2026年4月15日水曜日

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②|影山レオ(Thursar)

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②|影山レオ(Thursar)

【サブアーカイブ】
本作と直接関係しているという言及はないが、アムレット王の描写について一つ私見を加えておきたい。

シェイクスピアの戯曲に『リチャード二世』という作品がある。その中で、リチャード王が、後に自らの王位を奪うことになるヘンリー・ボリングブルックについてこのように描写する場面がある。

リチャード王
「彼(ヘンリー・ボリングブルック)はまるで民衆の心に飛び込むかのように、謙虚で親しげに振る舞っていた。
奴隷のような者にも惜しげなく敬意を示し、職人たちに笑顔で心を寄せ、運命に耐えながらも、まるで彼らの思いを自分のものとして受け止め、慰めるかのようだった。
牡蠣売りの娘に帽子を脱ぎ、荷馬車の男たちには膝を柔らかく曲げて礼を尽くす。
『ありがとう、わが同胞よ、愛する友よ』と言いながら、あたかもイングランドは彼のものであり、彼こそ臣民たちに期待される次の君主であるかのように振る舞っていたのだ」

『リチャード二世』第1幕第4場

『リチャード二世』におけるヘンリー・ボリングブルックとは、節度ある態度と善良さによって民衆からの共感と信頼を集め、その支持を背景に「王位を継承する正統性」を獲得していく人物だ。
しかし、述べたように、王族とは民衆の上に立って支配する存在であり、本来は民衆と親しく打ち解けるようなものではない。そうした行為は、上流階級の人間からは身分秩序を崩しかねない異様なものとして捉えられていた。
リチャード2世も、ヘンリーの振る舞いを「計算された人気取りであり、王の威厳を損なう卑しい行為」として警戒しつつ、軽蔑の気持ちを持って見ているのである。

そして、『果てしなきスカーレット』のアムレット王も、城下町に出て民衆と肩を並べ、対等な者同士のように親しく交流する場面が描かれている。
こうした人物像は実に当時の王族らしくない。
しかし、このイメージ自体は『リチャード二世』におけるヘンリーのイメージとかなり一致するものがあるのだ。
クローディアスも、アムレットを「善人を気取っているだけの腰抜け」と呼んで、本心からの善良な人間ではないと考えている節がある。これもリチャード王がヘンリー・ボリングブルックを見る心情と重なる部分がありそうだ。
これらのことを考えると、細田監督が本作の登場人物の設定を『リチャード二世』『ヘンリー四世』からも敢えて引用している、ということは可能性としてはあり得るかもしれない。

https://note.com/thursar/n/n221f0d9a8f69

原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く②

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※本記事は、映画『果てしなきスカーレット』の完全なるネタバレを扱っており、その内容について一部批判的な意見を含みます。
原作小説や公式の資料等を参照する性質上、どうしても制作者の意図に触れる内容となります。十分にご注意の上ご参照ください。
作品に対するご自身の解釈はぜひ大切にしていただきたいと思います。

《ひとつ前の章》
原作と資料から辿り着く『果てしなきスカーレット』の世界:原作から読み解く①

地の文で明かされる設定

王妃ガートルード

この作品には小説の地の文でのみ明かされる設定が多数存在するが、代表的なものは王妃ガートルードの設定だろう。

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原典の『ハムレット』では、ガートルードはハムレットを溺愛する母であり、クローディアスと再婚したばかりの王妃として登場する。ハムレット前王が亡くなって2ヶ月で、喪も明けないうちにクローディアスと再婚したために、ハムレットからそのことを激しく罵倒される場面がある。

一方、『果てしなきスカーレット』では、スカーレットに対し一貫して冷淡な態度を取り続け、アムレット王を陥れようとするクローディアスの謀略に最初から加担している悪女として描かれている。
映画だけ見ると、なぜ彼女が王である自らの夫を裏切ったかは明確にされていないが、小説ではきちんと設定が明かされている。ガートルードはアムレット王の後妻であり、スカーレットの実母ではないのだ。

ガートルードは王家の跡継ぎとなる男子を産むことを期待されて王家に嫁いだが、アムレット王との仲は冷め切ってしまい、王の後継者を産むことは見込めなくなってしまった。アムレット王の血を引くスカーレットは王位継承権を持っており、このままスカーレットが王位を継ぐことになれば、ガートルードは権力の環から外されてしまう。そのことをガートルードは恐れていた。
そのため、同じく王位継承権を持つクローディアスを焚き付けてアムレット王を排除し、王となったクローディアスの妻として権力を掴むことを目論んだのである。

小説の記述で興味深いのは、クローディアスが反乱を起こして王を殺害したのは実際にはガートルードの企みであったことを明確にしていることと、ガートルードの視点でアムレット王とスカーレットの仲を「父と娘の半ば異常ともいえる親密さ」と形容していることだ。

物語の終盤、クローディアスが落雷を受けて虚無になっていく時も、彼がひたすらに呼んでいたのはガートルードの名前であった。
このことと小説の記述を合わせてみると、クローディアスという人物の内面がわずかに垣間見える。彼にとっては、ガートルードはどんな立場・状況であれ自分の心を動かすほど重要な存在であったということだ。
クローディアスが子供の頃からアムレットを憎んでいたことは本人が口にしているが、実際には『ハムレット』のように耳に毒を流し込んではいない。しかし、ガートルードの甘言には彼は耳を傾けてしまった。そして、ガートルードがアムレットの妻である以上、彼女を手に入れるためにはアムレットを殺害するしかないのだ。
つまり、クローディアスは権力のみを欲してアムレットを殺害したわけではないということになる。
僕はここにもまた、一つの面白いドラマがあると感じるのである。

王族にあるまじきアムレット王とスカーレット

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アムレット王とスカーレットの仲についても触れよう。
映画でも小説でも二人は“仲睦まじい親子”として描かれているが、ガートルードは、二人のその親密さゆえにアムレットの愛情が全てスカーレットに向いてしまったと考えている。「夫は娘を愛しすぎる」という台詞にはそういう意味が込められている。

僕自身、最初に映画を見た時に若干の違和感を覚えたところでもある。
城から駆け出してきたスカーレットが帰還したアムレット王に抱き着く場面や、アムレット王の似顔絵を描くスカーレットが「わたくしは父さまの望む王女になります」と口にする場面がそうだ。
僕は、キャラクターデザインとその言動から、この時のスカーレットを8~9歳程度だと思っていた。しかし、設定上スカーレットは13歳なのだ。
現代でいえば中学1年生ほどの女の子である。近代的な視点で見ても、この場面のスカーレットの言動はかなり幼く見えるのだが、16世紀の王室における13歳という年齢に期待されるものは、現代のそれとは比べ物にならない。

16世紀の王室では礼儀作法が徹底されていた。
宮廷は貴族や使節、官僚など多くの人々が出入りする政治の場であり、そこでの王族の振る舞いは単なる個人の作法ではなく、王権の威厳や国家の品位を体現するものであった。
そのため必然的に、王子や王女は幼少の頃から身分にふさわしい礼儀作法を学ぶ宮廷教育を受けて育てられていた。
およそ5歳ほどの年齢で、王子には学問や統治に関する教育が、王女には信仰や教養、宮廷礼儀を中心とした教育が本格的に始められる。そして10代に入る頃には、王族の一員として公の場で求められる礼儀作法がしっかりと身についていることが期待された。
とりわけ王女の場合、13歳にもなれば、将来の結婚を見据えた宮廷の淑女としての振る舞いが求められた。それは、王女が王族の血統を受け継ぐ“王朝の資産”と見なされており、結婚によって他国との同盟関係を築くという重要な役割を担っていたからである。

現実として、16世紀のデンマーク王女 クリスティーナ・オブ・デンマークはおよそ13歳でミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァと結婚しているし、まさしく16世紀末のデンマーク王女 アンナ・オブ・デンマークも14歳でスコットランド王 ジェームズ6世(イングランド王 ジェームズ1世)と結婚している。

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アンナ・オブ・デンマーク
(スコットランド王妃在位 1589年 - 1619年)

そして、この当時の宮廷教育を受けた王女であれば、その日常の動きや態度にも当然細かい注意が払われており、身のこなしや公の場での振る舞い、感情の表現に至るまで、強い自制が求められた。
これは、当時の王女教育がキリスト教(デンマークでは主にルター派プロテスタント)の道徳観念に根ざしたものだったからである。

16世紀の教育書に、スペインの人文学者フアン・ルイス・ビベスの『キリスト教女性の教育』がある。

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『キリスト教女性の教育(De institutione foeminae Christianae)』(1532年)

これはもともと、後のイングランド女王 メアリー1世の教育のために書かれたものだが、16~17世紀のヨーロッパ全域において広く読まれ、カトリック・プロテスタントを問わず、王女や貴族の少女教育のモデルとして強い影響を与えた。

ここに記された教育方針では、女性の振る舞いについて
「幼い頃から外見や態度の慎みを教える」
「騒がず、落ち着いた動作を心がける」
「遊びや社交も礼儀正しく慎重に行う」
ということが示されており、慎み深さ・礼儀正しさ・感情の制御が幼少期の教育の核心とされていた。
スカーレットのモデルの一人とされるイングランド女王 エリザベス1世の教育を担当したロジャー・アスカムも、幼少期からの慎み深い態度や礼儀正しい振る舞いの重要性について、著書『学校教師』でビベスとほぼ同一の方針を示している。

つまり、王女という高貴な立場であるはずのスカーレットが、宮廷という公の場において無邪気に駆け出したり、父とはいえ国王に人前で抱きついてベタベタ触れ合うなどということは、かなり異常な光景と言わざるを得ないのだ。
(ご丁寧なことに、本作には13歳のスカーレットがアムレット王に抱き着くシーンが2回もある)

アムレット王も、間違いなく当時のルター派プロテスタントの価値観の中で生きていたはずであり、スカーレットのこうした振る舞いが淑女らしくない“はしたないもの”であることは重々承知していたはずである。
そして、デンマーク国王とは、父である前に何よりも王室の権威と秩序を守らなければならない立場にある。
スカーレットが王女にあるまじき振る舞いを見せていたら、王としてはその態度を咎め、改めさせなければならない。こうした養育状況を放置している彼女の養育係も、宮廷から追放しなければならないだろう。
本来は「王女の前に君はひとりの女の子だ。気にせずのびのび生きなさい」などとは、口が裂けても言えないはずなのだ。
彼女が「愚かな王女」と見なされてしまったら、それは王室全体の威信に大きな傷をつけることになり、彼女の将来にも大きく影響してしまうからだ。
しかし、劇中のアムレット王がスカーレットの振る舞いを気にかける様子は全く見受けられない。ただ穏やかにスカーレットの自由奔放さを見守っているだけだ。
現代的な目線で見れば良き父なのだろうが、こと16世紀のデンマーク王室という特殊な場においては、外交面だけでなく内政・宮廷秩序の維持の面でも大きな隙を見せているということに他ならず、弟から「愚かな王」と評価されるような行動を取ってしまっていることは、残念ながら事実なのだ。

と、ここまでは現実のデンマーク王室の視点に立った場合の批判である。

ここで、小説におけるガートルードの視点が差し込まれると、若干見え方は変わってくる。
ガートルードが嫉妬の感情を抱いているにしても、彼女からの視点で、親子の仲を「半ば異常な親密さ」と描写していることはかなり大きい。
つまり、先述のスカーレットのある種の幼稚さや愚昧さ、アムレット王の王族らしくない態度というものも、細田監督はある程度自覚的に描いていたということになる。

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劇中、絵を見せてきたスカーレットに対し、ガートルードが「汚い手」と言って絵を引き裂いてしまう象徴的なシーンがあるが、これもよくよく考えればガートルードが冷たいのではない。むしろ、手や顔を汚したまま宮廷内を平然と歩くスカーレットの振る舞いがそもそも王女としてあるまじきものであり、それが公然と容認されていることの方がおかしいのだ。
叱責としてはやさしいくらいであろう。

僕はこうした、些細ではあるが重要な描写が、ガートルードの感情に十分なリアリティを持たせていると感じる。
それはすなわち、王家の血を継承する“役目”を背負って生きてきたガートルードからすれば、「王としての威厳も示さず、自分をのけ者にするアムレット王」と「王女としての役目も課されず自由に生きることを許されるスカーレット」の、見せつけるような異常な親密さこそが「王の殺害」という大罪を犯すことを決断させるほどの嫌悪の感情を湧き上がらせた、というリアリティである。


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本作と直接関係しているという言及はないが、アムレット王の描写について一つ私見を加えておきたい。

シェイクスピアの戯曲に『リチャード二世』という作品がある。その中で、リチャード王が、後に自らの王位を奪うことになるヘンリー・ボリングブルックについてこのように描写する場面がある。

リチャード王
「彼(ヘンリー・ボリングブルック)はまるで民衆の心に飛び込むかのように、謙虚で親しげに振る舞っていた。
奴隷のような者にも惜しげなく敬意を示し、職人たちに笑顔で心を寄せ、運命に耐えながらも、まるで彼らの思いを自分のものとして受け止め、慰めるかのようだった。
牡蠣売りの娘に帽子を脱ぎ、荷馬車の男たちには膝を柔らかく曲げて礼を尽くす。
『ありがとう、わが同胞よ、愛する友よ』と言いながら、あたかもイングランドは彼のものであり、彼こそ臣民たちに期待される次の君主であるかのように振る舞っていたのだ」

『リチャード二世』第1幕第4場

『リチャード二世』におけるヘンリー・ボリングブルックとは、節度ある態度と善良さによって民衆からの共感と信頼を集め、その支持を背景に「王位を継承する正統性」を獲得していく人物だ。
しかし、述べたように、王族とは民衆の上に立って支配する存在であり、本来は民衆と親しく打ち解けるようなものではない。そうした行為は、上流階級の人間からは身分秩序を崩しかねない異様なものとして捉えられていた。
リチャード2世も、ヘンリーの振る舞いを「計算された人気取りであり、王の威厳を損なう卑しい行為」として警戒しつつ、軽蔑の気持ちを持って見ているのである。

そして、『果てしなきスカーレット』のアムレット王も、城下町に出て民衆と肩を並べ、対等な者同士のように親しく交流する場面が描かれている。
こうした人物像は実に当時の王族らしくない。
しかし、このイメージ自体は『リチャード二世』におけるヘンリーのイメージとかなり一致するものがあるのだ。
クローディアスも、アムレットを「善人を気取っているだけの腰抜け」と呼んで、本心からの善良な人間ではないと考えている節がある。これもリチャード王がヘンリー・ボリングブルックを見る心情と重なる部分がありそうだ。
これらのことを考えると、細田監督が本作の登場人物の設定を『リチャード二世』『ヘンリー四世』からも敢えて引用している、ということは可能性としてはあり得るかもしれない。


映画には存在しない物語

さて、ここまで原作に描かれたデンマーク宮廷に関連する事柄について、あれこれ言及してきた。これだけでも実に語り甲斐があるものだと思う。

では、なぜこうした背景は映画では伝わらないのだろうか。
簡単だ。そもそも描かれていないからである。

実際に完成した映画を思い出していただきたいが、映画の冒頭で提示された情報だけで「デンマーク王国と対立しているのはスウェーデンだ」とわかった人はいただろうか。少なくとも本編には「スウェーデン」という言葉はなく、かたくなに「隣国」と言い続けていたはずだ。
もしかしたら、世界史をご存じの方なら「16世紀末のデンマークなのだから、スウェーデンと対立していたのは常識だ」とおっしゃるかもしれない。
だが、これは『ハムレット』をベースとした物語だ。
だとすれば、原典に照らしても「対立しているのはノルウェーであろう」と考えるのが自然である。
しかし、映画だけの情報では、ここが『ハムレット』的空想世界の設定なのか、あるいは現実の世界に近い設定なのか、はっきりと判別はできない。
小説では、スカーレットの住んでいた城が『ハムレット』にも登場する「エルシノア城」であることも、かなり序盤に地の文で詳細に説明されている。しかし、映画では「エルシノア」の名前が出てくるのは《死者の国》で兵士を尋問する時が最初であり、それ以前にそれを判断できる場面はないし、エルシノア城があるということはつまりここが『ハムレット』の世界だということを示唆することにもなってしまう。
ようするに、考えれば考えるほど混乱を招く作りになっているのである。
(実際、細田監督の意図に沿うのなら「現実の世界の設定に近い」と見るのが“正解”である。正解があるとすればだが)

もちろん、冒頭と最後にしか出てこないデンマークの設定がどうなっているかなど大筋の物語には大して影響していないだろう、と考えるかもしれない。

だが、「ガートルードがスカーレットの実母か否か」というのは、実際のところ、この物語の根幹においてかなり大きなポイントになっているようである。

本作の感想をさまざま読んで廻った際、「ガートルードの結末がどうにもすっきりしない」という意見を少なからず拝見した。
映画のガートルードは、クローディアスが死に、スカーレットが生き延びたということに絶望し、叫び声を上げて退場する、という結末を迎える。小説では、スカーレットの視点で「継母はこれから死ぬまで狂い続けるのだろう」という救いのない記述が加えられている。
確かに、素直に映画だけの設定でストーリーを見ると、彼女が実母であれ継母であれ、序盤から登場していた悪役の末路としては肩透かしの結末と言えなくもない。
命を失うわけでも悪事を暴露されて追放されるわけでもなく、「悪事に加担したが、失敗して絶望する」というだけで、何のカタルシスもないところに収まってしまう。実に小物臭さが出てしまうのだ。

だが、本作の悪役であるクローディアスの反逆もアムレット王の処刑も、全てガートルードの企みに起因しており、彼女が「王位継承者を産む」という自身に課せられた“役割”を全うするためにアムレット王を殺害させた、という背景が明らかになると、そこで一気にストーリー全体が重みを増す。
『果てしなきスカーレット』とは、スカーレットとガートルードの戦いの物語なのである。

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ガートルードは、クローディアスを王に仕立て上げ、その王妃の座を得た上で王位継承者を産むことを計画した。そして、全ては彼女の目論見もくろみ通りに進んだのだ。ガートルードが子供を産めなかったこと以外は。
スカーレットがクローディアスの暗殺を実行しようとするまでに、6年の時間が経過している。この間に、王妃となったガートルードはクローディアスとの間に子をもうけることを考えただろう。しかし、それは叶わなかった。子供を授かることができなかったのか。あるいは身籠った子を亡くしてしまったという可能性もある(16世紀当時の王室では流産や死産はかなり頻繁に起きていた)。
「王を殺す」という罪を犯してまで手に入れた道だというのに、手に入れてもなお自分自身では思い通りにできない現実に、ガートルードは絶望を味わっただろう。そして、最後にはその道に必要なクローディアスをも失い、王位継承権は完全にスカーレットの手に渡ってしまうのだ。
人生を懸けて“王子”を産むことを期待されたガートルードにとって、女であるスカーレットが王座に就く姿を一生見続けていくことは、人生最大の苦しみとなるだろうことは想像に難くない。
これまでに起こった全ての悪事の報いがあの結末には込められているのだ。

だが、こうした背景は映画の中では決して語られない。
そこが提示されないがゆえに、映画のガートルードの姿を見て「実の娘を愛せない母親」という在らぬ方向へ話を広げてしまい、「なぜそれほどまで実の娘を憎むようになったのか」と頭を悩ませる人が出てしまうことになる。実際にはそんな人物は描かれていないというのに。

演出面のことを言うのであれば、スカーレットの言葉遣いやガートルードの台詞だけでも、こうした母子関係の背景を窺わせることはできたのではないだろうか。
これは一つの例に過ぎないが、例えばスカーレットがガートルードを「母上様」ではなく「ガートルード様」と呼んでいたらどうだっただろうか。
あるいは、ガートルードに「あの子はまだ私に懐かない」だとか「あの子は実の母親そっくり」などと一言言わせるだけでもかなり違ったのではないだろうか。
少なくとも、映像として見せる作品である以上、こうしたことを伝える演出はもっと考える余地があったように思える。

君はわかるか、聖の弓道経験

別のシーンの話になるが、スカーレットの相棒の聖が弓を使うことができるということについても、原作では彼が「弓道経験者」であることが地の文でさらっと触れられている。
ここは演出の匙加減が難しいところだと思う。「聖の弓の構え方で経験者であることはわかる」という人もいる。
本作は、中央大学と法政大学の弓道部にも協力してもらっていることから、聖の所作で経験者であることを表現しようとしていたのは確かだ。

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そもそも、軽々と弓を使えることにしっかりとした説明がされずとも気にしないかもしれない。実際に弓に触れたことがない人には、弓を引くことがどのくらい困難なのか、ということはなかなか把握しづらいこともある。
だが、同程度には「なぜ簡単に弓が使えるのか」と首を傾げる人がいるのも理解できる。

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#果てしなきスカーレット
  プロダクションノート
   <3Dモデル編>
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実は、聖の手には“弓道部のたこ”が描かれています。… pic.twitter.com/tkXHoaXjYL

— スタジオ地図 (@studio_chizu) December 11, 2025

スタジオ地図の公式Xのポストで言及されたとおり、聖には弓道のタコがあるため、一応、映画の中の表現でもかろうじて弓道経験者だとわかるようにはしているようだ。
だが、公式があわせて「気づいた方は、かなりの観察力です」と記していることからも、このタコが多くの観客に気づかれることはあまり想定していないことは推察できる。
第一、これもやはり「弓道や剣道を(しっかりと)やっていると手にタコができる」という前提の知識が要る。決してわかりやすい演出ではない。

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面白いもので、僕はこうした弓のことはほとんど気にしておらず、小説で読んで「なるほどなぁ」と思う程度であった。
しかし、中盤のボルティマンド戦に対する「なぜ聖は軽々と馬に乗れるのか」というコメントを読んだ時に「確かに」と唸ってしまった。
弓が使えることについて、これほど意図を持って説明が付されているのなら、弓よりも難しい乗馬ができることについても理由があってよさそうなものである。
しかし、聖がひょいと馬に飛び乗って停戦を促すことには「なぜ馬に乗れるのか」という説明はなく、小説にも一切の記述はないのだ。本作のクレジットにも乗馬クラブの名前はない。
聖はお金持ちの家の子だったのだろうか。
せめて、スカーレットとの会話の中で、現代での聖のそうした生活実態が窺える言葉が話されていれば、こうした些細なことで引っかかってしまうこともなかったかもしれない。
今のところ、たまたま乗ったら上手く乗れてしまった“なろう系主人公”だと思っておくしかないだろう。

(続く)

画像引用:『果てしなきスカーレット』(C) 2025 スタジオ地図
イラスト:日下部ヨミ

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