく、「(神性に対する)人間性」なのだ。 例えば、アカデミー賞をとった、トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』のジョーカーが、世間の「きれいごと」に対する怒りと絶望から「闇堕ち」して「悪魔」になったのは、言うなれば「きれいごと」という「神性」を信じる「真面目さ」があったれればこそである。真面目に「きれいごと」を信じていたからこそ、その信頼を無惨に裏切られた「反動」から「笑うしかない」という「悲しい悪魔」としてのジューカーになったのだと言えるだろう。 だが、フォルスタッフの場合には、もとからそうした「真面目さ」などを信じてはいない。つまり「神」などという「絵空事」を笑い飛ばしてしまう、そんな良い意味での「不真面目さ」であり「庶民性」を持った存在なのだ。 彼は決して「頭が悪い」のではなく、「真面目一辺倒」の人間こそが「頭が悪い」と考えており、だからこそ彼は『時として深遠な警句を吐く』こともできるのである。 また、そんな彼だからこそ、ジョーカーのように「頭の悪い」闇堕ちなどしないのだ。単細胞にも「きれいごと」を真に受けているからこそ、それが裏切られたといって傷つき、その結果、真逆の「悪魔」に堕ちてしまうのであり、言い換えれば「人間、そんな単純なものではない。人間とは、神と悪魔の〝あいの子〟なんだよ」という「リアルな人間認識」さえ持っていれば、悪魔にまで堕ちることもなく、人間に止まっていることもできたはずなのだ。 つまり、フォルスタッフは、決して「真面目な知識人」でも「正義の人」でもないけれども、きわめて「人間的な賢い人」なのである。 そして、その賢さを、ことさらに見せつけるようなタイプの人ではなく、「悪徳もまた人間ゆえのものである」と考える、庶民的に「人間的な存在」だと言えるのだ。  ○ ○ ○ さて、ここでやっと、『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』に移ろう。 本作の「あらすじ」は、次のようなものである。 『ボリングブルック公(ジョン・ギールグッド)がヘンリー四世として即位した1400年はじめの冬。皇太子ハル(キース・バクスター)は、下町のいかがわしい居酒屋“猪首亭”で、悪名高いフォルスタッフ(オーソン・ウェルズ)と放蕩無頼の生活を送っていた。その頃、ヴォークワスの居城では、先王の世継ぎの婚姻であるパーシー一族の勇敢な若武者ホットスパー(ノーマン・ロッドウェイ)が、妻のケイト(マリナ・ヴラディ)に送られて出陣していた。ホットスパーに比べて無茶苦茶な生活を送るハルに頭を悩ませるヘンリー四世。従臣ポインズ(トニー・ベックリー)が仕組んだギャズヒルの森での追いはぎ事件の首尾を豪語するフォルスタッフ。彼の武勇談は猪首亭の名物だ。娼婦ドル(ジャンヌ・モロー)をまじえて、夜は果てることなく、騒ぎは続く。名誉と大義をかけたシュルーズベリーの合戦でハルは、見事にホットスパーを討ち倒した。やがてヘンリー四世が、たび重なる叛乱鎮圧に疲れ果て病床についた。ついにハルは王宮に戻ることになった。固い絆で結ばれていたハルとフォルスタッフは、お互いに別れを告げた。真夜中の鐘をなつかしむシャロー(アラン・ウェッブ)の城に、王の死の知らせが伝わる。わが子のことのように勇んでハルの戴冠式に馳せ参じたフォルスタッフに、しかし、国王ヘンリー五世となったハルの言葉は冷酷だった。フォルスタッフに対する追放、投獄の命だった。彼は心に深い傷を受けてやがて死んでゆくのだった。』 (「映画.com」の「ストーリー」より) 若い読者のために書いておくと、舞台は、今のイギリスである「イングランド」だ。今のフランスと、ヨーロッパの覇権を賭けての長年の戦争を繰り広げていた、戦乱の時代の話である。 つまり、イングランド王リチャード二世の下の「諸侯」の一人であったボリングブルック公が、先王のリチャード二世を倒して廃位させ、ヘンリー四世となってわけで、言うなればヘンリー四世は「先王を裏切った」人物である。 戦乱の世だから仕方がないとはいえ、そのためにヘンリー四世に対して敵意を持つ諸侯も多かった。当然、『先王の世継ぎの婚姻であるパーシー一族の勇敢な若武者ホットスパー』もヘンリー四世を敵視しており、ヘンリー四世の嫡男であるハルのことも認めていない。 ところが、その皇太子ハルは、父親のヘンリー四世が、相次ぐ反乱に苦慮している最中に、巷の悪漢どもと遊び呆けていたのであり、その親友がフォルスタッフであったということになる。 画像 画像 画像 (王様ごっこをしてふざけ合う、フォルスタッフとハル) やがて、ヘンリー四世が病いの床に伏すと、息子のハルは王城に呼び戻されることになり、フォルスタッフも自分の遊び仲間であったハルが王位に就けば、これで自分の身分も保証されて安泰だと喜び、喜んでハルを王城へと送り返す。だが、ハルは、イングランドの安寧を求める父王の苦悩を目の当たりにして心を入れ替え、父王の死に伴ってヘンリー五世となる。 画像 (ハルのもとに、父王が倒れたので城に戻れとの連絡が。) その戴冠式に喜んで馳せ参じたフォルスタッフは、立場も弁えずに、大勢の臣下たちの前で、親友の王位継承に賛嘆の言葉を投げるのだが、その時のハルの表情は、まさに「一国の王」に相応しく「威厳に満ちて」いっそ冷たくさえあり、フォルスタッフを見下すようにして、その行いを難じ、追放を言い渡す。そして、それに従わなければ投獄するとまで言うのである。 画像 (戴冠式で声をかけたフォルスタッフを、冷たい目で見るヘンリー五世となったハル) この時の、フォルスタッフの表情が実に素晴らしい。もちろん、名優オーソン・ウェルズの演技が素晴らしいのだ。 あっけに取られつつも、決してそこには「裏切られた怒りや悲しみ」ではなく、むしろ「そうか。お前は本物の王になっちまったんだな」という、まるで「かわいい息子が、偉くなって、父の元を巣立ちする姿を見るような」、そんな寂しさと嬉しさが同居したような、なんともやるせない表情を見せるのである。 画像 (オーソン・ウェルズの名演) だが、そのあと、王城を去っていくフォルスタッフは「あんなことを言ったけれど、あれはみんなの前だったから、体裁を取り繕っただけのことさ。そのうち、お召しがあるに違いない」と独りごちる。 そして、実際、ヘンリー五世となったハルは、フォルスタッフを罰する必要はないと臣下に指示し、臣下から「それでは示しがつきません」と反対されるのだが、彼は「人間、厳しいばかりではいけない。大目に見ることも必要なのだ」と、年長の臣下を諭すのであった。 だが、そんなヘンリー五世のもとに「フォルスタッフの訃報」が届けられる。フォルスタッフは、口では「新王は俺を召し抱えてくれるに違いない」などと、自分に言い聞かせるように言っていたけれど、しかし彼は、心の底では「自分は、役目を終えた存在なのだ」という自覚を持っていたということなのだろう。だからこそ、気落ちして死んでしまったのである。 この映画を見ていて、感心させられるシーンの一つに、ハルの父親ヘンリー四世を演じた、シェイクスピア劇の名優として知られるジョン・ギールグッドの、王としての苦悩を語る独白シーンでの演技の素晴らしさだ。 そのシーンは、いわゆる映画的なリアリズムではなく、舞台演劇的な独白を、ギールグッドが滔々と語るのだが、その迫力が素晴らしく、映画であることを忘れさせて、違和感などまったく与えない、見事なものなのである。また、ギールグッドのこうした名演があってこそのヘンリー四世であったから、皇太子ハルの改心も説得力を持ったのだ。 画像 (名優ジョン・ギールグッド演ずる、ヘンリー四世) だが、しかし、ここでひとつ言えるのは、DVD付属のミニパンフで、映画評論家の吉田広明も指摘していたとおり、ハルの実父であるヘンリー四世の「重厚さ」とか「王たる者の責任感」とかいった「真面目さ」とは、フォルスタッフの「軽さ」「無責任さ」の対極にあるものだ、という点である。 たしかにヘンリー四世は、「真面目な権力者」ではあっただろうが、そのために多くの者に血を流させることにもなった。その点、不真面目な悪漢であるフォルスタッフの犯罪とは、せいぜい追い剥ぎ程度であり、彼の語る「何人を殺した」とかいった自慢話は、所詮はホラでしかない。 つまり、ヘンリー四世とフォルスタッフは、「両極的」な存在であり、双方には「一長一短」があって、どちらか一方が正しいとは言えない、言うなれば「相補的」な存在なのである。 そして、皇太子ハルは、言うなれば、そんな二人を「父」として成長し、やがて「王」になったのである。 この物語の最後は、「ヘンリー五世」が、勇敢かつ情理を弁えた名君となったと語られて幕が閉じられるのだが、つまりヘンリー五世が、父王を超えた名君になれたのは、フォルスタッフという存在がいたからに他ならない。 無論、フォルスタッフの「子」のままでは、彼は堕落したチンピラのままで終わったけれども、フォルスタッフから学ぶべきことを学んだ後、フォルスタッフ的な限界を切って捨てたからこそ、彼は「名君」になれたのである。 だが、言い換えれば、フィルスタッフは、「名君を生むための捨て石」だったとも言え、その意味で、フォルスタッフには、その「陽気さ」にもかかわらず、「哀切感」がつきまとう。 だが、だからこそ、彼は多くの人に愛されたのであろう。単に陽気なだけではなく、この世を照らしたあと、やがてその役目を終えて沈んでいく夕日のような存在である彼に、人々は「人生」というものを見たのではないだろうか。 山口昌男の、あまりにも有名な「中心と周縁」理論も、言うなれば「王と道化」の、こうした弁証法的な関係を語ったものである。 どちらか一方だけが大切なのではなく、周縁は、中心を刺激し挑発することで「生気返し」をする必要不可欠な存在なのだ。決して、「神に対する悪魔」のような、単純に「中心に敵対する存在」などではない。そもそも周縁なくして、中心など存在し得ないのだ。 だが、それでも、そうした「周縁」の役目は、やはり「脇役」的であり、世間的には「不遇」なものとなりがちで、どこか「物悲しい陰」を帯ざるを得ない。 私がオーソン・ウェルズに惹かれるのも、彼にはそうした「陰」があるからだ。 「天才」だと謳われなからも、絶大な権力を揶揄ったために、今では「オールタイムベストワン映画」とも呼ばれる『市民ケーン』は、アカデミー賞を受賞することができなかったし、結果として、彼はハリウッドを追われることにもなる。 彼が作りたい映画は、ハリウッドが求めるような「明るく能天気」なものではなく、いつも独特の陰が差していた。 「破れ去るもの」「悪漢」「ペテン師」など、彼は、決して、人々が単純に憧れるような人物像のドラマを撮ることはせす、むしろ、そうしたものを「疑問に付す」ようなものばかりを撮りたがったがために、生涯、映画を撮るための予算を求めて、国々を渡り歩かなければならなかったのだ。 そして本作が、シェイクスピアの祖国「イギリス」の映画ではなく、「スペイン・スイス合作映画」の合作映画だというのも、そういう事情からなのだ。 スペインは、愚かにして聖なる騎士「ドン・キホーテ」を生んだ国であり、スイスは「どちらでもない国(中立国)」だというのは、いかにも象徴的なことではないだろうか。 したがって、オーソン・ウェルズが「フォルスタッフ」を演じたというのは、いかにも「そのまま」なのだ。 彼は「正統派の王」にはなれない「陰の王」なのであろう。私は、そんな彼の「孤影」に、どうしようもなく惹かれてしまうのである。 画像 (2024年3月6日)  

 ORSON WELLES: LO MEJOR DE FALSTAFF, 1965 (SUBTITULADO EN ESPAÑOL) https://youtu.be/UlZsyXmPb1s?si=8aCaexuyo3Vu9jNG @YouTubeより オーソン・ウェルズのフォル...