2026年2月10日火曜日

naveさんによるXでのポスト

 
 
nave
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エイゼンシュテインの傑作『イワン雷帝』第1部(44)から、民の行列がイワンの許へ集う場面⇩

ゴダール「かつては演劇(グリフィス)、詩(ムルナウ)、絵画(ロッセリーニ)、舞踏(エイゼンシュテイン)、音楽(ルノワール)があった(1)。しかし今は映画がある。そして映画とは、ニコラス・レイだ。 pic.x.com/oCFOTkPxth
 
2026/02/11 11:09
 
 
エイゼンシュテインの傑作『イワン雷帝』第1部(44)から、民の行列がイワンの許へ集う場面⇩

ゴダール「かつては演劇(グリフィス)、詩(ムルナウ)、絵画(ロッセリーニ)、舞踏(エイゼンシュテイン)、音楽(ルノワール)があった(1)。しかし今は映画がある。そして映画とは、ニコラス・レイだ。

(1) この分類は恣意的で、特に逆説的に思えるかもしれない。しかし、そうではない。確かにグリフィスは演劇の宿敵だったが、それは当時の演劇に対してだった。『國民の創生』や『恐怖の一夜』の美学は、『リチャード三世』や『お気に召すまま』の美学と同じだ。グリフィスが映画を発明したとすれば、それはシェイクスピアが演劇を発明したのと同じ発想での発明だ。彼の「サスペンス」の発明も、コルネイユの「サスペンション」と同じ発想による。

同様に、一方が舞台を愛し、他方がキャンバスを嫌悪していることは周知の事実であるにもかかわらず、ルノワールは音楽に、ロッセリーニは絵画に近いと言うことは、『河』の作者がモーツァルトに、『ヨーロッパ一九五一年』の作者がベラスケスに近いと言うことに等しい。一人は心の状態を、もう一人は登場人物を、いかに大づかみに単純化できるかという点において描こうとする。

私たちが見ているように、その狙いは、これらの映画監督たちを、彼らの内面の最も深いところにあるもの、彼らの創造力の質によって定義することにある。例えば、ルノワールの作品では3という数字が「テンポ」に対応するのに対し、エイゼンシュテインの作品では同じ数字が空間への執着に対応する。
エイゼンシュテインは舞踏だ。なぜなら、彼は存在や事物の根底において、舞踏のように動きの中に静寂を求めているからだ」

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