映画『さまよえるユダヤ人』(1948)イタリア
イタリア映画『さまよえるユダヤ人』(1948)を観た。
第二次大戦の直後に、ユダヤ人の苦難を描こうとした作品というだけで、ある種の重さを感じる。でも観てみると、何とも評価が難しい、というのが正直なところだった。
Wikipediaで『永遠のユダヤ人』(独: Der ewige Jude, 英: The Eternal Jew)
さまよえるユダヤ人(英語:Wandering Jew)も検索
物語は、磔刑に向かうイエスを冒涜したことで永遠に地上を彷徨う呪いを受けた"さまよえるユダヤ人"マッテオが主人公。
彼はアウシュビッツの中で人間性を見つめ直し、最終的には贖罪のような行動をとる。その展開はドラマとしては一貫していてわかりやすい。しかしどこか寓話的で、現実感が希薄だった。(←レビューの否定的意見)
この映画の表現は、全体として寓話や宗教的象徴に傾きすぎていて、ナチスによるホロコーストの現実的な残酷さや構造的な暴力を生々しく伝えるには至っていないと思った。
死や苦しみが、神の罰や救済のように語られることで、かえって具体的な加害の輪郭がぼやけてしまっている。誰が何をしたのか、という加害の現実が見えてこない。
もちろん、戦後の早い時期にこうしたテーマに取り組んだ意義はあると思う。当時としては大きな挑戦だったのかもしれないし、ユダヤ人の姿を描こうという意志も感じた。でも、それはあくまで"キリスト教的視点"から見たユダヤ人像であって、彼ら自身の言葉や視点はあまり描かれていなかったように思う。
この映画が良いか悪いかは今でもよく分からない。ただ、簡単には飲み込めない何かが残ったのは確かで、だからこそ観てよかったとも言えるのかもしれない。あの居心地の悪さが、自分の中で何かを問い続けている気がする。古い映画を見るのはきらいではない。なぜかアマプラでよくみかける。
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