遠い山なみの光|小説の解説と感想|カズオ・イシグロ
カズオ・イシグロさんのデビュー作『遠い山なみの光』のレビューになります。もうすぐ広瀬すずさんを主演に映画化されるそうで、とてもワクワクしています。さっそくですが、あらすじと解説(というか考察)をどうぞ!
作品紹介(ネタバレあり)
<あらすじ>
故国を去り英国に住む悦子は、娘の自殺に直面し、喪失感の中で自らの来し方に想いを馳せる。戦後まもない長崎で、悦子はある母娘に出会った。あてにならぬ男に未来を託そうとする母親と、不気味な幻影に怯える娘は、悦子の不安をかきたてた。だが、あの頃は誰もが傷つき、何とか立ち上がろうと懸命だったのだ。淡く微かな光を求めて生きる人々の姿を端正に描いたデビュー長篇。
景子は母・悦子と父・二郎の子供として日本で生まれます。その後、悦子は二郎と別れ、日本で出会ったイギリス人男性と再婚し、渡英します。その彼との間に生まれた子供が次女のニキになります。物語は長女を亡くした母を心配した次女が実家に帰省したところから始まります。
悦子はニキと話しているうちに、日本の長崎にいた頃を思い出すようになります。ここから物語はイギリス(現在)と長崎(過去)を交互しながら進んでいきます。しかし、その多くは長崎時代の回想シーンになっています。
佐知子と万里子
長崎時代の思い出の大半を占めるのは、佐知子という女性とその娘・万里子です。佐知子は戦争で夫と家族を喪ったため、裕福な暮らしから一転、幼い娘を育てながら惨めな生活を強いられています。この現実から脱却したい佐知子は、アメリカ人男性と結婚することで運命を変えようとします。しかし、その姿は周囲からよく思われていません。また、母親が男性と会っている間、万里子はいつも家でひとり留守番をしており、悦子からすると、かなりヒヤッとした状況に置かれています。
二郎と緒方さん
もうひとつ長崎時代の記憶にあるのが、元夫・二郎とその父・緒方さんです。おそらく悦子は戦争(原爆)ですべての身寄りを喪ってしまったようなのですが、それを助けてくれたのが緒方さんだと考えられます。そのため作中で悦子は彼を「お義父さん」とは言わず「緒方さん」と呼んでいます。緒方さんはかつて国民学校の校長を勤めていた人物ですが、息子世代からはその過去を全否定されています。二郎は父親を敬っている素振りを見せる一方で、内心は嫌っていることを隠せておらず、親子間には常に不穏な空気が流れています。
何通りもの読み方がある
そしてここからは、完全な私の考察による解説になります。本書には読者の想像に委ねた部分が多く、核心となる部分でさえはっきりとしたことは描かれていないため、おそらくこうなのだろうなぁという内容をまとめてみました。
まず、悦子が今になって佐知子たちのことばかり思い出すのは、まさに今、自分自身があの頃の佐知子が目指していた生き方をしているからでしょう。当時の悦子には二郎と緒方さんという「家族」がおり、お腹には景子を身籠っていました。世間的にいう安定を手にいれていたのです。一方、佐知子は貧しいシングルマザーで、将来の不安定さに焦りを覚えていました。だからこそ、他人から何を言われようとも、どんな手段を使ってでも、元の生活水準以上に幸せになってやると思っていたのでしょう。
当時の悦子は万里子の気持ちを優先せずにアメリカへ行こうとする佐知子を理解できずにいました。父親がアメリカ人になること、言葉も通じない国へ行くこと、母親がいつも男性から騙されて捨てられること、その度に引っ越して飼い猫を手放さなければならないこと、そんな万里子のすべてを気の毒に思っていたのです。
しかしその一方で、悦子も自身の心に不穏な空気を感じていました。戦争さえなければ今頃愛する人と幸せな日々を送っていたであろうこと、女を召使いだと思っている二郎に対する何ともいえない嫌悪感、緒方さんが息子に自分の人生を肯定してもらうまで意地でも話し合いをやめようとはしないこと・・。悦子は万里子のことを気の毒に思いつつも、佐知子が語る「女の自由」というものに、この頃から少しずつ惹かれていたのではないかと思います。
古い日本の価値観
二郎と緒方さんの会話の中には、当時の日本男児の価値観が詰め込まれています。これはあくまでも英文学なので、日本の事実とは違うこともあるかもしれませんが、おおよそこんな感じだったのだろうと思うような女性差別発言が交わされています。当時の彼らが悪気なく言っていたのはわかりますが、インテリ層でさえコレはきついし、どの時代であれ女性はモヤっとしていただろうなぁと思います。個人的に緒方さんは良い人だと思うし、好きではあるのですが、悦子の立場になると、目の前で女性を下げらるのは微妙ですよね。また、戦前戦中の価値観から抜け出せず、新しい時代を否定しながら(これは仕方ないとは思う)もがく舅を相手にしなければならなかったのも大変だったと思います。
世代間のズレ
悦子は二郎と緒方さんの間で板挟みになっていてかわいそうでした。しかし、戦争が終わった今、親世代と子世代ではもうどうしようもないズレがあるのです。親世代からすると正しいと思ってやっていたことが急に全否定されてしまうわけで、その変わりように身体が追いつかないといった感じ。一方、戦後取り残された女性たちは生きるためにプライドを捨て、何でもする覚悟で生きている姿が印象的でした。
実は悦子がアメリカに渡った経緯は描かれていません。私の想像で補うなら、以上のモヤモヤが佐知子との出会いによって具体化されたのかな?と思います。やがて悦子は自分の生きたい道を認め、解放を求めて思い切った人生を歩んだのではないでしょうか。
万里子と景子
ただ、悦子が渡米を決心した際、景子が万里子化してしまう危惧はあったでしょう。母親が外国人と結婚することや、海外へ移住することを絶対に認めなかった万里子は、正直にいうと「かわいそうな子」でした。悦子は過去にそんな気持ちを抱いていながらも、実の娘にそのおもいを体験させてしまったのです。景子が自殺した経緯も謎のままですが、長年引きこもった後に突然ひとり暮らしをはじめて、そのアパートで首つり自殺を図ったとされています。おそらくですが、景子はイギリスでの生活に慣れず、両親とも上手くいかずに精神を病んでしまったのでしょう。
そしてこの「首つり」というワードに、また引っかかるエピソードがありまして・・
実は佐知子たちは、長崎に来る前は東京で暮らしていました。そこでは空襲に遭い、もの凄く悲惨な光景をたくさん見たそうです。ある日、二人は虚ろな目をした女性が水に赤ん坊の顔を浸して殺そうとしていた現場に遭遇します。佐知子はとっさに万里子を連れて逃げますが、数日後その女性が喉を切って自殺したと耳にします。しかし、その日から万里子は女性の幽霊を見るようになります。それは東京から長崎に引っ越して来ても現れ、万里子は留守番をする度に「あの女が訪ねて来た」と訴えるようになります。
怖いですよね。これは単なる子供の嘘ではなく本当なのでしょうね。このせいで万里子の中では子供のいのちは母親の手に握られているという恐怖感があるのか、首つり(死)を連想するような縄を見ただけで、「なぜここに縄があるのか」「なにをするつもりなのか」と大人を警戒するようになります。そこに追い打ちをかけるように、佐知子に飼い猫を溺死させられた万里子は、あの女性が赤ん坊を殺していたシーンを思い出し、ますます母親から殺されるイメージを膨らませてしまいます。
たったの五歳で母親の子殺し現場を目撃した万里子は、その後も見たくもない現実をたくさん目にしながら生きることになります。作中で万里子のその後は描かれていませんが、どうか幸せになっていてほしいと思いました。何だかんだで佐知子は日本に留まったと思うので(結局彼氏もどきから騙され続けて渡米できていない)、日本で居場所を見つけていてほしいです。
一方、景子のほうは、万里子が辿るはずだった不幸な人生を送ることになります。なんとなくですが、きっと万里子に似た感じの子だったのだろうなぁと。あの時代に外国で人生をやり直そうとする悦子のガッツは素晴らしいですが、娘がその犠牲になってしまったのは読んでいて切なかったです。
母親になればわかる
妊娠中の悦子に佐知子が何度もかけた言葉が「母親になればわかるわよ」でした。悦子が人生の方向転換を決めた理由は、まさに母親になって考えが変わったからだろうと推測。ただ、これが「子供のために」という意味か「母親業から解放されたい」という意味かはわかりません。
感想
映画版では悦子役を広瀬すずさん(晩年期は吉田羊さん)が、佐知子役は二階堂ふみさんが演じるそうです。本書を読んでいると長崎の街並みが自然と頭に浮かんできます。ただ、私は登場人物の顏をセルフ補正できないので、なんとなくハッキリした顔の人たちっぽいというイメージでしか読んでいませんでした。しかし、ちょうど小説を読んでいたときに映画版のキャストが発表されたので、「あ~なんかわかるわぁ」と思い、これにて100%物語をイメージすることができました。
カズオ・イシグロさんの凄いところは、読者にすべての解釈を委ねる自信です。もう、本当に具体的なことは一切描かれていません。それでも最初から最後まで没頭して読めるのは、そのわからなさの中に存在する不穏な空気、コレです。たとえば原爆のシーンなど全く出てこないのに、物語の背景にはずっとそれを感じたり、心理描写の説明はしないのに、女たちの不安や虚勢を、成立しない一方的な会話を通して表現しています。この、それぞれがまるで自分に言い聞かせるように、誰にも反論させまいと言わんばかりに、自分語りをしているところには胸が締め付けられました。
そしてなんといっても素晴らしいのは日本語訳です。普通に最初から日本語で書かれたみたいな文章になっています。また、人物名に関しては、筆者本人の希望で漢字表記になったのだとか。これはカタカナでサチコとかマリコで読むより、漢字で読むほうが日本人的にはありがたい。幸子じゃなくて佐知子なのも彼女のキャラクターにあっている気がします。
で、最終的に悦子はどうしたのか?についてですが・・
長女の景子が時代に潰されてしまった一方で、次女のニキは「今時の子」に成長しています。もう母親を古臭く感じるくらい、新しい世界に生きています。自分のアイデンティティを持ちなさい、守りなさい、自立しなさい、自由と権利をつかみなさい。どこか佐知子を思い出させるような子です。
そして悦子自身にもこの気合いは備わっています。自分で自分の幸せをつかみに来たガッツがあります。そしてこの決断は間違いではなかったと思っています。この国にくれば女だって何でもできると信じて生きてきたのです。そこだけは認めたいし、正しかったと思いたいのでしょう。
時代の波に殺された人、生かされた人、これからそういう運命にある人。
このテーマは誰にでも訪れるもの。新しくなっていくことにはいいことがたくさんありますが、このかなしさは一体何なのでしょうね。
・・・・・と、締めたいところですが、すみません、ここからひっくり返します。みなさんここまで読んで、謎というか違和感がありませんでしたか?というか小説を読んでいると、もっともっと違和感満載なのですが・・
それは、景子って万里子じゃないの?なかったの?という疑問です。景子の引きこもり時代の話とか、イギリス人の夫と最後まで親子になれなかった感じとか、ニキとさえ上手くいっていなかった感じとか、どうもその誰にも心を開かないミステリアスさが万里子っぽい、いや万里子にしか思えないのです。
仮に景子が万里子ということなら、自動的に悦子が佐知子だということになるのですが、その説もアリっぽい気がしてきて。悦子は信用できない語り手で、作中でも一切自分のことは明かしていないし、景子が亡くなってから急に万里子のことを思い出したわけです。もしかすると、あの母娘は自身の投影だったのかも?景子の死因が万里子が怖がっていた「縄」を使った首吊りというのも、何かのサインに見えてしかたがありません。
どうなんでしょう?それとも素直に読めばいいのかな。こういう答えがないところもとても面白いです。池澤夏樹さんの書評でも「作家には、自分を消すことができる者とそれができない者がる。三島由紀夫は登場人物全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えられない。司馬遼太郎はコメントどころか大演説を振るう。しかしカズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを支持する監督の姿勢に近く、悦子の背後にひっそりと隠れている」と言っています。
ということなので、私たちは何通りもの解釈を持ってOK。ん~イシグロは三島と違って主人公に自身を投影させないかわりに、登場人物同士に(悦子が佐知子に)自分を重ねさせることで物語を表現するということなのかなぁ?そう考えると、佐知子がしきりに言っていた「母親になればわかるわよ」の意味も納得できますね。あれは出産前の悦子が二郎と娘を育てていくことへの不安を破天荒な佐知子という人格に投影していたor景子を喪った悦子が今の人生を選んだ理由を佐知子という人格に投影することで「仕方なかった」と思いたいのか。正解はわかりませんが、わたしではコレ(万里子=景子説、佐知子=悦子説)でいくことにします(笑)
長くなりましたが、いつもの総評です
評価5/5
小野寺健さんの日本語訳が素晴らしい。物語のわかりやすさでいうなら、初期作品はオススメしないが、個人的にはこの雰囲気が大好き。時代の無常さや、変わることへの覚悟や責任、恐怖を感じた。タイトルがあとからじわじわ来る。映画の前後にぜひ読んでほしい!
以上、レビューでした!
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