『遠い山なみの光』映画感想文・見ているものが真実ではないという切なさ

注目作だったので、初日に鑑賞してきました。
今作は、カズオ・イシグロのデビュー作を映画化したもので、母と娘、原爆の体験、記憶の操作など、重いテーマを静かに、しかし鋭く描き出しています。
後からさまざまなシーンを思い起こし、その記憶に至った「1980年代の悦子」の心に沈む苦しさに圧倒されました。

あらすじ
1980年代、イギリス。日本人の母とイギリス人の父の間に生まれロンドンで暮らすニキは、大学を中退し作家を目指している。ある日、彼女は執筆のため、異父姉が亡くなって以来疎遠になっていた実家を訪れる。そこでは夫と長女を亡くした母・悦子が、思い出の詰まった家にひとり暮らしていた。かつて長崎で原爆を経験した悦子は戦後イギリスに渡ったが、ニキは母の過去について聞いたことがない。悦子はニキと数日間を一緒に過ごすなかで、近頃よく見るという夢の内容を語りはじめる。それは悦子が1950年代の長崎で知り合った佐知子という女性と、その幼い娘の夢だった。
監督 : 石川慶
2025年製作/123分/G/日本・イギリス・ポーランド合作
配給:ギャガ
劇場公開日:2025年9月5日
感想(ネタバレ含む)
作品の終盤から見終えた直後まで、胸に去来したのは「語られた1950年代の記憶が本当に事実なのか」という疑念でした。
どういうことだろうかと考えて…これは悦子自身による「虚構の語り直し」であると気づかされました。
物語の表層では、1980年代のイギリスに暮らす悦子が、次女ニキに向かって過去を語るという形がとられます。
彼女が語るのは、1950年代の長崎で出会った佐知子という女性と、その娘・万里子のことです。
強く、自信に満ちて自立し、自由を求める佐知子。その姿は、家庭に縛られ、傷痍軍人の夫と共に生きていた当時の悦子とは正反対です。
しかし実は「正反対」であるがゆえに、佐知子の人物像は悦子の心の奥底から生み出されたもう一つの人格という、願望の投影であったと解釈できます。
佐知子の娘・万里子と悦子の長女・景子が同一化していく描写は、この作品を理解する上で避けて通れません。
万里子が「アメリカには行きたくない」「(新しいアメリカ人の父親)は死んだらいい」と吐き捨てる場面は、実は景子がかつて抱いていたであろう言葉の反映なのでしょう。
日本からイギリスへ移り住み、母の新しい人生に馴染めなかった景子は、やがて自死してしまいます。
悦子はその悲劇を正面から語ることができず、過去の物語に置き換えて語るしかありませんでした。
つまり、万里子のセリフはそのまま景子の声であり、彼女の罪悪感がにじみ出てしまった瞬間なのです。
また、象徴的なのは、川べりで万里子を見つけた時に描かれる「ロープ」の存在です。
これは単なる小道具ではなく、景子が実際に選んでしまった死のイメージを表すものであり、悦子が「自分が娘を死に追いやったのではないか」という自責を抱えていることを物語っています。
自分の選んだ渡英という道ーーつまり佐知子的な自由への希求ーーが、結果として娘を犠牲にしたのではないかという思いは、悦子にとって人生を揺るがす大きな苦しみだったに違いありません。
このように見ていくと、1950年代の記憶とは実際の再現ではなく、悦子自身が「語れるように加工した虚構」であることが明らかになります。
イシグロ作品にしばしば見られる「不確かな語り」の仕掛けが働いており、悦子は事実をそのまま語るのではなく、佐知子と万里子の物語を経由してようやく自分の真実に触れているのです。
そこには、母としての罪悪感、娘を救えなかった悲しみ、そして自分が選んだ生き方への後悔が幾重にも折り重なっています。
『遠い山なみの光』は、記憶と虚構の境界を揺さぶりながら、母と娘の断絶、そして「語ることのできない悲しみ」を映し出していました。
事実そのままではなく、置き換えや操作を通じて浮かび上がるものこそが、人間の本質ではないかと感じます。
見終わって、吉田羊さん演じる「1980年代の悦子」の虚しさ、苦しさ、やりきれなさが、余韻として胸に迫ってきました。
すばらしい作品でした。傑作だと思います。
それでは、また次の映画で!
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