映画「オデュッセイア」の謎(4)語られなかったエピソード
ノーランは、映画化に当たり、ホメーロスの原作の世界を忠実になぞるように見せながら、幾つかの部分で決定的な改変を加えている。そこにノーランの隠されたメッセージが秘められている。それは何か。まず、原作からカットされた部分を確認しておこう。
映画版でカットされた場面は以下で見ていく4つのエピソードである。
なぜこれらの場面はカットされたのだろうか。3時間の尺に収まらなかったから、と理由付けするのは簡単だ。しかし、ノーランは、これらの場面を切ってでも原作にない新たな場面を加えたのだから、単純に尺だけの問題とは言えない。そこには、ノーランが彼独自のオデュッセイアの物語を立ち上げるために、どうしても削らなければならなかった理由があるはずだ。
1.神々のエピソード
ホメーロスの原作では、神々が登場する場面に多くが割かれている。
全能の神ゼウスと神々は、オデュッセウスの運命をどうするかを巡る会合を開く。神々の大半は、オデュッセウスの故郷への帰還を支持するが、海神ポセイドンだけは、息子で一つ目の巨人キュクロプスがオデュッセイアによって目を潰されたことを理由に反対する。結局、ポセイドンが不在の隙に、女神アテネがゼウスに嘆願してオデュッセウスは故郷への帰還を果たす。
しかし映画版では、こうした神々のエピソードは一切描かれない。唯一、アテネだけが、人間の姿を取ってオデュッセウスの傍らに登場する。しかし、これ以外の神々は、ただ嵐や雷鳴で暗示されるだけだ。
なぜ神々の場面がカットされたのか。理由は幾つか考えられる。これまでの映画を見る限り、どんなにSFXを駆使しても神々の場面は陳腐なものにしかならないから、あえて見せないという選択肢を取ったというのは十分に考えられる。話が複雑になりすぎるという懸念もあっただろう。
しかし、より積極的に考えれば、オデュッセイアの物語を、あくまでも彼自身の視点から描くために、神々を登場させないという判断があったのではないか。実際、ただそばに寄り添うだけのアテネ以外の神々を排除することで、自分が引き起こした災厄による世界の混乱を正し、掟と約束に基づく秩序を回復させるために、困難な運命に立ち向かっていくオデュッセイアの姿がより明確になったと言えるだろう。
神は掟を設定するが、世界の運命を決定するのは神ではなく人間である。そして人間は時に、自己の信念を貫くためにあえて神が設定しようという運命にあらがうことも必要なのだ。
2.2つの島のエピソード
映画では、原作でオデュッセイア一行が訪問する場所のうち、2つのエピソードがカットされている。
一つは、ロートパゴス人の国である。そこでは、オデュッセイアの部下たちがロートスという植物を食べて酔いしれ、故郷への帰還をいやがるエピソードが語られる。
もう一つは、風神アイオロスの島である。そこでオデュッセイアは、風神から風の袋をもらい、順調に航海を進めることが出来たが、誤って船員が袋を開けてしまって逆風に遭い、アイオロスの島に戻ってしまうと言うエピソードが語られる。
なぜこの二つのエピソードがカットされたのだろう。後者のエピソードがカットされた理由はわかりやすい。それは、アテネ以外の神の姿は描かないという理由によるものだ。
では、なぜ第一のロートパゴス人の国のエピソードはカットされたのか。単純に、面白くないという理由なのかもしれないが、もう少し積極的にその理由を考えてみたい。
答えは語られたエピソードの中にある
それを考えるには、まず残されたエピソードをみておく必要がある。映画版に残されたエピソードは、キコネス人の都市イマロスでの略奪、一つ目巨人族キュクロプスの島での戦い、巨人族の島での戦い、そして魔女キルケーの島での呪いの4つである。
映画版で描かれるこの4つのエピソードに共通するものは何か。
故郷への帰還の旅の途上で食料の欠乏に悩まされたオデュッセイア一行は、イマロスにおいて略奪に成功し食料を手に入れる。しかし、一つ目の巨人キュクロプスの島では、彼が養っていた羊たちを何とか手に入れたものの、何人もの仲間を失うことになる。そして、巨人族の島では何も入手することが出来ずに2艘の船と多くの仲間を失って敗走し、最後の魔女キルケーの島では魔女によって部下たちが豚に変身させられてしまう。
魔女キルケーの叫び
こうしてみると、ノーランは、この4つのエピソードを通じて食料調達という名目でなされる襲撃、略奪、破壊、そして明示的には描かれない陵辱の災禍を浮き彫りにさせたかったような気がする。
実際、魔女キルケーは、オデュッセイアになぜ部下たちを豚に変身させたのかと詰問されて、「おまえたち兵士は常に食料を奪い、女たちを陵辱するではないか。自分たちの罪を購うためには豚になって食われるのがふさわしい」と答える。その言葉が、すべてを言い表しているだろう。
ここでもまた、ノーランは戦争がもたらす災禍について語っている。戦争は、戦場での破壊のみならず、戦場に無関係な地でも、兵士たちの略奪・破壊・陵辱をもたらすのだ。これを明確にするためには、ロートパゴス国ののどかなエピソードは不要だった。
3.冥界に登場する死者たち
オデュッセイアたちは、魔女キルケーの教えにより、冥界の予言者テイレシアスを訪ねる。そこで彼らは、儀式で流された生け贄の血のにおいを求めて集まってきた霊たちと出会い、彼らと対話する。
映画版では、そこでオデュッセイアたちが、死体を埋葬することもなく各地に残してきた仲間たちの怨嗟の声を聞くことになる。しかし、原作に登場するオデュッセイアの母の霊、ギリシャ神話の女神アンティオペーの霊、そして英雄アキレウスの霊との対話はカットされる。
ここでもまた、ノーランの意図は明確だ。この場面でノーランは、オデュッセイアと死者たちの約束を浮き彫りにする。オデュッセイアは、ここでトロイの木馬のメッセンジャーとして無駄死にさせてしまったエルペノルと約束を交わし、さらに他の兵士たちに対し、死体を埋葬できなかったことを詫びた上で、故郷に帰還した後に、西の地で彼らの葬送儀礼を執り行うことを誓う。
ここに、この映画の重要な主題の一つがある。
トロイの木馬という奸計がもたらした破壊と、その後に続く各地での破壊・略奪・陵辱。神々の掟と約束を破ったことでもたらされた混乱と災厄を正し、世界に改めて平和と秩序をもたらすためには、何よりも死者たちの葬送が必要なのだ。そのためにはオデュッセイアは故郷に帰還しなければならず、そこで約束を履行しなければならず、またその際には神々の掟を守らなければならない。
これが、「海からの災厄」を招いてしまったオデュッセイアが、人間として唯一なし得る贖罪と貢献なのだ。言うまでもなく、この主題を際立たせる上で不要なエピソードは、たとえそれがオデュッセイアの母との対話であってもカットされる必要があった。
4.スケリア国への漂着とナウシカ姫との出会い
原作では、オデュッセイアはカリュプソの島を脱出した後、最初にスケリア国に漂着し、そこで王アルキノオスに謁見して、トロイア戦後の長い旅について語るという構成を取っている。そこで、オデュッセイアは、ナウシカ姫と出会い、アルキノオス王から姫との結婚を打診されるが、それを断って故郷への帰還に旅立つ。しかし、映画版ではこのエピソードがすべて省略され、オデュッセイアが旅の記憶を語る相手は、カリュプソに代わっている。
このエピソードを大胆に省略したところに、ノーランの凄さがあると思う。
オデュッセイアの物語に貴種流離譚はそぐわない
理由は、これによってオデュッセイアのアンチ英雄としての性格が鮮明になったこと。スケリア国のエピソードは、漂着者がその高貴な姿によって王との閲覧を許され、さらには美しいナウシカ姫との結婚を打診されるという点で、神話学が言うところの「貴種流離譚」の典型的なエピソードだと考えられる。
たとえボロボロの姿で漂着したとは言え、高貴な出自のものは必ず報われるという物語。これは、アンチ英雄の物語である映画版「オデュッセイア」とはまったく相容れない。映画版において、オデュッセイアは、あくまでも神々により与えられた困難と運命に人間として立ち向かう存在でなければならない。トロイの木馬で災厄をもたらした者は、決して英雄になり得ないのだ。
忘却の化身カリュプソ
それだけではない。ノーランの凄いところは、オデュッセイアが語る旅の物語の聞き手を、アルキノオス王からカリュプソに変えたところにある。
映画版でも明らかにされているとおり、カリュプソはオデュッセイアに蓮の花を与えてすべてを忘却させ、故郷への帰還を7年間遅らせた張本人である。本来であれば、忘却の化身であるカリュプソから離れて初めて記憶が蘇るはずなのに、ノーランはあえてオデュッセイアの想起と、回復した記憶の物語の聞き手をカリュプソにした。そこには、ノーランの記憶に対する深い洞察がある。
「記憶と想起」という主題
言うまでもなく、ノーランは「記憶と想起」、そしてこれを巡る時間の混乱を繰り返しテーマにしてきた。
出世作「メメント」は、頭に受けた傷害で10分間しか記憶を保持できなくなった男が、何とか記憶をたどりながら妻を殺した犯人を追う物語だった。「インターステラー」で、宇宙に旅立つクーパーは、長い旅の果てに地球に帰還するが、彼の帰還の鍵を握ったのは、地球での息子と娘との記憶だった。「テネット」でも、過去と未来の時系列が完全に混乱した世界で主人公が世界の秩序を回復させることができたのは、彼の個人的な記憶だった。そして「インセプション」でも、深層にわたる無意識の世界から脱出するための最後のよりどころは個人の記憶だった。
ノーランにとって、記憶は時空が混乱した世界の中で、人が自分を保ち、世界の秩序を回復させるために欠かせない導き手なのである。
これは、映画「オデュッセイア」でも同様である。オデュッセイアは、トロイ戦争の悲劇、その後のオデュッセイア一行の故郷への帰還の旅、破壊と略奪、仲間たちの死、冥界での予言者の予言と死者たちとの約束を想起することで、故郷への帰還を決意する。それは単なる帰還ではなく、トロイ戦争によって引き起こされた世界の混乱を回復させる旅にもなるだろう。ここでも記憶は重要な役割を果たす。
忘却の力
それだけではない。オデュッセイアが忘却の張本人カリュプソにこの回復された記憶を語ることが重要なのだ。
単純に考えて、カリュプソとの忘却の7年は、オデュッセイアの帰還にとって必要な歳月だった。この7年がなければ、息子のテレマコスはまだ成人に達しておらず、王位を継承することが出来なかっただろう。そもそも、テレマコスが父を求めて人々を訪ねる旅も始まっていなかったはずだ。つまり、この忘却の7年は、単なる失われた7年なのではなく、オデュッセイアの物語が起動するためにどうしても必要な7年だったのである。これを明確にするために、映画では何としてもオデュッセイアがカリュプソに想起した物語を語る必要があった。
付け加えれば、忘却、想起、記憶は、人間が生きていく上で不可欠の要素である。もし人間が忘却の能力を失えば、彼/彼女は生の重みに耐えきれないだろう。オデュッセイアのように、徹底的な破壊と殺戮を目撃してしまい、さらには長い旅で多くの仲間を失い、彼らの埋葬も出来ずに後に残してきた人間にとって、心の痛みは耐えがたい。彼がその記憶や痛みから回復するためには、7年という忘却の期間が必要だった。
しかし同時に、人は忘却だけで生きていけない。人が生を引き受け、積極的に未来に向かっていくためには過去を想起し、記憶を回復させることが不可欠である。過去なしに現在はあり得ず、現在があって初めて未来が切り拓かれる。だからオデュッセイアは、忘却によるカリュプソとの平穏で満ち足りた生活が続いていたにもかかわらず、どこかに違和感を感じて何とか過去を想起しようとあらがっていたのだろう。
女神アテネが意味するもの
この点で、女神アテネの存在は重要である。
ニンフであるカリュプソには見えず、オデュッセイアだけが見ることの出来る女神アテネがいることによって、オデュッセイアは過去の想起に向かうことが出来た。そして重要なことは、その女神アテネが寄り添う背景には、王妃ペネロペがオデュッセイアに手渡した女神アテネのブローチの存在があるということである。王妃ペネロペは、トロイア戦争に旅立つオデュッセイアに女神アテネを託し、このブローチと共に故郷に帰還することを誓わせる。オデュッセイアは、このブローチを忘れずに身につけていたことで、忘却を越えて故郷への帰還を果たす。
そう、人が過去を想起するのは、結局、他人を通じてなのだ。この意味で、人とは常に他人との関係と記憶の中でしか生きられない存在なのかもしれない。
すべての謎の解明に向けて
神話と叙事詩の時代に生きたホメーロスには、おそらく意識されなかっただろう忘却、想起、記憶という主題。ノーランは、映画「オデュッセイア」において、この主題を真正面から取り上げているのである。
これでノーランのオリジナル作品とも言える映画「オデュッセイア」の全体像がほぼ明らかになっただろう。これらを踏まえた上で、最後に、ノーランが映画「オデュッセイア」に付け加えた独自のエピソードの意味を探っていこう。
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