【映画感想】 No.33『遠い山なみの光』考察と自分なりの答え合わせ

原作者カズオ・イシグロ氏をエグゼクティブ・プロデューサーに迎えた本作、一言でいえば「答え合わせをしていただきました」である。原作読了時に残ったモヤモヤがかなり晴れた…!
が、まだ輪郭がはっきりしない箇所があるので、個人的な考察や感想をネタバレを交えながらまとめていきたい。
あらすじ
舞台は1982年のイギリス。郊外に建つ一軒家で暮らす悦子のもとに、娘のニキが執筆作業のため訪ねてくる。ニキは母・悦子が長崎から英国に渡った経緯を知りたがり、悦子は最近よく見る「女の人の夢」を話し始める。悦子が話す「女の人」とは、30年前に長崎で知り合った佐知子という女性のことだった。
気になる箇所を考察
映画版「遠い山なみの光」を、いくつかのモチーフなどから考察していきます。
佐知子は実在しているのか
まず、この映画を観た多くの人が気になるのが二階堂ふみ演じる佐知子の存在だろう。
佐知子は悦子たち夫婦が住む団地の川向こうに建てられた、粗末な家に住む女性である。はっきりとした標準語を話し都会的な雰囲気を纏うが、過去に何かあって長崎に来たようだ。
ことあるごとに米兵を連れ込み、仕事も何をしているかはっきりしない。(おそらく売春?)悦子に職を斡旋してもらって一瞬うどん屋で働くが、娘の万里子とトラブルを起こして辞めてしまう。そして、その後仕事をしている素振りがない。
佐知子と悦子が連れ立ってロープウェイ観光をする日。この日を境に、二人の境界線が曖昧になる。この日の二人はワンピースの色がほぼ同じ。ツーショットで同色の衣装を使うことがあるだろうか…?と思ったら、そういうことなのか。
佐知子と悦子は同一人物なのだ。「悦子の中にある佐知子の部分」が別人格として生成され、悦子の中に記憶されているのではないか。
ここに気づいたらもう後は分かりやすかった。佐知子が最初の悦子捜索の後、自宅でお茶を振る舞うシーン。
テーブルに飾られた百合の花が見事である。百合の花は西洋絵画的に考えると清純さを表すメタファーだ。二人の女性が向き合って、己の核となる部分を曝け出すシーンにぴったりである。
佐知子は悦子の内面に住んでいる。悦子の「自由になりたい、羽ばたきたい」という願望の現れなのだろう。
万里子は恵子なのか
佐知子の娘、万里子についても謎が多い。年齢は小学校の低学年ぐらいだ。学校に通う描写はなく、会話が唐突であまり噛み合わない。喧嘩となると脚に噛み付く衝動性があり、腕に複数の傷(火傷痕だろうか)がある。
自由に動き回る大きな蜘蛛に惹かれ、捕まえようとする万里子の姿が映画「泥の河」の喜一(きっちゃん)が重なった。喜一もまた、売春をする母と川沿いで暮らしている。

喜一の場合は蟹である。母が客を取る物音を聞きながら、蟹に火をつけ苦しむ様子をぼんやり見つめるのだ。喜一を必死に止めるのは主人公の少年である。「泥の河」の場合、蟹は泥臭く這いずり生きようとする大人のメタファーだと解釈した。その様子が無様で、喜一は火をつけ苦しめるのだと。
戦後の混乱期にシングルマザーとして子供を育てるのは、現代と比べものにならないほどの困難があっただろう。佐知子なりに奮闘はしているのだろうが、煽りを受けるのは娘の万里子である。
先述したように悦子=佐知子であると考えると、万里子=恵子(悦子の第一子。成人してから自殺してしまった)と考えられる。つまり万里子は悦子の最初の結婚で生まれた子どもではないだろうか。
悦子が被爆したことを隠して結婚したことは明らかである。この秘密が明らかになって結婚が立ち行かなくなり、シングルマザーとして生きることを余儀なくされたのだろう。
被曝の事実については義父の緒方さんのみが知っている。夜中に寝ぼけてヴァイオリンを弾く悦子。自責の念から追い詰められ、無意識的な行動をとってしまう性質は、若い頃からあるようだ。
万里子が怖がる「女の人」とは
単刀直入にいうと、これは現代パート(1982年)の悦子だと思う。「死んだ赤ん坊を水に漬ける」というのは、「自殺してしまった恵子を助けられなかった」という自責の念から生まれたイメージではないだろうか。途中、「女の人」が喪服で現れたのは恵子の葬儀を彷彿とさせる。
この女の人が川の向こうの佐知子の家に向かう
後ろ姿を、団地の窓から悦子が目撃する。これまでになかったほど動揺す悦子。
川は三途の川のメタファーかもしれない。とにかく川が現実世界と記憶の世界の境界線なのだ。
足首に絡まる草の蔓
万里子の最初の失踪の後、必死に河岸を走って探し回った悦子の足首に草の蔓が絡みついている。それを目を剥いて見つめる悦子の表情が異様だ。しかしこの描写が、終盤で悦子が手に持つロープに繋がる。
ロープは娘の恵子を渡英後に幸せにしてやることができず、自殺に追い込んだ自責の念のメタファーではないだろうか。草の蔓はその伏線で、渡英を嫌がる恵子を縛ろうとしてしまう悦子自身の迷いの具現化なのだ。
オムレツと靴紐
緒方さんに悦子が作ってあげるオムレツの描写。軽口を叩きながら交流する嫁と義父の描写が微笑ましい。私はここの「私の機嫌が良くてよかったですね」と台詞を原作で読み、一番好きなフレーズだと思った。
「オムレツを今から覚えるのは難しい」と言う緒方さん。オムレツぐらい覚えられるだろう。しかし緒方さんは覚えないだろうな。それに息子の二郎は嫁に靴紐を結んでもらっても違和感さえ抱かない。靴紐を結んでもらった松下洸平さんの表情の演技が見事である。戦争を乗り越え羽ばたこうとする悦子と、変われない男たち。
私なりの答え合わせ
一気にまとめます。
学校での勤務中に被爆した悦子は生徒たちを助けられず命からがら逃げ、ことの顛末を知る校長・緒方さんの息子と結婚した。夫は当時出征していたため、悦子が被曝した事実を知らない。
表向きはうまく行っているように見える結婚生活には大きな秘密があり(緒方さんは知りながらそれを隠している)、おそらくその秘密が原因で生まれてきた子ども(恵子)を連れて離婚。
うどん屋で働いたり観光地の通訳をして生計を立て、知り合った英国人と家庭を持つために渡英し、悦子は第二子(ニキ)を出産したのである。
佐知子が言っていたように「万里子(恵子)の教育環境を整えたい」という気持ちは本物だ。しかし恵子は本当の意味で英国に馴染むことができず、引きこもりとなって自殺してしまう。
ニキが悦子に言う台詞「女はもっと自由でなくちゃ」、は佐知子が悦子にかける言葉と同じ。
娘から力強い言葉をもらって、悦子は自己の中に住む佐知子にその言葉を再度言わせることで反芻し、前に進むのである。
感想
上質なサスペンスであった。俳優陣の緊張感のある演技が実に素晴らしく、また衣装も鮮やかで目に嬉しい。現実味のない描写だな…と思うとそれがキーとなっていたりして、とても見応えがある映画である。
以上の考察を叩き込んで、もう一度鑑賞したい。
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