2026年4月18日土曜日

今日は橋本忍さんのお誕生日。 橋本忍さんについての、春日太一さんの著書の中で、心に残った部分がある。幼少期に祖母に毎日ねだり縁側で聞かされた土地の農民一揆の話。子どもが聞くには陰惨で残酷なその実話。橋本少年の無垢な心に、人の世の不条理はどのように刻み込まれたのだろうか。。↓

 今日は橋本忍さんのお誕生日。

橋本忍さんについての、春日太一さんの著書の中で、心に残った部分がある。幼少期に祖母に毎日ねだり縁側で聞かされた土地の農民一揆の話。子どもが聞くには陰惨で残酷なその実話。橋本少年の無垢な心に、人の世の不条理はどのように刻み込まれたのだろうか。。↓ https://x.com/story57388425/status/2045341733849006580?s=61

26~29頁

明治政府に年貢半減を訴えた一揆(生野騒動)が首謀者全員の斬首で終わる話。新婚の妻が夫の首をすぐに拾い竹に刺して胴体に繋ぎすぐに棺桶に入れて持ち帰りだし、他の村人もそれに続いた。役人は唖然としたと言う。


26~29頁
要約すると明治政府に年貢半減を訴えた一揆(生野騒動)が首謀者全員の斬首で終わる話。新婚の妻が夫の首をすぐに拾い竹に刺して胴体に繋ぎすぐに棺桶に入れて持ち帰りだし、他の村人もそれに続いた。役人は唖然としたと言う。
生野の変
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F…

『八つ墓村』でさえ生優しい。

生野の変

挙兵

但馬国は小藩の豊岡藩出石藩以外は天領が多くを占めていた。同国の生野銀山が有名だが、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋騒動で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

国臣は長州藩士野村和作鳥取藩松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画していた。但馬に入った国臣らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。

28日に国臣と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿澤宣嘉を主将に迎えることを決めた。国臣らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。

10月2日、国臣と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され国臣は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。

陣容[1]
  • 総帥  澤宣嘉
  • 総帥御側役 田岡俊三郎 森源蔵
  • 総督  平野二郎 河上弥市(南八郎)
  • 議衆  戸原卯橘 横田友次郎 旭建
  • 軍監  川又左一郎 小河吉三郎
  • 録事  藤四郎
  • 使番  高橋甲太郎
  • 節制方 中島太郎兵衛 美玉三平 多田弥太郎 堀六郎
  • 周旋方 中條右京 太田六右衛門 太田悟一郎
  • 農兵徴収方 黒田与市 長曾我部太七郎
  • 兵糧方 小国謙蔵 小川愛之助 太田仁右衛門 等

播磨口の番所は彼らを穏便に通し、12日未明に生野に入った。生野代官所は彼らの動きを当然察知していたが、代官の川上猪太郎が出張中なこともあり、代官所を無抵抗で国臣らへ明け渡した。藩と違い、天領の代官所は広い地域を支配している割には軍備が手薄であり、天誅組の挙兵の際も五条代官所は40人程の浪士に占領されている。

壊滅

国臣、北垣らは「当役所」の名で澤宣嘉の告諭文を発して天領一帯に募兵を呼びかけ、かねてより北垣が「農兵論」を唱えていたこともあり、その日正午には2000人もの農民が生野の町に群集した。

天誅組の変の直後とあって、幕府側の動きは早く代官所留守から通報を受けるや豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、挙兵の翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動している。

諸藩の素早い動きに対して、浪士たちからは早くも解散が持ち上がった。強硬論の国臣、河上らに圧されて解散は思いとどまるが、13日夜に肝心の主将の澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出してしまった。集まった農民たちは動揺する。

 澤宣嘉は田岡俊三郎、高橋甲太郎、森源蔵らと脱出し四国伊予小松藩周辺に潜伏した後[2]、長州に逃れる。脱出した机の上には次の一首が書き残されてあった。[3]

頼みもし恨みもしつる宵の間のうつつは今朝の夢にてありぬる

山口村妙見山(岩州山)の妙見堂に布陣していた河上は生野の町で闘死しようとするが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかった。河上ら13人の浪士は妙見山麓(現朝来市山口・山口護国神社)に戻って自刃して果てる。

美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃され射殺された。国臣は兵を解散させると鳥取へ向かったが捕らえられ、京の六角獄舎へ送られた。その他の浪士たちも戦死してしまい、逃亡、捕縛された。

元治元年(1864年)7月の禁門の変の際に国臣は幕吏によって六角獄舎で殺害された。

生野での挙兵はあっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿

中島敦 悟浄出世

中島敦 悟浄出世 バケモノの子 『……過去の賢人曰く「生きておる智慧が、文字などという死物で書き留められるわけはない。絵にならまだしも画けようが」ということからも分かる通りにな。ところが人間の世界へ行ってみろ。な...