2026年6月7日日曜日

ルイ・ジューヴェ - Wikipedia Louis Jouvet

ルイ・ジューヴェ - Wikipedia

ルイ・ジューヴェ

コメディ・デ・シャンゼリゼの時代

1922年(34歳)から、1934年(46歳)まで。

コメディ・デ・シャンゼリゼ(Comedie des Champs-Élysés)は、パリ第8区、シャンゼリゼ通りから南へ折れたシャンゼリゼ劇場内の小劇場で、ジューヴェは1922年、シャンゼリゼ劇場の技術監督となって内部を改装し、1924年、解散したヴィユ・コロンビエ座の座員も選抜吸収し、コメディ・デ・シャンゼリゼを本拠とする座を組織した。

1926年(38歳)、レジオン・ドヌール勲章五等を受けた。

1927年、パリの在野3劇団と、相互扶助的な4座カルテルを結び、その『野党連合』は、フランス敗戦の1940年まで続いた。

1933年(45歳)、苦しい劇団財政への配慮から、映画『トパーズ』に出演し、以降も『女だけの都』・『旅路の果て』・『舞踏会の手帖』など頻繁に出演し、日本の映画ファンにも親しまれた。

アテネ劇場の時代

1934年(46歳)から、1951年(63歳)の没まで。

アテネ劇場(Théâtre de l'Athénée)は、パリ第9区、ガルニエのオペラ座の西200メートルにある。ジューヴェは1934年、コメディ・デ・シャンゼリゼとの契約切れを機に、そこへ移った。

1934年(46歳)、かって入学できなかったフランス国立高等演劇学校コンセルヴァトワール)の教授に迎えられた。

1936年、パリの国立劇場、コメディ・フランセーズ総支配人就任を要請されて辞退したが、ジャック・コポーやカルテルの仲間らと、同劇場の演出には加わった。レジオン・ドヌール勲章四等を受けた。

1939年9月の第二次世界大戦勃発により、多くの座員が動員され、演劇活動が困難になった。翌年6月フランスが降伏した。ナチ占領下のパリでは公演不能とさとり、非占領地域やスイスを巡演したのち、1941年6月、一座を率いてリオ・デ・ジャネイロへ渡った。中南米での公演は15ヶ国、376回、4年半に及んだが、その間、装置の被災消失、団員の分裂脱退などもあり、破産寸前に追いこまれた。

1944年(56歳)8月、パリ解放。再開初便に乗船し、1945年2月、パリに帰った。シャルル・ド・ゴール首相からコメディ・フランセーズ総支配人就任を要請されたが固辞。アテネ劇場を借り戻して劇団を再編し、12月、ジャン・ジロドゥの遺作の初演で、パリに復活した。ド・ゴールも観劇した。

1947年、コンセルヴァトワールの教授に、再び、迎えられた。

1948年、フランス政府の依頼に応じ、エジプトとヨーロッパ諸国へ巡演した。1950年にもヨーロッパとアフリカへ巡演した。帰国後、レジオン・ドヌール勲章三等を受けた。

1951年(63歳)、カナダアメリカへ巡演した。帰国して、アテネ劇場で稽古した夕に倒れ、2日後の8月16日に楽屋で没した。4日後、サンシュルピス教会で葬儀を執り行った。故人が世に出たヴィユ・コロンビエ劇場の目と鼻である。墓はモンマルトル墓地の南域にある。

大演出家のジューヴェは、映画では監督に従順な俳優だった。ジュリアン・デュヴィヴィエは、『映画が好きでなかった彼を、映画は尊敬した』と追悼した。

アテネ劇場は、アテネ・ルイ・ジューヴェ劇場(Théâtre de l'Athénée-Louis-Jouvet)となった。近くの広場は『オペラ=ルイ・ジューヴェ公園』(Sq. de l'Opera Louis Jouvet)である。

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