自分はオデュッセイアには批判的だがそれはPTSDの解釈についてであって技術論的には擁護したい。確かにウェルメイドではない。ノーランにはこれしか出来なかった。ただしノーランにしか出来なかった。
アクション繋ぎを回避するのはカット間をいくらでも切れるという上映時間問題を回避できる利点がある。それがウェルメイドな映画と決定的に違う。
キューブリックのような写真家の系譜だがキューブリックなら繋ぎ間違いは再撮影でカバーするだろう。
黒澤明ならリハーサルで完璧にさせる。
色覚障害もそれだけで満足させるようなワンカットの充実を妨げる。
上下を切れる構図もワンカットの充実の妨げに拍車をかける。
IMAXの同時録音可能化はセリフを喋る役者のクローズアップで映画を持たせることが出来るというコンセプトを可能にしたが、これはノーランのコンセプト以上に役者が主体化の可能性が広がったと考えるべきだろう。
ラストの立ち回りなどほとんどロングショットがない。これは心理主義的志向が選ばせたものでカーク・ダグラス版みたいな虐殺後のロングショットを回避する意図がある。
何気に上映レイトを考慮して残虐描写も回避している。
ロングショットはPTSDによる情状酌量を不可能にするだろう。
オデュッセイアを見ればラストの立ち回りの鈍重さなどは映画=エクリチュール派を激怒させるに充分だろうが、映画はエクリチュールという特権的な語りではなく偶然の出会いを含めたモンタージュなのでこれはノーラン側の勝利である。IMAXというよりIMAXのクローズアップに耐えた役者の勝利であり、旧来の映画ファンに対してというよりAIとスマホ対するノーランの勝利だ。通底するのはPTSDの克服だろうがこれはトロイの監督を外されたというトラウマで症状は軽い。
馬鹿には勝てん(byもののけ姫)ということだ。
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自分もオデュッセイアを含めたノーラン作品には批判的だが今回IMAXのクローズアップは映画にとって成果だろう。オデュッセイアを見ればラストの立ち回りの鈍重さなどは映画=エクリチュール派を激怒させるに充分だろうが、これはノーラン側の勝利である。IMAXというよりIMAXのクローズアップに耐えた役者の勝利であり、AIとスマホ対する勝利。PTSDに対する克服だろうがこれはトロイの監督を外されたというトラウマで症状は軽い。
カメラマン上がりでアクション繋ぎが出来なくても映画は撮れると証明した。
馬鹿には勝てん(byもののけ姫)ということだ。
PTSDを扱ったのは重要だがノーランのトラウマはトロイの監督を外されたトラウマなので症状は軽い。
https://x.com/gomzo__i/status/2101784980028539031?s=61
ノーランは映画ではない、を好意的に述べるななら、これはサスペンスではなくサプライズ、アクションではなくスチール写真を作っていることになる。散発的な驚き、英雄的人物の活人画、象徴的なコンセプトアート、キャプションとしてのセリフ。すべてがコンセプトについのプレゼンテーション
ダークナイト①クリストファー・ノーラン『ダークナイト』(2008年)とマイケル・マン『ヒート』(1995年)
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こういう呟きをしたら、
映画初心者で、クリストファーノーランの映画好きなんですけど演出技術のどんなところが洗練されていないのかあれば教えて欲しいです🙏
— はおちー (@W60eUkbIjh48205) October 24, 2025
こういうお返事をいただいたので書きます。
演出の話となると細かく映画を見る必要があるので、どこまでそれをするのかというのはあるが、ひとまずやってみる。悪口を言うだけでも生産性がないので、他の映画と比べながらやる。今回はノーラン監督『ダークナイト』(2008年)とマイケル・マン監督『ヒート』(1995年)。一応他にも『ダンケルク』と『〇〇』、『インターステラー』と『〇〇』、『インセプション』と『〇〇』とかを考えている。
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『ダークナイト』の冒頭、有名なシークエンス、5(6)人組の強盗が警報器を切る2人と、銀行窓口を襲撃する3人(+逃走用のバスを用意する1人)に別れて銀行強盗を企む場面。よく似たピエロの顔のゴム製のマスクが犯人たちの顔を隠し、仕事を終えたメンバーは他のメンバーに順に殺されていき、最後の一人が残ったところでマスクを剥いで、ヒース・レジャー演じるジョーカーがメイクで覆われた「素顔」を見せ、現金を積んだバスの列で逃走するという筋だてである。本当は頭から個別のショットに言いたいことがあるが、まず2点挙げるならば、ノーランの演出の下手さはアクションへの不感症と、脚本の中にあるアクションの連鎖への無計画さにある。
4ショット目。銀行窓口担当の3人が待ち合わせする場面、街路で立っている首から上が見えないままの男が左手に犯人グループの証であるピエロマスクを持って立っている。カメラは静止することなく、1ショット目のドローンカメラを模倣する動きで、ピエロマスクにゆっくり近づいていくのだが、途中で背景に画面左から自動車が走り込んできて、彼の目の前に停車し、その瞬間にカメラはマスクへの接近をやめて、走り込んできた自動車に合わせてカメラが動いて右に振れ、ピエロマスクをかぶりながらこれに乗り込むはじめの男を撮る。
このショットで起きているのは、動いていた自動車が停まる、止まった自動車に向かって男が動き出すという一連のアクションなのだが、それをことごとくカメラが見逃す。先んじてマスクに注目する視線を過剰に強調するために自発的に動いていたカメラワークが、画面の中で何かが起きることを自ら発見する観客の歓びを奪っていると言ってもいいかもしれない。それはカメラワークが観客に注視すべきものを制限する、過保護に説明的なショットと言えるかもしれないが、アクションの連鎖という観点から言えば、このショットが「下手」であることがさらに際立つ。
3ショット目、割れた窓からピエロマスクを被った犯人の一人が、ロケットランチャー式の装置を使って隣の建物にワイヤーを飛ばすところ、まるで発射のアクションそのものが重要であるかのように、発射後すぐに画面は次のシークエンスに切り替わるのだが、5〜8ショット目以降を見るとこのワイヤーは別の建物に移動するためのもので、その建物の屋上にある標的となった銀行の警報装置に連なる配線を切るためにこの一連の作戦が必要なのだと分かってくる。そうであるならば、観客はワイヤーを発射する男の視線を共有して、標的となる建物を目指してワイヤーが飛んでいくという動作を見せてこのショットを次のショットへの関連の中で生かしていくべきだったが、それがない。
もうひとつ、この一連の別の建物の屋上への侵入を妨げるショットがある。ワイヤーを引っ掛けた後に、滑車を設置して、ビルとビルの間を渡っていくとき、カメラが渡し先の建物ではなく、足の下の遠い地面をとらえるショットである。実際にこの動作を想像してみよう。確かにワイヤーに体を引っ掛けてビルとビルの間を滑っていくとき、滑車とワイヤーに身を預ける浮遊感を味わうはずだが、それは視覚ではなく平衡感覚や、自身の重量、ワイヤーの軋みなどを通じて感じられる感覚に違いない。演出するとすればそれは、俳優のアクションや画面内構成、視点の上下によってすべきものだが、ノーランがやっているのは視界を一瞬占領することによって、強盗の作戦というシークエンス全体の筋書きを中断する演出なのだ。こうした散漫さがやがて、シーン全体のストーリー構成についての意図の粗さへとつながっていく。それは別の映画を見てからの方がわかりやすいと思うので、一旦『ヒート』の場面を取り上げる。
2,
マイケル・マン『ヒート』の冒頭にあるベアラー債権の輸送者を襲撃する強盗団のシークエンス。『ダークナイト』の先のシーンとの共通点は、マスクを被った武装強盗グループの襲撃、映画の冒頭のアクション、自動車による逃走くらいのもので、この二つの映画に限られた共通点とも言い難いが、見ているとノーランがたしかに『ヒート』を『ダークナイト』の着想源にしているのがよくわかる(『ダークナイト』の冒頭で賊に抵抗する唯一の銀行員は、『ヒート』に出演しているウィリアム・フィクナーが演じている)。
マンの優秀さというか、映画監督としての律儀なお作法の範疇だと思うが、セリフによって脚本を進行するのではなく、アクションの連鎖の組み立てによってシーンができるように脚本がちゃんとできている。犯罪グループが装甲車が輸送している債権書類を奪うという筋のシークエンスなのだが、
①救急車(犯人)を囮にした、レッカー車(犯人)による装甲車(標的)への激突
②激突から、警報装置によって警察が到着する3分間のうちにミッションを遂行するためのサスペンス
③犯人グループの逃走と、現場に到着する警察
という三つのアクションによって成り立っており、①は救急車⇄レッカー車、レッカー車⇄装甲車、②は車内で債権を探す男⇄外で銃を構えて警備員や警察の到来を見張る男、③犯人グループ⇄警察の切り返しによって、わずか7分ほどの間に3つのサスペンスがリレーされている。
とくに①のアクションの緊張感が凄まじい。犯人グループ同士の待ち合わせで、ロバート・デ・ニーロ演じる主犯格のニールが盗み出した救急車と、実際に装甲車への追突を担うレッカー車とが待ち合わせるのを、両車の切り返しを通じて煽った後、立体交差の下の影に静かにレッカー車を停止させて待ち、作戦開始の合図のもとに救急車の誘導で装甲車を停止させる支度をしてから、装甲車に向けて一気に緑のレッカー車を走らせる。装甲車の運転手が運転席のサイドウィンドウ越しに緑のレッカー車を発見し、スピードを上げるレッカー車が写り、驚く装甲車の運転手のクロースアップ、再び走るレッカー車のアップの切り返しで緊張を煽り、一度左から右へ走り去るレッカー車の運動を挿入、今まさにぶつからんとするレッカー車のクロースアップを経て、ついに追突。追突してして横転する装甲車とその前から逃げる救急車のショットに切り替わる(このとき横転を捉えた後、画角の外に滑って見切れて行こうとする装甲車を追ってわずかに左にカメラが揺れるのにたまらずはらはらする)。真っ暗な運転席のサイドウィンドウは景色が反転し、車両後部の装甲内で警備員が横転すると、これに連想して横転する装甲車のショットに切り替わり、横転した装甲車が道路を滑っていって隣の自動車屋の車列にぶつかり、何台もの自動車を押してもう一列、店の商品の車たちを押しやる。そこでやっと車が停止した後、光沢紙でできた巨大な店の飾りがふわっとはためくところで、見ていると思わず息を呑む。
盗聴していた警察無線の放送で、警察が装甲車が襲われたことを察知したのが知れると、犯人グループは銃を構え、ストップウォッチが3分の制限時間を知らせ、②に突入する。
3,
これを踏まえてノーランの『ダークナイト』を見ると、銀行窓口に銃を構えた犯人グループは不意に突入し、不意に事件は始まり、なんのための銀行襲撃かよくわからず、天井から警報器を切るために侵入した犯人の一人がどこからともなく金庫にたどり着き、金庫いっぱいの札束のほんの一部を小さな三つのバッグに入れて持ち去り、どこからともなくやってきたバスが次から次へと同士に殺されていった犯人グループの最後の一人を轢き殺し、ショットガンを構えて犯人グループに唯一反撃した職員の前で、最後に生き残った犯人グループのメンバーがマスクをとってヒース・レジャー演じるジョーカーであることを彼と観客の前に晒すまで、犯罪の杜撰さもさることながら、アクションもサスペンスもかなり行き当たりばったりであることがわかる。
どこからともなく、ということで言うなら、『ヒート』はそもそも場所の設定が絶妙である。警備の手薄になる装甲車を路上で襲うという計画なのだろうが、②にあたるサスペンスで、横転した狭い車内でアタッシュケースのような引き出しをあさって目当ての書類を探す犯人と、車の外で銃を構える見張り担当との切り返しはシーンとして非常にシンプルだ。これは強盗のアクションを遂行するための場所選びの見事さにある。『ダークナイト』の場合は天井から侵入した犯人が暗い階段を降り、いつのまにか金庫にたどり着く。こういう建物内の移動を省略したショットが『ヒート』の冒頭にあり、救急車を盗むために病院に侵入したニールがERの搬送室を通って駐車場にたどり着くところだが、これは導入のシークエンスである。『ダークナイト』のアクションシークエンスの身体運用は、『ヒート』の導入シークエンス並みに杜撰なのだ。
ノーランに譲歩してこの演出の意図を汲もうとすれば、稚拙であることそのものが映画の狙いであるとも言える。『ヒート』の先にあげたシークエンスの冒頭で、このシークエンスの主役格である、犯罪グループの新入り”スリック”ことケヴィン・ゲイジ演じるウェイングローが彼をピックアップした運転手のトム・サイズモア演じるマイケルと、”you, guys always work togerther?(いつもメンバーは一緒なのか?)””all the time(いつもそうだ)”と会話を交わす場面があるが、『ヒート』が『ダークナイト』の元ネタならば、『ダークナイト』はこの場面を実際に意趣返しして、マスクをつけた匿名で即席の杜撰な犯罪グループの強盗を描いているし、実際に無計画で短絡的な犯罪が市民にとらえどころのない不安を与える様を描くことにノーランの演出は成功している。新米であるウェイングローが逸って警備員に発砲し、周到な作戦に瑕疵を与え、メンバーを危険に晒すドラマがマンのアクションの遂行に挿入されるのだが、『ダークナイト』のほうはそんな緊張感もなく、サスペンスを無視して突然発砲が始まるのだから。
シークエンスの結末を見れば、ノーランが見せたいのは、アクションでもドラマでも周到な犯罪劇でもなく、ジョーカーというキャラクターと俳優の演技だとわかる。ノーランは犯罪者を主役にした任務の遂行ではなく、街とそこに暮らす市民を不安と混乱に陥れるための無計画で支離滅裂で短絡的な恐怖を彼に体現させようとしている、とみなしてみようか。しかし、それが二時間半の映画を構成するに足る要素だろうか。ノーランがやっているのは実際のところ、衣装や美術のデザインや、「ジョーカー」というキャラクターのブランディングによって、支離滅裂な稚拙さをミステリアスな謎に見せるための詐術であり、(実際にアクションへの不感症をこうした商業的なビジュアルの美学に置き換える映画監督にCMクリエイター出身のリドリースコットと、雑誌の表紙の写真家スタンリー・キューブリックがいる)ここまで書いて考えていると、演出が下手であること、下手なまま二時間半の映画を見せることも罪深いがそれ以上に、ある種の短絡的な幼稚さそのものをそれ自体がシリアスでリアルな問題であるかのように、映画というよりも興行としてデザインすることに成功していること自体が問題に見える。
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