柄谷行人
哲学の起源
たとえば、ヨーロッパ中世あるいはルネサンスの自治都市は、ギリシアのポリスと似ているように見える。実際、そこに古代ギリシアの"ルネサンス"(再生)が生じたのである。しかし、両者には大きな違いがある。ヨーロッパの自治都市は、封建領主や教会の下で、その認可を受けて成立したものであった。そして、その内部で、門閥・貴族や教会との戦いを通して民主化が進められた。その主体は、ドイツ都市におけるツンフト、イタリア都市におけるポポロのような職業団体であった。そのような意味では、それはアテネにおける民主化の過程と似ているということができる。しかし、イオニアのポリスは、それらとまるで違っている。ここでは氏族的な門閣や祭司の支配は最初から存在しなかった。イオニアにおけるイソノミアの原理は、民主化あるいは階級闘争を経てではなく、何よりも植民・移動によってもたらされたのである。
その点から見て、イオニアのポリスを考えるのに役立つ参照例が二つある。一つは、一•世紀から一三世紀のアイスランドである。ここには、独立自営農民による自治的社会があった。君主も中央政府も軍もなく、すべてが農民の集会によって決定された。キリスト教会はあったが、他の地域と違って、司祭は聖職者的な地位には立たず、またほとんど妻帯していた。あらゆる意味で、階級的不平等や支配が存在しなかったのである。したがって、ここにイソノミアが存在したといってよい。
このような社会は、同時代の北欧はいうまでもなく、全ヨーロッパの都市と比べても、異例である。そして、それが形成された原因は物質的な条件ではない。アイスランドには牧畜以外の産業がなかったし、交易もなかった。では、逆に、アイスランドに成立した社会を"未開性”から説明できるかといえば、そうではない。ヨーロッパには部族的な意識が濃厚にあり、それが封建制社会を支えていたのに、ここにはそれがまったくなかった。その証拠に、彼らは、彼ら自身が北欧から来たにもかかわらず、北欧の神話や武勲叙事詩の伝統とは異質な、ある意味でモダンな文学、すなわち、アイスランド・サガを生み出したのである。それは口承ではなく、書かれたものである。また、それは首長らの争いを描くが、武勲詩とはほど遠い。リアリズム的描写が貫かれ、さらに、男女も平等に描かれている。
これはヨーロッパの武勲叙事詩とは似ても似つかないが、イオニアに生まれたホメロスの叙事詩とは似たところがある。後者は、英雄を称賛する武勲詩であるが、同時にそれに対する慨嘆や怨嗟の声に満ち満ちているのだ。そのような叙事詩がイオニアの社会から生まれたように、アイスランド・サガもまたイソノミア的な社会から生まれたのである。
さらに、北欧神話はギリシア神話が北欧まで広がってできたと想定されているのだが、アイスランドでは北欧神話の神々は斥けられている。その意味で、これは、ギリシア神話の神々を斥けたイオニアの自然哲学、そして、それを可能にしたイオニアの社会と奇しくもつながっている。
では、このような社会はいかにして生まれたのか。その理由は、それが植民者によって形成された、ということ以外には見出せない。アイスランドは、八七〇年から九三〇年にかけて、ノルウェーからの移民 (一万ないし二万にのぼる)によって形成された。しかも、彼らは組織的な移民ではなく、つぎつぎとやってきた個人であった。したがって、ノルウェー国家や部族共同体とのつながりはなかった。というより、彼らはそれを嫌って移動してきたのである。彼らの出自であるノルウェーは、ヴァイキングが作った侵略的な国家社会の典型であった。それを否定した諸個人が社会契約によって形成したのがアイスランドである。そのことが、生産力から見れば貧弱であったにもかかわらず、アイスランド社会を、同時代のヨーロッパ社会から際立って進んだ社会としたのである。
イオニアのイソノミアに類似するもう一つの例は、一八世紀アメリカのタウンシップに見出される。これもまた、旧社会からの植民者によって形成されたのである。もちろん、北アメリカにおける植民と都市形成はどこでも均一なのではない。それらは、植民者がその母国とつながりを濃厚にもつか否かによって分けられる。たとえば、スペインやフランスの植民地は本国の延長であった。そこでは、一応農場が中心であり、労働力が不足すると、アフリカから奴隷が買い入れられた。一方、イギリスの植民地ではそのようなことが生じなかった。イギリスはすでに市民革命(一六四八年ピューリタン革命)を経ていたからである。イギリスはアメリカの植民地に対して、課税するほかには、ほとんど干渉しなかった。また、イギリス以外からの植民も許容した。
世界史の構造
形成していた。それはオリンピアの競技会に象徴される。
このように見ると、ギリシアの特性は氏族社会的なものの残存として説明できるように見える。しかし、同時に次の点に注意すべきである。植民者たちが形成したポリスは氏族社会的なものの延長ではなく、その否定によって生じたのである。ポリスはもっぱら、各人の自発的な選択と盟約によって形成された。ポリスの原理は、したがって、アテネ
やスパルタのように氏族共同体の延長としてあった都市国家ではなく、もっぱら植民者によって形成された、ミレトスなどイオニア諸都市、さらにそこから植民された諸都市において確立されたのである。ポリスが氏族社会的に見えるとしたら、それが残存しているからでなく、それが高次元において「回復」されたからだ。いいかえれば、氏族社会以前の遊動民的あり方が回復されたからである国。
古代ギリシアというと、一般にアテネが中心とみなされる。しかし、ギリシアの文明を真にユニークにしたのは、アテネではなく、イオニアの諸都市である。海外交易の拠点となったイオニア諸都市では、商工業が発展した。そこには、エジプト、メソポタミア、インドなどアジア全域の科学知識、宗教、思想が集積された。しかし、彼らがけっして受け入れなかったのが、アジア的専制国家で発達したシステム、すなわち、官僚制、常備軍ないし備兵である。通貨の鋳造を開始したイオニアの人々は、アジアの専制国家のように国家官僚による価格統制を行わず、それを市場に任せたのである。価格の決定を、官僚ではなく市場に任せたということが、アルファベットの改良とならんで、ギリシアの民主政をもたらした要因だといわれる回。しかし、それらはすべてイオニアで開始されたのである。
ホメロスの叙事詩が書かれ且つ普及したのもイオニアにおいてである。また、ここでタレスなどの哲学者たちが輩出したことはよく知られている。が、一般には、それらはアテネで本格的に実現されるギリシア文明の初期的な段階であると考えられている。だが、そうではない。あとで述べるように、イオニア系の思想家がもっていた豊かな可能性は、むしろアテネにおいて閉じられてしまったのである。政治的にも同じことがいえる。一般に民主政はアテネに始まり、他のポリスに広がったと見なされているが、それは本来、イオニアに始まった原理にもとづいている。そして、それは民主主義ではなく、イソノミアと呼ばれていた。それに関して、ハンナ・アーレントはつぎのように述べている。
政治現象としての自由は、ギリシアの都市国家の出現と時を同じくして生まれた。ヘロドトス以来、それは、市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態を意味していた。この無支配という観念はイソノミアという言葉によって表現された。古代人たちが述べているところによると、いろいろな統治形態のなかでこのイソノミアの顕著な性格は支配の観念(君主政 monarchy や頭政 oligarchy のaPxe統治するーからきた“archy”や民主政
democracyのrpaterll支配するーからきた“cracy”がそれにまったく知けている点にあった。都市国家は民主政ではなくイソノミアであると思われていた。「民主政」という言葉は当時でも多数支配、多数者の支配を意味していたが、もともとはイソノミアに反対していた人々がつくった言葉であった。「諸君たちのいう「無支配」な
すなわち、トックヴィルの洞察にしたがってわれわれがしばしば自由に対する脅威だと考えている平等は、もともと、自由とほとんど同じものなのであった回。
アーレントは、このイソノミアという原理がギリシア一般にあったと考えているようである。しかし、私の考えでは、それはイオニアに始まり、他のポリスに広がったのだ。
それがアテネのような地域で受け入れられたとき、デモクラシーという形をとったのである。イソノミアという原理は、植民者によって形成されたイオニア諸都市に見出される。
というのも、そこでは植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約共同体を創設することができたからである。
【予習解説】『オデュッセイア』を観る前に知っておきたい知識の全て | Fan's Voice | ファンズボイス
https://fansvoice.jp/2026/09/03/the-odyssey-prep/
ファンズボイスより
「オデュッセイア」の物語における「現在」はおよそ40日間しかない。トロイア戦争10年と漂流10年の計20年の大部分は、あくまで回想と又聞きで語られるに尽きる。物語はあくまで全体の時系列の途中から始まり、過去は入れ子めいた語りで埋められていく。ローマの詩人ホラティウスは、この構成をホメロスが聞き手をin medias res、すなわち「物語のただ中へ」連れ込むと評した。物語論の教科書に必ず載っているこの用語は、もともとホメロスを褒めるための言葉なのだ。
時系列を入れ替え、回想や予期的な叙述法で語り、語り手の記憶を疑わせる。そう、『メメント』から『オッペンハイマー』に至るまで、それはノーランが30年やってきたことそのものである。要するに今回のノーランは、奇を衒って時間をいじったわけではない。「オデュッセイア」の映像化というのは、ノーランの作家性と非常に親和性の高い題材だったのである。
ところで、トロイア戦争に用いられたトロイの木馬だが、あれは前作「イリアス」には出てこない。「イリアス」はギリシャ軍最強の戦士アキレウスの怒りに始まり、トロイア側の総大将ヘクトルの葬儀で終わる詩で、トロイア陥落の前に幕を閉じるからだ。木馬の計略が語られるのは「オデュッセイア」の第4歌と第8歌、例に漏れずこれもまた登場人物の回想と吟遊詩人の歌として、ほんの数十行触れられる程度である。
では作戦の顛末はどこでまとまって読めるのかというと、これが意外に遅く、ホメロスからおよそ700年経った紀元前1世紀のローマにおいてであり、ウェルギリウスが建国神話を歌った叙事詩「アエネイス」、その第2巻が事実上の出典である [1]。伏線の回収までに700年、しかも回収したのは作者とは赤の他人の、言葉も国も違う後輩詩人だ。「HUNTER×HUNTER」の度重なる休載に文句を言っているファンが、なんだか可愛く見えてくる時間感覚だろう。
ギリシャ軍は木馬の腹に精鋭を潜ませて浜に置き去り、艦隊ごと沖の島陰に隠れて撤退を装う。浜にはシノンという男が1人、囮として残る。わざと捕虜になった彼はトロイア側にこう泣きつくのだ。自分は仲間の陰謀で生贄にされかけて逃げてきた、あの木馬は女神アテナへの捧げ物で、城内に納めれば都は不落となる、だからギリシャ軍は城門を通れない大きさにわざと作ったのだ、と。トロイア人はこの投降者の作り話を信じ、城壁を自ら壊してまで木馬を曳き入れてしまう。その夜に何が起きたかは、ご存知の通りである。
しかもその「アエネイス」にしてからが、陥落の夜を、生き残ったトロイアの武将アエネアスが宴席で語る回想として書いている。木馬とはつまり3,000年間、誰かの語りの中にしか現れてこなかった装置なのだ [2]。ちなみに映画のキャスト表には、エリオット・ペイジ演じるシノンという役名がある。ホメロスが一度も名前を呼ばなかった、出典が実質「アエネイス」のあの囮男である。この名前が載っているということは、ノーランが「オデュッセイア」の外側からも素材を汲んでいるということだ。本作の看板は確かに『オデュッセイア』だが、その原作は正確には1冊の本ではない。ホメロスからウェルギリウスまで、何百年もかけて書き継がれてきた伝承の総体なのだ。
hisさんによるXでのポスト
https://x.com/his0809rx78/status/2096931494283350200?s=46
歴史から読み解く『オデュッセイア』
まぁ実際にあったことではなく、神話としての創作物の映画化だしまぁそれはそれでいいんだろうけど。
自分自身ギリシャ神話だけにとどまらず以下の時代区分に詳しくないんだけど
あまりにも予備知識がないとわかりづらいと思い調べて表を作った。
| 時代 | おおよその年代 | 特徴 |
|---|---|---|
| 新石器時代 | ~紀元前3000年頃 | 石器中心、農耕・定住 |
| 青銅器時代 | 紀元前3000~1100年頃 | 青銅器、宮殿文明、ミケーネ文明など |
| 初期鉄器時代/いわゆるギリシャ暗黒時代 | 紀元前1100~800年頃 | ミケーネ文明崩壊後、鉄器が普及 |
| アルカイック期 | 紀元前800~480年頃 | ポリス発展、ホメロスの叙事詩が成立 |
| 古典期 | 紀元前480~323年頃 | アテネ、スパルタ、ソクラテスなど |
『オデュッセイア』自体が現在に近い形になったのは紀元前8世紀頃とされているが、物語が振り返るのはそれより数百年前の英雄時代。ただし何百年も口承で語り継がれた物語なので、実際には青銅器時代と後世の文化が混ざり合っている。
本作の舞台となる時代を整理すると
今作は、トロイア戦争があったと伝えられる後期青銅器時代を背景にした、古代ギリシャの神話的な英雄譚なんですよね。
結構普通の映画と違って、この世界には神々も存在する。
主人公であり王様で英雄で勇気と知性と高い戦闘能力を備えたオデュッセウスは、メネラオスの妻ヘレネを奪還するための戦いに参加する。侵略戦争に見えるけど、戦いの発端はそこだったというわけ。
彼はその知性で勝利を手に入れる。けども、その謀略による戦いは公平なものではなく、虐殺に近いものだった。
また、木馬の謀略は、神を讃える贈り物への信頼を逆手に取った手法だった。
それによって、神を讃える贈り物でさえ疑わないと危険、という状況を生み出してしまう。これが、神の名のもとに守られてきたルールを、人々が守らなくなることにつながったのだと自分は受け取った。
オデュッセウスは、自分が崩壊させた公平さやルールというものに罪を感じながら、帰路に神々の世界に迷い込んでしまう。
一方、彼の帰郷を待つ国ではお家騒動が起きている。
この二つの話が同時進行するという不思議な 映画。
映画としては彼の回想と同時並行で国というか島の覇権をめぐって若干対立する母と息子、そして国の権力を略奪しようとする悪漢たちの物語なのだけど、そこにオデュッセウスが帰還して、結局バッタバッタと悪漢を成敗していくという、どこか日本の時代劇を思わす物語に収束していくわけ。
映画としてのアプローチは、回想と現在の物語が入り乱れる、いつものノーラン映画風。
『ダークナイト』『テネット』でもお馴染みの、船とか飛行シーンを広角で俯瞰する映像も織り交ぜ、モンタージュな感じで物語を紡いでいく。
その合間には、キャラの表情を中心に見せる会話シーンが入り、『オッペンハイマー』であったような幻影も時折出てくる。
そこに独特の音楽がガンガン鳴り響くなど、個性強めの映画でした。
豪華過ぎる俳優の集結、むしろそのネタが見どころ?
ノーラン作品の常連と初参加の俳優たち
冒頭から『インセプション』で出演したエレン・ペイジが性転換してエリオット・ペイジとなって青年兵として登場し、すぐさま退場?かと思いきや回想やら死者として頻繁に登場という重要キャラで、なんか面白かった。
オデュッセウスを惑わすというかガチ恋してる海の女神をガチで美人なシャーリーズ・セロンが演じてて、平凡な雰囲気をいつだって醸し出すけど好感度が異常なマット・デイモンがガチ恋されてる状態が全然理解できないし、そんな彼女がどうして彼をここに引き止めるのかも語らない、余計なことは語らない切り口のノーラン映画にやきもき。
そんなオデュッセウスを待つのは、年齢が不詳な妻ペネロペ。
近年劇場 映画化されている『閃光のハサウェイ』のライバル機体であるペーネロペーはここから来てるのかと豆知識を得た。
劇中では出兵前の20年前と現代パートで登場し確かに若干老けたアン・ハサウェイが登場。
この手の時代劇でも一切セクシーシーンがなく、存在感だけで綺麗さを描くわけだが、なんかまぁもうちょっと女性を魅力的に描くことも試みてほしいなぁと思ったり。
オデュッセウスを支えるキャストとしては、『テネット』でも起用したヒメーシュ・パテル。いい味出してましたが唐突に終盤遭難してさよならなの寂しい。
ジョン・バーンサルが演じるメネラオスは、オデュッセウスと共闘してていい味だしてたけど、現代パートに登場するといまいち立ち位置がわからない。
その妻ヘレネを演じてるのがルピタ・ニョンゴ。ヘレネは顔に傷があるが、その理由は明かされず。
映画としては予備知識がかなり必要か。
また実際に調べると、この戦争はメネラオスの妻ヘレネ(顔に傷があるルピタ・ニョンゴ)をトロイアから奪還することが発端とされていたようだが、
そのシーン自体存在しない謎仕様。物語や時代背景といってもそもそも神話なので正しいかもわからない逸話を知っている高尚さが必要か。
またルピタ・ニョンゴは二役を演じ、ジョン・バーンサル演じるメネラオスの兄アガメムノンの妻クリュタイムネストラも演じている。この二役が、映画を理解することを妨げている。(ルピタ・ニョンゴというアフリカ系の女性が絶世の美女として扱われてる点は自分が思い描くギリシャ神話の金髪白人ふくよか美女イメージとは違うが、 映画の個性としてはありだと思う。)
劇中では、凱旋勝利したギリシャの大将アガメムノンをベニー・サフディ(本業は映画監督だが『オッペンハイマー』から2度目の起用)が演じている。
アガメムノンが戦のために娘を生贄として海で殺した恨みと浮気の関係で、妻が彼を殺害するシーンが描かれている。
二役だと知らないと、この妻が顔に傷のある女王ヘレネと同一人物で、この事件が原因で顔に傷がついたのかと思ってしまう。さらに、ジョン・バーンサルが演じるメネラオスが、兄の妻を寝とったようにも見えてしまう。
だが、この二人の女性は別人。妻を奪われたのはメネラオスの方で、その弟を助けるためにアガメムノンが戦士たちを集め、トロイアに攻め込んだというわけ。
ジョン・バーンサル演じるスパルタのメネラオスが甲冑もつけないし最前線で死ぬかもしれない兵士として活躍している違和感もあり、とことんこの物語を理解していないとわけがわからなくなる。
とりあえずジョン・バーンサルが、オデュッセウスの息子を演じるトム・ホランドと仲良くするのが『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』を彷彿してニヤニヤできるのでネタとして面白いですね。
冒頭で『テネット』でエンディング楽曲を担当したトラヴィス・スコットが登場し、ラップではなく英雄譚としてオデュッセウスの話を叫ぶというネタ。
『デューン』しかりアテナとしてゼンデイヤが登場するが、こいつも終盤にネタがあって、オデュッセウスの罪の象徴になっていて、その美しさと儚さのバランスがすごい。
ローガン・マーシャル=グリーンも存在感が薄くどこかトム・ハーディっぽさがあるものの『アップグレード』の人じゃん!となんか内心盛り上がった。
ほぼセリフがないがミア・ゴスもいるじゃん!となったが、ロバート・パティンソンとのネタがあり、ちょい役だけど濃さがあるのねと感動。
またロバート・パティンソンのキモさが素晴らしく。『テネット』でイケメン頼れるバディキャラだったのにこんなにキモいもっさりやろうになれるなんて!と感動しました。あの髪型キモ過ぎる。
マット・デイモンのオデュッセウスが良かった
そしてこの時代劇に凄まじい安定感をもたらすマット・デイモンの万能感。
どう見ても英雄に思えないし、強そうとも思えない。それでも、物語の中で主人公の知性が描かれることで、外見以上の凄さが伝わってくる。そこに 映画的な凄さを感じた。
そんな彼と再会する時の各キャラのリアクションがとてもよく、なぜか自分は見てて泣いてしまったし、
それに対してのマット・デイモンのリアクションの虚無な感じも良かった。
トロイアに侵略に行った際の意気消沈してしまうマット・デイモンの表情と予言を受けた後の英雄として生存確定はあるものの仲間を救えない虚無感の出し方や、セイレーンのシーンで磔にしてもらい何故か敢えて狂おうとする彼の姿が妙に泣ける。
全ては素晴らしいルドウィグ・ゴランソンの音楽により盛り上げられているといえど良かったです。
あと、オデュッセウスがポリュペモスの目を矢で撃ったのは、仲間の仇を討つためでもあったけど、それによって、より重い神の怒りを受けようとしていたのかもしれない。
木馬を使った戦法の罪を裁かれたいし、自分が世界のルールを崩壊させたことを恥じて、愛する妻にも会いたくなかった。
そんな気持ちがあったからなのかもと思ったり。
唐突に始まる神々の世界との対峙というホラー
神々の世界に迷い込んだ最強兵士たちがあっけなくむしゃむしゃ首から食べられる感じやばかったです。
どうしてこうなったのかはやはりわからず、ある種不条理だなぁと思える部分もありますが、
一つ目のポリュペモスの不気味な感じ。まさか目が縦で鼻がひん曲がってるとは。人を「ご飯」としか思っていないようで、襲撃というより家畜を管理する羊飼いのように振る舞う描写も、見たことのない怪物の描き方で恐ろしかった。『進撃の巨人』の雰囲気も感じました。
魔女キルケが人を豚に変える不気味な演出も独特で驚きましたし、巨人族とかもなぜいきなり子供は笑い叫んだのかもわからんし、林で木が動くシーンの地面が動いてる感じ、どうやって撮影したのか気になりました?そういう可動式セットを作ったのかな???
スキュラが足しか登場しないで蛸壺みたいな中に入っちゃって笑えました。
「海の民」って結局なんだったの?
あとオデュッセウスたちが航海中に食料なくなって上陸してはご飯を奪ってくの普通に略奪で、しかも正当化した感じで描いてて、なかなか違和感でした。こいつら海賊だなって思いました。これが海の民という意味っぽいけど。
そしてその行いこそが、交易網の破壊や、王国や都市の秩序の破壊につながり各地で蔓延し「後期青銅器時代の文明崩壊」の始まりにつながっていくっぽい。
なお、史実の「海の民」は紀元前1200年前後の東地中海で活動した複数の集団を指し、その出自には未解明の点が多い。「海の民=自分たちギリシャ人」というのは、本作で示される解釈です。
驚愕の映像の数々がすごいのだが|トロイアとイタケのロケ地
やはり今作のすごいところは、 映画の美術でしょうか?
冒頭から登場するトロイの木馬。
船のパーツで作りそこに人が入っているという。
さらにそれを運ぶ描写もしっかり丸太を敷いて人が引っ張っている。
CGが多い現代の中で凄まじい描き方。
トロイアの場面は、モロッコの世界遺産アイト・ベン・ハッドゥで撮影。既存の城塞集落に約1万平方メートルもの巨大セットを増築し、アテナ神殿や城門などを作り上げている。さらに高さ約11mの「トロイの木馬」も実物が製作されたようです。
Architectural Digestの制作デザイン記事
なんというか流石ノーラン監督、みんな信頼して出資してるんだなぁと。
あの帆船もどうやって撮ったんだろうと思ったが、実際にはノルウェーで調達した全長約35mの船をギリシャの軍船に改装し、海上で撮影していたという。
イタケの城などもしっかり実際にあるんだろうなぁって
オデュッセウスの故郷イタケの宮殿外観は、イタリア・シチリア島西方のファヴィニャーナ島にある15世紀の「サンタ・カテリーナ城」で撮影されている。一方、求婚者たちが集まる宮殿の大広間(メガロン)などの内部は、ロサンゼルスに巨大なセットを建設して撮影されたようです。
出典:Architectural Digest「Where Was The Odyssey Filmed? How the Blockbuster Came to Life Across Six Countries」(2026年7月20日)
ここがなんか物足りない;大規模な殺陣など
映画としては終始すごいことしてるし、その事象を捉えるような映像が多数あり、
ああ。これもあれも実際に建物壊したりしてるんだろうなぁすごいなぁってビッグバジェット 映画の真髄のようなものを拝める感動があるんだけど、戦争映画やアクション映画としてはどうかな?って思うとなんか物足りなかったなぁと。そういえばノーラン『ダークナイト ライジング』の終盤のベインとの戦闘シーンなどなんか面白くなかったんだよなぁ。
アクションシーンも工夫すればもっと面白くなったりできたと思うし、戦争シーンももっと面白くできたんじゃないかなぁって?
戦争シーンでは、多くのギリシャ兵がわーって移動しつつ、奇襲に動揺するトロイア兵や普通に暮らしていた巫女たちを一方的に殺し、ある種の虐殺のように思える。戦線がこう着していたことでストレスも溜めていた兵士たちが、戦士としての野蛮さを発動し、名誉よりも一方的な暴力による憂さ晴らし、その中では強姦も起きているかもしれない、戦いよりはまさに虐殺。
主人公はそれとはズレた心境にいる、という描き方になっている。
単純に「戦闘シーンすげぇ」っていうサンダル映画のジャンル的な高揚感はあえて乏しくして、主人公の精神性にフォーカス。その心情については『オッペンハイマー』と近いことやってるが、もっとその虐殺描写も面白くできたのではないか?って思うのです。
最終盤の侍映画のような殺陣も、薄暗いところでがちゃがちゃしていて、肝心の戦闘で何が起きてるかわからなかったような。そこにパティンソンの実況が入ることで、ギャグな感じにもなってしまっていた。
この最後の戦いには、「掟を破る=文明崩壊」という流れを、成敗によって食い止める意味があるのだと思う。あるいは、自分だけでも、自分の国だけでも掟を守りたいという思いの表れなのかもしれない。けど、戦闘が見づらいことで、その意味までなんか弱くなっているように感じた。
その背景でIMAXカメラによる制約もあるかもしれない。IMAXカメラは約3分ごとにフィルム交換が必要で、巨大な防音装置まで装着して撮影していたという制約もある。そうした撮影方法がアクションの見せ方に影響した部分もあるのかなぁとは思った。
正直逆にリドリー・スコットとかの方が面白くできそうって思っちゃいました。。。
ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』『イリアス』とは?

『オデュッセイア』は9月4日~10日IMAX®︎先行上映、9月11日全国ロードショー。
Photo: Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.紀元前8~7世紀ごろに成立したとされる『オデュッセイア』と『イリアス』は、ともに古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスによる叙事詩だ。しかし、その素性は謎に包まれている。そもそもホメロスという人物が実在したのかさえ定かではなく、長い間、口承で語り継がれてきた物語が、複数の語り手によって形づくられたのではないかという説もある。
トロイア戦争を描く『イリアス』に対し、『オデュッセイア』は、その戦いで活躍した英雄オデュッセウスを主人公にした物語だ。戦争終結後も故郷へ帰ることができず、10年にもおよぶ苦難と冒険を重ねながら、妻ペネロペと息子テレマコスが待つ故郷イタケへの帰還を目指す。ギリシャ語原文で約1万2000行におよぶ長大な叙事詩で、全24巻から構成されている。
「トロイア戦」、「トロイの木馬」、そして「ゼウスの掟」とは?

Photo: Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
『オデュッセイア』を理解するうえで欠かせないのが、トロイア戦争だ。アカイア人、すなわち古代ギリシャの人々が、現在のトルコ北西部にあったとされる都市トロイアに攻め込み、戦いは10年にわたって続いた。その戦争を終結へと導いたのが、オデュッセウスが考案したとされる戦術「トロイの木馬」だ。難攻不落のトロイアを正面から攻め落とせないと考えたオデュッセウスは、巨大な木馬の内部に兵士を潜ませ、それを贈り物に見せかけて城内へ運び込ませるという奇策を思いつく。
現代の感覚なら、敵から突然巨大な木馬を「贈り物」として差し出されても、そう簡単には受け入れないだろう。しかし、古代ギリシャ社会には「クセニア(xenia)」と呼ばれる、客人を手厚く迎える歓待の文化があった。劇中で「ゼウスの掟」と呼ばれるこの価値観では、訪れた客人が王であろうと使者であろうと、友人であろうと物乞いであろうと、まずは食事や飲み物、寝床を与え、安全を守ることが主人の務めとされた。

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背景には宗教的な意味もある。古代ギリシャ人は、神々が旅人や物乞いの姿になって人間のもとを訪れ、その心を試すことがあると信じていた。そのため、客人を粗末に扱うことは神への冒涜にも等しく、神罰を招きかねない行為だったのだ。オデュッセウスは、こうした「客人を受け入れる」という社会的な価値観も利用して、トロイア人に自ら木馬を城内へと運び入れさせる。夜になると内部に潜んでいた兵士たちが姿を現し、城門を開放。外で待機していたギリシャ軍を招き入れ、10年にわたる戦争はついに終結することになる。
公開前に浴びたキャスティングの批判

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『インターステラー』(2014)と『オッペンハイマー』(2023)でクリストファー・ノーラン監督と組んできたマット・デイモン(オデュッセウス役)と、『ダークナイト ライジング』(2012)と『インターステラー』に出演したアン・ハサウェイ(オデュッセウスの妻ペネロペ役)の起用は、早い段階で決まったという。
VOGUE JAPAN NEWSLETTERS
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一方、一部のキャスティングは公開前からSNS上で批判を浴びることになった。その中心となったのが、ギリシャ神話で「世界一の美女」とされ、その美貌がトロイア戦争の発端になったともいわれるヘレネと、彼女の姉妹でミケーネ王妃のクリュタイムネストラという二役に、ルピタ・ニョンゴを起用したことだった。
保守派の政治評論家マット・ウォルシュはX上で、「ノーランは『世界で最も美しい女性』の役に白人女性を起用すれば、人種差別主義者と呼ばれることをわかっている。彼は技術的な才能があるが、臆病者だ」と批判。イーロン・マスクもこれに「その通り」と同調し、黒人女性を起用したノーランを「反白人の人種差別主義者」と呼び、「賞が欲しいから『オデュッセイア』の登場人物の人種を変えている」と非難した。

Photo: ©Universal/Courtesy Everett Collection
また、黒人ミュージシャンのトラヴィス・スコットを吟遊詩人役に、トランスジェンダー俳優のエリオット・ペイジをギリシャ兵シノン役に起用したことについても、一部から批判の声が上がった。しかし、ノーランはそうした声を意に介さない。『The Telegraph』のインタビューでは、公開前から交わされるキャスティングをめぐる議論について、次のように語っている。
「実際に映画を観る前に交わされるこのような議論は、いつだって意味のないものです。なぜなら、議論している人たちはまだ、その映画がどんな作品なのか知らないのですから」
スコットの起用にも、明確な理由があった。「この物語が、ラップにも通じる『口承詩』として語り継がれてきた歴史を表現したくて、彼を起用しました」と『TIME』に語っている。
また、『インセプション』(2010)以来の再タッグとなるエリオット・ペイジについても、「彼にぴったりの役だと思った。いつでも再会するのはうれしいことです」とカナダのTV番組『The Morning Show』でコメント。批判に振り回されることなく、自らが信じるキャスティングを貫いた。
世界初の全編IMX撮影を実現。ノーラン監督のこだわりがスクリーンで炸裂

Photo: Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
これまでも大規模な実写撮影を信条としてきたノーラン監督だけに、本作の撮影もモロッコ、ギリシャ、イタリア、アイスランド、スコットランド、アメリカの6カ国にまたがる壮大なものとなった。『Vanity Fair』によると、91日間に及んだ撮影で監督が目指したのは、グリーンバックに極力頼らず、俳優たちが現実の場所や物に身を置いて演じることだったという。ギリシャ軍の船も実際に航行可能なものを建造し、地中海上で撮影するという徹底ぶりだ。
そして、もうひとつの大きな特徴が、全編をIMAXカメラで撮影したこと。『オデュッセイア』は、通常の映画で使われる35ミリより幅の広い70ミリフィルムを使用し、全編をIMAXカメラで撮影した史上初の長編映画となる。圧倒的な画質と、縦方向にも大きく広がる没入感あふれる映像を実現する一方で、このフォーマットでの撮影には多くの困難が伴った。
冷蔵庫のように巨大な箱型カメラは爆音を発し、マット・デイモンは「顔の目の前でミキサーを回されながら演技しているようなもの」と表現するほど。その課題を乗り越えるため、IMAX社は本作のために通称「ザ・キーリー」と呼ばれる新世代カメラを開発した。しかし、それでも約135キロもの重量があり、岩山の斜面へ運び上げる際にはヘリコプターまで必要になったという。さらに、カメラがあまりにも大きいため、撮影中は俳優同士がお互いの顔を見ることができず、その解決策として現場には鏡が設置され、目線を合わせていたそうだ。
ネタバレ注意。原作と映画の違いは?

Photo: Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
壮大な叙事詩を約3時間の映画にまとめ、原作を知る人も知らない人も3000年前の物語をエンターテインメントとして楽しめるようにするため、本作には原典とは異なる演出や描写もいくつかある。なかでもマット・デイモン演じる主人公オデュッセウスは、戦争によるPTSDに苦しみ、過去の行いへの罪悪感や良心の呵責を抱える、より現代的で複雑なキャラクターとして描かれている。
そこで、『Vanity Fair』が、ホメロスの『オデュッセイア』の翻訳者であり、古典学者でもあるエミリー・ウィルソンのコメントとともに紹介する、原作との主な違いを見ていこう(以下、ネタバレ注意)。
● カリュプソ(シャーリーズ・セロン)の描写
シャーリーズ・セロンが演じるカリュプソは、ギリシャ神話に登場する美しい精霊。故郷を目指して漂流するオデュッセウスは、彼女が住むオギュギア島で7年間を過ごすことになる。原典では、オデュッセウスに恋をしたカリュプソが、島に残って毎晩自分と床をともにすれば不死を与えると約束する。オデュッセウスは自らの意思に反して彼女と暮らし続けることになり、カリュプソはいわば彼を誘惑し、島に留める存在として描かれている。
一方、ノーラン版のカリュプソは、オデュッセウスに惹かれながらも、戦争によって傷ついた彼の心と記憶を癒やすセラピストのような存在として描かれる。麻薬性のあるロータスの花で彼の痛みを和らげ、記憶を取り戻したオデュッセウスを、最後は自らの意思で旅立たせる。

Photo: ©Universal/Courtesy Everett Collection
● キルケ(サマンサ・モートン)の描写
人間を動物に変える魔術を持つ女神キルケは、オデュッセウスの仲間たちを豚に変えてしまう。原典では、仲間を救おうとキルケのもとへ向かうオデュッセウスの前に神ヘルメスが現れ、キルケの魔術を防ぐ薬草を授ける。そして、キルケに仲間たちを人間に戻すと約束させたうえで、彼女が望むなら関係を持つよう助言。さらに、男性器を切り取られないよう注意するよう忠告する。
一方、映画版でサマンサ・モートンが演じるキルケは、オデュッセウスを誘惑する存在としては描かれていない。むしろ、オデュッセウスと仲間たちが欲深い「豚」にすぎないこと、つまり彼らの「本性」を思い知らせようとする。これは作品全体を貫く「欲望」のテーマとも重なり、ここではそれが飽くなき食欲として表現されている。

Photo: Melinda Sue Gordon © Universal Studios. All Rights Reserved.
● ラストシーンの描写
原典では、イタケに帰還したオデュッセウスが、自宅に居座っていたペネロペの求婚者たちを虐殺する。その事実を知った求婚者たちの親族は復讐を企て、イタケの人々も反乱を起こしかける。そのとき、アテナ(ゼウスの娘で、本作ではゼンデイヤが演じる)が現れ、争いをやめるよう命じ、それまでに起きた出来事の記憶を人々から消し去る。しかし、エミリー・ウィルソンによれば、そこでオデュッセウスの物語は終わらない。彼は失った財産を取り戻すため、再び略奪の旅に出るつもりだと妻ペネロペに告げ、そこでようやく物語は幕を閉じる。
映画版のラストでも、マット・デイモン演じるオデュッセウスは船で旅立つ。だが、その目的は富を取り戻すことではなく、自らが奪ってしまったものへの償いを果たすこと。彼はペネロペを伴い、世界の果てとされる西へ向かい、戦争で命を落とした仲間たちを弔おうとする。
参考サイト:「Britannica」「Heritage History」「History Extra」「Greece-Is」「TIME」
Text: Rieko Shibazaki


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