特別鼎談 三宅唱×濱口竜介×三浦哲哉 偶然を構築して、偶然を待つ──『夜明けのすべて』の演出をめぐって
2024年2月9日より公開中の三宅唱監督最新作『夜明けのすべて』。瀬尾まいこ氏の原作を出発点に、その中心に上白石萌音と松村北斗というふたりのキャストを置き、さらには光石研をはじめとする数多くのキャストによって形を成した本作は、日常の小さな出来事に無限の宇宙を見出すような佇まいで多くの観客を迎え入れている。はたしてこの映画の作法はどのように見出されたのか。『ドライブ・マイ・カー』、『ケイコ 目を澄ませて』をめぐる鼎談に引き続き、映画研究者の三浦哲哉氏と映画監督の濱口竜介監督、そして三宅唱監督による本作をめぐる最新鼎談をお送りする。『夜明けのすべて』のもたらす大いなる喜びや希望に導かれるように、一本の映画作品をめぐる3人の言葉はおおらかに紡がれた。
(本記事は全編にわたって映画の内容に触れています。ご鑑賞後に記事をお読みいただくことをお勧めいたします)
■映画をどこから始めるか
濱口竜介:試写で拝見して、静かな、でも深い衝撃を受けました。それが今もずっと続いているような気がします。繊細な演出の数々にまず驚いたのですが、一方で誰にでも勧められるし、観客が100万人入っても驚かないような風格がある。今日は、いったいどうやったらこれほどの映画が生まれるのか伺える機会ということで、『夜明けのすべて』を更に見直してきました。映画内では2024年の、まさに今のカレンダーが示されていますけど、撮影自体はいつだったんですか?
三宅唱:まずは、今回もこうしておふたりと話せることを嬉しく思います。実は、今回の『夜明けのすべて』についてはインタビューなどで自分が話し過ぎると鑑賞の邪魔になるのではないかと思っていた時期もあるんですが、やっぱり話すのは楽しいし、せっかくなので、これを読まれる方々の誰か一人でも、この映画というより映画そのものに強い興味をもってくれたり、映画づくりのプロセスについての誤解や思い込みが解けたり、あるいは新たな発見をしてもらえたらいいなと願っています。撮影は、2022年11月中旬から12月末にかけての6週間ですね。撮休を除けば32日。撮影期間中の12/16に『ケイコ 目を澄ませて』(2022)の公開が始まったので、宣伝取材など流石に慌ただしかったです。
三浦哲哉:僕もこの映画にものすごく驚かされたし、深く感動しました。まず大きな脚本上の構成について聞いてもいいですか。後半からプラネタリウムの話が導入されますよね。これは原作にはないから、三宅さんのアイデアだと思うんですけれど、これがとにかくすごいし、決定的だと思いました。プラネタリウム、要するに回転するもの、サイクルだよね。すでにたくさんの読者を得ている素晴らしい原作に、この主題を盛り込んで、映画のかたちを見事に構成している。ちょっと冒頭から回想すると、ロータリーにバスがゆっくり入ってくるんだけど、藤沢美沙という女性を演じる上白石萌音さんは横たわってしまっていてそれに乗れない。バスは周期的に動くものですけれど、同様に、社会の運行やサイクルが随所で視覚化されて、リズムを刻んでいる。で、ふたりの主人公はそこに乗れず、こぼれ落ちてしまう。具体的だし、見ているこちらの体に響くんですよね。山添孝俊というもう一人の主人公を演じる松村北斗さんも、電車に乗ろうとしてやはり乗れない。家では、進まないフィットネスバイクのぺダルを虚しく漕ぐ。PMS(月経前症候群)も、メンタルや観念の話だけではなく、月のサイクルとつながってリズムを刻んでいる。スクリーンの中でかたちや運動をなすいろいろなサイクルのひとつでもある。速かったり遅かったり、いろいろなリズムで生きる人々の時間が織り合わされて、ぶ厚い暮らしの場の雰囲気が立ち上がる。最終的にはプラネタリウムの場面に至り、昼と夜をめぐる地球の自転にまで視野が届く。ささやかな日常を描きつつ、映画的な光と闇のドラマとして、ものすごく普遍的かつ壮大なスケールにまで到達しますよね。その結果、僕らが生きて、そして死んでいく、複雑で神秘的な時間の感触が迫ってくる気がしました。こういう大きなシナリオの構成はどういうふうに降りてきたんですか?
三宅:小説を読んで直感的にすぐに引き受けることにしたんですけど、いざ脚本作業を始めると、これは真剣にやらないとダメなものになるというか、真剣になればなるほどハードルが高くなるチャレンジになりそうだなと感じました。まず大きいのは、小説だと一人称視点のそれぞれの語りが交互になっている構成で、それを映画の視点や時間で読み直していくわけですけど、当然そんなにスムーズにいかない。それで、まずはPMSとパニック障害の勉強をしたり瀬尾(まいこ)さんの他の小説を読んだりしながら、大きなテーマの発見ややるべきことややっちゃいけないことなどを探っていく期間が数ヶ月ありました。初めに手を動かしたのは、まずはふたりが生きている社会をつかまえる必要があると考えて、役の重要度関係なく出てくる人間全員を等しく地図みたいに書いていくことでした。小説には出てこないけど、いるだろうなという人物まで書いたりして、そうすると群像劇みたいな世界が広がって、その中でも栗田社長と弟の存在が浮かび上がってきたり。
濱口:それは脚本の和田清人さんと一緒に?
三宅:それは一人の時だったかも。和田さんには途中でお声がけして、2022年の年明けに合流してもらいました。それ以前に半年ほど一人でやっていて、「これこれの問いは見つけたんですが、一緒に考えてください!」と。たとえば、構成で難しいなと思ったのは、起承転結や序破急、あるいは「主人公は成長するものだ」という考えに基づいた直線的な物語構成がありますが、それに対して、今まさに三浦さんがおっしゃった身体に流れる生理のサイクルがぶつかってしまうというのが悩みどころでした。PMSを作劇に都合よく利用しちゃうと、肝心の周期性がこぼれ落ちるし、そういうことは避けたい。でもどうすれば新しい劇になるかは一人では全然わからず。今思い出したんですが、和田さんとはまずカレンダーを作ったりもしましたね。劇中の半年間の月経周期と、それとは無関係の正月休みや帰省だとか、物語上必要なポイントを書いて。それから、これが恋愛ものならその手の劇の構成を使えるんだけど、この映画は恋愛でもないし、物語の終わりにPMSやパニック障害が寛解するわけでもない。「何も起きないように」と願う人たちの話で、トラブルやドラマがなるべく大きくならないようにメンテナンスし続けるアクションは数あれど、いわゆる「何か起きてほしい」という観客の欲望をどう扱うか。そういうことも含めた先入観や思い込みのようなものが映画体験を通して変化していくような映画にしたいけど、どうやればいいんだろうとか。だからこそ、キャラクターが滅法面白いということこそ、シンプルにこの物語のやりがいでもあって。そういう問いを一緒にひとつずつ立てては、悩みながらまとめていったという感じです。プラネタリウムは、他にも「何かを修理してリサイクルする」とかのアイデアがあったなかで直感的に「全部がハマるかもしれない」と思いついて、本当にハマるかどうか検証をしていった、という感じです。
濱口:原作では栗田科学ではなく栗田金属という社名でしたよね。
三宅:はい。働くことについての物語であるとも捉えていたので、会社の場面のディテールをどうしようかと考えていました。小説では文字にならない背景だとしても、映画だとどうしても具体として常にはっきり映っちゃうから、描写からもう少し膨らませて想像しておく必要があって。それで、商材のアイディアのひとつに教育玩具というのが浮かんで、その流れでプラネタリウムを思いついたのかな。その後、実際にプラネタリウムに足を運んでみたら、「あ、これだ」と。天文の勉強も追加されるのはヤバいな、間に合うかなと思いつつも、そのあと各部の技師らにも声をかけて、みんなで渋谷のプラネタリウムにみにいったりした。
三浦:科学って三宅さんのフィールドだという感じがあるよね。『ワイルドツアー』(2019)も公共施設で自然観察をする少年少女たちの映画だったし。人の営みを描くとき、かたわらに必ず自然誌的な視点がある。
濱口:この映画ですごいのは時間の流れというか、その見せ方だと思うんです。一般的に言って、時間って放っておくとものごとを悪い方向に進める傾向がありますよね。たとえばものは腐食する。時間が経つと、エントロピーが増大していって、どんどん物事が乱雑に、より悪くなっていく。そういう側面がある。でもこの映画は時間のもうひとつの側面、時間の中に潜んでいる「回復能力」みたいなものをあぶり出していると感じます。それが物語として表現されている、ということはもちろんだけど、その時間の一つひとつが具体として観客に提示されている。物事がより望ましく変わっていく時間のその側面は適当にカメラを被写体に向けて撮るだけでは絶対に定着しない。現実そのままの時間ではなく、フィクションとして再構築された時間がここにはある。その再構築の作業の基盤になっているのが、先ほどお話にあったような、周期的な時間についての思考や、物語の周縁部に至るまで群像劇的に、一旦社会へと広げてシナリオを考えたことなのだ、と納得しました。でも、シナリオの話を聞いて個人的にちょっと安心したのは、一気呵成にこれを書いたのではないってことです。こうすればいけると最初から見抜いていたんじゃなく、本当にちょっとずつやっていったと。
三宅:そうです。プロデューサーたちとも何度も打ち合わせしましたし、二転三転もしましたが、僕含めて男性3人女性3人で世代も幅がある会議だったのでそれはよかったですね。一度は群像劇バージョンというか、栗田社長もより前面に出てくるような長尺のプロットも作りましたが、それだと2時間では絶対に収まらないと判断して、次第にまたふたりの物語に戻っていくという過程で。結構ギリギリまで改稿していたので、正直なところ「やべえ、(完成形が)見えねえ……」と思いながら現場入りしたんです。
濱口:なんと。できたものからすると信じられないですね。
三宅:クランクイン直前まで、撮影の月永雄太さんに「今回ちょこちょこ手持ちもあるかもしれない」と伝えちゃうくらい見えてなくて、あの時月永さんがどう思ってたのかは恥ずかしくてまだ聞けてない(笑)。それで、初日はいつも以上に時間をかけて段取りをすることにしたら、なんとなく見えてくるもんだなというか、月永さんの力量と落ち着きで自分も安心してきましたね。最初の数日は手持ちの用意してましたけど、結局出番はナシ。
三浦:時間の流れについてだけど、随所で感じたのは、説明うんぬんを気持ちよく飛ばして、すでに事態が始まってしまっている、その渦中に観客がぽんと置かれてしまうという印象ですね。映画の中盤に、藤沢さんのお母さん(りょう)がリハビリをしている場面がありますよね。普通のストーリーテリングなら、大なり小なりお母さんが怪我をしたことが語られると思うんです。お母さんが怪我をした、一人では暮らせなくなった、だから主人公はどうするのか、というような。この映画ではそれがまったくなく、いつのまにかごく自然にリハビリの場面になっている。ここの空間がまたすごく厚みがあるんです。群像劇として登場人物ひとりひとりのバックグラウンドを綿密に作り込んで演者のみなさんと共有されたとのことですが、きっとそのことともつながっているのかな、といま話を聞いていて気付かされました。たとえば三宅映画の常連俳優の柴田貴哉さんがいて、藤沢さんのお母さんと軽口を叩くような関係にすでになっている。「手の大きさ見せて」「いや僕はいいっす」などと屈託なく言い合っている。こういう些細なやりとりは、藤沢さんのお母さんがすでにかなり長い時間をここで過ごした証しにほかならないから、この女性がもう取り返しのつかない状態になってしまったことを、すっと受け入れてしまう。柴田貴哉さんだけではなくて、実際にリハビリをされている患者さんのたたずまいにもまったく違和感がないし、あの空間がまるごと客観的に成立しているからだと思うんです。そんな場面が要所要所にあって、それがこの映画の時間構成のひとつの秘訣になっていると思った。冒頭で、上白石さんが雨の中で寝ていることもまったく説明的ではないじゃない。そういう体の持ち主がそこにいることがただ提示されて、それを受け入れられる。
三宅:『ドライブ・マイ・カー』(2021)についての座談会のときに学んだことが大きくて、「映画をどこから始めるか」という話をしましたよね。あの話の要点とは少しズレますけど、この映画は、前兆や発作の瞬間をみるものではなくて、発作の後こそが重要な物語だと考えた。そこからどう立て直していくのかという。そこで最初に藤沢さんのどの状態から始めるのがいいかを考えたときに、あの彼女の姿を、ど頭で見てもらおうと。相当なことがなければ、あんな雨に打たれて倒れたりなんかしないだろうと考えて。もう雨が降り始めていて、もう鞄も投げた後である、そういう状況や環境の用意をしたら、あとは上白石さんが、もうそれしかないと言う形でゆっくりとベンチに倒れていって、あの崩れかたが決定的だったなと思います。
病院場面については、シーン全体の雰囲気について演出部と「どういう場所だと思う?」「やっぱり辛い場所ですかね」「いや、リハビリルームこそ明るくて賑やかな場所なんじゃないかな」と方向性を探って、それを取材で裏打ちしていってもらったんですが、そういう話しあいや準備もこのシーンの下地になっているかなと思います。参加してくださった、普段から車椅子で生活されているエキストラの方にも当日アイデアをもらって。ちなみに柴田くんは、1ヶ月ほどリハビリ施設のようなところで修行をさせてもらってから現場にきました。彼の希望で。
三浦:なんと! そこまでされる演者がいたからこそあの空間があの空間として成立してるんですね。びっくりしました。
■ロケーション──栗田科学・坂・歩道橋
濱口:今回も『ケイコ』と同じように、事前に見つけたロケーションをシナリオに反映させたんですか。それとも全部シナリオができてから見つけたんでしょうか?
三宅:今回は一人で散歩する時間が事前にとれず、具体的に地域も見えてなかったので、制作部が「シナリオに書いたこれを見つけて欲しいです」というリクエストに見事に応えてくれた、という感じでした。山添くん(松村北斗)が自転車で走っているシークエンスの道などいくつかは、別物件のロケハン中に近所をみんなで歩いて発見した場所もあります。あとは、トンネルは書いてなかったんですが、これも制作部から「ちょっといいのあったので一度見に行きません?」と連れて行ってくれて。
濱口:山添くんが「五反田行き」の電車に乗ろうとしている場面があって、かつ山添くんは基本的に電車に乗れないはずなので、東急池上線の辺りなのかなと思ったんですが、調べたら劇中の駅名は存在しなかった(笑)。実際のロケ地はどのあたりだったんですか。富士山が見えたりもしてますね。
三宅:会社は大田区の馬込のあたりという想定で、道周りは実際にそのあたりで撮りました。富士山が見えるのも東海道線沿いの道です。ふたりのアパートや喫茶店、レストラン、公園だとかもそれぞれ大田区内ですね。ただ、会社や体育館や駅などは区内では条件的に厳しかったようで、関東近郊に広げています。
濱口:栗田科学のロケーションがやっぱり気になるんですけど、あの建物はどこで見つけたもの?
三宅:埼玉県の東松山市でした。大田区内だと、あの大きさで空いていて予算にもはまるテナントはないと思いますね。
三浦:もともと何に使われていた場所なんですか?ちょっと不思議な間取りだよね。
三宅:そういえば聞いてない。もう完全にがらんどうの空き物件でした。
濱口:あそこは見つけてからもう即決だった?
三宅:そうですね。他もいくつか見て、あそこが最後に見た場所で、「ああ、ここだわ」と。他の物件より都内から30分くらい遠かったので、移動で往復1時間削られてしまうなと一瞬躊躇したけど、いや、ここがベストだね、と。
濱口:あのロケーションを見つけてから、具体的に反映するかたちでシナリオを書き換えたりはした?
三宅:ほとんどなかったんじゃないかな。当初から、オフィス、作業場、給湯室、倉庫という柱は立てていました。ただ、あの真ん中の部屋は流石に事前には書けていないので、どう使おうか、撮影しながら検討していきましたね。あとは、藤沢さんが光石研さんに辞表を渡すのを、玄関の外で渡すか中で渡すかとか、山添くんと藤沢さんが日曜に洗車を一緒にしたあとに喋る場所を作業場にするかオフィスにするかとか、そういう場所の選択は前日か当日朝まで悩んでますね。撮り始めてからでないとわからない部分でした。
濱口:なるほど。じゃあ本当に、よく見つけたね……。
三浦:建物の中に高低差があって、中二階みたいな場所が魅力的な奥行きを生んでいるし、なかなかあんなに都合良く揃っていないような気がしますが。
濱口:さすがに揃っていないんじゃないかと想像してました。ひとつの建物で全部のシーンをこんなに処理できるのかなって。でもあの空間もこの空間もどうもつながっているようだし。だとすると、場所に合わせてシナリオを変えたか、もしくは違う場所をうまくつないでいるのかなと想像していたんです。一番可能性が低いのが、まあ見つかっちゃったってことだと思っていたんですけど。
三宅:制作部が優秀だったという。物件は水物だから運にも左右されるけど、やっぱり経験値やシナリオを読む能力がないと、あの物件には出会えなかったんだろうなと思いますね。それに、美術部と装飾部がかなりのレベルで現実味のある空間を作ってくれたので、無理のない印象になったんだと思いますし、だから俳優たちもそこにすっと馴染めたとワクワクしてくれてましたね。こりゃちゃんとやらねば、小道具ぐらい溶け込むぞ、みたいなことがあるんだと思う。
濱口:この映画って全体として、いわゆる大きな事件は起きなくて、本当に少しずつ関係性が良くなっていったり学んだりするという構成だけど、でもそれって物語としての面白さに頼れる部分がすごく少ないってことでもある。その上で、一つひとつの場面をどうやって映画として成立させていくのかという試行錯誤があったと想像するんですけど、藤沢さんと山添くんがカシオペア座の話をする大きな歩道橋があるじゃないですか。そのときにじゃあ、あの歩道橋はどうだったのか。栗田科学もそうだけど、もしあの歩道橋じゃなかったら、この場面はあの質を保てただろうかと考えてしまう。というのは、あの歩道橋のあの雰囲気がフィルムに定着するには、歩道橋に向けて照明が当てられないといけない。抜けのいいカメラポジションと、かなり高い場所に照明も設置する場所が必要なはずで、単に歩道橋だったらどこでもいいわけではないと思うんですよね。この場所もシナリオを書いたあとに見つけている?
三宅:そうです。まず会社からの帰り道が何度か反復されるシナリオでした。ただ「道」と書くと準備が難しいので、「線路脇の道」「歩道橋」「遊歩道」と柱を立てて、あと敢えてただの「道」と書いて、ロケハンで発見したものを活かせるようにしたところもあります。会社の近くに駅がある、なら線路がある、ということは歩道橋もあるだろうと。しかるべき線路脇の道を見つければ歩道橋は何個かあるだろうからその中で探せばいいや、ぐらいに想定していました。
濱口:そこまで事前にイメージができている、と。まず構想がかなり明確にあって、準備も含めた現場で微調整を繰り返していったということなんですかね?
三宅:そうですね。制作部が「こことここの歩道橋が自分は好きです」と事前に見つけてくれて、それも含めてその前後の場所を撮影の月永さんや照明の秋山(恵二郎)さんらと歩きながら、ここで何ができて何ができないか相談しながら決定していきました。歩道橋は、自分と演出部でセリフを読んで尺を測って、このセリフ量だとここからここまで歩けるなとか確認して。照明の準備とカット割に関しては、寄りは現場判断でもどうにでもなるからいいとしても、ロングショットの有無や方向は一応決めておいた方がラクなので、夜にロケハンして。
三浦:そもそもあの馬込のエリアに決めたのはなんで?原作通り?
三宅:いえ、原作では明示されておらず。坂を撮りたいって僕が言ったんです。それで制作部から「大田区のこの辺で考えてみたいんですが、どうですか」と提案がありました。
三浦:田舎でもなく、都会でもなく。
三宅:ああいった企業が多くずっとあった地域ですよね。で、いざ行ってみたらまあ坂がうねっていて、面白くて。大田区内でも蒲田付近とはまた地形的に違って、新幹線が谷底に走り、その両脇に丘というか山があって。
濱口:なんで坂なんですか?
三宅:東京って坂多いなあという実感がもともとあるのと、PMSやパニック障害を抱えている身体を捉えるために、坂を上がったり下がったりするのはどうだろうか、という考えですね。
三浦:風景ショットが要所要所で効いているんですよね。必ずしも高いところから撮っているわけでもないと思うんだけど、坂があることで、夜景の馴染みがすごく良くなっている。
三宅:中盤すぎ、ロングショットでふたりが歩いていく夜の住宅街の坂のショットがあったと思うんですけど、これはロケハンの途中で「あ、見えたね。見えてる?」とみんなで目を合わせて頷きあったところでした。偶然、いろんな家のあかりの配置が絶妙によくて。でも、撮影当日はどの家の電気がついているかわからないんで、照明の秋山さんが制作部と一緒に事前に一軒一軒回って、あかりが欲しい家には撮影日に電気をつけていただけるかお願いしたり、電源をお借りしたり機材をおかせてもらえるか交渉したり、という感じだったと聞いています。ついてるのは後からCGで多少消せても、足すのはやっぱり微妙に違うし、当日思いついてもできることじゃないので。
濱口:この風景って、物語の中でもプラネタリウムのことが出てきて、町が星空みたいに見えないといけないわけじゃないですか。あのショットを撮るには夜間に、かなり広い範囲にわたって照明を配置しなくちゃいけないはずで、そういうイメージをどう(ロケーションを探す)制作部なんかと共有して合意を取っていったのか、どうやって照明を配置したのか、まさにそこを聞きたいと思ってたんですけど、そういう流れだったんですね。その視点を発見した三宅くんもすごければ、それを実際にフィルムに定着させるチームとしての動きもすごい。ちなみにこの場面にバイクが通りすぎるじゃないですか、あれも用意していたもの?
三宅:はい。チーフ助監督の山下(久義)さんがその日の朝、バイク持ってきて。
三浦:以前、この3人でブレッソンの『ラルジャン』(1983)について話したときに、背景をバイクや車があまりに絶妙なタイミングで通り過ぎるという指摘があったじゃないですか。「あれは仕込みだと思う?」「仕込みじゃない?」みたいな。結局、ものすごく丹念に仕込んでいるとしか考えられない。カット尻でブーン、と走らせると、さもなければ生まれてしまったかもしれない、沈黙の意味ありげな叙情性のようなものが消えて、代わりに、即物的な運動のリズムが映画を推進させる効果がある、という。『夜明け』を見ていて、そのやりとりを思い出しました。
三宅:今言われて思い出しました(笑)。ロケハンであの坂に行ったときも当然人が歩いているので、自然と演出部とも「どうします?」と話すわけです。主演がスターふたりだし、全部止めて作るので、偶然には人っ子一人通らないことになっている。なので、何を仕込もうかって発想する流れに自然になりますよね。全部ゲリラが前提だったらそもそも考えなかったことだったと思うんですけど。
濱口:当たり前ですけど一つひとつの場面がそうやって構築されていることがわかって、興奮するやら、恐ろしいやらです。そうした細かな演出が人に及んでいる場面についても、聞いていきたいんですけど、藤沢さんが実家に帰る場面があるじゃないですか。あの場所もどこなのかわからないんだけど。
三宅:あれは伊豆急行ですね。
濱口:ああ、伊豆なんだ。
三宅:小説では茨城で、でも僕がどうしても海沿いを走る電車を撮りたいとなって調べてみたら、関東近辺だと伊豆急行しかなかった。
濱口:なんで海沿いの電車を撮りたかったんですか?
三宅:波を撮りたかったんです。坂と波という具体が今回の主題にあうだろうと考えて。ロケハンであちこちポジションを探り、結果的に「波というよりこれは地球を撮ってるみたいだね」と感じたところで撮影しました。
濱口:なるほど。そこでりょうが演じるお母さんをケア施設から家に送るとき、子どもがふたり通り過ぎて「こんにちは」っていいますよね。あれはどうして必要だったんでしょう?
三宅:よくぞ聞いていただきました。プロデューサーの城内(政芳)さんからも「あの演出が要るのか要らないのかずっとわからなかったけどやっと意味がわかった」って言われたところです(笑)。
濱口:じゃあこの演出には明確に意図があるということね。
三宅:そうです。この場面では藤沢さんがお母さんに向ける眼差しがどんなものかを撮る場面だと考えていました。そのためには、いちどその視線を邪魔するような状況を作ってみたら、上白石さんから何が出てくるかなと考えた。まあ、アクション映画でいうところの、厨房の人とか路上の花屋ですよね。あれがあるから、主人公の走りが加速して、力強くなると思うんです。
濱口:なるほど、いちど外さないとその眼差しが強調されないんだ。いや、素晴らしい。
三浦:あの子どもふたりの挨拶がまた屈託のないいい声で、すごくいい効果を上げていますよね。りょうさんが、あの場所の人間関係のつながりの中にすでにずっといるんだ、ということが伝わってくる。だから、やがて上白石さんが帰ってくる場所になるということにも違和感がなくなる。
三宅:あとは、あの団地はすでに使われていない場所だったので、生活感を出すには美術の仕込み以外に人も必要で、正月だし小学生が元気よく遊んでいれば、かつて藤沢さんもそう育ったんだろうなということも、そう強調せずとも、雰囲気としてあればいいなと。
濱口:ちょっと引きのところに遊んでる子も写ってましたね。そのことで使われていない団地自体が生き返って、それ自体の時間を持つ。本当にジワジワと一つひとつの空間がイキイキとするような配慮が各所になされている。
■松村北斗・上白石萌音の素晴らしさ/相互関係の上に成り立つ芝居
濱口:少し話変わりますが、この映画を見てから原作を読むと、ふたりの印象的な会話場面のセリフがほぼそのままなんだってけっこう驚きました。小説にはそれぞれの言葉に対する人の心の流れが書かれているわけですが、映画の場合、特に前半は、たとえば山添くんに自転車を届けようと思いつく藤沢さんの気持ちや行動に関して、因果関係を埋めていくということではなく、ただたんにそういうものなのだと進んでいく。正直、最初はその映画の展開に十分ついていけないところもあったんです。もちろん、後半になると、観客もああ、藤沢さんと山添くんだったからなんだな、と納得できるようになってもくる。そこがこの映画の力だと思うんです。ただふたりの関係で、ゲームチェンジャーだと感じたのはやっぱり髪を切るところの松村北斗さんの笑いですよね。あのちょっと高めな笑い声はそれまでの人物像からは予想してなかった。でも、それがやがて回復していく山添くんのキャラクターと実は見事に呼応している。このハプニングみたいな会話場面もほとんど原作にも書いてあったわけで、そこはとても驚きました。
三宅:ああ、よかった。あの笑い声に濱口さんが反応するのは嬉しい驚きです。セリフについてはそうですね、瀬尾さんの書かれたキャラクターの見事な側面で、やりとりの言葉をなるべく活かしてみたいと思っていました。
濱口:そこから先のふたりのやり取りは全部素晴らしいですよね。自分が原作を読んでこれらの会話が書かれてあったことに驚いたのは、映画の会話がまるでそこで発生しているように、あまりに自然だったからだと思います。そういう点で、ある小説の映画化という観点からも、原作を尊重した上で映画として飛躍した、素晴らしいものだな、と。原作のセリフがそのまま生かされている場合、俳優が「ここが大事」と思い入れが強くなりすぎて準備をし過ぎてしまう懸念もあると思うんです。でもこの映画におけるふたりの会話は常にフレッシュで、その場で初めて話しているようで素晴らしかった。特に自分は松村さんの「普通さ」に驚いてしまうんです。映画の中でこんなに普通に、つまりは相手に反応して相手と話している人ってあんまり見ない。この普通な感じはどうやって作られていったのか。会話はどんな演出をしたんですか?基本的にふたりの会話は切り返しのない、同時の撮影ですよね。
三宅:髪を切る場面について話すと、髪を切る瞬間は彼の地毛だったので基本的には一回で、そこだけはテストできないんだけど、その前後のやりとりはアクシデントがないようにやたらテストはしました。その意味でふたりはとっくにフレッシュではなく、練り上げたものです。
三浦:即興という感じではないよね。
三宅:はい。この場面はインの前にも読み合わせをする機会を設けられたので、そこでセリフの足し引きのアイデアなどを実験できて、それを受けて撮影稿にブラッシュアップして。濱口さんのいう「普通さ」の大部分は、本人たちが「この役を自分が演じること」だとかシナリオから読み取ったテーマなどを意識した上で、自ら持ち込んできてくれたトーンでした。自分ができるのはその場その場で正直に伝えられるくらいだし、大したことは言ってないと思うんですが、印象として、彼の素晴らしさはやっぱり相手が上白石さんだったからこそだと感じていました。これはお互いですが、相手のことをよく見ている。たとえば、松村さんは撮影当日、自分が数ヶ月伸ばしてきた髪を切られることではなくて、髪を切る上白石さんが緊張やプレッシャーを飛び越えて役としてそこに立っている、その存在感に意識をフォーカスしていたように思います。そういう感覚がセリフの発し方を支えていたのではないかなと。
三浦:この映画の上白石さんを見て、僕は勝手にかつての薬師丸ひろ子さんを思い出していて。相米慎二の『セーラー服と機関銃』(1981)みたいな、理由が必要ない人というか。つまり、ガーッと動いて、その芯から出る声で周囲を説得してしまうような人で、多少因果関係が飛んでいても、上白石さんだと「カ・イ・カ・ン」という感じでやれてしまうというか。PMSのつらさも切実に表現しつつ、なおかつコミックな魅力もある。どちらかというと松村さんはそれを観察して受ける側ですね。そのふたりの登場人物が映画の中でどうなっていくかということに関していうと、上白石さんは本質的に変化しない。まったく変化しないわけではないけど、むしろ変化するのは松村さん。そういう意味では、役割分担がすごくはっきりしていると思いました。
三宅:そうかもしれないですね。
三浦:最初は見えなかった新しい観点を得るのが松村さん。最後の見事なモノローグでも示される通りなんですけど。
濱口:そう思います。上白石さんの発話には、松村さんとはまた違う歌のようなトーンがありますよね。その相互作用をふたりとも楽しんでいるような印象があります。会話するふたりのあいだで、その都度何かが生まれていて、それを信じることができるというのが、間違いなくこの映画の素晴らしさの核心かと思います。
三宅:自分としては、序盤の玄関前のやりとりを撮影した時に、この映画が捉えるものが見えたという手応えがありました。あの場面も、カットバックするかどうか事前に答えを出してなかったんですが、段取りをして、これはふたり同時に等距離だ、と。ふたりも、習慣的に顔を撮られるものだと思っているからキャメラポジションに興味を持ってくれて、自分が掴んだ狙いはその日のうちに話しましたね。ふたりは取材で「カメラがどこにあるかわからない」と言ってましたが、別に遠くにいたり隠れていたんじゃなくて、視線にあんまり入らない角度にいた。キャメラの存在や距離というのはやっぱり物理的に、演技に影響するように思います。それは無意識のうちに邪魔するとかいうレベルではなくその逆で、俳優自身もキャメラの意味を感じ、集中すべきものを見定められるということです。上白石さんがヨガで怒りを爆発させるシーンは、後で本人から「あの位置にキャメラがあるのは助かりました」と言われたんですが、当然のようにすごく見えているもんなんだな、と改めて思いました。口調などの演技指導のことは正直いまだによくわかってないけど、然るべき状況をその場面に用意すれば、今回のおふたりみたいに優れた俳優たちは持っている力を自然と発揮してくれる。演技がいまいちという時は、俳優の問題でもないし、口先を調整しても大して変わらないというか、大抵その環境設定自体や芝居の位置関係に問題があるはずというアプローチくらいしか自分にはできないですし。
■動きの作り方
三浦:もちろん撮影が始まってしまったら意識する暇はなくなると思うんだけど、実際のところ、どれぐらい青山真治さんのことを考えていたんでしょうか。つまり、斉藤陽一郎さんと光石研さんが兄弟として出ている以上、日本映画のファンは、やはり栗田科学から、『サッド ヴァケイション』(2007)の間宮運送を想起すると思う。
三宅:まず原作を初めて読んでいる時から、社長は光石さんにお願いしたいと思っていました。それは早々にプロデューサーに伝えていて、実際に事務所にオファーしたタイミングは正確にはわかりませんが、僕の記憶では、まだ青山さんの日記(「宝ヶ池の沈まぬ亀」、boidマガジン)が継続していた時期です。まさか亡くなってしまうなんて一切思ってなかった。
三浦:あ、そうだったんですね。
三宅:そのあとに脚本が定まってきて、じゃああのカセットテープの声を誰にやってもらおうかとなり、どこか軽快な声、全然死にそうになんかない楽しい声がいいなというところで、ぱっと斉藤陽一郎さんの声が浮かんできました。それはもちろん青山さんの映画、たとえば『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(2005)のラジオの声などの記憶からですが、2022年3月21日以降のことなので、だから当然、「まずい、光石さんと陽一郎さんのコンビか」と。そういうつもりのアイディアかといえば、そうでもないところから出発したわけだけれど、結果的にそういう機会にはなるから真剣に考えましたけど、その前に、光石さんと斉藤さんのおふたりにもお考えがあるだろうから、まずはプロデューサーを通して光石さんにお尋ねしてるんです。「弟役のキャスティング案として陽一郎さんを考えているけれども、三宅としてはこれこれこういう思いがあるが、どう思われますか」と。そうしたら「もちろん大丈夫です。何も気にしないでください」というような非常に寛大なお返事をいただき、そこからは自分の直感に忠実に、陽一郎さんにお声がけをしたという経緯でした。
三浦:なるほどね。企画の段階からそういうオマージュを捧げるつもりはなかったということはよくわかりました。ただ映画を見ていると、過去の遺物を探しに行ったら日記が出てきて、カセットからはいろいろな過去の声が響いてくる。だからどうしても、三宅唱が青山真治の声を聞き取ろうとしているなんて思ったりもしてしまうかも。
三宅:もちろん、僕は青山さんのことが大好きで、周囲にはそれを言っていましたし、そう思われても間違いとは言わないんですが、でも、オマージュなんて嫌なんです、亡くなったのなんていまだに全然認めたくないし。それに、役はそうだとしても、お二人という俳優個人は言うまでもなく青山さんのものではないから、キャスティングでどうこうしようとしたつもりはその意味でもないです。でも、素晴らしいお二人の存在を10代の僕に教えてくれたのは青山さんの映画だし、その時から変わらず、この映画で終わる話じゃ当然なく、まあずっと青山さんの映画のことは今後も考えていきます、ということで。ただ、お二人同時に撮影初日に会う機会があって、お二人ともハニかんでいたりして、言葉を交わすわけじゃないですけど、説明のできない特別な時間になりました。
それと、映画の真ん中に死者がいる、それも自死した死者というのは、自分としてはもともと全く別の動機がベースにあるんです。詳しくは言わないですが、数年前に亡くなったある方と自分の関係というか、その方への思いや考えが以前からあって、その方だけでなくいろんな死に対する自分の思いがありますね。
青山さんの話に戻すと、『サッド ヴァケイション』のことは会社の規模感を説明するのに話題にしたこともありますけど、でも物語が違う。光石さんも陽一郎さんも間宮運送の社員ではなく、梢ちゃん捜索隊でしたし。
三浦:会社のあり方はぜんぜん違うよね。間宮運送はもっと流れ者というか、借金取りに追われているような人たちばっかりだし。最近見返してみたんだけど、ものすごく殺伐とした映画で、時代は変わったものよ……と思ってしまった。
濱口:今では映画より社会の方が殺伐としてしまったかな。
三宅:かもしれないですね。物語として近いのは『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』かなと思います。青山さんの映画も『サッド ヴァケイション』以降、というかあの映画のラストのシャボン玉以降、『東京公園』(2011)や『空に住む』(2020)など、フレーム外の現実の殺伐さに対して、映画の中の空気をおそらく意図的に何かを目指して、どこか祈るように作られていったように思います。
三浦:本作では、殺伐とした現実とか、明示的な悪があえて映されないですよね。貴重な秩序を壊そうとする悪役も登場しない。もちろん原作の世界観ありきだから当然ではありますけれど、さきほど濱口さんが「エントロピー」と表現したことがとても大事だと思いました。いろいろなことが衰弱して、病み、死に向かっている。あるいはすでに死んでしまっている。いまという時代だから一層強く感じずにいられないことだろうし、少なくとも自分はそういう気配が画面外の前提になっている、と感じながら見ました。
三宅:現実同様に悪人とか無関心を描いてもいいんですが、そうするとそれが悪いってことになってしまいそうで、でもそれは違うのが難しいところですかね。その辺りも含めて説話として取り込むかは今後の課題なんですが。ともかく、悪人がいようがいまいが関係なくPMSもパニック障害も存在してしまうし、死もいまの時代の空気も、悪人がいなくなって解決するもんでもない、もっとどうしようもないもので。
濱口:栗田金属から栗田科学への改変って、原作から引き継がれていることも多くありつつ、映画としてのレンジをあらゆる意味で広げていますよね。単純に人数が増えているということもありますが、いわばもうひとつの主役みたいな空間じゃないですか。栗田科学という会社が再構築されたフィクションとして信じられる、本当に存在すると実感できるものになっている。それこそが大きな達成なのではないかと。
三浦:人の気遣いがこんなに面白く感じられるのかという印象で、見ていてまったく飽きないし、ひたすら気持ちいい空間だよね。放っておけば増大するほかないエントロピーに抵抗するネゲントロピーの空間が栗田科学。
濱口:具体的に言えば、最初に足立智充さんが藤沢さんや山添くんを夕飯に誘う場面、社長室から撮られた視点のショットで、社員の久保田磨希さんの動きと、会社を出ていく山添くんの動きの方向性が呼応して、最終的に画面に残った4人が2対2のグループを画面上下につくる。これは適当に撮ったらこうはならないという画面で、タイミングも測ってきっちりとやっていますよね。この運動がフレームと、物語的には大きな展開のない終業間際の時間を引き締めている。その動きがいかに大事かは、できた映画を見ればわかることだけど、現場ではどの程度共有されていたんでしょうか。何テイクぐらいやりました?
三宅:たぶん本番は一回で終わっていると思います。
濱口:テストはどれぐらい?
三宅:回数はちょっとわからないですけど、4、5回くらい? 夕陽との戦いもあったので、あの場面はもっと少ないかも。
三浦:それは三宅さんが動きを設計した結果できてくるものなのか、それとも役者の皆さんからも何かしら持ち込むものがあるのか。
三宅:「よーい、はい」の時にそれまでどこで何をしていてもらうかはこっちから渡すものですね。カットのタイミングでどこにいるかがゴールだとすると、スタートとゴールの位置はこっちで設計しないと出てこないものだと思っていて、それに対して、セリフのトーンだったり眼差しみたいなものは、役者たち本人が原作と脚本を読んだことで持ち込んできてくれるものだったり、本人がもとから纏っていたりするものだったりします。話は遡るんですが、そもそも、メインふたり以外の社員たちにたくさん動いてもらう必要があることはかなり前の段階からイメージできていました。ただ、ボクシングジムなら練習という明確な動きがあったわけですけど、正直、職場の動きは撮影時にやってみないとわからない。だからシナリオに根拠らしい根拠が書いていない演出をベテラン俳優たちを相手にしなければならないという現場の状況を想像しますよね。そこから逆算すると、三宅及び演出部をイン前から信頼してもらう必要があるし、シナリオにない動きの根拠を支えるためにキャラクターの背景を書いて共有しておく必要もあるし、そもそもキャスティングの段階でそういうことも楽しんでくれそうだとこちらが思えることも条件の1つにありました。もし、そういう準備一切なしで当日に「あっち動いて。やっぱりこっち動いて」とやるのは最悪に失礼というか、超つまんない現場になっちゃうので、キャラクターの裏設定は必須でしたね。逆にいえば、それを渡したあとはだいぶ任せているし、甘えています。そこまで大した資料じゃないとこちらは思うので申し訳ないくらいなんですが、彼らが役を十分に掴んできてくれたおかげで、現場はうまく行きました。
撮影現場の段取りとしては順々に作るしかないです。さっき指摘してもらった場面では俳優が6人いるけれど、6人同時には演出できないので、まずはメインのふたりと、足立さんのお芝居を一回固めさせてもらう、みたいな。あの場面だとずっとドリブルをしているのは足立さんだから、それに合わせて最初はフォワードの動きを決めて、次はディフェンダーの動きを決めますというような感じでした。それで全体同時にテストすると、ほぼ合うけれど微妙なズレというか、待ちや急ぎが出るわけですが、そこでも役の裏設定が生きて、みなさんが自主的に「こうカバーしたいんだけどどう?」と僕に相談してくれて、もう一度テストやればほぼ本番に近い状態になりますね。で、全体が整ったらあとは僕の都合でメインだけに集中してもう一回見せてほしいということでテストやって、何もなければ本番に行けるかなと。
三浦:サッカーのたとえが面白いですね。三宅さんは中学時代サッカー部のキャプテンだったそうですが。上白石さんが栗田科学で怒りを爆発させてしまう最初の場面で、足立さんが気づいて、松村さんをちょっとどけてから、みんなが先読みして一気に動くじゃないですか。的外れかもしれないんだけど、思い出したのが『アバター』(2009)なんです。主人公たちの強敵として登場する、スティーヴン・ラング扮する大佐がいまして、僕はすごい好きなんですけれど、この大佐が追手を捕まえようとして一秒一刻を争うとき、何かボタンをバツンと押して、いきなり基地のドアを全開にする瞬間があるんです。ここの惑星は空気が薄いから、いきなりそんなことされると危ないんですけれど、周りの部下たちはバッとマスクをする。『アバター』ではこのくだりが、わりと背景要素としてさりげなく描かれるんですけれど、しびれるんですよ。要するにプロフェッショナルなチームだから、誰かが唐突な行動を取ったとしても、周囲は当然のようにが臨機応変につぎつぎと対応する。そういうアメリカ映画の中のプロ集団の動きに通じるものが、栗田科学の人々にも見えた。たんに優しい人たちの集まりとかではなく、見ていて面白い動きになっているところが、サッカーやアクション映画のチームに比較されるものであるというか。見えないと伝わらないもんね。
三宅:そうなんです、「優しい」って映らないし、それを映そうと考えたこともなく、単に、シナリオに書ききれない具体的なアクションを考えていました。『ケイコ』や「ジョン・フォードと『投げること』」を編集する前に集中的にフォードをみていた経験は、セリフを喋っていない人を画面の中でどう息づかせるかについてを具体的に考える機会にもなっていたんですが、たとえば『果てなき航路』で若きジョン・ウェインが喋らずに画面の中心にいたり、他の映画では何度もふたりの人物が喧嘩している真ん中に馬やバーテンダーがいたりして、彼らの無言の顔がそこにあるかないかでその場面の印象が全く変わるくらい、物語の方向を決定づけていると感じたんですね。トーキーだろうと、ベースにはサイレント映画の感覚、つまり喋るやつも無言のやつも等価であるということがある。「喋っている人間が常に画面の中で優位なわけではない」とか「インサートなしで、無言の人のリアクションによって物語を前に進める」という画面はトーキーでも当然可能で、そういうところに目を向けてもらう、そのための準備をこの映画の中でする必要があると思っていました。なので、実は気に入っているのは栗田科学の場面が始まるところで、藤沢さんが手前にいて、奥に山添くんがいて社長と炭酸の話をしている場面なんです。セリフのない藤沢さんを画面の手前に配置する、というのは台本には書けない。そのような位置関係で座ってもらった上で、奥で喋るふたりと、それを無言で聞いている藤沢さんのリアクションを同時に撮るみたいなことがうまくいったかなと。ちょっとわかりやすすぎるポジションだったかもしれませんが、そのショットが序盤にあるんで、以降も画面内の聞き手の存在をわざわざ強調しなくても自然と発見してもらえるかな、発見してね、と願っていました。
三浦:ふだんのオフィスでも、社長の光石さんがこのふたりの座席の奥にいて、たまにチラッと手前を見たりするじゃないですか。ジョン・ウェインの名前が出たけど、まさにあれだよね。観察力がすごい、知性溢れる大人が背景にいることで、トライアングルのいい緊張感が生まれている。「いつもこの人が見ている」っていうね。足立さんにしても、フォード的な男の世界の感じではないんだけど、でも何か腕に覚えありみたいな存在感で。
三宅:絶妙ですよね。足立さん、ご飯に誘って断られる役は前も一緒にやったんですけど、全然違う人間に見える。
濱口:こうした配置の重要性は三宅くんには身体化されているし意識化されている。とはいえ先程言われた通り、すぐに動きは決まらないわけで、現場で見ていると物語的には動きのない時間の、サブキャストの動きのときもある。それが監督の要らぬこだわりみたいなものに見えてしまう可能性もあると思うんです。でもそうした一つひとつの演出がこの映画においては、本質になっている。そうした細部の重要性って、スタッフとの間で、準備段階で共有できているものなんでしょうか。それとも現場で自分の背中を見せるようにしてだんだんと合意形成されていくものなのか。この静かな映画がこれだけ突出しているのは、他の映画監督がやらないことを三宅唱がやり続けているからだと思うんです。日本映画の現場では、たとえばこういう些細に見える演出について「それ、いつまでやってるんですか?」みたいなことは言われないまでもそういう雰囲気を醸す人がいるとも想像する。そういう危険性はもうあらかじめ排除されたチームだったのか、それとも現場で合意形成を擦り合わせていったのか。
三宅:何か宣言をしたということはなかったと思うんですけど、たとえば栗田科学の面々は、プロデューサー視点でいえば、知れた顔のバラエティ豊かな出演者にしたいと考えますよね。でもそういう映画ではないですよねと交渉して、オファーだけでなくオーディションもさせてもらっています。
濱口:ああ、なるほど。
三宅:その時点でスタッフは「ああ、この人選が重要なんだな」って準備の段階で当然気づきますよね。わざわざオーディションをするんだからと。だから撮影現場で「なんで三宅はそこを気にしてんの?」みたいなことは全くないです。段取りのときも、なるべく周りの存在を消してもらうような体制をとりました。濱口さんが俳優たちとだけのテストの時間を確保されているというほどのレベルではないけれど、僕と月永さんとアッキーだけで俳優の芝居を見る、という時間を初日から作ったんです。そのあとスタッフにも入ってもらってという流れを事前に共有していたので、僕が俳優たちと場面を作っている時間に対して、何か介入というのは基本なかったです。
濱口:段階的に、ちゃんと集中できるように。
三宅:はい。まあ、外だとそうも行かなくて、ある程度本番近づいてからやっぱ違うって演出し直したこともあって、俳優にとっては余計な負担だったときもあったはずなんですけど。むしろ自分としては西陽との戦いの方がきつかったですね。栗田科学のオフィスの窓が狭いので、15時ぐらいから光が足りなくなって撮れなくなる。だからだいぶアッキーに足してもらってるんですけど。
濱口:リアル西陽で撮った場面はある?
三宅:たぶん序盤の、山添くんがご飯の誘いを断る一連はそうだったはず。テストから本番にいくまでにどんどん落ちてきて、これさすがに普通の会社は電気点けるだろうとか思いながら、それはそれで間に合わず。
三浦:夕方の風情を大事にする会社みたいな。
三宅:そうそう。節電しすぎ(笑)。でもまあいいかと。外が真っ暗になる前に退社してほしかった。その後のイブニング狙いのシーンは、その反省を活かして、焦らずに撮れるように時間を読み直してもらって、夕方の光の照明も準備してもらって。
■もうひとつの主役としての光
濱口:光はもうひとつの主役だと思うんですよね。さっき西陽のことを聞いたのは、この映画では灯体がでかいのかなということを思ったんです。
三宅:多分もっとでかい機材も存在しているはずですけど、十分でかい。自作だと一番大きいのがきたかな?
濱口:やっぱりそうだよね。栗田科学にはとてもいい光が差し込んでくる。でも、太陽光線みたいなものを普通の小さい照明で作ろうとすると、影が扇状に広がってしまう。だから実際に太陽の光が当たっているように影が平行に出るには、灯体にでかいものを用意しないとできない。その照明を作るのにすごく時間がかかりますよね。
三宅:しかもあそこは2階だから、外にイントレ(足場)を組む必要があり、オフィス外の撮影をするときはそのイントレをばらさなきゃいけないから、事前に撮影時間や順序が把握できてないとスムーズにやれなかった。その辺は、秋山さん筆頭とする照明部と制作部がもうテキパキと、僕が気づかないうちに。
濱口:本作では照明部は本当に大活躍しています。大技だけでなく、細やかに空間によって色も変えている。自分の部屋で山添くんが旧同僚たちの誘いを電話で断る場面、手前は暖色だけど、奥にあるキッチンのような空間は寒々しさを感じる緑っぽい光になっている。でも栗田科学の蛍光灯の光は寒々しいものではなく、社長室の光も暖かい蛍光灯の光ひとつとっても計算されてやっていると思うんです。
三宅:その辺りは言語化して共有していたわけではないし、どうやら全部が全部秋山さんが決めるというより、助手たちの提案やトライを受けて秋山さんが判断しているようにも見えていました。城内さん曰く、そこまで機材的に豊かなじゃないところアッキーは「闇の魔術師」だと(笑)。僕が月永さんと秋山さんで共有していたのは、心理とまったく関係のない光とか影をどう使っていくかを考えることでした。そういう光は事前には設計し難いから、やっていく中で試していこうと。これは台本のテーマとも結びついているというか、最後の宇宙についての語りで「人の心理と関係なく朝や夜が来る」という内容と一致する本質的な部分だったので、とても考えました。
三浦:部屋にひとりでいるときに車のヘッドライトが影を落とすところもすごく格好いい画面だった。
三宅:そうですね、ちょっとやりすぎたりもしてカットしたのもあったたんですけど。
濱口:いくつかそういうところがありますよね。歩道橋の下のところもライトが入るし。あとトンネルで一回。
三宅:変な光が(笑)。あれ何?
濱口:(笑)。そういう光でいうと、栗田科学で最初に山添くんが藤沢さんを拒絶するところがあるじゃないですか。あそこに何か変な照り返しがあって、あれは何?
三宅:わからない(笑)。本当にわからない。
濱口:でも、そういうわからないところもまさに、人の心理とは外れた動きとしてOKしていったと。
三宅:うん。ラッシュみて、「思ったよりも目立つじゃん!」と思うこともたまにありましたけど、もし現場でそれを止めてたらそれ以降チャレンジできなかったところもあったかもしれません。
濱口:光については、さっきの夜の坂道の準備もかなり大掛かりだったのではと思うんですけれども。
三宅:ロケハンであの道と狙いを発見した時に各部も大勢いたので、あとは適宜準備してスムーズに行きましたね。いいチームだなと思いました。
濱口:映画上はヴォイス・オーヴァーに挿入されるワンショットで、必ずしもこうでなくちゃいけないっていうショットではない。それだけ大掛かりなことをする重要性をどう共有していったのかということが気になっていたけど、今までの話を聞くと、これを撮るまでにスタッフには十分に共有されていたでしょうね。本当にチーム全体が育ってきたという感じがするよね。
三宅:ロケハンで発見した段階ではどこで使うか決めておらず、「でも必ず使うから今度の打ち合わせまでに該当シーン決めておきます」という形で進めて、あそこがベストだな、と。月永さんとは2回目だったのもやっぱり大きいと思いますし、演出部と美術装飾持道具が初めてでしたけど、初めてだからこそのいい準備をしてくれたように思います。
濱口:スケジューラーがまた大変だった現場だったのではないだろうかとも思うんですが。
三宅:そうですね。登場人物も多いし、髪を切るから同じ場所でも1日でまとめて撮れないところもあるし。チーフの山下さんは、俳優たち、特にメインのふたりの心理を本当に重視してスケジュールを立ててくれていましたね。どっちかというと、僕の方が心理はそこまで関係ない派だったかな。彼らのレベルならどうにかなる、とか好き勝手なことを言って。
濱口:そんなに配慮し過ぎることはないと。
三宅:光とか天気を優先してほしいというところでスケジューリング交渉があって、それが山下さんにとっても大変な仕事だったと思いますが、見事に組んでくれました。
■群像劇としての魅力
三浦:天気でいうと雨もまた重要だよね。冒頭にも降っているけど、雨の回数が多い。
三宅:そう。冒頭とラストの天気雨はシナリオの指定通りなんですけど、想定外の雨もあったりして。
濱口:転職アドバイザーの人と会う喫茶店の雨というのは?
三宅:あれは並行している山添くんの家のシーンが雨の日になっちゃったんですよ。それに合わせて喫茶店の窓を濡らしたという感じですね。
濱口:なるほど。その喫茶店なんだけど、転職アドバイザーの梅舟惟永さんがすごいよかったよね。
三宅:でしょ!! 梅舟さん、めっちゃめちゃいいですよね。「杉咲花の撮休」でご一緒して、すぐまたお願いしました。
濱口:『寝ても覚めても』(2018)にも出演いただいているんだけど、十分に映せなかった。そのことを改めて申し訳ないと思うぐらい、梅舟さん素晴らしかったですね。ああいう役って本当に難しいと思うんですよ。おそらく撮影日1日のスポットで来て、それらしく見えないといけないから。でもちゃんと仕事をしている人に見えるし、仕事の裏の子どもとの時間もあると感じられる。それが嘘くさくない。何だか、ちゃんと生きてきた人、生きている人がいる。こんなとこにも! という気持ちになりました。
三浦:「追い焚き!」って電話口の子どもに言うかんじも絶妙でしたね。巧まざる存在感の太さを感じます。転職エージェントというのは、この映画にとってすごく重要で、ある意味象徴的な職業なのかな、ということにも気づかされました。いろいろな人の能力だけでなく暮らしのリズムを診断して、うまくはまる場所を見つける。リズムやサイクルの調整役ということだから。
濱口:そこに店員が注文を取りに来るじゃないですか。最後には同じ人かどうかわからないけど、チラシを渡す。
三宅:同じですね。あれは影山祐子さんです。
濱口:ああ、そうなの! クレジットには名前があるからどこにいるのかなと思ったら。じゃあ影山さんはあのプラネタリウムに来てる?
三宅:来てます。なのに喫茶店で顔がわかるショットをうまく使えず、申し訳なかった。
濱口:いや、でもそれは聞けてよかった。あの店員は結局プラネタリウムに来たのかなと気になっていたんですよ。そういう、物語のいわば周縁の人たちまで含めて、やっぱり最後にギュッと集まるわけですよね。そういう人まで、ちゃんと生きているということの積み重ねでできている。
三宅:そうですね。脚本の構造がもうそうなっているから。
濱口:やっぱり最初に群像劇を構想したことが大きかった?
三宅:大きかったし、もしその順番で作業してなくとも、この映画は周囲にいる人に働きかける話なので、その流れで必然的に人間関係は広がっていくような映画になったような気がしますが、準備の仕方は変わったかも知れませんね。
三浦:前半に遺族の会があるじゃないですか。僕がこの映画にのめり込むきっかけはあそこが大きかったんです。渋川清彦さんや光石研さんが出てきて、素性の一端が初めて見える。観客からすると最初はちょっとどういう人なのか判断がつかないわけだよね。でもここでそれぞれの人の奥行きというか人生が見えてくる。あの体育館の空間がやはりすばらしいですし、車座になってトーキングスティックを廻しながら話す台詞も説得的で。光石さんがこの会にすでに十数年通い続けている雰囲気がちゃんと出ていたんだよね。すでに、すでに、の描写の積み重ねばかりで、この緻密さにはほんと脱帽します。最後にトーキングスティックで喋る女性のセリフもすごいよかった。「マッチング・アプリでそろそろ相手を探そうかな」って言って場の空気をほぐす。ほぐれた瞬間にレクリエーションの卓球の場面へ流れる。
三宅:よかった。丘みつ子さん。撮っているの、初日の夜なんですよ。撮影スケジュールはやっぱり大事で、僕らスタッフにとっても、おそらく光石さんや渋川さんにとっても、こういう感情がベースにある映画を今日から作るんだということをはっきりと体感できる機会になったと思いますね。
濱口:栗田科学が上白石さんを気遣えるプロフェッショナル集団のようになっている理由として、こういうある種の悲しみみたいなものが基底としてあるということがわかるし、渋川さんが松村さんを光石さんに紹介したんだということもわかるので、素晴らしい改稿だなと思いました。
ひとつ聞いておきたいことは、実はこの映画を見た僕の友人が、「僕は栗田科学みたいな会社は存在しないと思う」と言っていたんです。それに対して僕は、もちろん現実の世界でこういう空間と出会える可能性は低いかもしれないが、こういうものをフィクションとして信じられるものとして構築していることが本作の達成だと思うと答えたんですが、そうした意見はやはりあるとも思う。そこはどう考えていますか?
三宅:こんな会社無理でしょと思う気持ちもわかるし、瀬尾まいこさんも小説についてそういう批判を受けたりもすると書いていました。シンプルに言えば、こうありたいと切に、普通に思いますよね。現実に対して悲観的にならざるをえないから。ただ事実として、こういう会社や共同体は実在します。日本には少ないけど他の国には間違いなくある。あるというか、正確に言えば、こういう会社であろうと努力してキープし続ける会社がある、ということなので、放っておけばなくなるし生まれないものだと思います。
僕らがこの映画で達成したいと考えていたのは、劇中の世界と同等に自分たちの現場でも実践するということです。「この話をやるのに、撮影現場がキツいとかありえないと思うんです」というリクエストを、チーフプロデューサーの西川朝子さんを始めとするプロデューサー部が本当に真剣に受け止めてくれたのは大きかったですね。口先だけじゃなくて、当初より予算をあげるリスクを背負ってギリギリまで動いてくれましたし、イン前にはスタッフ向けにチームビルディングの講習も受けさせてくれて。もちろん、季節的にめちゃ寒いし、体力的にキツい時間帯の撮影もありましたし、コロナ禍の大変さもあったし、スタッフ全員が一点の曇りもない気持ちのまま参加できたとは思ってませんが、ある程度の達成感はあります。ほっとくとこの規模の話なら二週間で撮らされるような組もあると思うので。
あとテーマの話ですけど、個人的には、喪の意識を忘れると悲しいことが繰り返されてしまうと思っています。家族でもなんでもない他人同士が喪の時間をきっかけにいい形で連帯する、というのは現実においても可能なはずで。あくまで自発的な、強制されないものであれば、喪の意識は共同体を腐らせないと思う。
三浦:山添くんと藤沢さんをここへ送り込んだ大人ふたりのキャスティングも効いているよね。渋川さんと光石さん。現在はひたすら優しいんだけれど、過去にはいろいろ修羅場もあったことを想像させる顔です。
■フレームの外のものが大きな流れをつくる
濱口:栗田科学でのファーストカット、山添くんが窓の外で何かを見ているショットですよね。何かを説明しているわけでもないショットで、なんであれで始めようと思ったんですか?
三宅:この会社にはなんかひとりポツンとした奴がいるっぽいぞと注目してもらうために、ですかね。第2の主人公、怪しい男がいるぞ、という思いです。
濱口:生きていればそういうポツンと立っている時間って必ずあるけれど、撮影をするにはいちいち段取りが発生するわけで、なぜ撮るのか明瞭でないものは撮りづらい。自分なんかはつい何かに紐づけて撮ってしまう。その方が現場の誰もが納得して撮れるだろうし。でも、これまで見てきたようにこの映画には、あまりに多く、一見無償にも思える時間が多く映っている。そして、結果的にはその無償の時間が、この物語をこんなにも信じられるものにもしている。こうした時間を撮影現場で、フィクションの大筋とは関係ないところで立ち上げる思考とはどういうものかと、自分の問題として考えながら見ていました。もうひとつ、ほとんど無償に近い松村北斗くんの演技で感動したことでいうと、藤沢さんが転職アドバイザーのところに行く前、栗田科学を早めに退社する場面で、山添くんが「お疲れしたー」って言うじゃない、あれはすごかった。
三宅:あれ、めっちゃいいですよね。
濱口:あんな「お疲れしたー」を映画で聞いたことない(笑)。
三宅:確かに。
濱口:余計な力も入らず、だからと言って適当すぎず。実際にみんながあそこで働いているわけではないんだけれども、あたかも「お疲れ様」と口にするべき時間が本当に過ぎているかのように、あの「お疲れしたー」が言われていて、すごいなと。下手すると「これ要ります?」ってプロデューサーが言ってきかねない場面。
三宅:ここは山添くんの前に、他の社員が先に「お疲れしたー」とフレームを横切ったり他にも動いたりしているので、その大きい流れの中の一部としてあるのかもしれないです。
濱口:そうか。もうちょっと大きな流れがあるから、あの感じがあるのか。
三宅:自分の仕事としては、あの場面全体の雰囲気、終業に近い時間という状況を作っていて、それが結果的に彼から何かを引き出すというか、彼が反応してくれてそこに現れるものを撮る、という感じですかね。
三浦:編集で見出したものがどれぐらいあるのかをちょっと聞いてみたい。つまりシナリオでは書いていなかったようなシーンつなぎや効果が、一見何気ないカットをはめることで見つかったりしたのか。というのも、編集の大川景子さんと最近、メールのやり取りをしたときに、この映画の編集ではありとあらゆるルートを探した、と言っておられて、印象に残っているんです。実際のところどういう作業をしたのかなと。
三宅:ありとあらゆるは大袈裟かもしれないけど、うちは他よりも編集期間を比較的多く確保しているみたいなので。途中で休憩期間も入れるし。でも確かに、一度固まっても他の可能性も一応試したりするんです。無駄な時間かもしれないけど、こうするとやっぱりつまらないよねみたいなことを目で見て確認するところまで試す。その時間が映画のことについての勉強になるからというだけなんですけどね。完成させるためじゃなくて、ただ探求でやっている。
濱口:でも、頑張って撮ったものの可能性は知っておきたいですよね。今後のためにも。
三宅:そうそう。本当はそういうことはよくないと何かの本に書いてあった気もするんだけど、知りたいし。今回の映画はシーンの組み替えというより、シーンをどのショットで始めて、どのショットで終わるか、それに関して現場と編集室でいろいろ検討できました。現場で、不要かも知れないけど一応撮った「カット0」、大抵は寄りなんですけど、もう全然要らない。ショットサイズ関係なく、うまくその場の時間を演出できていたら、ドンとロングでもシーンは始められるし終われる、みたいなことですね。ケースバイケースだけど。
濱口:でもこの映画は基本的に編集で組み替えようのない話だと思うんですよね。この月に何が起きてということが決まっているわけで。唯一かなり自由な素材だなと思うのは中学生たちが社内をインタビューしているところ。
三宅:そうですね。インタビューは「自由な素材」って脚本の時から呼んでた。
濱口:でもあれが撮れるということは、人物たちのある程度詳細なバックストーリーといったものがないといけないわけじゃないですか。それは必ず、この栗田科学の描写を分厚くしたろうし、この場面のおかげでうまいことプラネタリウムの話にスライドさせられているというのもあるし、この映画全体にとって理にかなっているというか。
三宅:プロデューサーから「プラネタリウムの話が気づいたらいつの間にか始まっているように見えるから、社長がさあプラネタリウムの準備だよということを話すようなシーンを書いてほしい」みたいなことはありましたね。
濱口:結果として、あのインタビューがその代理になっている。
三宅:そうですね。多分濱口さんがさっき言ってくれたような、メインではない周辺の人たちにインタビューする一連のシーンのことを、スタッフが受け止めてくれたからこそだと思うんです。スタッフもそのキャラクターに主人公同等に愛着が湧いてくる。
濱口:栗田科学にしても、仕事の内容に関して取材は絶対にしないといけなかったと思うんですけど、それはどの段階でどの程度したんですか。
三宅:会社の業務は演出部が合流してから、関西などにも取材に行っていましたね。メインのプラネタリウムに関しては、本当はもっと早く正式に取材したかったんですけど、スタッフが合流するギリギリ前くらいに動き出しました。それまでは個人的な勉強で、五島光学研究所さんに行きたいというリクエストをプロデューサー部にしました。宇部のプラネタリウムに行った話を五島光学の担当者さんにしたら「よくそんなレアなものを見てくれました、うちで現存する一番古いやつなんです」みたいな。
三浦:最後に出てくるプラネタリウムの光学装置はアナログなのだそうですね。この映画自体が16mmで撮られているわけだから、アナログだと一貫性が増す気がしますね。光の通り道のかたちが直接転写されて、暗闇の中で映されているという、カメラ・オブスキュラの機構が意識される。
三宅:そうそう。地球の自転に合わせて星の位置がミリ以下のような単位で動く、それを全部アナログというかシンプルな物理法則なんかを利用しながら動いているんですよ。映画の映写機が複数合体したようでもあるし、ああ超面白いなと。
三浦:超格好いいよね。あの機械がゆっくり動くカットは、ついに来たという感じで。プラネタリウムで出てくるメモ帳の文章が僕はすごい好きなんだけど、あれは三宅さんが自分で書いたんだよね。
三宅:そうですね。ベースを書いて、和田さんに直してもらって。
三浦:この映画の見所を自分の言葉で観客にダイレクトに伝えるという。
三宅:これはもう、見ればわかるってことじゃなくて、もう言っちゃえというか、見えないものや想像が肝心の映画なので、むしろ今回は言わなきゃいけないと思いました。
三浦:最初ではなく終盤でそれを言うのも慎ましいよね。前半からこの映画が積上げてきて、観客が体感してきたことが、この言葉によってさらにぴたっと焦点が合って、くっきり像を結ぶというような。夜はネガティブなものではなくて、夜だからこそ天空の星の光が届く、もちろんそれは映画それ自体のことだよね。暗闇の中で、時間差で届く外の世界の光がつまり映画なのだと。だからやっぱり映画館で見るべき作品なわけですが。遮蔽された部屋の中で、外からの光を受け止めるということについていえば、それ以前の多くの場面も同様だったことがばーっと思い出されます。たとえば栗田科学の窓から差し込む印象的な光の変化も、すべて地球の自転の結果であるわけですよね。ある種、日時計をずっと見ているような映画だったな、と。
三宅:そうですね。日時計という言葉は端的に嬉しいです。
三浦:ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』(1973)とか『エル・スール』(1982)をみなで見返して喋ったときのことなんかも思い出したんだけど、狭い暗い部屋に差し込む光とか、隣接する空間の音響から、外に存在するだろう何かを想像することって、本当に映画の面白さの核心だと思うんですが、本作はプラネタリウムという装置を仲介して、地球の自転という、ある意味、最も壮大なところまで行っている。ちなみに本作ではイームズ夫妻の『パワーズ・オブ・テン』の書籍がちらっと映されますよね。シンプルな正方形の画面によってミクロ世界からマクロ世界までを一気に貫通する傑作ですけれど、『夜明けのすべて』もほんとこれと同様のことを、また別のやり方でやり切っている、と思った。
■一回性、編集点、音
濱口:藤沢さんがプラネタリウムの中でその言葉を読んで、山添くんはそれを外で聞いているじゃないですか。山添くんが本当にすごくいい表情していると思うんですけど、撮影の段取りで考えると、あそこは別撮りですよね。だとすると、単純に疑問に思うのは、どうやったらあんなにいい表情ができるのかということ。でも「こういうことをやっている設定なので、ここでちょっとそれを聞いてる表情をしてもらえますか?」ではやっぱり撮れないとも想像するんですが。
三宅:先に藤沢さんの場面を撮って、そこで声を録音しておき、そのあいだ山添くんはその場にいない。中の撮影が全て終わった後に、じゃあ外の山添くんパートに行きますかと準備をはじめて、芝居のテストはなしで、照明を整えたあとは「はい、じゃあ回すよー」と本番を一回やって、おしまいです。撮影も終盤ですし、特に何も言わずですね。テストはやりたくないだろうなと思ったのでその環境や状況を用意するだけで、万一、違うと感じたら2回目をやればいいので。
三浦:サイクルとして繰り返される時間があるからこそ一回性が際立つ、取り返しのつかなさがはっきりする、ということが映画の中では語られますけれど、松村さんもそれを深いところでキャッチしてカメラの前に立っていたということなんですね。
濱口:これはきっと撮影時の光とか天気とも関係している話ですよね。今回の映画、天気がよすぎるなと思ったことはないですか?
三宅:それがですね、これは僕が要求し続けたんです。
濱口:ああ、なるほど。やっぱりそういうことなのか。単に運ではない。
三宅:一度は泣く泣く曇りで本番撮ったところもあったけど、OKって絶対言いたくなくて「明日」って。そしたら、衣装の篠塚さんたちも控え室で撮影の月永さんに「これ撮り直せないのかな、もったいないよ」と相談してくれていたそうなんです。
濱口:おお。それはどのシーンか聞いてもいいですか?
三宅:自転車で山添くんが物を届けに来たときの藤沢さんの家の玄関前と、藤沢さんがベランダで下を覗いてるときの顔のショットですね。あの辺、曇の流れがアンラッキーで晴れと曇りがぐちゃぐちゃになってしまって。で、僕がごねようとしたら、ラインプロデューサーの伊達さんと城内さんも「わかってるからおまえは騒ぐな、そう言うと思ったからもう準備してる」と。各部それぞれ同じ思いだったという話でして。なんとか翌朝に俳優部のスケジュールが確保できて、リテイクできました。あとは自転車の一連も、あの斜めの光を保てるのは1日のうち数時間もないので、撮影は4日ぐらいに分けました。
濱口:最初の自転車の走り出しのところがあるじゃないですか。あれもやっぱり時間を狙って撮っている?
三宅:あれはたまたま雨上がりで、ちょうど光が綺麗になりすぎたなと思って、時間をおいて何テイクかやりましたね。
濱口:いやいや、なんかわざわざ路面を濡らしたのか、恐ろしいなと思ったら、本当の雨上がりなのか。じゃあやっぱり運がいいね。ちなみに、あそこはやっぱりこの映画の肝の瞬間だと思うんですけど、なんかすごく微妙にクレーンみたいな動きをするじゃないですか。ちょっとだけカメラが上がるという。
三宅:「ちょっと運動感がほしいですね」みたいなことから、パンじゃなくてレールを始めてひくことになって、ジブ〔小型の撮影用クレーン〕も登場してきて……。
三浦:この場面はきっとものすごく大事なシーンなんだと身構えさせるような効果があるよね。
三宅:たぶん、周りのスタッフのほうが「さあ、チャリが始まるぞ」っていう思いがあったのかもしれない。自分としては、次のショットは横断歩道をわたるのを俯瞰で撮るショットに繋ぐつもりだったし、別に特機で上がらなくてもその感じは出るよと思っていたんだけど、まあ良さそうだしいいか、みたいな。
濱口:本当にクレーンで撮っているんだね。台車の上で手持ちとかなのかなと思った。
三浦:あまりぐわーっと上がらないですよね。
三宅:もっと長く撮っていて、実はもっと上まで上がってる。
三浦:でもそうすると『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)みたいになる。
濱口:だから、あのわずかな上がり方が、山添くんの回復の度合いとも呼応して、本当にちょうどいいなと思ったんです。そこもだけど、今回は全体的に何かの途中で切っているなという感じがして。たとえばさっきの山添くんが物を届け終えたあとのところ、公園の外側を巡るように自転車をパンで追うけど、自転車がフレームアウトする直前で切っていますよね。全体として、他にもまだそこでの時間が続いているような痕跡があるところで切っているような感じがある。言ってみれば、途中で始まって途中で終わる。途中から途中へとつなぐショットの積み重ねになっているところが、今回の編集の肝なのかと思ったんですが。
三宅:ラオール・ウォルシュか何かを見ていたときに、「あ、アウト直前で切ってる」と気づいた自分のメモが残っていて、大川さんにこういう編集点のリズムはどうだろう、という話はしたような気がしますね。それで試してみると、フレームアウト点ジャストも難しいし、フレームアウト後にすると空画に意味らしき何かやいい時間が生まれたりすることもあるけれど今回はそれは要らないということで、アウト手前がいいね、と。
濱口:そうやって途中で切ってもその編集点で一息つかずにまた物事が移っていくように機能させるには、音楽や音がやっぱり大事だったのではないかと思うんです。音楽に関しては、大まかに2種類ぐらい?
三宅:全部で11曲、ざっと5種類ほどあるんだけど、そのうち2曲は一回ずつしか使っていないので、実質3種類のアレンジが多いですね。弾き方や響き方などが少しずつ、シーンのリズムなどに合わせて違う。
三浦:ものすごく大胆、というしかないようなシンプルさだと感じましたが、どんな注文とやり取りがあったんですか。
三宅:つまらない返事をしますけど、単にHi'Specが天才というだけなんです。彼、映像も見ずシナリオも読まず、今回こういう話なんだけどと伝えただけでメインテーマ曲を作ってきて、それが見事にはまったという。そこからブラッシュアップはいつもより長い時間をかけてやりましたけど。
濱口:やっぱり思い出すのは小津なんですよ。『東京暮色』(1957)とかで陰鬱な物語に明るい音楽がずっと流れているみたいな。でも決定的に違うところは、小津の音楽はあくまでもアイロニカルに働く。でも『夜明けのすべて』の音楽はふたりのつらい時間を見守っているような、それこそ夜に揺れている光みたいな音楽ですよね。
三宅:音楽に関しては、もう事前に指示しようがないというか、まずは彼に手を動かしてもらって出てきたものを合う合わないだとかを判断して、そこから連想的に参考曲をやりとりしたり、ということをしていましたね。
三浦:出てきたタイミングは、どの時点?
三宅:編集の途中段階に少しずつ届いて、ピクチャーロック前にはほぼ揃いましたね。そのあとに仕上げていって。そこで新曲ができて差し替えたりもしましたが。ちなみに、エンドクレジットの音楽は、企画・プロデュースの井上さんが僕と2回目の打ち合わせぐらいの時点で「いわゆるタイアップ的な歌詞ありの曲はない方がいいと思っています」と関係各所にも事前に伝えてくれていたので、そういう点も含めて本筋に集中させてもらえましたね。結果的に、Hi'Specとはダビング本番ギリギリまで最後の曲を微調整し続けてました。
三浦:本当にピッタリだと思う。オルゴールというとちょっと違うかもしれないけど、同じテーマが繰り返されることが、この映画の中で日常が繰り返されることと重なる。無声映画の名伴奏を少し思い出したし、とくに上白石さんのコミックな魅惑を引き立てている。ただ、余韻が一音一音あって、さあっと闇に消えていくみたいな響きのはかなさもある。テーマとピッタリだから、よほど話し合って意図を絞りこんで作られたのかなと思った。
三宅:波とか幽霊というキーワードをおしゃべりの中で一緒に発見していった、ということはありますけど、やっぱり彼の才能と技術ですね。大笑いしたのは、彼は頭の中に音楽があるらしく、今回はキーボードを弾いていたんですけど、弾こうと思ったらそのキーボードでは鍵盤が足りなかったんすよ。でもここの音が出したい! ここにあるんです! って何もない空間を指差して言うから、そのまま一緒に楽器屋に大きいサイズのものを買いに行った。
濱口:いい話ですね。
三宅:それぐらい彼の体の感覚で作っています。
濱口:なるほどね。あと、山添くんが自転車で行ったあとに飛行機の音がするよね? ベランダと下で。
三宅:ああ、それは足しています。上下で違う日に撮っているから。
濱口:それでつなげていると。あれのおかげで、そのあとの場面では、静かさが強調される。自転車を漕ぐ音、鳥の音みたいなものがよく聞こえてきて、それが山添くんの身体の状態とも感じられる。あのシーンは最高だと思う。
三宅:あそこは、最初から音楽を載せなかった。もうト書きに「鳥の音を聞いている」とか書いていたんじゃないかなと思うし、音と風と光に反応してほしいと明確に松村さんにも伝えていますね。そのあたりの編集をつなぐ背景音については、『ケイコ』ほどバキバキに事前に準備する必要はなかったけど、あの経験があったからこそ見えたものは多々あったとは思いますね。電車の音をどれぐらい取り込むかとか。
■それぞれが思い思いにあるという大切さ
三浦:見返せば見返すほど、背後で動いているものがすごく魅力的だということに気づく映画で、たとえば初見だと、上白石さんがポテチの筒を逆さにして一気に食べるところに当然目が行くんだけど、2回目だと、それを無視して悠然と寝そべったままの松村さんの方に目が行くんだよね。関係が浅かったら、このポテチの食べ方に対して何かしらツッコミが出るところかもしれないけれど、そこはごく当然にスルーする関係だという。その演出はすごいよね。たぶん僕がまだ気づいていないたくさんのことが無数になされて、意識される目立つものを支えている。
三宅:部屋の中のどこの位置にいて食べればああいうことになるのかというのは、やっぱり俳優ふたりの感覚によるところがかなり大きかったです。
濱口:距離感とか?
三宅:そうです。ポテチも一回キッチンに持っていって食べるというのも試したんですけど、山添くんが「そこだと目で確認したくなるから、異性として気になるようなきっかけになってしまうかも」みたいなことを伝えてくれて。目の前でやってくれた方が気にならない、という感じだと。ふたりとも自分たちが恋愛関係とか恋愛未満の関係に見えやしないかということを確認してましたね。
三浦:初見時は原作を読んでいなかったので、じつを言うと、しれっとしていたふたりが突然ウォン・カーウァイの映画みたいに変貌して抱き合ったりしてしまうのだろうかと気が気でなかった(笑)。
三宅:(笑)
三浦:まあ、広く公開される商業映画だし、そういう流れをつい予期してしまう。そしたら、何もなく終わって僕は衝撃を受けたんですよ。ものすごくうれしい衝撃。本当に何もなくて、それゆえに、稀有で貴重な名付けえない関係なんだなと思って。
三宅:チーフプロデューサーの西川さんに初めてお会いした時、「三宅さんはなんで引き受けようと思われたんですか」と質問されたんです。どう答えようか一瞬迷ったんですけどあんまり長いのもあれなんで、「恋愛しないからです」とシンプルに答えてみたら、西川さんの顔が「!」となってくれて、「私もそうです」と。そこからずっとブレなかったですね。
三浦:何かを何かの手段にしない、道具にしない、という姿勢で全部が作られているよね。だから当然、病気と恋愛を描くことのどちらかが手段でどちらかが目的でというようにはまったくならない。ふたりの関係の表現について言えば、上白石さんが辞表を出した後のワンシーンも本当に素晴らしい。辞めることを松村さんに伝えたら、「あ、そうですか、僕は残ることにしました」と返されて、「え」っていうでしょう。あの「え」がねえ。ものすごく素っ気ない。けれど、たくさんのことをこちらが勝手に想像してしまいもする、一瞬の滋味深さですね。
三宅:あのシーンは、流石にふたりともちょっと呆気に取られていたんだけど、やりながらすぐに掴んでくれましたね。最初は棒立ちで段取りを初めて、少しずつ上白石さんが手元のものを触ったり、ちょっと立ち位置を変えてみたりとアクションを加えて結果的に、別れのようなやりとりを、「お疲れしたー」と同じトーンで撮ることができたと思って、満足感があった。「お疲れしたー」と同レベルで、人生で重要なことを話せているみたいな。
濱口:今の話に関連するんですけど、プリンターがずっと動いているじゃないですか。あれはなんでですか?
三宅:会社内でずっと動いている音がほしかったんです。そうなるとあの会社だとプリンターぐらいかなと。シナリオに書いて、用意してもらっていました。
濱口:そこの最後でも山添くんの後ろを社員が通ったりするんですけど、彼らとは無関係に動いてもらったり、他の人が入ってくることによって、やっぱり「栗田科学の時間」が動いているという印象が積み重ねられていると思うんです。あのふたりと関わりなしに動いているものがすごくたくさんあって、雨もそう。さらにみんなが思い思いに動く最後のエンドクレジットの場面があって、何かこの空間この時間がどこまでも生きているというような気持ちで終われる。
三宅:そう、それぞれが思い思いに在るということが大事でした。
濱口:最後のあのボールをそらすところは、やっぱり何か演出してあるわけですか?
三宅:これはですね、僕もだいぶ経ってから知ったんですけど、噂によると、テストのときに偶然暴投が起きたのを見た月永さんが、こそっと足立さんに、「最後、ミスしても面白いかもしれないですね」って耳打ちしたらしい。
濱口:なるほど(笑)。うまいこと終わるものだなと思った。
三宅:ね(笑)。撮影前に仮のクレジットロールを作ってもらって大体の尺はわかっていたので、山添くんが自転車でフレームアウトするところで終わりにしたいから、そこから逆算して尺を測って、人物の出入りを頭から作っていったんですけど、ボールに関しては僕も「あらまっ」とまんまと思ってた。
三浦:どっちみちすごい計算だよね。狙ってやるのもすごいし、偶然起きてもすごい。
三宅:斉藤陽一郎さんが映っているんですが、気づきました?ひとり多いんです。
三浦:あ、気づかなかった。
濱口:わからなかった。
三宅:ここはほかにも原作者の瀬尾さんが歩いたりしてるんですよ。
■若々しさと円熟の境目
濱口:お話を聞いていて、『夜明けのすべて』は本当にこの数十年でも最も素晴らしい日本映画のひとつだという気持ちを新たにしています。三宅くん自身もネクストレベルへ来た感じはあるんですか?
三宅:どうですかね。現場の試行錯誤の悔しい感触なんかもまだ体に残っているし、反省もいろいろあるし、まだ整理はついていません。ただ、自分たちが意図した以上に『ケイコ』とは違う映画になったなと思っていて、それがなんなのか。言い方が難しいんですが、今回の人物たちが僕は「遠い」んですね。『ワイルドツアー』の中高生くらい「遠い」。いや、遠さ近さの問題ではなくて、自分と相手の距離が見えているという感じですかね。だからこそ登場人物たちを安定してずっと見ていられるというか、自分の感情が持っていかれなかったというか。『きみの鳥はうたえる』(2018)は、その距離を測ると多分つまんなくなるしそれができるのも年齢的に最後のチャンスだと思ってやっていたので、あの時とは自覚としても明確に違う。それと、今日の質問に対する答えとして「まあいいか」みたいなことで決めたという話が何度かありましたけど、ルーズな部分というか、事前に決め込まないで現場で生まれたものがより映画のトーンを作っていっている気もします。どこまで再現性のある技術として自分のものにできたかはわからないけれど、ある種の充実感はあります。
濱口:繰り返しになりますが、本当に衝撃を受けたんですよ。偶然をフィクションとしてきちんと構築して、かつその構築したもので偶然を待つ、みたいなことができている。それは自分が次にこうやりたいなと思っていたステージでもあって、それを既に達成している同時代の映画をまざまざと見る機会だったというか。
三浦:作品に持っていかれずに感情の起伏がなくできたということ?
三宅:『ケイコ』はやっぱり岸井ゆきのさんといた時間も長かったし、題材的にも「見逃せない」みたいな緊張感がありましたけど、今回は相手にするのがふたりプラス大勢という感じだったから、誰に肩入れすることもなくできたようにも感じる。「まっちゃん的なトレーナー」の位置か「栗田社長や弟」の位置かという作品に沿った違いとも言えるんですが、正確には多分それとは関係なく、何かが掴めた気がするんですが、まだ言葉にならない。でも、次のシナリオの書き方が変わってきましたね。
三浦:円熟ですかね。
三宅:いやいや、そんなことは全くない(笑)。
三浦:これまでのキャリアのヒリヒリ感というか、たとえば初期の『やくたたず』(2010)みたいに、このまま凧の糸がプツッと切れてしまったらどうなるんだというような、異様な緊張の張り詰めた映画ではなかったと思うんですよ。批評家から見れば、多分この作品ができたことによって三宅唱論の見取り図が初めて見えた気になるような、そういうポジションの作品なんじゃないですかね。
濱口:本当に、まだすごく若々しいものと円熟の境目にあるような作品だと思う。見終えて、どこか『戸田家の兄妹』(1941)を想起した。
三宅:えー?(笑)
三浦:フォードでいえば『わが谷は緑なりき』(1941)かな。
三宅:いや、ないない。
濱口:フォードには坂道が多いしね。
三浦:『わが谷は緑なりき』は特にそうだよね。
三宅:たしかに、完全に坂道ですね。でもあんまりフォードでそこを気にして見てこなかったな。
三浦:今回は何かをとくに意識していたということは?
三宅:今回もビデオを作ったんですけど、前回ほどバシッとしたものではなかったです。だいぶ忘れてしまいましたが、井口奈己さんの『人のセックスを笑うな』(2008)のワンシーンをスタッフと共有して話したりしました。
濱口:へえ。あれは脚本部分が終わったあともしばらくカメラを回すことで得られた演技と聞いたことがあるけど、そういう点では印象は違うので意外な感じもしますね。
三宅:松山ケンイチと永作博美が、大学の美術室でリトグラフか何かの機械のところで作業をしている場面なんですけど、視線や喋りのカットバックではなくて、人の立ち位置や距離や角度が動いて変化すると、それに応じて俳優それぞれの体に妙な変化が起きてなにかがが新しく見えてくることもあるという、そういう撮り方を共有したかったんです。演出部のうち3人が20代前半だったし、彼らとそういうことも話しておきたかった。じゃないとつまんないだろうし。
濱口:それを一回スタッフと共有するだけで、なんでここまで一つひとつの動きに気を遣うのかということがわかるよね。『人のセックスを笑うな』で思い出したけど、『夜明けのすべて』の俳優の演技を見て思ったのは、リラックス&フォーカスというか、体はリラックスしているけどだらけきらずに集中もしているということ。その状態が、特に主演ふたりの場面では常に続いていて、本当に難しいことをやってのけていると思いました。ラスト、違う場所にいるふたりが本当にいい表情をするじゃないですか。それはやっぱりこの『夜明けのすべて』の現場自体が、まさに栗田科学みたいな役割をふたりに対して果たしていたからだと想像してしまいました。演技を通じてふたりが変わっていく、何か今までは得られなかったものを獲得していく過程がフィルムに定着していて、本当に素晴らしいなと。
三宅:このふたりは実際にも信頼している仕事相手というような関係なので、そういうふたりの人生も映り込むレベルで彼らがこの映画に懸けていた。そればっかりはもう、そのための準備をこっちも本気の姿勢で見せることでしかやれないので。上白石さんにはシナリオについての自分の改稿意図みたいなものをバーッと長い手紙で書いたりもしましたし、彼女もそれを受けて意見を返してくれました。商業映画としてはいわゆる大規模ではないですが、でも小規模でもないという中で、ギリギリ健康的かつ効率的にやりつつ豊かにやるにはどうするかというところで、準備と実践をしていったと思います。
三浦:それがルーティンになっているのが素晴らしいよね。料理でたとえると、日常の料理の滋味ぶかさこそが最高である、みたいな。何か特別豪華で派手な料理を作るとかではなくて、毎日作っている人からしか出てこないような余裕や、懐の深さがにじみでてきている。
三宅:そんなに数を作っていないですけど、でもこの3人の勉強会でたとえばダグラス・サークなんかを集中的に見ながら考えてきましたよね。そのおかげで今回のいろんなシーンのベースを準備することができたというのは明確にありました。ただ、だからこそ、当たり前ですけど、俳優の力があってこそ映画になると改めて感じます。台本の中に「向き合ってくれてありがとうございます」「いや隣に座っているだけです」というようなセリフがあって、上白石さんが反応してくれたんです。上白石さんは自分よりももっと頭が柔らかいというか、形式にはまらなくても、いい関係ができればどんな体の状態でも成立するというようなヒントをもらいました。だから、物語内の然るべき状況と撮影現場の演技のための状況という両方を準備してパスとして彼女たちに渡したら、そこで思いっきり丁寧に仕事してもらって、そのパスを受け取ってちゃんと撮るという、真っ直ぐな順番といえばいいですかね。何かを見せようとしてその枠で動いてもらうとかじゃなくて。
濱口:それもあって何か人が動かされている感じがないんだろうな。それこそ何か柔らかいというか。
三浦:「令和の傑作」みたいにいわれているけど、いい意味で、それは言い得て妙だという気がしないでもないんですよ。栗田科学の空間がとくにそうだったと思うんですが、繊細な気遣いのさりげなさが見事な演出と演技でかたちになっている。いまの時代に、得がたい何かを見ることができた、と感じるひとがものすごく多いのは納得できますよね。優しさが極まった、とも言えると思うし、このあとどうなっていくのかが気になるところでもあるけど、三宅さんとしてはひとまずやりきった感じですか?
三宅:個人的にもチームとしても当然反省もあるし、だから「もっとできる」という気持ちは共有して持ってるんですが、ただ別に大袈裟なことは全然考えてなくて、もう本当にその都度、時間と想像力を使って具体的に必要なことを地道に冷静に準備して、それを積み重ねる、ということだけだと思います。その力を共通認識として信じられるような経験ができている、というのは大きいと思う。それに、濱口さんが以前に「ユリイカ」で書いてくださったことを受けて、この映画の撮影後に読んだので今後の話ですが、自分もちゃんと自覚せねばと思うようになったこととして、撮影現場の過剰労働に対して映適のガイドラインが作られて色々と変わっていくタイミングだし、また日本経済の状況としても映画の作り方や数も質も変わっていくなかで、撮影現場や予算がどうなろうと、準備期間が半端なら、ろくなものは絶対に生まれないですよね。「撮影日数伸びると予算も上がるから~」という話も聞きますけど、突破口はシンプルで、そう言う人は退場してもらうか、ちゃんと準備するかだと思う。現場までにいい環境を整えられたら、今毎日現場でガッツで働いている俳優もスタッフも優秀なので、濱口さんの言葉を借りると、いい「相互反応」ができるものだと思います。だから、現場をもっとラクにできるなら、前日までは面倒なことでもなんでもやる(笑)。無駄なことは手を抜くけど。それをまともにやらせてもらえる仕事場環境を求めるというか、作って行きたいと思います。まあこんなこと言うと、準備って際限がないから自分の首を締めるんですけどね。
2024年1月30日収録
構成:フィルムアート社
『夜明けのすべて』
キャスト:松村北斗 上白石萌音
渋川清彦 芋生悠 藤間爽子 久保田磨希 足立智充 りょう 光石研
原作:瀬尾まいこ『夜明けのすべて』(水鈴社/文春文庫 刊)
監督:三宅唱
脚本:和田清人 三宅唱
音楽:Hi'Spec
企画・プロデュース:井上竜太
チーフプロデューサー:西川朝子
プロデューサー:城内政芳
制作担当:菅井俊哉
助監督:山下久義
撮影:月永雄太
照明:秋山恵二郎
録音:川井崇満
音響効果:岡瀬晶彦
編集:大川景子
美術:禪洲幸久
装飾:高木理己
衣装:篠塚奈美
ヘアメイク:望月志穂美
製作:「夜明けのすべて」製作委員会
企画・制作:ホリプロ
制作プロダクション:ザフール
配給・宣伝:バンダイナムコフィルムワークス=アスミック・エース
©瀬尾まいこ/2024 「夜明けのすべて」製作委員会
■公式サイト:yoakenosubete-movie.asmik-ace.co.jp
■公式X:@yoakenosubete Instagram:@yoakenosubete_movie
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